岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

参議院選挙とその他あれこれ

2007-07-30 07:32:06 | Weblog
 昨日、投票所には6時57分に着いたが、その時すでに20人ほどが並んで、投票所になっている部屋が開けられるのを待っていた。私はその最後尾についたが、その後もどんどんやってくる人がいた。その中に、毎回「この時間」の投票開始直前に投票に来るという人が何人かいて、口々に、または顔見知り同士で言っていた。
「今日は多いなあ。いつもと雰囲気が違う。なんだか政治が動く気配だなあ。そうなるみたいに感ずる。」と…いうような意味のことを言っているのだ。
 私も、こんなに早くから、こんなにたくさんの人が投票所に詰めかけるとは、「参議院選挙に対する関心の高い証拠」だろうと思った。
 投票を終えて、帰る道すがら、「関心が高いということは、国民が今の内閣や政府与党に不満や不信感を持って、嫌気がさして、もうイヤだ。変えないといけない。」と考え、それを「投票」という自主行為に託したのだろうと考えた。
 その結果は、昨晩の開票作業が始まると早々と出てきた。詳細は「新聞」等に任せることにして、ここでは触れない。

 「年金問題」など、国民にとっての「大問題」は山ほどある。
しかし、私が一番許せないことは、安倍さんの、特殊であり、非常に情念的な「価値観」を「数を頼み」に法制化して、国民に押しつけてくることである。これは小泉の手法や思考に似ている。小泉の5年間で日本は、その言動にたぶらかせられて質的に変貌した。
 安倍さんは「戦後レジームからの脱却」や「美しい国」などを唱え、何だか、戦前に逆戻りするような「憲法を変える」とか「教育基本法を変える」とか、まるで身分制度につながるような「格差拡大」を進めてきたが、これは言ってみれば「安部一族」という限られた、特殊な血縁集団の「価値観的な願望」であろう。
 このような動きには「安倍一族」が持ち続けている特権階級的な思い上がりが見え隠れする。
 この思い上がり的な願望を国民に押しつけることが、いかに民主国家にそぐわないことであり、国民からいかに乖離していることであるかに気がついていない。思い上がりや成り上がり者には、自分の行為や主張の非や矛盾が見えない。だから、気づこうともしない。
 そして、自民党などもそれに追随して、ほいほいと持ち上げ、数を頼みにどうにもならない「法律」を、強硬な手段で通してきた。
 不思議なのは、この安倍さんの手法や考え方に、自民党など政府与党は誰一人として「異を唱えなかった」ことだ。
 この「一族」の、平和とは逆方向に動こうとする願望を、何が何でもと、「国民」に押しつけられてはたまったものではない。今回の結果は、その現れだろうと思っている。

 もう一つ見えてきたことがある。それは「数を頼み」にする手法をとる割には、その数が「減って」も、そこに「重大さ」を感じないという矛盾を露呈したことである。実に潔くない。「盗っ人猛々しい」ということわざがあるが、それを感じさせる。何と、まだ総理大臣を続けるというのである。ここにも、国民を見ていない人格がよく現れている。彼の目には「一族」のことしかない。
 森鴎外の小説に「阿部一族」というのがある。簡単にいうと、「肥後藩主細川忠利の臣、阿部弥一右衛門が主君の死に追腹を切った前後の経緯を描き、意地のありかたを問う」内容だが、「安倍総理」では、到底「阿部弥一右衛門」にはなれまい。この小説名が「安倍一族」でなかったことにほっとしている。
 一国の総理たるもの、自己の器をよほど斟酌してかからないといけないものだということを肝に銘ずべきだ。「なりたい」だけで「総理大臣」になってもらっては困るし、そのような人を、総理大臣にしてはいけない。今回の参議院選挙の結果は、そのことを国民の側が、鋭く「告発」したことに相違ないのだ。

 話しは変わる。
 昨日のNHK弘前文化センター講座「岩木山の野鳥」は心配していたが…好評だった。
 阿部会長(安倍ではない)も参加して、私の不足している部分を補足してくれた。特に、独自に編集した「写真と鳴き声」のコラボレーションが好評で、時々、受講者からは「歓声」と「嘆息」が漏れ聞こえた。
 このコラボレーションはやはり、1人でコンピュータを操作することには難があった。画像を2、3枚飛ばしてしまうというアクシデントもあった。

 今日は、10時から明日から始まる「ギャラリーNHK」企画展「岩木山の花々」の準備作業をする。かなりの量なので、幹事のSさんにお手伝いを願い、運んでもらうことにしてある。当然、展示準備の手伝いもしていただく。いつもお世話になり放しである。つくづく思うのである。一人では何も出来ないと。有り難いの一語に尽きる。