岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

葉上の舞台で輪舞する淡紅衣装の群れ花 / 弥生登山口周辺でNHK弘前文化センター自然観察講座

2008-03-31 05:58:23 | Weblog
 (今日の花はシソ科オドリコソウ属の多年草「オドリコソウ(踊り子草)」だ。花名の由来は花の形が編み笠をかぶった着物姿の踊り子に似ていることである。
 北海道から九州に分布し、地下茎で広がり、路傍や山裾、河川の岸などに群生する。春に、葉腋に輪状に花を咲かせる。花の色は白から薄い桃色まである。

 …私の場合、岩木山に行くとか登るという時、その九割五分までは山頂まで行って帰ってくることを指す。ところがその日は、残り五分に属する岩木山行きだった。
 数日前に市内の茂森新町から樹木へ抜ける路傍で見かけたある花、それとの邂逅はまだ岩木山ではなかったので、出会いを求めて出かけたのだった。
 五月の末である。高照神社前でバスを降りた私は、初夏のまぶしい光と柔らかい風の中を弥生方向に歩いていた。間もなく左に逸れて宮様道路に連なる間道に入った。
 まぶしい輝きと柔らかい風を少しだけ避けるように林辺や路傍に、草丈二十から三十センチのその花はまばらな群れで咲いていた。
 葉上の段々舞台で輪舞する淡紅衣装の群れ花、華やかなオドリコソウである。岩木山にもやはり生育していた。
 岩木山の中腹部では見かけないが、山麓の人家近くの路傍ではよく見かけるし、旧弘前市内の坂道や切り通しの藪では目にすることの出来る花だ。また、久渡寺山のライオン岩付近の稜線で突然現われてびっくりしたこともある。
 花が踊り子に似ているのでこの名がついたのだが、花は葉に隠れて上からは見えにくい。屈んで見ると、たしかに踊り子のように、花笠をかぶった娘たちが輪になって踊っているように見える。
 命名者のすばらしい観察力には拍手だが、所詮、人がつける名前など我田引水の何ものでもない。
 人の目には踊り子の花笠に見える「花」も、花粉が濡れないための「装置」であり、立姿のような花の筒も昆虫を潜りこませてたっぷり花粉を運んでもらうための「罠」であることを知ると、名付ける人の浅知恵を超えて、植物の持つ「知恵」に驚き感心するのである。

■■ 弥生登山口周辺でNHK弘前文化センター自然観察講座を実施(1) ■■

 昨日、NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で、第36回目の「岩木山の雪上自然観察・アニマルトラッキング(野外実習と観察)」を「岩木山弥生登山道入り口付近」で実施した。
 28、29日と「平年」なみの寒さをともなう「三月の陽気」であったので、「ああ、本物の三月だ」と、ほっとしていたが、一方で「30日の自然観察講座、このまま寒ければ受講者には気の毒だなあ」と相反する気持ちが入り乱れて心穏やかではなかった。
 だが、暖かい陽気が続く今年の三月はやはり、「異常」なのである。幸い、北風は冷たかったものの「弱く」、日射しに恵まれたので、暖かく明るい陽気の中で、「楽しい」自然観察が出来たのだ。
 マルバマンサクやニシキマンサクの咲き誇る雪上に腰を降ろして、食べた「お弁当」はとりわけ美味しく、心弾むものであった。
 ただ、いつもの「三月」が私たちに与えてくれる「自然が織りなすめりはり」を体感出来なかったことは残念なことであった。

 さて、いつもの「三月」とは…、

 …三月は混沌とした季節だ。真冬と早春がしのぎを削る。寒気の南下で気温は氷点下まで下がり、西高東低の等圧線がこみ合うと風は台風なみに発達する。また、一晩で数十センチの積雪を見ることもある。
 そんな日の後に、明るい日ざしの春が、遅い朝から始まることがある。しかし、冬の装いをまったく捨てているわけではない。早朝の凍てつく放射冷却に始まり、青空は抜けるように高く、陽光は暑いほどだ。だが、時折雪しぐれが通り路上にうっすらと綿雪を残す。
 そして、また次の日ざしが瞬く間にそれを消してしまう。三寒四温に似ているこのような繰り返しが三月である。

 三月に入ると、日照時間が長くなり気温も高くなる。当然、上昇気流も発生する。ところが上空には寒気が流れ込んでいる。
 だから、天気図に現われない小さな前線が一日に何回も通過して、その都度、雪しぐれを降らせるのだ。 
 しぐれと無縁のポカポカ陽気の日もある。そんな日は「いきいきと」した風情が消えて、ぼんやりと気の抜けた春を感ずる。
ところが、三月はちゃんとめりはりをつけてくれる。晴れた朝の氷点下、曇天の寒雲、雪しぐれなど、子規の句に「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」というのがあるくらいだ。寒さの後には膝小僧を出したくなるほどの日和が続く。 

 飯田龍太の俳句に「いきいきと三月生まる雲の奥」というのがある。龍太は甲斐の山奥に住んでいたというから、感動は「雲の奥」にあると見たい。
 この雲は青空に見られる身動きしない凍て雲だろうか。それとも曇り空に現れて動かない寒雲と呼ばれるものだろうか。やはりこれは雪しぐれを降らせる雲の塊だろう。
 「いきいき」と「生まれる」ためには動きが欲しいところだ。この句には・・青空、輝く太陽。その下にはむくむくと湧き出し、底を低くし、周囲の山々を舞う雪に透かして進んでくる大きな雲の塊がある。その塊の上空は抜けるように明るく、キラキラした三月が雪しぐれの奥にいて、それらを押し出し天上の主にとって変わろうとしているようだ。
 見ていると、いつのまにか横殴りの淡雪に誘い込まれるが、それも一時のこと、天上すべてが青空に変わる。・・という情景がふさわしい。
 山本健吉は飯田の句の「三月」は、月でなく「季節」であると指摘している。なるほど、言い得て妙だ。(続く)

雪消え間もないブナ林稜線に咲く淡紅の幻花 / 弥生尾根を登って山頂へ、恐ろしいほどの暖冬だ(6)

2008-03-30 07:12:54 | Weblog
(今日の写真はイワウメ科イワウチワ属の常緑多年草「イワウチワ(岩団扇)」である。花名の由来は「岩のあるような場所に生育し、葉には光沢があって固く、丸い団扇(うちわ)形であること」だ。
 山地帯の林内や林縁や岩場などに生える。花弁は5 枚で、先端がギザギザに裂け、花の色は普通は淡紅色だが、白花もある。

 …不思議でならなかった。そして、この「不思議」を解き明かすために、何年の月日を重ねたことだろう。
 毎年、雪消えの始まる四月下旬から五月の中旬、日当たりのいいブナ林の稜線を、どの程度、さまよったことだろう。だが、出会いはなく、空しい季節だけが去っていった…。
 「本州、近畿地方以北から東北地方に分布している。山地の林内や岩場に生える。葉は円形から広円形で、基部は心形。四月から五月ごろ、花茎を伸ばして淡い紅色の花を咲かせる。」などとの記載が、図鑑にはある。
 しかし、岩木山ではなかなか出会えなかったのだ。
 一本の茎に一つの花を咲かせるが、これとよく似た「岩鏡(いわかがみ)」は一本の茎に多数の花をつける。「名前は、葉のかたち( 丸い団扇)が団扇に似ていることから付けられた。花びらはギザギザの形であり、葉は光沢があって固い。」などなど…「イワウチワ」に関する知識は「耳にたこ」ならず、「目には飛蚊」のように、取り憑いてしまい長いこと離れなかった。
 白神山地である目屋の山でも、毎年のように、簡単に出会える花、イワウチワ。どうして、岩木山では会えないのか。
 考えあぐねた末の結論は、「岩木山と白神山地」との地縁的な接点を探せであった。
地図を丹念にたどり、白神山地の縁と岩木山の接点を、私は「湯段温泉」の奥に訪ねた。 …そこは岩木山の最南端であった。五月の初旬、私にとっては「ブナ林に咲く淡紅の幻花」であるイワウチワにとうとう会えたのである。岩木山にもイワウチワは生育していたのだった。

  ■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(6) ■■

 暖冬ということは大きく3つの「異常」を見せてくれる。
 1つめはずばり、「寒くない」ということだ。この3月に入ってからのほぼ1ヶ月間に氷点下になった日や1日の間に「氷点下」になった「時間」があっただろうか。とにかく暖かいのだ。
 一昨日から昨日にかけて気温は下がった。小雨も降った。北風が強く「冷たかった」。それでも「氷点下」にはならなかった。
 ただし、岩木山では、標高1000m以上のところでは「氷点下」となり、里の雨は「雪」となっているだろう。一昨日や昨日のような天気や気温が「例年」のこの時期なのである。
 たった2日間だけが「正常」な季節で移ろうという異常だ。今日も予報だと9℃を越えるという。ちなみに、現在の外気温は2.5℃だ。
 私たちにとっては「寒い時期」に「暖かい」のだから、それは「好都合」なのだろうが、これはあくまでも「異常事態」なのである。

2つめは、降雪が少ないということだ。弥生尾根の森林限界に生えるブナは、いつもの年だと「雪」に埋もれて、その梢部分とその下枝しか見せない。
 そのような年には、ウサギはその梢部分の表皮を食べる。その食痕(囓られている部分)が、今季はどの程度の高さに見えるか。まだ3月だというのに3~5mの高さに見えるのである。これは「例年の5月中旬」の見え方である。つまり、例年よりも4m程度、積雪が少ないということである。
 岩木山の弥生尾根は春スキーのコースになっている。大黒沢という谷に沿ったコースと尾根に沿ったコースを持っている。その尾根コースは広い上に、支尾根を多く持つので「迷い」やすい。そのため、ブナの幹に「赤ペンキ」で丸印を描いて「下降」禁止を、左矢印で「左に曲がる」ことを促している場所がある。
 この「赤ペンキ」による標識の位置が例年ならば「人間の眼」の高さに見えるのだが、今年は上目遣いに、顎を突き出す感じでなければ見えない高い位置にあるのだ。
 この尾根は、大長峰手前までは低木ブッシュが続く。その下端辺りに「2合目」を示す登山道標識があるのだが、「雪上に出ている部分」の高さが12月、1月、2月、3月と変わりがないのである。この標識は全長1.5mである。出ている部分は50cm程度だろうか。
 降雪が少ないといっても昨年11月中旬に降り積もった「積雪」が、そのままの状態で数ヶ月を維持したわけではない。少しずつは「降り積もった」のだが、降る雪の堆積は、その70%が空気であるから、積もると、その「自重」で沈むのである。
 その沈むスピード以上の速さで断続的に、しかも量的にも多い「降雪」がないと積もって、「積雪量」を増していけないのである。だから、一定の場所で継続して観察すると、積雪は一定のレベルを維持しているように見えるのである。つまり、これほど雪が少ないということである。

 3つめは「季節風」が吹かないということである。その「吹き方」が非常に弱いということである。これは、雪を運ばないので「雪庇」や「吹き溜まり」を造らない。雪が少ない上に、「雪庇」や「吹き溜まり」を造らないので、夏場の「地形」を維持し、谷を積雪が埋め尽くすというような場所もなくなっている。これで、雪崩の発生場所も大きく変化するはずである。

地べたを這う華やかなみやこ名を負う黄花の列 / 弥生尾根を登って山頂へ、恐ろしいほどの暖冬だ(5)

2008-03-29 06:29:38 | Weblog
(今日の花はマメ科ミヤコグサ属の多年草「ミヤコグサ(都草)」だ。
 花名の由来は根につながる細長い枝を血管に見立てて脈根草(ミャクコングサ)と呼ばれていたものが転訛して「ミヤコグサ」となったこと。それに京都に多かったことである。おそらく麦などと一緒に日本に持ちこまれた史前帰化植物だろう。今や、全国に分布している。

 大きな石の鳥居をくぐって石畳の参詣道を辿ることが別に嫌になったわけではない。 ところで、岩木山神社からの登拝道につながる数本の道筋を知ってくると、季節や陽気の違いから微妙にそれらの「道筋」を選択したくなる欲望にかられることがあるものだ。
その日乗車したバスは高岡経由岩木荘行きであった。バスが造り坂を登り切ったころに「高照神社前で下車しよう」と私の心は決まった。
神社奥殿の右から鬱そうとした杉と広葉樹の森の中を行った。道ばたの緑もまだ少しだ。乾いた昨秋に落ちた葉がかさこそと足下で歌う。 突然、鬱そうとした森が切れて行く手が開ける。そして、コンクリートで固められた短い坂が沢へと下っている。沢を渡ると様相は一変するのだ。まるでこの坂と沢が自然と人工の境界線なのである。
 極端な言い方をすれば区切られた違いは「天国と地獄」に近い。
沢をまたいで対岸のコンクリートの坂を登る。
砂利道、赤土、コンクリートのかけら、アスファルト舗装の断片、廃材、不燃物ゴミの散乱、トタン板、テレビ、冷蔵庫、崩れ倒壊している作業小屋などなどが切れ間なく目に飛び込んでくる。 私は見るに堪えられず、視線を足下に落とした。 鮮やかな黄花が列をなして並んでいた。赤土はカラカラに乾いているのに何という瑞々しい新鮮で命溢れる花ではないか。 それはミヤコという名を負う花、ミヤコグサだった。その傍らには捨てられたテレビが二台転がっていた。
現代の都もゴミに窒息しかかっている。この岩木山麓の風景はまさにその象徴に見えた。

  ■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(5) ■■

「…暖かいのである。凍結とは無縁の世界が、山頂付近を取り巻いている」と昨日は書いた。山頂付近が「暖かい」ということは山麓はもっと暖かいということだろう。
 その話しの前に「暖かい」ことと連動している現象に触れたい。
 いつもの冬は、積雪で覆われてしまい沢源頭部の壕状の深い窪みが「平ら」になってしまう場所があるのだ。
 それは耳成岩の下部、標高1400m付近の沢源頭である。この沢には名前はない。場所についてもう少し詳しく説明すると、後長根沢の源頭部にある「倉窓や大まぶ」と呼ばれるほぼ垂直に立っている衝立状の崖頭の、さらに上部に位置する。
 この沢は夏場でも積雪期でも登ることも降りることも出来ない。少なくとも私はしていないし、そこを登降した人の話しは聞いたことがない。夏場に藪こぎをして源頭部の中央部まで降りてみたことはあるが、底部に刺し込むような鋭利さで穿たれていて、かなり深いものであった。ここがいつもの冬は「吹き溜まり」の降雪でまったく平らになってしまう場所なのだ。
 ところが、今年の冬は、夏場の「形状」を纏ったままなのであった。雪が少ない。少ないなどという形容は余りにもありきたりだ。毎年、数回は確認(視認)してきた埋雪のために出来る「平坦地」がすっかり変貌している。
 私は眼を疑った。驚きで興奮していた。そして、相棒のTさんに大声で言った。「しっかり見て下さい。ここは毎年平坦になる場所です。これだけ今年は雪が少ないんです。」
 おそらくTさんには私の興奮や驚きは理解出来なかっただろう。それは、Tさんは例年の「平坦」な場所を見ていないからだ。比較する客観的な事実を知らなければ、目の前の事実であっても理解することは難しい。
 私は、何回か残雪期にこの沢の左岸を降りたことがある。だが、決して楽な稜線ではない。特に気をつけなければいけないところは、「大まぶ」岩稜の縁であり、それに続く細い稜線も雪庇が張り出していたり、細すぎて雪が着かない場所があったりで、間違うと滑落してしまう。
 この細くて急峻な稜線は後長根沢の右岸稜線であった。つまり、板橋沢と後長根沢に挟まれた稜線なのである。標高500mほどのところまで降りると、ようやく広い尾根になる。(続く)

薄黄小花の秘めごとは秋に現る丹塗り黒丸 / 弥生尾根を登って山頂へ、恐ろしいほどの暖冬だ(4)

2008-03-28 05:47:32 | Weblog
 (今日の写真は、ウコギ科トチバニンジン属の多年草の「トチバニンジン(栃葉人参)」だ。これは北海道から九州に分布する。
 写真は花だが、今日の文章は「トチバニンジン」の「実」を主題にしている。季節は秋だ。 
…朝露が消えかかるころ、奥宮への登拝参道の中ほどを登っていた。
 最近、拡幅され砕石などが敷かれて、往年の面影をすっかり失ってしまった登拝道であるが、林床にはほぼ昔の面影があった。
 そこにはかなり多くの草たちが、かろうじて生活の場を見いだしていた。だから数は少ないとはいえ、生育しているものは散策する者の目を楽しませてくれる。
 この季節は咲いている花は春や夏に比べると極端に少なくなるが、あちこちで面白い形や彩りの実が稔っている。
 栃の葉に似た大柄な葉はまだ緑である。その緑の台上にすくっと茎をのばして実をつけているものが道の両側に目立ち始めた。
 それは赤い透きとおる奨果、鮭の卵や沢ガニの卵を数粒繋げたようで、しかも摘むとパチンと弾けて液が飛び出してしまいそうに見える果実、そうかと思うと半分が光沢のある濃い丹塗り色で、上部が真っ黒でどことなく仏教的な色彩を醸し出す果実である。
 これは薬草として名高い朝鮮人参の仲間で、日本特産である。解熱や健胃の薬効が知られているために昔から採取されて、一時期、数も減ってしまった。
 しかし、最近はけっこう目につくようになってきた。
 彼女らにとっての受難の時代は終わったのであろうか。そう思ったら果実はさらに仏教的な色彩を増したように見えた。
 黙って眺めていたら、駄作ながら、「栃葉たる薄黄小花の秘めごとは赤黒丸く今秋となり」という一首が口を衝いて出た。
 傍らのもう一本の実近くでは「アキアカネ」が数匹、止まるところを探して飛翔している。丹塗り色の実がかすかに揺れた。「アキアカネ赤い衣装の共演者かすかな羽音トチバニンジン」という風情であろう。
 ああ、秋は本番なのだ。その色彩と造形の妙は素晴らしい。)

  ■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(4) ■■

  耳成岩の直下から、夏ルートを辿らないで、耳内岩の北東端に取りつくように登り始めた。それは何故か…。
 夏ルートはこの直下をトラバース気味に東から西に巻くように進み、南西端から山頂本体に取りつくのだが、3月中旬というこの時季を考えると「トラバース気味に東から西に巻くように進む」ことは出来ないと判断したからである。このルートは降雪期に雪崩が頻発する場所なのである。
 私は34年間連続して毎年、岩木山の「年末・年始登山」をした。その30年目の時に、このルートを下山時に使って、視界がほぼ利かない中で雪庇を崩して、雪崩に巻き込まれたことがある。その時は12月末である。新雪がどんどん積もる時季ではあった。
 だが、普通(3月中旬というと岩木山ではまだ、降雪がある)の年ならば、この時季は「降雪期」なのであり、硬い雪面に積もった表層の「積雪」はいつでも「雪崩」になりうるのであった。
 その日、私は登山口に向かう車の中で、山頂直下の最終ルートについて「夏ルートは雪崩が心配。だから、耳内岩の北東端に取りつく」と話していた。
 その判断と決定はこうだ…。
 今日は晴天で気温も上がる。「耳内岩の北東端に取りつく」急登な斜面はやや東に面しているので朝から陽光を浴びる。そこを登る頃はお昼近くなっているだろうから、雪面は「解けて」柔らかくなっている。「ワカン」とその爪を効かせ、キックステップで十分対応出来るだろう。装備として、ピッケル各自、9mmザイル20m、簡易ゼルプストバンド各自、カラビナ各自2個、シュリンゲ各自2本などを持っているから、滑落時の確保も十分出来る。

 このルートは夏場にはどんなことをしても「登ること」が出来ないルートである。登ることが出来るのは、この積雪期だけだ。この場合も上述したような条件が適う時だけである。
 ただし、残雪期であっても、気温が連日氷点下で「雪面」が凍結状態になっている場合は、上述のような装備でも「登高」は出来ない。
 何故か。いつもの年ならば、3月中旬というと山頂付近では、夜間と、特に夜明け時の「放射冷却」で気温は氷点下10℃前後まで下がるのである。昼間、陽光を浴びて「解けた」水分は「ガチガチ」に凍結する。こうなると、「ワカン」の爪は効かない。硬いのでキックステップも出来ない。ピッケルのブレードで雪面をカッテングして足場(階段状)を作りながら登ることは可能だが、これには時間がとてつもなくかかる。一つ一つ「斜面」に対して水平に切り出していかねばならないし、根気の要る仕事だ。しかも、日常殆ど使われることのない手首と腕の筋肉を使うので、長時間になると「痙攣」すら起きてしまう。 だから、出来るだけ、この「カッテング」は避けたいのである。
 そこで、そのような場合には、私は「アイゼン」を使う。常時、5月上旬までは、軽量で「プレス打ち抜き」アルミ製の12本爪のものをザックに忍ばせている。また、5月上旬以降の「残雪期」には6本爪の「軽アイゼン」を持ち歩いている。
 時には、「雪面は凍結」していないが、その下層5cm程度のところが硬い氷の板になっているところもある。このような場所でも「アイゼン」は必要なのだ。
 私の経験では、このような「雪面の凍結」は5月上旬まで続く。しかし、その日、そのルートを「アイゼン」なしで完璧に登・下山が出来てしまったのである。雪面は柔らかく、「ワカン」がほどよく作用し、場所によっては「キックステップ」をしなくても「足場」が簡単に出来てしまうのであった。

 …暖かいのである。凍結とは無縁の世界が、山頂付近を取り巻いているのであった。まさに、暖冬。自分の眼やすべての感覚を疑いたくなるような「初夏」のような天気。恐ろしい「地球温暖化」である。 (続く)

噎せるような萌葱の若緑に布置され淡い綿帽子 / 弥生尾根を登って山頂へ、恐ろしいほどの暖冬だ(3)

2008-03-27 06:20:51 | Weblog
(今日の写真はバラ科ナナカマド属の落葉小高木である「タカネナナカマド(高嶺七竈)」である。
「ナナカマド」は北海道から九州、朝鮮・樺太・南千島に分布し、ブナ帯から亜高山針葉樹林帯に生育する。和名は、「大変燃えにくく、七度竃(かまど)に入れても燃えない」に由来するらしい。

 花は我々に見てもらい楽しんでもらうために咲いているのではない。見たり楽しむという行為は花とはまったく関わりのない人の勝手な行動だ。登ることに夢中であったり、疲れていたりでは、そこにある花にさえ出会えない。出会っているが見えないのに、花がないと言う人がいる。これはものすごく不遜で身勝手な人だろう。
 花に出会うためには、先ず会いたいという意志や興味を持続させ、それらを支える体力や生命力と総合的、相対的な「いつ・どこで・何が・どのように・どうした」という視点を持っていなければいけないようだ。
 野鳥のエキスパートである友人が「鳴き声のテープを何回も聴いて解った気になって、探鳥に出かけたら覚えたはずの声がみんな違う。何が何だか解らなくなってしまった。何もない時代には現場で総合的・立体的に学習した。その方がよく解ったものだ。」と語ってくれたことがある。対象を総合的な知識と経験を動員して、相対的に決定することの例であろう。花だけを撮影して名前を尋ねることは、鳥と鳴き声テープとの関係に似ている。
 ブナ林を脱けてコメツガ林をくぐって、ようやくダケカンバやミヤマハンノキの生えている稜線に出た。噎せるような緑で低木の「樹海」が広がっている。一面が濃い緑に覆われているように見えるのだが、ところどころに萌葱の若緑が布置されている。しかも、それらは風にそよいで、陽光を反射し輝き動く。さらに、淡い綿帽子のような白い小花を踊らせている。高山帯の綿帽子、タカネナナカマドであった。「綿帽子」とはこの花が全体として一つのまとまりのある複散房花序を指している。
 光沢のある葉の表面、鋭く規則的な鋸歯もバラ科の特徴を示していて美しい。)

   ■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(3) ■■

 岩木山の大鳴沢源頭付近、つまり耳成岩の東面直下は、降雪が沢から吹き上げる強風に収斂されるから、吹き溜まりは極端にひどい。雪庇は源頭を埋めつくし稜線を乗っ越して大黒沢よりに成長し、その厚さは時には15mを越えてしまう。岩木山ではここが一番遅くまで残雪のあるところでないだろうか。時には九月まであったりする。
 そのために、頂上直下の稜線はなだらかになり、夏場の地形とはその様相をすっかり変えてしまう。だから、夏山の感覚でいると吹雪や濃霧の時は、注意をしないと耳成岩の側壁にぶつかったり、大鳴沢や大黒沢に迷い込んだりする。
 ところが、23日に確認したところ、その様相はこれまでと一変していた。
先ず、耳成岩の東面直下は、その吹き溜まりは殆どない。雪庇は大黒沢よりに成長していない、というよりは全くない。大鳴沢源頭部の積雪の壁の厚さは5mもなく、平年の3分の1である。積雪の絶対量が極端に少ないので、この辺りの積雪は6月末あたりで消えてしまうだろう。例年は、この時季には頂上直下の稜線はなだらかになり、夏場の地形とはその様相をすっかり変えてしまうのだが、地図どおりの地形が見られた。これだと、積雪を置いただけの「山頂周辺」である。
 これだと、いくら登頂しても、真の意味での「積雪期の登山」とは言えないかも知れない。まさに、極端な、そして決して喜んではいられない「暖冬」であり、「地球温暖化」の目に見える現象なのだ。

 自然界の植物は「生存条件の変化」を求めない。植物たちは、自然が与えてくれる去年と同じ春の条件の中で営みを始めることが出来るのである。同じ条件でなければ「営み」を始めることが出来ないのだ。それを心配しているのだ。
 自然は彼等が持っていた時間スケールの中で暮らしていたのであり、その時間世界を破壊されることは自然にとっての死であるに違いない。その「時間スケール」を壊してしまうものが「地球温暖化」なのである。
 自然はこれまで、与えられた条件を受け入れながら、その条件のもとで精いっぱいの自然であろうとして進化してきた。それには長い長い時間が必要だった。その長い時間に耐えてきたので、自然はたくましく、優しいのである。
 しかし、「地球温暖化」は「生活の条件を変えながら生きていく人間」によって急激に進められている。植物や動物たちの「進化」のスピードはそれに決して追いつかないのだ。

『自然は円を描くようにくり返される時間世界の中で生き人間は直線的に伸びていく時間世界で暮らしている。
自然は循環する時間世界、この世界で暮らすものたちは変化を求めない。人間は循環する時間世界の中で生存している自然から自立した動物になった。
自然と人間が共生するには循環的な時間世界の中で変化を望まずに生きている自然の時空を壊さないでおくことのできる社会を私たちが作り出すしかないのである。(内山 節「森に通う道」から)』(続く)


木漏れ日すら避けて垂れ咲く林中の吊り風鈴/ 弥生尾根を登って山頂まで、恐ろしいほどの暖冬だ

2008-03-26 06:56:50 | Weblog
( 今日の写真はユリ科アマドコロ属の多年草 「アマドコロ(甘野老)」だ。
 厳密に同定すると、恐らく「オオアマドコロ(大甘野老)」だろう。茎の高さが1mを越え、葉の長さが10~20cm以上もあるのだからである。決め手は、葉の下面の小脈上に著しい細突起があることだ。
 漢字で書くと最初の「甘」は「あま」と読めるが「野老」を「ところ」とか「どころ」と読める人は余り多くはないだろう。
 「野老(ところ)」はヤマノイモ科の蔓性多年草でまったくの別種だ。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。根茎は苦味をとると食べられる。普通「トコロ」と呼ばれるものはオニドコロ(鬼野老)である。
 名前の由来は、地下茎が「野老(ところ)」に似て、しかも、「野老」は苦いのにこちらは甘いので「甘い野老」から「甘野老」になったということだろう。根茎だけでなく若芽もゆでて食用になる。

百沢から岳へ、そして鰺ヶ沢へと続く車道の両サイドからも、冬の間にうず高く積み上げられていた雪の回廊がすっかりと消え果てていた。
 少しの斜面を登っただけでも汗ばむような草蒸す季節が始まっていた。そのような時期に私はよく平沢や柴柄沢に沿った道を歩くことがある。
 それらは木漏れ日が漂う雑木の中に続いていることもあるが、大半は雑木が伐られ、日当たり鋭い明るく赤茶けた裸地を通っている。
 私にはこれが謎である。なぜこのように木を伐って広げ裸地にしてしまうのだろう。そこを開墾して畑地にしたという形跡もなければ建造物があるわけでもない。あるいは数十年も前に炭焼きをしたという跡もない。
 そして、その赤土の道の両側には決まって道を覆い尽くす勢いで尾花を残したススキが茂り、その奥では枯れたものが縦横に重なり合って仰臥しているのだ。
 その中で、ふと何やら斜めに立つ緑葉と白い斑点が揺れた。それは本当に奇妙な光景だった。この緑葉と白い斑点は、普通には林下の陰地で見るものである。喩えて言えば「木漏れ日すら避けて垂れ咲く林中の吊り風鈴」がふさわしいものだ。
 しかし、ここの彼女たちは違っていた。まさに異彩を放っている。陽光を全身で受けて、ススキの森で初夏をエネルギッシュに生きるアマドコロたちに、私は真夏の海浜に集う日焼けした水着姿の若い女性の姿を見たような気がした。

   ■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(2) ■■

(承前)
 今年は確かに「春」は早く来た。しかも、2ヶ月も早くやって来た。だが、「雨」を殆ど降らせてはくれない。先週は一度も「雨」が降らなかった。暖かく早朝が氷点下までさがって、「霜柱」を見せた朝はわずかに2回だけであった。
 「春」に降る雨の特徴は、「晩方から夜明けにかけてしとしと」と、静かに、「土」を濡らす程度に降る。それで、しっとりと潤された土の中で新芽を出して、草々は生長する。 土砂降りだと種などは洗い出され(洗掘され)て、活着出来ないのだ。そして、日中は暖かい日射しを浴びて「光合成」を行いどんどんと生長していく。
 これには訳がある。というよりは「植物」がその雨の降り方や季節的な気象条件に合わせて、そのような機能を保持するように進化してきたと言えるのかも知れない。
 ところが、暖かい日が続き、日射しも強くなってきているのに、柔らかく潤す「雨」は降らない。私はこのことがすごく心配なのだ。長い時間の中で「進化」という形で対応してきたものは、気象環境の突然の変更や異常には対応出来ないのだ。

 今年の「春」、そのやって来方の早さは異常だ。雪も去年より1ヶ月早く消えた。だから、道路事情も人の手間をかけずによくなった。
 灯油の値上がりの中で、早くやって来た暖かい「春」は有り難い。人々にとって早くやってきた「春」は歓迎するものであって非難するものではない。しかも、北国の私たちの「春」を待ちわびる気持ちは強い。それに答えてくれるのだから、だれも「早く来すぎた」といって怒る人はいない。だれもが「喜んで」いる。
だが、…視点を「植物」に向けて、「植物」に自分を置き換えて考えてみるとどうだろう。喜んでばかりはいられなくなる。

 私はずっと長い間、「山の季節感とはおもしろい」ものだ考えてきた。しかし、ここ数年、特に冬季と春季にあっては、この考え方に修正を加えなければいけないと思うようになってきている。
 それは「冬はその酷寒と強風で厳然としためりはりをつけてくれる」ことが少なくなり、今回の登山でも「曖昧で混沌、季節の混在を鮮明に見せること」が少なくなっていた。
 岩木山では、3月の中旬から下旬は、正しくは(平年並みの季節だったら)「暖と寒との、明と暗との混沌、季節の混在を鮮明に見せる」時季である。
 ところが、23日の岩木山は「春」そのものだった。何にも「冬」という「めりはり」を感じさせない岩木山であった。
 私はすでに50年近く岩木山に登っている。この時季にも数えられないほどの回数で登っている。だが、今回のような「岩木山」に出会ったのは初めてである。まるで、「虚事」のような山に思えてしようがない。(続く)


光浅き早春の林下で群れなす燭の彩り/ 23日弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬だ

2008-03-25 06:19:37 | Weblog
(今日の花はラン科エビネ属の多年草「エビネ(海老根・蝦根)」である。
 …午後になってもまだ上空は青く澄み切っていた。春霞の季節だというのに今日の天はどこまでも青く、空気は乾いていた。
 それにしても昼過ぎの、頂上での風の強さは何だったのだろう。欠けた残雪の破片が飛び、雪上に貯まっている岩の欠けらまでが顔を直撃し、鳳鳴小屋方向に降りるのに時々腹ばいにならないと前進が出来ないほどだった。
真冬と変わらない厳しさで登りの時から着けていた目出し帽は焼け止まり小屋近くまで外すことが出来なかった。
強風はまだおさまらなかった。そこで出来るだけ風を避けようと夏尾根ルートをとらずにスキー場尾根に降りた。貧弱なブナ林帯を抜けて尾根の上端に出ると視界は一気に広がる。目の前はスキー場だ。
 いつの間にかスキー場は上部へと「拡張」されていた。鰺ヶ沢スキー場の拡張に多くの人々が反対を表明しているのにである。
風はいくらか和らいだがまだ強かったし、スキー場ゲレンデを降りるのもしゃくだったので尾根の左岸、頭無(かしらなし)沢の縁をたどる。ブナの樹間に太めのミズナラが出てきて、いつの間にかミズナラが主役の森に変わった。しかし、森は薄く右岸には広いゲレンデが透けて見えている。
 風はいつの間にか凪いで積雪に覆われている「宮様道路」に出た。そこには穏やかな春の光があふれていた。「地獄と天国」かと思わずつぶやいてしまった。 道を横切り高照神社境内に向けてまた降りる。 沢水の音が近づいてきた。境内は間もなくだ。行く手の右上空から差し込む陽光が筋をなして、雑木林の林床の一点を照らし出した。淡い臙脂の群れが踊った。それは光浅き早春の林下に掲げられた群れなす燭の彩りとでも言える海老根の小群落だった。
ふと、「杉山に燭をかかげて海老根咲く」という青柳志解樹の句がよぎった。

■■ 23日Tさんと弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ ■■

 15日は雨の中の登りであったが、23日は晴れ、その上、この時季にしては異常に「ぬくか」った。夏場でも、これほどは摂らない「水分」を摂ってしまった。
 水500ml、アクエリアス500ml、それにテルモスに入れたお茶400mlを空にしてしまった。風も殆どなく体感温度は15℃を越えていたと思われる。
 積雪の少なさもプラスすると、はっきり言って「平年の5月中旬」、残雪期の岩木山と同じだった。おかしい。異常である。季節が2ヶ月も前倒しで進んでいる。

 私たちは寒ければ着ればいい。暖房から「暖」を摂ればいい。暑ければ「脱げ」ばいい。CO2をどんどん排出して「冷房」を効かせればいい。
 しかし、植物はそのような「手前勝手」なことは出来ない。動物だってそうだ。彼らは対抗する手段や方策を持たない。私たちは対抗する手段を持っているし、その上CO2をどのようにしたら排出しないで済むかも知っている。この「どのようにしたら排出しないで済むかも知っている」ことを「英知」といってもいいかも知れない。しかし、この「英知」もただ「保持」しているだけで、それを「実行・実践」しなければ、「無為」であり、植物や動物と同じ存在でしかない。
 NASAや土井さんには悪いが、宇宙に莫大な資金を投じて「飛び出す」前に、この小宇宙である「地球」を救うことを考える方が先決だろう。

 先週は「二寒五温」というようなお天気だったが、今週はそれにも増してずっと暖かくて丸々1週間「青空」を望めるいい天気が、しかも暖気が続いた。夜明けの「放射冷却」で気温がさがり、霜柱が立つ朝もあった、それすらない朝もあった。
 とうとういいお天気のまま、今週に突入してしまった。23日、日曜日の朝、気温は7℃である。
  出発地点の、駐車スペースも広くなっていた。雪解けが進んだのだ。スノーモービルの走行跡が見られる。
 それにかき消されてはいるが、15日に私たちが辿った踏み跡がそこかしこに見られる。この私たちの6日前の踏み跡は、その日に到達したであろう(ということは濃霧と降雪に紛れて場所がどこなのか視認出来なかったからであり、磁石と地図、それに歩数と歩測、時間から割り出した場所であったからだが、)と推測した「耳成岩」の下まではっきり残っていたのである。視界がほぼ利かない中での場所の特定は正しかったのである。
つまり、15日の私たちが遭った非常に少ない時間の「降雪」後、岩木山では標高1300m以上の場所でも、前日まで「降雪」はなかったのである。
 だから、私たちの踏み跡は、埋まることなく、逆に雪面に浮き上がるように「突出」した形状で残されていたのである。
 
 「春」という季節の大きな特徴は、平地や里にあっては「晩方から夜明けにかけてしとしとと雨が降る」ということである。この「雨」は静かに降る。「土」を濡らす程度に降る。土砂降りにはならないことが多い。(続く)

人の素朴な思いを名に秘め林下に咲く明紫白の円錐花 / 原子力発電所と地球温暖化(12)

2008-03-24 05:37:43 | Weblog
(今日の写真は、ツゲ科フッキソウ属の常緑矮小低木の「フッキソウ(富貴草)」である。
 山地の林内に生える。茎の下部は地面を這い、上部に菱形状の葉が輪生する。茎の先に穂状の花序があり、上部に4本の太い雄しべからなる雄花、基部にヤギの角のように2つに分岐した雌花がつく。雌雄同株で果実は乳白色で球形。土の流出を防ぐグラウンドカバーとしてよく植えられる。

 いつの頃からか色々な自然観察会の講師を引き受けることになっていた。数年前に自然保護協会の自然観察指導員養成講習会の講師をしてから特に増えたように思える。
 一方で、青森市のとある文化センターで登山の講師、とある高校のPTA研修で自然観察の講師を依頼されることもあり、それから、とみに増えてきたようにも思える。
 このように、かなりの回数をこなしているので「観察会」の時に「初めての花との出会い」はないだろうと人は思っているようだ。ところが自然は広く奥が深い。富貴草との出会いはまさにそうだったのである。それは春の観察会でのことだった。
 まだ、つぼみだったので、多くの参加者は気づかなかった。私の班員もそれを目にとめて話題にする者もいなかった。私は純粋に「何だろう」という思いで気にとめていた。
 そんな私の様子を別な斑で行動していた弘前大学のY先生が垣間見て、「フッキソウですよ」とそっと教えてくれた。
「漢字ではどう書くのですか」「富裕の富に高貴の貴。それでフッキソウと読むんです」
その花、いや蕾は白と淡い臙脂で細やか、しかも慎ましやかだったが、お世辞にも「富貴」とは言えない。ただ、名づけ人の素朴な思いを名に秘めた、その命は美しかった。
 私は参加者に謝った上で、Y先生に説明をしてもらった。
…厚みのある葉をどんどん増やすので「富が増える」と見立てて「富」を、宝石のような白くて丸い実をつけるので「貴」という字をあてて富貴草と呼ぶ。…
 地味であるが、多くの雄花に混じって、小さな雌花が下の方に見えている。

         ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その12) ■■

  ●よくもまあ!ぬけぬけと…「原子力白書」が温暖化防止へ原子力拡大訴え…●

 「政府の原子力委員会は21日、07年版原子力白書を公表した。地球温暖化対策のため世界的な原子力利用の拡大を初めて訴えた。また、地震など自然災害の危険性を減らす活動の強化を求めた。
 白書は地球温暖化問題に言及。2050年に向けて温室効果ガスの排出量の大幅削減を実現するためにも、「原子力エネルギーの平和利用の拡大が不可欠」との認識を示し、温暖化対策として世界的な原子力利用の拡大に向けた取り組みの充実を訴えた。
 このほかには、昨年7月の新潟県中越沖地震などを受け、「自然災害のリスクによる影響を低減するため、リスク管理活動の一層の強化」を指摘。原発の臨界事故隠しなど一連の電力会社のデータ改ざん問題にも触れ、「安全確保活動の透明性の徹底」を課題に挙げた。」(毎日新聞2008年3月21日)

 「原子力発電所」や「核燃料再処理施設」から排出・廃棄される「放射性汚染物質」の危険性にはまったく触れないで、自分たちに都合のいい、いわゆる「おいしいところ」だけを主張している。こういうことを「てめ田さ水」(津軽弁で「我田引水」のこと)という。
 これまで、火力発電所で石炭などの化石燃料を多量に使い、CO2を出せるだけ出し続けながら、この主張だ。勝手なものだ、あきれてしまう。
 正直に「原子力発電所」の危険性と地球上に残される「核燃料再処理施設」から出た「放射性汚染物質」の恐ろしさを、何よりも最初に国民に知らせ、国民から「原子力の平和利用」に同意を得たならば「2050年に向けて温室効果ガスの排出量の大幅削減を実現するためにも、原子力エネルギーの平和利用の拡大が不可欠」を進めるのが筋だろう。
 安全だ、安全だと判で押したようなことを国民に対して言い続けてきたが、それはことごとく「安全でなかった」のだから、国民からの「同意」を得ることは無理だ。そのことを知っているから、また「事実」を隠蔽して、プロセス抜きの、脈略のない、しかも唐突に「温暖化防止へ原子力拡大訴え」となるのだろう。
 それらを何もしないで、いきなり、取って付けたかのように「温暖化防止へ原子力拡大」という手はないだろう。福田さん。国民をバカにするのもほどほどにしておいたほうがいい。

 断層の調査だって、これまで手抜きと改ざんだったのだから、まずは国民に謝るのが筋だ。「ウソをついていました。間違っていました」と認めて謝罪することの方が先だろう。
 国民を「危険と不安に落とし入れる」のが「国」だと国民は思い込んでしまったのだ。いまさら、美辞・甘言で迫られても誰も信用しないということに気づいていないとすれば、これほど国民をバカにしたことはない。

 電力会社や国が金にものを言わせて、「弱小自治体や地元利権集団を取り込み、廃棄物の棄て場を地方に求めること」はもう止めよう。
 国の審議委員には「真に人々の幸せを考える委員」を選んで、未来世代(子孫)への配慮を十分に検証していかなければ、この「原子力」に関わる問題の解決を図ることは出来ないだろう。

大地の底から春の息吹を歌う空色に輝く花々 / 原子力発電所と地球温暖化(11)

2008-03-23 04:13:04 | Weblog
(今日の写真は、ケシ科キケマン属の多年草である「エゾエンゴサク(蝦夷延胡索)」だ。早春の花で「スプリング・エファラルズ(春のはかない命)」と呼ばれる。
 北海道や本州北部の日本海側の比較的湿った原野や山地に見られ、主に落葉広葉樹林の林床に生え、花は青紫色が主で四月~五月に咲く。花の先はくちびる状で、基部は距となる。
 名前の由来は漢方薬の生薬からで、中国・朝鮮のエンゴサクの塊茎を蒸して、日干しにして乾燥したものを、延胡索(エンゴサク)といったことによる。その延胡索と北海道など寒地に多く自生することから、蝦夷(えぞ)を使い、エゾエンゴサクという名になった。 延胡索には、胃痛、腹痛、生理痛、腰痛、浄血に効用があるという。乾燥したものを食間に服用する。
 私はまだ食べたことはないが毒草が多いケシ科の植物で、食べられるのがエゾエンゴサクであるという。開花時に、地上部の全草を採取して軽く茹でて、おひたし、白和え、ごまあえ、酢の物、そのまま薄くころもをつけててんぷらにして食用とするのだそうだ。

 人のいないリンゴ園の中を歩いて登山道に向かっていた。毎年、このようなことをしている。この日は弥生尾根を詰めて山頂に行こうとしていた。リンゴ園の縁にはその年もエゾエンゴサクが咲き出していた。だが、疎らである。
 「林間を埋め尽くせるみづみづとエゾエンゴサクの空色のはな(川西紀子)」という短歌にあるように、北海道では「地面を青く染める大群落」が見られるそうだが、岩木山では「今」はそのような場所はない。
 この花の色の明るい空色は早春の清々しい空気とマッチしているし、その日は晴れていたので、殊更、花々のコバルトブルーは冴えて清冽さを増していた。何と瑞瑞しいことよ。
 だが、不思議な花だ。曇っている日には、濃い青紫色だったり赤紫色に感じる時がある。少し足を止めて、まだ、肌寒い風が吹き抜ける明るい林縁の底にしゃがみ込み、そのコバルトブルーの花を見つめていると、林の中から木管楽器のような山鳩の声、アカゲラのドラミングが聞こえ、それらと共鳴して何やら「春の息吹」が深い大地からも聞こえてくるような気分になった。

         ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その11) ■■

   ●いわゆる「低レベル放射性廃棄物処分」の仕組みはこうなっている●

 最初は医療や研究用廃棄物の「3.地下10mほど掘りコンクリートピットにドラム缶のまま埋め3~400年間管理する廃棄物3.」レベルのコンクリート処分とし、やがて頃合いを見て「2.50m以深に埋め数百年間管理する高β・γ廃棄物」の処分場を建設、処分し、法改正を待ち再処理工場等から発生する高β・γ廃棄物をも処分しようとする意図が見える。
岩手県滝沢村にある医療用放射性廃棄物処理工場の建設時点に日本アイソトープ協会の常務理事は「最初は医療用、やがて研究用そして原子炉廃棄物を処理したい」という発言はこれを裏付けている。
 事実、「研究用廃棄物の持ち込み計画」はこれまで再三出されたが、止められてきたのである。
 この事業主体の原子力研究バックエンドセンターは、母体が「日本アイソトープ協会」と核燃サイクルを推進する「日本原子力研究開発機構」なのだ。となれば、再処理から発生し、棄て場のない「高β・γ廃棄物」は、この「低レベル放射性廃棄物処分場」に即持ち込まれ処分されるはずである。
鰺ヶ沢町で、この「低レベル放射性廃棄物処分場」地の候補に名乗りを上げ、現町長は「推進派」として当選した。
この隠された「仕組み」を知っていたのか、「低レベル放射性廃棄物処分場」という「低レベル」という言辞に惑わされたとすれば、余りにも低レベルな次元である。

 昨年3月22日のブログに寄せられた「コメント」の表題にも「なんと、低レベルなこと」とあったくらいだ。次にその「コメント」の一部を掲載する。

『低レベル放射性廃棄物貯蔵施設を鰺ヶ沢町に誘致するというとんでもない計画を聞いてびっくりしています。世界遺産白神山地を持つ鰺ヶ沢町のイメージをぶちこわしてしまう愚挙といわなければなりませんね。
目先の利益に惑わされず、長期的な視野に立った政治が今ほど求められているときはありません。今度の鰺ヶ沢町長選挙では、是非、この問題が争点になり、町民が賢明な選択されることを強く願っています。』

… だが、選挙では「低レベル放射性廃棄物貯蔵施設を鰺ヶ沢町に誘致」推進派が当選した。

 

キブシ(木五倍子)キブシ科キブシ属の落葉低木 / 原子力発電所と地球温暖化(10)

2008-03-22 05:48:24 | Weblog
(今日の写真は、早春、雪に閉ざされた切迫感を解放してくれる淡い緑のすだれ花と形容されるキブシ科キブシ属の落葉低木、「キブシ(木五倍子)」である。        

 岩木山の赤倉登山道は一歩足を踏み入れるとそれが「信仰」の道であるということがすぐに分かる。
 最初の石仏は標高五百メートルにある。そこはまだ残雪の世界で、マンサクの花は終わり、低木の中に柔らかい薄緑色が揺れていた。
 それは十センチほどの花穂が列をつくって垂れ下がっているキブシであった。何と可愛いのだろう。一つ一つの吊鐘状の花をよく見ると、赤ん坊が帽子を被っているようで、ほほえましい。別名を「まめふじ」というのも頷ける。
 キブシとは、変わった名前だ。昔、果実をおはぐろ用の五倍子(ふし)の代用として使われたことによる命名なのだ。
 山野で早春に花を咲かせる木は地味だが、いち早く咲かせるのでよく目立つ。そして、「春の訪れ」を感じさせてくれると、次々と葉を開き花を咲かせる他の木々に埋もれて、翌年の早春までまた姿を隠してしまうのである。

 ふと、古谷のぶ子の「雨つたふ木五倍子の花のうすみどり」という句が脳裏を掠めたが、次いで「嬉しい出会い」という花言葉も口を突いて出た。)


        ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その10) ■■
「放射能汚染」について
 これら放射性廃棄物は、地球にとって、そこに住むすべての生きものにとって、この上なく危険なものだから「数百年、数万年と人間環境から隔離しなければならない物」である。
 未来世代は否応なく現在世代からその危険物を押しつけられるのだ。『「毒薬」を与えられて「服毒」するも「服毒」しないもあなた方の自由です』という言い分以上にこれは惨い。自由な選択はない。「隔離」という行為が必然の帰結としてなされるのである。
「隔離される場所」の条件は「火山や火山帯がないこと、断層や活断層がないこと、安定した古い地層を持つこと」だそうだ。
 現在、その条件に合致し、しかも六ヶ所村から近く、アクセスが容易な場所として、岩手県の北上山地が狙われているというのだ。

 60年代から運転されてきた原発や研究用原子炉は寿命が尽き、「廃炉」「解体」の時代を迎えている。「廃炉」「解体」によって大量の放射性廃棄物が発生するのだ。
 また、イギリスやフランスから返還された「高レベル固化体」が六ヶ所村の貯蔵施設にたまり続けている。
 さらに、六ヶ所再処理工場の本格稼働が始まると「高レベル固化体」や大量の「放射性廃棄物」が発生する。
 「そばに立つと数秒で死亡する」といわれる「高レベルガラス固化体」がどんどんとその数を増やしながら今、六ヶ所村の「施設」に貯蔵されつつあるのだ。

 「高レベルガラス固化体」以外の廃棄物は全て低レベルと分類して、国はこれを危険度により更に次の6段階に分類している。

1.処分法が未定の超ウラン廃棄物 
2.50m以深に埋め数百年間管理する高β・γ廃棄物 
3.地下10mほど掘りコンクリートピットにドラム缶のまま埋め3~400年間管理する廃棄物 
4.産廃管理型処分により50年間管理する廃棄物 
5.地面に直接埋め50年間管理する素堀処分廃棄物 
6.放射能がないものとしてリサイクルもしくは産廃処分するクリアランス廃棄物

 低レベル放射性廃棄物処分計画は、医療や研究所からの廃棄物と記載されているが、実は研究用の原子炉や核燃料廃棄物が約8割を占めているのである。昨年の初め頃、鰺ヶ沢町で、この「地」の候補に名乗りを上げたが、「低レベル」とは名称ばかりで、その「実体」は何百年も隔離し続けなければいけない危険な「放射性廃棄物」なのである。

 国は、これらの機関から発生する「3.地下10mほど掘りコンクリートピットにドラム缶のまま埋め300~400年間管理する廃棄物」は2050年頃までに約18万本と予想している。

ジンチョウゲ科の落葉小低木、ナニワズ「難波津」の花 / 原子力発電所と地球温暖化(9)

2008-03-21 06:18:50 | Weblog
 3月は「月」でなく「三月という季節」だとある俳人が言っている。3月は多くの意味を持った月だ。今年の3月は地球温暖化の兆しが顕著である。
 岩木山の積雪も昨年より2m少なく、例年よりも3mも少ない場所がある。雪が少なく温暖な日々が続いて、この分だと桜の「休眠打破」も早まるだろう。
 一日の平均気温が5℃から9℃、これが桜の目を醒まさせる気温で、これを「休眠打破」と言う。昨日の朝の外気温は氷点下3℃で、庭には霜柱が立っていた。明け方の放射冷却が強かったのであろう。しかし、日中は13℃以上まで上がっていたから、この分だと弘前公園の桜の開花も早くなると思われる。
 今月の15日に岩木山に登った。今年になってから六回目の岩木山登山だ。マンサク(万作)の花が既に満開だった。
 岩木山では「花」の季節が始まったのだ。ただ、万作が咲いても、雪解け水が少なくて、夏場に「稲作が干ばつ」に遭い「豊年満作(万作)」とはならないのではないかと心配だ。
 花の季節が始まったこともあるので「本日」からの「写真」は「岩木山に咲く花」を掲載することにする。ただし、特別な記事のある場合は、その記事に関した写真を掲示したい。

(今日の花は「ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属」で落葉小低木のナニワズ「難波津」だ。
 福井県・福島県以北に分布するといわれているが、岩木山では余り見られない花である。別名をオニシバリ、ナツボウズという。
 5月の初め頃である。その日は残雪を辿って、登山道から逸れた山麓の落葉樹林の中を歩いていた。ところどころ雪が消えて歩きづらい。そのような場所ほど春の日射しが明るく射し込んでいた。風は山風で山麓上部から吹き降りてきていた。
 ふと、鼻を掠める芳香。秋の大和路で、彼岸の頃どこからともなく、いい香りが漂ってきた。ああ、あの「キンモクセイ(金木犀)」の香りに似ているなあ」と思った。
 だが待てよ、今は春だし、場所は岩木山だ。そんなものがあるはずもないだろう、と考えて歩みを進めると、目の前に「黄色い」小花の群れが現れた。それは枝先の葉腋に直径6mmほどの花を十個前後つけている。茎の高さは20cmほどだろうか。花弁に見えるのは筒状の萼で、この先端が4個に裂けている。
 芳香はますます強くなった。あっ、この香りは庭にあるジンチョウゲだ。いや違う、花の色が違う。それはジンチョウゲの仲間のナニワズだった。
 初めての出会いであった。ものの本によると「群生地などを歩くと、足もとから甘くていい香りが立ちのぼって来る」そうだ。だが、「有毒」なのでほどほどにしておこう。 
 和名「ナニワズ」の由来ははっきりしない。 分布域から、「難波」とは関係なさそうだ。謎めいている。
 だが、古今集仮名序の「難波津に咲くや此の花冬ごもり今を春べと咲くや此の花」(難波津に、咲いたよこの花が、冬の間は籠っていて、今はもう春になったというわけで、咲いたよこの花が)に思いを致すと、何だか謎が解けそうである。この歌は、その昔、手習いの初歩の手本に用いられ、その上、百人一首で最初に詠われるため、古くから人々に知られていた。
 私はこの一首を知っていた。だから、この花との初めての出会いで和名の謎解きが出来たような気分になった。
 まさに、ナニワズは「今を春べ」と咲いているように見えたのだ。残雪の消えたところに鮮やかな黄金の花を見た時、ついつい、「難波津に咲くや」の一首が頭に思い浮かんだのである。…そうか、このようにして、「難波津」がこの花の和名になったのか。…
結構多くの人に愛でられている花らしい。「先がけて咲くかな春にナツボウズ」「難波津の緑群れなす春木立」という俳句もある。

        ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その9) ■■

 昨日も少し触れたが「国内での原発事故や核燃再処理施設」での事故や「放射能汚染」につながる事故は枚挙に暇がない。
 各事業所や施設が、これまで隠してきたことも沢山あった。何故隠すのか。それは最初から「国民にウソをついて、それがばれることを恐れる」からであろう。このような姿勢の根底には「自分たちの利益」のことしかないのだ。住民や国民が不在ということだ。

 次に1.の「放射能汚染」について、これからどうなるかを考えてみよう。
   
 原子力産業側の人々は、「排出・廃棄物」には気体や液体があり、これらはフィルターを通して大気や海洋に放出されていて、「自然界にある放射能程度の物質」が放出されるので安全と言うが、問題は放射能汚染場所が「原子力関連施設」付近だけではないということである。
 目に見えない自然界にある放射能にプラスされて「安全と言われる大気中や海洋に放出された放射線物質」が、長い年月の間に蓄積された場合は、どうなるのか。これが問題なのである。

※安全と言われる大気中や海洋に放出された放射線物質が、長い年月の間に環境ホルモンになる※

          ●環境ホルモンについて●

 環境ホルモンとは、「環境中にあって、口や鼻、肌などから体内に侵入し、体内で分泌されるホルモンと同じように働くなどして、その正常な作用を妨げる人工化学物質のこと。学術名を「外因性内分泌撹乱化学物質」を言う。現在70種類がリストアップされている。
 国立環境研究所の研究では、日本の沿岸各地で普通に見られる巻貝・イボニシに環境ホルモンによる異常が見られることを明らかにしている。
 その異常とはメスにオスの生殖器官(ペニス)があったり、輸卵管の出口を輸精管がふさぎ、産卵できなくなっていることなどだという。
 近年、国内の川でも精巣が異常なオスのコイが見つかったり、人の男性も精子数が減少しているという。
 使用済み燃料(発電後のウラン)は再処理や廃棄のため、道路や海を通って、各発電所から再処理工場や海外へと運ばれている。その途中で放射能漏れが起こる可能性もあり得る。そして、私たちが口にする食べ物に含まれる可能性もあるのだ。

 次は2.の「ウラン自体が数10年で枯渇する。」について考察する。

 ウランは枯渇性の「資源」であり、使えばなくなるものだ。今世紀中には枯渇すると言われている。原子力発電によって出された廃棄物は、その「放射能」が人体に安全になるには、数万年かかるそうだ。
 ところで、「原子力発電」によって大量の電気を得られるのは、約1世紀ほどの数世代の人々でしかない。この面倒な「廃棄物」とその「放射能」ゴミは数万年間、数千から数百世代の人々に押し付けられることになるのである。(明日に続く。)

無風・森林限界が「墨絵の森」の出口 / 原子力発電所と地球温暖化(8)

2008-03-20 06:15:40 | Weblog
(今日の写真は『無風・森林限界が「墨絵の森」の出口』である。とうとう森林を過ぎた。不思議なことに次第に明るさが増していた。普通は深林限界に達すると「ホワイトアウト」がきつくなり、視界が悪くなるものだ。
 とにかく登りはじめからひたすら雪は降り続いていた。暇なく、降り方も同じで、しかも量的にも不変で降り続いている。
 カメラに装てんしているのはカラーフィルム。ファインダーから覗かれる被写体はすべて「墨絵」。「ホワイトアウトで視界3m」という世界は標高1300m以上ではしばしば体験する。そんな時カメラの出番はない。カラーフィルムのなかった時代が妙に懐かしく、ふと私は白黒世界にしか見えないという犬のことを思った。ようやく私は解放されて「ホワイトアウト」な世界にたどりついた。
 森林限界に達したのである。1月 岩木山砥上沢源頭部)

       ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その8) ■■

      ※原子力発電のメリットは CO2の排出が少ないことだけ※
 しかし、「原子力発電」はCO2よりももっと悪い「放射性廃棄汚染物質」を永久に残すのである。
 最近やたらに喧伝されている、この「 CO2の排出が少ない」というメリットも地球温暖化が問題となってきた「地球温暖化防止の元年」である今年になって急遽「付加」されたものである。
 以前から主張されていた「メリット」は、石油や石炭に依存しない発電であるということだけなのだ。
 地球温暖化は、化石燃料を燃やすことで、大気中に大量に排出・廃棄された二酸化炭素(CO2)が、未来の世代や地球に悪影響を及ぼすことが分かってきたから、問題になっていて、ようやく近年になって対策が考えられているのだ。
 「原子力発電」も、未来の世代に悪影響を及ぼすこと(後述するが)は、はっきりしている。
 問題は、「二酸化炭素(CO2)は現在の技術や努力で減らすことが出来る」が、「放射性廃棄物は減らすことが出来ない」ということであり、火力発電と同質でとらえ、比較すること自体が間違いなのである。
 だから、「地球温暖化対策のための発電」という意味だけを「主張」すると「原子力発電」は「火力発電」よりいいのである。
 しかし、「将来にゴミを残さない持続可能な発電」という意味でとらえると、「原子力発電」は「将来にゴミを残す」ということで間違いだということになる。

 ●政府や保守政党、それに電力会社のいう「原子力発電のメリット」は…
1.石油・石炭・LNGなどの化石燃料に依存しない。
2.石油や石炭、LNGなどは政治情勢の悪い中東からの輸入に依存しているため、リスクが高い。
3.ウランは政情の安定した国からの輸入であり、安定供給性がある。
4.原子力発電のコストのうち、原材料コストが占める割合が低く、ウランが高騰しても、電気代への影響が小さい。
5.発電時に温室効果ガスであるCO2の排出がほとんどない。
6.使用済み燃料をリサイクルできる。

 だが、客観的に、だれの目にも「メリット」と見えるのは1.と5.だけだろう。
 世界の政情は常に変化するものだ。石油などの供給先を分散することは出来る。原材料コストが低くても、「原発」に関わる間接的なコスト、将来にかかるコストは非常に大きいはずだ。
 「使用済み燃料のリサイクル」に関しては「試行期間」から問題が多発、未解決である。

●政府や保守政党、それに電力会社などが触れたがらない「原子力発電のデメリット」は…
1.「発電」処理の前過程と後過程から排出される「放射能」汚染がある。
2.ウラン自体が数10年で枯渇する。
3.排出・廃棄物質の取扱が非常に困難である。
4.調査費、建設費、運用費、さらに、廃棄物処理、手当、廃炉、揚水発電所建設などの関連費用が非常に多額である。
5.軍事転用の可能性がある。(アメリカなどは北朝鮮のこの「軍事転用」を危惧して、6ヶ国協議ではこちらに傾注して、日本が主張する「拉致問題」に消極的である。)

 まず、1.の「放射能汚染」や「事故」について、これまでの歴史を少し辿ってみよう。

・私たち日本人は世界で最初に「原子爆弾」を浴びた国民である。1945年8月、原子爆弾は広島と長崎に投下された。即死した人、助かったが間もなく苦しみながら死んでいった人、時間を追うごとに「放射能汚染」が顕在化して亡くなっていく人は増える一方である。被爆し、「放射能」に身体を蝕まれながら生き抜いてきた人たちも、今や高齢となっている。政府はそのような「人たち」にも救済の手をさしのべようとはしない。
 日本に「無条件降伏」を促すための「原爆投下」だと言われているが、「アメリカ」の非人道的な行為に怒りを持ちながらも、「戦争を早めに止める」という決定をしなかった「狭小で無策」な日本政府の対応に、より強い憤りを持つのだ。もっと早く、あと1週間早く「無条件降伏」を受け入れていれば「広島、長崎」に原爆は投下されなかった。
 その責任を政府は国民に対して取るべきだろう。

・アメリカは1946年の実験を皮切りに、ビキニ環礁とエニウェトク島では13年間に渡って計66回もの核実験を行った。1954年3月1日には人類史上初の水爆実験がビキニ環礁で行われた。推定15メガトンと言われている。
 この時、日本の遠洋マグロ漁船、第五福竜丸が水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた。無線長の久保山愛吉さんがこの半年後の9月23日に血清肝炎で死亡した。  

・1979年3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルバニア州スリーマイル島の原発で起こった重大な原子力事故。

・チェルノブイリ原発事故、1986年4月26日未明、ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所(原発)の4号炉で、大きな爆発事故が起こる。

・東京電力・柏崎刈羽原発1号炉で1992年に起きた原子炉緊急停止事故。
福島第二1号炉でも1992年2月28日、定期検査に向けて原子炉を停止する際に事故発生。

・東海村JCO臨界事故、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村でJCO(株式会社ジェー・シー・オー)(住友金属鉱山の子会社)の核燃料加工施設が起こした臨界事故。日本に於いて初めて「臨界」被曝による死者2名を出した。(明日に続く。)

青鈍色の中で黒く輝く黎明 / 鯵ケ沢プリンスホテル 4月改名 / 原子力発電所と地球温暖化(その7)

2008-03-19 06:03:25 | Weblog
(今日の写真は青鈍色の中で黒く輝く黎明だ。太陽がこの高さの稜線上に顔を出すのだから時間は午前10時をとうに回っている。だが、太陽が山稜から昇らなければ、視界が殆ど利かない「ホワイトアウト」という白い闇の中にいて、何も見えない状態なのである。
 
 この時間である。山麓はきっと広々とした範囲で明るくなっているのだろう。上空から明るくなるはずなのだが、不思議なことに、高みにあるこの場所、雪稜の陰は暗い。
 その暗さは白いはずの雪面を蒼く染めて、ダケカンバに取りついた多くの「海老のしっぽ」を深海の起伏のように、鋭い突起を交えた凹凸のように育てていた。
 それはまるで、冷たい極地の、まるで青鈍色の海山のようだ。その頂から柔らかい太陽が頭を出し、青鈍色の黎明がはじまった。1月 岩木山鳥の海噴火口西面 )
 

     ●● 鰺ヶ沢プリンスホテル 4月に改名…東奥日報 ●●

 鯵ケ沢町の鰺ヶ沢プリンスホテルは、4月18日から「ナクア白神ホテル&リゾート」に名称を変えて営業する。2007年3月に経営再建中の西武グループから「ウインターガーデン・リゾーツ」へと経営が移り、プリンスホテルの商標使用期限が今年5月までとなっているためで、現在の名称での営業は4月6日までとなる。
4月下旬オープン予定の鰺ヶ沢高原ゴルフ場も「ナクア白神ゴルフコース」に変更し、高原コースを「トーナメントコース」、プリンスコースを「リゾートコース」とする。
鰺ヶ沢スキー場は、春スキー営業期間が終わるまでは現名称のままとし、その後は「ナクア白神スキーリゾート」とする。
 ホテル、ゴルフ場、スキー場の運営受託会社であるナクアホテル&リゾーツマネジメント(本社東京)によると、ナクア(Naqua)は「Nature(自然)」と「 Quality(品質)」を合わせた造語。
鰺ヶ沢プリンスホテルの高橋浩康総支配人は「アクア(水)のような透明感をイメージしている。さらにサービスを向上できるようにしたい」と話している。(以上東奥日報3月12日付)

 この記事に対して葛西幹事から「次のような内容」のメールが届いたので紹介する。

『今年の冬期の営業では、夜間は西に降りるコースだけの照明となり、以前のように三角に灯がともることも無くなった。
 平成12年に旧鰺ケ沢スキー場内のモーグルエリア(第2ロマンスリフト、ツイスターコース及びコザックコース)として拡張された経緯を知っている者としては何とも空しいことである。
 このコースは、岩木山の豊かな自然を地元住民の反対を黙殺する形で拡張されたコースであり、地質的な安全性も明確にされていない。私たちはこの拡張された部分の森林への復元を強く願っている。
 株式会社コクドから経営を引き継いだ新会社「ナクア白神ホテル&リゾート」が「森林の復原」に取り組んでくれると、「白神山地」と野鳥や動物たちが行き来する「緑の回廊」を保護する「白神」という名を戴く会社として、社会的にも高く評価されるのではないかと考えてしまった。
 もちろん、その時は、本会としても森林復原への助言・協力を惜しまないことは言うまでもない。
 出来るならば、本会としても、「森林の復元」を主題にした懇談・意見交換を「ナクア白神ホテル&リゾート」とする機会を持つべきではないだろうか。』

        ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その7) ■■

 これまで見たように「確約(書)」には…
 『私たちの「ふるさと青森県」は豊かで美しい自然に恵まれ、「北のまほろば」と言われ、縄文の時代から先人のたくましい努力により、自然と調和した「青い森」の文化と歴史を創り上げてきた。私たちは、先人から受け継いだ「ふるさと青森県」を美しく豊かな青森県として次世代に引き継ぐ責務を果たさなければならない。』
 …という「条例案」に見られる「自然と調和した文化と歴史やふるさと青森県を美しく豊かな青森県として次世代に引き継ぐ」という思想も責務もまったく見られないのである。
 そこにあるものは、現在世代が求める貨幣的な価値だけである。もちろん我が国は資本主義の国であるから「貨幣経済としての価値」を求めるのは当然であるが、民主的な行政というものは、「この価値」ともっと別な「自然的な価値や心情的な価値」との対等的な融和を求めるべきではないだろうか。
  一つの価値にだけ偏ると何事も硬直化するものである。県のトップである知事に求められる資質は「柔軟性」である。確かにマスコミ等の映像や音声から受ける知事の感触は「柔軟」で「人当たりイメージ」は悪くはないが、「確約(書)」に拘る姿勢には「柔軟性」はない。
 六ヶ所村、東通村、大間町、それに加えて青森県、「条例案」に反対した議員、さらに、それら議員たちに追随して、支持する有権者たちは、現在世代の貨幣価値の満足のために、未来世代の満足を犠牲にしている。
 現在世代は未来永劫に続いたであろう漁場という資源を、「換金」したのだ。金は使うとなくなる。
 漁場は育てると、いつまでもその場所の住民のみならず多くの人たちに「恵み」を与え続けるものだろう。

 「札びら」で頬を撫でられてありがたがり、「札束」を積まれて歓喜して、加えてその「札束」の分取り合戦までしている体たらくである。ここにはまったく未来世代を思いやる姿勢や愛情はない。
 すばらしい漁場は「再処理施設から」「原子力発電所から」出る「放射性物質」によって汚染されて「死」の海となる。そこで獲った魚介類を「そこに住む人々」が食べられなくなるのだ。
 …有明の海、水俣の人々の苦しみから何も学べないのでは「人間の尊厳」など、とうてい理解できないと言われても仕方がないだろう。
「札びら」で頬を撫でられて、ありがたがり「札束」を積まれて歓喜する現在世代は哀れであり、情けない。そして、その末裔の末路はもっと悲しく悲惨だ。
 何故に、国や行政は国民にこのような惨い選択をさせるのか。(この稿は明日に続く)

雪稜を焦がして日が昇る / 陸奥新報「環境青森のいま」に本会が掲載 / 原子力発電所と温暖化(6)

2008-03-18 06:58:00 | Weblog
 (今日の写真は「雲海と青空、右の頂点にが太陽がいる。その光が遮断された雪稜は黒く輝く」という色彩に満ちあふれたものだ。雪稜を焦がして日が昇ると題してみようか…。 昨晩、テントは激風に苛まれたが、朝方になるに従いようやく収まりかけてきた。テントを支えるグラスファイバーのポールは風下に極端な楕円を描くほどに曲がり、ゴアテックスの外張りは雪面を掘り起こすかのようにばたついた。
 それが朝まで続いたのだ。だが、ここまで登って来たら、それも今は沈静し、濃霧の中は静寂であった。そして、一瞬、その濃霧が微かに消えた。
 明るさに釣られて後ろを見ると、「背後の雪稜を焦がして」太陽が昇ってきていた。
太陽の道連れ、「青空」の下部は雄大な雲海だ。
 一晩荒れた風のために、眠りの浅く疲れた目には、この一瞬の青空が一滴の清涼感ある点眼薬となった。すっきりした目には山頂が大きく映っていた。
 …今日は登らせて貰えるだろう。2月 鳥海山南稜の下部)

  ●● 陸奥新報特集・連載「環境・青森のいま」 に本会のことが掲載される ●●

 陸奥新報紙が特集として連載している「環境・青森のいま」第二部・さまざまな取り組み(5)は、岩木山を考える会本会の特集であった。掲載日は3月13日で、掲載ページは第1面である。
 実は3月5日に、2時間に渡る取材があった。13日の特集「環境・青森のいま」第二部・さまざまな取り組み(5)「岩木山を考える会」を読んで、「話したことと記事が同じでないこと」「私が大事だと考えていることが取り上げられないこと」が多かったことを痛感した。
 私が提供した写真は、本会の主要な社会に向けての業務である「自然観察会」のものだったが、掲載されたものは陸奥新報社が取材した時のものを使用した。
 特集記事中の写真は「岩木山赤倉登山道不法整備」調査時のものだ。現地調査には、本会の他に、津軽森林管理署、県自然保護課が参加し、東奥日報、陸奥新報の記者が同行取材した。

 この特集記事には「本会の日常的な諸活動」が集約的に報じられているところもある。よって、本会の活動を理解するには最適な部分もある。総じては、まだ足りないことは多いが、どうぞ目をとおしてほしいものだ。
 管理人・葛西さんが閲覧出来るようにしてくれたのだ。次の順序と操作でこのページを開くことが出来る。
「とびらページ」の左段上にある「●新着更新Blog(RSS版)」をクリックする。次のページが開いたら「陸奥新報特集 環境・青森のいま に本会が掲載」をクリックする。次のページが開いたら「http://www.iwakisan.jp/membership/080313.html」をクリックする。次に開くページに「解説文」と3月13日の「陸奥新報」の特集記事「切り抜き」が掲載されている。新聞記事部分を拡大したい人は記事画像をクリックする。
 または、陸奥新報のホームページ「http://www.mutusinpou.co.jp/index.php」を開いて、左欄上部の「環境・青森のいま」第二部(完結)をクリックすると、第二部の最後(5)に掲載されている。

      ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その6) ■■

  昨日、この確約(書)には『「青森県の自然を保護していこうとする思想」はまったくない。』と書いた。その中身は「高レベル放射性廃棄物の最終処分地にしないと国が確約した」というものである。国というが、それは知事と大臣や長官という「個人同士」約束に過ぎない。
 しかし、国が確約した二つの文書は、本県が危険な核のゴミの永久的捨て場になる心配を取り除く支えであり、信用できる「お墨付き」であると多くの県民は受け止めてきた。
 三村知事も、「条例の制定は必要ない」と明言し、その根拠として「国の確約の存在」をあげて、「確約書は極めて重い」という認識を示していた。

 ところが、確約書を交わした当時の県や科学技術庁(現・文部科学省)が、確約書は「将来にわたって本県を最終処分地にしない、という担保にはならない」と言ったというのだ。
 知事は最終処分地にしないのは「絶対的な原則」「最大の約束」と公言してきたし、「確約」は生きていることを、国に何度も念押ししてきたとも述べている。

 ●「国の最終処分地にはしないという確約」は「担保にはならない」…確約書の効力は?

 確約書は、北村県政終盤の1994年と木村県政初期の翌95年、国が県の要請にこたえる形で、当時の田中真紀子科技庁長官名で2度示された。
 ところが、第一の確約書は、六ケ所村がなし崩し的に最終処分地にされかねないという県民の不安の広がりも受けた「翌年の知事選対策の文書」で、「その場逃れ」、「議論棚上げ用だった」という。
 「知事の了承なくして本県を最終処分地にしない」という第二の確約書も、「本県を絶対に最終処分地にしない」と国が言っているわけでもないし、その後の「知事の姿勢を縛るもの」でもないという。
 歴代知事たちが言ってきた「確約書」は、当初から「知事選対策の文書」で、「その場逃れ」、「議会における最終処分地にしないという議論を棚上げにするもの」で、総じて玉虫色であったのである。
 この「確約書」の不確かさ、不十分さ、危うさに対して、県民は、知事の言う「重さ」への疑心だけでなく、県や議会に不信感を持っていることは明らかである。

 東奥日報の記事によれば「科技庁の元幹部は、本県を最終処分地にしないと将来の姿を拘束したい、保証したいのなら県の場合は県議会の議決、国は法制化が必要と指摘する。」とあった。

 ● なぜ、不確で、不十分で、危うい「確約(書)」にのみ重きを置いて、知事はじめ自民党、民主党、公明党議員が「条例」制定に反対するのか。

 どうして、この「砂上の楼閣」のような「確約(書)」にのみ重きを置いて、知事はじめ自民党、民主党、公明党議員が「条例」制定に反対したのだろう。

 その背景には、第一に、「処分場を誘致した自治体には国から巨額のカネが入るということがある。誘致に伴う大きなメリットもある」ということがある。
 国は、処分場の適地かどうかの調査だけで、地元に6年間で90億円も出すという。処分事業そのものによる巨額の税収もあるそうだ。
 処分場選定を担う原子力発電環境整備機構は、「建設と操業による経済効果が60年間で1兆6500億円。立地した市町村には60年間で1600億円という固定資産税が入る」と試算している。
 現に、県内には、処分場誘致に前向きともとれる動きが出ているのである。
 東通村の越善村長は、処分場問題を「議論すべきだ」との考えを表明。また、高レベル廃棄物を30~50年間、貯蔵する施設をすでに抱えている六ケ所村でも、建設業者などの間に誘致待望論があるという。「放射能が弱まった後、よそに持っていくより、六ケ所村で地域振興してほしい」という意見すらあるという。

 背景には、第二として「誘致の選択肢を残しておきたい」との思惑があるのである。野党3会派が提出した条例案は「知事の了承なくして」といった条件を付けず、処分場拒否を明快に宣言しているものである。
 そんな条例をつくれば、将来の選択肢が狭まりかねない。知事はじめ自民党、民主党、公明党議員などが条例案に反対する理由は、ここにもある。「将来、誘致や最終処分地を選択するために、条例で拒否を宣言すべきではない」という考えからだ。
(この稿は明日に続く。)

動物たちはこの山と厳寒という自然を共有している仲間だ / 原子力発電所と地球温暖化(その5)

2008-03-17 07:24:15 | Weblog
(今日の写真は岩木山赤倉登山道の風衝地で出会ったニホンカモシカだ。動物たちはこの山と厳寒という自然を共有している仲間だと私には思える。
 これまでに春夏秋冬をとおして、岩木山で出会った動物たちは多い。ニホンカモシカ、ニホンツキノワグマ、ホンドキツネ、ホンドタヌキ、アナグマ、オコジョ、テン、イタチ、トウホクノウサギ、ニホンザル、ホンドリスなどだ。
 この中で冬場によく出会えるのが「」と「」である。なかなか出会えないのが、アカギツネの亜種で体長は55~75cmほどで、森林や草原に棲み繁殖期以外は単独で生活しネズミ類や鳥類を捕食しているホンドキツネである。これには、本当に滅多に出会えない。 その機会はまだ2回しかない。最初は真冬、扇ノ金目山を越えて標高1000mあたりで後ろに何か気配を感じて振り返って見た。
 褐色の生き物が次第に近づいて来る。腹ばいになりカメラを構えて「近く」に現れるのを待つ。キツネだった。その瞬間キツネは左の藪に飛び込んだ。
 出来るだけ、大きく手元に引き寄せてから写そうなどと考えることが間違いなのだ。見たら先ず写す。何の躊躇いもなく写す。これが大事なのだ。
 少なくとも「獣」が人の思惑通りに動いてくれると考えることは、どこかに人の思い上がりが存在するからだ。

 その日も単独だった。明るくとても穏やかな「厳寒の登山」をしていた。
朝の放射冷却の名残だろうか、標高1000mを超えた辺りでは風は弱いものの体感温度は氷点下20度を切っていた。
 突然、私の視線の中で、横合いから上部に向かってトントンと駈け出したものがいた。10mほど走って停まった。そして、こちらを向いて私を見ているのだ。
 この山と厳寒という自然を共有している仲間という実感が強まった。私を見つめるカモシカの柔和な目がいっそう愛おしいものに思え、胸がじーんと熱くなった。
 ニホンカモシカは逃げ出すのだが、それは「一定の距離を保つ範囲」であって、決して視界の彼方に去ることはない。私たちもそれを学ばなければいけない。これは動物と付き合うための基本的な約束事である。2月 赤倉道風衝地)


        ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その5) ■■

 ■いわゆる歴代知事の「確約書」とは何か…

 昨日掲示した「条例案」、正式名称は「青森県を高レベル放射性廃棄物最終処分地としないことを宣言する条例案」であり、「私たちは、県民の不安を解消し、後世への責務を果たすためにも、青森県を高レベル放射性廃棄物最終処分地としないことを宣言する」との極めて主体的な内容である。
 ところが、知事はじめ、与党各会派が拘り、主張する「確約」(または確約書)は受け身的で、国家という絶対権力に阿(おも)ね、へつらうという色彩と「危険で扱いが厄介な核のゴミである高レベル放射性廃棄物の最終処分問題の行方は、県民の関心が特に高い。本県が、なし崩し的に最終処分地にされる不安が消えていない」という事実的な情勢を「とりあえず躱して」おくという姿勢が濃厚である。
少なくとも、「条例案」に盛られている「熱いふるさと志向」や「未来世代への労り」、「青森県の自然を保護していこうとする思想」はまったくない。

 この「確約書」の経緯を次に掲げる。

 ●1985年4月9日、北村県知事は、再処理工場から発生する高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)の最終処分場については、本県で受け入れる考えが全くないことを証明した。
 ●1994年、北村知事が科学技術庁に要請し、「本県は知事の意向に反しては最終処分地に選定されない」旨の文書を提出させた。
 ●1994年11月19日、田中真紀子科学技術庁長官から、北村県知事に「処分予定地の選定は、地元の了承なしに行われることはない」旨の回答文書が提出された。(1994年12月26日、高レベル貯蔵施設安全協定締結)
 ●1995年4月25日、田中真紀子科学技術庁長官から、木村県知事に、「知事の了承なくして青森県を最終処分地にしない」旨の回答文書が提出された。(同年4月26日にフランスからの高レベル放射性廃棄物が六ケ所村に搬入、貯蔵が始まった。)
 ●1998年3月13日、橋本総理大臣は「最終処分については、知事の要請に応えるよう政府一体としての一層の取り組みの強化を図る」旨の(関係大臣等四者による合意)文書を木村知事と確認した。(1998年11月22日、再処理工場ウラン試験安全協定締結)
 ところが、県秘書課は、98年の“第三の文書”を木村氏が上京した際の報告書(復命書)の一部として扱い、復命書の保存期間と定められた3年が過ぎたという理由で廃棄した。

 ●2000年5月31日、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」が成立し、処分地選定については知事及び市町村長の意見を十分尊重しなければならないことが規定された。
 ●2002年4月から、最終処分地選定作業を開始したにもかかわらず、誘致検討の声は上がっても当該地域住民及び当該県知事等から反対の意見が表明され、候補地は1件もなく、国の選定スケジュールが数年延期される方針が2008年1月決まった。(明日に続く。)