岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「コケモモ」の果実に寄せる想い / カメラを持たない登山 (2)

2010-07-31 05:02:05 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科スノキ属の常緑小低木「コケモモ(苔桃)」の果実だ。これは、岩木山で写したものだ。
 「コケモモ(苔桃)」という名前の由来は、この果実を見なければ理解が出来ない。この丸くて赤い実を「モモ(桃)」に見立てているのだ。それでは「コケ(苔)」とは何を見立てたものだろうか。これは、丈や花などの全体が、非常に小さな姿であることによる。 このようなカテゴリーに属する由来を持つ植物には、春咲の「コケリンドウ(苔竜胆)」がある。
 北海道、本州の中部以北、それに四国に分布している。亜高山帯から高山帯のハイマツの下、岩陰などに見られる高さ10㎝ほどの小低木で、葉は楕円形で、質が厚く光沢がある。
 花期は6~8月で、裏岩手縦走時には雪消えの遅い雪田近くでは、まだ花が咲いていた。釣鐘型の花で、色は白いものから赤みの強いものまでと変化があるし、その大きさにも変化がある。
 8月を過ぎると直径7 ㎜ほどの真っ赤な実になり、やがて秋になると黒みを帯びて、完熟する。その実は甘酸っぱくて美味しいのだ。今日の写真の果実はまだ食べられない。酸っぱいだけで甘みに欠ける。)

◇◇「コケモモ」の果実に寄せる想い ◇◇

 今回の「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山中に出会った草木の果実で、一番多かったのが「コケモモ」であった。ただ、今になって記憶を辿ると、焼走り登山口から岩手山山頂までは、見えなかったような気がするのだ。
 そのようなことがあっても別におかしいことではない。それぞれの植物は「生育」する土壌の質が決まっているからである。また、生育に適した「温度」というものもある。
 「コケモモ」は「土壌」が酸性の場所に生えるのだ。他の多くの「ツツジ科」の植物と同じように、酸性で貧栄養の場所で育つことは出来るが、「アルカリ性の土壌」では生育出来ないのである。
 また、「耐寒」性には特別、優れている。ある資料によるとマイナス40℃以下でも耐えることが出来るそうである。だが、その一方で、夏季に冷涼さに欠ける暑い場所では生育しにくい傾向があるのである。
 「コケモモ」は、小低木ではあるが広葉樹である。大体、このような寒冷な場所に生育する広葉樹は、秋になると「落葉」するものだ。だが、「コケモモ」は、冬になっても葉を落とさずつけたままである。
 晩冬、雪消えの始まる「風衝地」で、周囲の白い雪の中、この「緑の葉」と「赤黒くなった果実」は出会うものに鮮烈な印象を与えるものだ。それは、春間近という喜びに他ならない。

 「コケモモ」は、北海道では「フレップ」、北アメリカでは「マウンテン・クランベリー」と呼ばれ、生食やジャム、果実酒などに利用されて、人々に親しまれている。「コケモモ」は、いわゆる「…ベリー」と呼ばれるものの仲間なのだ。
 テレビショッピングに盛んに登場する健康食品の「ブルーベリーやビルベリー」は、この「コケモモ」のことだと思っていいだろう。
 「コケモモ」には、有機酸、ビタミンC、βカロテン、ビタミンB類、カリウム、カルシウム、マグネシウム、リンなどが含まれていると言われている。これだと、体にいいわけである。だが、コマーシャルには「果実」だけが登場する。これが不思議でならない。
 葉に関しての「薬効」がいっこうに出てこないのだ。「コケモモ」の葉には、アルブチンやメチルアルブチンなどの化学物質が含まれていて、これらは「尿路感染症」に効く「薬草」として昔から利用されてきたのである。
 何ということはない。日本にも「…ベリー」は生育しているのだし、「山」に出かけさえすれば採って食べることも出来るのだし、採ってきてジャムや果実酒を造ることも出来るのである。
 健康志向の人は「テレビショッピング」で買うよりは「山」に出かけるべきだろう。より健康になること請け合いである。ただ、採取はあくまでも「果実」だけにしておこう。
「コケモモ」と同じように果樹として利用されるスノキ属の植物には、「ブルーベリー、ビルベリー、ハックルベリー」などがある。
 日本では、「コケモモ」は北海道と本州中部以北に自生するが、北欧できわめて普通に見られものである。「スカンディナヴィア」の三国では、国民が「公有地から収穫すること」が許可されているそうで、それほど「コケモモ」が人々に親しまれ、北欧の「食文化」を形成しているのである。
 ところで、その「コケモモ」に関わる北欧の「食文化」だが、…
「コケモモ」の果実は非常に酸味が強い。そのため、通常は砂糖などで甘みを加えて調理し、ジャムやコンポート(砂糖煮)、ジュース、シロップなどとして食用にするそうだ。また、「コンポート」は肉料理の添え物とすることがあると言われている。

◇◇ カメラを持たない登山 (2)◇◇

(承前)…若い頃の私は、登山時にカメラを携行することはなかった。理由は2つだ。その1つは貧乏で「カメラ」を買うことが出来なかったことである。…
 その2つめは、当時の私にとって「カメラ」は登山行動上「邪魔」なものだったことである。
 山に登って「自然に親しみ、自然に癒される」という思いは確かに、高校生の頃まではあったが、大学生から社会人となるにつれて登山を「スポーツ」と捉えるようになり、その目標・目的は「いかに重い荷物を背負って、いかに短時間で山頂に達するか」になっていた。
 さらにそれは、エスカレートしていった。「いかに難しいルートを速く登るか」と言うことも加わった。
 岩木山の場合、最初は「百沢登山道」に固執した。それは、弘前からもっとも「行き易い」からであった。ポリタンに入った水くらいしか入っていないナップサックを背負い、駆け足状態で登る。もちろん、岩木山神社からである。靴は最初から「皮革製」だった。それ以来、40数年間「靴」は徹底して「皮革製」である。その当時の「革の靴」は重かった。片足2kgは越えていただろう。靴底には鉄の爪が埋め込まれていた。「ビブラム」の靴底が出来る前の話しだ。
 その出で立ちで、山頂まで2時間、回を重ねるうちに2時間を切るようになった。次第に1時間30分に近づいていった。
 仮に、「カメラ」を持っていたとしても、この状態では「写真」を撮ることは出来ないし、「カメラ」自体がただの荷重に過ぎないものだったのだ。(明日に続く)

「ノウゴウイチゴ」に想いを寄せる / カメラを持たない登山

2010-07-30 05:02:34 | Weblog
 (今日の写真は、バラ科オランダイチゴ属の多年草「ノウゴウイチゴ(能郷苺)」の果実である。「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山中、大深山荘の入り口前で見つけた。だが、今日の写真は「岩木山」で撮ったものだ。
 昨日の「ハクサンフウロ」ではないが、この「ノウゴウイチゴ」、どこの山にでもあると思われるのだが、本当にこの山荘前の草むらと登山道脇だけで赤い実をつけていたのである。それもかなりの群落であった。他のどこでも見かけることがなかったのである。
 何故なのかを考えてみたが、その理由はよく分からない。ただ、「主に本州の日本海側と北海道に分布する」とされていることに注目することは出来るだろう。岩手山は日本海側の山とは言えないのではないか、ということである。
 「ノウゴウイチゴ」とは妙な名前であるが、その由来は、発見地の「能郷」に因る。つまり、岐阜県の「能郷白山」で発見されたことからこの名がある。)

◇◇「ノウゴウイチゴ」に想いを寄せる ◇◇

 既に果実になっているものはたくさんあった。シラネアオイ、サンカヨウ、タケシマラン、マイヅルソウ、ユキザサ、ナナカマド、コケモモ、イワナシなどだが、もぎ取って食べられるものといえば、食べられないものも当然あるので、時季的な要因を含めて、この「ノウゴウイチゴ」しかなかった。
 「ノウゴウイチゴ」は本州、中国地方の伯耆大山以北から北海道に分布している。亜高山帯から高山帯の日当たりのいい草地、時には湿った草地、または林縁に生える。
 茎の高さは10~15cmと比較的短く、長い葉柄のある3出複葉が根生している。5月頃から、花茎を伸ばして、直径2cmほどの純白の花を咲かせ、花弁は多く7~8枚あるのが特徴である。
 果実は7月から8月にかけて熟し、「小振り」であるが、本当に美味しいのだ。栽培され市販されている「オランダイチゴ」に比べると、その大きさは約1cmと、かなり小粒であるが、香りや甘さは最高だろう。
 2、3粒一度に口に放り込んで食べると、甘い果汁が喉に染みわたり、疲れがとれるような気分になり、登山者にはなじみ深い「イチゴ」なのである。

 因みに、私たちが日常食べている「イチゴ」は、南米と北米原産の2種の「野生イチゴ」を交雑して生まれた8倍体種だ。だが、日本に自生していて、食べられる「ノウゴウイチゴ」や「シロバナノヘビイチゴ」は2倍体種で、ケーキの上に並べられるあの「イチゴ」に比べるとずっと小さい。
 私は17世紀や18世紀のヨーロッパ人の「ケーキ」を想った。もしも、今のように「ケーキ」に苺(イチゴ)を載せることをその頃からしていたとすれば、きっとこの小粒で小振りの「」のような実を載せていたのだろう。あるいは、秋に実をつける「木苺(キイチゴ)」の実を載せたのだろう…と。 

◇◇ カメラを持たない登山 ◇◇

 「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山は、私にとって、実に30年ぶりくらいの「カメラ」を携行しない登山となった。最近は「カメラ」を携行しなくとも「カメラ機能」のついた「携帯電話」を大概の人が持っているから、私もそれを持って、結構あれこれと撮影したのだろうと考える人もいるかも知れない。
 だが、自慢ではないが、私は「携帯電話」を持ったことがないし、これからも持つ気はまったくない。今では持たないことを「自慢」したいくらいである。
 「携帯電話」で、その機能性からの「便利」を振り回し、他人に迷惑をかけることがいやだからである。何せ、「便利」ということは「自分でするべきことを他人にして貰うこと」で成り立つことである。また、逆に自分が他人の「便利」に振り回されることも嫌いだからである。

 滝壺に落ちた登山者を救助しようとしたヘリコプターが墜落、5人が死亡した事件に私は「携帯電話」の持つ「おぞましさ」を見ている。
 まず、一番問題にするべきは登山者たちの行動である。その日の天気予報は「大雨、落雷」であった。そのような天気の時に「滝壺」のあるような沢登りはするべきではないのだ。また、「滝壺」に落ちるということ自体、ザイルをつけないフリーの登りでも初心者でもない限りは、あり得ないことである。さらに、何故、ザイルをつけないで登らせたのか。当然、ザイルはフィックスしようがしまいが、つけるべきであったのだ。
 さらに、「滝壺」に落ちたならば「沈まない」で浮く訓練も事前にしておくことが沢登りの鉄則だ。それに、「落ちた者」の救出もそのパーティでするのが当然のことなのである。
 当然「パーティ」として、自分たちがしなければいけないことをしないで、それを「ヘリコプター」による吊り上げに任せてしまったその結果が5人の「墜落死」である。「便利」に頼った挙げ句の果てが、他人を死に追いやったのである。このパーティの社会的な責任は、上部団体である日本勤労者山岳連盟を含めて厳しく追及されるべきである。

 若い頃の私は、登山時にカメラを携行することはなかった。理由は2つだ。その1つは貧乏で「カメラ」を買うことが出来なかったことである。
 当時、カメラというとよほどの趣味人か、金に任せて文化人気取りで、己のステータスシンボルとしての自己満足を手に入れる富裕層でなければ持っていなかった。
 だから、一夏に60回も岩木山に登っていた大学時代はもちろん、カメラはなかった。岩木山に登ったのも「生活費」を浮かせるという側面もあった。
 山に入っていると「金」がかからない。里(街)にいるとすべてにおいて「金」がかかるのである。自炊をしても街ではガス代がかかる。山では枯れ木を拾って火をたき、飯ごうで飯を炊く。ただである。水道代、電気代も不要だ。
 大学を卒業して、高校の教員になったが、「初任給」は18.000円ほどである。カメラは高額であった。給料1ヶ月分ではとても買える代物ではなかった。だから、その後の登山にもカメラの携行はなかった。(明日に続く)

夏山縦走は水を求める、水は「もてなしの心」(2)

2010-07-29 05:11:01 | Weblog
 (今日の写真は、フウロソウ科フウロソウ属の多年草、「エゾフウロ(蝦夷風露)」である。岩木山の山麓、長平登山道の下部で撮ったものだ。
 北海道と東北北部に生える。高山植物である「ハクサンフウロ(白山風露)」の変種だ。「ハクサンフウロ」に比べて葉の切れ込み方が浅く、萼片に密に開出毛があるのが特徴だ。 「ハクサンフウロ」の仲間は葉の形や花の色、毛の状態などに変異が多く、見分けることが非常に難しい。
 実は「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山中、大松倉山の手前で出会った花が、これによく似ていたのだ。焼走り口から岩手山山頂、不動平から三ツ石山、そして、裏岩手八幡平口までという長い登山と縦走で、「フウロソウ属」の花に出会ったのは、この場所が初めてであり、最後であった。
 つまり、「大松倉山の手前」でたった1回だけ出会ったということであり、その数も多くはなかった。脳裏に残っている花影があまりに可憐で美しかったので、「似た花」である「エジフウロ」に登場願ったというわけである。
 私は、「ハクサンフウロ」だろうと思ったが、は岩木山には自生していないので「確信」は極めて乏しかった。写真に撮って「後」で確認するにしても、カメラを持っていないのである。
 花名の由来は「北海道や本州北部に生えるフウロソウという意味」による。牧野富太郎博士によると、風露草は伊吹風露のことである。)

◇◇ 夏山縦走は水を求める、水は「もてなしの心」(2)◇◇

 (承前)…崩落した土石は道を削いでしまってはいたが、沢を埋めてはいなかった。前に進むことに頭がとられていた私に「水場」はどこだという思いが蘇った。
 古い記憶を辿る。確か「登山道」の対岸にある大きな岩の下から「湧き出して」いたはずである。沢に出ている岩を頼りに、少し下降を続けながら対岸に、その大岩を捜したが見つからない。降り過ぎたと思い、少し登り返して、じっと目をこらす。
 その私の目に、横板のとれた高さが50cmほどの四角い杭が飛び込んできたのだ。それは、確実に「湧水」の前に立てられていた標識の残骸であったのだ。
 
 「湧水」の発見。岩の底部の裂け目からこんこんと湧き出す水、手を浸す。すごく冷たい。手で掬って口に含む。美味しいという味覚を越えて、「有り難い」という思いが全身を包んだ。
 対岸で土砂崩れが起きようが、「湧水」はそこにあったのだ。そして、昔から変わらない場所で、昔と同じように「こんこん」と湧き出しているのだ。
 人が設置した「湧水」という標識は、時に耐えず壊れてしまったが、そのようなことには「吾関せず」で、悠久の時に身を任せて湧き出している。
 そこには、人に対する「阿(おもね)り」もなければ、「おべっか」もない。相手に対する迎合もない。もちろん、「おだて」もない。とにかく、「言辞」がない。「飾り」がない。あるものは、「こんこん」と湧き出すという自然の営為だけである。 
 あるがままにあるということの、この「安心」感や「安堵」感は一体何なのだろうか。昔から変わらないで「そこ」にあるものがあると、私たちはそれだけで癒される。安心や安堵は癒し以外の何ものでもない。
 その上、湧き出す「水」は喉の渇きを癒し、清涼な感覚は疲れを取り除き、登り続ける意志を持続させてくれる。さっきまでの疲れ切った自分から「前に進む」という自分に変身させてさえくれるのである。
 手で掬うと飲める。湧き口にペットボトルを置くと、黙っていても満杯の水が手に入る。私は1リットル2本と500ミリリットル2本に「満杯」の水を詰め込んだ。そして、500ミリリットル1本をごくごくと音を立てて、半分ほど一気に飲んだ。それから、また湧き口から補給した。
 あるがままの「湧水」、それは「癒し」である。湧水は無言の「もてなし」であろう。
 私は思った。この「湧水」は岩手山の、私たちに対する「もてなし」ではないだろうかと。
 大深岳から下山をして、山荘手前の「水場」、そこの「湧水」でも、私は大深岳の「もてなし」を受けたのである。古い見覚えのある細い筒状のものが湧き口に差し込まれていて、その先端は少し割れてはいたが、湧水が噴き出していた。そこでも、私は喉の渇きを癒し、裏岩手縦走八幡平口まで歩き切るエネルギーと気力を得た。

 「もてなし」の心とは、決して「特別」大上段に構えるものではない。きわめて、「あるがままの日常」で接することではないのか。そして、それは私たちが「湧き水」から「感じ取る」ようなことではないのか。
 「もてなし」の心とは、道端に建てられている道祖神や百万遍の石碑、またはお地蔵様みたいなものだろう。彼らは語らず何もしない。ただそこに「立っている」だけである。それだけで、旅人は癒される。それが「もてなし」というものだろう。
 ところが「おもてなし」の心というと、突然、それは「よそ行き」の中身に変わる。特別な、無理をした、迎合を含んだ「阿諛追従」に変貌してしまう。
 旅行者や観光客は「湧水」が与えてくれる「もてなし」に癒されるのである。とってつけたような人為的かつ促成的な「おもてなし」では癒されまい。「おもてなし」の心で旅行者を迎えてはいけない。自然体で、あるがままの姿で迎えることが大事である。

 このような「湧水」との出会いを経て帰ってきて、7月25日毎日新聞電子版「余録」〔もてなしの心〕を読んだ。
 その「余録」〔もてなしの心〕に言う…
 「南アフリカのことわざに<水は食物の王様>がある。食欲がなくとも、のどは渇く。癒やしをもたらしてくれるのは水だ。」
 …喉の渇きを癒してやることが「もてなし」の心だというのである。私はこのことを実感した。
「人は癒やしを求めて旅に出る。ならば、もてなしの心こそ肝要だ。空気のように大切な命の水だが、<魚の目に水見えず>の戒めもある。身近な価値には気づきにくいと心得よう。」
 …旅行者は癒しを求めている。癒されたいから旅に出たのである。ならば「癒し」の泉や湧水は多いほどがいい。だが、それは「空気のように大切な命の水」でなければいけない。「空気」とはなかなか実感できないものだ。「もてなし」の心とは「空気」でなければいけない。押しつけがましかったり、商売見え見えであっては「空気」ではなくなる。
「幕末から明治の初めに来日した外国人の多くが市井の人の礼儀正しさや親切な気づかいを見聞記に特筆したのも、もてなしの心に感じ入ったからに違いない。」
 …何もその頃の日本人が、特別「もてなし」ということに気を配っていたわけではなかろう。自然に、素直に背伸びをしないで「あるがまま」の自分として外国人と接していただけのことだろう。

「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山 / 夏山縦走は水を求める、水は「もてなしの心」

2010-07-28 05:05:36 | Weblog
 (今日の写真は、キンポウゲ科モミジカラマツ属の多年草「モミジカラマツ(紅葉唐松)」だ。北海道と本州中部以北に分布し、高さは40~60cmになり、亜高山帯および高山の雪田周辺と高山帯の湿った草地や林内、林縁に生育する。
 葉は半円形で、掌状に深く裂ける。「モミジ」の葉に似ている。花期はちょうど今頃、7月から8月、茎の先や上部の葉腋から散状花序を出して10個くらいの花をつける。
 花は1cm程で花弁は無い。萼も早落性なので、花のように見えている白色の部分は全て雄しべだ。茎の先に多数枝を分けて花の塊になる。
 花名の由来は「花の形をカラマツの葉」に見立て、「葉の形がモミジに似ていること」による。)

◇◇「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山 ◇◇

 実はこの3日間、「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山をしてきた。小屋泊まりとはいえ、2泊3日分の全装備を背負って登ることは69歳の私には応えた。
 とりわけ、岩手山の「焼走り登山道」はきつかった。岩手山の何目にに位置する「御神坂(おみさか)口」ほどの急な登りではないが、何せ、火山礫が堆積している「道」は重い荷物を背負って登るには「エネルギー」のロスが多くて、「苦労」する割には「高度」は稼げない。この時点では水3リットルを含む2泊3日分の食糧を背負っているのだ。
このようにして始まった「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山だが、登りはじめから、裏岩手縦走口に出るまで、標高の高い山頂部を除いて、常に白い花々で歓迎してくれたのが、今日の写真の花なのである。
 「焼走り」を目の前で観察してから「登山道」に入ったが、直ぐにこの花に出会ったのだが、私はどうしても、この「花名」を直裁的に思い出せなかったのだ。確かに「ある花」には似ているが、確証がつかめないのである。
 その理由は「花」がまだまん丸い蕾で、「カラマツ」の葉を想起させる状態になっていなかったことだ。
 大分長いこと、荷の重さにあえぎながらも考えたのだが、「モミジカラマツ」だろうという思いは出てきたが、「モミジカラマツ」という名前には到達しなかったのだ。 
 白くて清楚な花々が登山道沿いに咲いていて、涼しげな雰囲気で迎えてくれるのだが、その逆で蒸し暑く、流れ出る汗は額から目に入り、顎を伝って地面に落ちる。首後部から胸にかけて垂れ下げていたガーゼ製のタオルも直ぐに絞れるほどになってしまった。

 「岩手山・八幡平(裏岩手)」縦走登山 のルートは、…
 焼走(ヤケバシリ)登山口から平笠(ヒラカサ)不動小屋(泊)→ 岩手山(薬師岳)噴火口1周→不動平→お花畑→七つ滝分岐→切り通し分岐→ 松川温泉口姥倉(ウバクラ)山分岐→ 大松倉山1408m→三ツ石山荘→三ツ石山→小畚(コモッコ)山→大深(オオブカ)岳→大深(オオブカ)山荘→嶮岨森(ケンソモリ)→前諸檜(マエモロビ)→諸檜(モロビ)岳→畚(モッコ)岳分岐→裏岩手縦走口までの約34kmで、期間は今月24日から26日の2泊3日であった。

 私はこれまで、とはいってもかなり昔になるが全装備での「夏山裏岩手縦走」は数回している。だが、南から北に向かうというルートを採ったのは初めてであった。また、岩手山には「上坊神社」登山道以外のコースは全部登っているし、特に「焼走り」登山道は大好きで、すでに数回登り降りをしている。
 また、厳冬期には「焼走り」尾根と松川・大地獄谷ルートで2回登頂しているし、残雪期にも、数回は登頂を経験している。

◇◇ 夏山縦走は水を求める、水は「もてなしの心」(1)◇◇

 …2泊した「平笠不動小屋」と「三ツ石山荘」には水場がない。飲料水や炊事用の水はすべて「小屋や山荘」に着く前に「調達」しておかなければいけない。その量は3リットル(3k)である。
 初日の「平笠不動小屋」までは自宅で詰めてきた1リットルペットボトル2本を手つかずのままで背負いあげた。500ミリリットル2本の「水」は、途中の登りで、ほぼ飲み干してしまった。
 「平笠不動小屋」では出来るだけ、「水」を節約した。明日の行動を支える「水」を少しでも多く残しておきたかったからである。だが、その「思い」も空しく、朝の炊事や「お茶」のお湯として使ったら残りは本当に少しになってしまった。
 「三ツ石山荘」までの途中には水場は3カ所あることになっている。1リットルペットボトル2本と500ミリリットル2本の「水」を「途中」で補給するということに私はこだわっていた。「途中」とは「道すがら」のことであって「行って戻って来る」ことではない。その意味から不動平小屋にある水場は敬遠した。
 私の狙いは「不動平」から岩混じりの急斜面となる「悪路」を下降して、通称「お花畑」とされている湿原を通り、大地獄谷上流部の沢右岸にある「湧水」にあった。この「湧水」で水を補給した最後の機会は恐らく10数年も前のことだろう。
 だから、視覚的な記憶が定かではなかった。確か、遠慮がちに高さが50cmほどで横幅が30cmくらいの標識が、その「湧水」の前に立てられていたようには思うのだ。
 お花畑を過ぎて沢沿いの道になる。水音が聞こえてくる。それに加えて「硫化水素」ガスの異臭も微かではあるが鼻をつく。「水場」は近い。
 そう思った時、前方の沢右岸が大きく「崩落」している場所に出くわした。登山道がそこで「途切れ」てしまったのだ。沢を歩くしかない。沢に出ている岩を頼りに下降を続けるしかない。(明日に続く) 

岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(7)

2010-07-27 04:02:19 | Weblog
(今日の写真は、岩木山毒蛇沢に青森県が敷設した「コンクリート谷止」である。写っている人物は私である。私の背丈を基準にして、この「谷止」(ダム)の高さや厚み、全体の大きさを想像することは出来るだろう。
 これは、平成13年度に「火山予第1-1号」として敷設された。つまり、これは、平成12年度に青森県が「火山予第1号」として造った「予防治山コンクリート谷止」の直ぐ下にあるものだ。
 「火山予第1-1号」という名称から、これは「火山予第1号」とセットになっているらしい。今後も「火山予第1-2号」「火山予第1-3号」という名称で、次々と造っていくのだろうか。
 この2つの「谷止」の直ぐ上流には「スリットダム」を含めて20基の「林野庁管轄」の「治山ダム」があるのだ。毒蛇沢はいわゆる「堰堤」で埋め尽くされてしまいそうである。これら「火山予第1号」、「火山予第1-1号」ダムはもちろん「スリット形式」ではない。魚類や水生生物、小動物などが「往来」することは出来ない完全に基部は密閉された「重力ダム」である。
 上流部に林野庁は、魚類や水生生物、小動物などの「往来」が「可能」な「スリットダムを造営している。
 国がやっていることと県がやっていること、この完璧なまでの「矛盾」、まったく統一性のないばらばらな工事である。工事費用の出所が違うから、しかも、担当するものたちの「自費」ではない「国税」と「県税」から賄われているから、このような「矛盾」を何の衒いもなくしてしまうのだろう。税金を払う側からするとこの「意味のない無駄」には耐えられない。
 ましてや、自然が次々と人工物で覆い尽くされ、埋め尽くされていく「岩木山」にあっては、もっと耐えられないに違いない。私には「岩木山」の呻き声が聞こえるような気がする。
 この「火山予第1-1号」ダムにも「治山シンボルマーク」と刻まれた意味不明のマークが付いた銘板が埋め込められている。一体これは何なのだろう。恐らくこの銘板1枚だって相当な金額になるのではないだろうか。
 今年の初めに、「石切沢」の「砂防堰堤」等についての「情報開示」を県に求めた。今度はこの「火山予第1号」と「火山予第1-1号」について情報開示を求め、詳しい費用を知ることにしよう。「林野庁」と「青森県」がこぞって無駄な競争をしている事実を何としても明らかにしたい思いが強いのだ。
 それは「ダム」は「無駄」だという私たちの主張の信憑性を多くの国民に知って欲しいからである。)

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(7)◇◇

(承前)… 毒蛇沢の「治山ダム」を見るがいい。階段状に造られた「堰堤」は半ば埋まり、それが堆積物の抵抗となって堆積物の移動を妨げ、そこが「新しい河床」になっている。「堰堤」は人工の「堆積物」、もしくは、階段状に造られた人工の「土石流」、または人工の「崩落土石や岩塊、土塊」なのである。
 また、人手によって人工の「河床」が造られ、それが現在の「毒蛇沢という沢」になっているのだ。その「沢」は名称は同じでも、30数年前の「毒蛇沢」ではないのである。
 山を壊してもいいのである。谷を破壊してもいいのである。「ダム」を造って新しい「沢」や「川」を造り出すことが「国土保全の基本理念」なのだ。
 このようなことをする「国」や「自治体」は、「自然破壊という概念」を持たないし、考えることもしない。
 そこには「自然保護」という概念はないということである。「国土保全の基本理念」や「国家の基本政策」に「自然保護」という概念や規定がないのだ。
 これでいて、環境省は「世界生物多様性」会議を招聘した。各省庁の施策が「バラバラ」なのである。
 「生物多様性」を堅持することは、しっかり「自然保護」に取り組むということをその根底や基本に置くことだろう。
 山や沢を「造りかえる」ことは「自然破壊」の何者でもない。「堰堤」、「床固」、「谷止」の敷設によって「自然を変える」ということは「自然保護」思想とは、真っ向から対立するものである。

森林の保護を中心とした自然保護の視点(3)

2010-07-26 04:15:42 | Weblog
 (今日の写真は、キク科ニガナ属の多年草の「クモマニガナ(雲間苦菜)」だ。「シロバナクモマニガナ」と呼ぶこともあるらしい。これは平地に見られる「ニガナ」の高山型の変種だ。・爽やかな風に身を委ねそよぐ白花黄花・
 花名の由来は、高山の雲間でよく見られることによる。ニガナは「苦菜」で囓ると苦いことでこう呼ばれる。

 …その日は九月に入っていた。大長峰に続く道を柔らかい秋の日射しを浴びながら登っていた時、木漏れ日が造る小さな日溜まりを盗むかのようにひっそりと薄紫が動いた。ツルリンドウである。
  「おはよう、今朝は寒かったね」と呟き、独り語りをしながら登ると、彼女たちは日溜まりの盗人から、恥じらいを見せながら語りかけてくる道陰の乙女に変わる。
 さらに秋遅くなると、日の色を塗り重ねたように明るい光沢のある紫がかった果実へと変身する。
 ようやく弥生登山道最後の岩稜、急登にかかった。耳成岩の下部である。高みから駈け降りてくる強靱(きょうじん)な涼風に、背の高いイネ科の「岩野刈安(イワノガリヤス)」や「高嶺野刈安(タカネノガリヤス)」たちが大きく揺れてなびく。
 風は後長根沢の源頭、大まぶを掠(かす)めて、深い沢床へと降りていった。瞬時の臥(ふ)せた静寂が、彼等の上体を持ち上げて1本1本の茎が吹き去る風の反動をエネルギーにして屹立する。そこは鬱蒼とした草と千島笹の森であった。
 その中に、黄色と白色の煌(きら)めきが大きく揺らぐ。緑の宇宙に輝く白と黄色の星々。それは爽やかな風に身を委ねてそよぐクモマニガナであった。
 いい名前だ。まさにそうではないか。標高1500m、雲間に輝く星々なのだ。
「クモマニガナ」は茎が太く、舌状花が11枚。舌状花が9~10枚なのがタカネニガナである。

◇◇ 森林の保護を中心とした自然保護の視点(3)◇◇

(承前)…
3) 現在世代は消費者、満足の果ては…

資本主義は競争原理と消費で成り立つ。だが一方で、この主義の原理的側面では宗教的なものと相俟って厳しい倫理観が求められてきたことは、歴史的に知ることが出来る。この倫理観とは、企業や個人の自己規制である。飽くなき願望を抑制すること、常に未来世代の生存を現在世代の私たちと同じように保証することでもある。
 先人は、手間を省きその手間を他人に渡し、目的地に早く着くことを戒(いさ)めてきた。先人の教えは尊い。
 「急がば回れ。」である。手間を省くという物質文明の行き過ぎを、諺や格言の精神文明が内側から、ぐっと抑止してきた。

 現在世代のニーズがすべて許されるとしたら…
①今を生きている現在世代たちだけの満足になる。
②循環型の世界は絵に描いた餅となる。
③「森林伐採」は未来との共存を、現実的には否定することになる。
④化石燃料ですら、科学によって未来世代の生存と享受するべきところまでを食い尽くされている。これは未来に対する未必の故意、つまり「被害者としての原告が今いない」だけという立派な『犯罪』となる。
⑤元に戻らないもの、返せないものとしての森林伐採等は未来世代に対する現在世代が残す負の遺産となる。

4) 現在世代に求められること…

①テクノロジーからエコロジーへの変換をしていかねばならない。
②自然と人間を対立的にとらえる文明から両者を統合して扱うことが出来る新しい文明の創出 時代としていかねばならない。
③自然と人間を統合して取り扱うこと。自然の尊重は人間の尊重という考え方を第一義としてい かねばならない。。
④人間が自給自足型(サイクル型)自然と共存を望むならば、生態系を技術行使の対象から外 すことである。
 つまり、現在の人間の利益になることでも、未来の人間と地球の自然の利益のためにしていけないことはしないという厳しさがなくてはこれからの環境問題に耐えていけないということである。

5)もっと身近なところで…自然保護への視点とは…

 それは、自然との共感能力を持ち、生物多様性を理解することである。

①自然物が好きだという気持ちと別個の価値であると認識しそれを自分と平等に扱うということ。
②植物採集者は感謝し、生命の相互依存の連鎖の中でいつか自身も役立つという気持ちを持 つこと。
③同じ命を持つものへの優しさを持ち、優しく受容する感性を持つこと。
④すべての生き物の時間をそのままとらえ自分の時間にしたり、人間の時間を尺度にしないとい うこと。
⑤返すことが出来ないものを奪わず、自然や景物に過去の時間を発見して感動すること。
⑥自然の生命体などを通約された一元的な価値(お金)でとらえないこと。
⑦動物や植物のデリケートな反応を、人間の拡大された感覚器としてその感性だととらえること。
⑧私たちを取り囲んでいる世界は神秘であり、科学を超えたところがあるものととらえること。
(この稿は本日で終了する)

森林の保護を中心とした自然保護の視点(2)

2010-07-25 04:13:32 | Weblog
 (今日の写真は、シソ科ヤマハッカ属の多年草である「クロバナヒキオコシ(黒花引起こし」だ。北海道、本州の日本海側の山地に生える。茎はシソ科特有の四角形で稜上に毛があり、高さ0.5~1.5mである。花期は8~9月である。
 花名の由来は「花が黒っぽく見えることとヒキオコシに似ていること」による。シソ科 ヤマハッカ属の「ヒキオコシ(引起)」の由来は、「重病人に弘法大師がこれを飲ませたところ起きあがったこと」よるとされている。

 弥生登山道は、その途中から山頂を見ることが難しい道だ。七合目から八合目にかけての地上高一メートル足らずのダケカンバの低木と背の低い千島笹が生えている高原状の尾根道からは、耳成岩を含んだ山頂部は見える。だが、場所によって山頂は耳成岩の後ろになり殆ど見えない。また、それに続く低木ブナ林帯や高木のブナ林に入ってしまうと見えないし、大長峰と称されるほぼ真っ直ぐな森の中の道からも、さらに中腹の低いところにある雑木やミズナラ林からも見えないのである。
 私は尾根から大黒沢を渡るために降りはじめた。そしてその日の山行の見納めに、もう一度山頂を仰ごうとして、沢よりに木立の隙間を探して動いた時である。山頂を探す私の視線を遮るものがあった。
 それは枝先の葉腋から、まばらな円錐花序を出し、小さな暗紫色の唇形花を多数つけていた。「クロバナヒキオコシ」だ。
 私の脳裏からはすっかりと「山頂」の面影は消えていた。指先でそっとその筒状の花に触れてみた。微かにそれは震えた。それは、小さな暗紫色の筒花を多数つけた梵天だった。
 「ありがとう。初めて会えて嬉しいよ」と呟いた。それきり、私はなかなか、その場を去れなかった。)

◇◇ 森林の保護を中心とした自然保護の視点(2)◇◇

(承前)…   Ⅱ 環 境 倫 理 学 の 視 点
 環境倫理学(Eenvironmental Ethics)では、エネルギー、人口増加、食糧という問題が、すべて地球環境で関係し合っていることを踏まえて、次の三つを主張する。
1)自然の生存権の問題(現在世代の意思によって勝手に、生態系等の破壊や改造はできない)
2)世代間倫理の問題(現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある)
3)地球全体主義(地球の生態系は地球だけで完結していて、他の働きを受けない閉じた世界である)
①現在世代だけが安逸に暮らせばいいというのではない。未来世代の生存条件を保証すること。
②世代間関係を重視し、未来の人間の生存権を確実に保証すること。「昔からのそのままを残すこと」
 まもなく、「近代と現在世代」が化石燃料を使い切ってしまうと言われている。そうなれば、私たちが未来世代にガソリンや灯油を使う権利を与えないことになってしまうのである。

1)自然や未来世代との共存・共生の生態学的見地…

人は自然の脅威を前にして人間となり、自然環境をことごとく破壊する力をすでに持ってしまった。そして、今、人間の行動が自然の脅威を質的に変化させながら、さらに脅威の対象となってきている。
 つまり、科学を手にした人間が、それを手段や方法として営利や「目先のよりよきものと思われるもの」を求めて、生態系的生物である人を管理し、支配しているということである。
 生態学では、「ヒトと人間の間に『共生』を作り出すことが文明に求められている。」とするのである。これが現在世代の私たちに突きつけられている今すぐにでも解かなければいけない課題である。

2)世代間倫理と未来世代の権利…

「未来世代は私たちよりずっと幸せになれる。」と言っているのが現代の文明である。そうしていながら、放射性の廃棄物を未来世代に残す。ここには世代間の倫理は存在しないし、現在が未来を食いつぶしているのである。
「先人木を植えて、後人その下に憩う。」という古い格言には、過去を畏敬しそれを未来につないでいこうとする強い意思がある。世代間倫理はこれに近い。
①木を植えるのは自分に利益がはね返ってくるからではなく、各世代の行為は自己犠牲となる。
②未来の人は、我々が借りを作った過去の人の代理人として想定される。私たちは先祖がしてく れたことを子孫にすることによってこの借りを返すのである。過去の人たちは通時的な考えをしたのである。(明日に続く)

森林の保護を中心とした自然保護の視点(1)

2010-07-24 03:17:57 | Weblog
 (今日の写真は、ラン科トンボソウ属の多年草「トンボソウ(蜻草)」である。北海道、本州、九州、四国の湿った林下や川のそば、岩場などに生える。主に日陰に多いが、日向でも見られることがある。岩木山のものは「薄暗い」林床に生えているので、「薄暗い中空を飛び交う白い小さなトンボの乱舞」とキャプションをつけたりすることもある。大抵は群生している。
 花の咲かない株は1枚葉で、開花株は2枚葉になる。花名の由来は「花がトンボの顔に、また花の形がトンボに似ていること」による。

 その年に初めて「ギンリョウソウ」に出会ったのは、6月の上旬、ブナ林内の岳登山道であった。何故なのだろう、この花だけは、花や自然に関心のない「体力勝負」の登山をしていた若い頃から、生えている場所もその姿も、どちらかというと「派手さ」はなく、薄暗い森の木の根元や落ち葉を被ったりで目立たないのに、よく目についていた。
 その日もやたらに「ギンリョウソウ」が目についた。まるで「食傷気味」だ。もうお別れしよう。
 まだ、午後も早い時間だったし、百沢近くまで歩いて途中「平沢」の縁でも歩いてみようと思った。堰堤建設用の道路を辿って沢筋の間道に入る。
 そこを少し進んでからミズナラを主とした林に入る。何年か前に「サルメンエビネ」に出会った場所に向かっていた。
 沢筋である。湿った林内であまり草の生えていない広場のような場所に出た。薄暗い中ですくっと立って地表を照らしているものがある。しかも、あっちにもこっちにも、お互いはおろか、周りのシダ類までを明るく染めている。それは薄暗い中空を飛び交う白い小さなトンボの乱舞だった。
 何と可愛い素振りではないか。トンボソウは個性的な花なのだ。
 これまで、岩木山では「トンボ」と名のつく蘭としては、ツブラトンボ、オオバノトンボソウとコバノトンボソウに出会っている。)

◇◇ 森林の保護を中心とした自然保護の視点(1)◇◇   

はじめに…
『核のゴミにはじまり、森林伐採、温暖化。オゾン層の破壊などを未来世代に残すこと』は未来世代に対して「時限装置の付いた爆発物を贈り、どうぞ自由に始末してください。」といっているに等しい。

        Ⅰ 共生と共存の生態学の視点
1)生態学的に見た人とは…

①人はサルと同じ「物質系の動物であり自然」である。同時に「自然の操縦者としての人間」であり、人(ヒト)は人間によって制御されるという二重性を持った生き物である。
②生態系と食物連鎖からみると、人間は生産者ではない。徹底的に光合成をする植物(生産者)が作った有機物を消費する消費者である。同類の動物をも食べることで消費する。
③被支配者を自然物であるとする支配者である。時にはヒト・人間をも支配する。
④本性は「易きにつく」であり、衣食住を含むすべての面に渡って、生活を便利にすることを考えてきた。
 基本的に、この①~④の流れは現在も変わらず、ますます強力で激しくなっている。

2)生態学的に見た自然とは…

 人間が手を下さなくても、自らの力で生まれ育ち何もしないでも、しかるべき姿になっていくものである。
 これを自然界と呼び、生態系とも呼ぶ。生態系の中には別の生態系に依存することなく「自給自足し」完結しているものもある。大きくみると、地球がそうなのである。
 そして、その自給自足するミニチュア地球と喩えられるものが、きわめて身近なところに存在する森林なのである。森林の破壊は修復が不可能であり、絶望的な地球の破滅へとつながっていく。

生態系の型とは…
①自給自足的なサイクル型-この代表が森林である。
 人間の介入はシステムの自律性を損ない連鎖を断ち切り破壊という結果をもたらす。
②入出力というハンドを持った他律型のシステム-河口湿地や河川である。
 これらは外力に変更を加えると別な生態系に変わってしまう。

3)生態学的に見た森林とは…

①森林は酸素の供給源。人は酸素がないと5分で死ぬ。
②水源を確保維持するもの。③土石の崩落をくい止めて、地形の安定を保つものである。
④動物や植物が育つ生態系と位置づけられるものである。
⑤森の木々の葉には滅菌・抗菌作用のある物質を出し、埃を払い落とす能力もある。

4)ヒト・文明と森との関わり…

基本的には狩猟や採集の場が森であり、生態系の一部である人にとって、共生する為の収奪の対象であった。
 キリスト教の下「人間の幸福のためならば、森はいくら破壊してもかまわない」という主張のもとにヨーロッパを覆いつくしたのであった。
「自然を支配する手段の発達」が文明。「文明」の英語、civilizationのcivilが市民・都市を意味するところに「文明」という語の絶対的な意味がある。それは「人工」、つまり、「人工環境」ということだ。だから、文明の対極に「自然」があり、対義語には「野蛮」がある。「文明」が森を破壊し、今も文明人が「緑」を喰うのである。破壊の対義語は建設である。
 日本にあっては山も森も神の住むところであった。狼や狐、それに蛇などの森に棲む動物を、森の神とかその化身やお使いと見立て崇めてきた。 (明日に続く)

岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(6)

2010-07-23 04:08:52 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山毒蛇沢の治山ダムで、最下流の「堤高」が30cm足らずになってしまっている「ダム」の直ぐ下にある「立派」な「ダム」である。「堤高」が30cmに埋まってしまった林野庁管轄の「ダム」は昭和51(1976)年に建設されている。
 今日の写真のものは青森県が管轄している。いわば、青森県が敷設したものである。同じ「岩木山の毒蛇沢」という「沢」に、国と県が競って「堰堤」やら「床固」やら「谷止」という「ダム」を「別々の設置基準と目的・役割」で敷設しているのである。それも、同じ山の同じ沢である。枝沢ではない「本流」にである。
 このように、どんどんと「ダム」は造られる。毒蛇沢の左岸尾根、右岸尾根を夏場に登ることもある。沢を見渡せるのは新しいの木々の葉が出る前の時季だ。山躑躅が咲き出す頃はまだ見えるが、それ以降はまったく見えなくなってしまい、秋遅く落ち葉の時季になってようやく、見えるようになる。
 一番よく、「治山ダム」やそれ以外の「ダム」を含めた全景が見えるのは残雪期である。とりわけ、鳥海山の尾根からはよく見えるのだ。残雪期だから「ダム」は積雪の下だ。その「ダム」が整然と沢に凹凸をなしてよく見えるのだ。
 10年も前ではないだろう。鳥海尾根で大きな「全層雪崩」が発生して、それが、ブナの大木をなぎ倒して「毒蛇沢」左岸に流下した。その後で、尾根側から調査に入ったが、その時、雪崩の規模の大きさにも驚いたが、「ダム」の多さにも驚いた記憶がある。それに比べると、今回の調査で分かった「ダムの数」は非常に少ないものであった。きっと、埋没したからだろう。

 だが、「ダム」建設は実際、着々と進められていたのだ。今日の写真のダムは、そのコンクリートの堤壁に埋め込まれた銘板に…
施工年度 平成12年度(火山予第1号) 工事名 県営予防治山工事
施工主体 青森県  工種 NO.1 コンクリート谷止工
施工業者 (株)三浦組
 …とあるのだ。さらに、「治山シンボルマーク」と刻まれた意味不明のマークが付いた銘板がもう1枚埋め込められているのだ。これは、林野庁ではなく、青森県が建設したものである。
 ここは別な沢ではない。林野庁の「治山ダム」から30mほど下流の同じ沢である。同じ1本の沢なのだから一本筋の通った価値基準や設置目的で統一して「建設工事」をしたら、その「労力も費用」も合理的になるのではないかと思うのだ。なぜにそれが出来ないのだろう。やる気がないからだ。
 上流にある「治山ダム」は生き物の往来が可能な「スリットダム」だ。しかし、その直ぐ下にある青森県が建設した「コンクリート谷止」は「重力ダム」であり、せき止められているという矛盾を、どのように説明するつもりなのだろう。)

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(6)◇◇

(承前)…踏査を続けながら、私は「ダムの位置」ということに興味を持った。「ダムの位置」については、次のような指針があると言われている。
                                       
 …ダム築設の目的並びに地形、地質の状況に応じて最も効率的かつ経済的となるような個所を選ぶ必要がある。
 地形的には一般に上流部の広がった渓流幅の狭い個所が良いとされ、さらに地質等からは、地耐力の不足によるダムの沈下、越流水による下流のり先の洗掘、及び両岸浸食によるダムの破壊防止のため、渓床及び両岸に堅固な地盤のあるところが望ましい。
 崩壊地又は崩壊のおそれのある個所並びに土石流の堆積個所に治山ダムを計画する場合には、階段状に治山ダムを計画する。…
                                   
 私は、その意味での専門家ではない。しかし、沢を降りたり登ったりはしている。だから、沢の地形や状態、造り、堆積物、蛇行の具合、沢の深さや浅さ、沢縁の崩落状況などはよく見える。その目で毒蛇沢の「治山ダム」を見てみると、前述の「ダムの位置」についての「指針」とはそぐわない箇所がかなりの数で見えると思うのだ。
 「指針」に忠実であるというよりは、まずは、何はともあれ「造ることが先決」で業者任せでどんどんと造っていったのではないかという疑念すら浮かぶのである。
「ダム」は「治山」という名目で、まずは「敷設することが先にありき」なのだろう。
 その1つ1つが、自己の「自重」で「重力ダム」という使命を果たせなくても、その「沢」を階段状に埋め尽くすくらい「敷設」して、地形を変え、流れを変え、本来の自然を豹変させながら、つまり、山や沢を造りかえてしまうことが「治山ダム」なのであろう。

 私の頭には再度「治山治水(治水治山)」という言葉が蘇ってきた。
 「治山」という概念や治水治山という時の「治山も治水」も「山や川」を自然のままにしておいて「洪水や土石流」を防ぐということではないのだ。
 それは「山や川の形態をとことん変えてまでも」人間の都合のいいように川や山を治めるということである。そのようなやり方で「国土を治める」ということなのだ。
(数日後に続く。なお、明日からは別なテーマ、「森林と自然保護」で書くことにする。)

岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(5)

2010-07-22 04:32:37 | Weblog
 (今日の写真は、毒蛇沢にある林野庁が敷設したもっとも下部に治山ダムだ。これでも書類上は「ダム」と呼ばれている。「スリットダム」の直ぐ下に書類上は確実に存在しているので、簡単に視認できるものと考えていたが、いざ探してみたところ、なかなか見つからない。それもそのはずである。)
 「スリットダム」と直近の「治山ダム」との間は、その距離わずか10mに満たない。「ダム」の右岸側壁が下部からの車道につながっていて、その車道は「ダム」を乗り越えて、「スリットダム」の真下を通って対岸の車道へと続いているのだ。
 つまり、「ダム」の「天端(堤頂)」は乗り越えている道路と高さが同じなのである。よく見ると、「堤頂」の高さと同じ道路には「コンクリート」が打たれて「舗装」されていた。そこはまさに、コンクリートの敷かれた平坦な広場であったのだ。
 しかも、その具体的な事実を知らない私たちは、その「コンクリート」の敷かれた「広場」をちょうどいい駐車スペースと考えて、そこに自動車を停めていたのであった。
 「灯台もと暗し」である。まさかそこが「最下部」の「治山ダム」だとは思いもしなかったのであった。
 「ダム」の「天端(堤頂)」右岸は道路によって埋まり、左岸は土石と土砂で埋まり、その実体を見せてはくれない。上部「スリットダム」から流れ出ている「水」を追う。水は集まりながら一カ所に向かって流れていた。かすかな水音を頼りに、そこの枝葉をたぐり寄せてみたところ、そこに、「今日の写真」の「ダム」が現れたのである。
 そのままだと枝葉が邪魔になって撮影が出来ないので、鉈で少し刈り払いをしてから撮ったのがこの写真だ。
 堤高は30cm足らずだろうか。因みに、このダムは昭和51(1976)年に完成したものである。敷設された時の堤高はどのくらいだったのだろうか。仮に、2mあったとしたら、1.7mもこの30数年間で「埋まった」ということになる。
 上部で谷脚や尾根の崩落が起きて、それが「土石流」となった時、その土石流を「くい止める」役割は、この「ダム(堰堤)」群では出来ないだろう。「土石流」は楽々と「ダム(堰堤)」の堤高を越えて、滑り台を流下するように、下流に走るだろう。
 それでは、「治山ダム」とは一体、何なのだろうか。私の脳裏には「治山治水」という言葉が稲妻のように閃いた。
 広辞苑によると「治山治水」とは「山と河川の整備・管理。国土を治める根本理念。」とある。)

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(5)◇◇

 (承前)…「堤高」または「ダム」全体が埋まってしまい発見出来なかったものもあったが、毒蛇沢に敷設されている最下部から最上流部にかけての「治山ダム」をひととおり調査をした。だが、この調査結果は現実的に腑に落ちないものだった。
 それはきわめて素直に、一体「ダム(堰堤)」とは何なのだろう。どのような機能や役割を担わされているものなのだろうということであった。

 …一口の「ダム」といっても、それには3つの種類がある。それは、それが作用する内容・目的によって区分されている。

 「堰堤」とは次の4機能(作用)を持つものである。「火山性砂防堰堤」などはこれにあたる。
 1.渓床勾配を緩和して安定勾配に導き、縦侵食及び横侵食を防止する作用
 2.山脚を固定して、崩壊の発生を防止する作用
 3.渓床に堆積する不安定土砂の移動を防止する作用
 4.土石流による渓床、渓岸の荒廃を防止して下流への土砂流出を防止する作用

 「谷止」とは次の3機能(作用)を持つものである。
1.渓床勾配を緩和して安定勾配に導き、縦侵食及び横侵食を防止する作用
2.山脚を固定して、崩壊の発生を防止する作用
3.土石流による渓床、渓岸の荒廃を防止して下流への土砂流出を防止する作用

 「床固(とこがため)」とは次の3機能(作用)を持つものである。
1.山脚を固定して、崩壊の発生を防止する作用
2.渓床に堆積する不安定土砂の移動を防止する作用
3.土石流による渓床、渓岸の荒廃を防止して下流への土砂流出を防止する作用

 これに従うと「堰堤」、「谷止」、「床固」のいずれにあっても、「土石流による渓床、渓岸の荒廃を防止して下流への土砂流出を防止する作用」のあるものであるはずだ。
 だが、私には、この一番大事にされるはずの「機能・作用」が「不全」に陥っているのではないかという思いが強いのである。(明日に続く)

岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(4)

2010-07-21 04:13:45 | Weblog
(今日の写真は、毒蛇沢の「治山ダム」の1つである。この写真を見て、これが「ダム」だとは誰も思わないだろう。「ダム」というと具体的立体的な「堤」を持っているものと考えるのが普通だろう。だが、この「ダム」の堤高はわずか20cm足らずなのである。
 「スリットダム」の上部に20基ものダムがあるのだから、沢の縁を登っていくと視認が可能だろうと考えたのが間違いであった。この高さでは樹木や草に覆われて「見える」はずがない。
 因みに毒蛇沢にある「治山ダム」設置を年度別でみると、昭和51(1976)年度が3基、52(1977)年度が1基、54(1979)年度が4基、55年(1980)度が10基、59(1984)年度が1基、平成12(2000)年度が2基である。
 この中で一番古いものは昭和51(1976)年に敷設しているわけだから、34年ほど前のことである。
 私たちはまず、沢左岸を辿って「見えるはず」の治山ダムを探した。だが、沢の縁からはまったく見えないのである。林野庁から開示を受けて、入手した図面には20基の「治山ダム」が緑色の長方形や三角形が記入されているが、実物が「見えない」のである。
 そこで、これだと「沢登り」をするしかないと判断して、私が先頭で「相棒」さんがそれに続くというオーダーで「沢登りと藪こぎ」が始まったのである。
 私がトップということは単純な理由からだった。その日、相棒さんは「鉈」を持っていなかった。鉈で枝葉を刈り払いして進路を確保しないと登っていけないのだ。そこで、「鉈」を持っている私が「刈り払い」役兼トップということになった。
 いくら30数年経過して「ダム」は埋まっていても、1mからそれ以上の「堤高」できっと「目の前」に出現してくれるだろうと「期待」しながら、進んでいった。水音にも気を配った。ある程度の堤高があれば、そこは低いが「滝」状になっているから、「水音」も大きく強いはずだと考えたからだ。だから、水音のする方角を探しながら進んで行った。
 水音にも気を配った。ある程度の堤高があれば、そこは低いが「滝」状になっているから、「水音」も大きく強いはずだと考えたからだ。だから、水音のする方角を探しながら進んで行った。 だが、目の前に「ダム」が現れることは、1984年度に敷設された最上流部にあるダムまでなかったのである。
 最初の「ダム」は目の前ではなく、私の後ろ50cmほどの足下に現れたのだ。私の視線は「進むべき方向と刈り払いの対象物」に向かっている。いきおい、足下には目が行かない。しかも、1mほどの「堤壁」をイメージして探しているのだから、なおさら目につかないのだ。
 後ろの相棒さんが「これはダムではないか」と私を呼び止めた。その時「ダムではないか」と指摘されたものがこの写真なのである。確かに「ダム」である。20cmほどの高さの「ダム」である。
 上流から流れてきた土石にすっかり埋まってしまった「ダム」という名前の「構築物」のなれの果てがそこにはあった。これでは「ダム」という機能を果たしていない。「治山ダム」の建設がこのようなことでいいのだろうか。
 最上流部のダムまで、これに似て20cm程度の堤高を出していたものは数基しか発見できなかった。残りのものは、すべて「土石」に埋まってしまったのだ。
 「この上流には20基の治山ダムがある。よって、土石流の心配はない」などと思ってはいけない。)

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(4)◇◇

 (承前)…「林業技術ハンドブック」には「治山ダム」を「渓床の安定及び山脚を固定し、山腹工事の基礎工、あるいは崩壊地の自然復旧を促進し、渓床の縦横侵食による荒廃の危険性のある山脚及び渓床を固定して、山腹崩壊の防止と不安定土砂の移動防止、あるいは土石流による渓床、渓岸の荒廃を防止して、下流への流出土砂を抑止することを目的として計画されるものである」と定義してある。

 つまり大事なことは、「治山ダム」とは「下流への流出土砂を抑止することを目的」として敷設されるものであり、「下流への土砂・土石の流出・流下を防ぐことを目的」としているものではないということである。
 「治山ダム」の高さ(堤高)は、崩壊地の山脚と崩壊の恐れのある斜面の山腹の侵食防止を目的とする場合は、土石、土砂の堆積後の勾配と山腹斜面の自然勾配を考慮して決定する。また、この区間が長い場合には、「低いダムを階段状に設ける」こともあるそうだ。
 毒蛇沢の「治山ダム」の大半が埋まってしまったのはその所為かも知れない。

 毒蛇沢の「治山ダム」は「スリットダム」を除くと殆どが「重力治山ダム」である。これは「水圧・堆積物の圧をダム(コンクリート)の重さで支える」構造のものだ。
 そのために、「ダム」の天端厚(コンクリートの厚さ)は、流送砂礫の大きさ、越流水深、上流側の勾配等を考慮して決められるはずである。
 だが、毒蛇沢の地形や崩落状況を念頭に置いて、今日の写真を見る限りでは、「天端厚」はきわめて「薄い」と言えるのではないだろうか。
 これだとまさに、「シラス等流送砂礫の粒径が小さい小渓流では0.8m」という基準にも達していない。
 「天端厚」は、一般荒廃渓流では1.5m、洪水により大転石の流下の恐れのある場合は2.0m、大規模な土石流発生の恐れのある場合や地すべり等により制圧を受ける恐れのある場合は2.0~3.0mなどが標準とされている。(明日に続く)

岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(3)

2010-07-20 04:30:29 | Weblog
 (今日の写真は、毒蛇沢の治山ダム、最上流部に昭和59年度、今から26年前に敷設されたものだ。形式的には「中空重力ダム」なのかも知れないし、あるいはその「変形」かも知れない。
 何と驚くことに、「滝」の岩盤上に敷設されているのである。岩盤にコンクリートをそのまま「接着」することは出来まい。恐らく「岩盤」を彫り抜いて大きな孔を開けて、それに鉄筋や鉄骨を差し込んで固めたものであろう。場所的には沢幅が狭い上に急峻で、重機の運行は出来ないだろう。
 この滝の下流はなだらかである。途中までは、このダムを建設するための工事用道路と思われる「跡」はあったが、「滝の下流」数100mからは、それも途絶えて、わずかに、人1人が歩けるような「踏み跡」しかなかった。
 それでは、このダム建設時の「資材」や「工事用の機器」は何で運搬したのだろう。自動車が運行できる工事用道路がないということは、すべて「人力」による運搬か、あるいは「ヘリコプター」による運搬かも知れない。「人力」の場合は「ご苦労さん」と言いたいが「ヘリコプター」であった場合は、「国費を使って何と無駄なことを…」という愚痴が出そうになるのは私だけか…。)

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(3)◇◇

(承前)…「スリットダム」についてもう少し書こう。この「ダム」のメリットは「土砂で埋まり塞がった後も、長期的に見ると、徐々に「土砂や流木が抜け元へ戻ること」からメンテナンスは不要であるとされることである。だが、これはあくまでも「机上の空論」的で希望的な観測からの言い分であると言える。実際は、次の出水に備えて、撤去されることもある。
 そして、 最近は「維持管理による空き容量の確保も土砂管理上重要である」と考えられるようになったため、土石流や流木が貯まった後に、これを放置することは少ないといわれている。
 この動向は「不透過型(旧来の堰堤である重力ダム)の砂防堰堤においても、維持管理を行って常時空き容量を確保する」につながっているそうだ。だが、岩木山に見られる「不透過型ダム」は、ひたすら「土石」の堆積に励んでいるし、その「土石」を浚渫している気配は微塵もない。それよりも上流部に新しく「ダム」を造る際に排出される土石を、直結する既存「ダム」の水平方向の渓岸や鉛直方向の渓床に捨てて、埋め立てることすらしている。
 このようなことをして、「治山ダム」建設の目的の1つである「不安定土砂の固定 を図る」 のだとしているのだからやりきれない。言われると理論的には「そういうこともあるのか」とは思うが、これは建設業者の明らかな手抜き工事であり、人件費や工作費のピンハネでしかない。発注者の「林野庁」、それに県林務関係部署と建設業者との癒着は明らかであろう。「嘘ごとの工事」に目を瞑っているとしかいいようがないではないか。
 「治山ダム」にしろ「砂防ダム」にしろ、その設置目的は、「過去の土石流などで堆積した土石の下流部に設置することで、堆積した土石の再移動(再土石流化)を防止する。」ことにあるのである。
 これでは、その目的はとうてい達成されない。それでも「赤倉神社を守る」と刻字してまで言うのだから「開いた口」が塞がらない。

 「治山ダム」設置の目的は次のようなものだと言われている。

1.渓流内の勾配を緩和するため
 浸食傾向の激しい渓流に設置することにより、ダム背部の渓流勾配を緩和し、水平方向の渓岸浸食、鉛直方向の渓床浸食を防止する。
2.崩壊地の拡大を防止するため
 崩壊地の直下流に設置することにより、崩壊地の拡大を防止する。
3.不安定土砂の固定を図るため
 過去の土石流などで堆積した土石の下流部に設置することにより、再移動(再土石流化)を防止する。
4.土石流による荒廃を防止するため
 土石流の流下による渓岸浸食の防止、加えて土石流の流速緩和と抑止を図る。

 このような目的をもった「ダム」であるから、もちろん「砂防ダム」と似ている構造である。しかし、原則として「目的が異なる」ため、概ね「治山ダム」の堤高は低い。それに加えて「厚み」もあまりない。概ね、「砂防ダム」の厚みは3m以上で、治山ダムの厚みは2m以下だとされている。

 「治山ダム」には、その目的と機能によって、「堰堤」、「谷止」、「床固」という三つ区分される。岩木山の大半は「堰堤」と「床固(とこがため)」である。
 また、「ダムの形式」によって、重力ダム、中空重力ダム、アーチダム、三次元ダム、くし形ダム(スリットダム)などと区分される。岩木山に設置されている殆どが「重力ダム」である。他に2、3の「中空重力ダム」と「スリットダム」が見られるが「スリットダム」については、既に説明してあるので割愛して、「重力ダム」と「中空重力ダム」について簡単に説明をしたい。
 「重力ダム」は、水圧をダム(コンクリート)の重さで支えるもので、我が国では最も多く用いられている。どこにでもある「ダム」の典型だと思えばいい。
 「中空重力ダム」は、「重力ダム」の内部を空洞としたもので、重力ダムに比べてコンクリート量は少なくすむが、複雑な形のため施工が難しいと言われている。
 序でだから、本県の旧海軍大湊要港部の水源地「堰堤」が、現存する最古の「アーチダム」ということなので「アーチダム」についても説明しよう。
 これは上流に向かってアーチ状に張り出した構造のダムだ。水圧をアーチによって両岸で支えるようにしたもので、岩盤が堅く両岸の狭まった沢や谷に適すると言われている。
 日本語では拱堰堤(きようえんてい)という。(明日に続く)

岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(2)

2010-07-19 05:17:18 | Weblog
(今日の写真は、岩木山毒蛇沢の林野庁が敷設した「治山ダム」である。毒蛇沢には林野庁が敷設した「治山ダム」は全部で20基あることになってはいる。この写真のダムは最下流部に平成12年度に敷設建設されたものである。
 最上流にあるものは昭和59年度に敷設され名称は「毒蛇沢えん堤」となっている。これは、いわゆる「堰き止め」タイプの旧式工法のものであり、滝の上部にコンクリートを打ち込んで「堰堤」を構築し、丸い水抜き溝が二カ所あって、そこから水が下方に向かって、流下している。堰堤の横幅延長も15m足らずだろうか。この「堰堤」から今日の写真の「治山ダム」までの間に19基の治山ダムが、図面上には敷設されていることになっているのである。
 今日の写真の「治山ダム」の正式名称は「毒蛇沢鋼製スリットダム」である。「スリットダム」は、「砂防ダム」の型式の1つで、通水部に「くし(櫛)状のスリット」や、「鋼管の格子状構造物」を設けたものである。これは主に土石流や流木被害を防止するための「砂防ダム」や「治山ダム」の構造として用いられることが多い。
 この「スリットダム」は埋まっていない時には、「動物や魚類の行動範囲を阻害しないこと」から環境に優しい「ダム」であるといわれる。しかし、土石流が発生した時には岩塊や流木がスリットを塞ぎ、「堰上げ効果」により一般の「砂防ダム」と同じ機能を果たすことになる。
 つまり、土砂流出により「スリット部」が埋まり、閉じられた直後に液状化が生じ、一気に「土砂・土石・流木」等が「ダムのスリット部」を越えて抜けて、流れ出すことがあるのだ。
 このため、民家や道路など、人命や公共施設に大きな影響が生じる恐れの場所の「直上流」では、建設を避けることが一般的であるとされている。だが、事実はそれとほど遠い。
 岩木山の頭無沢、石切沢、毒蛇沢、滝ノ沢、平沢、柴柄沢の下流には一般生活道路として「県道弘前鰺ヶ沢線」が走っている。
 だが、少なくとも、林野庁の関係するものと青森県が手がけているものを含めると「頭無沢、石切沢、毒蛇沢」には、この「スリットダム」が「民家の近く」や「道路」近くに建設されているのだ。)

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(2)◇◇

(承前)…話しを進める前に、「治山ダム」と「砂防ダム」の違いについて、理解しておこう。まず、「治山ダム」と「砂防ダム」の違いなぞ、普通に人は知らないだろう。
 私は、沢や谷の流域上部に敷設されるものが「治山ダム」で、下部に敷設されるものが「砂防ダム」だと理解していたが、概ねそれでいいのだが、林野庁が敷設管理する「治山ダム」の下部に青森県が敷設管理している「治山ダム」があったりして、その位置的なものでの区別は難しいことが分かった。
 ただ、所管別で見ると「治山ダム」は林野庁(または都道府県の林務、砂防関係部門)であり、「砂防ダム」は建設省(または都道府県の土木、砂防関係部門)となっているのである。
 「土石流」等で破壊や倒壊してしまうのはその多くは「治山ダム」だといわれている。
そうであるならば、まさに…林野庁は不良品を作っている…と思われるかも知れない。
 赤倉沢には15基の大「治山ダム」が、沢から「鬼の土俵」へ登る分岐点近くまで、言い換えると「大しめ縄」の手前まで、腹ばっている。
 15基が完成した後で、工事用道路の起点に「治山ダム」敷設の目的を刻字した立派な標識的な「看板」が建てられた。それには「赤倉神社を土石流」から守るためというようなことが書かれている。
 林野庁所管の「治山ダム」は不良品であるならば、「赤倉神社を土石流災害から守る」ということはまさに「絵に描いた餅」でしかないだろう。
 すでに、下流部の「治山ダム」の数基は「土石」に埋まり、赤倉講信者の駐車場になったり、工事用道路が「ダム」を越えて通っているのだ。
 その上、1基1億円近い敷設費用がかかるのに「赤倉神社」という1宗教法人のために10数億円という私たちが納めた「税金」を当てるということは納得がいかないことでもある。

 「治山ダム」の施工目的や設計基準は「砂防ダム」のそれらとはまったく、違っているのだ。
 「治山ダム」は山腹や渓床の固定(表土の移動を防止)を目的としたもので、土石流のような破壊力を持 った流下物を貯留させるような直撃に耐える構造と設計になっていないのである。看板にいう「赤倉神社を土石流災害から守る」とは虚言に近いものであろう。

 「治山ダム」と「砂防ダム」は、素人目には殆ど、その構造上の区別はつかない。「ダム」に貼り付けられている名称等を書いた「銘板」を呼んで判断するしかないのだ。
 沢や川に「砂防ダム」や「治山ダム」のようなものがあるからといって、「土石流を止めてくれる」などということは必ずしも期待出来るものではないのだ。

 ここまで理解が進むと、大体次のような意見が出てくるのである。
「目的の違いは分かった。しかし、私たち住民にとっては『砂防ダム』も『治山ダム』もどちらも『ダム』であることに変わりはない。それを、どうして、国や県が別々の基準で、1本の沢や川を治めようとするのか。莫大な金のかかることである。税収には限度がある。国も、県も財政は逼迫している。限られた予算しかない中で、それぞれが勝手な基準で敷設するとうことは、この上なく非効率である。」
 その通りである。現に岩木山姥人沢には「石切沢水系4号砂防ダム」が県の発注で敷設が進んでいる。その工事現場を覗いてきたが、まさにそこは「自然破壊」の極みであった。

 まとめてみよう。「敷設建設目的の違い」は「構造の違い」を生み出しているが、結果的には、その「機能のすべてが重なっているだけ」ということになるのだ。
 そうなれば、とにかく、直ぐにでも所管を一本化、基準も同一化してしまうことである。無駄を省き、効率を高めるにはこれしかない。(明日に続く)

サギスゲの果穂が踊る湿原 / 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(1)

2010-07-18 04:50:21 | Weblog
 (今日の写真は、カヤツリグサ科ワタスゲ属の多年草である「サギスゲ(鷺菅)」だ。だが、これは「サギスゲ」の花ではない。
 「サギスゲ」も仲間の「ワタスゲ」も、花が咲くのは初夏で、花の色は黄色である。花は長さ0.5~1.0cmの長楕円形だ。
 小穂が2~3個つき、花期は6月頃である。花被片は糸状で多数あり、花のあと長さ約2cmほどに伸びて白い綿状になり、倒卵形の果穂を作る。
 私たちが目にする白い綿毛は、タンポポの綿毛と同じで、パラシュートを背負った種である。ワタスゲが1本の茎の頂上に球形の綿毛穂をつけるのに対して、サギスゲは3~4個の筆状の綿毛穂をつける。茎は鈍い3稜で、株を作らない。
 北海道と本州の山地帯から亜高山帯の湿地に生える。岩木山には「ワタスゲ」は生えていない。「ワタスゲ」は高層湿原に生えるのだが、岩木山にはまともな「高層湿原」は存在しないからである。
 花名の由来は「柔らかくて白い綿毛をサギ(鷺)に喩えたことによる」のである。

◇◇ サギスゲの果穂が踊る湿原 ◇◇
 
「・群れをなす鷺菅そよぎ夏風に広がる湿原静かな語らい」という短歌を作ってみた。
 「サギスゲ」が咲くのは6月、だが、この短歌や次に掲げる俳句も「花期」のサギスゲが歌題や句題ではない。いずれも、果穂が綿毛になっている7月のものである。      
 花は非常に地味な「暗い感じの黄緑色」で、しかも茎も育っていず全体としてもまばらで、林立感には乏しいものだ。
 だが、夏緑の時季になると一変する。騒然として「喧しい」感じで「生き生き」としてくる。だが、しばらく見ていると、「多数」ということでの「騒然」さはあるものの、全体は「湿地」にあって、きわめて静かなのである。この感じは「ワタスゲ」にも当てはまるのである。

 さて、この短歌の主題だが、その「静かさ」だ。簡単に解釈してみよう。
…群れをなしている「サギスゲ」がその白くて柔らかい「棉の花」のような果穂を垂れ下げている。この湿地の周りはブナ林だ。そのブナ林の樹間越しに柔らかい夏風が吹き込んでくる。そして、湿地をまんべんなく広がりながら吹き渡っていく。
 その風で「サギスゲ」の果穂は思い思いに動くのだ。それはまさに顔を向けあって、お互いが語り合っているように見える。だが、その声は沈黙に近いほど静かなのである。ブナ林の中に、ぽっかりと出来た小さな湿原はいつたりとも静かなのである。…
 次は俳句だ。「・鷺菅よ吾は呼びたし綿菅と」には私の思いが込められている。それは、「果穂」の形状の違いと「岩木山にはワタスゲは生えていない」という事実から生じているのである。
 「ワタスゲ」の果穂は床屋さんで使っている「耳かき棒」とその形状が非常に似ている。可愛らしく、柔らかでふっくらとして優しそうという印象だ。これは1本の花茎に1個の花をつけ、よって果穂も1個となるからである。どことなく、毅然ともしている。
 だが、サギスゲの方は、1本の花茎に2~3個の花をつけ、よって果穂も2~3個となるのである。これによって「耳かき棒」のイメージは消え、何だか騒然としてきて「毅然」さもないものに見えてしまうのだ。
 以上のようなことから、「ああ、鷺菅たちよ、おまえたちが『ワタスゲ』であったらどんなにいいことだろう、この場所に『ワタスゲ』が生えていたらなんといいことだろう。一度でいいからおまえたちのことを『ワタスゲ』と呼ばせてくれ」という思いを持ったのである。
 だが、これは「無い物ねだり」である。「ねだる」ことは心の中で思うことに留めなければいけない。「…であったらいいなあ」で止めることだ。生物多様性の維持と自然を守るためには「無い物ねだり」をしてはいけない。

 次の俳句「・鷺菅は綿毛か細く静かなり」は「ワタスゲ」のふっくらとして丸みを帯びた果穂を強く意識した時に出来たものだ。
 「サギスゲ」の果穂には「ふっくらとした丸み」がない。どちらかというと「紡錘」形に近い。だが、傍に寄ってよく見ると「綿毛」が非常に細い糸状になっていることが分かるのである。それはとても繊細で「か細い」のである。風によって多少触れ合ったとしても、これだと「静か」であること間違いないだろうという思いを主題にしたものである。

◇◇ 岩木山毒蛇沢の治山ダム調査(1)◇◇

 今日から表題のテーマで少し書こうと思う。実は16日に岩木山毒蛇沢にある「治山ダム」の調査に行った。東北森林管理局から、情報公開で「岩木山」に設置されている治山ダムの位置関係を示す図版(地図)を入手していた。
 その「地図」に記載されているものと「現場」がどうなっているのかを「踏査」して確認するための調査である。
 毒蛇沢のものは確認出来た。その後に「滝ノ沢」の「治山ダム」踏査に入ったが、「滝ノ沢」左岸を詰めたものだから、時間切れで「治山ダム」設置の場所にたどり着くことが出来なかった。とにかく、藪こぎでその日は終わってしまったのだ。次回は右岸を詰めて「治山ダム」に辿り着きたいと思っている。
 この「毒蛇沢治山ダム」踏査の詳細は、明日からということにしておく。(明日に続く)

生物多様性から「モウセンゴケ(毛氈苔)」を想う

2010-07-17 04:51:29 | Weblog
 (今日の写真は、モウセンゴケ科モウセンゴケ属の多年草「モウセンゴケ(毛氈苔)」の花である。名前の由来は「花」にあるのではない。葉に「真っ赤な線毛が密生していて、毛氈を敷いたように見えること」によるのだ。
 若い花茎の先端は、ムラサキ科キュウリグサ属のキュウリグサのように、らせん状(ゼンマイ状)に下向きに巻いているが、花の咲いている時はやや斜め上向きとなる。そして、花が咲き終わるとその部分から直立するので、種を稔らせた花茎は直立する。このような格好を「モウセンゴケの魔法のつえ」と呼ぶこともあるらしい。
 6月から8月にかけ、10~15cm程度の花茎を出し、総状花序に次々とこの白くて小さい可憐な花を咲かせるのである。花弁は5枚、花柱はV字型に深く裂けたものが3本である。雄しべは5本ある。

 この花だけ見ると「蝿や虻、時には蛾を捕らえて食べる」という恐ろしい「食虫植物」としての印象はない。どうしても、「虫を餌にする植物」というイメージとこの白くて、小さくて可憐で清楚な花のイメージとは結びつかないのである。
 だが、これは私の勝手な思い込みと感性である。「生物多様性」を考えると、モウセンゴケと虫の関係は冷静に客観的な事実として捉えねばならないのである。)

◇◇ 生物多様性から「モウセンゴケ(毛氈苔)」を想う ◇◇

 花は「捕虫」し、「食虫」することはない。「捕虫、食虫」行為はもっぱら葉が行う。まるで、海にいる「棘皮動物」か「イソギンチャク」である。「棘皮動物」とはウニ、ヒトデ、クモヒトデ、ナマコなどである。「ウニ」は動物を餌にしない。厳つい針で武装しているが「草食」系で、海草を食べる。
 だが、これらと似ている「モウセンゴケ」の葉は「動物」を食べる「肉食」だ。その肉食をする葉は鮮やかな赤色を帯びている。格好はさじ形や倒卵形で、その縁から表面にかけて「腺毛」を持ち、その先端にはねばねばした粘液を付けている。これは毛先についた露を想わせるが「透明」な粘着性の強い粘液体である。
 この「腺毛」の先端にある「粘液球」が昆虫などの小動物を粘り捕らえるのだ。そして、驚くことに「粘り捕らえる」と同時に、内側に曲がり始め、包み込む形の傾斜運動をして「獲物を巻き込ん」でいくのだ。捕らえられた虫は簀巻きにされた土左衛門さながらだ。 化学的には、これは虫の「タンパク質やアミノ酸」に対して、「腺毛」が強い反応を示していることなのである。
 驚くことはそれだけではない。腺毛から続いて分泌されるパーオキシダーゼ、エステラーゼなどの消化酵素により捕まえられた虫は、分解されて、吸収されてしまうのである。 しかも、「腺毛」や「葉」は表面が「クチクラ層」で覆われており、消化酵素によって「自分」が溶かされ消化されることを防いでいるという強(したた)かさなのである。

 「モウセンゴケ」は北半球の温帯を中心とする湿原に広く分布する。そして、低温・過湿のため植物の枯死体が分解されにくく、「泥炭堆積」が発達し泥炭化が進み、低い栄養分に耐えるミズゴケ類が厚く繁茂しているような高層湿原に多いとされている。
 「モウセンゴケ」は「泥炭化の進んだ低い栄養分」しかない場所に生えるので、その土壌から窒素化合物やリン酸などを得ることが難しいのである。
 そこで、葉の縁や表面に粘液体の「雫(しずく)」をつけた腺毛で、「ハエやガ」などの小型の昆虫を捕らえる。そして、「土壌の栄養塩類に乏しい湿原」に適応しているのである。

 岩木山には、貧弱だが「高層湿原」と呼ばれる場所は一カ所しかない。その意味からは「モウセンゴケ」は岩木山では多くないといってもいい。
 しかし、面白いことに、岩木山の場合は、百沢と岳間の県道を横切る沢縁の小さな「湿地」でもよく見られるのだ。
 その場所で、自動車を止めて「降り」て、覗いて見たらきっと出会えるはずだ。すでに花期は終わったかも知れないが、「モウセンゴケ」の葉は確実に見ることが出来るはずだ。
 ただ、花が小さいので見落とすかも知れないが、「赤い毛氈」状の食虫網(触手葉)が結構、色鮮やかなので、それを探すと簡単に見つけることが出来る。

 私は「モウセンゴケ」の花と出会い、次のような短歌を詠んだ。

・湿原に白き花舞い捕虫する毛氈苔がいのちの昇華・
 ただ、言葉を「五七五七七」で並べているような短歌だが、主題は「栄養の貧しい湿原に生育する毛氈苔、その白い花が今や盛りと湿原を舞っている。それにしてもこの花々の清楚は何なのだろうか。きっと、それは毛氈苔たちに捕らえられて栄養となった虫たちの霊、生命の昇華なのではないだろうか」ということである。

 序でに俳句も作ったので紹介しよう。これら俳句は「モウセンゴケ」の生態が中心である。
・哀れ虫毛氈苔が包み込み・朝露に毛氈苔の光たり
・赤染めの毛氈苔の茎緑り・茎頂に毛氈苔が白き花

「近年、特に山麓を含めて岩木山では、人為的な要因から湿地や湿原が少なくなっている。また、高層湿原は岩木山の生成条件から絶対的に少ないのである。僅かに北面の標高1000m付近に、狭い上に貧弱なものがあるだけである。
 …縁を巡る。足許には蛙菅(カワズスゲ)の林、ミズゴケが林床を成している。その中に赤みがかった触手葉で捕虫しているものが見える。その脇に緑の一条、米粒ほどの白い花。優しさを虫に撃つ生命の昇華(しょうか)、モウセンゴケの花だ。」(拙著:岩木山・花の山旅から)

 触手葉で捕えられた虫たちは「モウセンゴケ」の貴重な栄養塩類となって「モウセンゴケ」を助ける。虫は花から蜜などの栄養分を貰い、受粉の手伝いをする。
 殺虫成分を含んだ「農薬」で「虫」が殺される。その行く末は、すでに「レーチェル・カーソン」が「沈黙の春」で明らかにしているところだ。「虫」がいなくなると「モウセンゴケ」も死滅する。
 「生物多様性」とは「そうならないことを維持するための地球の仕組み」なのである。