岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

NHK弘前文化センター講座「岩木山の野鳥」…うまく出来るか?

2007-07-29 07:45:40 | Weblog
 今日の表記の講座は、私1人で担当する。前から何回も言っているが、私には「専門」などというものはない。単なる、「登山者」の1人に過ぎない。しかも、主に、「岩木山」をそのフィールドとしている「狭くて、低い」登山者である。
 私のことを「高度で、技術的にもハイグレードと自認し、しかも日本国内の山々を、もちろん百名山を含めて登り終え、時には海外の山にまで足を延ばしている」登山者(いや、失礼)登山家たちは、「低くて、狭い」登山者と呼んでいるようだ。
 つまり、「標高1625mという低山の岩木山にしかて登らず、周囲60kmに満たない狭い岩木山の中でうごめいていて、岩木山しか知らない」登山者だというのだ。
 いや~、ありがたい。そのとおりである。鋭くもあり、正しい観察である。
慧眼恐れ入るところであるが、最後の「岩木山しか知らない」という評価は、私に対しては買いかぶりだし、岩木山に対しては失礼なことだろう。
 
 岩木山とは私ごときが「何でも知るほどに、知り尽くすことが出来るような」浅くて薄い山ではない。その懐は深く、何百回登ってもその全容に触れることは出来ない。仮に、「岩木山とは何か」と問われて、なんと答えることが出来るか。答える百人には百様の答えがあるはずである。それはその深さと広さを示すものだろう。
 大きく分けると、岩木山には「自然的な側面」といわゆる人間との関わりである「人文・社会的な側面」がある。
 登山という行為も、何となく登っているのであれば「自然的な側面」のきわめて一部分との関わりで終わってしまう。それはあくまで「点」に過ぎない。若い頃の私はそうだった。自然のまっただ中に身を置きながら「自然を見よう」とはしなかった。
 たとえば、道すがら「聴こえる」野鳥の声を「聞く」ことはしなかった。その声は単なる「音」であり、「鳴き声や音色」ではなかった。私の「聴覚」器官である「耳」が何となく、勝手に「集音器」の役割をしていたに過ぎない。これだと、「自然的な側面」のきわめて一部分との関わりさえも放棄していることになる。
 このような岩木山との関わり方の中で、どうして「岩木山を知る」ことになろう。私にとっては、「岩木山とは知らないことだらけの山」なのである。そういう事実をもってとらえ直すと、それは「岩木山にとっては失礼なこと」になるはずだろう。

 今日の講座を私が担当することも、「岩木山と野鳥たち」に対して失礼なことの一つである。受講者に対しても失礼にあたることだが、失礼の度合いは「岩木山と野鳥たち」に対する方が強い。
 それは、野鳥についてよく知らない「門外漢」が担当することにある。
本会には「野鳥の会」のメンバーがかなりいる。私などが「出る幕」ではないのだが、こと講座に至っては、「受講者」を前にして解説したり、講話をしたりするには人様々で「得手不得手」がある。
いきおい、「何でもやりますが、その講座を担当することだけは勘弁して下さい。」
ということになるのだ。
 講座案内の計画をした3ヶ月も前から調整をしてきたのだが、人材は確保できないままで経過した。しかし、案内をしてしまった以上、しかも、受講希望者が定員程度に達している現況からも、無責任な「放棄」は出来ない。
 そのような訳で、「言い出しっぺ」というか「計画した者」というか、その責任というのか、私が今日の講座を担当することになった。
  
 10時30分から1時間半の講座である。
プリント資料として、岩木山で確認されている野鳥のリストに解説を付けたものをA4版4ページを作った。種類は92種である。野鳥について理解する上で必要な基本的な「用語」も付け加えた。
 オーバーヘッドプロジェクターで使用する写真も本会で蒐集してあるファイルから60種選んで、アイウエオ順に並べ、スライドショウ表示が出来るようにした。
 併せて、その順番に「鳴き声」も聞くことが出来るように編集した。これにはずいぶんと苦労したし、時間もかけた。本番でどうなるか。話しをしながら、コンピュターを「操作」することは、難しい。お手伝いがほしいところだ。
 さすが、「門外漢」のすることはやたらに、その量だけが「多く」なるものだ。
確固とした「基準」がないからである。
 果たしてどうなるか。不安でいっぱいである。

 さっき、参議院選挙の投票に行ってきた。投票開始と同時にと思い出かけたのだが、すでに20人ほどが並んでいた。毎回この時間に投票に来るという人が言っていた。
「今日は多い。いつもと違うみたいだ。」と…。

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