岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ここが夏緑に覆われたら…? / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(19)

2010-03-31 05:22:24 | Weblog
 (今日の写真は岩木山白狐沢の上部支流である。この沢には「岩魚」が多く生息しているといわれている。岩魚は、一般的には暗緑色の地に、多数の小さな白や朱色の斑点がある川魚だ。最も大きくなると全長が80cmにもなるといわれている。普通は20~50cmだそうだ。私は「釣り」をやらないから詳しくは分からない。渓流釣りの代表的な「釣魚」で、非常に美味しいとされている。
 「岩魚釣水濁さずに歩きけり」(茨木和生)という俳句にあるように「岩魚」は澄んだ水に棲む魚だ。ということは、この「沢」は水が澄んでいるということになる。
 澄んだ水を沢に流し込むのを掌るのは、「森」である。今日の写真はそのことを教えてくれているのではないか。
 葉をつけていない木々なのに、この「密生」観は、ひとえに木々の数の多さを語っているものだ。)

◇◇ ここが夏緑に覆われたら…? ◇◇

 この沢を取り込んでしまうような木々の群れを眺めながら、私はすごく嬉しくなった。ここは「人手」の入っていない森だと感じたからである。そして、ここが、夏緑に覆われたらどうなるのだろうかと想像した。
 恐らく、夏緑はこれらすべての空間を埋め尽くすだろう。視界すら遮るに違いない。完全に樹木が主人公の、樹木が支配する世界へと変貌するはずである。
 そうなると、沢の縁を伝って「遡上」することは難しくなる。この「沢」の中を登って行くしかない。きっと楽しい「沢登り」になるだろう。
私はまだこの沢を「遡上」したことはない。だから、詳しいことは分からないが、ある人の弁を借りると、「この沢には堰堤がないので、水がきれいなのだ」そうだ。
 「治山堰堤」にしろ、「砂防堰堤」にしろ、それらがないということは「森林の伐採」が極小に食い止められているということを示すものだ。
 もし、それが事実ならば、この「沢」は悠久のあるがままの自然を保っている沢ということになる。すばらしいことだ。岩魚が多く棲んでいるということも頷けるというわけである。
 岩木山の南西から北東にかけて存在する沢には、「堰堤のない沢」はない。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(19)◇◇
(承前) 

 …現代の日本は「クリスマス」天国だ。ところが、「クリスマス」が日本になかったわけではない。
 古い話しだが1552 年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本で初めてのクリスマスであるといわれている。しかし、その後、江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまではまったく、日本人に受け入れられることはなかったのだ。
 日本における「クリスマス」というものは、元々、キリスト教徒のものだったのである。
 日本でクリスマスが、教徒以外に受け入れられ始めたのは、1900年頃だといわれている。それも、人々が「始めた」というよりは、基本的な「構造」は現代と同じく、商店の「クリスマス商戦」という色彩が濃厚なものだったようである。
さらに時代が進むと、多くの企業が「商売」として、「クリスマス」を利用するようになり、大正時代になると、児童向け雑誌や少女雑誌の12月号には、表紙をはじめとして、クリスマスにまつわる話しや挿絵がたくさん挿入されたという。
 また、1926 年12月25日、大正天皇が崩御し、先帝崩御日は休暇日となるため、これも、「クリスマスの普及」に大きな役割を果たしたとされている。
 加えて、マスコミまでが「クリスマス」の普及にお先棒を担いでいた。1928年の朝日新聞は「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書いて、「クリスマス・サンタクロース」を煽っている。
 昭和の初期には、銀座や渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店が、クリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えたそうだ。
 キリスト教徒が国民の外国では、1月 6日までをクリスマス期間としているところが多い。だが、日本では12月25日を過ぎると、「クリスマスの飾り」が、「日本の神道式」の門松などの正月飾りに替えられたものであった。
 商店も正月準備用や大掃除用商品の販売が中心となり、流される音楽も「ジングルベル」や「清しこの夜」から「お正月」に変わるのであり、そこに違和感が存在しない。これが、「日本人の個性」なのだろうが、何という根無し草的な特異性であろう。
 だが、最近は、商業施設では早いところは、11月上旬から「クリスマスツリー」が飾られ、「クリスマスセール」が行われ、店内には「クリスマスソング」が流れ、洋菓子店では「クリスマスケーキ」を販売する。
 この流れは、2月のバレンタイン‐デー【St. Valentine’s day】につながっていく。これは、2月14日。269年頃殉教死したローマの司祭、聖バレンタインの記念日である。
 この日に愛する人に贈り物をするという習わしが西欧にはあるという。だから、これまた、日本人とは宗教的には何の縁もゆかりもないものである。
 日本では1958年頃より流行し、「女性から男性にチョコレートを贈る」という「商業主義」によって造り上げられた「習慣」として息づいている。
 また、街中では街路樹に「イルミネーション」として豆電球(最近はLED 照明)が飾り付けられる。庭のある家庭では、庭木などに電飾を施すこともある。
 私の家の近くにもこれをしている家庭があり、連日連夜、朝まで「ピカピカキラキラ」を続けている。
 これも、企業、商店の客集め的な手法に踊らされているのであろうが、新年への「カウントダウンイベント」が盛んになる12月31日深夜まで、「イルミネーション」がそのまま残されるということがある。
 その延長線上に「街路樹」に「イルミネーション」を施して「冬期間」ずっと照明し続けるという地域や自治体までが存在するようになってきている。まさか、鎮守の森に「イルミネーション」などと発想して、人集めをしようなどとすることはないだろう。そうなったら、興ざめは頂点に達するだろう。そうなったら私は日本人を「やめる」しかない。(明日に続く)

柏(カシワ)の木の隣の木は? / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(18)

2010-03-30 05:13:40 | Weblog
(今日の写真は別に何の変哲もない「低木が疎らに生えている雪原」風景である。誰もがそのように見る。
 ところが、枯れ葉をつけた左側の2本の樹木に目がいくと「変哲のない風景」が意味を帯びてくる。さらに、右側の松の手前にある樹木に目がいって、その樹木がつけている枯れ葉と左の樹木の枯れ葉と似ているということに気がつくと、敢然として「ある意味」を帯びてくるのだ。
 左の2本の樹木は「カシワ」である。その右にあるものは、そのカシワの葉と
そっくりな葉をつけた樹木だ。だが、こちらは、つけている枯れ葉が少ない。
 カシワは葉は枯れるが、春まで「枯れ葉」を落とさない。冬場、ずっとつけたままでいる。これが、「カシワ」の大きな特性だ。そのため、昔から縁起のいい木として、神事などに使われてきた。
 一般に、植物にとって、「落葉」することは、一時的、または定期的な不利な条件でも生きのびるためである。夏、降雨が少ない時、温帯の冬、熱帯では古くなった葉の切り離しなどがそれである。
 若い葉は、大量の「オーキシンというホルモン」を生産しているが、古くなったり、障害を受けたり、気温が低下すると、その生産が低下してしまう。
 そうすると、今度は「エチレンというホルモン」が上昇し、酵素が「離層」に分泌され、それが分離し、葉は落ちるのだ。だが、「カシワ」の葉は落ちない。カシワのように、枯れ葉が枝に付いているのは、離層の形成が遅いのでなく、酵素の分泌が少ないためと思われる。
 ところがどうだろう。右側の「カシワ」は葉を落としているのだ。となれば、これは「カシワ」ではないのか。)

◇◇ 柏(カシワ)の木の隣の木は? ◇◇

 「カシワ」は岩木山ではそれほど多くはない。特に南面と東面の山麓では非常に少ない。探すのに苦労するほどだ。だが、この場所、北面の白狐沢左岸山麓には非常に多い。
 その中で「ミズナラとカシワの種間雑種個体」を発見した。樹齢は10年程度であろうか。すでに、堅果を生産する能力があり、枝に枯れたカシワに似た「殻斗」がついていた。ミズナラとカシワの種間雑種は両親種と開花期が大きく重なるものだから、自然条件で比較的簡単に両親種と交雑が出来るのだそうだ。
 「ミズナラとカシワの種間雑種個体」だから「ナラガシワ」(ブナ科コナラ属)と呼ばれるのだろうかと思い調べてみたが、どうも違うらしい。「ナラガシワ」は「岩手県・秋田県以西の本州、四国、九州に分布し、朝鮮、中国などにも分布する」とあることか「岩木山のもの」は「ミズナラとカシワの種間雑種個体」と呼ぶべきなのだろう。
 葉の形は「コナラあるいはミズナラ」に似ている。だが、葉は「カシワ」に似て、大型で長さ10~25cmもある。長さ2~3cmの明らかな葉柄がある点もコナラとの良い区別点であるが、時としてコナラと区別しにくい個体もあるそうだ。幸い、「殻斗」が残っていたので、それを注意してみたところ、ミズナラやコナラと違い、「瓦状」ではない。それはクヌギやカシワのそれであった。
 やはり、これは「ミズナラとカシワの種間雑種個体」である。寒冷な地方ほど「ミズナラとカシワの種間雑種個体」は多いそうだ。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(18)◇◇
(承前) 
 …日本人で、神道と仏教の信者は2億人だという。もちろん、この数字はダブっている。日本人にとって「神」と「仏」に違和感はない。明治政府の「廃仏毀釈」令の前までは「神も仏も併存状態」であった。岩木山にも三観音の他に、多都比姫神(タツヒヒメノカミ)や大山祗神(オオヤマツミノカミ)などが祀られていた。
 それに加えて、日本人はこれに、いとも無造作に「キリスト」を取り込んだ。この拘りのなさは一体何だというのだ。言い方を変えると、日本人はすべて「無神論者」なのかも知れない。そうでなければ、「廃仏毀釈」という宗教弾圧的な政府令があんなに、スムーズにいく訳がないだろう。
 だが、国民、民衆が「信教の自由」に寛大だったわけではない。天皇を戴いた明治政府が「神道」に偏っていた訳でもないだろう。ただし、一部、錦の御旗として「天皇」を御輿のように担いだ者たちは偏っていたかも知れないが、その多くは「信仰的な誇り」と「敬虔な信仰心」に欠けていた者たちであったのではないか。
 だから、いとも簡単に「弾圧的」なことをやってのけるのだ。自分たちに痛みを知る心があれば、その痛みを他に「与える」ことは憚られてしかるべきだろう。どちら側にも、大した「誇りと敬虔さ」はなかったのだとも言えるのだ。
 世界の歴史を「戦争」という視点でとらえると、「宗教戦争」という範疇でとらえられるものが圧倒的に多い。幸いというべきか、あるいは不幸というべきか、日本では、これまで国内でこの種の戦争経験がないし、外国から侵略的な「改宗」を迫られた経験もない。
 一部分的に「信長が比叡山焼き討ち」や「一向宗」弾圧、徳川幕府のキリシタン弾圧などはあったが、このことに関する痛みを体験していないから、日本は植民地(侵略)戦争で多くのアジアの民に対して日本的宗教観を強要したのだ。
 ヨーロッパとアラブの戦争は、まさに宗教戦争である。それは「十字軍」にはじまる。キリスト教とアラーの神との戦いだ。アラブ社会では同じ宗教の中で、その宗派同士の殺し合いもある。
 石油権益をかけた戦争であったが、「アメリカ」が「イラク」に仕掛けた戦争は表向き的な構図では「キリスト教」と「アラブ」との戦いの何者でもなかった。
 「いい、悪い」は別として、「宗教」というものは「死をも厭わない」という厳しい現実、つまり、「覚悟」を持つものである。そのような「自覚と覚悟」が日本人にはない。誇りもない。だから、簡単に、歴史的に見れば異教徒の習俗である「クリスマス」を受け入れ「年中行事」としてしまうのである。
 私は、この「自覚と覚悟」のないことが「オーム真理教」の事件を生み出した背景にあると考えている。サリンを使い多くの人を殺傷した「教団」側にも、「オーム真理教」の存在を許した国民を含めた国の「寛大すぎる」宗教政策と甘い警察の捜査態度にもそれは見て取れる。(明日に続く)

飛沫(しぶき)が氷柱(つらら)に / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(17)

2010-03-29 05:08:22 | Weblog
(今日の写真は、昨日撮ったものだ。場所は岩木山白狐沢の左岸支流である。前々日、前日と打って変わって、いい天気であった。そのいい天気の、日射しの中で輝く「氷柱」である。
 天気予報はまた外れた。外れて嬉しい。「嬉しい」ということには2つの意味があった。それは、テレビやラジオで言う天気予報は外れたが、私自身が描いた「予報」どおりになったということと、昨日開いたNHK文化センター講座「野外観察」が通算で60回目になったということである。
 その記念すべき「60回目」の野外講座を「晴れた日の下」で実施できることが、「嬉し」かったのである。)

◇◇ 飛沫(しぶき)が氷柱(つらら)に ◇◇

 今季は降雪が少なく、よって積雪も少ないので「沢の開き」が早い。沢を埋め尽くした積雪が解けて、沢本体が姿を現し、その流れが音を出し、光り輝き出すことを「沢が開いた」というのである。何ということか、今季はそれが「1ヶ月」ほど、早いのである。
 「沢が開く」と、すべてが生き生きとしてくる。流れの動きに呼応して、すべてが動き出すという感じなのだ。「マンサク」が咲き出し、「バッコヤナギ」が蕾を膨らませ、「ミズキ」が梢を赤く染め始めるのである。
 ただ、一気に「春」がやって来るというわけではない。暖かい日には、積雪を解かした「雪解け水」が、積雪の「軒」から、沢に垂れ落ちて、流れの一員になる。
 だが、寒い日には、氷点下まで気温は下がる。積雪の「軒」から、沢に垂れ落ちる水は「氷柱」になるのだ。
 本物の春が到来するまで、「解けては凍る」という「暖と寒」を繰り返しながら、日は進むのだ。この「暖と寒のを繰り返し」は「三寒四温」に似ている。
 寒いといっても、垂れ落ちる水が「急速フリーズ」されるわけではない。ゆっくりと時間をかけて「鍾乳洞」の「天井から成長した鍾乳石」や「下から伸び上がった石筍(せきじゅん)」やこの2つが繋がった石柱」のように成長する。
 そして、流れも急速にそのスピードを下げるわけではない。速い流れは、その「飛沫」を垂れ下がった氷柱の下端に付着させる。そして、それを「氷柱」の一部として取り込み、貼り付けるように「成長して」肥大になっていく。氷柱の下端が「横広がり」なのは、そのような「メカニズム」がなした「業」なのだ。
 今日の写真の氷柱は、この時季でなければ見られない、そして、そこに行かなければ見ることの出来ない「風物」なのである。 

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(17)◇◇
(承前)

 …この題で書き始めたその理由だが、それは「我が家庭では、ひな人形を飾り、雛祭りをするがクリスマスはしない」ということからだった。そろそろ、私が言いたい核心部分に入ることにする…。結論から先に言ってしまおう。
 キリスト教徒でもない日本人の殆ど、大雑把に言うと「1億3000万人の日本人」が、
あたかも、年中行事のように定着した、または「商業主義」によって定着させられた「クリスマス」を楽しんでいる。
 だが、「クリスマス」の本義は宗教的な行事であり、キリスト教徒にとっては「楽しみ」以上に「聖誕祭」などというクリスマスの訳語が示すように「感謝し祝う」という側面が強いものである。
 日本語の「クリスマス」は、英語の「Christmas」に由来している。語源は「キリストのミサ」(Christ + Mass)にある訳だから、日本人や日本文化とは全く関係のないものであった。日本語では他に、降誕祭、聖誕祭、聖夜などの呼び方がある。
 このように、その宗教的な精神や歴史性とは全く関係のない「1億3000万人の日本人」がクリスマスを楽しみ、子供たちはサンタクロースが運ぶといわれているプレゼントを待ち望むのである。私はここに「拘りを持たない、民族の誇りと自国の文化を忘れた」日本人を見るのである。
 ところで、本来「クリスマス」を祝い、楽しむことのできるキリスト教信者は日本人の中に何人いるのだろうか。
 一般的に、日本人の信仰宗教は「神道系と仏教系だけで2億人を越える」といわれている。それに対して「キリスト教系は約200万人」とされている。
 だが、これは、キリスト教は「洗礼」という正式な儀式を経て信者になることに対して、神道や仏教は「神社」や「お寺とお墓、仏壇」を拝むことで「信者」になれるという違いがあるので、簡単には比較はできない。
 次のような資料がある。「2006年日本人口127,055,025人に対し、洗礼を受けたカトリック信者(一般信徒+聖職者)は452,571人(人口比0.356%)で地域によってかなりばらつきがある。長崎教区65,415人(人口比4.376%)、鹿児島教区(鹿児島)9,584人(人口比0.545%)、東京教区(東京・千葉)95,362人(人口比0.521%)、その他はどこも 0.1~0.4%に過ぎない。」
 また、プロテスタントなどの教派は、2005年以降のデータでは人口の1%にも満たないことが明らかになっている。なお、カトリック、オーソドックス(正教)含めて全人口の0.44%しかいないという統計も紹介されている。
 以上のデータから推量、推計すると、キリスト教の教会に正会員として登録されている人は、日本の総人口の「1%未満」と言ってもいいのではないだろうか。
 このわずか「1%未満」の日本人に許されているはずの「クリスマス」を何の違和感も、抵抗感も持たずに、「異教徒」である他の日本人が、勝手に「変質させて」自分たちのものにしてしまったのである。
 言い方を変えると「1%未満」のものに残りの99%以上が飲み込まれ、支配されてしまったのだ。魂を奪われ、身も心も「クリスマス」の時期だけは、似非「クリスチャン」となっているのである。
 だが、これも、「商業主義」がする巧みな演出に「乗せられ」ているに過ぎない。多くの日本人はそのことに気づいていない。主体性のないものには「見えないこと」が多いものだ。(明日に続く)

沢に入ったカモシカのこと / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(16)

2010-03-28 04:35:51 | Weblog
(今日の写真は、白狐沢畔のミズナラだ。沢畔というよりはミズナラ林が沢に向かって開けている「林縁」といった方がいいのかも知れない。
 白狐沢は北に向かって流れ下っているので、この位置だと「南東」からの日射しを多く浴びる。太陽高度の高い夏場だと、1日に12時間以上の陽光を浴びる時を持てるはずである。
 このような場所には多くの「樹木」が集まる。「日射し」を好む「陽樹」といわれるものだ。樹高の低いものが多いのだが、その中で背の高い「ミズナラ」とまるで、同時進行で大きくなっているものがある。それはフジである。
 ミズナラの幹に絡みつき、その幹を「締め上げ」て、梢にまで達しているものがあると思えば、一方では樹冠まで「直状」で伸びて、一本の「綱」のように見えるものもある。
 引っ張ってみたがびくともしない。人間一人なら、この「綱状」のフジ蔓を伝って、ミズナラの梢まで「登って」いけそうな気がした。
 ミズナラの成長の邪魔をしてはいるのだろうが、「がっちりとお互いが固定」された状態にあるから、成長に「アンバランス」があれば、どちらかがお互い足を引っ張ることに「大きく」はなれないはずだ。だが、そのようなことを感じさせないように「どちらも」立派に成長している。いつ見ても、これには驚くし、不思議な思いを持つのである。
 この沢左岸の「ミズナラ林」は、圧倒的にミズナラが多いのだが純林ではない。この時季に特に目立つのは「常緑」である「赤松」と「杉」だ。赤松の方が多い。これは人が植えたものではない。
 この辺りもかつては「里山」として、人々によって「利用」されていた場所である。薪炭用に切り出されたミズナラの跡に、アカマツなどが入り込んで二次林を形成したものだろう。スギも同じだ。植えたものでなく、近くの植林地から種が運ばれてきて育ったものだろう。他には、ウダイカンバ、イタヤカエデ、コバノハンノキ、ヤマナラシなどが目についた。)

◇◇ 沢に入ったカモシカのこと ◇◇

 事前調査に行った24日には、「カモシカ」に出会った。だが、その出会い方が、これまで「出会っていた」ものと違っていた。大体、カモシカは人と出会っても、驚く「素振り」は見せないものだ。悠然としているのである。仮に逃げ出しても、数歩トコトコと歩くと、立ち止まって「こちら」を見るものだ。
 だから、写真に撮りやすいのである。ゆっくりと「カメラ」を向けても、じっと「こちら」の挙動を見ていてくれる。そのような様子を見ていると、何だか、昔々からの「知人」のような気がしてくるから面白いのだ。
 だが、ある程度まで「こちら」が近づくと「ぱっと」離れる。ちゃんと「距離」を保って、その一時期の「共存」関係を保っているのである。何とも、可愛らしい「獣」なのである。
 ところが、24日の場合は「出会った途端に、沢に飛び込んで消えてしまった」のである。私にはそうは思えないのだが、「カモシカ」にとっては、恐らく「至近距離」だったのだろう。その上、一緒に下見に行ったSさんが「あっ、カモシカだ」と大声をあげたのである。これもよくなかった。
 出会ったら、静かにそれまでの時間の流れを「壊さない」ように努めなければいけないのだ。ここは、「カモシカ」の棲み場、彼らの「家」なのだ。他人の家に来て「むやみやたらに」喚き立てることは「生き物」としての礼儀に反することだ。
 その個体は大きくはなかった。成獣というよりも、まだ幼獣であるらしかった。きっと経験不足からの行動だったのだろう。二度と姿を現すことはなかった。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(16)◇◇
(承前) 

 …それら、名前の読み方は、1字でも、2字でも音読みが圧倒的に多い。そのほうが「歯切れがよく、すっきりとして、いさざよい感じがする」という人もいるが、それだけで「名付けられた」子供にとってはたまったものではない。私は「なに人」と物心ついた時に悩むかもしれない。
 漢字名なのだが、音読みすると「外人名」かと思わせるような名前を挙げてみよう。
「美麗」(みれい)、「恵美里」(えみり)「絵里」(えり)程度は、音訓あわせて、万葉仮名風に読むことは可能だが、「真論」「真龍」「真露」は何と読めばいいのだろう。「愛増」「百音」などは何と読むのだろう。私には「読むこと能わず」ではないが読めない。
 前者は「マロン」と読み、後者は「メル」と「モネ」だという。このようにしていくと「猛発散」と書いて「モウパッサン」と読ませることも可能だ。最近の親は明治新政府の「役人」ばりである。
 「メル」とは、フランス語の「mare」(海)をイメージした名前であろうと想像はつく。「百音(モネ)」もフランス印象派の画家の名前だが、これも、恐らく「モネ」を意識した名づけだろう。
 漢字を使いながらも、外国を意識した名前が溢れている。そういえば、漢字も元々は中国という外国の文字であった。もはや、日本人の名前はすっかり、外国に占領され尽くされているのではないか。
 「知亜里(ちあり)」「玲於奈(れおな)」、「帆風(はんな)」「毯亜(まりあ)」「沙羅(さら)」などのどこに、「新鮮さ」があるというのだ。
 眸衣(めい)、芽里(めり)、梨緒(りお)、莉沙(りさ)、理那(りな)、瑠音(るね)、麓美(れみ)、愛里(あいり)、加鈴(かれん)、佳怜(かれん)、安莉(あんり)、笑夏(えみか)、杏奈(あんな)、羽蘭(うらん)、明羅(めいら)、美麗(みれい)、悠美(ゆうみ)、頼羅(らいら)、楼沙(ろうざ)、有里砂(ありさ)絵里奈(えりな)、恵美里(えみり)、綺麗羅(きらら)、沙亜耶(さあや)、萌奈美(もなみ)、夕雨美(ゆうみ)、百合亜(ゆりあ)等々…。ああ、頭が痛くなってきた。
 だが、これらを「独創的でフィーリングを重要視した」名づけだと評価する者も多いのである。だが、これは、単なる模倣ではないのか。「外国ふうの読みの名前をつける」傾向は、拘りを持たない、まさに「民族の誇りと文化を忘れた日本人」そのものの所行ではないだろうか。(明日に続く)

バッコヤナギ(跋扈柳)のこと / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(15)

2010-03-27 05:25:54 | Weblog
(今日の写真は、川辺に見かけるヤナギ科ヤナギ属の落葉低木、「ヤマネコヤナギ(山猫柳)」だ。これは、普通の川畔や河原ではなく「山地」に生育して、「ネコヤナギ」によく似た植物であることに因む。北海道西南部から本州の近畿地方以北、それに四国に分布している。
 山地や原野などの日当たりのよいところに生え、高さは5m以上になる。樹皮は暗灰色、平滑である。葉は互生し、裏面には白い綿毛がある。3月から4月にかけて、葉が出る前に、このような「花」を咲かせる。
 鱗片(りんぺん)を割って、日ごとに大きく膨らんできて、純白の、柔らかい絹毛のような衣をまとった花芽が出てくる。ふっくらとふくらみ、いかにも暖かそうだ。よく観察すると、「地上に近い枝のもの」ほど育ちが早そうだ。よけい膨らんでいるように見える。太陽の反射熱(輻射熱)が大きく作用しているのかも知れない。
 「ヤナギ」は雄の木と雌の木と別れている「雌雄異株」の樹木だ。まだ、その「区別」はこの蕾からは窺えない。もっと大きくなって、中の柳絮(りゅうじょ:柳の熟した実から綿毛をもった種子が飛び散るさま。また、その種子。柳のわた)が出てくる頃になると、それが明らかになる。名前の由来は、花穂(かすい)に密生する絹のような毛を、猫の毛に見立てたことによる。または、 早春に,枝につく銀白色の花序を,猫の尾に見立てたことによる。
 これは、24日に白虎沢左岸のミズナラ林縁で撮ったものだ。)

◇◇ バッコヤナギ(跋扈柳)のこと ◇◇

 「ヤマネコヤナギ」は別名を「バッコヤナギ(跋扈柳)」という。しかし、この由来は一般的には不詳とされている。
 だが、「不詳」といわれるとあれこれと詮索し、忖度したくなるのだ。
 …「バッコ」とは東北地方の方言で、「婆さん」のことを意味することが多い。特に、津軽地方では名詞の語尾に「っこ」とつけることが少なくない。
 たとえば、「飴」は「飴っこ」、「氷柱」は「しがまっこ」とか「しがっこ」となる。だから、「バッコ」は「婆っこ」が相当だろうと考えるのだ。
 そこで、もう少し勝手な「推理」する。この「婆さん」という名前は、花の様子が老婆の白髪を連想させるからだと、考えてみる。
 雌花が受粉すると出てくる白い毛のような「柳絮」が、そのように見えないこともないからだ。これを「白髪」に見立てることは可能だ。まさに、「バッコヤナギ(婆っこ柳)」である。
 また、「跋扈柳」という漢字表記もある。これもあれこれと「想像」を逞しくさせるものだ。恐らく、物知りの「当て字」だろうが、根拠がないわけではないだろう。
 「跋扈(ばっこ)」という漢字は、「後漢書(朱浮伝)」に出てくる。「跋」は踏むであり、「扈」は竹で造った梁(やな)のことだ。
 広辞苑では「大魚が梁(やな)の中に入らないでおどりこえることから、上を無視して権勢を自由にすること。転じて一般に、勝手気ままにふるまうこと。のさばりはびこること」とし、用例として「跳梁跋扈」をあげている。
 「ヤナギ」は総じて成長が速く、沢筋の林縁や日当たりのいいところでは「どんどん」増える。まさに、「勝手気ままにふるまい、のさばりはびこっている」ように見える。そのような状態を物知りが「跳梁跋扈」している樹木の柳として「跋扈柳」と呼んでも別におかしくはない。だが、当て字に過ぎる。
 ふと思った。重い積雪に圧せられた「バッコヤナギ」のその立ち姿は幹は曲がり、枝も曲がり、全体が腰の曲がった「婆さん」に見えないこともないなと…。
 「バッコヤナギ」は、学名では 「Salix bakko」であり、「bakko(バッコ)」がちゃんと使われている。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(15)◇◇

(承前) 
 …村々や集落には、数は少なくなったが今でも、「鎮守の森」がある。神社や仏閣もある。もちろん、都市部にもこれらはある。この風景が、古来からの「日本の風景」、原風景であるといってもいい。
 だが、現在は、それらの直ぐ側や脇には「コンビニエンスストア(Convenience Store)」、原色で彩られた建物の「大型量販店」、このような色彩はかつての日本には見られなかったものだ。
 また、旅をして思うのだが、昨年11月、福島の山間の町を訪ねた時にも思ったことだが…、冬枯れの里山に日本の原風景を見て、「ああ、これがふるさとだ」と思ったときに、目に飛び込んできたものが、私に家の近くにもある「コンビニエンスストア」だった。全国どこに行っても、同じ装いのチェーン店がある。
 これらは、経済的利益、利潤だけが価値観の「適地立地」を絶対の条件としている。その場の「伝統的な風情にそぐわない」ということなどは無視だ。年中無休や深夜営業などの便利さ売り物にして、食料品や日用品を中心にした小型の「セルフ‐サービス」の店だ。 鎮守の森のすぐ脇には24時間眠らない小型の「不夜城」という訳である。これが、全国のほぼどこにでも存在するのである。
 経営する側も、それを利用する側も、自国やその伝統、その土地の風土やその文化に無頓着に過ぎる。無知蒙昧だ。余りにも抵抗がない。拘りがない。まさに、オリジナリテイの欠けることの極みだろう。
 だが、この傾向はこれら「外形的」なものだけではない。最近は、子供の「名」の音読みに「外人名」かと思わせるような名前をつける親が増えている。(明日に続く)

「セッケイカワゲラ」のこと / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(14)

2010-03-26 05:14:30 | Weblog
 (今日の写真は、「セッケイムシ」と呼ばれるカワゲラ目クロカワゲラ科の昆虫だ。正しくは「セッケイカワゲラ」の1種である。「セッケイ」とは、「雪渓」のことだ。北海道から本州の積雪地方に分布する。これは、24日に岩木山白狐沢左岸尾根のミズナラ林の積雪上で出会ったものだ。平地では真冬に積もった雪の上で見られるし、高山の雪渓では、夏に出現する。
 蝶にしても、トンボにしても冬には見られない。冬に目につく昆虫は数少ない。だが、これは「雪の上で多く見られるという変わった昆虫」である。雪渓の上で、雑食性なので、虫の死骸(多くはユスリカの仲間)や、落葉など、雪の上で見つかる有機物を幅広く食べている。
 体長は1.0cmほどの黒色で無翅の昆虫だ。何と、雪の上を忙しなく這いずり回るのである。止まることなくひたすら歩いてジッとしていない。翅が退化してしまって飛べないので、歩く以外に移動の手段がないのである。
 詳しいことは分からないが、この時季に動き回るということは、この「時季」が産卵のシーズンなのかも知れない。ある観察記録によると、歩きながら「沢や川の上流を目指している」とある。そして、これを捕食するのが野鳥である。中でも、地味な茶色の鳥「カワガラス」が天敵なのだそうだ。
 まさに「生物多様性」、多様な生態系を維持している「セッケイカワゲラ」である。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(14)◇◇
(承前) 

 …日本人は出しゃばることを嫌う。自分の意見を言うことでさえ、「謙虚さに欠ける、控えめでない」と、批判される。これは、出しゃばることを嫌うというよりも「出しゃばり」を許さないという、作られた通念ではないのか。
 「謙虚さに欠ける」者は、自己抑制の利かない人格の持ち主であると決めつけることで、その人たちを「封じ込める」力学を持っているのではないか。「出しゃばる」ほどに自分の考えや意見を言う人が多いと、決定に時間がかかるだけでなく、まとめ上げるのに苦労する。だが、この「意見が多く、時間がかかり、意見をまとめ上げて決定することに苦労する」というプロセスこそが「民主主義」なのではないのか。
 反対に、そのような「もの言わぬ」人が多いほど「支配する側」は楽だ。「お仕着せ」事や「上意下達」が楽に、スムーズにいく。そもそも、会議とは「もめる」ものであり、スムーズに決着するということは作為的な嘘ごとに等しい。
 私が40代の頃だった。職員会議で発言する。いつも発言した。自分の意見や考えを他の教員に知ってもらいたかったからだ。また、他の教員の考え方を知りたかったからだ。私の意見の中心にはいつも「生徒」がいた。
 ところが、そのような私を「ある校長」がわざわざ、校長室に呼んで、次のように言ったのだ。
 「先生、もし、あなたが出世したいと考えているならば、職員会議であのような態度を続けることは止めた方がいいですよ」と。つまり、出世したいなら「ものを言うな」、「私(校長)の意見に従いなさい」と言うのである。
 続けて、次のようなことも言った。…「日本人は情緒的な思考をする民族だから、理論を、筋道立てて論理的に展開するような発言を好ましいものとは考えない。論理的に他人を説得するような口調での発言を続けるのならば、あなたは管理職から見放される。校長などには成れませんよ」。
 私は、「端からそのようなことを望んでいない。論理的な思考に非を唱えること自体、民主主義への冒涜だ」という意味のことを、率直に述べた。

 先日、環境ジャーナリストである今泉みね子の「意見堂々・ドイツ人」という一文に出会った。全文を掲載する。 どうして、「アメリカ」のことについて書いていながら「ドイツ」なのだと思うかも知れない。だが、アメリカの、アメリカ人の基本的な思考スタイルは「ヨーロッパ」にあるのだ。そして、それはなにも「ドイツ」に限ったことではない。イギリスもフランスにも共通していることなのである。

 …「ドイツに暮らして驚いたことの一つは、誰もが自分の意見を堂々と発言することだ。幼稚園や学校の保護者会で親たちは、稚拙とも思える意見でも平気で発言する。スターやスポーツ選手もインタビューで、ただ 『すごーい』とか『頑張りました』と答えるのではなくて、『これがこうだから、どう良くて、ここがまずい』といったことを筋道を立ててまくし立てる。最初のころは、ドイツ人てみんな頭が良いのかしらんと誤解した。だが、長く暮らすうちに、これは、小さいころから思ったことを口から出す習慣があるからだと分かってきた。学校では、間違った答えでも発言する生徒のほうが、おとなしい子よりも評価が高い。ドイツ人のもう一つの特徴は、何かにつけて物事の否定的な面を見つける癖だ。レストランでの食事、サッカーの試合、新製品、新しい政策や制度など、何にでもまずは難癖をつける。自国や自分自身についてもそうだ。もっと良い面を見ればよいのに、と思うが、この不満癖は批判精神 にもつながる。
 環境先進国と呼ばれるドイツの環境政策は、こうした市民の批判精神と積極的な発言のおかげかもしれない。原発、森林枯死、増えるゴミなどに対して市民が批判の声を上げ、市民運動を盛んにしたからこそ、政治や企業もそれに応えざるを得なくなり、その結果、良い政策や企業の環境対策が進んだのだ。日本人の控えめな態度は美徳ではあるけれど、たまには思ったことを遠慮せずに発言してみよう。』…

文明開化の明治維新、日本は「ヨーロッパ」に学びながら、文物を漁ったが、もっとも大切な「『これがこうだから、どう良くて、ここがまずい』といったことを筋道を立てて議論する」ということを学ばなかった。時の政府が意図的に避けたきらいもある。そのような真の民主主義が日本に定着すると、困るほど「脆弱で成熟していない国家」だったのであろう。

 インタビューに答える子供たち、その言い分は「美味しかった、楽しかった」などに限定され、形骸化している。これは、単なる感覚的な感想でしかない。比較検討、推理推論という思考がない。
 私は日本人の「愚者」的な傾向は、この時、つまり幼児期や子供時代から既に始まっていると考えている。
 そのような子供が思考的な訓練を受けないまま年齢と体だけが「大人」になっている。それが日本人のような気がしてならない。これでは「愚者の楽園(フールズパラダイス)」と呼ばれてもしかたがない。(明日に続く)

マンサクの花とゴミ処理場 / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(13)

2010-03-25 05:15:20 | Weblog
 (今日の写真は、マンサク科マンサク属の落葉低木「マルバマンサク丸葉満作(万作・金縷梅)」だ。別名として「ニシキマンサク(錦満作)」と呼ばれることもある。
 これは昨日撮ったものだ。一応、裏日本にはマルバマンサクが多く、表日本のものはマンサクであるとされている。
 この花は、日本の「特産種」で学名はハマメーリス・ジャポニカ(Hamamelis japonica)といい、花と果実を同時につける『ハマ(共に)メーリス(りんごの果実)』という意味のギリシャ語である。
 古来から山里の民に親しまれてきた樹木で、ワカンジキの材料、薪炭、縁起物、止血剤、樹皮で縄をなうし、白川郷では屋根の茅止めに使っている。

 「マンサク」と呼ばれる由来はいくつかある。その1つが「雪の残っている山野で一番先に咲く、つまり(まず咲く)がマンサクとなった」ということである。事実、2月の建国記念日(?)ごろ久渡寺山の麓や座頭石辺りでは咲き出すことがある。
 その2つが「花が枝を覆うようにびっしり咲くので豊年満作の意でマンサクとなった」ということである。)

◇◇ マンサクの花とゴミ処理場 ◇◇ 

 昨日、NHK弘前文化センター講座「野外観察」の下見に岩木山に出かけた。場所は「弘前市大字十腰内字猿沢地内」である。このように言われて、その場所が「岩木山」のどの辺りなのか、直ぐに「ピン」と理解し、イメージ出来る人は多くはないだろう。恐らく関係者以外は分からないだろう。
 この講座は月に一度、最後の日曜日に実施してきた。今月は28日の日曜日だ。通算して60回目になるという記念すべき「講座」開講日となるはずである。
 毎年、3月は「雪上観察」と位置づけて、テーマは「樹木」と「動物の足跡(アニマルトラッキング)」である。「樹木」は幹の色、幹(樹皮)の構造、葉の芽、花の芽などの観察が中心となり、「動物の足跡」はカモシカ、ウサギ、アナグマ、タヌキ、テンなどである。
 これらの観察に加えて、「野鳥」の観察もする。この時季は「シジュウカラ」「ヤマガラ」など、いわゆる「カラ」類が多い。葉のない雑木林の梢を忙しげに飛び渡っていくこれら、小さい野鳥は凄く元気に見えるし、全身で春を喜んでいるようにも見えるのだ。

 マンサクの花は、見れば見るほど奇妙な花である。いくら、「ニシキマンサク(錦満作)」などという、素晴らしい名前を与えられようとも、不思議なほどに「奇妙な花」である。 先ずは「萼片」を含む花全体が、非対称というか、形が整っていない。花一つ一つが思い思いに咲いている感じがする。これが、「マンサク」の咲き方、「定形」なのだと思えば納得なのだが、それにしても、「雪のあるうちに、一番最初に咲く花」としては、もっと形の上からも「見栄え」のするものであっていいのではないかという思いは消えない。 「細くねじれた花びら」も、一様ではない。みんなその「ねじれ方」が違う。その意味では、彼女たちは十分に個性的だ。
 この「個性的な花びら」が名前の由来の3つめである。「細くねじれた花びら」が十分に実らない米に似ていることから、それを嫌い反対語の満作をあてて呼ぶようになった…というものである。命名の仕方も「忌み嫌い、反対語」を以て名づけるという正当論ではない。これは面白い。山村の農民生活との深い結びつきから生まれたことは事実であろう。

 「加藤楸邨(しゅうそん)」の俳句に、「まんさくに滝のねむりのさめにけり」というのがある。
 この俳句の意味は…、『まだ積雪の多い時季だというのにマンサクは咲き出した。雪に覆われ凍りついている滝もそれに呼応して長い眠りから目覚めたかのように水音を立て始めた』くらいに理解していいだろう。
 春、一番、すべての花に先駆けて咲く生き物「マンサク」に触発された「無生物の滝」を見事に擬人化し、その生き生きした風情を短詩の中で描くところなどは真似が出来ない。 滝は、それに呼応して「眠りからの醒めて」囂々と音を立て始めたのだということがよく分かるのだ。
 昨日、歩いたのは岩木山の「白狐沢」左岸沿いのミズナラ林だ。この沢は山麓下部で「長前川」とその名を変える。歩いた範囲には「滝」はなかったので、「囂々」という水音は聞こえなかったが、雪解け水を集めて流れ下る「水音」は激しく耳を打った。 

 この「白狐沢」左岸一帯が住所的には「弘前市大字十腰内字猿沢地内」と呼ばれているのである。そして、「白狐沢」に沿って県道30号(環状)線から上部に約1kmほど入ったところの「弘前市大字十腰内字猿沢地内」に、「板柳町」が運営する「不燃ごみ、粗大ごみ、焼却残渣」等の処理施設があるのである。
 その施設から流れ出た「水」はすべて、「白狐沢」から「長前川」へと流れ込んでいる。地下に沈殿しているものもあろう。何だか恐ろしくなった。
 この施設は平成6年(1994)に開設され平成32年(2020)まで、運営されるという。岩木山には人目に触れることのないような、この手の「施設」が結構あるのだ。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(13)◇◇
(承前) 

 …多くのアメリカの国民は、「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人をどのように見ていたのだろうか。。伝統や個性、それに、独創性を大切にするアメリカの国民は、例外ももちろん、あるだろうが総じて「一人一人がしっかりした個性」の持ち主である。
 「無顔貌」とか「主体性に欠ける」、または「自分の意見を持たない、自分の意見を言わない」とか「何を考えているのか分からない」とか「民族や出身国の特性をはっきりと表現しない」などということは「リバテイ」を重視する国民性からすると、「一体これらは何者なんだ」というふうに映ったに違いない。
 「何者なんだ」に対して与えた彼らの答えは「愚者(フールズ)」である。自分のことをはっきりと「主張」出来ない、またはしない「無顔貌」の日本人を「愚者(フールズ)」としたのである。彼らアメリカ国民からすると「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人は「愚者」だったのである。
 何でもこだわりなく受け入れ、アメリカの後ろについてきたのが日本であり、日本人なのだ。「宇宙開発」も然りである。アメリカは「宇宙開発」を縮小する方向だ。現在の宇宙ステーションはどうなるのか。これから、月や火星に求めるものは何なのか。アメリカの後ろについてきただけの日本にはそれがない。
 オバマ大統領になって、アメリカは変化している。変化とは、何かしらそこには「産みの苦しみ」が存在する。だが、希望はある。
 しかし、主体性に欠ける日本の「アメリカ追随の政策」は、本家の政策変更で、「希望のない、寄港地のない船」のように浮遊している。根無し草だ。もちろん、漂っているだけだから、「希望」などあろうはずもないし、「産む」こともない。あるのは烏合の衆による騒然さだけである。これがよく顕れているのが「普天間基地」移設問題であろう。
 「うろうろ、おろおろ」しか出来ないのは、「自分の命を他人に預けた人間の結末」である。だが、この「うろうろ、おろおろ」を見ても、これに接しても多くの日本人は、まだ「他人事」の気でいるから、日本は「愚者の楽園(フールズパラダイス)」といわれても仕方がないのかも知れない。(明日に続く)

「黄砂(こうさ)」に思う / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(12)

2010-03-24 05:14:55 | Weblog
 (今日の写真は、3月上旬、前の晩に降雪があったが、その次の朝には「からりと晴れた」という日の岩木山である。これは、旧岩木町葛原で撮影したものだ。
 すべてが、澄み切っていた。青い空と真っ白な地上、一転の曇りもない。純白をまとい屹立する岩木山だ。その斜め情報には刷毛で描いたような雲が見える。これまたいい。突き抜けるような空に浮かんだ巨大な彗星のようだ。
 この風景を眺めながら、ふと、私は「あるものが降ったらどうなるのだろう。この風景は台無しになってしまう」と思ったのだ。あるものとは「黄砂」のことだ。)

◇◇ 「黄砂(こうさ)」に思う ◇◇

 今月20日から21日にかけて、天気は荒れた。南寄りから南西の風が強かった。21日の朝、起きてみてびっくりした。南側の窓という窓がすべて、まだら模様で茶色の「物質」がこびり付いていた。予想はされたが、これほどひどい「黄砂」は珍しい。
 西側の玄関から外に出てみた。玄関の框に敷き詰められている黒い硬質陶器製の敷板は、黄色の雪を思わせるほどになっていた。
 気象庁は21日、日本に接近した低気圧による強風に伴い、北海道や本県から九州、沖縄までの全国各地で黄砂が観測されたと発表した。青森地方気象台によると青森市では21日午前6時40分に黄砂を観測したそうだ。黄砂が観測されたのは、昨年の5月19日以来のことだという。沖縄では22日にも観測されたそうである。
実は「黄砂」は毎年、何だかその降り方が多くなっているような気がしている。一昨年、昨年と岩木山では、「スキーヤー」から、スキーが滑らないという苦情が出るほどに「降って」いることが観測されている。
 少し古い記録だが、2004年3月12日のことだ。「黄砂」の影響で青森市内では、通常ならば10km先まで見えるものが、4km程度の視界になってしまったという。この影響で、JR大湊線では、列車の遅れや運休が出たという。
 「黄砂」は別に珍しいものではない。空に国境はない。気象はつながっている。大陸の空と日本の空は完全に連動している。だから、中国の空に舞い上がったものが、日本に「舞い落ちて」来ても別に不思議ではない。不思議ではないが、この「黄砂」に放射性の物質が混じっているとなると、それは別問題である。
 中国が盛んに「原子爆弾」の実験をした頃には、そのような恐怖を私は持っていた。だが、ある政党は中国の核実験を「やむを得ないもの」として、擁護していた。あれは今でも決して許されないと思っている。
 一方、その中で、政府与党は「核兵器」積載の艦船の日本への入港を密約して許していた。どっちもどっちだ。だから、政治は信じられないのである。「黄砂」は日本人にとって「お馴染み」なものである。簡単に言えばこれで「春」を感じ、春の到来を確認してきたと言ってもいい位なのだ。
 「黄砂」は俳句の世界では「春の季語」である。古くは「黄砂」のことを「霾(つちふる)」「霾(ばい)」「霾ぐもり(よなぐもり)」「霾風(ばいふう)」「霾天(ばいてん)」と呼んだ。
 「つちふるや日輪高く黄に変じ」 (長谷川素逝)、「黄砂ふる日を曼荼羅にぬかづきぬ」(吉田汀史)、「鳥の道きらりきらりと黄沙来る」(石寒太)などの俳句が有名だ。

 「黄砂」は、中国大陸内陸部のタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠や黄土高原、中国北部など、乾燥・半乾燥地域で、風によって数千mの高度にまで巻き上げられた土壌や鉱物粒子が偏西風に乗って日本に飛来し、大気中に浮遊したり、降下する現象だ。
 日本では3月から5月に見られ、主に関西や九州地方で空がどんよりと黄色っぽくなり、太陽も霞むほどになることがある。「黄土(おうど)」と呼ばれることもある。
春の「風物詩」的な側面は見せるものの、風によって大気中に舞い上げられた黄砂は、発生源地域周辺の農業生産や生活環境にしばしば重大な被害を与えることもある。
 それだけでなく、大気中に浮遊し、黄砂粒子を核とした雲の発生・降水過程を通して地球全体の気候に影響を及ぼしているとも言われている。また、海洋へも降下して、海洋表層のプランクトンへのミネラル分の供給を通して海洋の生態系にも大きな影響を与えているとする考えもあるそうだ。
 「黄砂」はこれまで、風によって砂塵が運ばれてくる「自然の気象現象」であると考えられてきた。だが、前述したように、最近はその頻度と被害が大きくなってきている。それは、中国の経済開放政策による「過放牧や農地転換による土地の劣化」等と関連があるのではないかと指摘されている。
 残念ながら、今や、「黄砂」は単なる「季節的な自然気象現象としての情緒的、叙情的、叙景的なもの」から、「森林減少、土地の劣化、砂漠化といった人為的影響」による環境問題として捉えられるようになってきている。「黄砂」は国境を越えた「環境問題」として「把握」される事象になっているのである。

 21日に青森地方気象台は「中南津軽」地方に「暴風警報」と「雷、融雪、洪水、濃霧、なだれ注意報」を出していた。私はその日、岩木山の「弥生跡地」にいた。そこで、雪上の自然観察会を開いていたのだ。
 私は私なりの天気を予想していた。次第に風は収まり、雨は雪に変わる。その通りになった。何と「お騒がせ」な天気予報だろう。「暴風警報」と「雷、融雪、洪水、濃霧、なだれ注意報」が出ると、観察会への参加を取りやめる人もいる。参加予定者のうち、2名が欠席した。的中したのは「黄砂の観測」だけである。雪上には薄茶けた黄砂の溝が多数出来ていた。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(12)◇◇
(承前) 

 …ところで、アメリカは他民族から成り立っている国だ。出身国もバラバラだ。出身の「故郷」や「国」、「民族」の個性や伝統を頑なに守っている人々によって培われてきた国である。その伝統と個性や文化が「コロニー」を形成して、その「」が集落から、市や州へと拡大してしていったのだ。
 「地名」には出身国の、故郷の名前を何の臆面もなく、付けていったことは周知の事実であろう。そのような成立過程を持つアメリカの国民は、「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人をどのように見ていたのだろうか。(明日に続く)

ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(11)

2010-03-23 05:16:20 | Weblog
 ★今日23日は……★★★★★

◆◆弘前市企画課職員による「弥生スキー場跡地利活用法を考える市民説明会」◆◆

 昨年10月、弘前市が弘前大学人文学部と共同研究の結果まとめた「報告書」は、弥生リゾート跡地(現市有地)の今後の方向性を検討するに当たって、ぜひ多くの市民に触れていただきたい内容となっている。
 いったん、草木が根こそぎ削りとられ更地になってしまった弥生リゾート跡地は、今、豊かな緑に覆われ徐々に回復しつつある。
 今回、「弥生スキー場跡地問題を考える市民ネットワーク」の要望に応え弘前市が報告書の説明をすることになった。弥生リゾート跡地を市民がどのように守り、利活用していくかを考えるきっかけとしよう。

 本会会員に要望したい。古い会員も新しい会員も「弥生跡地問題」は本会活動の出発点であり原点であることを今一度、考えて、是非参加してほしい。昨年 11月に弘前市が開いた報告会には、僅か3名の会員が参加しただけであった。今回はもっと多くの会員の参加を期待したいものだ。

▽と き 午後6時~8時
▽ところ コープあおもり和徳店(野田1丁目1の27)2階ホール
▽内 容 弘前市職員による報告書の説明(質疑応答)

★★★「説明会」には、市役所の企画課から職員が出向いて、弘前大学との共同研究の成果と方向性について説明をする。私(三浦)も乞われたので、プロジェクターを使って、「弥生跡地の植生回復」状況について解説することになっている。★★★


 (今日の写真は、リンゴの剪定作業が始まったころの岩木山だ。樹下の地肌が間もなく見えるほどに積雪も少なくなっている。ここは岩木山からかなり離れている「平地」のリンゴ園である。見た限りでは、積雪による枝折れはないようだ。
 枝折れは、枝に雪が載っかかりその重さで「折れる」というよりは、枝の先の方が「雪に埋まり」、積雪が解けて「沈降」していく時の「張力」によって、少しずつ下方に引っ張られることによって生ずることの方が遙かに多い。これは、だから「降雪」の多い年に多く発生する。
 松などは「針葉」が密なので、その上に積雪が溜まり、重くなって枝が折れるが、その形は「折れる」というよりも「落ちる」に近い。枝が幹から抜け落ちるのである。
 
 20日、21日と続けて、岩木山の東麓にある「弥生スキー場建設予定跡地」に出かけた。何と、積雪は少なく、1m足らずであった。岩木山の東麓は「積雪」の多い場所である。正常な冬ならば、積雪はこの時季でも3m以上はある。
 だから、「スキー場」開設の計画があったのだ。雪の少ない場所では「営業日数」が少なくなるので、その採算性から誰も「開設」しようとはしないだろう。
積雪が少ないだけではない。「積雪1m」が全く「硬く」ないのだ。20日には、深めの「ゴム長靴」で行ったのだが、雪質は津軽弁で言うところの「じゃけた」ものだった。シャーベット状に近いもので、ずぶずぶと埋まるのだ。
 降雪が暖気で「凍結」しないまま、何層かに積み重なっていて、まったく「締まり」がない。膝までの「長靴」なのに靴の中に雪が入って大変だった。
 翌、21日には「スノーシュウ」を着けて歩いたが、それでも、深いところでは20cmほど埋まるのだった。3月下旬、このような「積雪」状態を、私はこれまで体験したことはない。
 「積雪」が少ないと言葉だけですませることは出来ないのではないか。何だか途轍もない異変が近づいてきているのではないかと、凄く恐ろしい気分になった。
 岩木山麓にある「リンゴ園」ではまだ、「剪定作業」は始まっていなかった。もちろん、「枝折れ」はまったくない。だが、この暖冬と少雪で、「虫」や「病気」が異常に発生するかも知れないと心配になった。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(11)◇◇
(承前) 

 …隣国の言語、「アメリカ」も太平洋という広い海を挟んでは隣国とはなるが…、つまり、ロシア、韓国、中国語を学びたいとその希望を話すと、周囲から「流行らないから止めた方がいいよ」とか「これからはアメリカ英語の時代だよ」と言われたという話しを聞いたことがある。昭和30年代の世相は確かにそうだった。公教育における「外国語」学習が「英語」一辺倒になりつつあり、猫も杓子も「英語」であり、しかもそれらは概して「話せない」英語だった。
 ヨーロッパは陸続きの国が多いからだろうが、「隣国の言語」を学ぶことが常識的であり、国が公教育の中で国民に学ばせている。
 いくら、陸と繋がっていないとはいえ、しかも、日本文化の「祖(おや)」といえる国の中国語や朝鮮語を公教育として、日本が国民に学ばせないことは、いかにもおかしいことである。私は中学生になって「英語」を学び始めた時から、ずっとそう思っている。
 「アマチュア無線」を趣味としていた時にはロシア語と朝鮮語(ハングル)を一時期学習したこともある。片言での挨拶程度の会話は出来るようになったが、その後が続かず、今では「忘却の彼方」状態にある。
 「何故、中国語や朝鮮語でなく英語を勉強しなければいけなのか」という思いの所為かもしれない。私は英語は得意ではない。大学時代も英語には泣かされた。こんなことはどうでもいいが、とにかくすべてが「拝アメリカ」だった。そして、60数年間を、その状態で過ごしてきたのである。しかも、日本は自国の歴史に国民の目を向けさせようとはしなかった。特に、中国や朝鮮との関わりの中で作られてきた日本の歴史に、その近代や現代史に関しては、「教科書検定」という国家の検閲体制を総動員して、意図的に削除までしてきた。
 「犬が西向きゃ尾は東」が道理だが、日本とアメリカの関係は「犬がアメリカ向きゃ尾もアメリカ」だった。(明日に続く)

ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(10)

2010-03-22 05:23:41 | Weblog
 明日23日は……、
◆◆弘前市企画課職員による「弥生スキー場跡地利活用法を考える市民説明会」◆◆

          弥生リゾート跡地を未来の市民への贈り物に!

 昨年10月、弘前市が弘前大学人文学部と共同研究の結果まとめた「報告書」は、弥生リゾート跡地(現市有地)の今後の方向性を検討するに当たって、ぜひ多くの市民に触れていただきたい内容となっています。
 いったん、草木が根こそぎ削りとられ更地になってしまった弥生リゾート跡地は、今、豊かな緑に覆われ徐々に回復しつつあります。
 今回、「弥生スキー場跡地問題を考える市民ネットワーク」の要望に応え弘前市が報告書の説明をすることになりました。弥生リゾート跡地を市民がどのように守り、利活用していくかを考えるきっかけとしましょう。

 本会会員に要望します。古い会員も新しい会員も「弥生跡地問題」は本会活動の出発点であり原点であることを今一度、考えて、是非参加して下さい。昨年11月に弘前市が開いた報告会には、僅か3名の会員が参加しただけであった。今回はもっと多くの会員の参加を期待したいものです。

▽と き 3月23日(火)午後6時~8時
▽ところ コープあおもり和徳店(野田1丁目1の27)2階ホール
▽内 容 弘前市職員による報告書の説明(質疑応答)

 弥生リゾート跡地の今後のあり方についての「基本的な考え方」
                  
・広く市民の意見を聴いて、今後の方向を定めていく
・自然に近い姿を念頭に置きながら検討を進める
・大型箱物施設を中心とした計画とはしない
・防災や利用上の安全面も考慮し整備の方向性を定めていく。
・懇談会などの運営にあたっては、大学等、外部のノウハウ・手法を活用することを検討する  


(今日の写真は、弘前市と藤崎町との境を流れる平川を前景とした岩木山だ。時は3月、その朝はものすごく気温が下がった。だが、水辺は「水温」が高いので、その「しばれ」も弱く、午前の柔らかい日射しの中で、その凍えた風情は感じられなかった。
 ただ、岩木山は山麓の樹林帯まで、その梢を真っ白に染めるほどになっている。これは前日からの霧や雲が低温で凍って「霧氷」となった証だろう。
 3月は暖かい日が続くとかならず、凍えるような日々が続く。その繰り返しの中で、いつか気がつくと、本物の春がやって来ているというわけである。
 中州の白鳥も、泳ぎ回る白鳥や鴨の仲間も、間もなく長い「北帰行」に旅立つ。私は、この川畔で、まるで馬鹿げたことだが、あるものを真剣に探した。それは、海岸の砂浜で見られるという「雁の木ぎれ」である。きっと、川畔にもあるのではないかと考えたからだ。
 …雁は渡り鳥である。雁が遠く遠く海を渡る時に小さな「木ぎれ」を1つずつ、啣(くわ)えて来て、疲れるとそれを波に浮べて休むといわれている。
 海を渡りきり、陸地になると「木ぎれ」を浜へ落して行く。そのような木ぎれが沢山落ちている場所は多くの渡鳥が集るのだ。だから、「猟場」になるのである。猟をするのは「猟師」たちだけではないだろう。貴重な蛋白源として多くの人が捕ったはずである。
 昔の人は「殺生」しても供養の心を忘れなかった。猟をした人たちは、その供養のために「雁風呂」を、その木ぎれで立てたのだそうだ。そして、旅の人に入ってもらったというのである。
「風と笛」という詩集に、「雁風呂」という詩がある。作者不詳だが載せてみよう。

雁風呂よ、雁風呂、ここは浜の波ぎは。
もそよ、もそよ、雁風呂、これは供養の雁風呂。
おはひりなされ、雁風呂、旅の衆や、お子さま。
わいた、わいた、雁風呂、雁が落したもし木で。
よいな、月夜は雁風呂、しろい湯気立つこの風呂。   )

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(10)◇◇
(承前) 

 …そして、完膚無きまでの敗戦後の日本は、ひたすら「拝アメリカ」のアメリカ様々、身も心もすべて「アメリカ」に捧げ尽くすという藩主に命を捧げて仕える家臣のようであった。「アメリカの文物」一辺倒の歴史であったのだ。そして、これは今でも続いている。 このような書きぶりをすると、私のことを「アメリカ」批判主義者か非難者と受け止める人もいよう。だが、私は「アメリカ」のすべてを否定しているわけではない。
 否定している部分はもちろんある。それは、「アメリカという国家体制」が持っている「覇権主義」であり、ひいては「帝国主義的」な側面である。
 戦後、アメリカを「帝国主義」として批判した政党は、いわゆる「革新政党」であった。しかし、「アメリカ帝国主義」という言葉を多くの国民は、頻繁に聞かされ、また活字として見たが、その本質に関する「危険的」な側面についての理解は、国民の殆どになかった。ただし、「60年安保」の時代までは「学生を中心とする若い世代」には徹底して、「帝国主義」を批判する者たちもいた。だが、そこまでであった。その後は急速に、その運動は「萎んで」行った。私は年代的には「60年安保」に反対した末期世代の一人である。その時、年齢19歳である。
  「日本」は「アメリカ」に国土のすべてを「安保条約」という強制的であり、お仕着せ的であり、かつ一方的な「約束・契約」を遵守する証として「不沈空母」として提供したのである。これは屈辱であろう。戦争に勝利した親分に、負けた者が子分になって、親分の言いなりになっているのだ。自尊心も誇りも何もない。負け犬が尻尾を振って服従しているに過ぎない。
 自国や民族に誇りを持てない人にとって、屈辱感はあり得ないのだろうか。(明日に続く)

ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(9)

2010-03-21 05:15:42 | Weblog
 (今日の写真、これは数年前の3月の中旬に撮ったものだ。このくらい岩木山を引きつけて撮ると、たおやかさや手弱女ぶりはその山容から消える。結構、荒々しく「男性的」な相貌を見せるから、岩木山は不思議な山なのだ。
 今日はこの写真の真ん中左に見える「樹木」のない尾根について書こう。つまり、「真っ白」に見えている尾根のことだ。標高は大体1000m以下である。
 広々と伐採された尾根は「百沢スキー場」である。そのさらに左に見える細い伐採跡も数十年前に何十年か継続して使われていたスキーコースの跡だ。これは、「岩木山滑降競技」として使われたものだ。年配の人にはこの「競技」の記憶があるだろう。三浦雄一郎も出場している。
 百沢スキー場が出来る前から、この「コース」はあった。この高さでは、伐られた樹木はブナになる。夏場はこの「コース」跡は緑に覆われて「見えない」が、この時季になると判然と姿を現す。
 それにしても、百沢スキー場は、広い。よくもまあ、伐りに伐ったものだ。下部にはミズナラが茂り、上部にはブナが繁茂していた。だが、今は「禿げ」だ。傷跡だ。擦過傷の跡だ。岩木山の大きな瘡蓋(かさぶた)である。
 「滑降競技」コースのある尾根と「百沢スキー場」のある尾根に挟まれた沢が「蔵助沢」だ。1975年8月6日、蔵助沢で土石流が発生して、それによって子供を交えて22名の人たちが「圧死」した。スキーコースのために伐採した左の尾根、として伐採された右の尾根には、殆ど「保水能力」はなかった。豪雨はすべて、尾根に溜まることなく「蔵助沢」に流れ込み、「土石流」となったのである。
 だが、裁判では「スキー」に関わる誰も、その罪を問われなかった。このスキー場は、運営することで「雪だるま式」に赤字が増える。-1987%という大赤字なのだ。既に、6億円以上の赤字を抱えている。それでも、今後、弘前市議会は「運営」することを議決した。
 この写真を、いや、岩木山に「優しい関心」を寄せて岩木山を見ると、多くの市民も、市議も、市長もみな、この禿げた部分の自然回復を図りたいと考えるだろう。是非そうして欲しい。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(9)◇◇
(承前)
 
 …入れ物の容量に限りがある以上、別な新しいものを入れようとすると「古いもの」は廃棄せねばならない。
 「アメリカ」の文物を受け入れるためには、「自分たちの精神構造」と「自分たちの伝統的な文化」をすべて、「フォーマット」する必要があった。多くの人は、それを何の抵抗もなく、あっさりとしてしまったのである。
 日本国は島国である。その地理的、地勢的な特性が、日本人の精神構造、つまり、精神のあり方の形成に深く関わっていた。それだけではない。「藩」という小国はこれまた、「藩特有」の文化を生み出していた。それは、「言語文化」をたずねてみると一番分かるだろう。「弘前藩」の人々が使う「津軽弁」はほぼ、その藩のみで相互に理解されるものであって、他藩の人にはその音韻すら分からないものだ。
 日本は小国である藩が多数存在して、それが固有の文化を持ち、非常に「個性的」に存在していた。だが、その個性的な藩に住む「武士」たちは「藩主」に唯々諾々と仕える個性に乏しい者が多かった。
 しかし、その藩の経済を支える農民たちは違っていた。かれらは「自然を大事にして、自然に従い暮らして」いた。狭い国土とはいえ、気候や風土は微妙に違う。彼らはその違いの中で、その違いを生きた。だから、そこには「個人」が存在した。その個々人が、日本ならではの「美しい」風景と美しい精神世界を造り上げていた。
 江戸時代に来日にして、多くの在来種植物に「ジャポニカ」という学名を付与した「シーボルト」は、その旅行記の中で「日本の農村風景の美しさとその個性的な風景」についても文章を残している。
 彼の地ヨーロッパ、石を組み上げた建築、大理石を中心とした彫塑芸術、油彩絵画、世界の海を股にかけて支配する帆船艦隊、蒸気エンジンなどの文明を保持していたヨーロッパ人「シーボルト」が、感嘆し、褒めることを止めなかった日本人の生活、そこには「ヨーロッパ」人にない個性と伝統があった。
 だが、明治に入ると「和服、袴に紋付き」を着けながら「編み上げ靴」を履くという出で立ちに喩えるられるようなことを「地」で行くようになる。ヨーロッパ列強に追いつくために、「表面的な発想」は、すべて「ヨーロッパ」化していく。日本政府は、自然崇拝を根源的に持っていた日本人に、「神が自然を創った」とするキリスト教文明と文化をそのまま、日本に持ち込み、それに恭順させられたのだ。
 「廃仏毀釈」令がそれに拍車をかける。日本人にとっては、神も仏も、それは「自然神」の何者でもなかった。そのいい例が、岩木山には「観音」と「神」が祀られていることである。(明日に続く)

ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(8)

2010-03-20 05:12:24 | Weblog
(今日の写真は弘前市亀甲町の通りから見た岩木山だ。昨日は恐らくこのように見ていただろう。ということは「昨日」写したものではない。私は基本的に「眺める」だけの岩木山は余り好きではない。出かけて行って「山懐」に抱かれることの方が遙かに好きなのだ。だからといって眺めないわけではない。
 公園界隈から岩木山を眺めるスポットは先ずここである。禰宜町を抜けて田茂木町から亀甲町に向かうとだんだんと大きな岩木山が、その姿を現す。裾野は見えないが、その分、扁平さがそぎ落とされて「屹立感」が増す。
 壕左岸の蒼い松が、逆光を浴びて黒々と輝くから、岩木山の純白さは益々、それを輝かせる。道路端の芽出し以前の桜の木も同様に岩木山を輝かせる役割を担っている。
 この朝はよく晴れた。放射冷却で気温は久しぶりに氷点下5℃だった。幾分、融けかけた壕の氷もまた硬く凍結してしまい、薄く置かれた積雪の白さが、岩木山と微妙な白さで呼応している。そして、蒼然たる古松の陰影でその表面を染め上げている。
 この風景は「この時季」でなければ見ることが出来ない。桜が咲き始めると、この風景は一変する。
 弘前「桜と岩木山」と言われることがある。だが、「桜と岩木山」という表現は間違いだ。「…と…」いう場合、この「と」は格助詞である。その意味は「対等の資格の物事を列挙する」ということだ。並立助詞とする説もある。「中国と日本の経済力」などという言い方で使われる。
 恐らく、桜が咲き出すと、弘前の人々は「桜」と「岩木山」を対等の価値を持ったものとして、どちらも大事なものだという意識で「桜と岩木山」と呼ぶのであろう。だがである。満開の桜の前では、この風景は激変する。岩木山は桜にその位置を奪われてしまうのだ。岩木山は春霞の中で、その美しい姿を「散らせてしまう」のである。
 こうなると、この格助詞「と」の意味も大きく変わる。心情的には「対等の価値」から「比較される物を示す」という意味となってしまうだろう。
 もちろん、文法的には「と」との接続語が名詞から「動詞や助詞、それに形容詞」に変化するので、その意味は格助詞の「対等の事物」なのだが、気持ちとしては、桜にその優位性を持たせることになってしまうらしい。
 つまり、心情的には「彼の判断力は昔のそれと劣らない」というような「と」、つまり「比較される物を示す」ことに変化しているのである。桜は一斉に咲いて慌ただしく散っていく。まさに、一過性、諸行無常の世界だ。だが、岩木山はじっと鎮座して動かない。常住坐臥、永遠の存在なのだから、一年のほんの一寸の時季だけ、桜にその地位を譲ってもいいだろう。
 私は、見える日には「毎日」岩木山を自分の部屋の小窓から眺めている。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(8)◇◇
(承前)

 …自己を見詰め問い直す視点は、まあ色々あるだろうが…私は次のことを大事にしてこれまで生きた来た。
 それは、…「自分には誇りというものがあるのか」、「自分が日本民族であるために何をなすべきか、それをしているか」、「私とは何者なのか」、「果たして私には個性があるのか」などである。
 この問い詰めは、集団との関わり合いの中で、組織的な社会性の中で、行われる。それは「孤独な自己沈潜」でもある。真の意味における「個人」とは本来孤独なものだ。「孤独」とは、人が社会性を持った時に始まったものだろう。
 人が「人科」という哺乳動物から「人間」というものに換われる唯一のプロセスが「孤独」である。孤独を恐れ、それを避けてひたすら集団に寄り掛かり起居しているばかりでは、「人科」という哺乳動物を越えることは出来ない。これらの集まりはただ単に徒党を組んでいるに過ぎない。戦後60余年を経ても、世の多くの大人たちは「ギャング・エイジ」を脱却出来ないでいる。
 自己を見詰めず、問い詰めないままなので、日本人は本物の個人にはなっていないのだ。だから、そこには「形式的な多数決」という民主主義だけが存在して、個人が社会を、ひいては国家を、そして民族や文化を支えるという思想は生まれない。

何回も書くが、日本は自分が仕掛けた戦争で、完璧に負けた。それは見事な負け方、「スコンク」なのだ。この「スコンク」という結果に至った中にも、「個人」の不存在があった。
 相手の主たる国は「アメリカ」である。そのアメリカは世界で初めて「無差別殺戮兵器」である原子爆弾を使用した。まさに、戦中の軍国主義政府が唱え、国民がこぞって三唱し、四唱した「鬼畜米英」そのものである。
 原子爆弾の使用は、「勝利」が目的だが、それは「自国や自国民に決して出来ない」人体実験でもあった。卑劣で無情、「戦争遂行」という異常性の中で、「人体実験」という鬼畜にもとることをアメリカは、この日本国民にしたのである。
 この事実を鑑みても、私は「アメリカ」という国と日本は「対等な関係」は直ぐには持てないし、持つべきではないと考えた。
 だが、日本という国家も、国民も、まるで、暴力的に縄張りを広げた親分に、文句なく服従する分家筋やその組員のようにアメリカに諂(へつら)い続けた。それは今でも続いている。そこには民族の自決も、誇りも、文化も何もない。
 「阿諛追従、ごますり、おべっか、物まね」という形でアメリカに媚びて、ものすごい早さと無抵抗でアメリカの文物を受け入れて「自分たち」のものにしていった。ガキ大将に取り入れようとする子供のようだ。いや、子供そのものだろう。(明日に続く)

ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(7)

2010-03-19 05:29:39 | Weblog
 (今日の写真は遠景の岩木山だ。ここずっと「岩木山の中」に入り、そこで撮ったものを掲載してきた。だから、たまには少し距離をおいて岩木山を眺めることもいいだろうと思い載せたのである。
 だが、この「岩木山」は余りにも大勢の人が、これまで「眺望」して感動し、「おらほの山」として位置づけてきた姿なので、少々「手垢」がついて、私には「またこれ」かと食傷気味になる「美しい岩木山」でもある。
 この姿は岩木山の「東面」だ。本丸から、藤代地区にある革秀寺を結び、その延長線上に岩木山がある。まさに、位置的には岩木山は「西方浄土」なのだ。
 写真前面下部に見えるのは「西壕」だ。凍結して雪に覆われている。西壕は古い岩木川の流れ跡である。
 その昔、岩木川は茂森、禅林街の下を大きく迂回し、蛇行しながら、この「西壕」に流れ込んでいた。いわば「西壕」は天然の「壕」なのであった。この弘前城「別名・鷹岡城、高岡城」を築いた「津軽の殿様」は賢い。労力と資金を「最少に抑えて」壕を巡らしたのである。さらに西には五十石町や鷹匠町、新町などを挟んで本物の「岩木川」が流れている。これは、手を加えずして「手に入る」自然の「壕」だった。
 賢いことはもう一つある。弘前城は、特に東からは「平城(ひらじろ)」に見える。だが、西からは立派な「平山城」となる。地形を利用して巧みな「築城」をしたのだ。
 別名にもあるように、ここは「鷹岡、高岡」と呼ばれた「山」、つまり今風に言うと「里山」なのであった。まさに、地の利を生かした城造りといえるだろう。
 それだけない。岩木山ときっちりと東西で「対峙」している。中央の松の間から岩木山の根本の部分に「林」が見えるだろう。これは「杉林」であり、革秀寺の境内にもなっている。
 革秀寺は岩木川の左岸にあり、ここもまた、戦略的には小さな「出城」の役割を果たしていた。陰陽道に裏打ちされた「吉相」の方角でもあり、「西方浄土」に直結する「仏教的」な意味合いをも持たせた配置である。実に多面的に考え抜かれた位置なのである。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(7)◇◇
(承前)
{お詫び:掲載が間遠になりました。3月8日のブログまでさかのぼって、続けて読んで下さい}

 …戦後60数年の日本人の歴史は、まさに「中国人、朝鮮人、ロシア人」に対する「侮蔑と差別意識」を内在させながら、一方的に「アメリカ」と「アメリカ文化」を崇拝することにあった。これは「貧しく狭小で、卑屈な意識」の裏返しでしかなかった。だが、多くの日本人は、それに気づかず、気づいた者も看過して、時の流れに「精神」を委ねた。
 それをさせたのは「与えられた民主主義」である。日本人の多くは、今の若者も含めて、本当の「民主主義」を知らない。体験していない。戦後政治の中で「民主主義」は単なる言葉として、使われてきた側面が強い。
 政治を担ってきた政党も「自由主義」と「民主主義」を掲げて、党名に、その「言葉」を戴くが、そこには「欠乏からの自由」もなければ、「個人とその個性が大切にされる造り上げていく民主主義」はなかった。
 「民主主義」とはその本質において「制度」として与えられたり、もらったり出来るものではない。それは、行動の中で造り上げていくものだ。その行動の基本は「個人主義」である。個人主義というと「我が儘で勝手な自由の享受」というふうに考える人は多いが、実は違う。そのような「生やさしい」ものではない。
 その根本は「自己を見詰める、問い詰めること」にある。その時の絶対条件は「社会の中で、他との関わりの中で」ということだ。もう一つの条件は「他を自己に置き換え、自己を他に置き換えるということ」である。
 私は大学生の時に「他人を自分のように大事にすること」が個人主義だと学んだ。つまり、「個人」が社会や集団を形成して、その個人が一番大事なものであり、大切にされるべきものなのだ。
 個人主義を根底に置く民主主義は、その個人に「自己に対する仕分け」を求める。他との厳然とした「違い」を求める。社会の中における「自己の区別化」である。これをするには「死ぬまで」自己を見詰め、問い続けるしかない。他者への批判の前に、常に自己批判をしなければいけない。
(明日に続く)

西法寺森について

2010-03-18 05:10:13 | Weblog
 (今日の写真は追子森山頂「標高1139m」から見た西法寺森だ。これは標高が1288mだ。約1km離れた距離から約150m高い山を見るとこんな感じ見えるのである。
 岩木山は、弘前から見ると裾野を広げた端正で優美な山に見える。それは私たちが岩木山の「東面」を見ているからだ。それに、「岩木山の東面」は比較的新しく出来たものだし、噴火による火山灰や火山弾が堆積して「丸み」を帯びた女性的な山容となっている。
 それに引き替え、西面と北面は「山名」を持つ山が続く。大鳴沢左岸尾根には、この「西法寺森」や鍋森山、笹森山、それに、この上部には「西法寺平」という疑似ピークもあり、これらはすべて、北面に位置する。
 西面から南西面にも「山名」を持つ山が続く。若木森、一つ森、二つ森、黒森山、追子森などがそれらだ。これらはすべて「寄生火山」と呼ばれるものであり、上部や側面に爆裂火口を基本とする深くて、荒々しい沢を持っている。白沢と赤沢である。)

◇◇ 西法寺森について ◇◇

 先日、この「西法寺森」へ向かったが山頂の手前で引き返した。その理由には「人的な要因」以外に「雪質」の違いがあったのだ。
 標高1000mを越える高所では150mという差は大きい。植物などもこの「差」によって厳然と住み分けが決まっている。
 この「差」は決して「差別」なのではない。厳然たる「区別」なのだ。自らを「区別」することで、「共生」を図っているのである。「共生」とは別に同じになることではない。
 みんな「同じ」になろうとするから、そこに競争が生まれ、「差別化」や「差別感」が生まれるのだ。バカ民主主義の中では、差別は広がるばかりだ。
 人は己を「仕分け」し、「区別化」出来る能力を身につけないといけない。民主主義とは、そのような人々たちによってしか成り立たないものだろう。

 「150mという高度差」は雪の量と「積雪」の硬さによく現れる。今回は後者の影響をもろに受けた。
 雪面が硬いのである。「アイゼン」が必要な場所もあった。ピッケルの石突きが刺さらない場所もある。こうなると、ワカンの爪だけでは支えられるものではない。転倒して滑落すると「白沢」や「赤沢」に落ちていくしかない。そこを「ワカン」と「ピッケル」、「キックステップ」という人的な技術でカバー出来れば別に問題はなく、「西法寺森山頂」まで行って帰って来れたはずである。

 そんなことはどうでもいい。何という格好のいい山ではないか。「追子森」の山頂から見る格好が一番いいと私は思っている。そして、これを「岩木山のマッターホルン」と心密かに呼んでいる。
 山頂から直面する斜面は「一気」に白沢爆裂火口に落ち込む。それをわずかに支えているのが「コメツガ」だ。その手前に連なる尾根はナイフリッジだ。
 何という荒々しさではないか。今日の写真に見える「山頂の鋭利さ」、その三角錐は岩木山では他には見られない。このように尖った山頂だが登ってみると、山頂は丸みを帯びた、千島笹が生い茂るだけの小さな広場である。決して「岩稜」とは言い切れない。夏場は、その「千島笹(ネマガリダケ)」の藪をこがなければ行くことは出来ない。猛烈な「藪こぎ」なるので、行くとすれば残雪期がベターだろう。

 ところで、「西法寺森」という山名は、何に由来するのだろうか。「西法寺」とあるから、仏教に関係していることは確かであろう。古い寺がこの山の山麓にあったのだろうか。
 岩木山は「三位一体」の霊山とされている。祀まつられている仏や神たちは多種多様である。
 弘前から見て「右」の巌鬼山は「観(世)音仏」と「赤倉山大権現」、それに「大己貴命(ダイゲンノミコト)」を祀る。寺としては「赤倉山宝泉院」や「観音院西方寺」があったとされている。「赤倉山宝泉院」は現在、茂森の禅林街にある。
 「中央」の岩木山は「阿弥陀仏」、それに「顕国魂神(ウツシクニタマノカミ)」の他に五つの神を祀っている。「顕国魂神」は御山参詣の時だけ、山頂奥宮に安置される。 寺としては「光明院百沢寺(ひゃくたくじ)」があった。今は岩木山神社の社務所として使われている。
 「左」の鳥海山は「薬師仏」と「国安瓊姫命(クニヤスタマヒメノミコト)」を祀り、寺としては「景光院永平寺」があったとされている。この「永平寺」は福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山の寺院名と同じだ。開山は道元であり、本尊は釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来の三世仏である。岩木山もご本尊として「阿弥陀仏」を戴いている。
 この「西法寺森」稜線尾根の山麓に「長平」という集落がある。これは「ナガタイ」と読む。「永平寺」の「永平」も「ナガタイ」と読むことは可能だ。

 確かに、今はゴルフ場になってしまった辺りに「長平」の人たちが「寺屋敷」と呼んでいた場所があった。ゴルフ場が出来る前に1回だけ行ったことがあるが「土台の石組み」と思われる場所が存在していた。貴重な歴史遺産なのに、今は「ゴルフ場」に埋没しているのだろう。
 「長平」地区に「永平寺」が存在していたならば、「長平」の上部の山に、どうして「西法寺森」としたのだろうか。何故に、「永平寺森」としなかったのだろう。
 巌鬼山には「観音院西方寺」というものがある。この「西方寺」は「サイホウジ」と読める。これをあてて、「西法寺森」としたのだろうか。確かに、巌鬼山への稜線尾根は烏帽子岳を経て、「長平」地区からつながってはいるが、現在の「西法寺森」とはその位置関係が「西、東」と正反対になるのだ。
 不思議な話しである。今度しっかりと調べることにする。

「スノーモービル」と雪崩事故 / 二子沼から松代登山道尾根に抜ける(9 最終回)

2010-03-17 05:01:08 | Weblog
(今日の写真追子森山頂から見た赤沢を挟んだ対岸、「スカイラインターミナル」駐車場の北端付近だ。向かって左に斜上しているラインはリフトの索道と鉄塔だ。
 ここにも「スノーモービル」は上がって来ていた。赤沢を詰めて、左岸の「枝沢」を登ってきているのである。その跡が「線条」を雪面にくっきりとつけている。
 写真左側下方に注目して欲しい。大きな雪庇が見える。
 数日前から吹き付けていた南風は、無風であれば広く平らな「スカイラインターミナル」駐車場に降り積もるはずの雪をここまで運んで、「雪庇」を造ったのだ。
 この「雪庇」は気温の上昇や震動などで、いつ崩落するか分からない。私たちは、このような「雪庇」の下部には立ち入らない。それは、視界が利けば当たり前のことだし、視界の利かない濃霧や曇り、吹雪の時には、沢そのものに入らないことが鉄則なのだ。)

◇◇ 「スノーモービル」と雪崩事故 ◇◇

 だが、昨日の写真からも分かるように、「スノーモービル」の集団は、この「雪庇」の真下を「恐れもなく」縦横無尽に走行しているのだった。
 彼らは、もしも、「スノーモービル」が登る方向から雪崩に巻き込まれたら、「スノーモービル」と運転者の埋まる位置関係など、把握しているのだろうか。
 「スノーモービルは埋まり、犠牲者は通常、そのスノーモービルよりわずか斜面上方に埋まっている」ことが多い。
 雪崩の犠牲者は、バックカントリーでのスポーツを楽しむ人で占められる。つまり、スノーモービル、登山、スノーボード、スキーなどを楽しむ人たちだ。
 その中で「スノーモービル」での犠牲者が、他の活動の2倍を占めていると言われている。雪崩事故の95%は、犠牲者か、犠牲者のグループの誰かが雪崩を誘発したことによるものだ。
 登っている最中に雪崩が起こったのなら、もし、破断面から非常に近いところにいれば、斜面の上側に逃げることが出来るかも知れない。「スノーモービル」はこの際、多少は有利なパワーを手にしている。スロットを開け、スラブ「崩落する雪層」から脱出することを試みることは出来るだろう。
 登っている時なら登り続ける、斜面を横切っている時なら、安全なところまで横切り続ける。下っている時なら、雪崩より速く「走り抜ける」という「万に一つ」という希望はあるが、通常は上手くいかず「死亡」する。

◇◇ 二子沼から松代登山道尾根に抜ける(9)最終回 ◇◇
(承前) 

 …別な林道跡だと思い込みながらも、私は磁針が示す方位「西」に従っていた。その日出発したテント場は地図で確認して、その位置は間違い内のだから、そこを基点に方位を西に採った。それ以降、方位に狂いがないのだから、沢に沿って少し下って出たところの「林道跡」が、登山道を兼ねているものであることは確実だったのだ。
 「頭で間違いながら、体が間違わない行動をしてくれる」ということが、実際にあるということを知ったいい体験であった。だが、これをさせてくれたのは、結局「磁石」なのである。濃霧の中の人の「視覚」程あてにならないものはない。
 登山道口に出た。次第に明るくなってきた。だが、ここで「登山」が終わったわけではない。ここから、岩木山環状線沿いにある旧第二松代分校跡まで歩かねばならない。約2kmの距離だ。登山口近くの石倉地区には人家が2軒ある。だから、環状線までは除雪された道がある。
 その道を「スキー」を担いで行くのも馬鹿らしいので、スキーを履いたままで「道路」に沿って行くことにした。緩い下りなのだが、スキーは全く滑らない。引きずるように歩くしかない。途中2軒の人家があるが、その手前でスキーを外して、道路に降りた。
 排除雪のために道路沿いには雪が高く積まれている。そのままでは降りることが出来ない。相棒さんがスコップを使って、階段状の「降り場」を造った。
 硬いアスファルト舗装道路をスキーを担いで歩きはじめる。2軒目の人家は廃屋となっていた。ご存じのように「第二松代」集落は「開拓入植地」である。元々人が住んでいなかった岩木山の西側、標高600m一帯の「ブナ」を中心とする森林を切り開いて開拓した場所である。
 「開拓」という辛い生活と歴史の末路が、この「廃屋」だったのかと思うと、哀しくなった。そして、「廃屋とせざるを得なかった」住人の心情を思うと悔しかった。
 日本政府や行政が進めた「開拓」の歴史に対して、「推進した側」は何一つ「責任」をとっていない。「失敗」はすべて「入植した人」の責任として処理されている。
 それは、戦前、中国の旧満州に国策として「入植させられた人々」の辛苦に満ちた生活と運命、歴史と重なる。あれは国による「棄民」政策に他ならない。霧は晴れたが、心は晴れない。

 ようやく、第二松代分校跡に到着した。ここで、迎えの車を待つのだ。約束の時間までは1時間少しあった。
分校跡地の広場に「ザック、スキー」などを置いて、やっと全身が加重から解放された。ほっとする。空身になった私たちは、今もってその理由が分からないのだが、道路「環状線」の縁に立っていた。
 時間的には「まだ来ない」迎えの自動車を待つためだろうか。それとも、「2人」を自動車に発見してもらうためだろうか。迎えの運転者は、この「道」を初めて走行する人だった。
 それにしても、自動車の走行は少ない。人は誰も歩いていない。これが本当に「道路」なのかと思っていたら、弘前方向のカーブからひょっこりと「人」が現れた。
 年配の女性である。余りにも突然の出現、その驚きと「人家があるのだから、誰かこの辺りに人がいてもいい」という「思い」からだろうか、思わず「こんにちは」と声をかけてしまった。
 その女性は、いつもは見かけない「人」からの「声がけ挨拶」に戸惑ったようだが、「どこから来て何をしているのか」と訊ねてきた。
 私たちは「昨日からの山行事情」を話し、序でに「迎えの自動車を待っていること」を加えた。
 「そうか、それはご苦労さんだね。寒くないか。時間があれば家に入ってお茶でも飲まないか」とその女性は言う。凍えるような気温ではなかったが、汗で濡れた体は冷え切っていた。だから、その誘いはすごく有り難く嬉しかったが、「迎えの自動車」を「ここで待つ」ことになっているということで、その申し出をやんわりと断ったのだ。
 その女性は、向かいの人家へと入って行った。道路端は風が強く、寒さが身に染みる。ポケットに手を突っ込み、体を縮込ませて、ひたすら「迎え」を待っていた。
 5分も経ったであろうか。さっきの女性が、お盆に「紙コップ2つ」を載せて現れた。そして、「寒いだろうから、熱いお茶どうぞ」と言うのだった。そして、「紙コップ」を私たちに手渡して、直ぐに家へと戻って行った。 
 私は、何か「野太い」棒か何かで一瞬殴られたような「感動」に襲われた。有り難いというありきたりの感動ではない。もっと素朴で、人と人との関わり合いの原点、正直で相手を思い遣る心情、もてなしの主幹、そのようなものを、その女性に感じたのだ。
 これが「もてなし」だ。これは決して「おもてなし」ではない。「おもてなし」には作為と打算が隠れている。
 見ず知らずの人との出会い、その女性の厚意、「入れ立ての熱いお茶」は私たちの体を芯から温めてくれた。…迎えの自動車は、その後間もなくやって来た。(この稿は今日で終わる)