(今日の写真はシソ科メハジキ属の越年性の一年草「メハジキ(目弾き)」である。本州、九州、四国の日当たりのよい野原や原野、道端、河原などに自生する。
26日の観察会で「発見」した。「発見」したが、「新発見」つまり、「初めての出会い」ではない。すでに出会い、写真にも撮ってある。この写真はその時のものだ。
だが、8月に出版した拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅」には収録されていない。それはページ数を増やせないということと「撮影した場所」が何処だったのか私の記憶になかったことに因る。そのようなことを含めて「今日の写真」として紹介したい。
10月26日に出会ったものの花はすでに散っていた。10月26日というと「花期」は既に終わっていて当然なのである。
花は7~9月ころ、茎頂部の葉のわきに数個ずつつく。萼は筒状で長さ6~7mmで、先は5つに浅く裂けて、裂片の先は刺のようになっている。花冠は唇形で色は淡紅色なのだ。花全体としては「紅紫色」といってもいい。
葉は根出葉(こんしゅつよう)と茎生葉(けいせいよう)の形が大きく異なる。秋の芽生え時に出る葉には長い柄があり、丸く深い鋸歯がある。切れ込みは次第に深くなり、掌状葉となる。
茎葉は実に変化に富むのだ。細長いのだが、下部では3つに分かれ、中部では3つに深く裂けた葉となり、茎の先端部では1枚の鋸歯のある葉となる。
葉の裏面には白色の短毛があり、灰白色である。しかも、茎が発達すると根出葉は枯れてなくなる。
その日は講師として、阿部会長の他に幹事のTさんも参加していた。私を加えた3人で鳩首会談(?)して「これは何か」を同定した時も、決め手はこの「葉」であり、「葉の付き方」であった。
花名の由来は「子供がこの茎を瞼に貼って目を開かせて遊んだこと」つまり、「目弾き(目をパチパチやる)」によるとされているが、茎には弾くほどの弾力はない。しかし、「茎を短く切って瞼にはめ、目を開かせて遊ぶこと」は危険なことである。
この草の横葉は水平に飛び出しているので、子供たちがその傍を通った場合、前の子のすぐ後に続くとその横葉が目を弾くことが多いのだろう。そのことからの命名が事実に即しているように思われる。この系統から、別にメッパリ、ツッパリ、メッパジキなどとも呼ばれるのであろう。
また、正式な(?)別名を生薬では益母草(ヤクモソウ)と言う。これは、「母体に益(役)立つ草」という意味だ。全草を乾かし、打撲症や腹痛、月経不順、産後の出血などに煎(せん)じて用いられたことからによる。
「本草綱目(ほんぞうこうもく)」には「産前産後の諸病を治すには、茎、葉を併用するとよい」、また「久しく服すれば子をもうけしめる」とあるそうだ。子宝の薬草として用いられていたのだ。
日本では、一般的によく知られ、親しまれている「花」のようで、俳句にも吟じられている。
・めはじきの瞼ふさげば母がある(長谷川かな女)
メハジキの咲いているところで遊んでいた。その横葉で目を衝かないように瞼を塞いで…そして開けてみたら母が…。子供のころの懐かしい思い出と、母の優しさを詠んだものだろうか。
・めはじきや夕日の色の薄瞼(森川和江)
夕日色に輝いている瞼を想わせるようなメハジキの花であるなあ。淡い色彩感と長閑さが詠み込まれている秀句ではないか。
■ スズメバチに「襲われる」ということから何を学ぶべきなのだろう ■
(承前)
子供たちは自然の中で生きている生物をそのままの姿でとらえてほしいと思う。自分を含めて互いを独立した生き物同士なのだと見てほしいのである。子供だからこそ偏見のない感じ方が出来るのである。
先生方も父母も、「危険なことはもう懲りごりだ」などと言うべきではない。危険を避けることにのみ重点が置かれるあまり、自然いっぱいの野外での活動を縮小するようであってはいけない。
多様性に満ちた自然、絡み合った数々の生命を育てる自然、無駄でごみとなるようなものがなに一つない自然、必ず何かの役割を担って生きているものたちがいる自然界を学ぶところが野外である。
見せる、聞かせる、歩かせる、探させる、触れさせる、捕まえさせるが具体的な項目になるだろう。
ところが遠足も最近はすっかり歩かなくなった。バスに乗って出かけ、またバスで帰って来る。自然の中にいる時間がバスに乗っている時間の数分の一ということもある。これでは具体的な体験はないに等しい。
「スズメバチ」たちが刺したことは「スズメバチ」の自己主張の現われである。しかも、彼等からすれば、当然のことを主張したに過ぎない。
自己主張は主体性の体現である。これは教育活動の中で、重要な行動と精神のあり方として位置づけられるものである。悪いことではない。
さらに、「スズメバチ」たちの自己主張を他の生き物と共存するための基本的な認識として教育に生かすようにするべきでもある。
神の摂理という時、神は絶対で特別なものになるが、自然の摂理にあっては、人だけが特別な生き物であるわけではない。
「共存」という世界的な課題を戴く21世紀にあって、ただ危険なことだという理由で「自然の中での体験的・観察的な行事を避けさせる」ような指導を、教育の行政サイドや父母たちはしていないだろうか。(明日に続く。)
26日の観察会で「発見」した。「発見」したが、「新発見」つまり、「初めての出会い」ではない。すでに出会い、写真にも撮ってある。この写真はその時のものだ。
だが、8月に出版した拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅」には収録されていない。それはページ数を増やせないということと「撮影した場所」が何処だったのか私の記憶になかったことに因る。そのようなことを含めて「今日の写真」として紹介したい。
10月26日に出会ったものの花はすでに散っていた。10月26日というと「花期」は既に終わっていて当然なのである。
花は7~9月ころ、茎頂部の葉のわきに数個ずつつく。萼は筒状で長さ6~7mmで、先は5つに浅く裂けて、裂片の先は刺のようになっている。花冠は唇形で色は淡紅色なのだ。花全体としては「紅紫色」といってもいい。
葉は根出葉(こんしゅつよう)と茎生葉(けいせいよう)の形が大きく異なる。秋の芽生え時に出る葉には長い柄があり、丸く深い鋸歯がある。切れ込みは次第に深くなり、掌状葉となる。
茎葉は実に変化に富むのだ。細長いのだが、下部では3つに分かれ、中部では3つに深く裂けた葉となり、茎の先端部では1枚の鋸歯のある葉となる。
葉の裏面には白色の短毛があり、灰白色である。しかも、茎が発達すると根出葉は枯れてなくなる。
その日は講師として、阿部会長の他に幹事のTさんも参加していた。私を加えた3人で鳩首会談(?)して「これは何か」を同定した時も、決め手はこの「葉」であり、「葉の付き方」であった。
花名の由来は「子供がこの茎を瞼に貼って目を開かせて遊んだこと」つまり、「目弾き(目をパチパチやる)」によるとされているが、茎には弾くほどの弾力はない。しかし、「茎を短く切って瞼にはめ、目を開かせて遊ぶこと」は危険なことである。
この草の横葉は水平に飛び出しているので、子供たちがその傍を通った場合、前の子のすぐ後に続くとその横葉が目を弾くことが多いのだろう。そのことからの命名が事実に即しているように思われる。この系統から、別にメッパリ、ツッパリ、メッパジキなどとも呼ばれるのであろう。
また、正式な(?)別名を生薬では益母草(ヤクモソウ)と言う。これは、「母体に益(役)立つ草」という意味だ。全草を乾かし、打撲症や腹痛、月経不順、産後の出血などに煎(せん)じて用いられたことからによる。
「本草綱目(ほんぞうこうもく)」には「産前産後の諸病を治すには、茎、葉を併用するとよい」、また「久しく服すれば子をもうけしめる」とあるそうだ。子宝の薬草として用いられていたのだ。
日本では、一般的によく知られ、親しまれている「花」のようで、俳句にも吟じられている。
・めはじきの瞼ふさげば母がある(長谷川かな女)
メハジキの咲いているところで遊んでいた。その横葉で目を衝かないように瞼を塞いで…そして開けてみたら母が…。子供のころの懐かしい思い出と、母の優しさを詠んだものだろうか。
・めはじきや夕日の色の薄瞼(森川和江)
夕日色に輝いている瞼を想わせるようなメハジキの花であるなあ。淡い色彩感と長閑さが詠み込まれている秀句ではないか。
■ スズメバチに「襲われる」ということから何を学ぶべきなのだろう ■
(承前)
子供たちは自然の中で生きている生物をそのままの姿でとらえてほしいと思う。自分を含めて互いを独立した生き物同士なのだと見てほしいのである。子供だからこそ偏見のない感じ方が出来るのである。
先生方も父母も、「危険なことはもう懲りごりだ」などと言うべきではない。危険を避けることにのみ重点が置かれるあまり、自然いっぱいの野外での活動を縮小するようであってはいけない。
多様性に満ちた自然、絡み合った数々の生命を育てる自然、無駄でごみとなるようなものがなに一つない自然、必ず何かの役割を担って生きているものたちがいる自然界を学ぶところが野外である。
見せる、聞かせる、歩かせる、探させる、触れさせる、捕まえさせるが具体的な項目になるだろう。
ところが遠足も最近はすっかり歩かなくなった。バスに乗って出かけ、またバスで帰って来る。自然の中にいる時間がバスに乗っている時間の数分の一ということもある。これでは具体的な体験はないに等しい。
「スズメバチ」たちが刺したことは「スズメバチ」の自己主張の現われである。しかも、彼等からすれば、当然のことを主張したに過ぎない。
自己主張は主体性の体現である。これは教育活動の中で、重要な行動と精神のあり方として位置づけられるものである。悪いことではない。
さらに、「スズメバチ」たちの自己主張を他の生き物と共存するための基本的な認識として教育に生かすようにするべきでもある。
神の摂理という時、神は絶対で特別なものになるが、自然の摂理にあっては、人だけが特別な生き物であるわけではない。
「共存」という世界的な課題を戴く21世紀にあって、ただ危険なことだという理由で「自然の中での体験的・観察的な行事を避けさせる」ような指導を、教育の行政サイドや父母たちはしていないだろうか。(明日に続く。)