岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

競争社会や実績主義の呪縛から解放されない者たち

2007-07-11 06:57:37 | Weblog
 山に出かけても情報消費社会や競争社会や実績主義の呪縛から解放されないものたちがいる。これには前政権の「小泉という時代」の規制緩和がますます拍車をかけた。
 定年で仕事をやめて、情報消費社会の実績主義的な呪縛から解放されたはずなのに、まだ百名山や二百名山などとその数(実績)を追っている中高年登山客が大勢いる。
 「百名山」とは一体何か。これはあくまでも深田久弥が自分の「主観」で選んだ百の山に過ぎない。正式には、紀行「日本百名山」という。もともと、紀行文なのである。そのことを知った上での「日本百名山」ブームであるならば、日本中が山岳紀行文作者であふれかえっているだろうが、そういうことがないのもまた、不思議なことだ。
 よく、山で行き会う登山客が「これまでどこの山に登りましたか。」「日本百名山のうちいくつ登りましたか。」と訊いてくることがある。私のいでたちや装備、登り方や足運びから、かなりの「ベテラン」に見えるらしく、勝手にこれならば、当に「百名山」踏破者であろうと想像するらしい。
 私は、やんわりと「まだ一つだけです。」とかわすと、大概は一瞬とまどい、あけっけにとられて目をくるくるさせる。おかしい。内心ではにんまりである。
 数年前に、高名な登山家(エベレストなど海外登山の経験も豊富)がこの「日本百名山」全山踏破に挑戦したことがあった。何日で100山を踏破出来るかというのがコンセプトらしかった。たまたま、岩木山にも来たらしく、その時、彼に出合ったと誇らしげに語ってくれた地方の高名な「登山者」がいたことには、あきれてがっかりした。この「百名山」の競争に飽き足らない者は、勝手に「日本二百名山」などと名付けて、その数を競っている。登山が「数の競いあい」になっていることに私は不満だ。「登山」という概念には本来、「競争」という概念はなじまないものだろう。
 先日も、新聞の書籍欄で「…といく…の百名山」という本名を見たが、これを読んで、そこに書かれてあるとおりの「山行」を企てる者がまた続出するのかと思うと、うんざりである。私が「山」ならば「雲隠れ」したい思いである。
 彼らはこの「数と時間」という現代社会の呪縛から解放されず、未だに気づかないまま「均質的な空間」に庇護されながら、実績主義に身も心もすっかり侵されている者である。
 「数と時間」とは合理化のことである。「多くの数を短い時間で」が常に求められる。大量消費と大量生産が求められ、これを出来るだけ「短時間」で達成することが社会の価値基準となっている。これが「情報消費社会」を支配し、多くの人々が抑圧されながら、必死になって「山」に来てまでも「競争」しているのだ。
 そろそろ、「多くの数」と「短い時間」という価値観を捨てて、そのものに内在する不動の価値を、自分自身の価値を発見する「登山」をしようではないか。もちろん、里や都市での生活にも「数と時間」という価値を求めないことだ。

 また一方で、便利さや利便性に寄りかかり、自分たちの楽しみだけを追求する中高年登山者の中には、退職して組織的な縛りや子育てという抑圧が解かれたゆえに、「自由になったことにだけ身を置き、それ以上の自由を求める者」もいる。こういう人たちが「山」を荒らす。これは未来を犠牲にするデカダンスであるだろう。
 両者に共通することは明らかに、「本来の自立的な自己であろうする行為を他に委ねている」ことである。
 これは自己の自由や時間、自分の領域や占有範囲を他に譲り渡していることに他ならない。そこには真の生きる意味がなく、彼らは山にいながら「山に行く心」に気づかないかわいそうな人たちと言える。

 登山行為とは生きる意味の回復であるということに気づいてほしい。
現代の情報消費社会がますますその力を増すにつれて、私たちの生きる意味はますます遠ざかる。麓から自分の足で黙々と登るという行為、沢や峪を這い回る行為、岩壁を攀じ登る行為、厳冬の雪山に登る行為、7000、8000メートルの高所に登る行為などは、どれ一つとってみても、そこにはこの遠ざかりつつある自助努力と生きる意味の回復があるのではないのか。
 情報消費社会の中で失ったり、見失っているものを取り戻すこと、これが登山行為であるはずだ。ただそのことに、多くの登山客や登山者自身は気がつかない。そして、それが「登山ブーム」に身を置くだけということになる。
 しかし、それでも、山に出かけた人は、「出かける前と、山から戻った後とでは、自分の生活がいくぶん違ってきた。」と思えるだろう。
 それは、自分の気づかない潜在的な意識の中で「山に行くこと」で「今の日常」を少しは変えたいと願っているからである。        
 私自身、山から帰る時には…
『ようやく岩稜帯に出た。濃霧はいつのまにか消えて、幻想と抑圧から解放され、青空の下両腕を上げて大きく深呼吸をする。岩に頂ではイワヒバリが鳴いていた。』という爽やかな気分になる。