岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「岩木山・花の山旅」購入ガイド / 自転車で…走る(その3)

2008-07-31 05:46:07 | Weblog
(今日の写真は拙宅の位置を示す地図である。管理人葛西拓美さんが拙著の案内をしてくれた。ホームページの扉で、動く文字部分の『「岩木山・花の山旅」発売のご案内』をクリックすると「案内」が開く。総索引438種の花も紹介している。
 そこで、それに併せて、私からの購入法のガイドをすることにした。それに使われる私の家までを示す地図である。
 Webがインターネットイクスプローラー(Internet Explorer)で、RSS版を見ることの出来ない人は、地図画像をクリックして下さい。そうすると、読める程度の大きさになります。

 道案内を少ししよう…。
 …先ずは田町の熊野神社か八幡様の大鳥居を目指して来ればいい。八幡様の方から来ると大鳥居をくぐって直ぐに左折する。
 田茂木町方面から来たら熊野神社の前を過ぎたら直ぐに右折をする。あとはどちらも100mほど真っ直ぐに進んで、小さな堰にかかる橋を渡るとその正面にあるのが三浦宅である。地図上では赤く塗りつぶされているところだ。向かって左隣が宮川荘というアパートの駐車場である。)

     ◎カラーガイド「岩木山・花の山旅」◎             

・358ページ・A5判・出版社:北方新社・*東奥日報や陸奥新報に掲載されたものを編集しなおしました*

著者:  三浦章男
NHK弘前文化センター講師・岩木山を考える会事務局長・環境省自然公園指導員  

     ◎購入ガイド◎ 
   
 購入希望者は次の方法で著者から直接消費税なしで購入出来ます。

①遠方の方で郵送を希望する方:
 次の振替口座に送料340円を加えた3.140円を振り込んで下さい。
 振替口座番号: 02290-0-57239
  なお、住所・氏名・電話番号を忘れず記入して下さい。

②市内在住か近在の方:

1. メールをあつかえる方は、ホームページの「本会代表のメールアドレス」にアクセスして「購入希望冊数・住所・氏名・電話番号」を送信して下さい。

2. メールをあつかえない方は、ハガキまたは封書に「購入希望冊数・住所・氏名・ 電話番号」を書いて「036-8054青森県弘前市田町4-12-7 三浦章男」に送って下さい。
3. FAXの方は「0172-35-6819 三浦章男」あてに「購入希望冊数・住所・氏名・電話番号」を送付して下さい。

 以上1.~3.の方は出来るだけ三浦章男宅まで直接、来ていただきたいと思います。三浦宅の所在地は貼付の地図を参考にして下さい。
 なお、あらかじめ1.~3.の方法で注文をしなくても、直接やって来て購入することも出来ます。また、岩木散歩館などでも「消費税なし」で購入することが出来ます。書店以外で購入出来るところは、これから順次増えていく予定です。もちろん、弘前市、黒石市内の有名書店からも購入は可能ですが5%の消費税がかかります。

 また、8月29日から9月2日まで、NHK弘前放送局ギャラリーで「岩木山・花の山旅」出版記念写真展「岩木山の花々」を開催する予定になっています。その会場でも消費税なしでの購入が可能です。


  自転車で…走る(その3)つがる市森田から十腰内、高杉、弘前へ

 (承前)…

 私が自転車に魅力を感じる点はもう1つある。
 自転車は不思議な道具だ。スタンドがないと「立って」いられないのに「人」がサドルに座り、ハンドルを持ってペダルを踏み出して動きだすと「倒れない」で前進するという「離れ技」を披露する。
 しかも、細いタイヤという2輪だけである。自動車は4本足である。普通の状態ではまず、倒れるということはない。安定した乗り物である。
 ところが、自転車には、「2輪」であるがゆえに、その「安定性」がない。だがである。「安定性」を失う「動き続ける」ということで「安定」を保持し続けるという背反するような「物理的運道的」な所業をなしてしまうのである。まさに、それは「独楽(こま)」だ。独楽は動きが止まると倒れる。
 言い方を換えると、自転車の安定性はすべて自転車を扱う人の「自己責任」と「自助努力」において保たれるということなのである。そこには「他」の介入はない。あるのは「自力」すなわち、「自分」だけである。ガソリンなどというエネルギーの介在はない。操作するものと一体化した孤高の道具なのである。
 それゆえに、自転車は「乗る」者に「孤高」の気高さを意識させてくれる。

 自転車は、何もこのように精神的な価値だけでの満足を与えてくれるものだけの存在ではない。
 自転車は乗り手に対して「全身」で風を感じるという「爽快感」を与えてくれる道具である。これも、自転車の魅力の1つだ。無風状態でも、「動く」ことで「風」に向かって動くという運動体になるのである。つまり、風をつくりながら、その風を感じて走るということである。これはいい。
 ただ、こうなるためにはある程度のスピードが必要である。そこには、体力と脚力が要求される。自転車を動かすエネルギーが「自力」である以上、これはやむを得ない。

 …私は鰺ヶ沢に向かう道から左に逸れた。鶴田町の廻堰方向に行かずに右折する。つがる市森田地区にすでに入っているのだが、その中心部を走行していた。森田地区の本通りなのであろうか。つがる市森田支所の前を通過する。
 本会のホームページ管理人・葛西さんは「森田」の住人である。また、森田には葛西さんの他に3人もの会員がいるのだ。
 葛西さんの家はどの辺りなのかなと、脇見運転で走行した。だが、「脇見運転」に危険を感じなかった。それは通行車両が殆どなかったからである。
 その通りで私を追い抜いて行った自動車はたった1台だ。対向したのは小学生の自転車が1台だけである。本当に静かでのどかな家並みが続いていた。(明日に続く。)

自転車で…走る(その2)

2008-07-30 06:01:10 | Weblog
(今日の写真は鶴田町廻堰の裏側と桑木田沿いを通っている「農道」脇に咲いていたクサフジの花だ。昨日のブログで簡単に紹介してあるので「解説」は書かないで、写真だけにとどめることにする。それにしてもいい色具合だろう。
 このくらい色鮮やかだと時速20km程度のスピードだと、簡単に「目にとどめる」ことが出来る。しかも、花名の判別も容易である。
 しかし、藪に紛れたり、一瞬だけの色彩や映像だけの視認では「花名」の判別は出来ない。そんな時は走行を止めて「降りて」近づいて確認する。私にとっては、これも「自転車走行」の楽しみの一つになっている。)

               自転車で…走る(その2)
 
(承前)…
 だが、自転車走行の最大で、最高の楽しみは「歩くよりも」「走るよりも」楽に遠い距離の「外出」が可能なことだ。
 これは幼児、または小学生の時に、初めて自転車に乗ったの時の「喜び」や「感動」につながっている。小学生の日常的な生活空間は狭い。広げたとしても「自分の家と通学する小学校までの距離」を半径として描かれる円内に収まるだろう。
 ところが、「自転車」という文明の利器は、その行動半径を無限に長くし、行動範囲を広げてくれる。
 私が自転車を愛する理由はここにある。自転車は、何歳になっても、小学生が持つ「自力でどこまでも行きたい」という思いを叶えてくれるものなのだ。私は今67歳だが、自転車を見て、それに跨る時は、いとも容易(たやす)く、小学生や少年時代の「思いと感覚」に漬(ひた)ることが出来るのだ。
 私は貧しかったので「子供用」自転車を持っていなかった。「子供用」自転車が世の中になかった訳ではない。だが、その時代は「子供用」の自転車の数がすごく少なかった時代だった。
 自転車の種類も単一で「実用車」と呼ぶべきものだけであったと記憶している。現在、よく見られるロードレーサーも、トライアスロン仕様車も、ツーリング・スポルティーフも、ランドナーミキストも、マウンテインバイク(MTB)も、バイシクルモトクロス(BMX)も、シテイサイクルも、ファッションサイクルなども、なかった時代であったように思えるのだ。
 「自転車」は、現在の自動車並みの経済的実用的価値を有するものであり、そのように考え、大人も子供もみんな、大事に大切にしていた。「放置自転車」などはおよそ、あり得ない社会だったのである。
 大体の子供たちは「大人用」の自転車で「乗り方」を練習し、それに「そのまま」、色々と工夫をして乗ったものだ。
 サドルに座るとペダルまで足が届かない。当たり前だ。脚が短いからだ。
そんな時はペダル主軸を頂点とする逆三角形のフレーム内に片脚を入れて立ったままで「ペダル」を踏んで走行した。
 自転車は重かった。今は、アルミ合金とかチタン素材、カーボン素材を使い、フレームのみならず、タイヤまで軽量になっている。中には、10kgを切るものもあるという。
 当時の自転車はその2倍以上の重量であった。その重い「文明の利器」を操り、怪我をしながらも少年たちは、自分たちの活動エリヤを拡大して、「視野」を広げていったのである。
「今日は隣町の小学校まで行った。明日はそれを越えた何々村の小学校まで行ってみよう」と、自分だけの「地図」に走行したルートを書き込んでいったのである。
 それはまさに、「冒険」の記録でもあったのだ。私は今でも、自転車で出かける時には「冒険」に旅立つ時のような「わくわくとした」胸の高鳴りを覚えるのである。

 …私は、『四車線並みに拡幅され、新しい「アスファルト鋪道」と道路の片側(北東側)にのみ「高い交通標識柱」と「街路灯」が設置され、対向する自動車のライトの反射板を埋め込んだ「丈の低い1mほどの指導標柱」が道の両側に設置されている「高速道路」のような「農道」』を走行しながら、その不思議な「場違い感」にとまどい、その用途の不確かさに呻吟し、ここに「在ること」の存在意義を憤りながら考えていた。

 そして、走行しながらの観察は、私にあることを教えてくれた。
 …それは「道路の幅の広さ」と「直線状に続く長さと平坦さ」と「標識柱の設置されている位置」への注目であった。…

 これだと、「あれに成りうる」。道路の両肩に設置されている「1mほどの指導標柱」は「車輪とその脚」の高さより低いので、それに「主翼」がぶつかることはない。
 「幅の広い道路の片側にだけ交通標識がある」ということは、もう一方のない側に寄ると「主翼」の先端部分がぶつかることはない。
 しかも、道路は平坦でデコボコがなく、長い。きっと「あれ」だ…。
 今一度、昨日のブログの一節に戻ろう。
 …『一体これは何なのだ。どのような理由で、これほど広くしなければいけないのか。だれがこのような道路を望んだのか。これははたして「農道」と言えるのか。三車線や四車線という農道がどこの世界にあるだろう。』…

 この道路の管轄は、農水省と青森県だろう。短い指導標柱には「青森県」と刻まれていた。まさに、この道路には「国土交通省や防衛省」までが絡んできているであろうか。そう言えば、地元出身の代議士で「防衛副大臣」を務めた人も最近いたような気がする。
 「あれ」とは「滑走路」である。この「農道」(農免道路)はいつでも中型機程度の飛行機が離着陸出来る「飛行場」となりうるのである。
 地元の人たちも気づいているだろう。ただ口に出さないだけなのである。気がつかない者は、「いい道路だ」といって「思い切り」アクセルを踏んでいるものだけだろう。(明日に続く。)

自転車で…走る(その1)

2008-07-29 06:16:07 | Weblog
(今日の写真はシソ科イヌゴマ属の多年草、エゾイヌゴマ「蝦夷犬胡麻」である。花名の由来は北海道や東北に多く生育しているイヌゴマという意味で、イヌは役に立たないことを意味し、種が小さなゴマに似ていることによる。
 実は先日、自転車で弘前から鶴田町、つがる市森田地区を通り、十腰内に出て、高杉、弘前と帰ってきた。その途中の、鶴田町の鶴寿橋を渡り、旧柏村桑木田と鶴田町木筒、廻堰に挟まれたほぼ、直線の農道を走っている時に、道路の脇で出会った花である。

 それよりも、この農道の様変わりに驚いた…。

 数年前にも何回も「ここ」を走行していた。私には木造の館岡で「窯」を持って「津軽縄文焼き」をやっている一戸広臣君という教え子がいる。そこに1年に2~3回は行くのだが、その時に「ここ」をとおるのである。時間の短縮になるからだ。また、鰺ヶ沢の鳴沢から長平方面に抜けるというコース設定で走行する時にも「ここ」を走行する。
 「ここ」を走行することが好きな理由は「直線の農道」で走行しやすく、時間が五所川原市を経由するよりかからないというだけではない。
 もう一つある。実はこちらの方に惹かれている。それは、まさに田圃の中を走ることにあった。アスファルト道路の両側には側溝がある。これだとどこの道路でも同じだ。ところが、その側溝の外縁に低めの草地が広がり、その草地の外縁には幅の広い用水堰が敷設されているのである。
 「低めの草地」には春、夏、秋の花が咲き、今日の写真のエゾイヌゴマもそこに咲いていたものだが…他に目についたものには、マメ科ソラマメ属の蔓性多年草「クサフジ(草藤)」があった。真紅と濃い紫の花弁は緑の藪中でもよく目立つので自転車で走行しながらでも「眼」に留まるのである。花名の由来は「花と全体が藤に似ている草」ということによっている。
 さらに目についたものにバラ科キイチゴ属の「ナワシロイチゴ」の赤い実があった。これは草ではなくツル性の落葉低木だ。まさに、自然の恵み、誰も採って食べることをしないのだろう。自転車をとめて草地に入り込んで「10粒」ほど採って食べたが、その美味しいこと、乾いた口腔で柔らかいその「漿果(柔らかく水分豊富な果実)」は甘酸っぱく広がった。
 「用水堰」には今を盛りと葦茅「アシガヤ」が生えていて、それが柔らかい北東の風を受けて、揺らいでいる。その中からはオオヨシキリのさえずりが聞こえる。ノビタキの優しく可憐な鳴き声も聞こえる。さらに、上空にはノスリが舞い、時折短い鳴き声を聴かせてくれる。田圃の中の電柱のてっぺんには灰色に斑点のある姿を見せて停まっているものもいた。
 そして、その両奥には「広い田圃」が、緑の茎葉や黄金の穂波を見せてくれるのである。人が耕作している田圃なのである。人が造った用水堰なのである。人が造った道路である。…だが、この豊かな自然は一体何なのだろう。私はこの豊かな自然と、この自然の風物を見ながら、体感しながら走ることが好きなのである。その意味からもこの「農道」は私にとって、特別お気に入りの「コース」なのであった。

 今、『…「コース」なのであった。』と書いた。…ということは、これは既に「過去」のことであるという意味になるだろう。
 実はそうなのである。この「農道」の全部ではないが、私のお気に入りの部分は消失していた。
 この農道は二車線である。ところが、そこは、まるで三車線や四車線並みに拡幅され、新しい「アスファルト鋪道」と「交通標識柱」が設置されている。ここだけ見ると、まるで「高速道路」である。「高速道路」は自転車で走行出来ない。そのうちに、ここも走行出来なくなるのかも知れないとの思いがふと過(よ)ぎった。
 走行しながらあることに気がついた。それは「高い交通標識柱」と「街路灯」の位置である。何と、それらはすべて、道路の片側(北東側)にしかないのである。
 ただし、対向する自動車のライトの反射板を埋め込んだ「丈の低い1mほどの指導標柱」は両側に設置されてはいた。
 一体これは何なのだ。どのような理由で、これほど広くしなければいけないのか。だれがこのような「農道」を望んだのか。これははたして「農道」と言えるのか。三車線や四車線という農道がどこの世界にあるだろう。「農道」であるからは管轄は農水省と青森県だろう。
 広いだけではない。長いのである。実測は出来ないが目測では1.0kmはありそうだ。この広さであれば1m敷設単価はどのくらいだろう。おそらく、この「広さと距離」であるからは、数億円の事業であったろう。
 みんな、私たちの納めた「税金」でまかなわれている。何のための道路なのだ。このような使途目的のはっきりしない「道路の拡幅や延長」工事が日本の到るところで行われているのだろう。
 「工事のための工事」、つまり、建設・土木工事関係業者を潤すだけが目的の工事が、そして、その業者から献金としてして政治家に環流されるという「金」を産み出す工事が、「公」主導で行われているのだ。
 この道路が拡幅され、それに付随して広がった部分も含めて、それ分の「田圃」が減少したのである。「農家」のために「農道」を拡幅・延長したというのならば、農家から「田圃」を奪うという事実に対して何と説明するのだ。
 これは農家のみならず都市生活者を含めた納税者全員に対する欺瞞と政治家を含めた工事に関わるものだけのエゴでしかない。(明日に続く。)

青森県自然観察指導員連絡会弘前支部主催・公開講座のお知らせ/自転車で…

2008-07-28 05:57:54 | Weblog
(今日の写真は、青森県自然観察指導員連絡会弘前支部主催・公開講座の資料として使われる厳冬の岩木山山頂である。梅雨が明けたら暑い日が続いている。この写真でも見て少し「涼んで」もらいたいものだ。)

 ●公開講座は次の要項で行われる。

 ・開催日程:今月30日19時から20時30分まで
 ・会  場:桜大通り「市民参画センター3F」
 ・テーマ:「岩木山の生い立ちを探ろう」:岩木山と白神山地、どちらが年上?
 ・講 師:三浦章男(私です)

   ● 講座での学習の項目 ●
 1.鳥瞰図で岩木山をとらえよう。
 2.岩木山の生い立ちを探ろう。
 3.白神山地、八甲田山の生い立ちと比べてみよう。
 4.「活火山」岩木山の活動や地質と地形の特性から、噴火や土石流の対応を考えてみよう。

  講座で使用する資料一覧:

   ◆◆ 岩木山の生い立ちに関するプロジェクター画像資料 ◆◆

1.岩木山鳥瞰図 2.岩木火山の基盤 3.岩木山周辺は海だった 4.古岩木山のカルデラ壁・外輪山 5.湯の沢 6.寄生火山 7.中央火口丘 8.赤倉爆裂火口 9.火山泥流・軽石流分布図 10.記録に残っている岩木山の火山活動 11.火山活動の周期 12.火山活動の月別異同 13.カルデラとは 14.絵と写真で見る岩木山の生い立ち 

   ◆◆「活火山」岩木山活動の噴火や土石流の対応、温泉などについてのプロジェクター画像資料◆◆

1.火山の推移図 2.水蒸気・マグマ爆発「想定図」3.融雪型火砕泥流想定図4.水蒸気爆発災害予想図 5.マグマ噴火災害予想図 6.土石流発生予想図 7.岩木山の温泉

 以上の「画像資料」から講座内容を「想像」して参加すると楽しいかも知れない。なお、参加費は無料であり、申し込みも不要だ。直接会場に来て受け付け名簿に記載すれば、誰でも受講することが出来る。気軽に参加してみたらいかがだろう。問い合わせとかする必要もないが、一応、連絡先は次のようになっている。
 
 問い合わせ先:竹浪 純 住所:弘前市安原3-3-11 携帯:080-5229-6076

         ★★自転車で走ると色々なものが見える(1)★★

 人間の眼にとって、動くということの「速さ」に関わる限界は「自転車走行のスピード」程度であるらしい。
 だが、この「スピード」は全速力でペダルをこぎ続けたり、急坂を下ったりする時のものではない。そのような時は自転車でも時速50~60kmは出ることがある。
 そんな時、人の眼は、もはや道の両側にある樹木や草花、それに他の風景や現象を視認することは不可能になる。道の両側にある樹木や草花に視線を注ぎながら「走行」出来るスピードは大体時速20kmが上限だろう。

 ここ数日、自転車で走っている。私は自転車を2台持っている。1台は一応ロードマシン、またはロードレーサーと呼ばれるドロップハンドルの「軽快車」仕様である。
 これは軽い。20年ほど前には、これに乗って1日に250km走ったことがある。ただ、これは「悪路」に弱い。特に、路上の「釘やガラス片」を拾いやすく「パンクチュア」に見舞われることが多い。
 それに、あまり「遠出」もしなくなったので、最近は「マウンテンバイク」仕様のものに乗っている。…というわけでロードマシンの出番はなく、物置で「空気の抜けた」チューブを履いた哀れな姿でひっそりと身を横たえている。
 「マウンテンバイク」は、比較的「故障」に強い。まあ、整備不良で「ギアチェンジ」用のワイヤーが切れてしまい、「一番軽く、一番遅いスピード」で走り続けなければいけないという、無限地獄のような「苦痛」を味わったこともあるが、特に、「パンクチュア」には強い。タイヤが太くて、溝が大きく深くて無骨だからである。しかし、全く拾わないのかというとそうではない。
 小さい釘やガラス片は拾わないが「大きめ」のそれらを拾うことがある。こんな時の「パンクチュア」は爆発音に等しい。ものすごい音を出す。微少なガラス片が食い込んでの「パンクチュア」は少しずつ、チューブ内の空気が抜けていく。これには音がない。静かなものだ。
 若い頃は、「故障」や「パンクチュア」に備えて「補修や修理のための用具・器具一式」を持って走行していたものだが、今はそれらも欠品があったりで、それに何よりも重くなるので、持ち歩かない。
 年をとると「軽い」ことが一番大事になる。「マウンテンバイク」は重い。軽い「ロードマシン」は寝たきりの何とかだ。それでは重い「マウンテンバイク」を少しでも軽くしよう。
 そこで、タイヤとチューブを、「軽いであろう」細いものに換えたのだ。同時に長いこと「オーバーホール」もしていないので、それもしてもらおうとしたが、忙しくて「オーバーホール」は今は出来ないとのことである。
 やむを得ず「リム」に多少のねじれは出ているが、我慢して使おうということになった。
 この「マウンテンバイク」は長いこと、「街中」を乗るのに使ってきた「シテイサイクル」のようなものだから「泥よけ・ライト・スタンド」が着いている。これらは自分ですべて外して「軽量化」を図って、今走行を楽しんでいるのである。
 細いタイヤにしたら、走行がずいぶんと軽くなった。(明日に続く。)
 
 

同科同属でも同じ花は1つとしてない、みんな違う。人間世界も同じだ。

2008-07-27 06:31:28 | Weblog
(今日の花もミチノクコザクラだ。だが、よく見て欲しい。昨日や一昨日の写真と比較してよく見て欲しい。何かが違う。

 株は1つだ。だが、花茎が真っ直ぐに伸びて太いものが1本。それに、はっきりしないがもう1本の短い花茎が少し曲がって立ち上がり、その茎頂に花を1個だけつけている。太くて直上している花茎の頂には「総状花」のようにまとまった花が7~8個ついている。
 それに何といっても、際だっている「違い」は花弁の色である。一般的なミチノクコザクラの花色は「濃いめのピンク、かなり真紅に近いピンク」である。この花色はどう見えるか。「ピンク」に違いないが、きわめて「薄い」ピンクなのである。
 何も霧に覆われて、それによって「濃いめのピンク、かなり真紅に近いピンク」がボケたわけではない。また、人工的なフィルターをかけて撮ったわけでもない。
 それでは、生育状態の違いなのか。それも考えられない。咲いている場所は彼女たちが「好む」沢に面した法面「のりめん」の赤土である。
 写真にはこの「株」しか写っていないが、これは、この花をピックアップして撮ったからであり、この花の四囲数十㎝のところには、普通の色具合のものがたくさん咲いていたのである。だから、この場所によって、つまり、「土壌の変異」や「貧栄養」からの「異常」であるとは考えられない。この花だけが「薄いピンクの花弁」を持つに至った客観的な生育環境的な事情は認められないのである。
 それでは「薄いピンクの花弁」を持つこの「個体」のみに「生育的な事情」があるのだろうか。
 普通に想像されることの第一は、「花期」が終わりの段階に入っているのではないかということであろう。しかし、ミチノクコザクラにあってはそのようなことはない。花期の終期に「花弁の色変化」はない。色褪せないままに「散る」のだ。
 第二は「乾燥」である。この個体だけが「根」に損傷を受け「水分」の補給が出来ず「萎れて色褪せた」のではないかということである。だが、これも違う。全体として「枯れ」てはいない。極めて「正常」な立ち姿をしている。
 第三に「病的な異変」である。ミチノクコザクラに対する「疫病」があるかどうかは、私は専門家でないので知らないが、仮にあったとして、それに「罹患」して「花弁の色変化」をきたしたのではないかということである。だが、これも違う。見える下葉も茎も極めて正常で「元気」である。

 断っておこう。そもそも、このような「見方」をすることが間違いなのだ。
先ず、一等最初は、このミチノクコザクラの「今ある姿」についての「理由の詮索」の前に、「そのままに観ること」なのである。そして、そのままに「観た」感動を大事にするべきなのだ。「あっ、薄いピンク色の花弁。何と可愛いのだろう」とか「落ち着いて控えめな色彩だわ、しかも孤高に輝いているわ」と観るべきなのだ。
 それでは、この花弁の色変化は何なのだろう。
ミチノクコザクラの花弁の色は、私の観察では大まかに「真紅に近いピンク」から「純白」という範囲にある。厳密に調べると花弁の色は微妙にみんな違っていると思われる。
 この間にあるのが、この写真のような「薄いピンク」と先日掲載した「褄取草のような花弁の縁にピンクを滲ませるもの」である。
 つまり、どのミチノクコザクラも遺伝的な形質として「白と濃いめのピンク」のDNAを持っているのである。それが個々のミチノクコザクラによって、どちらかが具現される時に、「白」になったり、「真紅」になったり、「淡いピンク」になったり、「白地にピンク」になったりするのである。
 これが、自然というものである。別に不思議でも何でもない。特別視するほどのことでもない。
 花の付き方もそうである。茎頂に花を1、2輪、多くても3、4輪というのが一般的である。この写真のものももっと花数が多いだろう。総状花的な様相を見せる。これは多くのサクラソウ科に共通するものだ。サクラソウ科オカトラノオの穂状花序に、総状花の類似性を見ることは可能だろう。だから、ミチノクコザクラの花の付け方は、そのDNAから「2、3輪」から「十数個まで総状花」の範囲にあるのであり、そのいずれの咲き方をしても、別に不思議なことではないのである。
 それに、ミチノクコザクラに「総状花」が見られるのは、エゾコザクラの近縁であるという事情もあるようだ。エゾコザクラには総状花が多い。
 「2、3輪」の花を付けるのは「ハクサンコザクラ」の形質を伝えているものであろうと私は推測している。
 スプリング・エフェメラルズの1つであるカタクリの花も「同じものは1つもない」と言われている。「同じものは1つもない」ということはそれぞれが「自分の違い」を主張していることである。そうする中で、「進化」を遂げながら「種」を繋いできたのである。
 「同化」は「絶滅につながる一里塚」だ。人間も同じだ。ナチス・ドイツは「ハイル!ヒットラー」で同化して滅んだ。日本は「天皇陛下バンザイ」と言わせた軍国主義で同化した時に、無条件降伏という「完膚無きまでの敗戦」つまり「スコンク」で終わった。
 岩木山の花たちは、私たちに「同化せずに自分の違いで生きて、他の違いを認めること」を教えてくれる。)

かつて出会った褄取草のような変異種白花ミチノクコザクラ / 7月12日、大沢の雪渓では…(7)

2008-07-26 06:16:34 | Weblog
(今日の写真はかつて出会った褄取草のような変異種白花ミチノクコザクラである。説明は昨日のブログを読んで欲しい。昨日と今朝の写真のミチノクコザクラは8月5日発売予定の「岩木山・花の山旅」の本文には写真枚数の制限から載ってはいない。わずかに、表紙カバーの一部に昨日掲示したもう1株の方の写真が「アクセント」的に刷り込まれているだけだ。
 昨日の写真と今朝のものを十分比較して、同じミチノクコザクラの変異種でも、これだけの違いがあることを理解して欲しいものである。
 「違い」というものは「その命の生い立ち」そのものである。遺伝的な形質、生育環境によって生ずるものだ。私たちは、この「違い」を大事にしなければいけない。
 決して「一つの名」や「一項目」で括るようなことはするべきでない。「ミチノクコザクラ」という一語で括ってしまっては、この「違い」は埋没してしまう。
 「違い」とは「個性」である。私たち人間も、それぞれ違った「個性」をもった存在である。
 この社会の中で、仲良く共存していくということは、お互いが、お互いの「違い」を認め合うことだろう。
 しかし、社会はそこまで行っていない。民主社会であるから、一応は「個性の尊重」という「項目」を掲げるが、求められることは「同化」である。同じ顔をすることを要求する。なぜか。同じ顔の集団は管理しやすいからだ。
 大分県教委は教員の管理がしやすかったであろう。採用から昇任まで、「口利き」「贈賄」「採点改ざん」という「裏の手法」で同じ顔を強要出来たからである。
 青森県でもきっとこのようなことはあったであろうし、あるはずだ。私の周りにもずいぶんと大勢の「同じ顔」がいた。
 特に、高校における「校長や教頭の昇任」には、客観的な「昇任試験」がなかった。「教頭」に昇任するためには「直属の校長」や「他の校長」または「県教委のお偉方」そして、国会議員や県議の推薦や「口利き」が必要なのだ。こうしてなる、「校長」たちもまた「同じ顔」をしていた。

 「学校」という組織を見てみよう。小学校、中学校、高校、それに大学まで、どこの学校の「教育目標」にも「個性の尊重」は必ず掲げられている。しかし、その実は生徒や学生が皆同じ顔になることを要求する。「違い」、つまり「個性」を認めず「A高校生らしく」とか「B大学生としての誇り」とか「C小学校の伝統」とかを持ち出して「違い」を排斥して同化を求める。これは、学校だけではない。組織という組織はすべてそうだ。
 特に自己目的化した政党やスポーツ団体、機能を失った協議会や外郭団体、それに特殊法人などがその例である。社会保険庁もその類である。)

★★このシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラが咲いている場所とその近くでの出来事…。(その7・最終回)★★

(承前)…

 この枝沢は、上部から雪渓が消えると「枯れ沢」となるので、濃霧の時には、初めての登山者がよく迷い込むところでもある。錫杖清水から30mほど下ったところにあるのだ。
 山に登ろうとする者は、その山の「気象特性」を把握していなければいけない。岩木山の場合は、北西から冷たい空気が流れ込んでいる時季は、北側と北西側は山頂部から山麓まで「晴れ」ている。しかし、その反対側の南側と南東側は山頂部以外は「霧」に覆われる。特に標高1000m以上のところは濃霧になる。この2人は、この「濃霧」に突入したのである。

 焼止り小屋を通過したのが11時30分頃だという。そして、「今」は14時30分を回っていた。私に発見されてから、ここまでたどり着くのに20分くらいだ。3時間近い藪こぎをこの2人はしていたのだ。藪こぎは一般的な登山に比べるとその3倍の体力を消耗する。しかも、登山開始が6時45分というから、すでに7時間を越える「行動」をしている。体力の消耗は10時間を越え、そのピークにあると私は考えた。
 そこで、「頂上に行くことは断念して、スカイラインをしてバスで下山したどうですか。ここからゆっくり30分かけて登り、 鳳鳴小屋からリフト乗り場まで15分、あとはリフトに乗ってしまえば、自力の行動はありませんから。」と言った。
 この2人は、私の言葉に頷いて、間もなく出かけて行った。私は囓りかけのおにぎりをようやく食べ終えたのである。彼らが出かけて間もなく、別の男女の2人連れが登って来た。
 ところが、この2人もまた、藪の中に入って行こうとしたのである。言うまでもないが、慌てて止めたのである。この2人連れも、言葉遣いは「この土地」のものではなかった。やはり、岩木山は初めてだと言った。彼らには疲労困憊の色はなかった。これが出来事の3つめである。

 帰りは岳口に下山した。その途中、スカイラインターミナルでバスを待っている「藪こぎ」2人組に出会った。何と頂上まで行って、リフトを利用してここまで下山したというのだ。最終バスには遅れたがタクシーで帰るという。
 それはそうだろう。せっかく来たのだし、 鳳鳴小屋までは自力で登ったのだから、「あと15分」という頂上へは「行きたい」だろう。「よかったなあ」との思いが込み上げてきた。
 この「ご夫婦」は恐らく百名山など、登山道のしっかりした山歩きにはなれている人たちで、それなりの体力も備えていたのだ。ただ、「登山の基本」に関するレデネスに少々欠けていたのである。

褄取草のような変異種白花ミチノクコザクラ・東奥日報に掲載 / 7月12日、大沢の雪渓では…(6)

2008-07-25 06:48:13 | Weblog
(今日の写真は昨日「7月24日付東奥日報」に掲載されたまるでツマトリソウのような風姿を見せるミチノクコザクラである。
 ミチノクコザクラは岩木山の宝である。「お宝」は個人所蔵でも構うまい。だが、氷河期からの遺存種で岩木山で独自の進化を遂げてきた高山植物、ミチノクコザクラは岩木山のものであり、岩木山が私たちみんなのものであるように、ミチノクコザクラもみんなのものである。
 だが、それは個人で所蔵したり、所有すべきものではない。特に、「珍変異種」のツマトリソウのようなミチノクコザクラは希少であるゆえに「個人所有」の目的で「盗掘」される。また、「写真」も「個人的に所蔵」されて、「みんな」の目には触れない。
 私は、多くの人たちと、このような「珍しいミチノクコザクラを共有し、愛でてもらい」ながら、このような花の咲く「岩木山をより大事にしてもらえればいい」と考えて、新聞紙上で公開したのである。

 記事にもあるが、このような「ミチノクコザクラ」と出会うのは20数年ぶりであった。
 岩木山に登り始めて40数年、いや中学生や高校時代を含めると50年になるのだが、このような「ミチノクコザクラ」に出会ったのは僅かに2回目である。
 2回目ということは、それほどの驚きも感動もないものだ。ただ、この株を含めて2株生えていたことには「驚き」を持った。
 最初の出会いはこれと同様の、雪田が消えたばかりの沢すじであった。そこにはイネ科の植物が繁茂していて、それらと「背丈」の高さを揃えて共存しながら、群落をなしたミチノクコザクラが生えていた。
 その群落から少し離れた「乾燥」した「砂礫地」のような場所に、ぽつんとたった1株だけが2輪の花をつけて咲いていたのが、ツマトリソウのような風姿をしたミチノクコザクラだったのである。
 私は何回も目をこすった。見間違いではないだろうか。錯覚ではなだろうか…。幸いそれから数十cm離れたところに、色具合の「正常」なミチノクコザクラが数本生えていたので、それと比較することで「変異性」を確認することが出来たのである。
 しかし、色具合の「正常」なミチノクコザクラも形状からするとものすごく「痩せて」貧相ではあった。
 私は目の前のこの現実を、幻視ではなく「事実」であると、ようやく冷静に受け止めることが出来たのである。そして、カメラを向けたのだが、胸の高鳴りはなかなか止まなかった。

 この写真のものと出会った時は、極めて単純に「ああ、美しいなあ。久しぶりですね。この場所でも咲くことがあるんですね。おお、2株ですね。2株も咲くとは大変珍しいですね。」と思ったものである。
 そこで、相棒のTさんに「これは大変珍しいものですから、撮っておいた方がいいですよ」と言ったのである。
 確かに、Tさんは写したはずだから10.000本に1本という確率で咲く「珍変異種」の写真を持っている数少ない人の1人であるはずだ。
 このように、20数年ぶりにしか出会えないような、10.000本に1本という非常に珍しいミチノクコザクラに出会っても、Tさんはあまり感動しているという様子がないのである。
 私とTさんが「相棒」を組み始めて足かけで、冬季を含めて3年ほどだろうか。この短い期間の中で、Tさんは、私が50数年という岩木山通いで、僅かに2回目であるというような「出会い」に、1回目として出会っているのである。
 ふと思うことがある。私が50年かけて経験していることをTさんは3年でしてしまっているのではないかと。事実、赤倉沢源頭崖壁の大崩落など、そのような出会いが、「相棒」として同行するたびにあるのである。
 私はこのような「出会い」という事実に驚きを持っているし、一方でTさんを「羨ましく」思うこともあるのだ。そして、これは、私に身の引き方を示唆していることではないかとも思うのである。)


★★このシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラが咲いている場所とその近くでの出来事…。(その6)★★

 (承前)…

 「視界は5m前後」であったと言う。この2人は「濃霧」に巻かれて、方向を失い、大沢に流れ込む枝沢を「道」だと「決めつけて」登り始めたのである。「右側に通路らしいものがあった」と言っているが、夏場で流水が枯れている時には通路のように見えないこともないが、上部に雪もまだ残っているから「水」も流れている。
 恐らく、そこまで登って来た大沢も水が流れていたから、これを「本流」だと考えたのであろう。そして、それを詰めると山頂に行くことが可能と考えたのであろう。
 私は「地図と磁石の有無」については、敢えて訊かなかった。もしも、「地図と磁石」を持っていて、しかも、使うことが出来たならば、このようなルートの採り方はしないはずだからである。
 常識的にはこのような状況になった場合は10人中9人までは、引き返すものだ。ところが、その日に出会った登山者は彼ら2人を含めて9人中9人が引き返さず、登り続けて「それぞれの道迷い」を犯していたのである。

 登山者の気質が変わったのだろうか。いや、そうではない。安易に登山が出来るという風潮や思想を観光業者や登山用品製造企業やその販売店などが、無責任に「垂れ流し」ているからである。(明日に続く。)

随想紀行『カラーガイド:岩木山・花の山旅』間もなく発売 / 7月12日、大沢の雪渓では…(5)

2008-07-24 05:35:21 | Weblog
(今日の写真は、8月5日に発売される『カラーガイド:岩木山・花の山旅』の表紙カバーである。
 今日から最終の校正に入る。今日、明日と校正をして、26日からは印刷と製本にかかる予定である。私の手元に届けられたり、書店に並ぶのは8月5日以前だろう。)

 著者は、岩木山を考える会事務局長・NHK弘前文化センター講師・環境省自然公園指導員・自然観察指導員であり、日本勤労者山岳連盟(弘前勤労者山岳会)と日本山岳会の会員で、このブログの書いている私です。
 総358ページのA5判で、出版社は北方新社です。北方新社からは既に3冊の本を出版しています。

…著者の弁…       
 岩木山に咲く花を紹介した本はこれまで出版されたことはありません。初めてのものになります。多くの人から愛され畏敬され、全国的にもかなり有名な「山」なのですが、花だけでなく「岩木山」に関する図書は非常に少ないのが実情です。

 「岩木山・花の山旅」はこれまで陸奥新報(2期2年10ヶ月)や東奥日報(2007年)に掲載されたものに加筆し編集しなおしたものです。
 「岩木山・花の山旅」には岩木山に咲く438種(写真441枚)の花が掲載されています。
 300種の花の写真には「キャプション」・「花名(カタカナと漢字表記)」・「科と属名」・「花名の由来」のほかに、花に癒され、安らぎをもらう登山者の目をとおして、花を主人公にした1400字程度の紀行随筆を載せました。
 138種の写真には「花名(カタカナと漢字表記)」・「科と属名」・「花名の由来」を掲載してあります。

 私のスタンスは、岩木山を登り降りしながら、自分の目で見たこと、見えたことについて「自然のまま」を心がけて写し、書くということです。
 自分の感性に訴えて表現したかったものは花それぞれに付けられている「キャプション」であり、紀行随筆であるから、これは単なる「写真集」や「花の図鑑」ではない。しかし、その内容からは、使い方によっては、十分「図鑑」にもなるだろうと考えています。
 写真を見ながら、文章を読むと、誰でも岩木山に入っている気分になることが出来るでしょう。
 掲載は季節を踏まえて、雪のある「早春」に咲き出すものから、夏から秋という順序にしてカラー分けをしています。

 職場での休憩時間に、居間や自室でのんびりしている時に、写真入りの随想紀行として読むことも出来ます。
 また、岩木山の登山、その他の登山のお供に、自然観察会のテキストに、自然散策のガイドに、山野草の学習に、十分に役に立つものと思っています。 

 著者から直接購入すると消費税なしで買うことが出来ます。予定価格は2800円(消費税込みだと、2940円となります)書店から購入すると消費税がかかります。

★★このシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラが咲いている場所とその近くでの出来事…。(その5)★★

 (承前)…

 …男性がぽつりと言った。「岩木山は初めてなんですよ。」
 私はこの2人が「何処」から来たのかは訊かなかった。交わした短い会話から、東北の人や、少なくとも「地元」の人でないことは気づいていた。
 また、なぜ、正規の登山ルートを外れて「山頂」に向かって「藪こぎ」を敢行したのかも分かっていた。
 問題はこの2人が「藪こぎ」と格闘し続けた時間であり、その距離であった。
「藪こぎ」は全身運動である。絡みつく根曲り竹や低木の反発力はそれと同等のエネルギーを足や腕、背筋、腹筋などから容赦なく奪い取る。
 その上、竹や低木に阻まれて周囲は見えない。まるで、竹と低木で作られた薄暗い檻の中を「うごめく」ような行動しか出来ないから、その圧迫感と閉塞感はストレスとなる。これが精神的にダメージを与え、肉体的な疲労を増幅させる。
 「藪こぎ」はルートがはっきりしていて、足場がしっかりと確保されている場所の登山に比べると3倍以上の「体力と気力」が要求されるものなのである。3倍疲れるということである。
 少なくとも、「藪こぎ」の経験を1回でもしていると、「敢えて藪こぎ」をするということは避けるものである。この2人には過去に「藪こぎ」の経験はなかったようだ。
 私はこの2人の「体力と疲労度」を把握して、これからの「行動」に対して「指導と助言」を与えなければいけない立場にいた。これも、環境省自然公園指導員としての役割なのである。
 2人は疲弊し切っていた。もう動けないという様子なのである。とにかく、何か食べることと水分を補給することを勧めた。

 食べながら男性が語り始めた。その概要はこうだ。
…6時45分に岩木山神社の大鳥居を出発した。焼止り小屋を通過したのが11時30分頃である。登り初めは霧が薄かったが、登るに従い濃霧になってきた。沢(大沢のこと)に入ったらまともに濃霧の中である。岩にペイントでマーキングされた赤書きの矢印などを頼りにして登って来たが、岩や土石と竹の根などの堆積物があちこちにあって、その目印も見失ってしまった。視界は5m前後である。それでも、なんとか登っていたら、右側に通路らしいものがあったので「それ」を辿って登った。しかし、それも途切れてしまった。とにかく登っていくと頂上に出ると思い登り続けたが、ほぼ垂直に近い岩崖に阻まれてしまった。なんとか登り越えられる「低い岩崖」がないかと右に左へと動いていた時に声が聞こえた。その声の方を見ると晴れていてあなたが見えた。…(明日に続く。)

岩木山の沼にいる外来魚・ブラックバス / 7月12日、岳登山道から登り、大沢の雪渓では…(4)

2008-07-23 06:02:27 | Weblog
(今日の写真は百沢と上弥生の間の「宮様道路」沿いにある「温水溜池」に生息している「外来魚」のブラックバスである。体長は50cm以上だろう。このくらいの魚影が何匹も、簡単に確認出来るのである。
 「温水溜池」は環状線の上部に位置している。25.000分の地図にもしっかりと記載されている。岩木山環状線の上部にはこのような溜池が多い。
 弥生を大石の方に向かって出た辺りで左に入る道を行くとこれよりは狭いが溜池があるし、小杉沢に行く途中にもかなり大きな溜池がある。本会幹事のSさんによるとこの「溜池」にも、「ブラックバス」がいると言っていた。
 環状線の上部の「溜池」に外来魚が生息しているということは、環状線より下部の岩木山山麓にある「溜池」にも当然生息していると考えていいだろう。
 山麓下部の溜池の数は多い。もちろん、東面から北面にかけて偏在しているが、特に鰺ヶ沢方面に多いのだ。
 もしも、これら数多い「溜池」にブラックバス等の外来魚が生息しているとなれば、青森県の岩木山山麓の池塘は日本有数の「外来魚」天国になるだろう。

 このことについては別に稿を起こして書くので、今日は次のことに触れて終わりにしたい。
 先ず、最初に「ブラックバス」は誰かによって持ち込まれ放流されたということを抑えておきたい。
 「ブラックバス」は「オオクチバス(ラージマウスバス)」ともいう。スズキ科の魚だ。ルアー(疑似餌)に反応して「引き」の強いこの魚は「釣りの対象魚」としてアメリカでは人気が高く、日本には1925(大正14)年に「釣り」を楽しむために芦ノ湖など限られた湖沼に持ち込まれて放流された。
 それから1964年までは全国の5県だけで確認されていたが現在は全都道府県で確認されている。
 青森県では1983年ごろに確認され始めた。この「釣りの対象魚」としての外来魚は、他に「ブルーギル」や「コクチバス」がいる。「コクチバス」は冷たい水温を好む魚で、これは1990年代ごろから増え始めたとされている。
 「ブラックバス」の餌は、在来種(その沼や湖に昔から棲んでいた魚、つまり、日本の魚、国産の魚)のアユ、ワカサギ、ハゼ、エビ、それにフナやコイの幼魚である。これは「ブラックバス」等が増えると日本の在来種の魚が「ブラックバス」等によって駆逐されることを意味する。
 これを受けて現在、全国すべての都道府県では「生態系の保全、漁業資源の保護」のために、「漁業調整規則」を設けて、「外来魚の移植や放流を禁止」している。だが、現実は「規則」を設けただけで、県等の自治体は、その生息調査すらやっていない。「怠慢」の一語に尽きる。)

★★このシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラが咲いている場所とその近くでの出来事…。(その4)★★

(承前)…出来事の2つめである。

…その「剥離帯」を彼らはどんどんと降りて来た。今度は私の方に向かって90度右折しなければいけない。そして、大沢の枝沢を跨がねばならないのだ。
 もう大きな声を張り上げなくても、普通の声で十分私の指示は聞こえる距離となった。先頭の人が突然見えなくなったのだ。転倒して沢に落ち込んだらしい。「大丈夫ですか。」という声が飛んだ。「大丈夫です。」その声の上部の藪に次の人影が現れた。
 私はその沢を辿らせて大沢本流に入って来るように誘導したかったのだ。しかし、先頭の人は沢を跨いで、私のいる場所を目がけて真っ直ぐに、つまり、藪をトラバースしてやって来るのである。
 今度は、後ろの人影が突然消えた。沢に落ち込んだのである。根曲り竹を「滑り台」のようにして「沢」に降りたと言っていいだろう。
 ようやく、トップで降りて来た人が「錫杖清水」の下辺りの雪渓上に姿を現した。男性だった。次いで、女性が現れた。女性の方は赤いヤッケを着けていた。男性は白いTシャツだった。上部の藪でこの「赤と白」がよく目立った。この色具合でなければこちらに発見されることは難しかっただろう。
 2人とも疲れ切っていた。女性の方は歩くのもままならないという状態だった。2人はどちらも年配者である。見た感じでは私と同年配かやや、年長者かも知れない。彼らが交わす会話の端はしから、どうも「ご夫婦」であるようだ。
 「大変でしたね。どうもどうも、ご苦労様でした。」と言って労いながら、私の傍の岩に腰を降ろして、休むように促した。彼らは、そこにひたり込んでしまった。
 私は、しばらくの間、声をかけなかった。話しかけなかったのである。今、彼らに必要なことは休養である。疲れの回復を図ることである。それを措いて、他に何を求めることが出来ようか。

 私たちのいる場所から30mほどの下部からは、その大沢を含んで濃霧に包まれていた。一向に晴れる気配はない。恐らく1~2時間前は、「今」私たちのいる場所も濃霧の中だったのだ。
 この場所から濃霧が消えて、上部がよく見える状態になって、本当によかったと思った。見えない状態だったら、私はこの2人を発見出来なかったし、この2人も私を発見することも出来ず、目視による「誘導・指示」も得られないまま、「藪の中」を彷徨していたであろう。
 あの高さから、もし、「東」に降りていたら、大絶壁の「おおまぶ」と呼ばれる「後長根沢」の源頭に出てしまったら、もはや助かる術はなかった。そうならなくて本当によかった。(明日に続く。) 

「岩木山・花の山旅」の表紙カバー

2008-07-22 04:47:56 | Weblog
(今日の写真は8月5日発行予定の「岩木山・花の山旅」の表紙カバーである。今朝は、その宣伝をさせもらう。ただし、カバーの全体ではない。3分の1は欠けている。
 本ホームページの「出版物の紹介」欄に掲示されているものとはまったく違うものになった。
 事前の宣伝ということで表紙を自分勝手に作った。既に出版している本の表紙カバーに倣って作ったのである。私は「岩木山」にこだわり、菜の花を背景とした写真を裏表紙に、表には湯ノ沢から見える秋の岩木山、それに、初冠雪を抱く弘前市樹木から見える岩木山、花はミチノクコザクラとエゾノツガザクラをごちゃごちゃと混ぜた写真を貼り合わせて、レイアウトも何もないものだった。
 ところが、その印刷物をもって、何人かの人に案内をしてみたら、不評なのである。中には、はっきり、「これが表紙カバーになるんですか」と不満をあからさまにする人もいたのだ。それが本ホームページの「出版物の紹介」欄に掲示されているものである。
 これは、私自身も気に入らないものだった。なんとなく、前著書のカバーに倣っただけだったからである。
 少なくとも、「花の山旅」という本であり、これまでの著書とは内容は全く違う。だから、それに相応しいすっきりとして、しかも芸術的なカバーであって欲しいとは思っていたのだ。
 そこで、編集者のNさんに相談したのだ。Nさん曰く、「実は私もそう思っていたところです」と。私は『提示してあった写真数枚をすべて破棄して「これ1枚」だけ使ってカバーデザインをして下さい。』と頼んだのだ。
 そこで、Nさんは急遽、会社のデザインやレイアウトの「プロ」に「1枚」の写真は入れるという条件で「作って」もらったのが、この表紙カバーなのだ。
 「1枚」の写真というのは「白花褄取り陸奥小桜(シロバナツマトリミチノクコザクラ)」である。もちろん、こんな名前の花はない。
 このカバーを見た時、さすが「プロ」だなあと思い、直ぐに気に入った。説明する必要もないが、写真が「小さい」ので敢えて書くが、背景の山は「花々に覆われている岩木山」である。その形から何となく分かるだろう。
 配色も明るいし、ごてごてせずクリーンで泥臭くないのがいい。このようなものをきっと、「クール(Cool)」と言うのだろう。

 これに、あやかって今朝は「ミチノクコザクラとは…」について少し書きたい。

 ミチノクコザクラ(陸奥小桜)とは、サクラソウ科サクラソウ属の多年草である。岩木山では全層雪崩で出来た剥離地帯の赤土を好み、2、3年で生えてくることもある。標高1600mから1000mにかけての崩落地や崩壊地、沢すじに多い。

 背丈は生えている場所によって違う。貧栄養の乾燥地や気温の低いところでは、花茎は10cm未満、特に風衝地にあっては5cmに満たないものもある。しかし、湿地や湿潤な場所で他の草とともに生えているところでは20~30cmのものもある。

 花色は赤に近いピンクが一般的だが、淡いピンクや白のもの稀に生える。その白の花弁のものには淡いピンクで縁取りをしたようなものも非常に稀に生える。

 白花のミチノクコザクラは時々見かけることがある。これは変異種であり、シロバナミチノクコザクラと呼ばれる。一見、八甲田山に咲く「ヒナザクラ」に似ている。
 この出現率は普通種1.000本に対して1本という確率であるとされている。大体その程度だとは思うが、場所によって偏在していて、ある場所ではまったくシロバナミチノクコザクラが見られないこともある。

 一般的なシロバナミチノクコザクラは茎頂に1輪か2輪の花をつけているのが普通だ。だが、中には一本の茎頂に20個以上の花を総状につけるものもある。これは非常に珍しい。その発生頻度は5~7年に1度程度であり、出現確率は普通種5.000本に対して1本という確率程度でないかと考えられる。

 花弁の外縁が淡いピンクで縁取りされているミチノクコザクラの発生頻度は非常に低く、40数年の岩木山との付き合いの中で、僅かに2回である。この出現確率は普通種10.000本に対して1本という、まるで、シロバナカタクリの出現確率に匹敵するものだろう。
 これは変異的なミチノクコザクラの中でも変異中の変異、ものすごく珍しい部類に入るだろう。一生のうちに会えない人が殆どだろうと考えられる。
 ミチノクコザクラと同じ仲間にツマトリソウというものがある。「褄取草」と書く。白い花びらの先端に淡い赤色の縁取りをするので、このように呼ばれている。
 これと比較するとミチノクコザクラが「サクラソウ科」という同科であることがよく分かるかも知れない。
 最初は20数年前に長平登山道沿いの雪渓脇で出会っている。もちろん、写真に撮ってある。今回の出会いは、ある沢の雪渓脇である。今月中旬のことだ。しかも2株に出会った。まさに20数年ぶりの出会いであった。

7月12日、岳登山道から登り、大沢の雪渓では…(4)は字数の関係で休載し、明日掲載する。

岩木山山麓採草地跡に咲く花々 / 7月12日、岳登山道から登り、大沢の雪渓では…(3)

2008-07-21 06:52:07 | Weblog
(今日の花は岩木山の山麓で、まだ採草地跡地の面影を残す場所で見たキバナノカワラマツバ「黄色の花」とノコギリソウ「ピンクの花」である。この写真には写っていないがオオルリシジミという蝶の食草である「クララ」も、もちろん生育していて今や盛りと花を咲かせていた。
 この時季、山麓には花が多い。環状道路から山側に登る道に入っていくと、環状道路の一回り上に位置するように道路がある。これは残念ながら岩木山を周回することは出来ない。途中で途切れてしまうのである。
 たとえば、百沢の小森山口から入り、桜林の下部を通っている通称「宮様道路」は弥生の上部を通り、少し行ったところで「消滅」する。百沢の石切沢から続く道も、環状道路の上部を通っている。これも、最近は所々で消失しているが、岳温泉まで続いている。
 そのような道に入ると、この時季は「高山部の花の端境期」を補ってくれる多くの花と出会えるのである。
 かつて岩木山麓の採草地の多く、特に麓野の山田野演習場から弥生、百沢の近くまでオオルリシジミという小型の蝶が棲んでいた。
 その昔、日本海に暖流が流れ込み、海水の蒸発が盛んになって、日本は温暖化し降水量が増え、草原は森となった。自然の中で限られて残った岩木山や阿蘇山などの火山性崩落による草原にオオルリシジミが残ったのである。
 岩木山の採草地は、これら火山性の崩落による草原から人工的に広げられたのである。
 ところがこの草原はまずリンゴ園に変身した。百沢登山道でいえば採草地は姥石あたりまで広がっていたが、高く村落から遠いところは放置されミズナラ林など雑木林になった。
 この時、草原の蝶・オオルリシジミが棲む本来の草原はいち早くリンゴ園に変身、オオルリシジミは絶滅した。岩木山の採草地のかなりの部分は、日本海が湖だった頃から続く自然の草原だったことをこの蝶が証明してくれている。
 単調な生物相に多様性を与えるのは寄生火山や湿原草原を含む麓野である。麓にある寄生火山はなだらかな麓の地形に変化を与え、地下水や水の流れに変化を与え、草原や湿原など自然景観のハーモニーを作り出してきた。
 昔の演習地だった山田野など、草原、湿原、松林、その間に雑木林もあって特有の景観を示していた。草原である採草地は草刈り、野焼きによる人間の手によるものである。)

★★このシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラが咲いている場所とその近くでの出来事…。(その2)★★

 これは出来事の2つめである。乾いた岩の上に腰を降ろして、遅い昼食のおにぎりを頬張った時だ。何気なく一の御坂から続く岩稜を東に辿ったら、岩稜直下の藪でうごめく人影が見えた。2人である。
 悲しいかな、環境省関係の業務の補助的なことを20年近くやっていると、どうも「人を見たら泥棒と思え」的な精神構造になってくるものらしい。
 この2人の人影に気づいた最初は、登山道など全くない場所であり、普通は誰も行かない場所であるから「何をしているのだろう」という素朴な疑問を持ったに過ぎなかったが、次は「はては高山植物の盗掘か」である。
 よくないなあ。このような見方をする自分にあきれたし、悲しかった。とにかく事実確認が先である。
 双眼鏡を出してしっかりと、しばらく見ていた。「しばらく」といっても数分間だ。先ず手には「盗掘者」の常套持ち物である、「手提げ用袋」がなかった。これでとりあえず「ほっと」した。
 その2人の動きには特徴があった。非常に緩慢な動きではあるが、簡単にいうと「右往左往」しているのである。明らかに「登って」はいない。ダケカンバやミヤマハンノキの低木と千島笹の藪の上部にそそり立っている岩稜に阻まれて、その下で「進退窮まって」いる状態なのである。
 この2人は正規の登山道を失い「一の御坂」から続く古い外輪岩稜に向かって、おそらくこの「外輪岩稜」の直ぐ上が頂上だと思い、藪の中に入っていったのであろう。
 「迷っている」のである。とにかく無事にここまで降ろすことが先決だ。
 私はそこで初めて大きな声「降りて来て下さい。」で叫んだ。幸い聞こえたようで動きに反応があった。1人がこちらを見ている。
 これでよし。私を発見してくれた。声は聞こえなくても私の手振りや身振りが見えるとここまで誘導は出来る。
 私はさっきから立ち上がっていた。囓りかけのおにぎりは岩の上に置いたままだし、テルモスから注いだお茶もそのままだ。
 2人の直ぐ下には4月に発生した全層雪崩によって出来た「千島笹の剥離帯」が下降している。「藪こぎ」は登りもきついが、下りは「足」がとられてよく転倒するものだ。
 「疲れている」時の、背中にザックを着けての転倒は、起き上がることに要するエネルギーが何倍にもなるので極端に疲労を増加させる。
 転倒を避けて、スムーズな下降をしてもらうことが、この際大事であると判断した。そこで、その「剥離帯」に入り、下降するように「東」に移動するように手で合図してから、数m進ませてから今度は、腕を直角に曲げて「南」に方向を換えさせて、ようやく「剥離帯」への誘導が終わった。
 「剥離帯」に入った2人の姿は頭、または腰上しか見えなくなった。私は、その影をひたすら、肉眼で追った。もう双眼鏡を必要としなくても、はっきり見える距離に彼らはいたのである。(明日に続く。)

7月12日、岳登山道から登り、大沢の雪渓では…(2)

2008-07-20 05:37:59 | Weblog
(今日の写真は7月12日、錫杖清水付近で見かけたシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラである。シロバナミチノクコザクラの出現率は普通種1.000本に対して1本という確率であるとされるが、よくもまあ、数えたものである。大体その程度だとは思うが、場所によって偏在していて、ある場所ではまったくシロバナミチノクコザクラが見られないこともある。
 錫杖清水付近と書いたが清水はまだ雪渓の下、つまり、積雪の下に埋まっているのである。
 岩木山のミチノクコザクラは、ハクサンコザクラの亜種として扱われていることが多い。ハクサンコザクラは飯豊山、越後駒ヶ岳、朝日岳、白馬岳、それに白山に生えるグループである。
 ところが、ミチノクコザクラは葉緑体に含まれる遺伝子(DNA)の分析から、むしろ、北海道に分布するエゾコザクラの亜種との近縁度の方が大きいという報告がある。
 エゾコザクラは羅臼岳に咲くものが基本種であり、その他に大雪山、上ホロカメットク山、幌尻岳に生えるグループがある。この報告からは「ミチノクコザクラはハクサンコザクラよりも、むしろエゾコザクラに近く、独立してミチノクコザクラという種がある」ともとれるのである。
 つまり、…コザクラと呼ばれる植物は、「羅臼岳のもの」、「その他の北海道と岩木山のグループ」、そして「ハクサンコザクラのグループ」と三つの系統があることを示している。ミチノクコザクラはエゾコザクラの仲間であると考えたほうがよさそうである。

 ★★このシロバナミチノクコザクラと普通種のミチノクコザクラが咲いている場所とその近くでの出来事…。(その1)★★

 お天気は昨日のブログに書いたとおり「晴天」、雲一つない青空が山頂をくっきりと見せながら広がっている。錫杖清水と推定されるところも晴れていて爽やかな風が吹き渡っていた。ところが、そこから30mも下ると濃い「霧」が大沢を覆っている。恐らく視界は5mぐらいだろう。これも私の予想どおりである。

 出来事の1つである…。

  鳳鳴小屋から種蒔苗代に降りて、大沢に入り「錫杖清水」と雪渓に向かっていた。右側鳥海山斜面には1975年8月5日に発生した大土石流の崩落地が見える。
 その日に降った希有の豪雨は種蒔苗代(古い噴火口)からあふれ出て大沢を下った。さらに鳥海山斜面の堆積火山灰を「地滑り」的に「崩落・剥離」させて、この土石流となり、大沢を下り、蔵助沢に流れ込んで、伐採されて樹木のないスキー場の雨を集めて、その勢いを増して、百沢のに流れ込んだ。
 この土石流で22名の方が亡くなったのである。詳しくは本ホームページの「・自然破壊や災害について」の「百沢土石流災害」をクリックし、開いて読んでいただきたい。さらに詳しく知りたい方は拙著「おお悲し、泣くはみちのく岩木山」・第三話 土石流災害とスキー場を読んでいただきたい。
 その崩落地には何段かに渡って「土留め」の丸太杭と丸太の横木が設置されている。そこは植生の回復を促すために「侵入・登山禁止」になっている場所でもあった。
 何と、そこを登っていく者がいるのだ。注意をして登山道まで降りてもらはなければいけないと思い「なんかの調査のためにそこに入っているのですか。」と声をかけた。
 「…」返答はないものの、その人は登ることを止めて、私の方を見ている。
 「申し訳ありません。そこは1975年8月5日に発生した大土石流の崩落地で植生の回復を図っている場所で、入ってはいけないところです。植生の調査などでなければ出ていただけませんか。」
 「…」その人は一言も発しないまま私の方に降りてきた。それと、ほぼ同時に下の雪渓の方から4人の登山者が登って来た。
 「土留めのある崩落地」を登っていたのはこのグループの一員で、トップでルートファインデングをしていたらしい。そして、北西に向かう登山道を外れて、南の鳥海山に向かって登っていたのである。単純な「道迷い」である。
 私は、その4人に「土石流のことと崩落地、それから山頂への登山道」について話して、最後に「環境省関係者」であることを話した。彼らは岩木山に初めて登ったという意味のことを言った。
 4人は1人を待つことなく「ありがとうございました。」と言って登って行った。1人はようやく登山道まで降りて来て、私とすれ違った。
 「楽しく登っているところを降ろしてしまい申し訳ありませんね。」
 「…」怪訝そうな顔をしていたが、やはり、言葉はなかった。だが、その表情にはほっとした安堵感が読み取れたのである。
 彼は「崩落地」に、ただ、単純に「迷い込んだ」だけなのである。「調査」でもなく「盗掘」でもなく、初めての岩木山登山で「濃霧」に巻かれて、登っているうちに、そこを登る羽目になっていたのだ。彼は先行する4人を追いかけるようにして去っていった。
 ところで、植物を「盗掘」する者の中には「調査」を装う者もいるので注意が必要なのだ。
 大した距離でもないのに、「ようやく」錫杖清水と思われる場所に着いた。腹時計ならず、本物の時計もすでに1時を回っていた。雪渓の上端の岩場で、遅い昼食にすることにした。
                          (この稿は明日に続く)

7月12日、岳登山道から登り、大沢の雪渓では… / 小鹿社中メンバーとの出会い(5)

2008-07-19 06:48:29 | Weblog
(今日の写真は7月12日に岳登山道のブナ林内で出会った風景である。霧に射し込む太陽の光。当日、朝起きたら雨が降っていた。だが、この雨で登山を中止するなどとは微塵も思わない。
 テレビもラジオを、それにインターネットも「今日の天気予報」は雨である。しかし、私の天気予報はこうである…。
 岳登山道、登り初めからブナ林の中腹までは濃霧(ガスと登山用語ではいう)、それを過ぎた辺りで、西から青空が覗きはじめ、濃霧は消えていく。そして、ブナ林上部ではすっかりと晴れ渡るだろう。しかも、この晴れは標高が高くなるにつれて確固たるものになり、気温も大して上がらず、爽やかな涼風(冷たい風)が吹き渡る最高の登山日和となるだろう。ただ、この好天は岩木山の山頂部から、南西、西、北西、北、北東にかけてのもであり、南東から東に面する山腹から麓はその逆で、終日曇り、特に百沢登山道の大沢沿いはガスで見通しか利かないだろう。
 そして、天気は私の予想どおりになったのである。…
 難しいことは分からないが、日本海から冷たい気圧が張り出して、過冷却の水滴は蒸発して氷晶となる。氷晶が落下する途中で、気温が0℃より高いと、雨になる。
 簡単に言えば、岩木山の北から西一帯を覆っていた霧は冷たい気温によって消えたのである。また風によって山越えをした冷たい湿った空気は南と東の中腹から山麓部に溜まったのである。

 その日の天気は…という気象のメカニズムによる。偉そうなことを言っているが、私は、このような経験を何回も重ねている。その経験の中で、岩木山という局所の微気象についての理解も深まっているのだろう。)

     ☆小鹿社中メンバーとの出会い(5・最終回)☆

 私は小鹿拓海君たちとの出会いのことを「ブログ」に書きたいと思った。このようにひたむきで無垢で純粋な若者たちがいることを多くの人たちと共感したかったのだ。そして、喜びたかったのである。
 そこで、次のメールを、前述したメールを発信したその日のうちに送った。

『小鹿拓海さんへ
 実は私どものホームページ内の私のブログに「あなた方との出会いのこと」を書きたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
 あなた方の写真と小鹿さんが送ってくれ たメール文の一部も使いたいと思っています。なにとぞ、ご許可下さることをお願いします。
 私は昨日のあなた方を見て、この世の将来も捨てたものではない。 こんなに真面目で律儀な若者がいる限り、大丈夫だと確信しました。
 最近のニュースは、若者がしでかす暗いものばかり、あなた方の昨日の行動は、かなり「無謀」でしたが、『若者でなければ出来ない明るくて新鮮な「無償」の行為』であると感じたのです。
 そのことを出来るだけ多くの人に知って欲しいと思い、ブログで 紹介したいのです。
よろしくお願いします。 』

 それに対して小鹿君からは快諾するという次のメールが届いた。

『 小鹿です。返事が遅くなって申し訳御座いませんでした。三浦さんからの暖かいお言葉で自分も目頭が熱くなってました。
 他のメンバーにも紹介したところ、女性メンバーは感極まって、涙を流しておりました。もしあの時、三浦さま方と出会えてなかったら、今頃、どうなっていたものか、と皆で話してました。
 初めての自分達に「勇気と暖かさ」を教えて下さいましたことを、心から深く感謝申し上げます。

 ブログへの掲載につきましては、ご自由にお使いください。こちらこそ、あのような立派なブログに掲載されるとは、恐縮です。
 近いうち、お礼の意味も込めまして、自分達が録音しているCDをお送りしたいと思っております。岩木山に登ってからの音は多分、今までの音とは変わったと思いますので!宜しく御願い致します。 小鹿拓海 』

 私は直ぐにそれに応えて…

『 小鹿拓海さんへ
 お早うございます。早速、私の無理なお願いをお聞き入れ下さいまして本当に有難うございます。
 あなた方が演奏をしている写真を含め、小鹿さんのメールなど、それに私の感想などを書いて文章にしたいと考えています。明日か明後日、またはその翌日あたりの掲載になるものと思います。
 どうぞ、「岩木山を考える会」のホームページから私のブログに入って下さい。お仲間の方々にもよろしくお伝え下さい。お仲間の方々にも私のメールを心暖かく読んで戴いたようで、これもすごく嬉しいことです。ありがとうございます。』
…というメールを送ったのだが、約束の「明日か明後日、またはその翌日あたり」には掲載出来ず、ようやく15日から掲載が始まった。その日に送ったのが…

『 小鹿拓海さんへ
 遅くなりましたが、本日のブログからあなた方のことが登場しました。
明日と明後日はあなた方の写真入りのものになります。色々と書 かねばならないことがありまして、予定からずいぶんと遅れてしま いましたことをお詫びいたします。 』
…というメールである。
 それに対して小鹿君は…
『三浦様
 毎日、拝見させていただいてます。他のメンバーも毎日、楽しみにしているようです。三浦様のブログを拝見させて頂いて、つくずく登山の奥深さを、何よりも痛感しております。大変、勉強になります。
 何よりも三浦様の岩木山に対する「愛」を感じてます。
これからも、ちょくちょく覗かせて頂きます。 小鹿拓海 』…というメールが届いている。

 来年の岩木山登山囃子大会では、是非もう一度この5人組に会いたいし、飛躍的に岩木山に近づき岩木山を理解した「囃子演奏」を聴きたいと思っている。
(この稿は今日で終わる。小鹿社中のみなさん、元気で目標に向かって歩んで下さい。)

7月6日、弥生登山道から登り百沢に降りた / 小鹿社中メンバーとの出会い(4)

2008-07-18 04:48:51 | Weblog
(今日の写真も鳳鳴小屋の前で「岩木山山頂」に向かって登山囃子を演奏「奉納」している小鹿社中のメンバーである。撮影者は相棒のTさんだ。山頂への登山道を駆け上がり高いところから、メンバー全員を納めようとあれこれと工夫しながら写したものだ。霧に包まれて「薄暗い」中で、よくこれだけ明るく写っているものだと感心している。今日の写真は昨日の写真とは違う。)

(承前)
 「昨日の続きはここから始まる」…小鹿社中メンバーとの出会い (4)

 私は、その日疲れてしまい早く就寝したので21時過ぎに着信していた小鹿君からのメールを読んでいなかった。翌朝、5時頃起床して、小鹿君からのメールを読んで直ぐに返事を書いた。
 そして、7時近くに、小鹿君に対して次のメールを送信した…。

『 小鹿拓海さんへ
 メール返信が遅れましたことお詫びいたします。あなたからのメールを開いたのが今朝だったもので、遅くなってしまいました。申し訳ありません。

 おなた方の心意気に深く、しかも熱く感動しております。登山囃子がひととおり終わったところで、私たちが下山を始めた時、私たちに「送り」の演奏をしてくれましたよね。それを背中でじっと聞きながら、有り難い想いで全身がじ~んと熱くなりました。
 霧がかかって山頂は見えませんでしたが、間違いなく「山頂方向」に向かって演奏しておりましたから、きっと、岩木山へのお囃子奉納はなされたものと思います。
 それだけではありません。自分たちの足で百沢から「太鼓」など背負って登ってきたわけですから、十分「奉納」登山はなされたと思います。
 山々の神に対する参詣は「自力」ですることに意味があります。スカイラインとかリフトとか他のことに頼って登っていては真の意味で「奉納」や「参詣」にはならないはずです。
 登山が苦しくきついものであればあるほど、それは「山の神」への願いが「成就」されると言われています。
 あなた方が昨日登った百沢登山道は、岩木山に5つある登山道の中でもっとも厳しくきつい登山道です。そのような登山道ですから、昔から「お山参詣」の道として使われています。
 しかも、今年は4月に発生した全層雪崩の剥離物が登山道沿いのあちこちに残っていて、「登山道」を塞いでいますから、異常な状態です。
 正常な状態でも大変いきつい登山道なのに、異常な状態ですから、登る人への負荷はもちろん大きいのです。
 さらに、あの大きな「太鼓」を持って登った訳ですから、その苦労は想像を絶します。山登りの基本は「背中にリュックサック、手には何も持たない」です。その手に大きな太鼓をもって、しかも太鼓は円形で持ちどころが不安定です。喩え肩に掛けて来たにしても、それは難行であり、苦行だったでしょう。
 そのような「登り」のなかで、足下は雪と土でどろどろになったところあり、岩が今にも崩れて来るようなところあり、剥がされた竹の根があり、固くしまった雪がありという状態ですから、とても困難です。
 加えて、非常に危険な場所を登っていたのです。危険な場所を登ることは心理的にも肉体的にもストレスになります。これが体の疲れに付加され、ますます疲れは貯まります。
 小鹿さんのメールに「実は太鼓叩いている時、立っているのがやっとの状況でした。」とありましたが、本当にそうだろうと思います。疲労困憊の状況だったと思います。

 あなた方は十分、自分たちの力と意志で「登山囃子」奉納という「満願成就」をしました。
 「岩木山を知らないで、本当の登山囃子が出来る訳が無い!」という真面目で若い情熱は本物です。これは岩木山を理解し、愛してくれることにもつながります。
 若いあなた方が、このような真摯な情熱を持って「自力と自助努力」で岩木山に来て下さったことに対して深く感謝しています。私は40数年岩木山に夏冬通じて登っていますが、あなた方のような人たちと出会ったのは初めての経験でした。
 ああ、長いこと岩木山登りをしていて本当によかった、このような「出会い」もあるのだと、しみじみとその幸福をかみしめています。
 もう一度言います。あなた方の「岩木山登山囃子奉納登山」は心意気として真実成就されています。是非、来年は「お山参詣の登山囃子大会」に登録して、もう一度岩木山に来て下さい。
 それからもう1つ、「伝統芸能」を継承していく者がいないとよく言われます。しかし、よく考えてみるとこれは「自治体や世の大人たち」の継承していくことへの怠慢だと思います。
 このような社会の中で、あなた方は自主的に「伝統芸能」を愛し、仲間を作って、それを伝えていこうとしている。本当にこれはすばらしいことです。
 何だか、嬉しくなってこのメールを書きながら、涙がこぼれてきました。5人の仲間はみんないい人たちですね。

 私は現在67歳です。昨日は弥生登山道を登り、山頂を経て百沢に降りました。一緒にいた人は私よりも10歳若い友達(名前はTさん)です。慣れているとはいえ、百沢登山道の大沢では苦労をしました。あの荒れている沢を大沢といいます。
 一緒にいた友達Tさんも、あなた方との出会いにすごく感激していました。降りながら何回も何回もあなた方のことを話していました。

 その友達が写したあなた方の「演奏」写真を送ります。もし小鹿さんがプリントして仲間の人にあげることが出来るのならばそうして下さい。それが出来なければ、私がプリントして5人分を小鹿さんに郵便で送ります。
 もっと書きたいのですが、今朝はこのくらいにしておきます。元気で頑張って下さい。写真が小さければ連絡下さい。大きくして送ります。』(この稿は明日に続く)

7月6日、弥生登山道から登り百沢に降りた / 小鹿社中メンバーとの出会い(3)

2008-07-17 06:01:45 | Weblog
(今日の写真は 鳳鳴小屋の前で「岩木山山頂」に向かって登山囃子を演奏「奉納」している小鹿社中のメンバーである。撮影者は相棒のTさんだ。)
(承前)
 「昨日の続きはここから始まる」…小鹿社中メンバーとの出会い (3)

「私たちはこれで下山します。あなた方が苦労して登って来た登山道を降ります。みなさんは15分でリフト乗り場に着きますが、気をつけて下さい。登山は登りよりも下りに危険が多いのです。」
「はい、分かりました。」5人組には先ほど、鳳鳴小屋の前で「ひたって」いたような雰囲気はもはやなかった。あるのは爽やかな若者の素直な風情だけだった。
 
 後ろのTさんが言う。「よかったですね。」私たちは必死になって彼らの背中を押し続けた。彼らはそれに対して素直に応えてくれたのである。
 降り始めて間もなく、また、「登山囃子」の演奏が始まった。その音色は、今度は私たちの「背中」を押してくれていた。
 その演奏は厳密には「登山」囃子ではなかった。それは、「登山を終えて、降りる時」に演奏される囃子だったのである。
 彼らは、降りていく「私たち」のために「帰り・戻り」のための「下山囃子」演奏をしてくれていたのである。
 振り返って「有り難う」と手を振るか頭を下げるかをしたかったが、そこからは演奏している彼らの姿は残念ながら見えなかった。「リフト終了時間」に間に合うのだろうかと心配になってきた。
 錫杖清水はまだ積雪に埋まり、雪渓の下だった。
はっとした。彼らは、もしかしてこの「清水」をあてにして途中で、持参した「水」を飲んでしまい、喉がからから、半ば脱水症状の中にいたのではないのだろうか。それを、口頭でどうして確認しなかったのだろう。悔やんだ。確か、メンバーの1人は「空のペットボトル」を叩いて演奏のリズムを添えていた。
 ああ、何て私はこうもバカなのだろう。「登山囃子」演奏のことで背中を押す前に、先ずはこのことのほうを先にするべきであったのだ。私のザックにはまだ、500ml1本の水が入っていたのだ。しかし、そこから追いかけても5人組には、既に追いつけない距離にいた。深くて強い反省を飲み込んで、降りるしかなかった。

 百沢登山道の大沢は見た目以上の「荒れ方」であった。4月に発生した全層雪崩のデブリ(崩落と滑落した堆積物)は所々で沢を埋め、登山道を塞いでいた。
 積雪の上に載っている岩や土石がまだ動いている。その直ぐ脇を恐る恐る下降を続ける。いつ崩落が始まるか分からない。もし、崩落が始まってそれに巻き込まれたら「命」はない。
 ここを登ってくる登山者には、一層の注意喚起が必要だ。少なくとも「初心者」などは今月いっぱいは、このルートの「登山」をしないように指導すべきだろう、などと考えながら、細心の注意を払いながら、後ろの相棒にも注意を促しながら慎重に「ゆっくり」としたスピードでの下山を続けたのである。
 折れ曲がった百沢登山道入り口の標識を見ながら、砕石の道を通り、ようやく駐車場に着いた。そこには私たちの自動車だけがあった。
 ほっとした。ああ、あの5人組は、時間に間に合い「無事」にスカイラインに着いて、そこからこの駐車場まで「何らかの方法」でやって来て、帰ったのだ。とにかくよかった。これで一安心だ…。

 その晩の9時過ぎに、小鹿君から「律儀」にも、つぎのようなメールがきた。

『三浦様
 先程はありがとうございました。お聞き苦しいお囃子で申し訳御座いませんでした。
 「小鹿社中」代表の小鹿拓海(コシカタクミ)と申します。自分達は実は全員が生まれて初めての、登山経験でした。
 来年、本格的にお山参詣の登山囃子大会に登録しようと思っているところでありまして…(そこで)…
 岩木山を知らないで、本当の登山囃子が出来る訳が無い!という自分の勝手な解釈から(岩木山を知る意味で岩木山登山が)始まった次第です。
 最初は8合目までリフトで上がろうかと計画したのですが、それじゃ何か違う(自分の足で麓から登らないと嘘だ)と思いまして、…今回の形になった訳です。
 残念ながら今回は山頂まで行けませんでしたが、次こそは山頂で(登山囃子の奉納をしたい)!と思っております。

 あの状況(の中)で三浦様方と出会えて本当に励みになりました。ありがとうございます。実は太鼓を叩いている時、立っているのがやっとの状況でした。山の厳しさを身を持って知りました。本当にいい経験になりました。

 私達、小鹿社中のメンバーは、青森ねぶた囃子方をやってまして。各個人、尺八、三味線、和太鼓、横笛、手踊り、を習っている集団です!
作曲して、これから創作物にも手を出して行きたいと思っております。とにかく伝統芸能を愛してる連中が集まっている団体です!まだ発足して一年にも満たないのですが…。長文で失礼致しました。 小鹿拓海
(この稿は明日に続く。メール文の( )内は私が文意に合わせて加えたものです。掲載は小鹿君の了解を得ています。)