岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

山に行くことで日常と自分を相対化して捉えることが可能だ…

2007-07-08 05:58:57 | Weblog
 私はある「山岳会」所属している。もちろん、創立時からの会員である。ずいぶんと長い間在籍している。20代の後半からであるから、そろそろ、36年になる。
 その会の創立30周年記念誌(編集主幹は私だった。)のアンケート「なぜ山に行くのか」という項目に対する会員たちの回答を集計をしながら、サブ項目である「あなたは登山を通してどのようなことを学ぼうとしているか。」の回答コメントを読んだ。この質問を言い換えると「なぜ山に行くのか」と同じことになるだろう。 

 1)人生の意味や生きていくこととは何なのかということ。
 2)山や自然という客観的な事物に照らして自分の成長。
 3)日常生活から離れて、自然の中で汗をかき感動したり、味わうこと。
 4)自然のすばらしさや自然を大切にすること。
 5)生きていることの素晴らしさと自然の凄さや偉大さ。
 6)人間は自然の中で生きているものの一種に過ぎないということ。
 7)山に関する自然科学全般を知り、里での人間生活の無駄や無理なことを考えること。
 8)いつまでも感動できる感性を磨くこと。
 9)自然の中で自分を見直し、振り返るということ。

1)から9)までに共通していることは「山に行くことで生きた感性的な空間に身を置いて、閉鎖的、群衆的で均質的な日常の自分を、客観的に相対化して捉えている」ことである。簡単に言うと「山に行くことで日常と自分を相対化して捉えている」ことであり、これは凄いことだ。
 そして、さらにその空間を拡大し比例的に自己の感性を増やし、磨いて強めていこうと考えていることである。そこまで理解した時、私は素直に嬉しい気持ちになった。だが、「凄い」とか「嬉しい」という感動は「現実」に直面するとむなしく消え去る。
 「相対化する」とは「物ごとが他との関係・比較において存在しているということを明らかにする」ことである。
 つまり、英語の勉強のためイギリスで生活したところ、余りにも自分が「日本と日本語」について知らな過ぎたことに気がついたので、英語よりも「日本と日本語」学習に力を入れる結果になったということなどが「相対化する」という例である。
 均等・均質で同じものだけである世界では相対化することは出来ない。いきおい異質を求めざるを得ないのである。現代人の求める異質なるものが「山」なのである。
 日常の社会生活の中で「曖昧な毎日」を送っていたのでは、この「相対化」ということは不可能である。家族、世間、職場、政治、経済など自分の生き様の中で遭遇するすべての「事象」について、常に「自分」と関わりのあることとして、厳しくしかも真摯に受け止め、対処していなければ不可能なのである。
 自分の周りに生ずる事象を「私には関わりがないこと」だとして、「山」だ「登山」だと言っている人は、「山」に逃げ込んでいる人である。
 社会に生きていながら社会の諸事情に関わりがないと無関心を決め込んでいる人は「社会人」ではない。それでは、「山」やそれを支える「山岳自然」には関心があるのかというとそうでもない。
 足下に咲く、けなげな草花を踏み散らして「侵入禁止」のロープや柵を越えて踏み入る。登山道の破壊や自然的な拡幅を助長する登山客の増大には目もくれない。
 ゴミは置き去り、野糞(のぐそ)も野しょんべんも気にしない。そして、総体的に「山岳自然」の保護には関心がない。それだけではない。「山岳自然」の保護活動をしている人には冷笑を浴びせ、「自然によって生かされている人が『自然保護』だなんて、笑わせるんじゃないよ。」などと言う。
 日本の「山岳人口」は1000万人とも言われている。「山岳自然」に癒されたり、それを楽しんだりしている人が1000万人もいるというのに「自然保護」運動は低調である。未だに「林野庁による天然林」の伐採や不要な「堰堤」敷設はあとを絶たない。はっきり、事象として「自然が破壊」されているにも関わらず、この「1000万人」は「破壊」を止めさせようという行動をしないのである。何と「力」のない1000万人であることよ。登山家、登山者、登山客よ、もっと元気を出して「山岳自然の保護」に精を出せ!「1000万人」が事を起こしたら、日本の政治だって逆転出来るだろうに…。
 それほどに「相対化」されていないということだろう。
「日本山岳会」や「勤労者山岳連盟」に加入している総数は5万人に満たない。その中でも「自然保護活動」は低調である。昨年、岩木山百沢で開かれた「東北自然保護のつどい」には、私が所属している山岳会の県連盟としての参加がなかった。これも「低調」の証だろう。 

 山は優しいから「そのような人」をも受け入れてくれるだろうが、時には「お仕置き」もしてくれるから気をつけた方がいい。最近よく見られる中高年登山客の、登山の常識からは普通「考えられない」ような「遭難や死亡事故」は自己を「相対的に把握出来ない人」に対する山の仕置きであるに違いない。