岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

マロリーの「山がそこにあるから」という言葉の山岳自然保護的な意味

2007-07-13 04:14:08 | Weblog

「なぜ山に登るのか」という問いに対する答えは、深く考えてみると多分に人の心理的な欲求からくる人生的な意義を内包している。
 たとえば、その答えは「人間性の回復である。日常の抑圧から解放されて日常とは異質な体験をとおして生きた感性的な空間に身を置き、自己の確認をする。そして、あるべき人間を自己の中に取り戻すこと。」などを要求するはずである。
 そのような意味あいからは、「なぜ山に登るのか?」…「山がそこにあるから」というマロリーが言ったとされる言い分は答えになっていない。

 しかし、このマロリーの言い分を「山岳自然の保護」という観点でとらえなすと、俄然、意味が出てくるから面白い。
 それはきわめて単純明快である。「山がなければ登山という行為はありえない」ということに因る。つまり、登山行為の保証と継続のためには「自然の山」が存在しなければいけないということだ。
 単純明快な論理だろう。「山岳自然の存在」が人間の登山行動を生み出したのである。
 だから、自分が登山をして、そのよさや感動、美しさ、意義などを後生(こうせい・未来世代)に伝承していこうとすれば、当然その「山岳自然の永遠な存続」を願い、存続を毀損するような「自然破壊を許さない」で、自然保護に極めて「自然」に努めるということになるはずである。
 そこに、いつまでも山があるようにすることが私たち登山者自身の務めであり、永遠の課題であることは言を待つまでもないことだ。
 このような考え方を持って、それが私たちの登山行動の中でどれだけ具体化されているだろうかを問い直してみると、私自身この上なく心許ない思いになる。
 だが、課題を解き、克服するために、私たちは常々次の事柄に敢然と行動で向かわねばならいことは事実であり、少なくとも、背を向けるわけにはいかない。

 私たちが登山をするということは、「山岳自然の現場」に直接入るということである。登山とはこれを措いては存在しない行為である。私たちが登山行為をするに際して、常にしなければいけないことは「山岳自然の現場」との関わりでとらえられる。次にそれを掲げてみる。

 第一にすべきことは、「山岳自然の現場」での学習と観察と監視・評価行動だ。
 本来あるべき悠久な山岳自然とはどのようなことなのかに関する学習、現場で眼前に広がる山岳自然の客観的な観察、山岳自然にとって無用で過剰な行政等による登山道整備やダム(堰堤)の敷設、林道などの建設と自然破壊や標識等人工物の監視やその適、不適の評価ということになるだろう。

 第二にすべきことは「山岳自然に負荷を与えない」ということである。
 多様な自然の生態系への打撃となるような行為、つまり樹木、高山植物や動物・昆虫の採取、踏み荒らし、登山道の破壊、ゴミ、屎尿の垂れ流し、排ガスの垂れ流し等はしないということである。

 第三にすべきことは「山岳自然に異物を持ち込まない、持ち込んだものはすべて持ち帰る」ということである。
 岩場や沢ではハーケン、ボルトなどの乱用、樹木の伐採、損傷、アイゼンによる踏み荒らし等はしない。ザイル類、スリング、送り用赤布・テープは回収する。水質を汚染する行為、ダイオキシンを発生する焚火行為はやめる。

 第四にすべきことは「スケールメリットを追い続けた行政と企業によって消失させられた森林の再生、回復をはかる」ということである。

ここまで考えると、正直なところ、何だか気楽に山に出かけることが出来ない気分になってくるだろう。
 しかし、最低でもこの四つの項目を遵守しない限り「山岳自然」は近い将来、喪失の憂き目を見ることは明らかである。
 とりわけ美しい「山国日本の自然」は、今を生きる私たちだけのものではない。私たちの後生である「未来世代」のものでもある。
 誰かの言う「美しい日本」には、具体的な行政努力として、この4項目に関わることがきわめて希薄なのである。ほとんど「ない」に等しい。