(今日の写真は「オオヤマザクラ」に似ているが八重咲きなので「オオヤマザクラ」ではない。ただ、「オオヤマザクラ」の変異種であることは枝や葉によって見当がつく。
これにはよく、「弥生・いこいの広場」の上部尾根で出会うのである。
最初出会った時は、「オオヤマザクラ」との違いに気づかず、「ああ、ここにもオオヤマザクラが咲いている」という程度の感慨しかなかったのだが、何回か出会っている内に、その違いに気づくようになってきたのだ。
そこで、調べてみたら、どうも、「オオヤマザクラ」の変異種であるらしい。野生の「オオヤマザクラ」が「変異」して増えたのか、それとも、北海道に見られる「マツマエザクラ」の変異種なのか私にとっては定かではない。
ただ、北海道にあるとされる「マツマエザクラ」が岩木山に咲いていてもおかしくないだろう。それが、「岩木山にはない」と断言出来る専門家がいるだろうか。そうであれば、訊きたいところである。
また、「オオヤマザクラ」が園芸種として作られ、それが「マツマエザクラ」と呼ばれているのならば、これは「人里」近いところに咲いているものだから、誰かが「植樹」したものかも知れないし、あるいは鳥などが運んだ種から「実生」として育ったものかも知れない。
いずれにしても、実際に「生えている」のだからしようがないではないか。
私の好みからすると、あまり「仰々しい」趣の花なので、余り惹かれない。しかし、それでも、豪華さは否めない花である。ただ、…未だにこの高木には出会っていない。)
「私」の「オオヤマザクラ」に対する思い…(1)
1.「サクラ」というの名前の由来は「ヤマザクラ」にある。つまり、「ソメイヨシノ」にあるのではなく、この「オオヤマザクラ」の系譜にある。雑木林に「オオヤマザクラ」ということが、東北地方の「原風景」なのだ。
「サクラ」という花名の由来としては次の2説がある。
・古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだ。
・「サクラ」「サ」は穀物の霊を表し「クラ」は神霊が鎮座する場所を意味する「サ+クラ」で、穀霊の集まるところを表す。
いにしえの人々が「サクラ」に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではないだろう。どうも後者にその妥当性があるようだ。その当時「ソメイヨシノ」は存在しない。
明るい陽光が降り注ぎ、水はけのよい土地でなければ生きられない「サクラ」は、森の途切れる辺りとか、土石崩落や雪崩などで森が破壊された場所で人知れず花を咲かせていたのである。
やがて、「サクラ」は妖精となり、女神となり、精霊となった。こうして、「雑木林の里山」には「サクラ」(西日本ではヤマザクラ、北日本ではオオヤマザクラ)があるという日本の原風景が出来上がったのだ。
弘前では里山が「りんご園」になってしまい「雑木林の里山にはサクラ」という「原風景」はわずかに岩木山に残る程度になってしまった。
2.和歌や俳句で詠じられた「サクラ」も、明治初年まではここで言う「ヤマザクラ」であった。
万葉集や源氏物語等の古典・詩歌に登場する花(桜)は、そのすべてが「ヤマザクラ」だ。「ソメイヨシノ」ではない。
万葉の歌人たちが、また平安の王朝貴族が愛した桜(ヤマザクラ)は、「貴人たちの趣味」としてそこにあったのではなく、はるか昔に形成されたこの「原風景」に根ざしていたのである。
その証明のために、次の和歌と俳句を紹介しよう。
・あしひきの山桜花日並(なら)べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(山部赤人)
・世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)
・山守の冷飯寒きさくらかな(与謝蕪村)
「サクラ」のことを、万葉の時代は「山桜」とか「桜花」と呼んでいたが、平安の御代になると「桜」または、ひと言の「花」と呼ぶようになった。
数え切れないほどある花の総称である「花」をもって「桜」としたのである。それほど「サクラ」への思いが強かったのだ。だが、ここに登場している「サクラ」は「ソメイヨシノ」ではないのである。
3.桜は日本の「国花」であるが、それは山桜である。「ソメイヨシノ」ではない。
「サクラ」は北半球の温帯に広く分布しているが、美しい花を咲かせる種類は、日本を中心としたアジア諸国にだけある。
しかし、「国花」を決定する時の思想的な根拠としては「ソメイヨシノ」はその対象にはなっていなかった。その当時は「ソメイヨシノ」は存在しなかった。
今や「サクラ」といえば「ソメイヨシノ」を指すほどに国民的な花であるが、「ソメイヨシノ」は「国花」でいうところの「サクラ」ではない。
だが、「日本国の花はサクラである」という時に、多くの国民は「ソメイヨシノ」を思い描き、「ソメイヨシノ」の並木を瞼に浮かべているのである。
「ヤマザクラ」も「オオヤマザクラ」も「ソメイヨシノ」のように慌ただしくは散っていかない。(明日に続く)
これにはよく、「弥生・いこいの広場」の上部尾根で出会うのである。
最初出会った時は、「オオヤマザクラ」との違いに気づかず、「ああ、ここにもオオヤマザクラが咲いている」という程度の感慨しかなかったのだが、何回か出会っている内に、その違いに気づくようになってきたのだ。
そこで、調べてみたら、どうも、「オオヤマザクラ」の変異種であるらしい。野生の「オオヤマザクラ」が「変異」して増えたのか、それとも、北海道に見られる「マツマエザクラ」の変異種なのか私にとっては定かではない。
ただ、北海道にあるとされる「マツマエザクラ」が岩木山に咲いていてもおかしくないだろう。それが、「岩木山にはない」と断言出来る専門家がいるだろうか。そうであれば、訊きたいところである。
また、「オオヤマザクラ」が園芸種として作られ、それが「マツマエザクラ」と呼ばれているのならば、これは「人里」近いところに咲いているものだから、誰かが「植樹」したものかも知れないし、あるいは鳥などが運んだ種から「実生」として育ったものかも知れない。
いずれにしても、実際に「生えている」のだからしようがないではないか。
私の好みからすると、あまり「仰々しい」趣の花なので、余り惹かれない。しかし、それでも、豪華さは否めない花である。ただ、…未だにこの高木には出会っていない。)
「私」の「オオヤマザクラ」に対する思い…(1)
1.「サクラ」というの名前の由来は「ヤマザクラ」にある。つまり、「ソメイヨシノ」にあるのではなく、この「オオヤマザクラ」の系譜にある。雑木林に「オオヤマザクラ」ということが、東北地方の「原風景」なのだ。
「サクラ」という花名の由来としては次の2説がある。
・古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだ。
・「サクラ」「サ」は穀物の霊を表し「クラ」は神霊が鎮座する場所を意味する「サ+クラ」で、穀霊の集まるところを表す。
いにしえの人々が「サクラ」に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではないだろう。どうも後者にその妥当性があるようだ。その当時「ソメイヨシノ」は存在しない。
明るい陽光が降り注ぎ、水はけのよい土地でなければ生きられない「サクラ」は、森の途切れる辺りとか、土石崩落や雪崩などで森が破壊された場所で人知れず花を咲かせていたのである。
やがて、「サクラ」は妖精となり、女神となり、精霊となった。こうして、「雑木林の里山」には「サクラ」(西日本ではヤマザクラ、北日本ではオオヤマザクラ)があるという日本の原風景が出来上がったのだ。
弘前では里山が「りんご園」になってしまい「雑木林の里山にはサクラ」という「原風景」はわずかに岩木山に残る程度になってしまった。
2.和歌や俳句で詠じられた「サクラ」も、明治初年まではここで言う「ヤマザクラ」であった。
万葉集や源氏物語等の古典・詩歌に登場する花(桜)は、そのすべてが「ヤマザクラ」だ。「ソメイヨシノ」ではない。
万葉の歌人たちが、また平安の王朝貴族が愛した桜(ヤマザクラ)は、「貴人たちの趣味」としてそこにあったのではなく、はるか昔に形成されたこの「原風景」に根ざしていたのである。
その証明のために、次の和歌と俳句を紹介しよう。
・あしひきの山桜花日並(なら)べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(山部赤人)
・世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)
・山守の冷飯寒きさくらかな(与謝蕪村)
「サクラ」のことを、万葉の時代は「山桜」とか「桜花」と呼んでいたが、平安の御代になると「桜」または、ひと言の「花」と呼ぶようになった。
数え切れないほどある花の総称である「花」をもって「桜」としたのである。それほど「サクラ」への思いが強かったのだ。だが、ここに登場している「サクラ」は「ソメイヨシノ」ではないのである。
3.桜は日本の「国花」であるが、それは山桜である。「ソメイヨシノ」ではない。
「サクラ」は北半球の温帯に広く分布しているが、美しい花を咲かせる種類は、日本を中心としたアジア諸国にだけある。
しかし、「国花」を決定する時の思想的な根拠としては「ソメイヨシノ」はその対象にはなっていなかった。その当時は「ソメイヨシノ」は存在しなかった。
今や「サクラ」といえば「ソメイヨシノ」を指すほどに国民的な花であるが、「ソメイヨシノ」は「国花」でいうところの「サクラ」ではない。
だが、「日本国の花はサクラである」という時に、多くの国民は「ソメイヨシノ」を思い描き、「ソメイヨシノ」の並木を瞼に浮かべているのである。
「ヤマザクラ」も「オオヤマザクラ」も「ソメイヨシノ」のように慌ただしくは散っていかない。(明日に続く)