(今日の写真は、オトギリソウ科オトギリソウ属の多年草「トモエソウ(巴草)」だ。
先日のブナ伐採の現況を調査に行った時、「ぶな巨木ふれあいの径」入り口付近の道路対岸の草むらで咲いていたものである。
北海道、本州、四国、九州に分布し、山や野原の日当たりのよい草地に生えている。)
◇◇ 白神山地、やはり、花々の種類は豊富だ ◇◇
「トモエソウ(巴草)」。このような美しい「山野」の花が咲いているのに、この「ぶな巨木ふれあいの径」を訪れる人は殆ど気づかないまま、「都市」に直結するような「簡易舗装」の「道」に入って行く。
「トモエソウ」は「都市」では見られないもの故に、この「場所」が「山地」であり、「ブナ原生林の林縁」であることがよく分かるのである。この「トモエソウ」に目をとめる人が、もしいたとしたら「簡易舗装の道」と「あるがままの自然」との乖離に、「ぶな巨木ふれあいの径」にいる自分に違和感を持つのは、間違いないだろう。だが、残念ながら「トモエソウ」に目をとめる者は先ず、いない。
…これは、午後の日射しをうけて輝いていた。だが、オトギリソウ属に共通する「一日花」であることに変わりはない。これも、一日花で、朝、咲いたこの花も後、数時間も経つと夕方にはしぼんでしまうのだ。花が咲くのは8月である。
花は直径が4cmから6cmと結構大きい。花弁は5枚であり、「ねじれて」いる。ねじれる方向は一定していない。全体的に無毛で、茎には4つの稜があり、直立し高さは1m以上になる。葉は披針形で対生し、茎を抱くような格好をしている。
花の中心に「多数の雄しべ」が目立っているが、これは「中国原産」でよく庭に植えられる「ビヨウヤナギ(未央柳)」によく似ている。私の庭にもこれはある。だが、大きな違いは「ビヨウヤナギ」は木で、花弁が「ねじれないかねじれが弱い」ということである。この「トモエソウ」は草である。
花名の由来は、花弁が巴状にねじれていることによる。「鞆絵・巴(トモエ)」は、「鞆(トモ)」の側面を図案化した文様だ。鞆を一つないし三つ円形に配したものを、その数によって一つ巴・二つ巴・三つ巴などというのである。和太鼓の皮面などに描かれている。これは、差し詰め「五つ巴」であろうか。別名を「クサビヨウ(草未央)」という。
残念ながら、私は、岩木山でこの花にまだ出会っていない。日本各地の山野に咲く花とする図鑑は多いが、どうしたことだろうか。自生していないわけではあるまい。
注:鞆「弓を射る時に、左手首内側につけ、弦が釧(くしろ)などに触れるのを防ぐ、まるい皮製の具」(広辞苑による)
◇◇ 白神山地「ぶな巨木ふれあいの径」での巨木ぶな伐採問題(その9)◇◇
(承前)
…「安全」という概念だけが主張され出すと「人間の考え方と行動」に幅がなくなり、行動に滑らかさがなくなり「固定化」し、「形骸化」してしまうものだ。そのことを典型的に示しているものが簡易舗装され、道沿いのブナの巨木が伐られた「ぶな巨木ふれあいの径」である。
「9月に入るとスズメバチに遭遇することが多くなるので森や茂みに入るな」とか「雪が降った翌日には森に入るな。雪の重みで枝が折れておちてくることがあるから」とか「雪解けの時季には低木の林には入るな。積雪に抑えられていた樹木が雪が解けたことで突然跳ね上がることがあるから」などを理由に「危険」に近づかないことをまことしやかに言う。
私が勤務したある高校の校長は「山岳部」に対して「高体連山岳部主催」の「山岳競技」以外は「山」に行ってはいけないとまで言ったことがある。これは、日常的な「部活動」をしてはいけないということでもあった。
何故かと訊いたら「危険」だからという。「高校生の部活動に危険があってはならない。何よりも『安全』が求められねばならない」と言うのだ。
5月、残雪期の岩木山に「部活動」で出かけようとして「許可」を得ようとしたら「雪崩」が心配だから許可出来ないと言う。何かあったら「私、三浦が責任を取ります。山岳行動での責任の取り方はすべて、行動を伴にしている顧問やリーダーです。最高裁の判例でも、そのことは定着しています。校長にまで責任の範囲はおよびませんよ」と言ったら、渋々「許可」を出したのである。
つまり、「安全」を口にはするが、その実は、何かあった時に、その責任が「自分」にかかってくることを避けたかっただけなのである。彼は責任をとりたくなかったのだ。これを「責任からの解除」を求めていたに過ぎないと私は見る。
40年近く高校教員を続け、10人以上の校長を見てきたが、「学校のすべてにおける事象の責任」は「校長にあるから」といって「個々の教員に自由な発想と仕事」の保証を約束してくれた校長は僅かに1人だけだった。
残りのものは「責任」を部下に押しつけ、自分は「責任からの解除」に胡座をかいた。そうなると「教育活動」は流動性や柔軟性を失い「凝固」してしまう。
「やりきれない閉塞感」の中で、教員の多くは、それを受けて「生徒を縛り付け」て生徒の「自主的な活動」を規制してしまうのだった。
「安全」の名の下に「責任からの解除」を願うことは、付随的にすべての行動に規制を強いて、「やりきれない閉塞感」を生み出してしまうものである。
ブナ原生林内に「簡易舗装道路」を敷設して、道脇のブナの巨木を切り倒し「観光客のための安全な空間」を創りだすということは、「誰かの責任の解除」を成立させると同時に、観光客等、この場所を訪れる者たちの「自然との触れあいと自由で感性的な散策」を奪い取り、広大な「ブナ原生林」という空間にいながらも「やりきれない閉塞感」に陥れてしまうことでもあるだろう。
林野庁は「責任からの解除」に胡座をかき、他の業種や業者はそこから得られる「おこぼれ」に与ろうとしたことに他ならないのである。(明日に続く)
先日のブナ伐採の現況を調査に行った時、「ぶな巨木ふれあいの径」入り口付近の道路対岸の草むらで咲いていたものである。
北海道、本州、四国、九州に分布し、山や野原の日当たりのよい草地に生えている。)
◇◇ 白神山地、やはり、花々の種類は豊富だ ◇◇
「トモエソウ(巴草)」。このような美しい「山野」の花が咲いているのに、この「ぶな巨木ふれあいの径」を訪れる人は殆ど気づかないまま、「都市」に直結するような「簡易舗装」の「道」に入って行く。
「トモエソウ」は「都市」では見られないもの故に、この「場所」が「山地」であり、「ブナ原生林の林縁」であることがよく分かるのである。この「トモエソウ」に目をとめる人が、もしいたとしたら「簡易舗装の道」と「あるがままの自然」との乖離に、「ぶな巨木ふれあいの径」にいる自分に違和感を持つのは、間違いないだろう。だが、残念ながら「トモエソウ」に目をとめる者は先ず、いない。
…これは、午後の日射しをうけて輝いていた。だが、オトギリソウ属に共通する「一日花」であることに変わりはない。これも、一日花で、朝、咲いたこの花も後、数時間も経つと夕方にはしぼんでしまうのだ。花が咲くのは8月である。
花は直径が4cmから6cmと結構大きい。花弁は5枚であり、「ねじれて」いる。ねじれる方向は一定していない。全体的に無毛で、茎には4つの稜があり、直立し高さは1m以上になる。葉は披針形で対生し、茎を抱くような格好をしている。
花の中心に「多数の雄しべ」が目立っているが、これは「中国原産」でよく庭に植えられる「ビヨウヤナギ(未央柳)」によく似ている。私の庭にもこれはある。だが、大きな違いは「ビヨウヤナギ」は木で、花弁が「ねじれないかねじれが弱い」ということである。この「トモエソウ」は草である。
花名の由来は、花弁が巴状にねじれていることによる。「鞆絵・巴(トモエ)」は、「鞆(トモ)」の側面を図案化した文様だ。鞆を一つないし三つ円形に配したものを、その数によって一つ巴・二つ巴・三つ巴などというのである。和太鼓の皮面などに描かれている。これは、差し詰め「五つ巴」であろうか。別名を「クサビヨウ(草未央)」という。
残念ながら、私は、岩木山でこの花にまだ出会っていない。日本各地の山野に咲く花とする図鑑は多いが、どうしたことだろうか。自生していないわけではあるまい。
注:鞆「弓を射る時に、左手首内側につけ、弦が釧(くしろ)などに触れるのを防ぐ、まるい皮製の具」(広辞苑による)
◇◇ 白神山地「ぶな巨木ふれあいの径」での巨木ぶな伐採問題(その9)◇◇
(承前)
…「安全」という概念だけが主張され出すと「人間の考え方と行動」に幅がなくなり、行動に滑らかさがなくなり「固定化」し、「形骸化」してしまうものだ。そのことを典型的に示しているものが簡易舗装され、道沿いのブナの巨木が伐られた「ぶな巨木ふれあいの径」である。
「9月に入るとスズメバチに遭遇することが多くなるので森や茂みに入るな」とか「雪が降った翌日には森に入るな。雪の重みで枝が折れておちてくることがあるから」とか「雪解けの時季には低木の林には入るな。積雪に抑えられていた樹木が雪が解けたことで突然跳ね上がることがあるから」などを理由に「危険」に近づかないことをまことしやかに言う。
私が勤務したある高校の校長は「山岳部」に対して「高体連山岳部主催」の「山岳競技」以外は「山」に行ってはいけないとまで言ったことがある。これは、日常的な「部活動」をしてはいけないということでもあった。
何故かと訊いたら「危険」だからという。「高校生の部活動に危険があってはならない。何よりも『安全』が求められねばならない」と言うのだ。
5月、残雪期の岩木山に「部活動」で出かけようとして「許可」を得ようとしたら「雪崩」が心配だから許可出来ないと言う。何かあったら「私、三浦が責任を取ります。山岳行動での責任の取り方はすべて、行動を伴にしている顧問やリーダーです。最高裁の判例でも、そのことは定着しています。校長にまで責任の範囲はおよびませんよ」と言ったら、渋々「許可」を出したのである。
つまり、「安全」を口にはするが、その実は、何かあった時に、その責任が「自分」にかかってくることを避けたかっただけなのである。彼は責任をとりたくなかったのだ。これを「責任からの解除」を求めていたに過ぎないと私は見る。
40年近く高校教員を続け、10人以上の校長を見てきたが、「学校のすべてにおける事象の責任」は「校長にあるから」といって「個々の教員に自由な発想と仕事」の保証を約束してくれた校長は僅かに1人だけだった。
残りのものは「責任」を部下に押しつけ、自分は「責任からの解除」に胡座をかいた。そうなると「教育活動」は流動性や柔軟性を失い「凝固」してしまう。
「やりきれない閉塞感」の中で、教員の多くは、それを受けて「生徒を縛り付け」て生徒の「自主的な活動」を規制してしまうのだった。
「安全」の名の下に「責任からの解除」を願うことは、付随的にすべての行動に規制を強いて、「やりきれない閉塞感」を生み出してしまうものである。
ブナ原生林内に「簡易舗装道路」を敷設して、道脇のブナの巨木を切り倒し「観光客のための安全な空間」を創りだすということは、「誰かの責任の解除」を成立させると同時に、観光客等、この場所を訪れる者たちの「自然との触れあいと自由で感性的な散策」を奪い取り、広大な「ブナ原生林」という空間にいながらも「やりきれない閉塞感」に陥れてしまうことでもあるだろう。
林野庁は「責任からの解除」に胡座をかき、他の業種や業者はそこから得られる「おこぼれ」に与ろうとしたことに他ならないのである。(明日に続く)