岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真は「ツルフジバカマ(蔓藤袴)」 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(15)

2010-08-31 06:45:25 | Weblog
 (今日の写真は、マメ科ソラマメ属の多年草「ツルフジバカマ(蔓藤袴)」である。他に同科同属のものは岩木山では結構多いが、8月から10月にかけて咲くものは多くはないし、また、この「ツルフジバカマ」の花の色合い、特に赤みがかった色彩といい、立ち姿を含めた「風姿」が一番いいように思えるのだ。
 名前の由来は、「葉のつけ根のとがった托葉を袴に見立てた」ことによるとか、「花の形自体を袴に見立てた」ことによるとも言われている。
 この和名、「ツルフジバカマ」は牧野富太郎によると、「紫色の花をフジバカマになぞらえた」ものとしているが、平凡社版「日本の野生植物(II)マメ科」には、「ツルフジ(蔓藤)」は草状を指し、「袴」は托葉の様子に基づいたものである」との記載がある。
 ところで、この「ツルフジバカマ」は秋の七草の一つであるキク科の「フジバカマ」とは全く関係ない。
「秋の野に咲きたる花を指折り(おゆびおり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花   萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花、また藤袴、朝貌(あさがお)の花」
これは、「万葉集』の中で「山上憶良」が歌っているもので、これが現在も定着している。尾花とはススキのことであり、「朝貌(あさがお)」とは、現代の「朝顔」ではない。これは「キキョウ(桔梗)」のことだ。
 覚え方は様々だ。「はぎききょう、くずおみなえしふじばかま、おばななでしこ、これぞ秋の七草」という風に韻を含んで声に出して学習する方法もある。
 また…、「おくふかきはな (奥深き花)」と覚えて、その上で…「おみなえし、くず、ふじばかま、かれすすき、ききょう、はぎ、なでしこ」 と覚えるといい。だが、「おすきなふくは」という語呂合わせが一番簡単だろう。

 名前の話から妙な方向に行ってしまったが、この「ツルフジバカマ」は北海道、本州、四国、九州に分布して、主に山野の草原に生える。蔓を伸ばして他の草に絡みついて2mほどまで成長する。今日の写真は、ちょうど2mほど伸びた茎頂に花をつけていたものだ。これは、今月の27日に「環状線」の上部で撮ったものである。
 同科同属の「クサフジ(草藤)」とよく似ていて、慣れないと見分けが難しい。「クサフジ」は小葉が18~24枚、花穂は細長く花色は赤みが少ない。日当たりのいい草地や林縁に生える蔓性の多年草で、茎長は1.5mほどで、「ツルフジバカマ」よりもやや低い。花名は「花や全体の姿がフジに似ていること」による。しかし、フジと違って「花序は上向きに立ち」上がる。涼しげな青紫色の花は気品のあるものだ。「ツルフジバカマ」は小葉が 10~16枚、花穂は太めで短く、花色は赤みが強い。花が咲き始めるのは「クサフジ」の方が早く、5月頃から咲く。
 同科同属のものに「カラスノエンドウ(烏野豌豆)」がある。本州、四国、九州では道端や野原に普通に見られる植物だ。この種子は「秋」に発芽する。幼植物で冬を越し、4月頃から開花、6月にさやをつけ、7月には種子を落とし、枯死してしまう。落ちた種子は高温では発芽せず、種子のまま、夏を越す。7月になると、黒い「莢」がパリパリと裂けて、丸い種子が飛び出す。
 春になり、この若い芽、つまり、先端の柔らかな若芽と花の部分を摘んで、生のまま天ぷらにするとマメ科特有の風味がして美味しいそうだ。「サヤエンドウ」を小振りにしたような「若莢」も天ぷらにする美味しいそうだ。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(15) ◇◇
(承前)…この稿を今書きながらも、また怒りと悲しみの涙が私を襲っている。

 …幼い男の子が母親の手で川に投げられた。「母ちゃーん」。男の子は沈みながら消えていった。…
 …里子は「お芋、食べたーい」という。卜キさんが「もうすぐ煮えるからな」と声をかけたその時、目を赤くした母が入ってきた。「里子をおろせ」。卜キさんが追いかけると、「ギャー」という声がした。母に抱かれた里子ちゃんの首を、近所のおばさんが手ぬぐいで絞めていた。母は「里子をおぶって母ちゃんが倒れたらお前たちはどうなるか」とうつむいた。草むらに遺体を置きながら「里子、ごめんね」と泣いた。…

 …「この『治安維持法』は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、それまでに前例のないものであった。その後も改悪が加えら、『国体変革目的の行為』に対しては死刑・無期懲役を加え、『天皇制批判』には極刑で臨む姿勢をとった。さらに1941年には、刑期終了後も拘禁出来る『予防拘禁制度』などが加えられた。
 『治安維持法』の運用では、警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用された。現場では『令状なしの捜索や取り調べ中の拷問と虐待』が日常的に行われたのである。これらにより国民の耳は閉ざされ、目は完全に潰され、口も完膚無きまで『塞がれ』たのである。
 現在、世界の中で独りよがりを続けている国がいくつかある。その中で、日本から一番近い国に「北朝鮮」がある。天皇が「金正日」であるとすれば、まるで、1900年代から1945年までの我が国、日本にそっくりではないか。私たちは65年前までは、『あの国』と同じであったのだと考えればいい。だが、大きな違いがある。それは『必ず敗(ま)ける戦争をしない』ということである。『本土決戦』は絶対にしないということである。
 日本人や他の外国人を拉致はする、原爆の実験はする、テポドンなど大陸間弾道弾の打ち上げ実験はする。だが、領土の拡大も図らないし、『自国内』での戦争は巧みに避けている。外交という手段では、したたかな『戦い』はするが、その根底には『玉砕』という思想はない。『瓦全』の中で『生き延びて』自国を守ることに徹している。
 そのような『かの国』を見ていて私は思うのである。『かの国』は戦前65年の『大日本帝国』を反面教師としているのではないかと。『自滅していった日本』のようにならないためにどうすればいいかを常に考えながら『国家の統一と運営』を図っているのでないかと。このように考えると『民主主義のない独裁国家』とばかりとらえて、『北朝鮮』を侮り、安易に笑ってすますことは出来なくなるのでる。65年前までは日本も紛れもない『民主主義のない独裁国家』であったのである。(明日に続く)

今日の写真は「ツリフネソウ(釣船草)」 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(14)

2010-08-30 04:30:32 | Weblog
(今日の写真は、秋の花の走りともいえるツリフネソウ科ツリフネソウ属の1年草「ツリフネソウ(釣船草)」だ。
 北海道から九州に分布し、谷川沿いなどの湿ったところの陽地に群生する。一方、よく似ている「キツリフネ(黄釣舟)」は、山の木陰などに咲く。茎は高さが40~80cm。葉は柄があり互生、卵状で先端は尖る。
 8~9月ころ、茎の葉柄から柄を出して、美しい特徴のある花をつける。花は径が3cmくらいの紅紫色で、7~8個を釣鐘のように提げる。萼片が3枚、下部が1枚で袋状になっている。
 「ツリフネソウ」は同科同属の一年草、東南アジア原産で日本には17世紀頃に渡来した園芸種の「ホウセンカ(鳳仙花)」の仲間でもある。
 「ホウセンカ」のよく成熟した果実を軽く押さえると、果実は急激に割れて種子をはじき飛ばす。だから、種子の自動散布として教材によく利用された。
 「ツリフネソウ」も果実が熟すと「ホウセンカ」のように、少し触れるだけで勢いよく弾き飛ばす。学名の「Impatiens textori」の「 Impatiens」は(我慢できない、耐えられないの意)で、成熟した果実に触れると、すぐ裂開しパチンと爆ぜて、勢いよく小粒のエメラルドのような種子をまき散らす性質からつけられたのである。
 名前の由来は、花の形とつき方が帆掛け舟を吊り下げたように見えることによる。また、「生け花で使う花器の釣舟(舟の形をしたつり花瓶)にたとえた」ものだとする説もある。
 また、「ゆびはめぐさ」など各地に残る「里呼び名」が語るように、山里の子供たちは昔からこの花を遊び道具にして親しんでいたようだ。
 長野県の戸隠ではこの花をユビハメとかユビサシバナと呼ぶ。これは距のついた袋の部分を右手の三本の指にはめ、お琴を弾くお嬢さんを気取ってみたり、または両手の十指にはめて大きな鈎爪の妖怪に変身してみたりして遊ぶからだという。
 また、ごく近年まで、木曽の子供たちはこの実を集めて、「おやつ」代わりにしていたともいう。
 アイヌの人たちは「オキマ・キナ(小便する草)」と呼ぶそうだが、これは利尿剤にしたことによるものだ。

 この花を歌題にした短歌も多い。
・吹き上ぐる風にゆらぎてとどまらぬ草の中なる釣舟の花(木村流二郎)
…谷沿いを這い上がって来る吹き込む風によって、留まることなく揺れ続けている草々の中で、いっそう引き立って見える釣船草の花たちよ。
 釣船草は花だけでなく全体が微風を浴びてもよく揺れるのである。そのような花である。それが、秋の日射しの中で、陰影を伴ってゆらゆらと、キラキラとよく映えるのだ。…

 ついでに俳句も紹介しよう。
・つり舟草ひと夜を露に浮かびたる(八木荘一)
『つり舟草の花は、一晩中まるで夜露の海に浮かんでいる帆掛け船のようである。何という幻想的な船影だろう。淡い紫色と透明な夜露という光沢が融合した妖しくも美しい情景である。』
・つり舟草揺れてやすらぐ峠かな(久保田月鈴子)
『ようやく峠に辿りついた。峠を吹き抜けていく風は心地いいのだ。その風に、辺り一面に咲いているつり舟草の花がゆらゆらと揺れている。それを見ていたら何となく心安らかな気持ちになっていったのだ。つり舟草の花には人々に安堵感を与える風情があるようだ。それを巧みに詠み込んでいる秀句。』
 …ああ、ともに何とすばらしい俳句だろう。決して飾ざらないが、秋の露、秋風と融合しているツリフネソウの観察眼は鋭い。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(14) ◇◇
(承前)…この稿を今書きながらも、また怒りと悲しみの涙が私を襲っている。

 …8月15日。中国人に襲撃され、敗戦も知らずに逃げ出した。一団は約1500人。ほとんどが女性と子どもと老人。歩けなくなった人は置いていくしかなかった。途中、日本兵たちに出会った。ゆっくり歩いてほしいと懇願したが、「ついてこられない者はついてくるな!子どもを泣かすな」と怒鳴られた。…

 …「日本軍の完敗の日が近づくにつれ『決戦』という言葉が中枢部から出てくる。『本土決戦』がまさにそれだ。これは、全国民に『玉砕』を強いたことである。だから、これは『本土玉砕』と言い換えてもいいだろう。
 『本土』とは外地の対義語であり、古来からの狭い国土の北海道、本州、四国、九州で構成される『日本』である。ということは、『本土決戦』とは自分たちが『今、現在』住んでいる場所で戦うことである。最後の『拠り所とするべき場所』で追い詰められて戦うことである。そこを失うと『生きていく場所』がなくなるというものでもあるだろう。だから、『もう生きる場所はないので玉砕せよ』なのである。
 本来であれば、戦いが終わっても『生き残った者』たちが暮らしていく場所を『国家』が保証しなければいけないはずだ。だが、その道を採らずに『天皇と帝国軍中枢部』は『国民』に未来のない戦いを強いた。これは、生き残ることを許さない戦いなのである。
 何故、『瓦全』では駄目なのか。『日本国』という国が破滅しないためには、賢い『瓦全』が必要だったはずだ。『決戦や玉砕』は国が破滅する戦いなのである。
 『玉砕』してしまったら、誰が『自国』を立て直すのか、誰が、自国を復元するのか。誰がふるさとを思いで通りに造り上げるのか。
 この『決戦や玉砕』という思想には『国家つまり天皇』が『国民を私物化する』思考が内在している。本来、生き死に関わる『死生観』というものは、国民1人1人の『個人』に関わるものだ。それを、『国体護持』のために、国民の『死生観』まで支配して、天皇には帝国軍の統帥権まで持たせて『天皇』に命を捧げることを強要したのである。
 それでは、どうして、このようなまさに、民主主義に反するようなことが出来たのか。その1つは教育だろう。国民は小学校から、そのように育てられたのである。当時の『教科書』を見るとよく分かるというものだ。『国体護持と軍国教育』に徹していた。
 他にもあるだろうが、もう1つ重要なことは、1925年に帝国政府が『国体を変革、私有財産制度を否認することを目的とする結社の組織、加入、扇動、財政援助を罰する』とした『治安維持法』の存在である。1928年には、さらに、「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究、言論や、宗教団体の教義、信条さえも「目的遂行」につながるとされ、国民全体が弾圧対象になったのである。
 至る所で、「特高(特別高等警察)」が暗躍し、「もの言う者」を検挙し、拷問を加え、「隣組組織」は密告の道具となったのである。
 それは、国民には『何も知らしむべからず、言わしむべからず』を強要したことであり、『国のお仕着せ』のとおりに動くようにしたものであった。」(明日に続く) 

今日の写真は「ボタンヅル(牡丹蔓)」 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(13)

2010-08-29 04:23:24 | Weblog
 (今日の写真は、キンポウゲ科センニンソウ属の多年草「ボタンヅル(牡丹蔓)」である。見えている黄色の花は「キツリフネ」、少し赤っぽいものは「タデ」科の仲間であろう。ひょっとすると外来種の「オオケタデ」かも知れない。
 ミズナラ林やブナ林の林床からは、花の影はすっかり消えた。だが、ミズナラ林の下部から広がる山麓の「上部」草原などは、秋の花が咲き出している。
 ヤマハギ、ツルフジバカマ、ハンゴンソウ、ボタンヅル、ツリフネソウ、キツリフネ、ゲンノショウコ、クサボタン、オトコエシ、ゴマナ、キンミズヒキ、ヌスビトハギなどが思い思いの色彩を競っている。
 それらに併せて、樹木の実も薄く色づいてきた。10月に入ると、真っ赤に燃えるような果実を鈴なりにつけている「カンボク」の実もまだ、淡い肌色で、一瞥した時は「これは一体何だ」と訝しい思いがしたが、葉の縁にある深い切れ込みを、やっと「カンボク」であることが理解出来たのだった。
 「秋の実」を8月の下旬に「眺める」のも一興かなと思ったりした。とにかく、森や野原という自然に一歩入ると、様々な形で、木々や草本が、果実や葉っぱが語りかけてくるのである。それが、凄く楽しい。
 「ボタンヅル(牡丹蔓)」という名前の由来は、「葉がボタンの葉に似ていること」と「蔓性多年草(つる性半低木)である」ということによる。 
 本州、四国、九州に分布して、日当たりのいい山野や林縁、低木の藪などで、他の木にまつわりついて繁殖する。茎が木質化するので、樹木性の「蔓植物」である。だが、茎が太くなったものはあまり、見られない。ただし、低木や亜高木程度の高さまで成長することが出来るらしい。
 葉は対生、3出複葉で「ボタン(牡丹)の葉」に似ている。 小葉は3.5~7cmの広卵形である。葉先は尖り、葉縁は不整鋸歯が見られる。茎や葉は同科同属の「センニンソウ」に比べると堅いのが特徴である。。
 花は8月の終わり頃から、茎の先や葉腋から花序を出し、咲き始め、花の色はやや黄色を帯びた白色系のクリーム色だ。花の直径は約2cm。キンポウゲ科の花なので、4枚の花弁に見えるものは顎片である。多数ある雄しべの「花糸」は幅が広く、花をよりもよく目立つ。
 果実は総果で、狭い卵形だ。花柱は羽毛状になり、これもよく目立つ。) 

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(13) ◇◇
(承前)…この稿を今書きながらも、また怒りと悲しみの涙が私を襲っている。

 …8月15日。中国人に襲撃され、敗戦も知らずに逃げ出した。一団は約1500人。ほとんどが女性と子どもと老人。歩けなくなった人は置いていくしかなかった。途中、日本兵たちに出会った。ゆっくり歩いてほしいと懇願したが、「ついてこられない者はついてくるな!子どもを泣かすな」と怒鳴られた。…
 …幼い男の子が母親の手で川に投げられた。「母ちゃーん」。男の子は沈みながら消えていった。…
 …里子は「お芋、食べたーい」という。卜キさんが「もうすぐ煮えるからな」と声をかけたその時、目を赤くした母が入ってきた。「里子をおろせ」。卜キさんが追いかけると、「ギャー」という声がした。母に抱かれた里子ちゃんの首を、近所のおばさんが手ぬぐいで絞めていた。母は「里子をおぶって母ちゃんが倒れたらお前たちはどうなるか」とうつむいた。草むらに遺体を置きながら「里子、ごめんね」と泣いた。…

 「大日本帝国の軍隊は、天皇の兵隊、天皇の軍隊である。…高級将官や官僚たちは軍用機で日本に脱出した。残された将校や下士官、兵士たちも『我先に』と敗走を続けたのである。逃げることに支障になるような要素はことごとく排除された。これが、『歩けなくなった人は置いていかれた』ことであり、『殺された』ことなのである。『自国民』を守るという精神も行動もそこにはなかったのである。
 『天皇陛下万歳と言って死んでいけ』との教えにこそ『天皇の兵隊、天皇の軍隊である』ことの『隠されごとのない真の意味』があるのである。
 皇居周辺には、『近衛兵』が2個師団配置されていた。全国から、身体強健、頭脳明晰、志操堅固、国体護持精神旺盛なものが選抜されて、その師団を形成していたとされている。これが、大日本帝国軍の兵員に関わる質的な理想なのである。結局、近衛兵はだれも『戦死』しなかったはずだ。
 だが、他の多数の、召集令状という赤紙1枚で集められた兵士たちは遠隔地の『最前線』に送られる。
 『武器弾薬、食糧、衣服、薬、医薬品などの補給のない』まま、『敗走』は許されず、もちろん、敗走する場所もないまま、『玉砕』という『天皇への忠義のために死ぬこと』だけが強いられたのである。
 彼らは、母や父、息子と娘、兄弟などのことを胸に思いながら、それでも、彼岸の汀で『天皇陛下万歳』を叫ばされたのである。
 『玉砕』という言葉は『北斉書(元景安伝)』の中にある『大丈夫は寧(むし)ろ玉砕す可きも、瓦全する能(あた)わず』から採られたものだ。天皇を中心とする軍中枢部に都合がいいところだけを採っている。
 …玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと…と訳される。
一体誰のための『名誉』だ、何の名誉だ、そもそもここでいう『名誉』とは何なのだ。忠義…これは明らかである。『天皇への忠義』である。そのために、『玉砕した者たち』の多くは『肉親』に対する『孝養、忠孝』を捨て、『恩義』をも捨て去らなければいけなかったのだ。
 『玉砕』の反対語は『瓦全(がぜん)』であり、『何もしないで身の安全を保つこと』である。何故『瓦全(がぜん)』でいることを許さないのか。生きて『戦後を生き抜くこと』を許さなかったのか。
 戦争で『我が身の安全を求めさせない軍隊』、または『兵士の身の安全と命の保証に責任を持たない軍隊』というものは、大日本帝国軍だけであり、世界に類を見ないものだろう。まさに、偏狭で独りよがり、頑迷で世界的な動きと連動出来ない『思想』ではないか。」(明日に続く)

今日の写真 / 炎暑対策を施したPC(3) / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(12)

2010-08-28 04:02:30 | Weblog
 (今日の写真は、テングタケ科テングタケ属の「シロオニタケ(白鬼茸)」だ。これは生え始めたばかりの「幼菌」だが、時には20cmにもなる大きな傘を開く大型のキノコだ。
昨日、ミズナラ林の中で出会ったものだ。
 実は昨日、久しぶりに「30℃以下」という涼しさの中、岩木山の「姥人沢」の右岸を登り、かなり登ったところから、尾根を横切って毒蛇沢に向かった。毒蛇沢の左岸に降りる少し手前から、左岸沿いに登って行ったら、一昨年の「踏み跡」を辿る山行で苦労してやっと探し当てた「毒蛇沢」上部の沢取り付き点に辿り着いた。
 これで、「毒蛇沢上部の沢取り付き点」までの「石切沢」からのものとこれを加えた2つのルートが分かったことになった。
 分かったところで、降りて下部の徒渉場所に出た。すぐ下に「治山ダム」工事用の道路が見える。そこに出ないで、青森県が管理する「重力ダム」の堤頂を渡って毒蛇沢を渡った。それから、右岸に登り、尾根を横切って「滝の沢」に向かった。最後は「滝の沢」左岸沿いに降りて「環状線」に出たのである。
 この行程は、沢を渡る以外はすべて「林」の中の移動である。杉やカラマツ、ヒバなどの「植林地」もあるが、その大半はミズナラを中心とした、いわゆる「雑木林」である。 昨日は「猛暑」ではなかったが、それをより実感させてくれたのは、やはり「葉」で覆われた「林」であった。
 今日の写真、「シロオニタケ」は「雑木林」での発生量が多いキノコである。薄くらい林床では非常に目立つキノコである。それゆえに「数も多い」という思いを持たせるのかも知れない。
 地方名も「多彩」で、「おにごろし、おにたけ、しろいぼたけ、しろとっくり」などと呼ばれているらしい。
 傘は白色で、細かい刺状のいぼが多数ある。この尖った疣状の突起を「鬼の角」として名前をつけたものだろうか。
 夏から初秋にかけてアカマツ、ミズナラ、コナラ林で発生して普通に見られるものだ。ただし、有毒で食用にはならない。毒成分は胃腸系と神経系に作用するといわれている。 今日の写真は「シロオニタケ」の子どもである。坊主頭の子どもだ。
 まるで、暗い森の中のとげ坊主、小鬼坊主、いたずら坊主たちという風情ではないだろうか。可愛いだろう。)

◇◇ 炎暑対策を施したPC(3) ◇◇

(承前)… ただ、購入した時には、パッケージされていてファン回転数の機能のあるVRスイッチが同梱されていることが分からなかったのだ。私は、最初から「BIOS書き換え」で操作しようと考えていたし、このくそ暑い中で、一々バックパネルに取り付けた可変スイッチを回すのも億劫だったので、その配線をカットした。
 ただ、カットしただけでは、回転数は「最少」でしか動作をしない。ケーブルをプラス・マイナスと短絡させなければいけない。
 9枚羽根の威力は凄い。筐体内から熱い風がどんどんと出されてくるのだが、うるさくはない。それもそうだろう。「SpeedFan」で計測するとSystemFanは1205RPM、CPUFanは1172PRM、Aux1Fanは1103PRM、Aux2Fanは1940PRMであった。
 それにもう1つ、GPU「GeForece GTX 295」の上部に、この「GPU」本体の「熱」を外部に排出するための「シロッコファン」を、ほぼ3cmの間を保って設置したのである。
 ところが、2日ほど前から、気温は下がりだした。26~27℃だろう。だが、このファン換装で、「コンピュータ」が妙な動きをすることはもはやないことだけは、確かである。
 これから気温が下がっていくだろうから、それにあわせて「BIOS書き換え」をしていくといいわけである。ファンの回転数を「スタンダード」、「サイレント」、「ターボ」の3段階で制御出来るのだ。冬場になったら「サイレント」に切り替えてしまえばいいわけだ。 まさに、「無音」に近い「コンピュータ」になるというものだ。そうなると、「GPU」のファンの音が気になるかも知れないが、そのような時は「iTunes」でInternet Radioでも聴いて、そのノイズを「聴覚的」に排除するしかないだろう。
 このブログを書いている今現在も、私は音量を下げて、「Internet Radio」で、「Mostly Classical-SKY.FM」を聴いている。「音楽」を聴きながらという「ながら族」には「Internet Radio」を勧めたい。いいものだ。

 マイクロソフト社が自作者など(実は誰でもいい)に無料配布している「Joulemeter」というソフトがある。これを使うと自分のコンピュータが今どのくらい電力を消費しているかすぐ分かる。因みに、私の場合は「Base-65.00Watts、CPU-2.00Watts、Disk-0.14Watts、Monitor-50.00Wattsで、Totalが118.00Watts」となっている。
 Diskが0.14Wattsと極端に低いのは、「SSD」だからである。大きな電力を必要とせず、高速で動き、発熱もない。その上、動作音もなく非常に静かである。
 ただ、高価である。私は256GBのものを使っているが、この値段で2TBのHDDは6~7個は買えるかも知れない。

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(12) ◇◇
(承前)…この稿を今書きながらも、また怒りと悲しみの涙が私を襲っている。

 …8月15日。中国人に襲撃され、敗戦も知らずに逃げ出した。一団は約1500人。ほとんどが女性と子どもと老人。歩けなくなった人は置いていくしかなかった。途中、日本兵たちに出会った。ゆっくり歩いてほしいと懇願したが、「ついてこられない者はついてくるな!子どもを泣かすな」と怒鳴られた。…

 「大日本帝国の軍隊は、天皇の兵隊、天皇の軍隊である。決して『国民の命や安全と安心』を守る軍や兵士ではなかったのだ。その『事実』が『ついてこられない者はついてくるな!子どもを泣かすなと怒鳴られた』ということに凝縮されているだろう。
 関東軍(大日本帝国陸軍)は、ソ連との前線守備を、いち早く放棄して『前線守備や防備』を満蒙開拓団に押しつけたのである。関東軍や政府関係者、満鉄などの『高官や高級官僚』などは陸軍の飛行機で、さっさと日本本国に帰還して、呑々としていた。この『生き残りたち』が1945年以降の日本の政治や経済の中心にいたのだから、戦後65年経っても、反省のない『日本国』の精神的土壌は変わりようがなかったのである。」(明日に続く)

今日の写真は、炎暑対策を施したPC(2) / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(11)

2010-08-27 04:26:09 | Weblog
 (今日の写真も、炎暑対策を施した私のコンピュータの内部である…。
 メモリーも結構発熱する。私の使用メモリーはCorsairのDDR3-TR3X6G1600C9( PC3-12800 2GB)が6枚、都合12GBである。もちろん、ヒートシンクは付いているが、それだけでは「空冷」の役割を果たしているとは考えられない。熱くなった「ヒートシンク」を放熱排気することが必要なのである。
 GPUと称されるグラフィックカード(ビデオカード)も熱を発する。最新で高性能ののものは生々の「発熱」ではない。私はフルHD以上の高解像度を高画質で使用したいと考えて「GeForece GTX 295」を組み込んである。
 GTX285よりも性能が低いGPUを2基搭載し、GeForce GTX275のSLI接続に匹敵する性能であるといわれている。
 ところが、最大消費電力が、何と「282Watts」で、+12Vが40A以上の550W以上の電源が必要とされているので、800Wattsの電源を組み込んでいる。
 現在、コンピュータの「発熱体」としては一番問題になる「部品」だろう。とにかく、このGPUの発熱を抑えるには、「性能」を犠牲にするしかないだろう。
 因みに「SpeedFan」で、GPU「GeForece GTX 295」の発する温度を計測したら52~54℃に達していた。もちろん「排気ファン」は付いていて、排気口はバックパネル側に1個、それに、フロント側に1個付いている。バックパネル側は外に排気されるが、フロント側はケースの内側に排気され、ケース内温度を高める要素となっている。だから、GPU組み込みファンだけでは追いつかず、52~54℃にも達してしまうのである。
 そこで、フロント側に、その「熱風」を外部に排気するための12cm・12 Vで0.20Aのファンを装着して、ずっと使ってきた。
 だが、これだけでは「筐体」内部に充満する「熱気と熱風」を外部に排気することは出来ない。
 「SpeedFan」では、「System」の温度が48℃、「CPU」の温度が32℃、「AUX(外部)」の温度が30℃、「Core」0が41℃、「Core」1が41℃、「Core」2が40℃、「Core」3が41℃、「Core」4が40℃、「Core」5が40℃、「Core」6が41℃を示している。使っているCPUが「Core i7 975」なので、「Core」が0から6までの7つあるというわけである。
 このことからも分かるように、「筐体」内の温度は40℃を越えていることは明らかであった。この「熱気」を外部に効率よく排気する以外に、「筐体」内の温度を下げることは出来ない。メインの「排気ファン」は、これまで、12cm7枚羽根のものでDC12V-0.17Aだったが、それをDC12V-0.27Aで、羽根の数が9枚のものに換えたのである。
 さすが、風量は多くなったし、それ分、「排気効率」がよくなった。風量が多くなると「騒音」もひどくなるのだが、これには「マザーボード」の「BIOS書き換え(「Power」の「Hardware Monitor」)で対処したので、そのようなことはなかった。)…明日に続く…

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(11) ◇◇

(承前)…この稿を今書きながらも、また怒りと悲しみの涙が私を襲っている。 

 …一家は1939~40年に埼玉県中川村(現秩父市)から中国東北部に開拓団として渡った。まもなく父が病死。45年8月9日に兄が応召した。…

 「兄が応召された8月9日とは、敗戦で戦争が無条件降伏という形で終結する6日前である。ドイツが連合国軍に降伏、太平洋に点在する島嶼の「大日本帝国」軍はことごとく玉砕、東南アジアに進軍していたものも敗走、関東軍もロシア軍の侵攻になすすべを持たなかったという「実態」から目を逸らし、世界的な視野に立っての「見通し」を持てない偏狭かつ頑迷な「大日本帝国軍」の中枢部である。これが天皇の軍隊の「実態」である。この、近々の「予測」さえ立てることの出来ない軍部のビジョンのなさにはあきれ果てる。
 沖縄にはアメリカ軍が上陸し、占領。国内の主要都市も連日空襲され、焼夷弾で焼け野原とされていた。地方の小さな町まで「艦砲射撃」に曝されていた。「敗戦」は誰の目に明らかだった。
 そして、6日には広島に、そして兄が応召された9日は長崎に原子爆弾が投下された。せめて、1週間早く「無条件降伏」を受諾していたならば、「広島と長崎の惨劇」はなかった。
 せめて、潔く2週間早く、「無条件降伏」を受諾していたならば、この戦争での「死者」310万人は大幅に減っていただろう。
 「死者」310万人の内訳は、兵員の死亡が230万人、一般市民の死亡が80万人である。なお、兵員のうち、日本が占領統治し「植民地」とした朝鮮・台湾出身の兵員死者は、約5万人とされている。
「満蒙開拓団」は27万人だが、そのうちの死者は8万人で、その中には「母ちゃーん」と泣き叫びながら、沈み消えていった男の子や首を絞められて殺された「里子」も含まれているのである。日本は「確実に戦争で負けるという将来を見通せない」帝国の中枢部の為体の所為で、多くの多くの人々が無為な犠牲者となったのである。
 8月9日に応召された「里子」の兄も、恐らく無為な犠牲者の1人となったものだろう。
 次のような一文節がある…。「太平洋戦争について、『なぜ必ず敗ける戦争をしたのか』という問いには潔く背を向ける。」というものである。これは、敗戦近々当時の帝国軍の中枢部の基本的な姿勢であっただろう。負ける戦争を仕掛けていった側としての責任を棚上げして、戦争を遂行させた結果が「見事なまでの完敗、零敗、スコンク」だったのである。310万人の犠牲者の霊はこれでは浮かばれまい。このように考えることは現代の日本でも永遠として続いている。『なぜ必ず敗ける戦争をしたのか』という問いを真摯に続けていかない限り、日本はいつまでも「帝国主義」の残滓を引きずって歩いて行くしかないだろう。「民主国家」は夢のまた夢でしかない。」(明日に続く)

今日の写真は炎暑対策を施したPC (1) / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(10)

2010-08-26 04:40:28 | Weblog
 (今日の写真は、炎暑対策を施した私のコンピュータの内部である。その右上部にもファンが見えるだろう。この説明からすることにする。これは、モニターの裏側に風を当てて「モニター」の発熱を抑えるためのものだ。RDT23WM-Sというモニターをダブルで使っているので、この写真では見えないのだが、同じファンをもう1基もう1台のモニターの裏側に据えて、「モニター」を冷却している。ファンは12cm・12 Vで0.17Aである。音は殆ど気にならない。このモニターは省電力で使用しているので2台で消費電力は50Wattsである。それでも、結構「熱く」なるので、「風冷」しているという訳である。
 コンピュータの外部装置というものも、結構「熱」を出すものだ。まずは、ギガバイトルーター「ETG-R」、これは、自分が出す熱が一定温度を超えると「誤動作」を起こして接続が途切れ出す。これには困った。使い出した時からのことなので、数年前から夏になると、8cmファンで風を当てて使っている。また、スイッチングハブの「FXG-D51MV」も結構発熱する。これにも同じ8cmファンで「風冷」している。私のPC周りには4つの「ファン」が回っていることになる。だが、ノイズを感じることはない。きわめて静かである。
 さて、このファンの電源だが、「使わなくなったDCアダプター」だ。なお、アマチュア無線をやっていた頃に使った古い可変バリコン(可変抵抗器)をFanと電源の間に接続して、それで「回転数」をコントロールしているから、静かなのである。
 また、電源もそうだが、ファンもすべて、使わなくなった古いものだ。コンピュータを自作しているとこの手の「部品」はずいぶんとあるものである。

 コンピュータ本体も熱さに弱い。室内気温が33℃を越えると「動き」が怪しくなってくる。 スーパーコンピュータといわれるものも、熱に弱いのは当然で、コンピュータが使用する電力よりも、この「熱」対策のための「冷房」に使用される電力の方が「何倍」にもなるという。「スーパーコンピュータ」だというのに、この矛盾的なことも解決出来ないのだから、何が「スーパー」なのかと笑ってしまうのだ。「コンピュータ」は万能ではないし、人間の使用するあらゆる機器の不合理性を解き明かして、それを是正してくれるものではない。
 私のコンピュータの発熱するパーツはまず、マザーボードである。これはASUSの「P6X58D Premium」である。一応、「発熱」は独自技術で最低に抑えられてはいるが、「発熱」しないわけではない。「発熱」は電気エネルギーが「熱エネルギー」の変わったものだから、「無駄」なことでもあるのだ。
CPUも凄い発熱体なのだ。私の使用しているCPUはIntelのLGA1366ソケット、Core i7 975 Extremeである。DTPが120Wattsという代物だ。これにはCorsairの水冷クーラーを使用している。小さいので、ケース内に空間が出来て、風流がスムーズである。写真に見える丸くて黒いものがそれだ。これには「自動車」の水冷装置のような吸気式の「ファン」が付いている。)(明日に続く)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(10) ◇◇

(承前)… 
「正面玄関から出ると大きな通りがあり、そこには路面電車が走っていた。そして、その大きな通りでは、八路軍の食糧運搬馬車を多くの中国人や日本人(?)の子供たちが襲っていたこと」について、書き進めようとしていたのだが、昨日の朝日新聞「母は妹を手にかけた・3姉妹の満州逃避行65年後の告白…戦争は人を残酷にする」に関することをもう少し書くことにする。
 この3姉妹のつらい記憶と体験に比べると「私の記憶」など、すごく残薄で重さも、強さなく、大して「辛い」ものではないと思われて、書き続ける気力が萎えてしまったのは事実である。それでも、私は書き続けたいのだ。

 1945年8月、この記事に出てくる「里子」は、ほぼ私と同年齢だ。私はこの記事をブログを書き出す直前に配達された新聞で読んだのだ。読み始めてから読み終わるまで、涙が流れてしょうがなかったのだ。
 流した涙は「里子」と「私」がスライドされることにあった。そして、それが一方は「母」に殺される運命を辿り、一方は「幸いにも」引き揚げて来ることが出来たという運命で69歳まで生き延びているという事実である。そこに立脚して捉えると「里子」は可哀想過ぎる。それに涙した。もう1つの涙は、「戦争は母親に『我が子』を殺させるものだ」という理不尽さへの怒りである。この2つの感情が交互に私を襲い、涙はとどまらない。
 何とか、前半の「今日の写真」の部分は、すでに大半を書き溜めておいたものなので、清書をして貼り付けることは出来た。しかし、この稿については、主題に沿った文章が書けなくなってしまったのだ。
 この稿を今書きながらも、また怒りと悲しみの涙が私を襲っている。

 昨日の新聞記事には「満蒙開拓団」のことについての記載もあった。それを紹介しよう。
 [関東軍が1931年に満州事変を起こし、翌32年中国東北部(旧満州)に「満州国」が建国された。日本政府は農業移民政策として「満蒙開拓」を展開、20年で100万戸を移住させる計画を策定した。
 45年8月9日にソ連が参戦。関東軍は一斉に南下し、開拓団はソ連国境に置き去りにされ、ソ連軍や中国人らに襲撃された。「集団自決」などもあり、逃避行は悲惨を極めた。
 その後の難民生活も飢えや寒さで死亡する人が後を絶たず、その中で中国残留婦人や残留孤児が生まれた。
 敗戦時、旧満州にいた日本人は155万人、うち開拓団は27万人だが、死者約20万人の4割を開拓団が占める。](明日に続く)

今日の写真は、耳成岩下部の小さな池塘 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(9)

2010-08-25 04:33:13 | Weblog
 (今日の写真は、2003年7月27日に撮ったものだ。場所は耳成岩下部の小さな池塘である。本当に暑い日だったが、今年の暑さとは比べものにならない、極めて「普通の夏日」の暑さであった。ここ数日、新聞の見出しは「猛暑、酷暑」であり、昨日は何と「炎暑」という言葉が使われていた。
 この暑さの中で、私はずっと、この「小さな池塘」のことを思い続けていた。この日、「小さな池塘」の手前で出会ったイワツツジの「青い果実」の味は忘れられない。喉が渇き疲れた体には甘酸っぱくて、ジューシーなこの「実」の味は格別であった。
今日の写真の耳成岩下部の「小さな池塘」には「モリアオガエル」のオタマジャクシがうようよと多数生息していた。この写真からもそれは分かるだろう。また、池塘の周りには、まだ「卵」がたくさんあった。
 強い日射しを受けて周囲の草はらではカマキリムシの仲間が動き回っていた。また、この「オタマジャクシ」や蚊の幼虫などを餌とするゲンゴロウが確認された。
 マメゲンゴロウ多数とメススジゲンゴロウの雄と3匹の雌を見つけた。メススジゲンゴロウは津軽半島、下北両半島、白神山地では、多数の発生地が知られているが、その他では限られた「山湖」にのみ棲んでいるものだ。
 津軽地方では岩木山の「種蒔苗代」、それに、大鰐三ツ目内の「戸和田山」くらいでしか見つかっていないのである。
 この耳成岩下部の「小さな池塘」は、岩木山の「第二発生地」である。氷河期の遺存種ともいわれ、全国的にも珍しい種にあたるのだそうだ。
 冒頭で…この暑さの中で、私はずっと、この「小さな池塘」のことを思い続けていた…と書いたが、それは、あの「モリアオガエルのオタマジャクシ」たちは、この「猛暑、酷暑、炎暑」の中でどうしているだろうかという心配であった。すでに「成体」となり、タカネナナカマドやチシマザサの葉裏で元気に生き延びているだろうとは思うのだが、炎暑に負けている自分を思い、余計なことまで考えているのである。
 この「小さな池塘」は標高1450mほどのところにある。だから、暑さは平地のそれに比べてはいけないことなど、承知しているはずなのに、ふと、「水」も枯れ果てて、遅く孵化したものは「乾燥したミイラ」になっているのではないかなどという「恐ろしい」想像までしてしまうのである。
 羽を持つマメゲンゴロウやメススジゲンゴロウは、「空中飛翔」して、「種蒔苗代」などへの移動は可能だろう。しかし、「オタマジャクシ」は水中でなければ「生息」出来ないのだ。
 連日の炎暑は、罪作りである。このような「つまらない」連想まで、させてしまうのである。)  

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(9) ◇◇
 「今日で9回目である。この表題で、何故、ロシア軍兵士が登場するのかと訝しく思う人もいるだろう。それは、私が戦争体験のない中途半端な世代であることの証明のためである。つまり、戦中に生まれているが記憶は「敗戦」以後のことだけであるという査証のためである。」

(承前)…3.正面玄関から出ると大きな通りがあり、そこには路面電車が走っていた。そして、その大きな通りでは、八路軍の食糧運搬馬車を多くの中国人や日本人(?)の子供たちが襲っていたこと。  

 上記の表題で文を進めようとしていたが、今日の朝日新聞34面の「母は妹を手にかけた・3姉妹の満州逃避行65年後の告白…戦争は人を残酷にする」を読んだら、私の記憶など、すごく軽いようなものに感じられて、書き続ける気力が萎えてしまった。

 1945年8月、この記事に出てくる「里子」は、ほぼ私と同年齢だ。戦争は母親に「我が子」を殺させるものなのだ。私が生きて引き揚げてこられたことが不思議なくらいだ。

 次に朝日新聞記事全文を掲載する。
…ジャガイモを食べたいと泣いた3歳の末妹の声は、はっきりと覚えている。旧ソ連の侵攻で始まった中国東北部(旧満州)での逃避行の途中で亡くなった妹・里子。
 昼も夜も荒野をさまよい歩いた8月下旬がまためぐってきた。戦後65年。「いまだからこそ話しておかなくては」。
 一緒に逃げた3人の姉が、つらい記憶をたどった。
 3人は、山梨県上野原市の尾形卜キさん(78)、福岡県糸島市の宗広マツさん(76)、東京都江戸川区の金丸キヌ子さん(74)。一番記憶がはっきりしている卜キさんは「本当のことは悲惨すぎて」と口をつぐんできたが、今回、家族以外に初めて語った。
 一家は1939~40年に埼玉県中川村(現秩父市)から中国東北部に開拓団(注)として渡った。まもなく父が病死。45年8月9日に兄が応召した。
(軍部のビジョンのなさにはあきれる。6日後に敗戦で戦争は終結するというのに将来を見通せない為体だ。)
 8月15日。中国人に襲撃され、敗戦も知らずに逃げ出した。一団は約1500人。ほとんどが女性と子どもと老人。歩けなくなった人は置いていくしかなかった。
 途中、日本兵たちに出会った。ゆっくり歩いてほしいと懇願したが、「ついてこられない者はついてくるな!子どもを泣かすな」と怒鳴られた。
 しばらくすると幼い男の子が母親の手で川に投げられた。「母ちゃーん」。男の子は沈みながら消えていった。
 数日後、もぬけの殻になっている中国人の集落に着いた。畑で芋や野菜をとり、煮る準備をしていたとき、マツさんにおんぶされていた里子ちゃんが泣き出した。
 「お芋、食べたーい」卜キさんが「もうすぐ煮えるからな」と声をかけたその時、目を赤くした母が入ってきた。
 「里子をおろせ」。卜キさんが追いかけると、「ギャー」という声がした。母に抱かれた里子ちゃんの首を、近所のおばさんが手ぬぐいで絞めていた。
 母は「里子をおぶって母ちゃんが倒れたらお前たちはどうなるか」とうつむいた。草むらに遺体を置きながら「里子、ごめんね」と泣いた。
 約2週間後、方正の収容所にたどり着いた。母は3人を生かすために中国人の家に嫁いだが、まもなく病死。収容所にとどまり、働いていた長姉に3人は引き取られ、残留孤児にならずに十数年後に帰国できた。
 「せめてお芋を食べさせてやりたかった」とキヌ子さん。卜キさんは「中国人に襲われたが、それは私たちがしたことをやり返されただけだと思う」。
 自宅の仏壇に「里子の霊」と書かれた位牌を置くマツさんは「母は里子を殺したくて殺したわけじゃない。なぜ、そうなったのか。戦争は人を残酷にする。それを伝えていかなくては」と手を合わせた。…
(明日に続く)

今日の写真は、終日の暑さに茹だる岩木山 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(8)

2010-08-24 04:38:02 | Weblog
(今日の写真は、8月21日18時26分に、拙宅の近く、約30mほどのところにある駐車場から撮ったものである。まさに、終日の暑さに茹だる岩木山といったところだ。雲までが、燠火(おきび)に燻っている「熱さ」をはらんでいるようだ。
 この日も暑かったが、昨日の暑さには参った。外気温のことには触れないで、私の部屋内の気温について述べよう。
 例によって、朝4時近くに西側の小窓と南側の大きな窓を開けた。この時点で、すでに29℃、太陽の照りつけが激しくなってきたので、簾を降ろして、午前8時過ぎにはそれらの窓を閉めた。さらに、ブラインドも降ろした。いつもだったら、これで、夕方までは30℃をちょっと越えるか、29℃台を保てるのである。
 家を建てる時には「防寒」と「防暖」に気を遣い、そのため外壁と内壁の構造にもそのような材質を使い工夫したのである。
 また、窓もガラスが二重構造で、空気によって暑い外気や寒い外気を「遮断」するというものを使用している。それに、南側にが太陽の直射を遮るために、竹製の簾を2枚提げてある。
 さらには、南側、西側ともに「ブラインド」を付置して、太陽光を遮断しているのだ。
冬の防寒は「最適」であり、「快適」だ。昨冬は私の部屋では灯油ストーブの出番は殆どなかった。
 だが、昨日は違った。室内気温は、それから30℃、31℃、32℃と上がり続けて、午後3時頃には33.6℃まで上がった。部屋の中は、まさに「灼熱地獄」である。
 窓を少し開けてみたが、逆に「熱風」が入ってくる。夕方、太陽が沈んでからようやく「窓」を開放した。だが、午後の8時30分になっても、32℃少し越えていた。網戸を付した窓を開け放っているにもかかわらずである。

 昨日も今日の写真と同じ時間帯に、岩木山を見るために「外」に出た。岩木山は2日前と同じだった。駐車場までの30mを歩いて行く中で、暑いのだが、何となく「風」を感じた。
 ふと、芭蕉の俳句を思い出した…。
「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉)
 今日は、立秋も過ぎ、処暑の日だ。もう秋だろう。だが、夕日は、暑さだけを残し赤々と照りつけている。しかし、さすがに季節の推移は嘘をつかない。秋を思わせる風が吹いてくることではないか…という意味だろう。
 しかし、これは「江戸時代」の話しだ。現代は季節も順当にはいかない。それに手を貸している私たちが、すべてのエネルギーを費消している限りは、「季節」の巡りに異常が出てもやむを得ない。
 「処暑」に関しては「水平にながれて海へ処暑の雲」(柿沼茂)という俳句もある。何となく、「秋冷」さの到来を予期させる爽やかな俳句である。海の見える西海岸では、昨日、このような「雲」が湧いて、海に消えたのだろうか。暑さに茹だる「岩木山」からは、その情景は読み取ることは出来ない…。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(8) ◇◇
 「今日で8回目である。この表題で、何故、ロシア軍兵士が登場するのかと訝しく思う人もいるだろう。それは、私が戦争体験のない中途半端な世代であることの証明のためである。つまり、戦中に生まれているが記憶は「敗戦」以後のことだけであるという査証のためである。」

(承前)…2.ロシア軍が管轄しているビルから、日本女性が瓦屋根伝いに逃げて来る。その間に鉄砲の音が聞こえていたこと。

…ある日、社宅寮の2階の窓から外を眺めていた。窓の直ぐ下には黒い瓦屋根がずっと続いていて、向かって右側(西側)から柔らかい夕陽が射し込んでいる。その向こうにはグレーに霞んだコンクリートのビルが見えていた。
 私はさっきからビルから出てきた小さくて「黒い」点をとらえていた。その「点」は長い「人影」を明らかにしながら、黒い瓦に溶かし、だんだんと私の方に近づいてくるのだった。瓦屋根は、ちょうどT字路をなして、下の瓦屋根と繋がり、左右に伸びていた。
 そして、その「人影」は「長い髪を垂らしたもんぺ姿の女性」であることが分かった。顔つきまでははっきりとは見えない。だが、「もんぺ姿」である以上は「日本人女性」であることは間違いないだろう。母もいつもこの出で立ちだった。
 遠くのビルデイングの方から、「パン、パン、パン」という音が聞こえた。窓を閉め切っているので、高く鋭くは聞こえないが、それは確実に銃声だった。
 コンクリートのビルは、ロシア軍が徴用していた。司令部か何かが置かれていたのかも知れない。そこでは、日本人女性がロシア軍の命令で働かされていたのだろう。きっと、この女性は「我が子のこと」を案じて逃げ出したのだろう。
 銃声は「逃げることを止めよ、止まらなければ、戻らなければ実際に撃つぞ」という威嚇射撃であったようだ。私の目には瓦に撃ち込まれる弾痕と弾けるものが見えなかった。実際に撃っていたら、私の部屋の窓ガラスも砕かれたであろう。
 その女性は怯まなかった。ビルを背にして、左に曲がり、私の視界とは反対側へと、その影を消してしまった。だが、「パン、パン、パン」という銃声は、その後も続いていた。

 私には「鉄砲や機銃の弾が飛び交う」中で、じっとしていたことや、逃げ惑ったという経験もなければ記憶もない。ロシア兵に「抱きかかえられ」て連れ出され他という記憶、れに、逃げ惑う日本人女性を視認しながら銃声を聴いたという記憶しかないのである。
 これでは、「戦争体験」とはいえないのではないか、そのような思いを、ずっと物心ついた時から抱き続けているのである。(明日に続く)

今日の写真は、涼しげな赤倉稜線と深い谷 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(7)

2010-08-23 04:27:07 | Weblog
 (今日は二十四節気の一つ「処暑」である。太陽の黄経が150度の時で、暑さが止み、新涼が間近い日とされ、7月の中(ちゅう)で太陽暦の8月23日頃に当たる。
 暑さが収まるという意味である。起床したのは4時であるが、外気温は24.5℃、室内気温は28.8℃であった。
 毎朝、4時前後に起きるが、変わりのないのが、この「気温」である。起きて直ぐすることは「窓」の開放である。すると、南からの涼しいが弱い風が吹き込む。日中は外気温がどんどんと上がり、日射しの直射を受けるところにある「外気温計」は時には40℃を越している。だから、午前8時を過ぎると、「窓」は閉めることにしている。
 午後になると風向きが180度変わる。北風になるのだ。結構強いし「冷たさ」を含んでいる。窓を開けて、この「北風」を取り込みたいのだが、外気温が高くて開けた途端に「熱風」状の「熱気」が入ってくるので「開放」は出来ない。
 だが、午後の4時過ぎになると、南側の窓と北側の窓を同時に開放すると、冷たい「北風」が家中を通り抜けて、南へと吹いていく。
 朝の4時、風向きはその逆である。この傾向はここ数週間変化がない。だが、ここ1週間ほど、朝起きて直ぐに「窓」を開けると、ある「音色」が聴こえるようになってきているのだ。
 それは、「コオロギ」の鳴き声、「虫の音」である。それを耳にして、「ああ、秋なんだ」と改めて感じたのである。そして、次のような感慨を持ったのである。
 私を含めた人間は、身体的に「秋」を感ずることが出来ないほどに退化してしまった生き物に堕した。視覚的な「気温計」で気温を測り、それにたぶらかされて、微妙な「秋の気配」を見過ごしたり、感じられなくなっている。
 テレビやラジオで「猛暑、酷暑」と騒ぎ立てるその中にいて、生物的な肌で実感する、聴覚や触覚という感覚でとらえられる微妙な変化に気づかなくなっているのだ…と。
 虫たちは「日照時間」の変化で「秋」を感じ取っているといわれているらしいが、夕方にはまだ、なかなか「虫の音」は聴こえない。私のような門外漢は「暑い」からだろうと思ってしまうのだ。
 藤原敏行が古今集の中で「秋立つ日によめる」という詞書きで詠んだ歌が…
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(古今集・巻四、秋上、一六九)である。
…秋が来たと目にははっきりとは見えないが、吹いてくる風の音で、もう秋が来たのかとはっとさせられることよ…
 昔の人は、五感を使って季節の往来を感じ取っていた。現代人はそれを捨てた。「コオロギ」に感謝である。暦の上での「秋立つ日」はとうに過ぎた。

 そんなことを言ったところで、「処暑」である。暑さはまだ続くのである。冷房のスイッチを入れるように「今日から20℃以下にします」というわけにはいかないのだ。
 そういう訳で、今日の写真は「涼しげ」な岩木山点景を選んでみた。これは、2008年5月23日に、赤倉登山道大開から少し登った辺りから、赤倉キレットと対岸尾根と火口内壁の崖を撮ったものだ。
 残っている「雪渓」の多さに驚く。だが、この「多さ」はきわめて例年的なものである。今季の積雪が極端に少な過ぎたのである。5月30日に確認したが、全く「残雪」はなかった。このような「年」は「暑い夏」になる傾向があるのかもしれない。
 …その雪渓の冷気が深い谷底から昇ってきて、谷の上を雲となって漂っているのである。そこから吹き出す風は「クーラー」の吹き出し口からの、冷気に等しいものであろう。実に涼しいのである。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(7) ◇◇

(承前)…1.ロシア兵による拉致、数時間後に裏門に置き去りにされたこと。

 …激しく泣き叫ぶ私に「ロシア兵」たちは困り果てたはずである。もとより、めぼしい「略奪」品対象物は部屋にはない。それを探すよりも「泣き叫ぶ」私をどのようにすればいいのかが問題だったのだろう。
 そのまま私を部屋に置いたまま、出て行けばいいものなのに、何故かしら、彼らは私を抱きかかえて廊下に出た。…今になっても、この行動の「何故に」という不可思議さは解明されない。そして、裏口のある方向にどんどんと、歩いて行くのだった。
 私の泣き声は、深夜の寮内に響いた。それは私の両親の耳にも届いていた。「元気に泣く我が子」の声である。それだけで「安堵」だったはずだ。「ロシア兵」たちはそのことを目論んだのかも知れない。だが、両親からすれば、一方で「どこに連れ去られるのか」というより強くて深い「心配」を持たずにはいられなかったはずである。
 私を「抱いて」いるロシア兵は、盛んに「ハラショー」の連発である。だが、私は泣き止まない。
 やがて、裏門に出た。門扉の上部には「裸電球」がついていて、その下部を薄明かりで照らしていた。「ロシア兵」は門の上がり框の上に私を「優しく」降ろした。私の記憶では、決して「荒々しく」降ろされたものではなかったので、「優しく」と表現したのだ。
 泣き叫ぶ私をしっかりと抱きしめていてくれたこと、そっと降ろしてくれたこと…などの記憶は「優しい兵隊さん」という思いを、この60数年間、ずっと私の心の中で育んでくれたのだろう。
 「ロシア兵」は、私に、上がり框に腰を下ろして座るように、ジェスチュアーを交えながら指示した。私は泣きながら、そこに足を投げ出して、腰を掛けて座った。そうしたら、また「ハラショー」である。そして、彼らは裸電球の薄明かりの中から、いずこともなく消えていった。今思えばだが、恐らく私を抱きかかえていた「ロシア兵」は、「ダスヴィダーニヤ」という言葉は残して去ったものだろう。

 …私は泣き止んでいた。遊び慣れている廊下と裏門、「地の利」は詳しい。彼らの影が見えなくなるのを見計らって、私は寮内の「部屋」に戻った。
 しばらくすると、両親が戻って来た。そこで、私はまた泣き出したのである。今度は嬉し泣きである。(明日に続く)

今日の写真は、大開から見た赤倉沢の春 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(6)

2010-08-22 04:03:47 | Weblog
  (季節的には「残暑」と言われる時期になったはずだが、一向に「暑さ」は衰えない。昨日も、日中は33℃を超える時間帯が続いた。
 恐らく、多くの世人は、この「猛暑」の理由の1つに「地球温暖化」を何となく漠然とあげているだろう。だが、一方で、この「地球温暖化」を招いた「原因」となる様々な「事象」に日々励んでいるだろう。だから、ますます、「猛暑」は続き、今夏が過ぎれば、また来年は今年以上の「猛暑」に悩まされるのである。
 このようなことを続けて、地球は「人」の手によって「破滅に向かって」いく。ロシアの「森林火災」がそれを何よりも教えてくれてはいないだろうか。あの「森林火災」が起きた地域は日本よりも「高緯度」に位置している。言ってみれば、「冷涼な気候帯」なのだ。「火災」は「泥炭地」の「泥炭」までを燃やしているという。
 「泥炭」とは「ピート(peat)」のことだ。「炭」という語で呼ばれているが、多量の水分や多少の土砂を含んでいることもあるので、そう簡単には燃えないはずのものである。それが燃えているというから、いかに「猛暑」で「乾燥」の日々が続いたのか、それに、「猛暑と乾燥」の度合いも桁外れであったことが分かる。
 「泥炭」とは、湿原植物などが枯死・堆積し、部分的に分解・炭化作用が行われた土塊状のものだ。中には、植物の組織が肉眼で観察出来るものもある。
 さて、前置きが長くなったが、今日の写真は、その「猛暑」をしばし、忘れさせてくれる爽やかな涼風が吹き渡る赤倉の谷の上部だ。涼しく爽やかな風は谷から舞い上がってきては、汗でぬれた全身を包むのであった。
 これは、「大開」から、2004年5月30日に、300mmの望遠レンズで撮ったものである。
 この年は、赤倉キレットからの雪渓がまだ、これほど5月30日だというのに残っていた。左右の竹藪の斜面にも、所々、まだ雪渓が見える。中央雪渓の下端には、細い流れが滑滝を形成している。これは、雪渓が消えるとなくなってしまう「滝」である。
 対岸左岸は荒々しい「溶岩」がむき出しの垂直に近い爆裂火口壁である。その上部では崩落が見られる。赤倉沢上部の崩落は右岸壁の方が激しい。手前の濃い緑は「コメツガ」であり、その手前のボケているが、淡い緑の葉をつけた樹木は「ミヤマハンノキ」である。
 今年の「5月30日」にも赤倉登山道を登った。途中、「大開」からも当然眺めた。だが、そこには、この写真のような「風景」はなかった。雪渓が全くないのである。
 このことについては、今年6月1日付東奥日報夕刊「岩木山の春の表情に異変」という記事に詳しく掲載されているので、参照されるといい。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(6) ◇◇

(承前)…1.ロシア兵による拉致、数時間後に裏門に置き去りにされたこと。

 …両親は眠っている私を置き去りにして逃げたのである。だが、これは「約束」であった。「ロシア兵たちは子供に手を出さないし、危害を加えないといわれているから、お前を置いたままで逃げるからと聞かされていたのだ。
 日本人の「親」に共通している対処法は、ロシア兵に押し入られても「姿」を見せないことだった。つまり、隠れることが、トラブルを避ける一番いい方法だったのだ。
 彼ら、ロシア兵も「静かに行動」しているつもりなのだろうが、「ドカドカ」という侵入音が枕元でして、私は目が醒めた。
 母を呼んだ。父を呼んだ。だが、答えはなかった。私は「その場」に一時的に、「置き去り」にされたのである。一時的でよかった。これが、長時間になっていたら、確実に「中国残留孤児」となっていて、今の私は存在しない。
 私は枕元でうごめく者が誰なのか、直ぐに理解が出来た。「このようなことが、早晩起きるかもしれない」と母から聞かされていた。終に「その時」が来たと思った。
 彼らロシア兵のことを「怖い」とは思わなかった。布団の中にいる私を見つけて、小声だが、お互いに何かをしゃべっている。怖くはないが、すごく寂しかった。見知らぬ他人の中で、親が傍にいない時に感ずるあの寂しさである。それが、こみ上げた時に、私は泣き出したのである。最初は「メソメソ」、「グズン、グスン」程度であったが、次第に声は大きくなり、とうとう号泣になっていた。
 ただ、泣いたわけではないだろう。恐らく「お母さん、お母さん」と泣き叫んでいただろうと思うが、それは記憶にない。
 そうしているうちに、ロシア兵の1人が、前に垂れ提げていた銃を背の方に回して、私を抱き上げた。そして、「親指」を突き出して、盛んに「ハラショー、ハラショー」と言いながら「あやし始めた」のである。
 「ハラショー」であるが、その時は何を言っているのか、音声としても聞き取れなかったが、後年に、少しロシア語を囓った時に、ふと思い出したのだ。「あの時」、彼が言っていた言葉は「これだった」のだと…妙に懐かしかった。
 訳すと「大丈夫だ」、「心配するな」、「機嫌を直せ」くらいの意味になるはずである。この場合は「ああ、いい子だ、そんなに泣くのはおよし」とでも訳せばいいだろう。
 彼らは「大声で泣きわめく」私に相当手こずったらしい。部屋の中を物色することもなく、私を抱きかかえたまま、廊下に出た。「撤退」するらしかった。
 物色したところで、何もめぼしい物はなかっただろう。少なくとも、「物品」は日々の食糧のために、「物々交換」的になくなっていたはずである。

 私の泣き声は、深夜の寮内に響いただろう。どこかに隠れている私の両親の耳にも届いていたはずである。「元気に泣く我が子」の声である。親にすれば、心配であるが、それは一方で「安堵」だったはずだ。
 …両親も、そのほかの人たちも皆、声を潜め隠れている。連れ去られる私を助けようと出てくる人はいない。それならば、最初から隠れる必要はない。子連れで逃げて発見されて捕まった方がいい。(明日に続く)

今日の写真は、赤倉沢の堰堤建設用道路の現場 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(5)

2010-08-21 05:10:44 | Weblog
 (今日の写真は、赤倉沢の自然を破壊しながら進められる堰堤を建設するために必要な道路を敷設している「現場」だ。今から、10数年前に撮ったものだ。
 岩木山の「赤倉沢」まで出かけるということは、「自動車」を持たない私にとっては、簡単なことではない。
 路線バスを利用する場合は、弥生マデバスで行き、そこから「徒歩」ということになるか、あるいは、鰺ヶ沢行きのバスに乗って、大森で下車してそこから、「徒歩」ということになる。
 これらの方法も何回かとったが、他にも方法があった。それは、「下山」時に赤倉登山道を辿り、「鬼の土俵」から「赤倉沢」に降りて、赤倉沢に辿り着くという方法である。
 この「下山」時に「赤倉沢」に出るには、もう1つルートがあるが、これは、一般的ではない。この「ルート」は古くから「修験者」が辿っていたもので、「普通の人」では、登りは難しいし、降りることは、いっそう困難だ。赤倉御殿から北に稜線を辿ると、コメツガ林に入る。その中は「修験道」の伽藍である。そこを抜けて北東の竹藪の中を下ることになるが、足場は悪いし、まさに、道なき道なのである。手がかり、足がかりがなく、方向を示すものは「鉈目」だけである。
 それに、最近は、その「取り付き口」もはっきりしなくなっている。
 「赤倉沢」の堰堤敷設工事の「実態」を調査するためには、山頂から赤倉登山道に下り、「赤倉御殿」の先端からまずは、眼下に見える「赤倉沢」の全景を眺める。年を追うごとに、その「堰堤」の数は増えていった。
 それから、登山道を降りて、「鬼の土俵」から赤倉沢の降りて、沢を下りながら「堰堤敷設工事」の現場を調査しながら赤倉口に出るのである。
 この方法が、私にとっては一番、「容易」な「赤倉沢に辿り着く」方法だったのである。バスで百沢まで行く。そこから、百沢登山道を登り、山頂から赤倉登山道、赤倉沢に出て、赤倉口へ、そこからは弥生バス停まで歩くことになる。
 自動車に頼っている人のとっては、考えられないような「非合理的」な方法だろう。
「鬼の土俵」から「赤倉沢」に降りた所は、「神域」である。大きなしめ縄が張られている。林野庁もこの幽谷、赤倉沢の上流部に「堰堤」を敷設することは躊躇われたのだろうか。
 15基ある巨大な「堰堤」の最高標高部にあるものは、「しめ縄」の下部である。ということで、このルートで沢を下ると、すべての「堰堤工事」や「敷設工事」に関わる「自然破壊」を具に観察、調査が出来たのである。
 調査は出来たが、出かけるたびに、「神域、幽谷」が人工物に取って代わられ、昔から「修験道」までを支えてきた「自然豊かで険しい深山」という風情は失われていった。ただただ、それが、悔しく悲しかったのである。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(5) ◇◇

(承前)…私は、1946年の2月に、父の実家のある旧岩木町の「兼平」に帰ってきた。引き揚げて来たのである。
私の記憶にある中国・大連での生活は、どうも、「大日本帝国」が、スコンク的な「完敗」をした1945年の8月以降から引き揚げてくるまでの「数ヶ月」のことのように思えるのだ。残っている記憶には、ロシア軍や八路軍が登場することは、それを証明してはいないだろうか。これら記憶を少し詳しく辿って語りたいと思う。

1.ロシア兵による拉致、数時間後に裏門に置き去りにされたこと。

 ロシア軍の参戦は「不可侵条約」違反だという人もいる。どだい「戦争」は「人殺し」だ。「人殺し」に「約束」を守るなどということを求めることが無理なのである。スポーツには「厳然」としたルール(約束)があり、それに従うから「勝ち・負け」がはっきりする。戦争には最初からルールがない。そう思ってかかるべきである。アメリカが原子爆弾を、世界で初めて「2発」もこの日本に「投下」したことに、何の「ルール」を求めようとするのか。「不可侵条約違反」を詰るのならば、アメリカの原子爆弾投下をも詰るべきだろう。「不可侵条約違反」を詰るということは、日本の「完敗」を認めたくないという「主観」の現れであろう。
 まあ、それはいい。当時の大連にはロシア軍兵士がうようよいた。
「戦争」に略奪はつきものだ。日本軍は自国からの食糧を補給せず、「現地調達」という「略奪」を行った。日本では野武士の集団が「衣食」の略奪を、ヨーロッパやメキシコでは「私兵集団」や「盗賊集団」が略奪を繰り返した。それが、歴史の語るところだ。
 ロシア軍の兵士すべてが、日本人から「略奪」をしたというわけではない。おそらく、数の上では少なかったはずである。軍の上層部も暗黙で認めていたふしがないでもない。
 彼らの狙いは、主に、日本人の「腕時計」である。ない場合は「衣類」なども持ち去った。日本人たちは、接触を避けた。押し入られても「姿」を見せないようにした。隠れることが、トラブルを避ける一番いい方法だった。
 物音で目が醒めた。私は母を呼んだ。だが、答えはなかった。母も父もすでに私のそばにはいなかった。ロシア兵との接触を避けて、侵入に気づいた時に、社宅の部屋から出て、寮の廊下伝いに、どこかに身を隠したのだ。眠っている私は「その場に」置き去りにされたのである。だが、これは「ロシア兵との接触を避けること」を一番に考えると非常に有効なことである。
 子連れでは「速やかに」逃げることは出来ない。その上、私はきっと大声で泣くだろう。その泣き声は深夜の寮内に響くだろう。すぐに発見されて、捕まってしまう。(明日に続く)

今日の写真は、マルバキンレイカ(丸葉金鈴花) / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(4)

2010-08-20 04:34:11 | Weblog
 (今日の写真は、オミナエシ科オミナエシ属の多年草、「マルバキンレイカ(丸葉金鈴花)」だ。北海道と本州の新潟県以北に分布し、山地の湿りけのある斜面や樹林下、特に岩場の斜面などにに生える。
 茎はやや太く高さ30~70cmで、葉は対生し、広卵形~卵状楕円形で、長さが7~15cmほどの羽状で浅い切れこみがあり、先は尖っている。
 花は枝先の集散花序に、黄色で、小さく径が5mm程度だろうか、多数つける。花筒の基部には、半円形の小さな距(花弁の一部が袋状に突き出た部分)のあることが特徴だ。 花冠は短い円筒形で、5裂し、雄しべは4本、花冠から突き出ている。雌しべは1本である。花期は7月から8月にかけてであるが、今年は例年になく早く咲き出して、7月18日にはつぼみが中心だったが、中にはすでに、開いていたものもあった。
 濃い緑の葉をバックにしているので、小さい花だがよく目立つのだが、つぼみの頃や花が咲き始めたばかりの頃は、それほど目立たず、初めての出会いの人は、よく見落とすのである。見落とさない「極意」、それは、「葉」の特徴をよく理解することだろう。「丸葉」と言われるが、そんなに丸い葉ではない。鋭い切れ込みが入っているので、「丸くない葉」の「キンレイカ」と覚えておけばいいだろう。
 果実には、花の小ささからは想像出来ないような大きな翼がある。その翼で風を受け、風に乗って飛翔して、散らばるのだ。だが、その割には「あそこにも、ここにも」というように生えているわけではない。

 初めて、「マルバキンレイカ」に出会った時、「あれ、こんな所にオミナエシが生えている」と思ったものだ。「オミナエシ」は岩木山の山麓の草原、採草地からすっかり姿を消してしまった。そのようなむなしい思いが、そのように「見え」させたのだろう。
 ところが、その後、この「マルバキンレイカ」には、他の登山道沿いで出会うことはなかった。「マルバキンレイカ」には、「ある登山道沿い」でなければ出会えないことに気づいたのだ。それ以来、その愛しさは一入のものになった。
 「マルバキンレイカ」は、その数の少なさと自生している場所が極めて限定されていることから、私は心密かに「岩木山の絶滅危惧種」と呼んでいる。
 漢字で書くと「丸葉金鈴花」、黄金の鈴のような花、何とも優雅な名前である。名前の由来は、大体、丸い葉を持っていて、花冠が釣鐘形で黄金色であることによる。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(4) ◇◇

(承前)…この「客観性無視」から始まったことに、戦後65年の「反省のない世論に迎合」という「社会全体の変革へと進めない」悲劇があるのである。
 私は少なくとも、高校時代からは「終戦」を「敗戦」と置き換えて読み、何故に「敗戦」となり、その経過や内容をしっかりと学習してきたつもりである。その根底にあるものは、「戦争否定」である。何故か、単純なことだ。戦争とは「人殺し」であるからだ。

 私はそれ以来、一途に「反戦」という姿勢で生きてきた。だが、1941年生まれの私には「戦争」という現実的かつ体験的な記憶は非常に少ないのである。
 1941年12月8日に太平洋戦争が始まった。これも、「始まった」と書くと時間の推移に従った表現になってしまう。正しくは、「大日本帝国」が「始めた」のである。宣戦を布告し、「アメリカ」に仕掛けた戦争である。
 私は戦中派でもなければ、戦後派でもない。実に宙ぶらりんな世代なのである。1945年以前の10数年間の生活体験もなければ、多くの日本人が体験した1941年から1945年までの辛苦に満ちた生きるための「体験的な記憶」がないのである。もちろん、「戦争」体験もない。私は自分よりも一世代早く生まれた者たちに、ずっと、その意味で「僻め」のような感情を抱いて生きてきたように思うのだ。
 かといって、戦後の食糧難やすべてに渡る生活物資の不足から生じる困窮を徹底して味わったという記憶も薄くしか残っていない。これもまた、困窮に耐えて、「日本」の復興に寄与したかと考える時、そこには「それをしなかった」のではという悔いしか見出されないのである。
 だからだろう。私は、少なくと高校生からは「1945年以前の65年間に見られた日本国民のあり方」や「1945年以来の日本国民の思考形態や生活パターン」に反省を加えた見方や考え方をしてきた。
 
 中国・大連での生活は、1歳から4歳までの、わずか4年間である。その4年間で、おぼろげながら残っている記憶は、次の5つに過ぎない。
1.ロシア兵による拉致、数時間後に裏門に置き去りにされたこと
2.ロシア軍が管轄しているビルから、日本女性が瓦屋根伝いに逃げて来る。その間に鉄砲の音が聞こえていたこと。
3.正面玄関から出ると大きな通りがあり、そこには路面電車が走っていたこと。 
4.大きな通りで、八路軍の食糧運搬馬車を多くの中国人や日本人の子供たちが襲っていたこと。 
5.裏口には石畳の道が続き、アカシアの並木が続いていたこと。
                                       (明日に続く)

今日の写真は、赤倉沢「河畔林内の参詣道路」 / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(3)

2010-08-19 04:29:53 | Weblog
 (今日の写真は、8月1日に、第64回NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で、「野外実習と観察・赤倉講社群から赤倉沢に抜ける」を実施した時に写した「河畔林」とその中を行く「参詣道路」である。
 この日は、ブナ林と河畔林の違いに注目しながら、「赤倉講信仰」に触れ、赤倉沢で「堰堤の構造、敷設の仕方、沢特有の自然」を観察、学習をした。
 受講者には、次の項目を指示し、特にこの視点に注意しながら「観察」するように言った。

★自然の中の人工物に注目しよう。
★遠景では見えない深山幽谷の人工的な変貌に注意しよう。
★人間と自然の関わり方に目を向けよう。

 その日は「赤倉登山道」をまず進んだ。赤倉登山道入り口周辺は岩木山北東面の標高400mほどに位置している。
 入り口の下部には、いわゆる「赤倉神社群」がある。一番奥の神社だけが冬でも人が住んでいる。
 赤倉沢の「板橋」を渡るとミズナラとブナの生えている混合林になる。そこを赤倉沢に沿って散策しながら、赤倉講の社屋群まで移動した。
 ただ、登山道を歩いて行くのもつまらないので、登山道から逸れて、林の中を登って行った。何故かというと「この方」が観察対象が多いと考えたからである。
 「登山道」脇には花の影はなかった。時折見えるのは「ツルアリドオシ」の赤い小さい実だけである。
 一歩、林内に入ると「靴底」を通じて「柔らかくふかふかした感触」が伝わってきた。硬いコンクリート道路やアスファルト道路を歩いている者にとっては異質の感触だろう。実に足に「優しい」のである。
 この回から受講者新人が2名増えた。時々山歩きはしているというが、原生の「林内」を歩くのは初めてだと言い、この足裏の優しい感触に感嘆していた。
 私は「キノコ」については、「サモダシ」程度しか知らない門外漢なので、どれが食用になるのかは分からないが、その柔らかい落ち葉を押しのけて、多くの「キノコ」が、顔を出していた。受講者は「食べられるもの」であれば採取したいというようなことを口にしている。
 この「キノコ」も立派な観察対象である。それらを目前にして「解説」出来ない自分が情けなかった。
 そのような思いにとらわれている時、目の前に濃い「常緑性」の葉をつけた3種類の植物が現れた。しかも、その3種類、まとまって順序よく並んでいるのである。
 それは「ヒメアオキ」と「ツルシキミ」、それに「エゾユズリハ」であった。不思議にもその3種はすべて「雌雄異木」なのである。そして、それらは、揃いもそろって「雄」の木だったのである。
 それぞれ花期は終わっている。「雌木」であれば「果実」をつけているから観察対象は増える。私はそれぞれが「何であるのか」を最初からは言わない。そして、「この3種類の中にミカンの仲間がいます。それぞれ葉をちぎって臭いを嗅いで下さい。ミカンの香りがするとそれがミカン科の植物です」と言った。
 「ミカン」の香りがしたものが、「ツルシキミ」である。残りは葉の形状から判断することにした。
 間もなくして赤倉講の社屋群に着いた。「湧き水」で喉を潤してから、赤倉沢右岸沿いに参詣道を進んだ。
 沢の「河畔林」内に参詣道を散策して、最初の「ミズナラ」や「ブナ」林と「サワグルミ、イタヤカエデ、ヤマナラシ、ナナカマドなどが混在する河畔林」の違いを実感したのであった。
 「河畔林」内の参詣道を抜けると、そこには「立派なダム工事用」の砕石の敷かれた道路があった。現在、その名は「ダム保守点検道路」となっている。
 その道路を少し登ってから、降りたが、序でに、「治山ダム」の実像や実体に触れることにした。何しろ、この道路が「ダム」の「堤高」を越えて走っているのだ。「ダム」は「土石」の流下をくい止める役割は果たしていない。「土留め」にはなっていないのである。
 林野庁や国土交通省がいう「治水」や「治山」の意味を考える。それは、「自然を保護して、土石流などを防ぐ」ということではない。
 「堰堤(ダム)を多数造って、谷を平らな地形に変えてしまうこと」なのである。これを「自然破壊」と言わずして、何を「自然破壊」というのか。
 そのような思いを受講者たちは持ったはずである。それにしても「河畔林」に咲いていたライトブルーの「エゾアジサイ」は美しかった。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(3) ◇◇

(承前)…思想的に個を確立し、自立出来るための「自己改革」には「客観性」がすごく大事なことである。
 「世論に迎合」する者も含めて、65年前の日本人の、戦争遂行の最高責任者である天皇から、私の両親を含めた普通の人々までは、ポツダム宣言受諾、無条件降伏という「完膚無きまでの敗戦」を、「敗戦」と捉えようとしなかったのである。
 少数であるが「天皇に申し訳ない」と言って自裁した者もいた。だが、「天皇」は自己の責任を顧みず「自裁」すらないまま生き延びた。22年前に亡くなった時、靖国神社に祀られるような動きがなかったことが不思議であった。
 そして、殆どの国民は「終戦」を歓迎した。「負けた」という感情よりも「終わってほっとした」、「これで灯火管制という暗い夜から解放される」、「空襲に戦くこともない」、「防空壕に隠れる必要もない」、「防火や防空訓練もない」などという平穏な日々に戻れることで安堵したのである。
 だが、これが、自明の落とし穴だった。多くの国民は、この「安堵感」を自分たちの世論の根底に据えて、「世論」を作り上げ、それに「迎合」した。
 それが「敗戦」を「終戦」という言葉に置き代えたのである。時の占領軍を含めた日本の政治主導者たちも、国民を統治するには、その方が都合がいいと判断した。

 65年前に「戦争」は終わった。それは時間的な「終わり」である。その時間的な流れの終点という意味で「終戦」という言い方をしている。だが、これは、国民の総意による「客観性」を無視した「ネーミング」なのである。
 この「客観性無視」から始まったことに、戦後65年の「反省のない世論に迎合」という「社会全体の変革へと進めない」悲劇があるのである。
 私は少なくとも、高校時代からは「終戦」を「敗戦」と置き換えて読み、何故に「敗戦」となり、その経過や内容をしっかりと学習してきたつもりである。その根底にあるものは、「戦争否定」である。何故か、単純なことだ。戦争とは「人殺し」であるからだ。(明日に続く)

今日の写真はオニヤンマ / 毎日新聞「余録:『65年後』の昔と今」に思う(2)

2010-08-18 04:36:51 | Weblog
 (今日の写真は、トンボ目オニヤンマ科のオニヤンマだ。先日赤倉沢の中流部から下流部まで歩いた時に、虫に食われて葉脈だけになった葉をつけたオオイタドリの枝に止まっているものを撮ったものだ。
 堰堤敷設用の道路を歩いたのだが、このようにあちこちに「止まって」いるものもいれば、道路沿いにゆうゆうと飛翔しているものもいる。
 なんと言っても、その数が夥しい。「止まって」いるものも、1匹だけではなく、中には「3匹」が縦列をなしているものまでいた。
 飛翔中のものは、歩いている私が手を出せば、数匹は「張り手」の打撃で墜落させることが出来るほどの数であった。
 このトンボは北海道、本州、四国、九州に分布して、卵からヤゴまでは、山地の小さな沢や湿地の緩やかな流れの泥底で育つ。大きいトンボだけに、幼虫から成虫になるまで2~3年もかかると言われている。オニヤンマはヤゴも大きい。茶褐色で毛深く、頭部が角ばっていて、体長は約5cmもある。
 羽化後は、平地から山地の沢や湿地、池塘の周辺、林の縁などで暮らす。山地の路上やギャップ状の空地、渓流などの上空をゆうゆうと飛んで、パトロールする。
 大きさは、90~110mmほどであり、日本最大のトンボだ。羽化の時季は6~9月である。
 グリーンの複眼と、はっきりした光沢のある黒色地に7本の黄色の縞条のあることが特徴だ。オニヤンマの複眼は「エメラルドグリーン」である。見る角度のよっては、吸いこまれるような美しさを持っている。
 山の林道沿い、それに登山道脇で、「止まっているオニヤンマ」は、子供でも比較的簡単に捕まえることが出来る。
 子供たちの表情は「オニヤンマ」を捕まえた感動と驚喜に包まれるのだが、その羽の震動の強烈さと、図体のあまりの大きさに、「手づかみする」ことへの恐怖と躊躇の表情も見せるのである。
 今でも、子供にとっては「夢のトンボ」であろう。都会や都市部に住んでいる子供にとって「目にすることの出来るヤンマ類」は、小型の「ギンヤンマ」であるはずだ。オニヤンマは山里に暮らさないと見つけにくいトンボなのである。
 「オニヤンマ」は山地のトンボであり、「ギンヤンマ」は低地の湖沼に住んでいるトンボだからである。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(2) ◇◇

 (承前)…「その65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である」という。まさにそのとおりだ。
 …だが、今年も8月15日を前にして、地方紙、中央紙も「終戦」について触れていたが、「余録」が述べる「新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である」という視点のものはなかった。
 昨日の毎日新聞「近事片々:お盆明け」には、「大地の実りのための化学肥料が手製爆弾に。殻は家庭用圧力鍋。アフガンの現実。65年前の敗戦日まであらゆる物を武器にと決戦を呼号した日本の新聞、雑誌がせつなく重なり見える。」とある。
 毎日新聞の論調と視点はまさに「ぶれない」のだ。もう一度「まさにそのとおりだ。」と言おう。 
 「まさにそのとおりだ」に、私は2つの意味を込めている。1つは新聞人やマスコミの「世論迎合」に奔り、「迎合」姿勢をあおったことである。それに対する反省と責任を今一度、思い起こせと言っているのである。だが、残念ながら「思い起こす」視点・論調は他紙には見られない。
 もう1つは、多くの国民が、「世論迎合」に奔ったことことである。「余録」も「近事片々」も、「自身」に反省の矛先を向けながらも、同時に厳しく国民にも、その矛先を向けているのである。
 個々人が、思想的に自立出来るための「自己改革に邁進し」、個を確立し、社会全体の変革へと進むべきだと言っているのである。
 「世論に迎合」する者は、常にその責任を他に求め、他に押しつける。「おまえたちがそう言ったではないか」とか「おまえたちの言ったことに従ったまでだ」と言うのだ。
 「余録」の書き手も「近事片々」の書き手もそのことをよく理解している。だからこそ、諸刃の刃的な表現で、自身と国民に迫っているのである。
 数の多さと「迎合」とは、その関係において相関をなす。迎合者が多ければ、新聞の発行部数は伸びる。テレビで言うと「視聴率」が上がる。
 新聞人やマスコミ関係者は、それをいいことに、国民が増すます「迎合するような記事や内容」を発表する。そして、多くの国民から理解され、指示されていると思い込む。確かに、数の上では一応、そのような統計的な図式とはなるであろう。
 だが、「戦争」というものをきわめて単純化して言えば、それは「殺人」である。「戦争」思潮に「迎合」しても、「殺人」を美化したり、「善きこと」と捉える人はいまい。「殺人・人殺し」は古来から許されない極悪非道のことだと誰もが信じて疑わないのである。
  人の心には「人殺しは極悪非道」という思考が内在しているものだろう。その内在している観念を惹き起こして、「戦争をしていけない」という視点や論調で、国民に迫ることがなぜ出来ないのか。
 戦後65年、その節目にあって、「戦争をしていけない」という視点や論調で、国民に迫ったのは毎日新聞だけであるように思える。

 65年前に「戦争」は終わった。それは時間的な「終わり」である。その時間的な流れの終点という意味で「終戦」という言い方をしている。だが、それを、形態と中身、相手国との相関関係から言うと「終戦」という語で片付けるには、相当に無理がある。
 形態と中身、相手国との相関関係から言うと、それは「敗戦」である。ポツダム宣言受諾、無条件降伏とは「完膚無きまでの敗戦」を意味する。
 戦争とスポーツを同質で論じることは、当然出来ないが「負けを負けとしっかり認めることでスポーツは成り立つ」のである。スポーツでなくても、勝敗を論ずる場合は「勝ち・負け」という2つの語のいずれかに属する以外はないのである。その意味で非情なほどに客観的なものなのだ。
 「敗戦」と捉えなければいけないものを「終戦」と捉えたのは、経過と中身から「目を逸らした主観」でしかない。(明日に続く)

毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(1)

2010-08-17 04:38:24 | Weblog
 (今日の写真は、戦前の中国「大連」大広場の航空写真である。北東方向から撮られたもののようだ。65年前の私は、ここ「大連」にいた。
 だが、この写真で「この辺りに住んでいた」などと言うことは出来ない。そのような記憶はないし、どこに住んでいたのか、仮にその「住所」を知っていたとしても、飛行機に搭乗する機会などあろうはずもなく、このような「鳥瞰図」的な「大連」をもって、「ここ」と指し示すことは出来ない。ただ、漠然と住んでいたところは「満鉄」の社宅だと記憶している。
 「大連」は植民地の拠点都市だ。東西90kmに海岸に沿って出来た街で、かつては、ロシアが街を設計し、建設した。写真の真ん中に見えるロータリーはその頃の名残だ。
 ロシアが建設した当時は人口4万人ほどの「都市計画」であったが、日露戦争後、日本が建設を始めた。そして、当初よりも数倍の大きさの都市となった。幾何学的な配置と、四方にメインストリートが延びていた。
 街路は割栗石で固め、その上にコールタールを塗り、小砂利を散布して舗装された。これは、夏の炎天下で軟化したり、極寒時に亀裂が入ったりする心配がない。歩道はコンクリートブロックで2~3mの幅を持って造られていた。さらに、白楊やアカシヤなどを街路樹として配置した。これで、白楊やアカシヤの並木が出来上がった。
 並木のアカシヤが咲く季節には、街全体が「ガーデンシティー」となったという記録おあるそうだ。
 以上は、1946年にその「大連」から「引き揚げ」後に知り得た「知識」である。だが、「石畳の道」と記憶したものは、実際は「割栗石で固め」られたものであったのだが、満鉄の社宅の裏口には、「石畳の道」が続き、アカシアの並木が続いていたという記憶だけは、鮮明に今でもあるのである。) 

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う (1)◇◇

 次に余録:『65年後』の昔と今の全文を掲げる。

「私の知っている貴方(あなた)は必ず自己に対して責任を感じていられると思う。…連盟と手を分かつに至ったのは貴方の手によってである。この結果、日本は明治維新以来初めて世界に孤立したのであります」▲リベラルな外交評論で知られた清沢洌(きよし)が、日本の国際連盟脱退の立役者となった松岡洋右への公開状「松岡全権に与(あた)う」を発表したのは1933年のことだ。この年の連盟脱退が、その後の戦禍と敗戦・占領にいたる歴史の転換点の一つだったのはいうまでもない▲国民が玉音放送でポツダム宣言受諾を知った夏から65年が過ぎた。それがどれほどの時かは満州事変での国際連盟脱退が明治元年から65年後だったのを思い返せばいい。明治維新からその日までと同じ歳月が戦後を流れた▲英国はじめ列強の勢力均衡と植民地支配からなる19世紀国際秩序に適応し、国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。自己改革を怠って侵略と戦争の迷路に入り込み、ついに独立も失った▲「松岡全権に与う」はその迷路の入り口となった連盟脱退での外交当路者の世論迎合を批判したことで有名だ。世論とはほかでもない、当時こぞって連盟への強硬姿勢をあおった新聞を意味する。清沢は迷走する日本において新聞人の責任を問い続けた人でもあった▲歴史は繰り返すといいたいのではない。戦後65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。内外の戦没者の魂の平安を祈る日は、また新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である。                         (毎日新聞 2010年8月15日)

 ここに語られている日本の歴史、130年間は、まさに、個の確立から、社会全体の変革へと進むべき道を、つまり、国民1人1人が、思想的に自立出来るための「自己改革を怠って」一視同仁的に「同じみんな」でいることに安住した。
 19世紀国際秩序に適応し、国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。「自己改革を怠って」侵略と戦争の迷路に入り込み、ついに独立も失った…。これが、前期の65年だ。その間にマスコミはこぞって「世論迎合」に奔り、「迎合」姿勢を新聞はあおった。
 後期の65年は、1945年から 2010年までだ。この65年間は、まさに「アメリカ」への飼い犬のような「迎合」ぶりである。「大量生産、大量消費、大量廃棄、使い捨て』などの経済仕様、義務を素通りする自由主義、自己訓練のない民主主義などが、この65年間に蔓延った。つまり、経済も文化もすべて「我が国日本」を占領支配した「アメリカ」に牛耳られてきたのだ。この意味では、いまだに日本はアメリカに占領支配されていると言っていいだろう。1945年8月15日から、日本人は「自己改革」に向けて歩み始めなければいけなかった。
 だが、それは、食い物につられた「犬」のように、しっぽを振ることに置き換えられ、今でもそれは続いている。政権が代わっても、その「恥ずべき」基本姿勢は変わっていない。
 「その65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き、それを報じているか。新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である」という。まさにそのとおりだ。(明日に続く)