岩木山麓湯段の湿地は貴重
(昨日の続きとして…)
岩木山麓湯段の湿地(ミズバショウ沼)は貴重であり、そのあるがままの景観には歴史的な価値がある。
ミズバショウは山麓の春告げ花であり、それゆえに純白という色彩とあいまって人々に希望と安らぎを与える花である。しかも、沢の流れと伏流による湧水の潤沢さ、つまり自然の豊かさを示す指標としての花でもある。
干潟が自然の指標であるように湿地や湿原もまた自然の指標であり、ミズバショウが毎年咲くことは湿地が正常であり自然のバランスが、豊かな植生が保たれていることを意味している。
しかし、湿地は最近山麓から、次第に見られなくなってきている。黒ん坊沼も舗装道路が通り、周りに畑が出来てからは湿地が減少している。
その中にあっても、湯段谷地はミズバショウを咲かせるので、その優雅な姿をだれもが愛し、楽しんでいるのだ。
しかも、ここは国定公園や県立自然公園の中に位置している。
昔は岩木山麓には湿地が多く純白のミズバショウが沢山咲いていた。ところがスキ-場、林道の設置や畑開墾とそれに伴う伐採が湿地を乾燥させることになり激減した。
一部別荘地として開発されて「湿地」は減少したが、湯段湿地はそれが未だ残存しており、だれもが楽しめるという点で岩木山では稀少な所である。
そこは自然と先人が愛でることで残してくれた貴重な財産的景観である。
守ることが先決であろう。
既に貴重な景観として神社までの松並木や百沢・岳間の松並木の大半を失ってしまってから、多くの労力と資金を使い復元したことを我々は知っている。
なぜ公園造成とか整備という時に、自然的、歴史的なものを壊して赤土を盛り、ラベンダ-を植え、木道や駐車場を作りどこにでもある景観にするのか。
文化観光立県(すでに死語か?)にこの景観は合わない。
地域の特性ある自然や伝統的な文化や景観が個性ある観光資源だろう。無個性、無顔貌などこでも会える「文化」は本来観光となじむものではない。
「ミズバショウ沼」公園は、「農村公園」として位置づけされている。国定公園地域だというのに、わざわざ「農村公園」とは妙な話しではある。「農村公園」の目的の一つに「農村振興」があるのだそうだが、少なくとも、ここを訪れる「来園者」の中に「農民」は珍しい。多くは都市部からの「散策者」である。
農村振興とは農村に暮らし人情や自然の織りなす景観に愛着を持ち、農業に誇りをもてることを行政が保証することではないか。「農村公園」を造ることではない。
また、こういう場所の景観は先人の原風景を大切にすることで維持されるものだろう。
この沼は昔から津軽の人々に親しまれてきた。四季をとおして沼を前景とし岩木山を後景とした構図が多くの人に愛され絵画、版画、写真にと描かれてきた。
春はミズバショウやザゼンソウ、ミツガシワなど、夏は湿原性のミズチドリ、カキラン、水辺にはヒツジグサなど、蛍が飛び交い、秋はクサレダマ、ミソハギなどが咲いていたのである。しかし、ランの仲間はまったく見られなくなっている。
このミズバショウ沼は岩木山を考える会が提案した情報と県、町(旧岩木町)の対応によってあるがままの自然を残したすばらしいものとなった。
湯段谷地ミズバショウ沼に造成される農村公園計画が県と岩木町の理解によって、盛り土部への藤棚やラベンダ-の植栽は中止、建造物は出来るだけ少なくし、木道八ッ橋は規模の縮小及びル-トの一部変更と幅減少、道路も今あるものを使用などに変更された。
その当時は、県と町の「事業アセス」(スキー場開発などにともなう環境アセスメント)などには見られない柔軟な姿勢に、新アセス法の前倒しを感じて感謝したい気持ちでいっぱいになったものだ。
それは、環境アセスというものは、計画が決定した後に行われる事業アセスであり、「アセス時には計画が決まっているので何か問題があるとしても後戻りをしないから」であった。
岩木山を考える会は造成について「沼本来の自然を破壊しないように」県農村振興課へ意見書提出、また県や岩木町との話し合いを持ってきた。
話し合いの場では、植生も在来種で賄うために盛り土跡に植える木種の選定に知恵・意見を提供してほしいなど、環境保護と保全を中心にした点についての要請が本会側にあったのである。
これなどは「自然保護」方向で両者が前進したと考えるべきである。こういう形で「青森県環境計画」が実をなしていくのである。
ところが、昨日のブログに書いたように『青森県「あおもり水辺の郷」事業について「常盤野町会」が本会と協議会を組織したくないとの意向である。』ということは県、市(旧岩木町)、岩木山を考える会三者のこれまでの「ミズバショウ沼」に関わる姿勢を無視することであり、「自然保護」の方向で県、市(旧岩木町)、岩木山を考える会、地元住民を代表する常盤野町会四者で前向きに進めていくことを否定したのである。