岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山麓湯段の湿地(ミズバショウ沼)は貴重

2007-04-30 05:48:09 | Weblog
        
 岩木山麓湯段の湿地は貴重

(昨日の続きとして…)
 岩木山麓湯段の湿地(ミズバショウ沼)は貴重であり、そのあるがままの景観には歴史的な価値がある。
 ミズバショウは山麓の春告げ花であり、それゆえに純白という色彩とあいまって人々に希望と安らぎを与える花である。しかも、沢の流れと伏流による湧水の潤沢さ、つまり自然の豊かさを示す指標としての花でもある。
 干潟が自然の指標であるように湿地や湿原もまた自然の指標であり、ミズバショウが毎年咲くことは湿地が正常であり自然のバランスが、豊かな植生が保たれていることを意味している。
 しかし、湿地は最近山麓から、次第に見られなくなってきている。黒ん坊沼も舗装道路が通り、周りに畑が出来てからは湿地が減少している。
 その中にあっても、湯段谷地はミズバショウを咲かせるので、その優雅な姿をだれもが愛し、楽しんでいるのだ。
 しかも、ここは国定公園や県立自然公園の中に位置している。                             
 昔は岩木山麓には湿地が多く純白のミズバショウが沢山咲いていた。ところがスキ-場、林道の設置や畑開墾とそれに伴う伐採が湿地を乾燥させることになり激減した。
 一部別荘地として開発されて「湿地」は減少したが、湯段湿地はそれが未だ残存しており、だれもが楽しめるという点で岩木山では稀少な所である。
 そこは自然と先人が愛でることで残してくれた貴重な財産的景観である。
守ることが先決であろう。
 既に貴重な景観として神社までの松並木や百沢・岳間の松並木の大半を失ってしまってから、多くの労力と資金を使い復元したことを我々は知っている。
 なぜ公園造成とか整備という時に、自然的、歴史的なものを壊して赤土を盛り、ラベンダ-を植え、木道や駐車場を作りどこにでもある景観にするのか。
 文化観光立県(すでに死語か?)にこの景観は合わない。
 地域の特性ある自然や伝統的な文化や景観が個性ある観光資源だろう。無個性、無顔貌などこでも会える「文化」は本来観光となじむものではない。
 「ミズバショウ沼」公園は、「農村公園」として位置づけされている。国定公園地域だというのに、わざわざ「農村公園」とは妙な話しではある。「農村公園」の目的の一つに「農村振興」があるのだそうだが、少なくとも、ここを訪れる「来園者」の中に「農民」は珍しい。多くは都市部からの「散策者」である。
 農村振興とは農村に暮らし人情や自然の織りなす景観に愛着を持ち、農業に誇りをもてることを行政が保証することではないか。「農村公園」を造ることではない。
 
 また、こういう場所の景観は先人の原風景を大切にすることで維持されるものだろう。                           
 この沼は昔から津軽の人々に親しまれてきた。四季をとおして沼を前景とし岩木山を後景とした構図が多くの人に愛され絵画、版画、写真にと描かれてきた。
 春はミズバショウやザゼンソウ、ミツガシワなど、夏は湿原性のミズチドリ、カキラン、水辺にはヒツジグサなど、蛍が飛び交い、秋はクサレダマ、ミソハギなどが咲いていたのである。しかし、ランの仲間はまったく見られなくなっている。

 このミズバショウ沼は岩木山を考える会が提案した情報と県、町(旧岩木町)の対応によってあるがままの自然を残したすばらしいものとなった。

 湯段谷地ミズバショウ沼に造成される農村公園計画が県と岩木町の理解によって、盛り土部への藤棚やラベンダ-の植栽は中止、建造物は出来るだけ少なくし、木道八ッ橋は規模の縮小及びル-トの一部変更と幅減少、道路も今あるものを使用などに変更された。
 その当時は、県と町の「事業アセス」(スキー場開発などにともなう環境アセスメント)などには見られない柔軟な姿勢に、新アセス法の前倒しを感じて感謝したい気持ちでいっぱいになったものだ。
 それは、環境アセスというものは、計画が決定した後に行われる事業アセスであり、「アセス時には計画が決まっているので何か問題があるとしても後戻りをしないから」であった。
 岩木山を考える会は造成について「沼本来の自然を破壊しないように」県農村振興課へ意見書提出、また県や岩木町との話し合いを持ってきた。
 話し合いの場では、植生も在来種で賄うために盛り土跡に植える木種の選定に知恵・意見を提供してほしいなど、環境保護と保全を中心にした点についての要請が本会側にあったのである。
 これなどは「自然保護」方向で両者が前進したと考えるべきである。こういう形で「青森県環境計画」が実をなしていくのである。
 ところが、昨日のブログに書いたように『青森県「あおもり水辺の郷」事業について「常盤野町会」が本会と協議会を組織したくないとの意向である。』ということは県、市(旧岩木町)、岩木山を考える会三者のこれまでの「ミズバショウ沼」に関わる姿勢を無視することであり、「自然保護」の方向で県、市(旧岩木町)、岩木山を考える会、地元住民を代表する常盤野町会四者で前向きに進めていくことを否定したのである。


「ミズバショウ沼公園」と公園のサクラ (その六)

2007-04-29 07:14:57 | Weblog
「ミズバショウ沼公園」と公園のサクラ (その六)
 新聞やテレビで案内されている岩木山湯段地区にある「ミズバショウ沼公園」(農村公園)に行ってきた。
 ここは本会と岩木町、それに青森県が協議をしながら整備した場所である。本会の意見は基本的に「本来の植生」をそのまま残すことであった。
 結果として、ミズバショウやザゼンソウは定着したし、夏にはゲンジボタルも回復するまでになった。その後、この「ミズバショウ沼公園」の維持・運営に、「自然観察会」や「清掃」、整備として「樹木の名札着け」「刈り払い」などをして、ずっと関わってきている。

 昨年7月、青森県「あおもり水辺の郷」事業としてミズバショウ沼が選定されたことを受けて、本会に青森県「あおもり水辺の郷」事業協議会に参加してほしいとの要請があった。
 そして、協議会発足のための会議を、県農村計画課長、同主査、市岩木支庁商工観光課、市常磐野町会、それに岩木山を考える会が参加して、岩木総合支所で開いた。 
 ところが、8月になってから、『青森県「あおもり水辺の郷」事業について常盤野町会が本会と協議会を組織したくないとの意向である。よって外れてほしい。』旨の連絡が県からあったのである。
 その理由は明らかにされなかったが、担当者の口ぶりから想像するには、町会側はイベント的な、商業的色彩の強い行事をする「場所」にしたいらしく、本会の基本姿勢である本来の「自然」を護り残していくということと「折り合わない」ということのようだった。
 私はとても残念であった。これからの自然保護は、その場所に暮らす生活者としての地元「住民」と相互理解の中で進めていくべきことだと考えていたからである。
 青森県の考え方も、そこにあったらしいのだが、結局はミズバショウ沼を「あおもり水辺の郷」として常盤野町会と本会と協議会を結成して管理・運営していくことにはならなかったのだ。
 やはり、こういう時ほど、行政が間に入って「趣旨」をよく説明して、町会側を説得すべきではないのだろうか。

 ところで、出かけてみて驚いたことがある。そして協議会を結成して町会と一緒に管理していたらこんなことにはならなかっただろうにと思った。
 それは、木道ぞいに植えられている低木樹木の「伐採」である。ただ単に「木道」の歩きやすさだけを狙った行為だろう。
 中には樹木名札をつけたままで伐られているものもある。ミズキやサワフタギなどだ。6月には白い小さな花をつけて、秋には光沢のある薄紫色に輝く実を着けるサワフタギは、木道から至近距離で見ることが出来て、その意味では本当に貴重なのである。名前が示すように「沢をも塞いで(フタイデ)しまうほどの藪」でしか見られないからなのだ。

公園のサクラ (その六)

昨日に続けてまた、サクラについて書こう。

「サクラ」というの名前の由来には次の二つがあると言われている。…

・古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだ。
・さくらの「さ」は穀物の霊を表し「くら」は神霊が鎮座する場所を意味する「さ+くら」で、穀霊の集まるところを表す。
…という二説である。

 桜の開花が農作業の目安の一つになっていたので、いにしえの人々が桜に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではないだろう。どうも後者にその妥当性があるようだ。津軽でも、すでに述べたが、キタコブシを「田打ち桜」と称して、その開花時期にあわせて「田起こし」を始めていたことが知られている。

 桜は昔から、日本に自生していた。そして、人間の活動によって桜はその生息域を広げたのである。人々が「定住生活」を始めた時、人々は森の木を切って生活したのである。明るい陽光が降り注ぎ、水はけのよい土地でなければ生きられない桜は、人々によって桜の生存を阻害していた暗い森から解放されたのである。それまで、桜は森の途切れる辺りとか、土石崩落や雪崩などで森が破壊された場所で人知れず花を咲かせていたのである。
 人々が住み着いた集落に近いところでは、森は明るい雑木林の空間へと変貌をとげていった。桜はそこに進出し人里近くの山々に出現したのである。
 桜は妖精となり、女神となり、精霊となった。いつのまにか人と桜は親密感を増していったのである。こうして、「雑木林の里山」には桜(西日本ではヤマザクラ、北日本ではオオヤマザクラ)があるという日本の原風景ができあがったのである。
 残念ながら、弘前では里山がりんご園になってしまい「雑木林の里山には桜」という「原風景」は少なくなってしまった。
 何を隠そう。弘前公園もかつては「里山」であったのだ。

 万葉の歌人たちが、また平安の王朝貴族が愛した桜は、「貴人たちの趣味」としてそこにあったのではなく、はるか昔に形成されたこの「原風景」に根ざしていたのであろうと考えると、庶民としての私はなぜかしら救われる気持ちになる。
 (「公園のサクラ」については今日で終わりとなる。)

公園のサクラ (その五)

2007-04-28 04:54:18 | Weblog
公園のサクラ (その五)

 今日は日本を代表する二種類の桜、「ソメイヨシノ」「ヤマザクラ」の特徴から書くことにする。

染井吉野「ソメイヨシノ」の特徴
 霞かと見まがうばかりに、まさに春爛漫と咲く。花の数が多く、しかも若葉の前に花をつけ、若葉なしに満開を迎えるから、花一色になる。一つ一つの花も大きく立派である。
木の成長も速く、十年もしないうちに花を咲かせる。増殖は挿し木、接ぎ木ですむ。
 花の寿命は短い。受粉・結実しないので命を惜しまず一気に散り果て、その散り方は絢爛たる花吹雪となる。
 私はその散り方の潔さに感心するが、一方で「死に急ぐ花」に「凄惨」さと哀れさを感ずる。

山桜「ヤマザクラ」の特徴
 清楚であるが、凛とした華やかさも備えている。ある人は「源氏物語の紫の上に通ずる気品を備えている」と言う。
花の色は白いが淡い。昔はその淡い色を「桜色」といった。葉と花がほとんど同時に出て開き、幼葉は赤みがかっている。その葉の色と花の色との対比が美しい。
 花の寿命は長い。実を残さなければならない山桜は、花の「命」を惜しむ。
散り方はのどかで、「自分の命を惜しむ」ように散るので、見る人に「惜しまれながら散る」花といっていい。
 私には万葉の時代や古今集の世界で詠じられた「花:桜(さくら)」には古人の「散るを惜しむ」という心情があふれているように思える。

 さて、サクラ王国日本だが、日本で一番早く咲く桜は、沖縄県石垣島のヒカンザクラで一月上旬、桜前線はここからスタートする。そして、桜前線は半年以上かけて日本列島を北に向かって移動する。
 ところで、日本で一番遅い花見が行なわれる場所は、北海道東川町旭岳温泉で標高1200mほどの場所に千島桜があるのだそうだ。
「桜前線は半年以上かけて日本列島を移動する」とされているが、これはあくまでも「平地」の場合である。「高地」である山岳地帯に咲く「高嶺桜・別名ミネザクラ」は残雪の消え方次第で、7月まで咲いている。岩木山の場合は遅ければ八月上旬でも咲いていることがある。これは寒冷地の雪や風に耐えるため成長してもあまり背が高くならない。

 次に「陸奥新報」に約3年間掲載した「岩木山の花々」の中から、「ミネザクラ」についての記載を紹介しよう。

ミネザクラ、それは「厳しい自然に与する恬淡と忍従の美」。
          
『 平安の昔から、いにしえ人は桜をひと言の「花」と呼んでいた。それほど桜への思いが強かったのだろう。他はたとえば、橘の花という呼び方をしていたようだ。
 いにしえ人の常識からすれば、このシリーズも「岩木山の花々」でよかったのだ。もしも「岩木山の花」であれば、ミネザクラとヤマザクラ程度で終わらなければいけなかったかも知れないからである。

 6月中旬、岩鬼山の北西にある雪田を辿り、赤倉御殿の祠には寄らないで赤倉尾根の残雪帯に降り立った。尾根の南面には残雪が長く延びていた。平行して濃い緑のコメツガ(米栂)が連なる。
 ふと、左前方に淡い黄緑と桃色の華やぎが浮かんだ。会えることは解っていたのだが探していた。駆け降りてじっくりと眺める。

 濃い緑、苔むす木肌、黒灰色の幹のコメツガに囲まれたミネザクラは見事だ。
 そこだけが特に暖かく、すがすがしい香りを漂わせている。息をしている。心が躍った。花の一輪に葉の一枚に個性が感じられた。場所を考え、ひねこびた幹を見た時、私はそこに厳しい自然に与(くみ)する長い忍従の生い立ちを発見した。

 和辻哲郎は、日本人の気質を桜の花の「急激に慌ただしく、華やかに咲きそろうが、執拗に咲き続けるのではない。慌ただしく恬淡(てんたん)に散り去る」ことで象徴した。 里の桜(ソメイヨシノ)は確かにそうである。桜の咲く頃は天気が短い周期で変化する。花冷えや花曇りという寒、晴れた日の暖、さらに低気圧の接近に伴い強風も吹く。里の桜はこの天気にしたがい、一斉に咲いては忙しく散っていく。

 山の桜は標高と積雪の融け具合で、咲いたり散ったりする時期が微妙にずれていく。そして、それを順次継続していくから、里の桜とは違って、けっこう執拗な花と言える。』

 今日から「大型連休」が始まった。天気予報によると、この連休中は日本列島を高気圧と低気圧が交互に通過するらしく、暖かい日、寒い日、風の強い日とお天気は短い周期で変化するようだ。
 公園のサクラもあと数日で「満開」となり、そして強風とともに慌ただしく散っていくだろう。

岩木山大沢上部に大きな亀裂、全層雪崩の発生か。公園のサクラ (その四)

2007-04-27 05:40:57 | Weblog
 昨日、東奥日報弘前支社の編集部長から、「岩木山大沢上部に大きな亀裂」ということで問い合わせがあった。
 
「岩木山大沢上部」という場所は左岸だろうが右岸だろうが雪崩発生の常習地帯である。
 
 古くは1976年四月初旬に、鳥海尾根で全層雪崩が発生して焼止り小屋が全壊し、デブリは下方600メートルに達していた。
 それから10年目の1986年1月には種蒔苗代で雪崩のため四名が死亡、その4月には土石流に近い形態と大規模な雪崩が、鳥海の尾根で発生した。
 1999年4月20日から21日にかけて大沢上部左岸で発生した全層雪崩は、高位置を起点としたため距離では、前二者を凌ぐものであった。
 この雪崩発生の起点となった雪層の「亀裂」を、私は3月7日に確認していたが、「安全を確保するべき側」が危険と考え「その場所に近づかないこと」を勧告したのは4月18日であり、その2日後に雪崩は起きてしまった。勧告が遅いのである。今回の勧告も早くはない。
 また、焼け止り小屋より上部の大沢右岸(鳥海斜面)では2003年4月22日に全層雪崩が発生している。
 全層雪崩は表層雪崩と違い、地表部の積雪が全層で流れるものだ。エネルギーは破壊的で爆発的であり、重い。雪層が土石流のように大規模にローリングしながら、根曲がり竹を根こそぎ剥離しながら流れる。

 今季の積雪状態から考えると、雪庇崩落等による雪崩は少ないだろう。また、今季は季節風の吹き出しが弱かった所為(せい)もあり、西から東に向かって下る沢斜面での雪崩の発生回数も少ないと思われる。
 その代わり、南面ないし南東面に開けた尾根では底雪崩(全層雪崩)の発生は十分予想されるし、これまで発生したことのない斜面でも発生する可能性も十分あるだろう。
 スキーヤーに人気が高い大黒沢コースの上部には雪層の剥離跡とデブリ、それに亀裂はそれほどないが、しかし、コースとして下る大黒沢両岸の雪庇崩落は確実にあるだろう。十分気をつけてほしいものである。

次は昨日に引き続いて…

公園のサクラ (その四)について書くことにする。

弘前市やその近郊では、自生する「種」としての「山桜」は見ることが出来ない。何しろ、咲くエリアが関西を中心とする西日本だからである。
 しかし、「オオヤマザクラ・大山桜」(ピンクで色が濃い。)は結構、自生しているので、春霞に煙る遠望の山影にピンクの色合いを探すことは可能である。しかし、山に咲いている桜という意味で山に自生しているすべての桜を「ヤマザクラ」と称する人は多い。

 ところで、岩木山に自生している桜としては次のものを確認している。

・ミネザクラ「峰桜」(タカネザクラ「高嶺桜」):標高1400㍍よりも上の場所に生息しているので残雪の消え方次第で早くも遅くもなる。六月の上旬ごろから七月上旬近くまで会える。遅い記録は八月上旬である。
・オオヤマザクラ「大山桜」(エゾヤマザクラ「蝦夷山桜」):ピンクで色が濃い。
※参考※
 ・岩木山環状道路(ネックレスロード)沿いに植樹されたオオヤマザクラはなぜ問題なのか…自然のこれは密植ではないこと、多量の果実の落下による土の過栄養、鳥や昆虫の集中などによって、これまでの生態系のバランスが壊れてしまい、最後は互いに枯渇してしまうからである。
 ・ネックレスロードという名称について…首が短い上に太いものを猪首または猪の首という。この名称は「猪首の女性がピンクのネックレスを着けていることをイメージ」させないだろうか。そうイメージすると決して美しいとは言えない。美意識に欠けた命名としか言いようがない。
・カスミザクラ「霞桜」:白色~淡紅色で一重咲きである。北海道・本州・四国に分布する野生種。
・オクチョウジザクラ「奥丁字桜」:小高木。花は白色または淡紅色で花柱はほぼ無毛。、果実は黒く熟する。日本海側の積雪適応種で背丈は低く幹や枝がよくねばる。
・チシマザクラ「千島桜」:タカネザクラの葉や花柄、萼に毛が生えたものを千島桜と呼ぶ。
・ウワミズザクラ「上溝桜」:長さ 6 ~ 8 cmの総状花序を出し白い 5 弁のちいさな花をたくさんつける。総状花序の下に葉がついている。
・タウチザク「田打ち桜」:モクレン科の辛夷(コブシ)の仲間で桜ではない。津軽地方では田打ち桜と呼ぶ。日本海側にのみ生育しているものを「北辛夷」という。
 タムシバに似ているが、花の下に小葉があるので見間違うことはない。

                        (次回に続く)

弘前公園のサクラ (その三)と明鏡欄

2007-04-26 06:18:37 | Weblog
 「花」三昧の一日。公園のサクラ (その三)

 4月24日に東奥日報夕刊の明鏡欄に私の投稿「岩木山信仰と公園の有料化」が掲載された。ところが、私の氏名が「三浦章男」でなく「三浦彰男」となっていた。数名の知り合いから、「名前が間違っていたよ。」と連絡を受けた。
 前回は14日であったが、氏名は間違いなく「三浦章男」となっていたのに、どうしたことだろう。
 匿名を可とする明鏡欄に実名で投稿していることには、それなりの「理由」がある。勝手に「匿名」にされてはかなわない思いだ。
 次のものもすでに送付済みでテーマは「里山自然の回復と有料化」である。
 本ホームページ管理人の葛西さんが昨日、ひょっこり訪ねてきた。肥料のことで弘前に用事があったので「元気でいるかどうか、顔を見に来た。」と言う。嬉しかった。つがる市議会議員選挙の話しをして、短時間で「慌ただしく」帰って行った。
 今、水田農家にとっては寸暇を惜しむほどに多忙な時、ゆっくりはしていられない。もう少し話したかったがやむを得ない。


 公園のサクラ (その二)の続き…

「ソメイヨシノ」の片方の親が「彼岸桜・ヒガンザクラ」であり、もう一方の親は、南伊豆に自生している「大島桜・オオシマザクラ」であるとされている。これは山桜の南方適応型の変異種で純白の花を咲かせる。

 染井吉野の「ソメイヨシノ」は花は咲くが「果実」をつけない。何という不埒でふとどきな樹木であろう。散り終えた後は、のんきに約11ヶ月ほどの長い長い「休眠」状態を過ごすのである。
 だが、クローンであるから繁殖も容易、つまり苗木にすることが簡単で、それゆえに苗木が安く、10年程度で花をつけるというメリットはある。
 恐らく、この経済的な合理性とどこでも同一環境ならば育ち、花を咲かせるという画一性が国民(行政や企業かも知れない)に受けたから、あそこにもここにもある花になったのだろう。
 桜は日本の「国花」である。北半球の温帯に広く分布しているが、美しい花を咲かせる種類は、日本を中心としたアジア諸国にだけある。植物学的には、「バラ科サクラ亜科サクラ属」に属し、リンゴもこの仲間である。
 しかし、「国花」を決定する時の思想的な根拠としては「ソメイヨシノ」はその対象にはなっていなかった。今や「ソメイヨシノ」は国民的な花であるが「国花」ではなかったのである。

 日本に自生する野生の桜は、西日本の山桜・ヤマザクラと東日本の彼岸桜・ヒガンザクラと北日本の蝦夷山桜(大山桜)・エゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)だ。南伊豆の大島桜・オオシマザクラも自生しているが、これは山桜の変異種である。
 しかし、それらが自然交配したり人口交配で今や三百種ほどの園芸種があると言われている。「ソメイヨシノ」はその中の一種類に過ぎない。

それでは「国花」としてのサクラは何を指すのか。それは「山桜・ヤマザクラ」である。
 日本の代表的な桜で山地に広く自生していて、奈良県の吉野山は昔からヤマザクラの名所として有名である。
 自生種、野生の桜をひとくくりにして「山桜」と呼び、人の手になる園芸種を「里桜」と総称している。「山桜」という呼称は、彼岸桜や大島桜なども含めたすべての自生種を指すと同時に、その中のひとつである「西日本の山桜」に限って使われる時もある。ここでは「西日本の山桜」であり「山桜・ヤマザクラ」という種を指すものだ。
昨日のブログに登場した和歌や俳句で詠じられた「サクラ」も、ここで言う「ヤマザクラ」である。このように、万葉集や源氏物語等の古典・詩歌に登場する花(桜)は、そのすべてが「ヤマザクラ」なのだ。「ソメイヨシノ」ではない。

 「山桜・ヤマザクラ」は、かつて「国花」から「愛国心の象徴」とされた花である。
 その源は本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌にある。これは「散りぎわ」(決死)のいさぎよさを賛美した歌だ。
「敷島の」は「大和」にかかる枕詞であり、神風特攻隊の最初の四部隊が、この歌から「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられたことは有名である。
 戦前の軍国思想はこの「花のイメージ」を、国のために「散るべし」と特に男子に、押しつけたのである。

 また、戦時中、渡辺はま子は「愛国の花」として、
…「真白き富士の気高さを心の強い盾として御国(みくに)につくす女等(おみなら)は輝く御代(みよ)の山桜地に咲き匂う国の花」と国を守る銃後の日本女性を歌った。
 私のNHK弘前文化センター講座で、70代と思われる女性受講生が、この歌を大きな声で、しかも一字一句間違いなく歌ってくれたのには驚いた。
 その受講生は歌い終わった後で、「大変な時代でした。」とぽつりと言った。


昨日は「花」三昧の一日だった。 公園のサクラ (その二)

2007-04-25 09:37:56 | Weblog
 昨日は「花」三昧の一日だった。公園のサクラ (その二)

 万葉集の時代にも桜は人々に愛されていたようで、四十五首も登場する。

・あしひきの山桜花日並(なら)べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(万葉集巻八・山部赤人)
「もしも山の桜が何日も咲いているのだったら、こんなに恋しいとは思わないでしょうに。」とでも訳されようか。
・春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも (万葉集巻十・読み人知らず)
「春雨(はるさめ)よ、はげしく降らないで。桜の花をまだみていないのに、散ってしまったら惜しいことです。」となろうか。
また、古今和歌集には、つとに有名な…
・世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)
・ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(紀 友則)
…などがある。これらは解釈不要だろう。
サクラのことを万葉の時代は「山桜」とか「桜花」と呼んでいたが、平安の御代になると「桜」または、ひと言の「花」と呼ぶようになった。
 数え切れないほどある花の総称である「花」をもって「桜」としたのである。それほど桜への思いが強かったのだろう。他はたとえば、橘の花という呼び方をしていたのである。

 春を待つ、桜を今咲くか今咲くかと待つ。その落ち着かない心。そして忙しく散っていく花、それにまた落ち着かないでいる心は、昔も今も変わらない日本人の心である。
 ぱっと咲いてぱっと散る、その散り際の美しさ、はかなさも、日本人の心にひときわ響くようだ。桜の咲く時季は、新しいことに向かって人やものごとが動き出す季節。春が来たことを喜びながらも、散っていく桜には、なんだか切ない気分にさせられる。
 だが、ここに登場しているサクラは弘前公園に2500本以上もあるとされる「ソメイヨシノ」ではない。
 与謝蕪村の「山守の冷飯寒きさくらかな」という俳句もまた「ソメイヨシノ」を吟じたものではない。 

 「ソメイヨシノ」は漢字で「染井吉野」と書く。そのの歴史は新しく、幕末維新のころに登場した。サクラの世界ではまだ「青二才のひよこ」である。江戸の豊島郡、今の巣鴨あたりにあった染井村の植木屋が作ったものだ。命名は「染井村で産した、有名な吉野山の桜」ということだろう。
 この「ソメイヨシノ」は花を咲かせるが実をつけない。だから、花が終わると来年の花芽はすぐに「休眠」に入る。生命体にとって命がけである「子孫残し」を割愛して、そのエネルギーをすべて「咲いて散る」ことに傾注する。これが「ソメイヨシノ」である。
 「果実をつけない」というが、一本の木に数は少ないが一つ二つと実をつけているものも中にはある。定かではないが、これは何らかの理由で「他種の桜」と受粉して結実したものであろう。しかし、これはあくまでも「不妊」と同じで、その実(種)からは芽が出ないはずである。

その果実をつけず「種子」を残さない「ソメイヨシノ」は今や、全国のサクラの80%を占めているといわれている。
 80%を占めるに至ったのは戦前よりむしろ戦後だという。高度経済成長、列島改造論で地面は掘り返され、河川敷や公園や沿道には桜が植えられたことに因るのだそうだ。
 その意味では弘前公園のサクラも、どこにでもある大して「珍しくもない」戦後生まれのサクラということになるだろう。

 それでは、種をつけない「ソメイヨシノ」はどうして「増えていく」のだろうか。
「ソメイヨシノ」はすべて江戸時代末に染井村の植木屋が作った原木の「クローン」である。枝を切り取り、「接ぎ木」や「挿し木」で増やしていくのだ。「取り木」でも増えるかも知れないが、私はその道の専門家でないので詳しくは解らない。

 あまり当たらないが、気象庁は「桜の開花予報」を出している。
これは「ソメイヨシノ」の特性が「原木のコピー」なので同じ環境ならば「同時に咲く」ということに因っている。
 つまり、南に位置するAという気象的な環境と北に位置するBという場所の気象的な環境や条件が同じになると、「Bでも咲き出す」と予想して「開花予報」をしているのである。
ところが、「植物」はそんなに単純で単調なものではないし、「地域」的に見ても千差万別で「単一、同一化」という物差しは反故(ほご)になることが多い。「植物」も「地域」もみな、個性的で独創的な顔貌と特性を持っているものだ。
地域の個性や特性を無視し、気象庁などからの情報を鵜呑みにしてしまうから、弘前市の開花予想も外れに外れ、3回目を出すに及んだのだ。

                (このシリーズは、明日に続きます。)

昨日は「花」三昧の一日だった。(その一) 公園のサクラ

2007-04-24 09:38:04 | Weblog
 昨日は「花」三昧の一日だった。まずはサクラである。次いでナニワズ、ミスミソウ、そして最後が、キュウリグサという次第だった。

 毎月第二と第四月曜日は「NHK弘前文化センター」で、「山野・路傍の花々を愛でる」という講座を開いている。
 別に開花にあわせたわけではないが「サクラ」が主題だった。サクラといえば「弘前公園」ということで、講座の導入部で次のような話しをした。
 今日はそのことについて書こう。
 まず、いつごろからサクラが植栽されたのかその歴史について簡単な説明とそれに関わる私のエピソードなどから入った。

 五代藩主、信寿(のぶひさ)の時代、1715年(正徳5年)京都から桜の苗木25本を持ち込んで城内に植栽したという記録があるというから、公園のサクラの歴史はここから始まったといっていい。
 その後1882年(明治15年)菊池楯衛(弘前のリンゴ栽培の祖といわれる人物)がソメイヨシノ1000本植栽している。
 1895年(明治28年)に弘前公園が開園しているが、ソメイヨシノは大体10年ほどで花を咲かせるから、この頃から「サクラと弘前公園」の関係が始まったのだろう。
さらに、1901年から1903年(明治34~36年)にかけてソメイヨシノ1000本を植栽している。
 その後、約80年の間にシダレザクラ、ヤエベニシダレ、昭和桜、八重桜などが植栽されている。
 また、その間の1956年(昭和31年)福士忠吉がソメイヨシノ1300本寄付している。
1989年、鷹揚園(弘前公園)が都市公園100選に選ばれ、昨年の2006年、弘前公園が日本の歴史公園100選に選ばれている。
 弘前市は弘前公園が「都市公園」とか「歴史公園」に選定されることを望んでいたわけある。これだと「自然公園的な要素」つまり、里山的な風情が年次的に減少する「整備」をするのは当たり前である。
 しかし、厳密には「サクラ」というバラ科の樹木は、他の多くの植物(草や木)と共存することで生命力を旺盛にしていくものなのである。「都市公園」や「歴史公園」に偏るとこの視点を見失ってしまうというものだ。

 今から30年ほど前、市民の間では「公園のサクラは5000本とか、いや6000本ある」ということが常識的に語られており、誰も疑念を持たなかった。私もその一人であった。
私の趣味の一つに「アマチュア無線」がある。
外国局との交信が主であって、外国との交信局数も約40,000局に達した。始めたころは無線「電話」が主体で、春になると交信内容が「弘前公園のサクラ紹介」であった。
 その中で「弘前市民はすばらしい公園を持っている。そこには約6,000本のサクラの木があり、毎年4月下旬から5月のはじめにかけて美しい日本一の花を咲かせる。日本一ということは世界一だろう。」というアナウンスを下手な英語やドイツ語、スペイン語で「胸を張って」したものである。
 ところが実際は2,500本から3,000本しかなかったというのだから大変な話しである。私は胸を張って「ウソ」と「誇大広告」を外国に向けてしていたことになる。私と交信をしたアメリカ人、イギリス人、ドイツ人の何人かは、その後、実際に弘前を訪れている。
 幸いにも彼らは「公園」のサクラの本数を数えてはいなかった。よかった。

 (30年続けたアマチュア無線は自分で設備のメンテナンスが出来なくなったので、2年前にやめて、無線局も閉局した。最初の10年間は無線「電話」での交信だったが、残りの20年間は無線「電信」での交信が中心となっていた。)

弘前市議会議員選挙について 岩木、相馬から8人当選

2007-04-23 08:04:22 | Weblog
 昨日の弘前市市会議員選挙で10人が落選した。現職7人、新人3人である。

 19日のブログで『前議員(1名の無所属議員と共産党議員、それに合併によって市議となった旧相馬村と岩木町の議員は除く)で立候補している人に言いたい。あなた方が無批判に追随しながら、支持してきた金澤前市長は、昨年4月に市民から「否定・拒否」されたのである。ということは、それを支持してきたあなた方も「否定・拒否」されたことを意味しているのである。あなた方は前市政の「市税の無駄遣い、弘前の歴史的な町並みの破壊、地元以外の資本による弘前市商店街の停滞、公園有料化」などに手を貸して、それらを推進してきたからである。』と書いた。

 落選したのは現職7人、新人3人であるが現職の中には旧岩木町からの候補者もいたので、残念ながら前議員の当選比率は高かった。
 ということは市民は前金澤市政に追随した議員でも現相馬市政に従順であれば「許す」ということなのだろうか。どうしても納得がいかない。

 まあ、いい。旧岩木町からは8人が立候補して5人の当選、相馬村からは3人立候補して全員当選した。地縁的な人口比率からすれば、全員落選という図式も描かれかねなかったが、合計8人の当選はすばらしいことである。

 これは、合併によって「旧弘前市に飲み込まれ、画一化・合理化されないように「地域性」を取り戻し、独自の文化や伝統と自然を守り、育てていくという意思表示であり、「合併」に対する強い抗(あらが)いであり、合併後、喪失しかかっている岩木町、相馬村が持っていた個性回帰への端緒であると受けとめたい。
 つまりは、「多くの市民が合併の持つ理不尽さと不合理性を認め、吸収された側の視点で、しかも暖かく迎える気持ちで投票行動に参加した」のだと理解している。
  
 かつて「弘前公園入場有料化」に対して「我が町の象徴である岩木山を弘前市は本丸から見せてお金を取っている。許されることではない。」と言っていた岩木町から立候補したT氏も当選した。

 岩木山を考える会が実施した「弥生地区自然体験型拠点施設建設計画」跡地の自然観察会に参加し、さらに『「弥生」跡地を今後どうするか』市民集会のパネラーとして協力を戴き、その時「あるがままの自然を大切にして岩木山を守りたい」と語ってくれた竹谷マツ子氏も当選した。自然に対する慈しみを市政にどんどん反映させてくれることを期待している。
なお、「弥生地区自然体験型拠点施設建設計画」跡地の自然観察会には竹谷マツ子氏の他に当選した工藤栄弥氏、松橋たけし氏、県議に転出した日本共産党の安藤氏が参加した。

 相馬村からは「弘前市に吸収される合併」に反対し、真の対等合併として「岩木町、相馬村、西目屋村」の合併を主張した三上直樹氏が当選した。
 三上氏は相馬村議会が弘前市との合併を了承したことを受けて、「私は弘前市との合併に反対しているのだから、合併後に弘前市議会議員になることはすじがとおらない。」と言って議員を辞めた人である。
 何と、潔いことではないか。損得的な価値判断よりも、論理的な誠意で、善的な動機で行動する新しい人、若い人、相馬村を愛しながらも一方で客観的に弘前を捉えることが出来る人である。

 また、相馬村からは栗形昭一氏も当選した。陸奥新報のシリーズ記事の取材で岩木山に同行した時が最初の出会いだった。
 その後、岩木山を考える会主催の写真展「私の岩木山」に来場して「楽しそうに写し、楽しそうに展示し、本当にみんなの(私の岩木山)写真展だ。普通の写真展では見られないユニークなもの。いいですね。」と語ってくれた。市民の目で文化を語り、優しい目で市民に接することが出来る人であろう。これからの文化行政での活躍を期待したい。

「損得ではなく善悪で考え行動する」を約束の第一番に掲げた今泉昌一氏も当選した。この約束は、今泉氏の人となりを端的に示すものだ。全人格的に善から発する素朴さと正直さと優しさを感じさせる人である。
 この愚直な人が政治に関心を持ち、市議選に出て市会議員になろうと決意したこと自体が現市議会の「混迷と停滞・市民不在」であることの証左であろう。
 弘前市の行政に優しさを感ずる市民は何人いるだろう。この思いを持つ者は彼に共感し共鳴したであろう。多数決とは非情なものである。少数を排除する。彼にはそれが我慢ならないのである。少数でも「善」は認められるべきである。
 彼は市民の痛みが解る人であり、そして、行動基準として常に「善」を置く人である。民主主義は「善」を信ずることから始まり、「善」を基準的な価値として行使されることで存在する。
 だが、一面では非情に弱いものだ。別な価値基準のもとで動いたり、「善」を軽視するような風潮や行動が蔓延している弘前市議会に真の民主主義を取り戻してくれる人、数の論理による損や得という価値観で行動しない人、今泉昌一氏の当選は嬉しい。
 
 日本共産党の石田久氏が8位という高位で当選した。彼とは居住学区が同じである。彼の活動は常に「住民本位」である。このような人が高位で選ばれることは市民の目は節穴ではないということだろう。
 市政として「行われていること、または行われようとすること」を「よく見える」ようにすることが「住民本位」ということであろう。民主主義の一番大事なことは住民がそのプロセスに深く関わりながら結論に達するという点にある以上、石田氏の日常活動はまさに民主的なのである。
 だが、共産党に対する世間の受け止め方は、いまだに「異質」というフィルター越しである。これはおかしい。民主主義とは側面として「質の違いをお互いに認め合い、共有する」ことで成り立つものだ。

「個性」とは個々人の「異質」のことである。個性尊重という時、そこには「お互いがお互いの異質感を認め合うこと、異質を排除しない」という約束事がなければいけない。
 個性を持って生きることは人間の基本的な権利であり、市議会も速やかに個性尊重の場へ、排除の論理から議論優先の場へと変革されねばならないだろう。

 このブログに登場した各氏の「住民本位」である連携的な活動を期待する。
 



弘前市議会議員選挙公報を見て(その二の二 なぜ多い・岩木町からの立候補)

2007-04-22 04:54:00 | Weblog
なぜ多い・岩木町からの立候補

今日は市議会議員選挙の投票日である。投票に出かける前に今一度、次のことを考えてほしいのである。

 合併(吸収されて)して、岩木町は長いこと岩木町の住民に親しまれてきた全国的なネームバリューを持つ『岩木山のある町、岩木町』というキャッチフレーズも、愛されてきた岩木山特産種である「ミチノクコザクラ」の町章もすべて失った。取り返しのつかない喪失感に町民は苛(さいな)まれただろう。
 岩木山が大好きな私にとっても『岩木山のある町、岩木町』というキャッチフレーズと岩木山特産種である「ミチノクコザクラ」の町章が日本から消えたことへの喪失感は否めなかった。
合併にともなうこれらは何も町民の一人一人が望んだことではない。有無を言わせない「国策」まがいの大きな力がそうさせたのである。

 茨城県勝田市(人口11万5千人)と那珂湊市(人口3万3千人)とが合併して「ひたちなか市」ができて、旧那珂湊市役所は総合支所となった。これと同じように賀田地区にあった岩木町役場は岩木総合支所となった。
 「ひたちなか市」の那珂湊総合支所の職員数は合併時には242人であったそうだが8年後には21人に激減したという。おそらく岩木総合支所も、近い将来にそうなるだろう。職員数が大きく減れば、住民サービスが低下するのは明白である。旧岩木町の住民はそのことを、予期し、深く憂いているのだろう。
 また、以前に弘前市と合併した東目屋村にある弘前市東目屋出張所にはわずか4名の職員しかいないということも知っているのだ。
 そのことを見越してかも知れないが、弘前市は「教育委員会事務局」を岩木総合支所に移転させた。しかし、これも本来の岩木町役場の総合的な機能から見れば、単なる見せかけでしかない。姑息というものだ。

 岩木町と相馬村から立候補している人は、それぞれの居住地域の個性や特性を背負って、これからの市議会活動でイニシアチブを執りたいのである。
 案外、旧弘前市民が見落としている客観的な視点を彼らは持っているかも知れない。
 岩木町では、合併前から「弘前公園入場有料化」に対する反対や批判が根強かった。
それは「我が町の象徴である岩木山を弘前市は本丸から見せてお金を取っている。許されることではない。」という町民の発言からも分かることだ。
 これは「拝観料的入場料徴収に対する羨望」ではない。対価を超えた崇高な存在である岩木山を拝ませて金を取るということが許せないのだ。
 この発言には、岩木山を金銭の対象とした弘前市の冒涜的な行為に対する憤りが籠もっている。岩木山を誰にも売り渡したくないという深い愛情の吐露だ。

 これも旧弘前市民が見落としている客観的な視点であろう。

 合併して弘前市の人口は多くなった。多くなると個々の住民は、ますます「自分なんか発言してもどうにもならないだろう。」という諦めを抱くようになる。これが逆に「行政的な圧力」となり、地域住民の独自性を奪って無顔貌・無個性な市民の創出につながっていく。
 これは多様性を根底に置く民主的な自治体とは相反するものだ。個性を持って生きることは基本的人権の何ものでもない。
ひょっとしたら、岩木町と相馬村からの立候補者は『「自分なんか発言してもどうにもならないだろう。」という諦めを持ってはいけない。その発言を私たちが代弁しましょう。』と考えているのかも知れないのだ。
 そうだとしたら、それこそ民主主義の市政につながることで、歓迎すべきことである。

 非常に残念なことだが、公報の中には「弘前公園入場有料化完全撤廃」を主張する候補者はいなかった。
 何人かの候補者に確認したところ「スペースの関係で書けなかった。しかし、入場有料化撤廃を考えているし、無料であることが本来の姿だ。今後、議会で主張していく。」と答えてくれた人もいた。
 ここで、候補者名を出せないのが残念だが、私はその人に、今日投票する。

弘前市議会議員選挙公報を見て(その二の一 なぜ多い・岩木町からの立候補)

2007-04-21 04:18:01 | Weblog
なぜ多い・岩木町からの立候補

 なぜか、旧岩木町からの立候補者が多い。何と8名が立候補している。旧相馬村からは3名である。
 民主的な選挙というものは、出来るだけ「地縁・血縁」などという要素の少ない形が望ましいと考えてきた。ところが、「旧岩木町からの立候補者が多い」という事実に出会って少し考え方を変えなければいけないと感じ始めている。
 旧岩木町の人口比率から「地縁・血縁」を基準に考えると、立候補している8人全員の当選はおぼつかないだろう。悪くいけば全員落選かも知れない。その危惧的な思いは候補者全員が持っているだろう。
 では、なぜに落選というリスクを抱えながらも立候補したのであろう。

「旧岩木町からの立候補者が多い」という事実は、その背景に「合併」という事情があるのではと考えたからである。

 1年前の「合併」は「対等合併」であるとされて進められた。しかし、その実は弘前市が「岩木町と相馬村」を飲み込んでしまう「吸収合併」であった。
 合併論議が起きた時から、旧弘前市民の大半は無頓着だった。「吸収合併」される自治体住民の精神的な苦痛や苦悩を真剣に理解しようとする動きは皆無だった。吸収される側に立ってこの問題を受け止めた市民は殆どいなかった。
 民主主義の一番大事なことは、住民がそのプロセスに深く関わりながら結論に達するという点にある。旧弘前市民はこの点で民主主義を踏みにじったと言えるだろう。

「合併」は居住する住民を地域的、心情的にも画一化することであり、住民を共通の部品にすることでる。画一化と部品化はその根底に「合理化」を内在させている。
 岩木町や相馬村の住民は「対等」な合併だと言われても、弘前市に飲み込まれてしまう「吸収合併」であることを知っていた。
 そして、「合併」後に訪れる「画一化」と「合理化」の恐怖に怯えた。さらに、「地域性」の喪失に対する寂しさを恐れ、各町村独自の歴史的な有形・無形の文化や伝統、および自然は次第に廃れていくことにやり場のない寂しさと怒りを覚えたのである。
 さらに、行政的な「合理化」は時短、簡便、少経費などを生み出し、行政サービス低下と住民の自己奉仕と自己支出に拍車をかけるであろうことを危惧したのである。

 昨年の六月、八甲田山に登った。大岳ヒュッテの手前で、雲海に浮かぶすばらしい岩木山を見た。
 私の前を登っていた女性の二人連れも立ち止まってその「岩木山」を眺めて、「あつ、おらほの岩木山だ。…ばって、もうそうでなぐなったんだ。」と呟いた。
 私にはその呟きが、この上ないほどに「悲しく、寂しく、悔しい」韻を含んでいるように聞こえた。
「きれいですね、岩木山。ひょっとしてあなた方は、岩木町の方ですか。」と問いかける私に、二人は「はい、そうです。」とだけ応じ、「弘前市」という固有名詞は最後まで出てこなかった。
住民と地域の個性を剥奪し、独自の地域的な文化・習俗をも衰退させ、同一の価値で縛ることになる「合併」に、強く抗(あらが)っているようにも見受けられたのである。

 岩木町や相馬村から多数の立候補者が出たということは、「旧弘前市に飲み込まれまい」とする証しであろう。画一化や合理化に反対し、「地域性」を取り戻し、独自の文化や伝統と自然を守り、育てていくという意思表示ではないだろうか。そして、何よりも、八甲田山で出会った女性のように「合併」に対する強い抗(あらが)いの表出であるだろうし、合併後、喪失しかかっている岩木町、相馬村が持っていた個性回帰への挑戦だろう。

 旧弘前市の住民は以上のことをよく考えて、吸収された側の視点で、しかも暖かく迎える気持ちで投票行動に参加してほしいものである。

弘前市議会議員選挙公報を見て (その一)

2007-04-20 05:01:41 | Weblog
弘前市議会議員選挙公報を見て(その一)

 弘前市議会議員選挙公報を見て思った。
前市議で立候補している者は、おしなべて「経験」を、どこかで主張している。
 それは、略歴や経歴の中で触れられているし、はっきりと「○期○年の経験を…」と言っている者もいる。 

 相馬市長が誕生した時に、朝日新聞は見出しで「弘前市長選・旧市長への批判票結集」と報じた。
 これは反金澤候補三人の得票数は有効投票数83、748票中54、864票であり、得票率は66%となった事実を語っている。それは、実際に、市民の七割近い人々が金澤市政に批判票を投じたことであった。
前市議の大半(1名の無所属議員と共産党議員、それに合併によって市議となった旧相馬村と岩木町の議員は除く)は、その金澤市政に追随していた。世間的には社会的な革新を標榜していると認識されている政党議員までが、金澤前市長にべったりだったことはかえすがえすも残念である。
相馬市長の誕生は、市民が金澤市政の推し進めてきた行政的な事業および根本理念の転換と金澤市政とは違う何か新しいことを求めていることでもあったのだ。

 前議員で立候補している人に言いたい。
あなた方が無批判に追随しながら、支持してきた金澤前市長は、昨年4月に市民から「否定・拒否」されたのである。ということは、それを支持してきたあなた方も「否定・拒否」されたことを意味しているのである。
 そこに気づくこともなく、反省もなく、「相馬市長の課題は、議会対策であろう」という「マスコミの予想」を裏切って、新相馬市政に、また、べったりである。
 それなのに、どの面下げての市民に対しての立候補なのか、おそらく市民のことなどは、最初から毛頭なく、「市議になりたい」との思いだけなのであろう。
 その無神経と厚顔無恥にはあきれ果てる。
市民の願いや痛みが分かれば、あなた方のとった「支持」ということがどれほど罪深く、誠意に欠けて、非人間的であったかを理解し、辞職するところであろう。
 にもかかわらず、反省もなく、謝罪もなく、過去の実績を吹聴するような「選挙公報」での弁は許されまい。

 驚くことに、中には「実績」と「経験」を混同している者までいる。市民の負託に応えるという実績のないものほど「経験」年数を誇りたがるものであるらしい。
「選挙公報」の下欄には「この選挙公報は、候補者から提出された掲載文を、そのまま写真製版して印刷したものです。」とある。いわば、直筆で真の心情や政治信条を語ることが許されているものであろう。その意味からも「選挙公報」は、掲載枠と字数の制限もあるだろうから、ミニ・マニフェストでなければいけないはずだ。
 ところが、前議員ほど、マニフェスト的な文意は少なく、掲載枠と字数制限の中で「過去の経験」を主張しているのである。

 私は、これまでの市政と市議会を注視してきた。それ故に、「過去何期の実績」を押し出している前議員には投票しない。
 彼らは前市政の「市税の無駄遣い、弘前の歴史的な町並みの破壊、地元以外の資本による弘前市商店街の停滞、公園有料化」などに手を貸して、それらを推進してきたからである。

 私は、新しい人、若い人、弘前を愛しながらも一方で客観的に弘前を捉えることが出来る人、利益団体と関わりがない人、市民の痛みが解る人、そして、決定的な決め手は、行動基準に「善」を置く人に一票を投じたい。
 それは、民主主義とはその根底に「性善説(人間の本性は善であり仁・義を先天的に具有すると考え、それに基づく道徳による政治:岩波広辞苑)」を求めるものだからである。
 民主主義は「善」を信ずることから始まり、「善」を基準的な価値として行使されることで存在する。
 それ故に、「善」を信ぜず、別な価値基準のもとで政治が動いたり、「善」を軽視するような風潮や行動が蔓延してくると民主主義は崩壊する。これが民主主義の脆弱な面である。
 だから、市民が「善」を否定し、数の論理による損や得という価値観で行動するようになれば、弘前市の民主主義は壊れてしまう。
 議員が市民に率先して「善」を行動の基準にして、市民の付託に応えていくことに、議員が「選良」と呼ばれる意味があるのだ。
私は民主主義を守る人が、より多く当選してもらいたいと思っている。

「一人で登山するな。」ということについて (その七)

2007-04-19 06:19:45 | Weblog
 今朝も寒い。5時の外気温は0.4℃、昨日の朝は、近くの畑では畝が霜柱で盛り上がり、白くなっていた。一時期、氷点下まで下がったのだろう。
 日中も気温は上がらない。10℃前後かも知れない。まさに前に書いたとおり、4月になっても「三月という季節」のままで推移しているようだ。
 弘前公園の桜(ソメイヨシノ)の開花予想も、私が2月にブログで予想したとおり「平年なみ」の今月24~25日であるらしい。
 「開花予想」にしても「文明」に振り回されて、古人の知恵やこれまでの体験・経験から学ぶべきものを軽視しているから、修正、修正の連続という失態を繰り返すのであろう。

「一人で登山するな。」ということについて (その七)

(承前)

先ずは、文明への質的な反省を含めて「便利さは知らないうちに他人を自己の行為そのものに、またはその行為の延長線上に巻き込むものだ。」ということを「携帯電話」の使用者が十分に認識すべきだ。
 また、製造・販売する者にはそれを認識させる義務がある。しかし、そこまでやっている業者はいないだろう。とにかく、便利さだけをあげつらった「売ること」にだけ腐心する。

今や気象情報までが携帯電話で画像と同時に見ることが出来るのだ。
かつてテントの中で気象通報を聴取し天気図を書き、明日の天気を予想したことなどは遠い昔話なのだろうか。
 自分でするには不安と苦労があったが予想した通りの天気になった時の嬉しさは感動を伴っていた。液晶面の誰かが描いた天気図と予報に従い明日を生きることは、他人に「生かされている」ことに他ならない。
 
 私たちはこれまで山で「植生、地形、地質、地層、天体、方位、地図」から自分の位置を確認してきた。
 それをGPS(Global Positioning System)の液晶面を見て、操作ボタンに触れることだけで済ますとしたら、多くの感性的な生きた空間と山の楽しさや人生の機微を失ってしまうはずだ。
 人間の自立は「自分でする」ことであるし、存在感もまたそこにしかないからである。

 自助努力の世界が遠のいていくことは文明の逆行であろう。今一度文明が人間の「する価値」の所産であることを問い直すべきだ。
 このままだと現代の情報消費社会はますます自助努力の領域を狭め、他人が肩代わりする範囲を広げていくだろう。
 そして、山からは自己が相対化されるような激しさや癒される自然の流れが次第に消えていくに違いない。

 さて、山における、いわゆる「便利なもの」には「電波利用機器」(雪崩ビーコン・携帯電話・GPS)がある。しかし、これを使うことによって、他人に煩わしい思いをかけることが多々あることも事実だ。
 
 雪に埋まった雪崩遭遇者のビーコンが発信する電波を捜索者が受信機で追尾して、埋まっている「場所」を特定するやり方。
 ところが、雪崩ビーコンも「機器」ではあるが、雪崩に埋まった遭難者が自分を他者に発見してもらうために身につけているものなのだ。つまり、「他人に自分を捜させるためのもの」である。
 数年前に岩木山の通称、「鍋沢」で発生した雪崩遭難の時、巻き込まれて埋まった人は「雪崩ビーコン」を装着していたが、埋まらなかった人は「雪崩ビーコン」を装着していなかったのである。
 埋まった者が「発信」する信号位置から場所を特定するという機能も、生き残った者が「受信」するための「ビーコン」を装着していないのでは意味がない。しかも、その人の中には「ガイド」を生業としていた者がいたというから、あきれかえる。

 私はビーコンを不要だと言うつもりはない。既に何回も体験していることだが、冬山に入ると雪崩の発生しそうな場所を、どうしても通過しなければいけない時もある。そのような時には装着すればいいのである。
 しかし、それを着けたから、どこでも安心だとして、雪崩を避ける自助努力を忘れてはいけないだろう。
 ただ、ビーコンが効力を発揮する時は、必ずそこに他者が捜索という形で動員される、つまり、他人に煩わしい思いをさせるのだという意味を使用する人は十分認識してほしいと言っているに過ぎない。

 世をあげて「携帯電話」時代である。テレビのチャンネルを廻すと携帯電話 の宣伝のないチャンネルはない。
 軽薄な現象面での便利さ追従と、それに関わる企業の利潤追求が続く限りは、到底望むべくもない。そこには、当然文化の質が問われることになるだろう。
 持つことは自由である。持つなとは言わない。しかし、原則論で言わせてもらえば、この便利さの持つ迷惑行為に気づかない者には「便利な携帯電話」は持たせるべきでないだろう。
本気で山を知り、山に親しみ、山を楽しもうとするならば、便利さに頼らないことに徹したほうがいいと思うのだが、いかがだろう。
 山である。市街地ではない。緯度と経度が解っても地図がなければ実際どこにいるのかは解らない。いくら便利なGPSでも、狭い範囲ならばいざ知らず、もう地図は不要だということにはならないだろう。

 便利さとは、自分でしなければいけないことを誰かにさせることであり、してもらうことである。
 しかし、誰もしてくれない時はそのプロセスから結果まで自分で背負い込むことになり、往々にしてそれは死に結びつく。
 死に結びつかせないためには、人間は自分でするしかない。人間の持つ社会性の基本は「自分ですることで立つことである。」ということだろう。
それを忘れ、便利さに寄りかかっている。携帯電話の発達・普及と使用人口の増加が果たして本当の意味での文明の発展といえるのであろうか。
 自助努力の世界から遠のいていくという事実がある限り、それは文明の衰退と言えるかも知れない。
 便利さは自分でするという領域をどんどん人手に渡していくことであって、これは「である」価値への逆行であると言える。
 自分が何もしないでいることは「である」という石に等しい。安野光雅は「石でありたくない。」と言う。
  
              (このテーマでのシリーズはこの回で終わります。)

「一人で登山するな。」ということについて (その六) と 「明鏡」欄に掲載

2007-04-18 06:56:57 | Weblog
 東奥日報「明鏡欄」に市会議員立候補予定者に向けて「弘前公園入場有料化」反対とする内容のものを投稿したら、告示日前日の14日に掲載された。読んだ人もいるだろう。 翌15日に「囲いのない郷土精神のために入場有料化の撤廃を」という内容のものを送ったところ、翌16日に採用・掲載の案内電話があった。
 近々掲載されるだろう。東奥日報は、この「弘前公園入場有料化」問題を大事なものと捉えているのだろう。

 投稿に対するすばやい応答は「メール」で「送る」ことに因るものではないだろうか。訂正・校正が楽である上に、個々人の筆くせによる難読文字もないだろうし、「郵送」に比べたら、その時間は何百倍も速いだろう。



「一人で登山するな。」ということについて (その六)

(承前)
 ところで、登山に便利だとされる電波機器には「雪崩ビーコン」「携帯電話」「GPS」がある。登山者は案外、安易に使用しているが、これらに共通する便利さの裏には「自分でしなければいけない領域を狭め、その分だけ他人にしてもらう領域を広げる」という事実のあることを十分認識する必要があるだろう。
 利用する前提には必ず「暗黙の他者の介在要請」があるし、何らかの負担を与えるという「使役的意志」が存在しているのである。これを忘れてはならない。
 冬山でビーコンを装着する者は「雪崩を避ける自助努力」をしながらも、雪崩遭遇者にとってビーコンが効力を発揮する時は、必ずそこに「他者が捜索という形で動員されるのだ」ということを厳しく認識しなければいけない。

 世をあげて「携帯電話」である。いつ、どこでも使えるイージーさがこの機器の「命」であるだろう。ところが発信者・受信者という相対性を考えると、それほどイージーな代物ではないと言える。

 「携帯電話」を持つことで、当然連絡出来ないと考えられていた事が出来るようになり、次いで連絡すべきでない事まで連絡するようになってきた。それと併行して、登山計画書が雑になり自制的な要素が薄れてきた。
 一方、送信内容を受信する者に「携帯電話を持って山行している」者たちと同じ時間の制約を求めることになったのである。
 あるパーティが出かける直前にやって来て、「交信時間に相手をして下さい。」と言った。計画書を見て驚いてしまった。
 1日に4回の電話交信で、2泊3日の山行だから、この間、確実に相手をしなければいけない。完全に私の時間が山行中の者たちに、拘束されてしまうのであった。
 一方で「登山中の者」の要求はエスカレートする。「雪崩の発生しやすい場所に入るので、1~2時間連続して電話してほしい。」ということもあった。これには雪崩に遭ったら、なんとかしてほしいという依頼心がはっきりと見えている。

 携帯電話を持っていると、いざという時に助けて貰えるという甘えが生まれ、それが「行けるところまで」などにつながるし、果ては「私は今どこにいるの」というあきれてしまうような遭難通報となっているのである。

 「携帯電話を持っていると、いざという時に助けて貰えるという甘えが生まれる」ということを教えてくれるのが『「八甲田山のフォレストコースをスキーで降りたが、迷ってどこかの沢にいる」との110番通報。』というスキーヤーの遭難さわぎである。

 冬場、悪天候の八甲田山は一筋縄ではいかない。風が特に強く、広いことに加えて平坦な所が多く、一旦ルートを失うと自分の位置が解らなくなってしまい、悪天時には「迷う場所」である。
 この認識が「ロープウェーで一気に引き上げられる便利さと携帯電話を持っているという甘え」によって、おろそかにされているのだ。
 地方紙は、これを「油断」と報じていた。捜索・救助には自衛隊員等約100人とヘリコプターが駆り出され、何もなければ家族との団欒で過ごしたであろう自由で貴重な時間が「110番通報」した者によって奪われたのである。

 ところが、決して「遭難の未然の防止策」にはなり得ないのに、『捜索隊関係者は「携帯電話は緊急時の連絡手段として有効」と持参を呼び掛ける。』のだから唖然とするばかりである。
 NTTドコモやKDDIに叱られそうだが、私は未だに「携帯電話」を持たない。

「一人で登山するな。」ということについて (その五)

2007-04-17 06:42:57 | Weblog
 昨日、今日と明け方は寒い。氷点下までは下がっていないが、かなりそれに近いだろう。昨日は終日、ストーブをつけたままの生活であった。
 大陸性の冷たい高気圧が北海道から本州北部にかけて移動しているからだ。今日もその影響を受けて、「寒い」一日になりそうである。日差しが出ると、「暖かさ」を感じるが、陰りの中で浴びる北風は、まさに「身を刺す」ように冷たい。

 そんな中で、弘前市議選が始まった。政策を掲げての舌戦で、熱気がムンムンであれば、この「冷たい毎日」も過ごしやすいのだろうが、相変わらず「街頭宣伝車」のスピーカーボリュームを上げにあげて、「立候補者名」の連呼である。

 中には「○○は頑張っております。」とアナウンスする者がいる。いったい、何を頑張っているのだろう。
 「目的語」のない他動詞の使い方から類推すれば、「当選するため」に声を枯らして「自分の名前」を連呼することに頑張っていることになろう。
 告示前から、告示後も自分の「当選」のため「選挙運動」に頑張っていることを証明しているようなものである。つまり、市民や弘前市のために頑張っているのではない。
 こんな立候補者には、票を投じたくはないと思う。しかし、これまでも、「○○は頑張っております。」候補が大勢当選してきたのである。

「一人で登山するな。」ということについて (その五)

(承前)
 中高年や老年の人が登山を始める事情は大方、次のようなものだろう。

 男性にあっては定年後に登山を始めたとか、女性にあっても同じく定年後とか、または専業主婦であったが、子育てを終えて、子供たちは嫁いだり、独立してしまい自由な時間が出来たので登山を始めたということなどではないだろうか。
 このことからも分かるように、大概が登山の「初心者」である。しかも、自由な時間は沢山ある。その上、経済的にも余裕がある。
 いきおい、先ずは見た目から「登山」に入ることになる。登山用品や用具店に出かけて、頭のてっぺんから足先までの服装を整える(購入する)。
 お金持ちの「初心者」ほどいい顧客はいない。登山用具店にとっては堪えられないお客であろう。
 とにかく、「初心者」は謙虚だ。若ければ知らないことがあるのは当たり前だ。ところが、かなり年嵩を増している「初心者」は「知らないこと」をどこかで「恥」と感ずるらしい。その「恥」を抑制するために、必要以上の謙虚さで「プロまがいの登山用具店のスタッフ」の言うことに、いちいち頷いて「勧められるままに」買ってしまうというわけである。

 帽子からシャツ、ズボン、靴、ゴア製の雨具、それにスパッツまでが揃ってしまった。次はザック(リュックサック)だ。「これフランス製ですよ。」とかいわれて、M社製(その実はシンガポール製)のものを購入する。
 次は小物だ。「チタンのマグカップは軽くていいですよ。」と勧められて買う。それをザックにつけるためのミニチュアのカラビナや「熊よけ鈴」なども併せて買う。
 格好や服装から入る人は、傍目には一見「ベテラン登山者」の完成を思わせる。

 ああ、これで「外観」は立派な登山者になる。
そして、それをすべて身にまとって山に行く。山に行く途中の電車の中でも、その格好である。熊のいない電車の中でも「熊よけ鈴」はチリンチリンやジャラジャラである。
 もちろん、熊のいない尾根道でも同じだ。静かな自然の中に、人工的な騒音をまき散らして歩いている。困ったものだ。
 整備されて、藪がまったくないような登山道でも、靴に入り込むような火山弾や細かい珪石などがないところでも、水たまりや草付きのない林縁でも、がっしりとスパッツで靴や臑(すね)を覆い、足を蒸らして歩いている。
 スパッツの用途についての理解がないからそうなるのである。用具の使い方やその効能、役割を知るよりも先ずは、見た目から「登山」に入るのである。本当に困ったものだ。

 ところで、登山用具として必要なものは、日常使用している物で代用が利かない物はないのである。日常使用している物でも「登山」は十分出来るということだ。

 だが、私は「登山靴」だけは、安価でなく「足」を保護するに十分足るものを強いて勧めたい。「登山靴」、それは登りに耐え、下りに耐え、平地歩行にも耐え、かつ外部の衝撃から足を完璧に護る機能を持った登山用具である。登山行動の中で、最重要な用具なのである。(次回に続く)
 

「一人で登山するな。」ということについて (その四)

2007-04-16 05:35:15 | Weblog
「一人で登山するな。」ということについて (その四)

(承前)

 現在、日本の登山界は本当に異常な事態で、その年齢構成の比率は、若低老高なのである。すなわち、若い人が1割だとすれば、中高老年者が9割を占めている。
 体力、その他の肉体的、生理的な衰えなどから考えると、登山者の比率は中高老年者が1割程度というのが本来の正常な姿であろう。現在はこの比率が逆転しているのだ。しかも、きわめて異常な比率が、年々進行しているのである。
 だが、既存の「山岳会」等も、これを是正するような策を取れないままでいる。しかも、登山業界はこの異常さを歓迎している観もある。
「一人で登山をするな。」という親切なお小言も、業界からの歓迎の「辞(ことば)」に聞こえてくるから不思議だ。

 私は30年近く、高校山岳部の顧問をしてきた。部員は年々、少数になってきている。
「部員なし」「入部希望者ゼロ」という年はなかったが、3年生部員が卒業した時に、残っているのは一年生部員が一人だけということは何度かあった。このようなことは私の高校だけでなく、高校山岳部に共通する事情であった。

 ある年の4月だった。久しぶりに女子生徒が4名、入部したいと言ってやって来た。「どのような活動をするのですか。」ときわめてオーソドックスな質問から始まった。
 それに答えるとまた、質問ということが続く。受け答えをしながら「なかなか見どころがあるぞ。」などと思い、内心「にんまり」としたものである。
 そして、最後の質問で、私の期待は一瞬にして瓦解してしまった。
「泊つきの登山の時、朝シャン出来ますか。」…。女子生徒4名は二度と私の前には現れなかった。

 高校生の多くは「登山は3Kだ。」と言う。
「危険、きつい、汚い」が3Kである。そのとおりである。私はそれでも登山が好きだし、登山をしたい。とうから「登山とは3Kだ」と思っているので苦にならない。
「3K」でも好きだというより、「3K」だから好きだと言うべきだろう。
 ところが、今時の高校生は「3K」が嫌いなのだ。耐えられないのだ。どうも親世代もそうであるらしい。

 「常に安全が保障され、危険からは隔離された生活。」や、「詰問、辛辣で率直な行動、歯に衣着せない物言いなどはきついといって退けられ、きつい仕事は安い賃金で外国労働者任せにして、ファジーで楽なことだけ望む風潮。」や「汚れのない純白だけを求める洗剤の宣伝に浄化された洗剤効果の生活。」にずっと身を置いてきた親や子供にとって「3K」は、絶対に住めない異次元の世界でしかない。嫌いで、耐えられないのも当然だろう。

 大学生は高校生の成り上がりである。当然、大学山岳部も同じ事情にある。

 つまり、日本の「山岳界」は老高若低なのである。一晩休むと前日の疲労などどこ吹く風で歩ける若い人が「登山」に向いてこない。登山から逃げ出しているのであれば連れ戻す手もあるが、なにしろ、向いてこないのだからどうしようもない。
 ところが、たまった疲れがなかなか取れない上に、加えて体力がなく、自助努力もままならない老年者や中高年者が極端に、「登山」へ、「登山」をと増え続けている。