岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

スズメバチは厄介者か…

2007-09-30 07:30:23 | Weblog
(今日の写真はヤマナシの実である。昨日、自然観察会で岩木山赤倉沢に出かけた。夏の初めに清楚な白い花を咲かせていたヤマナシは写真のような立派な実をつけていた。秋である。ナシのおいしいシーズンになった。私たちが食べる「ナシ」の原種がこのヤマナシだ。「自然への感謝」は至る所に転がっている。)

         ☆ スズメバチは厄介者か…(その1) ☆

 山登りをする者にとっても、スズメバチは厄介な存在になることがある。
 昨年、岩木山の百沢登山道、姥石にスズメバチが大きな巣を作った。そのことを岩木山を担当している弘前市岩木総合支所の担当課と岩木山日赤パトロール隊に連絡したら、早速、専門の「業者」に依頼して、「巣」を撤去した。「撤去」とはいえ、その実態はスズメバチの皆殺しである。
 これから寒くなり、スズメバチたちの活動は鈍くなり、2週間もすれば「活動」を収束させるのであったし、その間「登山者」の方が、スズメバチとの「対応」に注意すれば事故もなく済むことなので、私は複雑な気持ちだった。
 スズメバチは昆虫とその幼虫や樹液を好んで食べる。時にはミツバチの巣を襲って幼虫や蜜を奪うこともある。
 怒らせると「人」や「家畜」、さらに「獣」さえも攻撃するという。毎年のようにスズメバチに刺されたという「事件」が報道されているのは、「人」がスズメバチを怒らせることをやめないからであろう。
 私は登山道の近くで、スズメバチが巣作りをしている時や気の荒くなる「秋の初めから中秋にかけての時期」を避けて、そこを通らない。もし、どうしても通らなければいけない時は、ハチの体温が上がらない、たとえば早朝など時間を考えて、しかも静かに腫れ物にさわるかのように行動する。
 昆虫類は日光を浴びて、体温が上昇しないと行動が鈍いからその時間を狙うのである。どうしてもそのような時間帯でない時にそこを通る場合は、やぶこぎなどをしてでも、離れた別ル-トを採る。

 ある年の9月上旬、山道を歩いていた小学校の四年生ら十四名が、スズメバチに「襲われる」という事件があった。「襲われる」と書きたくないのだがマスコミも多くの人もこのように表現する。「襲われた」とすると、みな被害者となるのである。そして、そこには蜂に対する「加害者としての人」という視点はない。このような「視点抜け」のバランスに欠けた論理が世を挙げてまかり通っていることに、少なからず憤りを感じている。
 蜂に刺された小学校の児童の中に「蜂が怒って刺した」のだとする者はきっといたであろう。刺されていない児童の中にも、もちろんいたと思われる。
 こういうふうな「蜂を怒らせた」加害者としての認識は、蜂の立場を理解しなければ絶対に出てこないはずのものである。
 つまり被害者であるのに、相手に主観的な見方ができるのは、多様性に満ちた自然を丸ごと受け止めているからであり、純粋に子供であるということを意味している。
 それは蜂の世界のあり方を、蜂の論理を認めていることでもある。「蜂が怒って、侵入者を刺した」とする結論は、蜂の論理からは当然であり、偏見のない感じ方からしても当然のことであろう。
 私たちが登山道沿いのスズメバチの巣に出くわした時に抱く「厄介だがどうしようもない」という思いは、基本的には、この子供たちの感じ方と同質であると言える。
 
 ニュ-ス報道でその晩に、テレビ画面に映し出されていたものは、半ば壊された巣であり、殺虫剤を噴霧され断末魔にあえぎながら、うごめいている無数のスズメバチであった。無残な殺戮現場や戦場を見ているような気がした。子供たちの目にはどのように映っていたのだろう。
 小学生側にスズメバチの怒りを誘発させる最初の行動があったのである。「スズメバチの怒り」と書いたが、事実は怒りでなく、「巣」を守るための「防衛行動」なのである。「自己防衛」の場合、刑法ですら罪は減じられる。
 子供たちが、「人を襲うことは悪であり襲わなければ善」という二者択一的な基準で見ていなければいいなあ、とひそかに願わずにはいられなかった。
 
 それにしても、社会の大人(行政や教育委員会、父母たち)にとっては、いったん攻撃されたら、どんな理由があれ、相手は敵であるらしい。
 そして、敵ならば抹殺するか、敵の勢力範囲外に逃げ去るか、どちらかを選ぶようだ。今回は大人がハチを敵として、抹殺するほうを採った。
 子供たちから「なぜ殺してしまったの」と問われたら、自分の側に主観的な「人が襲われることは危険だ。それを避けるためだ。」と答えるつもりだろうか。
 ここに私たち大人の子供たちに対する課題があるような気がするのである。(この稿は続く。)                       
 
                                      

虫は偉大だ。だが、「殺虫剤」のテレビコマーシャルは…

2007-09-29 06:25:24 | Weblog
(今日の写真はクサボタンだ。キンポウゲ科センニンソウ属の多年草で、葉がボタンの照り葉に似ているのでこの名前がある。花の後には属名が示すように「仙人」のあごひげのような毛(種についている)が沢山でる。この写真を「さくら野百貨店・NHK弘前文化センターフェスティバル」に展示してある。秋の草原を飾る花の1種である。草原ならばどこでも見られる花なのだが、岩木山では山麓からどんどんと「草原」が消えていっているので、なかなかお目にかからないものになっている。)

      ☆ 虫は偉大だ。だが、「殺虫剤」のテレビコマーシャルは… ☆ 

 地球上には現在、150万種を越える生きものがいるそうだ。その75%以上が「虫」だそうである。
 そして、地球上のあらゆるところに、「虫」のいずれかが生活している。これだけ各地域に生活する場所を見つけている生きものは、「虫」以外では「人」だけだそうだ。だから「人」と「虫」がぶつかる確率は高いのだと言う。
 その所為(せい)だろうか。テレビでは「ゴキブリ」「カ」「ノミ」「アリ」「ハエ」「ダニ」などを「殺戮」し、「駆逐」するための「殺虫剤」のコマーシャルが盛んである。しかも、、しつこいほど多様で、手を代え品を変えて「殺戮」の対象となる虫を徹底して「悪者」に仕立てていくあの図式は異常である。
 さらに、その画面は原色のイラストや動画で、視聴する者たちの気を引くように、目に焼き付くように造られている。
 しかし、これらは、すべてデフォルメされていて、大げさであり、「真実の姿」ではない。「偽物」や「フィクション」に、真実らしい「ナレーション」で迫るのである。すべてが異常だ。その上、回数がまた多いのである。
 私は「またやっているなあ」と見過ごしているが、「子供」たちの目には、直裁的にそれらが飛び込んで行っているわけである。
 このようなコマーシャルを見て育つ子供たちは、知らないうちに「悪者」は殺されるのが当たり前だ、と思い込んでしまうのではないだろうか。そこには、殺戮の対象になっている「虫」を命ある生きものであり、生命を持つ「人」と同じであるというとらえ方は存在しない。あるのは、ただ単に、無味乾燥な二者択一の図式だけである。
 聞くところによると、鳩山法務大臣は「昆虫少年」だったそうで、今でも蝶の採集に出歩いているのだそうだ。
 先日、この鳩山大臣が「法務大臣が最終決定をしなくても死刑の執行は事務手続きに則ってすみやかにすべきだ」と死刑囚やその家族、執行に関わる人たちの心を逆なでするようなことを言ったのである。
 「昆虫採集」では…
 採集した蝶は三角形の袋に入れられて、虫ピンで背中を刺されて「標本」にされる。…と書くと、そこには痛みも苦痛もない。
 ところが、これは、「人を捕らえて、袋詰めにして、その上磔(はりつけ)にして、槍で刺し殺すという図式」と重ならないだろうか。北朝鮮の拉致よりも惨いことであろう。
 鳩山大臣はこのようなことを、つまり、「虫」のことを「人」に置き換えて考えることがないままで、これまで人生を過ごしてきたのではないのだろうかと思ったりもした。
 殺虫剤のコマーシャルにも「虫の持つ生命」を「人の生命」に置き換えてとらえる心がまったくない。これは限りなく恐ろしいことだ。

 「虫」は「人」という生きものが、この地球上に誕生する遙か昔、まさに気が遠くなるくらい前にこの地球上に現れた「生命」なのである。同じ生物としては、私たちの大、大、大、大、大先輩にあたる「生命」体なのである。私はその意味からも、「虫」を、ひそかに尊敬している。

 人は道具を発明して、その利用によって発展した。ところが「虫」はなんの道具も使わないで、生まれつきの能力にしたがって成功した。そして、自分のほうから「自然の環境にみあう能力」をつけてきたのだ。だから、文明に頼り放しで、生物体として自己「進化」を忘れてしまい、取り巻く「環境」を変えようとする「人」としては、ますます尊敬してしまうのである。
 その「虫」のずっと後を追っかけて登場した「人」が道具(文明と科学)に頼り、生活の場所を広げてきた。当然、「虫」の生活とぶつかるのである。
 「白アリ」が家の土台を食い荒らすのは「人」が木を使って家を建てるずっと前から、彼らは「木」を食べてきたのであり、その生活を今も続けているに過ぎないのである。それがイヤであるならば「人」が「木」に代わる材質で家を建てればいいのである。後から、ノコノコと出現した新参者「人」が、どのような権利を持って、「白アリ」の既得権を奪えるというのだ。
 この「衝突・ぶつかりあい」が、「いい虫だ」、「悪い虫だ」と判定されてきた所以である。
 「虫たち」にとっては、特に農薬が多量に散布されるようになった近・現代には、受難の時が続いている。だが、それでも「虫たち」はめげない。たいがいの「虫たち」は、自然のやり方で自分の立場を主張する。
 ところが、「いい虫」、「悪い虫」という決め方は、実に「人」の勝手な判断から生じている。人間にとって都合がよければ「ミツバチ」や「マメコバチ」のような虫は「良虫」であり、都合がわるければ「悪虫・害虫」となる。
 「アリマキ」は「テントウムシ」の餌になり、木の葉を食べる蛾や蝶の幼虫は「ハチ」類の餌になっている。「害虫」がいないと「益虫」は死んでしまうのだ。「害虫」といえども、生命のバランスの中ではその役割を確実に担っているのだ。

 『害虫は益虫の餌である。稲を食い荒すウンカを「蜘蛛(クモ)」が食べる。1アール当たり「蜘蛛」は6~7万匹いて、1日に20万匹の虫を食べる。』というデ-タもあるくらいだ。肝に銘ずるべきである。                   

私たちは死に向かって生きている(その2)

2007-09-28 06:17:00 | Weblog
(今日の写真は白神山地から見た岩木山である。かなり望遠レンズで手前に引っ張って撮してある。季節はまだ残雪のある5月上旬だ。雪が消えたばかりのブナ樹の根元にはイワウチワが咲き、ブナの若葉は透きとおるような萌葱色、ちょうどそのような季節の白神山地。岩木山も何だか若やいで見えるから不思議である。)

(承前)

      ☆ 私たちは死に向かって生きている(2) ☆

 「死のない世界」それは悲しみのない世界であるように考えられる。食糧生産の為に働く必要もない世界であるとも言える。このように一見「平和で幸福な世界」のように見える。
 しかし、果たしてそうであろうか。「死のない世界」は自分から、自分の意志で動くということを奪われている世界でもある。そこには「自由」がない。そこは「生命維持だけの、動けないという絶対的束縛」の世界だ。
 そこに暮す人々はさながら、無菌の保育器内の赤ん坊、流動栄養剤を受けながら生き続ける植物人間や脳死患者と同じ状態にあるのである。
 「死のない世界」それは危険なことは何一つなく、「今日のように、明日という日が確実にある世界」だ。いわば、毎日が同じで、「全く変化のない日常が続く世界」なのだ。
 昨今、世を挙げて「危険を避けて安全だけを求める」風潮が支配的だ。確かに、危険がいっぱいである。道路を歩くと交通事故、青森県では「交通安全キャンペーン」期間中だというのにすでに、事故死亡者が5人で、まだ9月だというのに昨年1年間の事故死亡者よりも6人も多くなっているという。
 このような事実は確かにあるが、それでも「危険」をひたすら「避ける」ことにだけ目が行きすぎていないだろうか。「危険のない世界」とは「死のない世界」のことである。この風潮は結局は「死のない世界」を求めることになるのだろう。

 学校教育を見てみよう。小中高の年間行事から、「岩木山登山」という項目が消えてからすでに久しい。「登山」には危険が付きものである。
 「危険を避ける」生きた手だての習得とそのための訓練も、指導者がいないとか、勉強時間が取られ「学習進度」が遅れるという理由のもとに、まったくしないで「登山」は危険なものだから「禁止」とするわけだ。
 同じように、キャンプも禁止、海岸での遊泳も禁止だ。自分の責任を抜きにして、遠足などでスズメバチなどに刺されると学校を責める「保護者」たち、保護者と行政だけを気にする「学校現場」では、いつも生徒、児童が置き去りにされている。「死のない世界」では「子供」たちまでが「塑像」でしかない。
 ただ危険なことだという理由で自然の中での体験的・観察的な行事を避けさせるような指導を、教育行政サイドはしてはいないだろう。
 安全はもちろん大事である。しかし「安全であること」が目標の上に出てしまうと、それに振り舞わされて「野外学習」の真の目標が影を薄くしてしまうのである。

 教育委員会等は、登山などを通じて「自然の摂理の中で人を含めたすべての生物は、対等な立場で生きているのである。人間も自然の中の一員に過ぎない。」を子供たちに体験的させる義務があろう。そして、それを体験的に学習させる現場の教員に対して、「心を砕いた補償的な行政と指導」をするべきである。
 青森県は「自然がいっぱいの地域」だからといって、それにあぐらをかいて、「安全」だけをお題目として唱えているようなことがあってはいけない。

 危険を、ただ恐れてばかりいる人は、その危険に近づかなければいいのだ。それでも、なお不安な人は、その危険が近づいて来ないように、生まれ落ちた時から、防備の厚い無菌室なり、檻の中で暮せばいいだろう。
 自動車事故が怖いから、衝突しても壊れない厚い鋼板のボデイにした。跳ねられるのが怖いから道路を歩かない。自転車にも乗らない。みんな危険だから家から一歩も外へ出ない。山へ登るなんてとんでもない。あんな危険なことは、絶対にしてはいけない。山へ登ることは、より危険に近づくことなのである。これだと「死のない世界」だ。だが、本当に危険なものは他にある。

 「死のある世界」これはまさに現実の世界である。死につながることを、我々は危険なこととしてとらえる。だからこの世界には危険がある。
 生命維持の為には、細胞に栄養とエネルギ-を送らなければいけない。そこには当然、生産に従事して働くことが存在する。
 「生産することと働くことの喜び」がこの世界にはある。そしてなによりも、自分の意志で動ける自由がある。この「自由」には「危険に遭遇する自由」もあるのである。

 私は、その危険な登山も好きだ。だからこそ、精神の自由を求め、変化ある日常を求め、より良い「死のある世界」の中で、精いっぱい生きようと思っている。
 慎重に、しかも、果敢に「危険を避けて、躱(かわ)しながら」も熱く生きたい。毎日、毎日生きていることを手応えある実感として、危険一歩手前の緊張感を、全身で受け止めて生きたい。
 確実に避けようのない死といつかは出会うのである。だから確実な日常を生きたいのである。

私たちは死に向かって生きている

2007-09-27 07:33:57 | Weblog
(今日の写真は「さくら野・弘前店」で開催されているNHK弘前文化センターフェステバルに出展されているエゾフウロである。最近、岩木山では殆ど見られなくなっしまった。)

        ☆ 私たちは死に向かって生きている ☆

 先日も、季節の移ろいは早いというようなことを書いた。これは時の進み方が早いということだろう。私はこの世に生を受けて以来66年、毎日がまさに「あっ」という間に終わって、過ぎてきたように思う。
 年をとると、一日の過ぎ去る時間が長くなるのではないかと少し期待をしていたが、一向に同じなのである。
 「楽しい一日はすぐに終わる」と言われるけれども、私にとっては苦しいことや辛いことを含めた日々の方が多かったのだが、それでも「一日がすぐに終わってしまう」ような日々を過ごしてきた。まるで、毎日が小学生の時の夏休みように「すぐに終わってしまう」のである。
 今は、朝4時に起きて、21時には就寝する日々だが、その間も「飽きる」ことがない。「したいことがない」とか「今日は何をしようか」などということがない。いつもすることが「目の前にある」状態なのだ。そして、それをし終えると、今日が終わっている。
 このようなことに「協力」してくれるのが、この「ブログ」の変な「※記事編集中に別の画面(他のメニュー/プレビュー画面からのテキスト・画像リンクなど)にジャンプすると記事の内容が失われます。ご注意ください。」という機能である。
 実は6時前に1900字程度でこの、「ブログ」を書き終えたのである。
ところが、例によって「1クリック」で全文消滅である。今書いているのは「空しさ」に耐えながらの「2度目」のものだ。
 これで、今日の時間進行は2時間早くなるというわけである。今日もすぐ終わるに違いない。本当に「アリガタイ」機能である。これで6回目の失敗だ。昨日までは、この失敗を恐れて「コピー」を取りながら書き進めていたのであるが、興がのってしまい、終わったという気持ちで…ポンで一瞬にして「パー」になってしまった。

 私たちは一日の終わり方が早かろうが遅かろうが、日々ある「ゴール」に向かって生きている。その「ゴール」とは「死」である。「死」とは前述の「…ポンで一瞬にして、パー」と同じかも知れない。「電子」の世界はまさに一瞬、何も残さない。これだと電子、すなわち「電死」だ。
 この「死というゴール」だけは身分や貧富の差に関係なく同じである。これは、この不平等きわまりない世界で唯一、平等な「神の業(わざ)」であるだろう。しかし、「死」の形や体様には違いがあり不平等かも知れない。
 「死んだ者」がそれに気づいて文句を言っても後の祭りだ。「死人に口なし」であり「死後の世界は誰も知らない」からである。まさに、「神のみぞ知る」という不平等で理不尽なことなのだ。
 「死」だって「不平等」であるかも知れない。そうなれば生きている中での「不平等や不公平、それに不公正」は当たり前に存在する。
 政治や首相や内閣は、この国民の持つ「不平等や不公平、それに不公正」を是正していくことを仕事とするものだ。代議士先生の仕事は「不平等や不公平、それに不公正」がないように国会で法整備をして立法することだろう。今度の新首相や閣僚からは何一つ、この「立法」に関わること、つまり、どうするのかという具体的な「自分たちの仕事」については語られていない。

 …わき道に逸れすぎたかも知れないので本題に入ろう。
 人は「死」と向きあいながら、「死」に向かって毎日を生きていくものなのだ。毎日がすぐ終わってしまう私などは、その「ゴール」に向かってひたすら「走り続けて」いるのに違いない。もっと、ゆっくり行ってもいいのではないかと思う時もあるのだが、抑えられない。病気だろう。
 さて、「死のない世界」がいいのだろうか、それとも「死のある世界」がいいのだろうか。何をバカなことを言っているだ、「死のない世界」なぞあり得るわけがないだろうとお叱りを受けるだろうが、時には「常識」から外れてものを考える必要もあるものだ。
 おそらく、大概の人は、「死のない世界がいい」と言うに決まっているはずだ。
古来、人々は「死のない世界」に憧れ、不老不死の薬を、不死の身体を求めてきた。いにしえの権力者は、今も変わりがないだろうが、特にこの要求が強かったように思う。そして、そういう要求が、現在の医学や化学の発展につながっていることも、否めない事実でもある。
 しかし、人間はまだ「死のない世界」を経験したことはない。だから、その世界がどのようなものであるかと問われた場合、仮想のかたちで答えることになるわけである。
 さあ想像してみよう。「死のない世界」だから、それは「誰も死なない世界」だ。
 自殺も殺人もない。悲しい病死も交通事故死もない。もちろん、殺し合いという戦争もない平和で、幸福な世の中である。こうなるとブッシュ大統領もその存在価値がなくなり、選ばれることもないだろう。
 死なないから人口が増えて、食糧危機にならないかという疑問には、死なない身体だから食べる必要もないので、その心配は全くないと答えよう。食糧の世界戦略や石油利権争いにおける大国の利己的なわがままも、この世から影を潜めてしまうのである。こうなれば、もう完全なユ-トピアだ。
 だけど、ここで少し意地悪な「死なないんだから人が余ってしまわないか」とか「特に国土の狭い島国、日本では人が海に落ちてしまうのではないか」と質問をしてみる。
 そういう場合のことを考えて、年の順に下から積み重ねて「置かれる」ようにするのだそうだ。なるほど人間は、そこではみずからの意志では動くことの出来ない石造りの置物のように扱われることになるらしい。
 こうなるとまた、その置き場所をネタに面積的に「大国」である、アメリカなどが世界を牛耳るようになるだろう。そして、小国「日本」はアメリカの「ポチ」を進んで引き受けることになるだろう。「死のない世界」になってもこの屈辱的な従属関係はなくならないのだろうか。(この稿は明日に続く。)

十五夜から十六夜にを…思う

2007-09-26 07:12:14 | Weblog
 (今日の写真は市浦地区十三湖から見た岩木山である。裾野を広げたこの姿を太宰治も見て育ったのである。)

       ☆ 十五夜から十六夜にを…思う ☆

 昨晩は「十五夜」だった。年の所為で思い出せないが「群雲、とおり雨を降らしては、また、その望月顔を出す」というようなことをある有名な「古典」の中で読んだような気がする。昨晩の十五夜はそんな感じの「十五夜」であった。
 一昨日の新聞(朝日新聞・青森県版)には「今日は旧暦8月15日」とあったものだから、てっきり「今日が中秋の名月、十五夜さま」だ、と思い込んでしまい、実は昨日の晩の「月」に向かって、手をあわせて、栗、リンゴ、梨、お餅、薄、その他にお花などを供えたのである。
 群雲のない、まったく遮るもののない中空の、しかもかなり高いところで、お月様は煌々と輝いていた。窓を開け放つと中秋の冷気が、全身を包み込む勢いで入ってきた。
 私は「お月様は神様だ」と密かに思った。最近「かぐや」という人工衛星を日本が打ち上げた。「月」のことを色々調べるらしいが、「ウサギ」がいないことを知った時に、大きな失望感を持つ子供たちのことを考えると、何も月の「裏側」まで調べなくてもいいだろうと思うのである。科学と文明が進む世界であるからこそ、人の手の届かないところで「神」として祀る「存在」があってもいいだろう。
 そんなことを考えながら、「十五夜さま」を見ていたのだが、どうも「月」の形がいびつなのである。満月ではない。望月ではないのだ。
 また、件(くだん)の新聞欄を見た。そこには、月齢が表記されていて「13.5」とあったのだ。まさに、「ガクン」である。早とちりもいいところだ。ちなみに、今日の月齢は15.6で旧8月17日とある。日の出は5時29分である。
 そこで、昨晩の「お月様」となるわけだが、一昨晩のものに比べると、なんと慌ただしい月であったことか。雲に隠れる。雨が降る。星が出ている空もある。月を覆うている雲が通り過ぎると顔を出すが天空をすべて照らすことはない。そうしているうちに、また隠れてしまう。雲がかなりのスピードで動いているのがわかる。そして、またざ~と雨を降らす。なんとも落ち着かない「十五夜さま」であったことか。
 この慌ただしい「天空のお天気模様」は天気図には現れない「大陸性の寒冷前線」が通過する時の演出だ。
 これも「四季」の中に生きる日本人としては、夏から秋に変わっていく季節の一部として「受け入れなければならない」事実なのである。

 数年前の8月に「十六夜(いざよい)の月のもと」で岩木山夜間登山をしたことがあった。その時の月齢は16.5。明朝の日の出は4時55分であった。               
 登り始めたのは、午前1時である。日の出まで約4時間、遅くとも4時半には頂上にいることができるだろうとの判断からだ。
 連日、日中は30数℃の暑さであった。だが、登り始めた時は涼しかった。Tシャツだけだと涼しすぎるが、これでいい。山登りには、「寒いくらいの服装」がベターなのだから、コンデションは最高であった。
 月は背後の上空から照らしている。明るい。下つ闇なる十六夜の月は既にかなりの高度にあった。私はヘッドランプを消した。ヘッドランプの出番は、結局その後もなかった。

 「夜間登山」これは異常な登山である。人々の寝静まる、つまり明日の行動を保障する身体的休養のための時間帯に、それをしないで「登る」という行動をしているわけだから、まさに倒錯的に「異常」なことだ。
 異常はいろいろな面でストレスを伴うものだ。だから日中の登山よりは遥かに疲れることになる。さらに暗い夜道となれば、より注意するという精神的集中力が必要である。疲れは倍加する。このことからも、その異常性は疑えない。
 登山とは正常なかたちで楽しみ、するものである。だから、「夜間登山」は出来るだけ避けたほうがいいとは思う。
 ところが、夜間登山にはすばらしい魅力がある。それは、私たちに生きている自然そのものを与えてくれることと私たちを鳥や獣のように自然の息遣いに誘ってくれることである。

 道が徐々に左へカーブしていることが、今まで背後を照らしていた月が左肩越しを照らしていることでよく解る。もう既にブナ林に入っているのだが、相変わらず月光は足許だけでなく周囲を全的に照らしていて明るい。人工の明かりがなくても、月明かりで十分行動出来ることへの感謝の念が湧いてきた。
 月齢が16.5。十六夜の月だ。望月よりは月の出がいくらか遅いのであろうが、古風に言えば丑二つを過ぎているわけだから、出るのを「ためらう」という意味を持つこの月も、かなりの高さには昇ってきていたのである。

 明日は十六夜の月になる。満月にはない風情を味わってみるのも楽しいことだろう。

「NHK弘前文化センターフェスティバル」の案内 /日本山岳会のホームページに岩木山の写真が載る

2007-09-25 05:27:25 | Weblog
(今日の写真は21日に抜き取った後に、並べられた「コマクサ」である。一番左側が本体株より3番目に大きいもので、右にいくに従い年数が減っていくものである。最右端のもので3年~4年のものだ。)

      ☆ 「NHK弘前文化センターフェスティバル」の案内 ☆

  ※ 日 時:9月26日(水)から30日(日)まで
  ※ 時 間:10時から19時まで(ただし、30日は終了が17時)
  ※ 場 所:弘前さくら野4F・さくら野文化ホール

「岩木山を考える会」が担当している講座「津軽富士・岩木山」として「さくら野弘前店開店5周年記念・NHK弘前文化センターフェスティバル」に参加する。
 本会が担当するものは、岩木山に関する写真展示で「岩木山に咲く花」である。この機会を「多くの市民に岩木山に関心を持ってもらい、今以上に岩木山を理解してもらう」ものにしたいと考えて協力することにした。
 写真のテーマは「岩木山、秋の花々」である。花以外に「秋の風情に満ちあふれる岩木山」の写真が5枚。秋の花の写真が25枚で、出展数はA4判30枚である。「秋の花」というが8月末あたりから10月上旬ごろまでに、岩木山で見られる「咲いている」ものである。
 「弘前さくら野」デパートは市の中心街ではないが、JR弘前駅から地下道を使うと徒歩でもそれほどの距離ではない。自動車の場合は大きく広い駐車場があるので「駐車」の心配もない。安心して出かけられるだろう。
 NHK弘前文化センターは「弘前さくら野」デパートにも「分室」を持っていて、日常的にここでも「講座」を開講している。

 なお、「さくら野弘前店開店5周年記念・NHK弘前文化センターフェスティバル」と銘打っているので、会場での展示は、「岩木山、秋の花々」だけではない。

 展示の内容項目を紹介しょう。

「押し花」・「書道」・「楽しいやきもの・陶芸」・「パッチワーク」・「水墨画」・「ヒバ切り絵・絵手紙」・「刺繍・粘土クレー」などである。これらに興味のある方々はどうぞお出いただきたい。
 そのついでに「岩木山の秋景と秋の花々」の写真を見ていただけると大変に嬉しい。明日から始まる。

      ☆ 日本山岳会のホームページに岩木山の写真が載る ☆

 日本山岳会では、全国の支部にある「魅力ある山」(とっておきの山・ふるさと自慢の山など)の一つを、各支部から推薦してもらい、それをホームページで紹介するのだそうだ。開始は来月である。北からはじめるということで10月は北海道支部の推薦する山の写真が紹介されるという。
 青森県支部では、青森県の「魅力ある山」として岩木山を推薦したそうである。そこで、その写真提供と説明文書きが、1ヶ月くらい前であろうか、私にまわってきた。
 締め切りが10月5日だというので、暢気にかまえていた。いつもそうなのだが、締め切りのぎりぎり前にならないと、準備をする気にはなれない。
 手書きや郵送、写真もネガからプリントという頃は、ある程度余裕を持って準備していたが(とは言うもののいつも尻に火がついていた)、写真・原稿の「提供要項」に「デジタル可」という項目を見たとたんに、「ああ、いつでも出来る」と怠けの虫が居座ってしまい、忘れかけていた。
 昨日、「コマクサ」の文書を制作中に、何の脈絡もなく思い出して、その作業と併行しながら、ファイルから写真を選び、説明文を書いて、電子メールで送ってしまった。
 昨晩、遅く(私が就寝後)その返事があって、「仕事」は完璧に終了である。これだから、ますます私の「怠け」という性癖は強くなるのである。

 岩木山の紹介は11月から始まる。春、夏、秋、冬の岩木山の写真6枚が、日本山岳会( http://www.jac.or.jp/ )のホームページを飾ることになる。

 現在、私は日本山岳会の青森県支部に所属している。ところで、私が日本山岳会の会員になった1980年代は青森県には「支部」がなかった。
 その頃私が所属していたのは、長野県の「信濃支部」であった。「岩木山おたく」の私が、「信濃支部」員だったのである。笑ってしまう話しだ。
 今はどうか知らないが、当時は会員になることが難しかった。「希望すれば誰でもなれる」というものではなかった。
 2名の「推薦人」が必要で、その内1人は「日本山岳会の役付(?)」でなければいけなかった。その適任者が「青森県」にはいなかったのである。因みに、私の推薦人は、当時の東京大学教授、中村純二先生であった。
 その他、何だか、長い長い文章の「山岳歴」とか「登山に対する考え方」とかを書いた記憶がある。この辺りを書くと長くなるので、このくらいで止めておこう。

岩木山の「コマクサ」抜き取り処理の報告

2007-09-24 04:59:09 | Weblog
☆ 岩木山の「コマクサ」抜き取り処理の報告 ☆

(写真はコマクサ本体株から株立ちして、今年花を咲かせた個体。立派な根塊をつけている。確実にコマクサは増えていた。)

 このことについては「東奥日報」の掲載を待って書くことにしてあった。私は東奥日報を定期購読していない。必要な時は近くの「コンビニ」から買ってくる。
 掲載日の22日朝6時に、東奥日報を定期購読しているある本会幹事に電話で確認したら、「今日のにはまだ載っていない」とのことだったので、それでは「明日か」と思い、のんきにして「まとめ」を書こうとはしなかった。
 昨日のブログを書き終えて、朝6時にまた、確認の電話をしたら「今日のにも載っていない」とのことである。それから2時間後に、その幹事から「丁寧に見たら昨日の東奥日報に載っていた。モノクロ印刷だったので見落とした。」との電話があった。
 22日の東奥日報ではコンビニから買ってくるわけにもいかない。そこで、「Web東奥」をあたることにした。それから間もなくその人は22日の東奥日報をわざわざ届けてくれたのである。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

 それに目を通してから、昨日ほぼ1日がかりで「岩木山のコマクサ問題を考える」をまとめ、冊子(全A4版13ページ)にした。
 その内容は今月開催した写真展「私の岩木山」で特別展示をした「岩木山のコマクサ」と21日に実施した「抜き取り処理」の報告をドッキングさせたものである。

 さて今朝は、その中の「抜き取り処理」の報告を簡単にすることにしよう。Web東奥ニュース(動画)には次のような見出しで記事が載っている。
 Web東奥ニュース(動画)は、Web東奥のバックナンバーから9月21日「20:21 岩木山で「コマクサ」抜き取り」をクリックすると引っ張ることが出来る。(すでにご存じの人も多いだろう。)
       ■ 岩木山で「コマクサ」抜き取り■

 ※写真=慎重にコマクサの株を掘り起こし、回収する県自然保護課の小野貴博技師と「岩木山を考える会」の工藤龍雄幹事ら。(注:実名は私が記入した)
 県内には本来自生していないはずのコマクサが、二〇〇五年に岩木山の九合目付近で見つかった問題で、県自然保護課は二十一日、自然公園法に基づく知事の許可を得て、このコマクサを抜き取った。抜き取りには、三年間にわたって経過を観察してきた市民団体「岩木山を考える会」と、津軽森林管理署の職員が同行した。
 コマクサはケシ科の多年草で、高山帯の砂れき地に生育する。北海道や本州の北・中部に生育するが、本県では自生していないとされる。

 〇五年にコマクサが見つかったのは、九合目付近の砂れき地の斜面。県は研究者の意見や調査結果をもとに「何者かが不法に持ち込んだ」と判断し、岩木山本来の生態系や自然を守るため-として抜き取りを決定した。
 作業は濃い霧と強風の中、同課の職員ら六人で実施。幅約三十センチのコマクサの株本体のほか、株分かれした二株、こぼれた種子から発芽したとみられる約百十本のコマクサを回収した。

  東奥日報2007年9月22日付紙面には、見出しとして次のようにあった。

     ■本県に自生しないコマクサ 県などが抜き取り■
 これも近々HP(ホームページ)に掲載される。すでに管理人には送ってある。残念だがこのブログには「小さく」て掲載出来ない。次からが私の報告である。

 当日は抜き取り作業と調査に、自然保護課上野文明主査、小野貴博技師、津軽森林管理署からは川村幸春流域管理調整官、東奥日報社は白鳥昌平記者、本会からは工藤龍雄幹事、斉藤真人幹事、それに三浦章男事務局長が参加した。

 現場に到着したのは11時近くである。抜き取り作業は上野主査の指導のもとに行われた。最初は本体株の株に点在している「若葉」を慎重に砂礫を掘り、除きながら、それらが「実生」なのか、「根」から増えた「クローン」なのかを確認しながら抜き取っていった。
 点在している「若葉」や「新しい茎」は「根」からの「クローン」ではなく、すべて「実生」からの発芽であることが分かった。1本も残さずにビニール袋に入れた。
 最後に「本体株」を抜き取りにかかったが、本体の株とは別に「株立ち」が2本あり、その1本は今年花をつけたものである。また、本体株と株立ちしたものには白い「根塊(または塊茎)」がついていた。この白い「根塊」をつけたものは本株の他に3株あった。これらも、1本も残さずにビニール袋に入れた。
 上部から2m近く根を伸ばして「コマクサの本株」の根の部分に絡み込んでいた「シラネニンジン」があった。この「シラネニンジン」は、昨年、一昨年と花を咲かせたが、今年は花をつけなかった。
 「シラネニンジン」を残して、すべて埋め戻したが、すでに12時をまわっていた。強風と霧の中をリフト終点の屋舎に移動した。
 自然保護課はそこにポスターを張った後で、私たちと一緒に、抜き取ったコマクサを「本体株」、「それに続く7、8年目の株立ち」、「実生から発芽して3年から6年目のもの」、「昨年の実生」というように分別した。

 その結果、「本体株」が1株。「それに続く7、8年目の株立ち」が3株で、そのうちの1株は今年花をつけたものである。3年以上から8年目の株立ちは総計で約40本である。大きい順(早く芽生えたものから)に並べてみた。
 なお、昨年か一昨年の(1~2年の実生から)の芽生えは約70本であった。抜き取ったものは総計で110本以上となった。

 今年の枯れた花殻はすでになくなっており、その中の種子は「蒔かれた」と思われるが、いずれにしても極小の粒なので、砂礫の中では発見することが出来なかった。今年の実生は、来年以降発芽することは十分考えられることである。
すべての分別が終わり、スカイラインターミナルに降りてきたのは13時近くであった。

 なお、岩木山の「コマクサ」に関して「特集:岩木山のコマクサ問題を考える」を組む予定であり、原稿と写真34枚は管理人葛西さんに送ってある。
 詳細についてはそちらを見てほしい。近々ご期待というところである。

時の移ろいは本当に早い、虫の音雑感

2007-09-23 05:59:19 | Weblog
(写真は木造・ベンセ湿原からの岩木山である。2年前にベンセ湿原のそばで大量に「砂」が掘り起こされた。その所為で湿原の乾燥化が急激に進んでいる。)

      ☆ 時の移ろいは本当に早い、虫の音雑感 ☆

 このブログは2月22日に始まった。だから、今日から8ヶ月目に入る。回数は224である。何だかあっという間であった。時の移ろいは本当に早い。
 前にも書いたと思うが、このブログを書き出してから、早起きになった。今朝も4時に起きた。そして書いている。それに加えて変化したことは「日記」の内容が少なくなり、疎かになり、スケジュール表プラスのようなものになってきたことである。

 2月22日というとまだ寒かった。おそらく午前4時というと氷点下前後だろう。今朝も「寒い」というよりも「涼しい」。外気温は12.2℃である。室内気温が18℃である。つい先日まで、朝方でも25℃を越えていたことを思うと、季節の移ろいをこえて「ウソ」みたいだと思ってしまう。
 南側の窓を開けてみた。冷たい外気が「ス~」と入ってくるのが分かる。それと同時に集(すだ)く虫の声だ。ただ、どのように耳を澄ましても、鳴き声から分かる虫の種数は一つ、蟋蟀(コオロギ)だけである。ウマオイやササキリ、それにツユムシなどの声は聞こえてこない。
 元気に鳴いているのはエンマコオロギに違いない。このように「澄んだ」声でなく虫にどうして、「閻魔(エンマ)」という恐ろしげな名前をつけたのだろう。しかし、このコオロギの顔を正面から見ると、何とかそのイメージが湧くから不思議である。
 コオロギはバッタ目コオロギ科の昆虫である。体はおもに黒褐色で、後肢が長い。別名では「チチロムシ」というそうだ。鳴き声から連想かも知れない。そう思ってよく聞いてみたら、そのようにも聞こえるのである。古名は「きりぎりす」である。
 古くは、秋鳴く虫の総称でもあった。昔から日本人に愛されてきた虫なのだ。そのような思いで聞いたいたら…
 「夕月夜 心もしのに 白露の おくこの庭に 蟋蟀(こおろぎ)鳴くも」(万葉集巻八・湯原王)を思い出した。

 そして、ふと、数日前のテレビニュースを思い出していた。
 それは、八戸の南部バスが「キリギリスバス」を運行しているというものだ。つまり、「キリギリスを入れた虫かご」を車内に吊しての運行ということなのだ。
 そのニュースの中で、アナウンサーが「秋の風情を伝え、お客さんに秋の風情を楽しんでもらっている」と言っていたことが気になりだした。
 キリギリスはバッタ目キリギリス科の昆虫だ。たたんだ翅の背面は褐色で側面は褐色斑の多い緑色である。
 私が気になりだしたことは、キリギリスは「秋の風情」とは馴染まない虫であるということだった。最近はあまり見かけず、鳴き声も聞かれなくなったが、岩木山では山麓の草原や原野で、秋ならず本当に暑く、気温が30℃にもなろうとする盛夏に、ギラギラと輝く太陽の下、藪の草いきれの中で、「ギッチョン」と鳴くのである。
 別名をギス、ギッチョ、ハタオリなどといい、キリギリスは秋の虫ではない。まさに盛夏の虫なのである。このような間違いが何故起こるのであろうか。それは、キリギリスがコオロギの古称であったためであろう。
 古今和歌集巻十九に「秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふきりぎりす鳴く」というのがあるが、この「きりぎりす」はコオロギのことなのである。
 ここまで書いてきたら、すごく寒くなってきた。窓を閉める時に温度計を見たら、外気温が11℃になっていた。
 4時には星が見えていた。晴れていたのだ。放射冷却で気温が下がっている。因みに今の服装はTシャツに長ズボン、室内気温が16℃だ。やはり「寒い」。
窓を閉め切ったからもう「虫の音」は聞こえない。聞こえるのは味気のないコンピュータのファンの音とキーボードのタッチ音だけである。
「虫の音」は「むしのね」であり、「音色(ねいろ)」のことだ。「ファンの音」と「タッチ音」は無意味な「おと」である。

「可哀想でコマクサを抜き取ることが出来ない」という人たちに/NHK弘前文化センターフェスティバル

2007-09-22 06:03:47 | Weblog
(写真は8月、木造・平滝沼から見た岩木山である。手前に咲いている花は、エゾミソハギだ。岩木山はどこから見ても美しい。)

    ☆「可哀想でコマクサを抜き取ることが出来ない」という人たちに☆

 昨日の文の中で言い足りなかったことがあったので、今朝はまずそのことを書く。
 「可哀想で抜き取ることが出来ない」という人たちに今一つ言いたい。

 写真展「私の岩木山」特別展示「岩木山のコマクサ」で見た2005年と2006年の花を咲かせている「コマクサ」の写真を思い出してほしい。「コマクサ」が株立ちしているところに絡み合うように「シラネニンジン」が咲いていたのである。
 これは、礫地では株立ち出来ない「シラネニンジン」が根をコマクサの根まで延ばし、そこで「コマクサ」と共生・共存して株立ちし、花茎を伸ばして開花したものだった。
 ところが、2007年には、「シラネニンジン」の葉は確認出来たが、花茎はおろか「花」は確認出来なかったのだ。つまり、「シラネニンジン」は今年咲かなかったのである。
 そして、「コマクサ」は今年、去年の約5倍という32個の花をつけたのだ。
この事実を「可哀想」という心情を抜きにしてよく理解してほしいのである。理解したら「可哀想」という感情を「シラネニンジン」に向けてはどうだろう。
 つまり、「コマクサ」は「シラネニンジン」との共生関係を破棄して、「自分」だけの繁栄を図ったことになる。岩木山に本来自生していた在来種である「シラネニンジン」が、「持ち込まれた」異物「コマクサ」によって「駆逐」されたと言ってもいいだろう。
 この「駆逐」されたシラネニンジンに対して「可哀想」だと思えないとすれば、それは偏った「優しさ」であろう。「優しさ」とは普遍性を持っていなければいけない。
 岩木山の自然に対する「優しさ」とは、「あるがままの自然をまもり残す」ということである。自生している在来種を保護していくということである。
 「コマクサ」を抜き取ることは「可哀想で出来ない」が、その「コマクサ」のために「花をつけることが出来なかったシラネニンジン」のことは気にならないというのでは、身勝手というものだろう。
 特別なものとか珍しいものとか、また、とりわけ美しいものにだけ関心を寄せる心情の持ち主であっては、「生態系をまもるという自然保護」活動には不向きな人であると言えるだろう。
 「可哀想で出来ない」と言って、自分のことを「こころ優しい」人間であるなどと思い込まれては、たまったものではない。
 「優しさ」は冷静に事実を見抜き、客観的に自己を抑制する中で生ずるものだ。それゆえに、時には冷徹過ぎるほどの「厳しさ」を伴うものである。


☆ 「さくら野弘前店開店5周年記念・NHK弘前文化センターフェスティバル」の案内☆

 表記のことが9月26日(水)から30日(日)まで開催される。
 1ヶ月ほど前に文化センター佐藤支社長から、岩木山を考える会が担当している講座「津軽富士・岩木山」として「さくら野弘前店開店5周年記念・NHK弘前文化センターフェスティバル」に参加してほしいとの要請があった。内容は岩木山に関する展示であるという。どのようなものをイメージしているのかと問うたところ、「岩木山の花」などと言う。実は、7月末から8月10日までNHK弘前ギャラリーで、これも依頼されてのことだが、私個人の「岩木山の花々」写真展を開いた。
 それを受けてのことだろう。展示「場所」を変えて、多くの市民に「岩木山」に関心を持ってもらい、今以上に岩木山を理解してもらいたいという支社長の配慮であろうと考えた。そういう訳で、引き受けたのである。
 主題は「岩木山、秋の花々」であり、出展数はA4判30枚である。一昨日までに、準備は終わっている。
 会場(弘前さくら野4F・さくら野文化ホール)に持ち込んで展示準備は25日10時である。
 なお、NHK弘前文化センターフェスティバルと銘打っているので展示は「岩木山、秋の花々」だけではない。ポスター等が手元にあれば掲示したいのだが、それもないので、展示項目だけ紹介しよう。
「押し花」「書道」「楽しいやきもの・陶芸」「パッチワーク」「水墨画」「ヒバ切り絵・絵手紙・刺繍・粘土クレー」などである。

(昨日実施した「コマクサ抜き取り処理」の報告は、東奥日報の掲載を待ってからにする。)


本日「岩木山のコマクサ」抜き取り処理実施

2007-09-21 07:24:43 | Weblog
(写真は枯れたコマクサ。これを抜き取ることになる。「不法」に蒔かれて咲いた「岩木山のコマクサ」である。)

     ☆ 本日「岩木山のコマクサ」抜き取り処理実施 ☆

 本日(2007年9月21日)「コマクサ」の抜き取り処理をする。本会からの参加者は私の他に工藤、斉藤両幹事の3名、青森県自然保護課2名、林野庁津軽森林管理署1名の都合6名である。それに東奥日報弘前支社の記者が1名同行取材をすることになっている。
 昨日に続いて今日もいい天気である。「抜き取り」作業にはうってつけの日和である。ただ、気温は30℃を越えるという予報だが、標高の高い場所での作業だからそれほどでもないだろう。ましてや、「場所」も広くはないのでそれほど苦にはならない。
 本会会長の阿部が参加できないのは、現在弘前市で開かれている(「動物学」ひろば)への協力のためである。日程が重なったことをすごく残念がっていた。

 ところで、「とても可哀想で抜き取ることが出来ないので作業には参加しない」という人が数名いた。
 そこで、私は、このブログで連載した【私は今年(2007年)も花をつけた岩木山の「コマクサ」です。偉い学者先生方が『岩木山には歴史上これまで生育していなかったし、自生はありえない』という私たちの数奇な運命を、皆さんに語ります。】という『岩木山の「コマクサ」が語る身の上話し』を冊子にして読んでもらった。
 結果はやはり、作業には参加しないということだった。私はこのように考える人がすべて、「優しい心」の持ち主であるとは思わない。真の「優しさ」とは確実な客観性によって成り立つものであるからだ。
 情緒的な思考と「自然の摂理」とを対峙させた時、人の多くはその情緒性に負けるものらしい。だが、大事なことは、「現実的な目で、しっかりと自然の摂理を把握する。」ということである。言い換えれば、科学的な思考で自然を学習するということである。これは人間の社会的な諸現実に対処する際にも必要なことである。
 本当の優しさとは「厳しい」ものである。「有無を言わせない」強さを持っているものだ。教育にあっても「可哀想」という同情心だけでは「教育」は成り立たない。時には「突き放す」必要がある。最近、これが出来ない教員や親が多い。ただ、「突き放す」ことが「無関心」であってはいけない。
 何故出来ないのか、それは「有無を言わせない力」がないからである。「勇気」がないからだと言ってもいい。
 「有無を言わせない力」は知識力、洞察力、判断力、決断力、技術力、それに、いついかなる状態の中にあっても、何事かを「し続けることが出来る」強靭な意志、しかも緻密に思考を構築する力などの総合力であろう。              

 あの『岩木山の「コマクサ」が語る身の上話し』は身勝手な人間によって持ち込まれた「コマクサ」のことを、「コマクサ」の気持ちになって書いてみたものだ。そこで改めて認識したことは、個人の行動も、社会的な法律も「人間のご都合主義」から一歩も出ていないということだったが、「可哀想で抜き取ることが出来ない」という心情も「人間のご都合主義」でしかないと思われてしょうがない。

 今日「抜き取られる」コマクサは、標本として「県立郷土館」に納められるそうだ。

東奥日報掲載「岩木山・花の山旅」今日で終了/山のゴミ(その3)

2007-09-20 06:26:10 | Weblog
(写真は東奥日報掲載「岩木山・花の山旅13回目」のコバノトンボソウである。)

*モノクロ写真にならない日に掲載と言っていたが、そうはならなかった。まるで、「これぞカラー写真で」と思っている日を選んでモノクロにしてくれる。書き手・写し手と編集者とがこれほどミスマッチなことも珍しい。
 これで、決意は固まった。早く「岩木山・花の山旅」(花の数450種)を出版するぞ。
 なお、この連載は短期なので今日15回目で終了である。休載日を含めて20日以上になったが、本当に短い。あっという間に終わった。今度はどのような連載依頼があるか楽しみである。

             ☆ 山のゴミ(その3)☆
(承前)

 その上、誰も見ていない山の中だ。人は簡単に自制心を失い、己の利に従い楽な方向に走る。
 人間はそれほど克己的な生き物ではない。だからといって諦め、規制任せにしてはいけない。または、個人に対する「とってつけたような心がけ主義」だけでこと足り得るわけでもない。
 小さい時から日常的に大事にするべきこと、これだけは絶対にしてはいけないことなど、その理由づけから教えて行動の中で体験させなければいけないものであろう。そこにはそれなりの社会的な規範が必要であるはずだ。
 さらに、それと合わせて、社会の仕組み、経済の仕組み、文化・文明のあり方や求められる価値を根本から変えなければいけないだろう。それをしないで、「ごみは持ち帰りましょう。」のかけ声だけでは空念仏の絵空事になってしまうに違いない。
 他人の目がない時、人はいつも飾らないし、振りもしない地の自分である。心のおもむ
くままに行動することが出来るのである。その「地の自分」があるがままの自然を保守するようになれる時、そこにはごみ等の諸問題はなくなるはずである。

 ゴミは歴史を語る。その時代と人を語り、人々の思想を語る。また、ゴミを出さないことも、歴史を、時代を、人を、思想を語るということを忘れてならない。
 我々は後世の人々にゴミを残さないで、素晴らしい現代を語るものでなければいけない。核の「ゴミ」もまたしかりである。      
 規制のない生き物に優しい自然の中で、自主的に自分を規制出来るようになって、はじめて、人間は社会的な規制が空気のように当たり前のものと感じれるに違いない。
 理想に過ぎるかも知れないが、人目のない自然の中であるからこそ、その場で自己のエゴを徹底して抑制出来た時、我々にとっては「社会の法的な規制も今よりもはるかに緩やかなものになっている」はずである。そうなる近い将来には、きっと入山規制はその求心力を失っているであろう。 
 入山規制は今どのように理解され、どのように運用され、どのようになっていくのだろう。とかく「制度」だけが一人歩きすることは多いものだ。人々の間に思想が浸透していくことが難しいからである。
 行政は「制度」を作って「よし」とせずに、教育も併行しすべきなのだ。「規制」のかげで「規制」を指導する側の「規制」無視の行動が目立っているという報告も後を絶たない。

 自主性は黙って放任していても育たないといわれている。程よい「抗いが出る」ような外的な刺激が与えられることで、自主の芽が育まれるとも言われている。我々はこの意味において、規制を捉え「白神山地における入山規制」を越えなければいけない。南八甲田地域の登山道問題にもこれは共通する。

 それにしても不届き千万なのは「東京都推奨」の大型ポリ袋に入って捨てられていた「ゴミ」であった。
 機会を見つけて、そのうちに「引き取りに行く」つもりでいる。それをしない限り、私には白神山地での素晴らしい感動の余韻が断ち切られてしまいそうに思えるからだ。(この稿は今日で終了する。)  

「動物学ひろば」開催案内/ 山のゴミ(その2)

2007-09-19 06:13:03 | Weblog
(写真は「動物学ひろば」の企画内容の案内パンフレットです。クリックするといくらか大きくなります。)
           ☆「動物学ひろば」開催案内☆

     ◆本会会長阿部東が「青森の昆虫たち」と題して講演◆

 詳細な案内は管理人によって、このホームページで公開されるはずですが、19日今朝現在、まだ公開されていないようですから、このブログで企画内容を表示します。

 9月22日~23日、弘前大学で「動物学ひろば」が開かれます。22日の公開シンポジウムでは15時15分から、パネラーとして本会会長阿部東が「青森の昆虫たち」と題して講演します。
 その他、色々な企画があります。会員のみなさん、またこのホームページをご覧になっているみなさん、動物に対する関心を育てるのに、またとない機会だと思います。どうぞ参加して下さい。
 近々に正式な案内が管理人からあるものと思います。

             ☆ 山のゴミ(その2)☆
(承前)
 この「旅の恥は掻き捨て」云々は道徳心や自制心に欠ける者にとっては、自分たちの無責任な行動を正当化するための弁解や、野放図に責任から解除されるためには、うってつけの俚諺ではあるまいか。
 そして、これがまだ許されている土壌がこの国にはあることも事実である。その根は海外売春ツア-などとしっかりと結びついているとも言える。
 ましてや、この白神山地は衆目のまったくない、もの言わぬ植物と動物だけの世界である。欧米人は恥を重視するものとして日本人を捉えるといわれるが、その日本人もここでは、なにが恥であるのかすら忘れ果てるみたいだ。
 そこには利己心しか見えない。南八甲田の「登山道整備」を声高に叫ぶ者たちの心情も、この「利己心」に支配されている領域がないとは言えない。
 入山規制はこの利己心の規制にほかならないだろう。あるがままの自然を保守する形で入山者のあるがままのエゴを徹底して自制できない限り、規制はその内容と対象をますます細分化して厳しいものにならざるを得ないだろう。そうさせていけないのである。 

 とかく山や川では、「もの採り」ほどゴミを放置する傾向にあるように見える。
純粋に山を登る者の荷物は、時間の経過に従って軽くなる。それに伴いリュックのスペ-スも広くなる。食料や飲料が減っていくからだ。「もの採り」の人たちもそこまでは同じである。
 ところが、「もの採り」の人たちにはリュックのスペ-スの広さが重大なことになる。山菜採りの人は、リュックいっぱいの竹の子や茸などを採りたいと思う。すでにエゴのとりこである。さらにリュック内のスペ-スを確保し、竹の子などを詰め込むことに腐心する。かくして、おやつやつまみ類の包装物、残飯やカップ麺の容器、ジュ-スやビ-ルの空き缶はいうに及ばず、手袋、上着、時として雨具までが放置される。 
 町の中で出来ることだろうか、人目のない、つまり規制のない山の中だから出来ることだ。これでリュックや背負い籠は山菜類で満載される。たくさん採ったという多大な満足感は放置された多量のごみに支えられたものに過ぎない。      
 このまま、ゴミの放置が続くと、そのうちに、ごみの山から細々と山菜を採集するということになるかも知れない。

 岩木山の赤倉沢から左岸の尾根に入る道がある。これは修験者の道だ。ところが尾根の中腹で根曲がり竹が密生しているところまでは、途中鎖場ならず綱場などもある難所だが無理をすれば山菜採りの人でも行ける。しかし、その上部はかすかな鉈目を頼らねばいけないし、非常に急峻で綱を支えにしなければ登れない状態になる。
 以前、この道を降りて来て竹やぶに捕まり、沢に迷い込んだことがあった。沢から抜け出して道捜しをしたが、情けないことに、その道を教えてくれたのが何と「ゴミ」の山であった。
 そこまでの道、つまり修験者だけが通る道にはゴミがなかった。竹の子採りがやって来れる道筋にはゴミが累々である。これでは「ゴミは持ち帰ろう。」は空念仏だ。あまりにも歴然とした、自主規制のあるか、なしかの違いであった。
山菜採りは背の荷を少しでも軽くするために、採ったものを減らさないで自分の出したゴミを置いて来る。なんと素晴らしくも手前勝手な合理主義であろう。
 かれら合理主義者にゴミを置いていかないようにさせるには、「ゴミ」そののもがかれらにとって大切なものであればいいのである。

 昔はこれがうまくいっていた。ゴミとなる「もの」がすべて少なく、希少価値が大きかった。アルマイトの水筒は高価だった。弁当箱も、雨具も手袋も上着も高額だった。みんなみんな大事なものを持って山に来た。そして、大切に使った。だから、だれもそれらを「ゴミ」として山に残さなかったのである。
 ところが今の世の中は、金さえ出せばなんでも手に入る。なくしたものはそのままで、捜しもしないもの余りだ。消費万能のこの世である。
 消費万能主義は人から、質素・倹約の心のみならず、自制の心まで奪ってしまったのである。大量消費時代は、その陰で自然の「大量破壊」に与している。
(この稿続く。)

「動物学ひろば」開催案内

2007-09-18 13:13:00 | Weblog
 ◆本会会長阿部東が「青森の昆虫たち」と題して講演◆
(写真は「動物学ひろば」の案内ポスターです。クリックするといくらか大きくなります。)
 間もなくですが、9月22日から23日まで弘前大学で「動物学ひろば」が開かれます。22日の公開シンポジウムでは15時15分から、パネラーとして本会会長阿部東が「青森の昆虫たち」と題して講演します。
 その他、色々な企画があります。会員のみなさん、またこのホームページをご覧になっているみなさん、動物に対する関心を育てるのに、またとない機会だと思います。どうぞ参加して下さい。詳細な案内は管理人によってこのホームページで公開されるはずですが、18日正午現在、まだの状態ですから、私のブログでポスターと簡単な案内を表記します。
 近々に正式な案内があるものと思います。


山のゴミ(その1)

2007-09-18 05:15:24 | Weblog
       ☆ 山のゴミ(その1)☆
(岩木山赤倉沢の滝・この近く右岸に取りつくと「鬼の土俵」に出る。左岸に取りつくと、「修験者」の道に入る。)                              
 八月中旬、数年ぶりに白神山地に入り、沢の遡行とやぶこぎや尾根歩きを味わった。
 もちろん、指定されたル-トに従ってのことである。ル-トといえば道を思うだろうが、それは道なきに等しいものである。
 その一週間ほど前から連日の雨天。土淵川や岩木川を見慣れている者としては増水を懸念した。そして、高巻きやザイル確保による渡渉と渡泳を覚悟して出かけた。やはり、水量は岸辺の草付きを越えるほどに多かった。
 しかし、赤石川の遡行・渡渉が出来ないことはなく、思いのほか楽に行われ、しかも流水は冷たく澄んでいた。本流のみならず、次々に現れる多くの枝沢のあるものは豪快な水量をもって瀑布をなし、あるものは岩上の苔をつないで糸をなして、緑の中で白く、青く輝きながら潤いを保っていた。
 ブナの森は水を一気には流さない。ブナ原生林が持つ保水力と清澄な水を湧き出させる力に、目を見張りながらブナの森が自然のダムであることへの畏敬を新たにもした。
 尾根に登る。渡渉してわずかに開けている河岸段丘。そこから、一気にせりあがるやぶの急斜面を、曲がりの激しい竹を支えによじ登る。もちろん道はない。ようやく、竹のやぶがまばらになり、高く、太く、たくましく伸びたぶなの森の中に立った。ブナの樹皮に手を触れる。すると渡渉した時の、足から伝わる清流の冷たさは次第にぬくもりに変わっていくのだ。
 ブナの幹は白い肌に潤いと温かみを持っていた。これがブナの生き物に対する秘めた感情かもしれない。道のない森ほど、生き物に優しいのである。

このような自然の風物と想いの中で、私はとても幸せであった。ところが、心はなにかしら抑えがたい空しさに捉えられていた。
 それと同時に、森の優しさを踏みにじる醜くも酷い人間の利己的なある行動に対しての、諦めにも似た腹立たしさが山行中ずっと続いていたのである。

 実は、この素晴らしい感動的な体験をする前に、赤石堰堤からのル-トに取りつく所で不届きなる「ゴミ」を発見したのである。
 予定だと帰路もそこを通るはずだったので、帰りに里まで運ぼうと考えていた。だが時間を短縮する必要から、既存の道につながるル-トを採ることになり、悔しいことに、「ゴミ」はそのまま残置しなければならなくなった。
 ゴミが放置されているの知っていながら、持ち帰れないという事実と、ゴミを放置していったこととは結果的にそれほど違いがないのではと考えた。するとますます悔しくむなしい想いは強くなった。
 
 そのゴミは、半透明で中がよく見えるポリ製の大きな袋に入っていた。ゴミの正体は、ビ-ルの空き缶を主として、めん類のカップや残飯類。それにこのごみを含めた荷物を運搬してきた金属製の折りたたみ式で、袋からはみ出すほどに大きなカ-ト仕様の車体が二台である。残飯の腐敗が進んでいないところを見ると、放置されて間もないものだろう。    

 驚いたことに、そのゴミ袋には、緑に白ぬきで「東京都推奨」と印刷されていた。東京都で使われているゴミ袋である。
 旅先では知る人もなく長くいるわけでもないから、恥になることをしても平気だ、というのが「旅の恥は掻き捨て」である。
 何が恥なのかを知っているとはいえ、まさにこの「東京都推奨」の袋に入れて、ゴミを放置した者は「旅先では知る人もなく長くいるわけでもないから、恥になることをしても平気」なのである。知っていることは行動に支えられなければ意味をなさない。
 東京都のゴミを白神山地に捨てていったという目前の事実が、「核のゴミ」を青森県六ケ所村に「貯め置く」という図式とスライドされてふと思い浮かんだ。
(この稿明日に続く。)

父の思いをナデシコとアジサイに託して(その2)

2007-09-17 08:24:42 | Weblog
(写真はエゾアジサイだ。東北地方と北海道に自生する紫陽花である。アジサイという名前の由来を見事に表出している美しい青色が印象的だろう。岩木山の赤倉登山道で撮影した。)

(承前)
      ☆父の思いをナデシコとアジサイに託して(その2)☆

 それから3ヶ月を経た頃にまたKがやって来た。娘の「結婚式」をイギリスで行うことになったので、出席してくれないかというのである。
 ところが、日程が本会の写真展「私の岩木山」開催日とどんぴしゃりと重なっていた。事前準備のことなど考えると、どうしても物理的に「出席」は無理だった。
 Kは「結婚式」での「挨拶」について触れた。そして、「イギリス人」に日本人の父親としての心情をどうしても伝えたいのだが、何かいい例え話はないかと言うのだ。

 そこで、私は「ナデシコ」と「アジサイ」を例にとって次のような話しをしたのだ。

 『日本を代表する花にナデシコがある。ナデシコを日本人が愛したのは「撫子」という名前に現れている。可愛い子供の頭を撫でるところからついた名前の上に、一見弱々しいイメージなのだが、忍耐強い「手弱女(たわやめ)」というイメージをも日本人は求めている。私は「娘」を、ナデシコのイメージで育ててきた。
 もう一つ、日本を代表する花がある。それは、真っ青な花が集って咲く紫陽花(アジサイ)だ。アジサイの名は、集めるという意味の「あづ」に真っ青を意味する「さあい(真藍)」が変化して「アジサイ」となったといわれているように、日本に自生して、昔から日本人になじみ深い日本原産の植物である。イギリスなどヨーロッパに広く見られる西洋アジサイは、日本のアジサイが原種であり、我が国日本が起源なのだ。
 アジサイを西洋に紹介した人物として有名なのは、19世紀のドイツ人シーボルトである。
 ところが、今あるアジサイの殆どは1879年にイギリスの園芸家、ジョセフ・バンクスが、日本からロンドンのキュー植物園に持ち込んだものが最初である。
 その後、持ち帰ったアジサイを「西洋アジサイ」として改良した。20世紀にはベルギー、オランダなどが育種をし、現在ではヨーロッパにとどまらず世界各国で栽培されている。
 現在日本で美しい花をつけている多くのアジサイはHydrangea(ハイドランジア)と呼ばれるヨーロッパから逆輸入されたものである。
 私はずっと長い間、「娘」のことを、「ナデシコ」という思いで育んできた。しかし、「娘」は今や、アジサイになろうとしている。
 アジサイはHydrangea(ハイドランジア)という名前をもらい、イギリスでは今なお人気の花で、多くの庭でブルーやピンクの花をつけ、とてもポピュラーなものとなっているそうである。
 そして、かつてのジョセフ・バンクスに代わった「L」君によって「娘」はイギリスに渡り、いま「L」君と結ばれようとしているわけである。アジサイは挿し木で増える非常に生命力旺盛な花だ。
 「娘」は本物の「アジサイ」になってイギリスの地に根づくことであろう。私はそれを心から祈っている。
 しかし、一方で、近い将来「娘」がハイドランジアとなって「L」君と一緒に日本に帰ってくることを望む気持ちを抑えることが出来ない。
 「娘」が私の永遠の「ナデシコ」であり続けること、また、「L」君にとってもいつまでも「ナデシコ」であり続けることを切に願っている。』 

 はたして、Kはこのような趣旨のことをうまく話せただろうか。そして、K君の両親や親類、さらに、友人たちはどのくらい父親としてのKの心情を理解してくれたであろうか。
 私にはこのことがすごく心配なのである。Kは間もなく帰国する。