岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

接骨木「ニワトコ」の花 / 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その9)

2009-07-31 05:32:26 | Weblog
 (今日の写真は接骨木「ニワトコ」の花だ。「ニワトコ」については7月26日のブログを読んでもらえるといい。だが、その日のものは「ニワトコ」の「果実」がテーマだったし、写真も「果実」だった。
 先日、「ブログ」読者から「ニワトコ」の花も見たいという話しがあったので、今日は「花」を紹介し、先日紹介出来なかった「ニワトコ」雑感めいたものを書いてみたいと思う。
 さて、今朝の写真だが…花の色はやはり「クリーム」色だ。そして、その生クリームの上に乗っかったイチゴのようなものが若い雌しべなのだ。この頃が最も美しい。次第に成熟するにつれて、色はもっと暗い赤になる。そうなると、「生クリーム上のイチゴ」というイメージは消えて、「美味しさ」という感覚もなくなる。
 それでも、総状の花全体はやはり、美しい。これほどの「生クリーム色」なのだが、咲き出した頃は、かなり「緑色」を含んでいて、「花」には見えない。一見「葉芽」に見えるくらいだ。
 それもそのはず、「ニワトコ」は「葉芽」と「混芽」というものを持っているのだ。純粋に「葉芽」の方は長卵形で細身である。「混芽」は「葉と花」が同じ芽の中に入っているもので、こちらは球形だ。いずれも二対~三対の芽鱗に包まれている。慣れてくると分かるようになるが、初めてだと、どれが「花芽」なのか見分けることが難しい。
 
 ちょっと逸れて、「果実」やその他について…
 この「ニワトコ」の「果実(種子)」が「三内丸山遺跡」の数千年前の地層から大量に出土し、「酒造りに利用されていた」らしいというので話題になったことがあった。「ニワトコ酒」は縄文人の祭りに欠かせなかった貴重な酒であったのだろう。
 ヨーロッパの「西洋ニワトコの実」は薬用や食用に利用度が高く、今でもニワトコの「ワイン」を作るそうである。だが、「ニワトコの果実」には、「その樹木」によって、猛毒の青酸化合物が含まれていることもあるのだそうだ。「採取」してみなければ分からないというから、これは「厄介」なことだろう。
 それでも、「ニワトコ」は色々と利用されてきた。先ずは「若芽を山菜」として食べることであるが、有毒成分を含むので食べ過ぎるとよくない。
 枝葉には悪臭がある。しかし、薬用にもされる。また魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りやアイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた。
 枝の髄は太く発達し、若い枝から抜き出した髄を乾燥させたものは、顕微鏡観察の標本用に生物組織から薄い切片を切り出すときの支持材(ピス)として古くから利用されている。今でもキノコの同定など、組織切片を得るときなどに用いられている。(明日に続く)

 ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その9)◇◇
(承前)

 …遙か手前に、すっかり様相は変わっているが「見覚えのある」光景が出てきた。それは、5月5日に、相棒Tさんと「荒川の倉」まで行く途中に通った「踏み跡」を含んだ光景だった。そうだ。あの日にはこの上部の「ブナとミズナラが混交している」尾根で「カモシカ」に出会ったのだった。
 忘れもしない「懐かしい」場所だ。そこは「踏み跡」の交差点になっている。真っ直ぐの沢の縁に向かっている私たちが進んでいこうとしている「踏み跡」と尾根の下部から上部へと「登っている」踏み跡だ。5月にはこの「登っている」踏み跡を辿ったのだが、残雪のために、間もなく消えてしまったのだった。
 「あの先はどうなっているのだろう。消滅しているのだろうか。それとも、どこかにつながっているのだろうか」とか「これを逆に降りて行くとどこに出るのだろうか。県道30号線に出るのだろうか。それとも、岳に出る踏み跡につながるのだろうか」などという思いが頭を過(よ)ぎる。
 私たちが進んで行こうとしている「踏み跡」はすでに辿っている。この「十字路」から、枯れ沢を渡ると直ぐに「平沢」左岸尾根の「縁」に出る。そこから斜めに降りると「平沢」だ。堰堤の下部を渡渉して右岸に出る。
 そこからは、大分、踏み跡化してはいるが堰堤建設用の「道路」が、「柴柄沢」の「頂部を水が流れ落ちる形式の堰堤」を跨ぐまで続いている。そして、その「堰堤」を渡って直ぐ右に、「岳」までの「踏み跡」が繋がっているのであった。
 既知の踏み跡を辿るよりも、まだ自分にとって「未踏」の場所を辿りたい。「ああ、行ってみたい。この十字路を左折して降りてみたい」という強い願望が私を捕縛していた。
 しかし、「時間」が私の願望を簡単に打ち砕いてくれた。時間はすでに14時を回っていたのであった。ここから、急いでも、「柴柄沢の堰堤」までは30分はかかる。さらにそこから「岳」までの踏み跡を辿ると1時間はかかる。自動車を置いてあるところは「毒蛇沢」の中腹部である。岳から毒蛇沢の駐車地点までは1時間30分はかかるだろう。
 猛烈なスピードで移動しても自動車を置いてある場所には17時到着ということになる。いくら、日の長い夏とはいえ、それ以上遅くなることは「登山にいうきまり」から逸脱していることだ。私はそう考えて、平沢に降りて行くことに決めた。
(明日に続く)

「岩木山登山マップ」 / 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その8)

2009-07-30 05:24:55 | Weblog
(今日は写真でなく昨日に続いて、「図版」だ。これは最近、弘前市観光物産課が発行した「岩木山登山マップ」である。旧岩木町が弘前市と合併する前に「本会」に作成を依頼した「岩木山ものしりマップ」の一部であり、「マップ」は私が、岩木町が所有していた原板に手を加え、修正して新しく作り直したものである。版権は弘前市(?)にあるかも知れないが「著作権」(?)は私にあるのだろうか。
 この度、弘前市から「掲載」の許可を貰ったので、本会ホームページに掲載してある。
ただし、掲載してあるものは、「今日の図版」のマップではない。
 本会ホームページの「岩木山登山マップをご利用下さい」をクリックするとページが開くので、そのPDFファイルから印刷が可能だ。これはA4版で印刷して使える。ただし、A4 版3枚ということになる。
 私は管理人に、最初この「今日の図版」の表と裏2枚を送付した。本音はこちらを「ホームページ」に張り付けて欲しかったのだ。これは元図版がB4版である。私のスキャナーはA4 の大きさまでしか取り込めないので、これを4分割して取り込んでから、2枚ずつ貼り合わせたものである。これには苦労した。
 何故、こちらを推奨したかというと「ホームページ掲載」のものがA4版3枚になるのに比べると、こちらはB4版であり、B4サイズで裏と表に印刷すると、ポケットに入るくらいコンパクトに折りたたむことが出来るからだった。
 コンパクトに折りたたむには、「津軽国定公園岩木山登山マップ」面を上にして、横向きで、内側に2つ折りにする。すると細い横長となる。
 次に「岩木山登山マップ」という写真部分が右はじになるようにして、内側に2つ折りにする。そして、両端のページを左右の下側に折り込むと、大体「ポケット」に入るくらいの長方形になるのだ。使用者はこれをビニール製の袋に入れて携帯すればいいわけだ。
 だが、B4サイズで印刷出来ない人もいるだろうと考えた。そこで、管理人に、A4版3枚セットの図版も送った。こちらも、公開すること、印刷して利用することの了解を得ているので、自由に使用していいものだ。管理人は、この2種類の「図版」を受け取って「B4サイズで印刷出来ない人もいる」という事実を勘案して、「A4版3枚セット」の方を「ホームページ」に掲載したのであろう。誠実な対応である。
 「今日の図版」や「ホームページ」に掲載したものには共通したことがある。つまり、図版はあくまでも、「デフォルメ」であるということだ。だから、正確性は保障出来ない。
 例えば、赤倉登山道と弥生登山道は山頂近くで「一緒」になっているが、事実は山頂までは別の道である。特に、「今日の図版」の方は、元の図がB4版なので、それをA4版2枚にして取り込み、B4版に貼り合わせているので、線や図形にずれがある。よって、正確な距離などはこの図からは測れない。
この「コンパクトになるマップ」が欲しい人は「差出人」だけの「空メール」を「本会代表のメールアドレス」宛に送ってくれると約1.0MBの画像として送付することが可能である。ご利用下さい。
 また、A4版3枚セットの方は開いた後で、そのまま印刷することも可能だ。どうぞ、「岩木山登山マップ」を利用して下さい。印刷をして、登山の際に利用していただけると幸いである。
 最後にもう一度…「記載されている図や記号はかなりデフォルメされているので鵜呑みにしないこと」をお忘れなく…。
 なお、「岩木山ものしりマップ」は来年度には発行される予定だという。)

 ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その8) ◇◇
(承前)

 …「林道」から踏み跡に入った途端、そこは「踏み跡」には見えなかった。林道敷設のために樹木が伐られているからだ。樹木がないから「下草」や「オオバクロモジ」、「タムシバ」などの小木低木が、いくらでも、陽光を浴びて繁茂しているのである。
 林道からの取り付きや「スキー場ゲレンデ」からの取り付き部分は、どこも、「厚い下草の繁茂や枝」に覆われて分からないものだ。
 このような場所では「足許」に注意しても「踏み跡」は分からない。先ずは「周囲の樹木の幹や枝」に付けられた赤ペンキなどの印探しだ。見つかったら、その「側」の下を探る。
 それもない場合は、横に2mほどの間隔を開けて、数カ所、枝葉をかき分けて覗いて見る。「微かでも踏み跡らしかったり、獣道」のようなものが見えたらそこへと入って行く。その場合、注意しなければいけないのは「自分たちがこれから進もうとしている方角」である。私たちの場合は「西」である。
 幸い、「赤ペンキ」跡があったので、それを追いながら、「西」に向かって動き出した。しかし、直ぐにその「赤ペンキ」跡は北西に向きが変わった。尾根を横切ることから、斜めに「登り」ながら移動しているのであった。今度はまた、「西」へと進む。林内を大きくジグザグを繰り返しながら、確実に私たちは水平移動でなく、「斜登」移動をしていた。
 私には、この薄れた「赤ペンキ」跡に従って行くべき先の見当がついていた。そこはかなり標高の高い場所であった。だから、「登る」必要があるのだ。
 ジグザグを繰り返しながら、小さな「枯れた沢」を渡る。そこからはほぼ真っ直ぐに水平移動で尾根を横切って行く。私たちは、平沢左岸尾根の中央部に達していたのだ。
 歩みは今までとは違ってスピードが増した。「目的」地が近いこと、「目」で探しながら移動するということがなくなったからである。つまり、微かではあるが、明らかに「踏み跡」が確実に「西」に向かって付いていたからである。
 本当に「林の中」に付けられた「踏み跡」はなかなか消えないものだ。それには条件がある。それは「木が伐られたり植林されない」ということだ。
 ブナ林の中に造られた「踏み跡」道は、そのブナ林が昔のまま保たれると40年や50年経っても消えることはない。だが、一旦、伐採されると「踏み跡」は1年で消えてしまう。
 平沢の尾根は広い。だが、ずいぶんと距離は稼いだ。左岸尾根の縁も間もなくだ。(明日に続く)

岩木山山頂「新築トイレ」完成予想画 / 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その7)

2009-07-29 05:16:50 | Weblog
 (先日開かれた「岩木山環境保全協議会」の席で、山頂の「新築トイレ」のことが明らかになった。今日の写真は岩木山山頂に「新築」される「トイレ」の完成予想図だ。
 これからも分かるように現在の「避難小屋」の左1.5mの場所に建つ。1.5mに5.3mの広さであり、高さは3.0mである。向かって左側に「男子用」、右側に「女子用」が設置されてある。
 屋根頂部2カ所に「避雷針」があるが、「岩石地帯」なので「アース」がとれないこともあって、建屋の下部に「疑似避雷用のアース」装置を埋設してある。
 使用者は、使用後「ペダル」を数回踏むことになる。これによって「ヴァイオ菌」と「糞尿」を撹拌することになり、きわめて自然に糞尿の処理が出来る。
 ただし、標高1625mという場所や気象条件の厳しさから「自然に処理が出来るかどうか」は「確定的」ではない。
 そのことを踏まえて「人力によるくみ取り口」の設置を要望していたが、それも、裏側に設置された。

 これまで、何回か書いたが、本会は、基本的には「山頂にトイレを設置することには反対」なのである。その理由は…、

 第1に「トイレ」数が登山道沿いに多すぎるということだ。岳登山道を例にとると「岳温泉」「スカイラインターミナル」「鳳鳴小屋」、そして「山頂」ということで、1登山道に4カ所のトイレがあることになる。異常である。

 第2は登山口に「トイレ」を設置することが優先されるべきであるということだ。現在5つの登山道があるが、登山口に「トイレ」があるのは2カ所だけである。百沢登山道をスキー場駐車場から登り始めると「トイレ」はないことになる。「登山口」で使用すると健康体の人ならば、下山までは「大便排出」の必要はないはずだ。岳登山道を考えると「山頂トイレ」の必要性は極めて薄くなるだろう。

 第3は「山頂とは神が宿る場所」であって「不浄なもの」を設置すべきではないと考えていることだ。私は、これまで何回か、ゴミを山頂に置いていこうとした登山客に、「山頂には神がいます。きれいにしましょう。不浄なゴミは持ち帰りましょう」と言ったところ、「トイレという不浄なものがあるのにですか」と切り返された経験がある。
 また、鰺ヶ沢口や赤倉登山道からは現在の「トイレ」がくっきりと「奥宮」のように見えて、それを知らない登拝者が「それ」に向かって合掌しているという事実があるということだ。新築されるものは現在のものより約8.0m南に移動した。しかも、低くなった。隣接する「避難小屋」は鰺ヶ沢口や赤倉登山道からは見えないので、恐らく、「新築トイレ」は見えないだろう。見えても、屋根の一部くらいだろうから「奥宮」と見間違える人はいないだろう。

 第4は「自然に糞尿の処理が出来る」ということへの疑義である。日本では、この条件での使用は初めてであるという。はたして、「ヴァイオ菌」と「糞尿」を撹拌することにより、うまく自然処理が出来るのだろうか。この疑問から、「糞尿の汲み出し口」の設置を要望したのである。

 だが、「既存」のトイレを使用してきたという経験と「トイレ」がすでに存在しているという事実は、否定出来ない。そのことも分かる。
 よって、「トイレをなくする」ことに代わって「新築トイレ」にして、懸念されることは極力排除した場所や形態、そして運用に力点を置くことで賛成したのである。
 「高価なトイレ」「日本でこの形式のトイレはただ1つ」などを考慮して、「緊急・避難的」な場合や時と範囲での使用に留めることが望まれるはずだ。大切に使うことが、岩木山の自然を守ることにもつながる。全国の人たちが注目しているのである。)

   ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その7 ◇◇
(承前)

 私と相棒は右手に見える消えかかった「赤ペンキ」跡を頼りに、登って行った。そうすると、必然的にその「ブルドーザー」など重機だけに頼った荒々しく粗雑な林道を辿ることになる。
 その「林道」のど真ん中には「ドラム缶」が放置されていた。「敷設して、伐採して、運び出せばそれで終わり」ということを自らが語る「林道」だった。
 「林道」はしばらく、「名無しの沢」と「平沢」に挟まれた広い尾根を横断していたが、間もなく、左折してさらに斜めに、下方に降りていた。恐らく、その先に「伐採地」が広がっているはずである。
 林道の山麓側には杉の植林地が広がっている。それは、背丈が低く、一本一本が「窒息」しているような、細い杉だった。まったく、下枝の払われた形跡がない。まるで、「種苗林」の幼木杉がそのまま生長したかのようだった。
 林床も林中も枯れた下枝に遮られて、全く見通せない。風さえ吹き通らないようである。もちろん、人も獣も「通り過ぎる」ことは出来ない。空気さえないように見えて、「細くて低い杉木立」が窒息に喘いでいるかのようだったのだ。

 植えた杉などは「手入れ」をしないと育たない。岩木山の尾根を歩くと至る所で植林された「杉林」や「カラマツ林」を見ることが出来る。
 これらは、ほぼ「放置」か「育種放棄」であるが、この場所ほど酷いものに出会ったことはない。
 森を育てることを放棄した林野行政の典型を見るような思いがして、それでもまだ「低い梢に緑の針葉をつけている杉」が哀れでならなかった。この「杉植林地」はこのまま捨てられるのだろう。
 込み上げて来る悲しみと憤りをぐっと飲み込んで、先を急ぐ。このまま、林道に沿って進むと下降してしまう。私たちは「西」に向かって、この尾根を横切らなければいけないのだ。
 幹に斜めになぞられた「消えかかった赤ペンキ」をミズナラに探す。そして、私たちは、「林道」を離れて、森の中へと入って行ったのだった。(明日に続く)

平沢左岸の枝沢 / 赤倉登山道と弥生登山道の合流に関すること(その2)

2009-07-28 04:03:16 | Weblog
 (今日の写真は平沢左岸の枝沢である。平沢の最後の、つまり、最も高い場所にある堰堤の近くを西から東に横断すると、真っ正面に見えてくる沢だ。沢というよりは流れの緩やかな滝である。だが。「鞣(なめ)滝」ではない。
 水量はいつもよりは多いような気がする。やはり、ここ数日雨が続いているからだろうか。
 この沢を遡行(そこう・さかのぼること)して尾根に取り付くことも出来る。そうしたい気もしたが、そこまでする必要はない。この沢が平沢に流れ込む左岸から、斜めに「尾根に取り付く踏み跡」が付いているからである。

 それにしても、この辺りの樹木は「カエデ」類が多い。しかも、大きく太い株から、10本近い幹を伸ばしたものがあちこちの見られる。
 これは、雪崩で折れたあとから「ひこばえ」として、株が芽生えて伸びたものであろう。
これは、この辺りが「冬期間」から雪解けまで、しょっちゅう、雪崩が起きていることを教えてくれるものだ。だから、冬にこの尾根に上がろうという時は、この場所を通ってはいけないのだ。どうしても平沢左岸尾根に登りたい時は、柴柄沢を渡ったら直ぐに東に移動するといい。距離はあるが、名前が示すとおりの「平らな河原」を横切ると、なだらかな「左岸尾根」に「登り」を意識しないで、取り付くことが可能である。安全なルートだ。だが、樹木や草が繁茂している夏場はその限りではない。

 カエデ類の樹下には、「フキ」や「ミズ」がいっぱい生えている。「フキ」の葉を1枚手折り、それをコップにして、飲んだこの「流れ下って来る」水は、実に美味しかった。
 斜めに付いている踏み跡道の脇には、すでにウスノキ「別名(カクミノスノキ)」が赤い実をつけていたし、アクシバの蕾も見えていた。)

 ◇◇先日、赤倉登山道と弥生登山道の合流に関することで「津軽の民」さんから、次のような問い合わせが「コメント」欄にあった。「コメント」欄を通じて回答はしたが、それをより多くの人に理解して貰いたいと考えた。そこで、今日はそれとそれに対する私の回答を掲載したい。(その2)◇◇

         赤倉と弥生登山道の合流の件について

「何か別々になった経緯とか、方針とかあったのか、お分かりでしょうか?」についてお答えいたします。

 このお訊ねに答えるには、現在の弥生登山道と昔からあった「弥生」から登る登山道について触れなければいけません。
 まず、現存する「弥生登山道」は岩木山では「一番新しい登山道」です。弥生地区は入植地域です。今から70数年前に入植した人たちが、原野やミズナラ、コナラなどの雑木が生えている所を切り開き、岩を掘り起こし、根っこを抜き取り、整地して耕し、「リンゴつくり」(当初はリンゴではなかったようですが)に挑戦して、苦労に苦労を重ねて、見事なリンゴ園にした所です。
 岩木山は山頂から山麓まで表土を掘り返すと大きな岩が出てきます。「園地」を開墾するにはこの「岩」との闘いだったと聞いています。苦労が偲ばれますね。
 そして、苦労を重ねた人たちが、毎日仰ぎ見る岩木山に感謝を込めて「登拝」するための「自分たちの登山道」が欲しいと考えました。そこで、その入植した人たちが、「手作りの、オリジナルな登山道」を自分たちの手で「開鑿」したのです。
 「独自のもの」という性格は、この登山道だけに「…合目」という呼び名とその場所、それに、それを付した「標識」のあることにも、よく現れています。これは、既存の岩木山の登山道にはない「表記・表現」でした。
 「スカイライン自動車道」で使っている「8合目」と「9合目」という表記は全くのデタラメです。どこの世界に「1合目から7合目」までがないのに、忽然と「8合目」と「9合目」が出現するということがありますか。もちろん、スカイラインは「弥生登山道」よりうんと遅れて「敷設」されたものなのです。
 「…合目」の意味には「仏教的」なものもありますが、詳しくは2009年3月24日 と25日のブログ「…合目と呼ぶためには、それなりの意味を持たせなければいけない」をお読みになって下さい。
 さらに、「自分たちの道」ですから、登山口から山頂までは「他の登山道は借りない」つまり、重複させないということで「敷設」されています。「自分たち」に拘った独自性と自主性はすばらしいものです。
 現在の8合目付近で、当時は営林署担当区作業員が通っていた道を横切るわけですから、それを「拝借」すると「赤倉登山道」に出ます。そうすると、苦労して新道を「開鑿」しなくてもいい訳です。しかし、弥生の人たちは「自分たちの道」に拘りました。自分たちの道を登って山頂に行きたい。その思いを優先させたのです。
 道のないところに「道」を造る。すべて手作業です。ただの、努力では出来ません。「重労働の二乗」くらいの労働提供で、弥生の人たちが造った道です。そのことに感謝しながら登りたいものです。
 よって、他の登山道と重複する部分はまったくありません。

 弥生登山道1合目から進んで、大黒沢を跨がないで、左岸に沿って進み、左岸尾根の稜線に出ると、古い「登山道」跡が現れます。最近はすっかり廃道となって、雪消え直後ですら、「踏み跡」発見は難しいし、途中で「消失」していますが、これが昔、船沢地区や高杉地区の人たちが「自分たちの登拝道」としていた道です。
 これは、「赤倉登山道大開」の直ぐ下辺りに出るのですが、今はその「痕跡」すら「赤倉登山道」沿いでは見られません。若い頃、私は何回か登り降りています。
 弥生に入植した人たちは、これとは別の新しい「自分たちの登拝道」を造ったのです。
(この稿は今日で終わり)
「久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その7)」は休載し、明日掲載する。

ドクウツギの果実 / 赤倉登山道と弥生登山道の合流に関すること(その1)

2009-07-27 05:37:47 | Weblog
 (今日の写真はドクウツギ科ドクウツギ属の雌雄同株の落葉有毒低木の「ドクウツギ(毒空木)」とその実だ。この実も「クマヤナギ」や「ニワトコ」に負けないくらい美しい。ちょうどこの時季に山野に彩りを添えてくれる。これは、平沢の右岸沿いの「踏み跡」道で撮影したものである。この踏み跡道は20日、21日、それに、昨日26日と連続して歩いている。

 「ドクウツギ」は北海道と本州の近畿以北に分布する。山地、河川敷、海岸の荒地などに自生する落葉低木で、高さ1.5m位になる。
 花は5月頃に咲き、果実は初め赤く、後に黒紫色になり熟す。実は約1cm程度であり、初めは赤く、熟すと黒紫色になる。
 「ドクウツギ科の植物」としては、日本には、この「ドクウツギ科ドクウツギ属」1属1科1種しか存在していない。
 これは植物学者の「前川文夫」が、大陸移動と地軸の変動を考慮にいれた「古赤道分布論」の基礎の1つとしたことでも知られている。
 これは「ドクウツギの近似種が世界に10種ばかりあるが、極めて飛び離れた隔離分布をしている。このことを白亜紀頃の赤道に沿った分布であると考え、白亜紀の赤道に沿って分布していた種が、その後の気候の変化の中で、寒くなり過ぎた地域で絶滅したため、このような、世界中を点々とするような分布が生じた」のだという論である。
 このように、非常に空間的、時間的にもスケールの大きい発想に基づく説を展開する前川文夫には、私のような素人は惹かれるのだ。
 1943年に「史前帰化植物」という考えを提唱したが、これも、私のような素人には、「時空を越えた歴史的なロマンと夢を与えてくれる」点で凄く惹かれている。

 「ドクウツギ」は名前が示すように「猛毒」の植物だ。「コリアミルチン、ツチン」などの有毒成分を含む。人が食べると痙攣・呼吸困難に陥り、場合によっては死に至る。
 昔は農村で子供が食べ死亡する事故が多かった。小児の誤食による事故が人の全植物中毒の約10%を占めるほどであったという記録もあるそうだ。そのために、「ドクウツギ狩り」まで行われたという。別名に「イチロベゴロシ(一郎兵衛殺し)」「オニゴロシ(鬼殺し)」などもあるそうだ。
 春の終わりから夏にかけて川原や山の斜面の日当りのよい場所に自生して、果実は熟すと赤く、今日の写真のように「美味しそう」に見える。だが、果実に有毒成分が多く含まれているのだ。全草に毒性があるが、比較的弱いとされる「葉」でも「24g」が人の致死量だという。
 名前の由来は、「毒を持った空木」ということであり、茎は空洞になっている。

 恐ろしい「ドクウツギ」についてのまとめを、最後に書いておこう。
●すべての部分が有毒だ。●日本三大毒草の1つである。他の2つは「ドクゼリ」と「トリカブト」だ。3つとも岩木山に自生している。●見分け方は「葉の3本の葉脈」に注目。)

 ◇◇先日、赤倉登山道と弥生登山道の合流に関することで「津軽の民」さんから、次のような問い合わせが「コメント」欄にあった。「コメント」欄を通じて回答はしたが、それをより多くの人に理解して貰いたいと考えた。そこで、今日はそれとそれに対する私の回答を掲載したい。◇◇

 『はじめまして、時々ブログを拝見しております。赤倉登山道と弥生登山道は、一般的な地図を見ると、9合目辺りから合流していると思うのです。でも、実際に登ってみると、2登山道は、9合目辺りで凄く近いのに、別々の道になっていますよね。何か別々になった経緯とか、方針とかあったのか、お分かりでしょうか?』

赤倉と弥生登山道の合流の件について

「津軽の民」さんへ
 お答えいたします。地図が間違っています。赤倉登山道が弥生登山道と頂上近くで合流するかのような地図記載がありますが、そのような道は現在ありません。また、数年前に、日本を代表する「山岳雑誌」が「赤倉登山道」を取り上げた時にも、「2つの登山道が合流する」という表現がありました。このことについては「訂正」するように雑誌社に依頼したところ、いまだに、「訂正」したという通知はありません。

 ただ、弥生登山道8合目の小さな水溜まりから「微かな踏み跡」状のものはあります。しかし、一般的な登山者には分からないと思います。これは百沢登山道「錫杖清水」の下部から続いていた営林署担当区作業員が歩いた道で、私が岩木山登山をはじめた頃にははっきりとありました。40年ほど前でしょうか。この水溜まりの脇を通って赤倉登山道に繋がっていました。しかし、現在はその形跡は見あたりません。ただし、根曲がり竹や這い松の藪こぎをしますと赤倉登山道に出ることは可能です。私は時々通ることがあります。
 しかし、現実的には弥生登山道と赤倉登山道は、それぞれ別ルートで山頂に向かっています。合流するのはあくまでも「山頂」です。
 あなたが言われるとおり、この2登山道は南と北東側に存在し、山頂近くでは、至近距離は直線で30mほどになります。25.000分の1地図上の1cmは実際は250mですから、30mの違いを画然と示す表記は出来ないかも知れません。
 そのような理由で「合流」しているかのような「描写」になったのかも知れませんね。
    (この稿は明日に続く)

「久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その7・8)」は今日と明日休載する。明後日から掲載を始める。

ニワトコの実 / 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その6)

2009-07-26 05:18:01 | Weblog
 (今、岩木山では山麓から山腹にかけては「花」の端境期で、咲いている花はそれほど多くはない。この時季に、私たちの目を楽しませてくれるのは、昨日紹介した「クマヤナギ」の実や今朝紹介している「この実」などだ。
 とにかく美しい。また、これほど、深い夏緑に映える色彩もない。秋の「果実」の赤さとはどこか違う。艶のある実だ。しかも、小さいが数が多い。これが豪華さを演出する。花をよく知っているとなおさらその変貌ぶりには驚く。
岩木山では、「ニワトコ」の花は5月の中頃から咲き始める。新しく伸びた枝の先に花序を造り、その長さと幅はともに10cm前後だろうか。花柄には毛があり、対生状に分かれて、小さな花を多数つけるのだ。
 花冠は5つに裂けて直径が3~5mmである。薄く白っぽい黄緑色(クリーム色といってもいい)で、ちょっとだけ紫色に縁取られている。
 雌しべは紫色で柱頭は短く、先端は3つに分かれているが、雄しべの方は5本である。
 ウワミズザクラなどは咲いているが、まだ、低い樹木の花がそれほど咲いていない時季に、林縁や藪の外側に咲いているこの「ニワトコ」の花は、「他にあまり咲いていない」という意味では「目立つ」のだが、今日の写真のような深緑に赤く映える「美しさ」での存在感はない。 

 今日の写真はスイカズラ科ニワトコ属の落葉低木「ニワトコ(接骨木)」の果実だ。 
 「接骨木」と漢字書きして「ニワトコ」と読む。とても読めたものではない。難読漢字の一つだろう。読めないからといってがっかりすることはない。読めなくて当然と考えよう。
 「ニワトコ」は本州から南西諸島に分布する。明るい谷筋や林縁など、比較的水分条件や土壌条件が良好な場所に生育する。高さは2~3mになり、根元から勢いのある太い茎が出て株立ちとなる。若い茎の樹皮は明るい灰褐色で滑らかであるが、太くなると表面にコルク層を発達させ、縦の割れ目が顕著になる。
 葉は対生し、長さ20cmほどで、2~4対の小葉を持つ複葉である。葉は軟らかいが、「落葉樹」という性質からはかなり厚いほうだ。小葉の縁には規則正しい鋸歯があり、裏面の脈上には微毛がある。
 さて、今日の写真の「果実」だが、6月の終わり頃には熟し始める。熟し始めた頃は赤いものと緑色のものが混ざっているが、次第に赤く熟して「美しさ」を発揮する。
 この実も7月の下旬から8月にかけて、大半はなくなるだろう。この時季は花だけでなく「果実」も端境期なのである。鳥たちにとっては格好の餌であるのだ。鳥が食べるのに程よい大きさだといわれている。果実の少ない時に鳥に食べられることで、「種」を広く散布させて、「ゆっくりと時を待って発芽させる」というのが「ニワトコの戦略」なのかも知れない。
 ところで、「ニワトコ」の乾燥させた枝葉を煎じて服用すると「解熱、むくみ、利尿」に効果があるそうだ。また、この枝葉を入れて入浴すると「神経痛、リューマチ」などに効くし、打ち身、打撲には患部に塗布することで効き目があるといわれている。
 さて、この難しい名前の由来だが…、
 かつて、『接骨した場合の治療に、「ニワトコ」の枝を黒焼きにして、小麦粉と食酢を入れて、練ったものを患部に厚く塗って、副木をあてて押さえておくというもの』だったそうだ。このことから、「折れた骨を接ぐ薬草」という意味で、接骨木(せつこつぼく)という、漢名がついたと言われている。
 また、一説では、和名「ニワトコ」は、古名である「ミヤツコギ(造木)」の転訛であるする。源順(みなもとのしたごう)『倭名類聚抄』の「接骨木」の項には「美夜都古木」とある。八丈島では「ミヤトコ」と呼ぶそうだ。「ニワトコ」を「庭常」と書いているものもあるが、これは当て字だ。
 古代歌謡で、「迎う」の枕詞として使われる「山たづ」は、後の「造木(みやつこぎ)」、つまり、「ニワトコ」だという。
   ・君が行(ゆき)日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ・
 別名を「ハナギ」というが、これは、この枝で削り掛け(削り花)を作り、小正月に用いたことによるものだ。)

   ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その6) ◇◇
(承前)

 …そもそも、「林道」とは「樹木を伐採するために造られる。そして、伐採した木々の運搬のために使われるものであり、伐採後には杉等の植林のために使われる。さらに植えた樹木の育樹と保守や点検作業のために使われるもの」だ。
 その目的どおりに造られて使われていると、それは確かに「一石四鳥であろう。一本の林道が四つの目的に使われるのである。
 だが、ここ20年以上前からの「林道」はすっかり「変貌と変質」している。その目的は単に「伐採して運び出す」ことだけである。それが終わると「放棄」され「放置」される。山を守り樹木を育てるということはない。だから、それは、樹木を伐り尽くして地肌を引き剥がして、そのままだ。
 これくらい、「自然破壊」を地でいっているものはない。「自然を壊さないで木を伐る。そして運ぶ」ためには「人力(鋸による手作業)」で伐って、伐採した樹木は冬場に橇などを使って麓に運ぶなり、沢の流れを利用して運ぶことであろう。本気で岩木山の森林や自然を守っていこうとすれば、それは当然のことだ。林野庁はそのための先頭に立つべき「行政機関」なのに、「破壊を容認し、それを手助け」しているのだ。
…木を伐らないと道路を造らなくてもいい。植林をしなくてもいい。木を運ばなくてもいい。谷に堰堤を造らなくてもいい。動物や植物を殺さなくてもいい。空気(酸素)は奇麗で新鮮でいい。二酸化炭素が増えないのでオゾン層を破壊しなくていい。土石流や水害がなくていい。沢や川の魚がたくさん捕れていい。海の魚だってたくさん増えていい。熊だってカモシカだって食べ物がたくさんあって大変いい。金がかからなくてとてもいい。ミズナラもブナも自分の葉を落として、自分たちの土壌を造るのだ。彼らはずっと昔から、そのようにしてきた。新緑や夏緑の森を一度歩いてみるがいい…
 木を伐らないということは、まったくいいことづくめなのである。(明日に続く)

クマヤナギの実 / 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その5)

2009-07-25 04:52:34 | Weblog
 (今日の写真はクロウメモドキ科クマヤナギ属の落葉つる性木本の「クマヤナギ(熊柳)」の果実だ。これは北海道、本州、四国、九州、沖縄にかけての丘陵、山地に普通に生える。
 葉は互生し、長さは5cmほどの卵状楕円形で、すっきりとしていて裏面はやや白色を帯ている。だが、名前が持つ「柳」を連想させるほどの細い葉ではない。
 「ちょっと見」からは、恐らく、「平行する葉脈と垂れ下がって風に揺れる姿が柳を連想させた」ものではないだろうかと思うのだ。

 花は7月から9月にかけて、茎の先端に枝分かれした円錐花序を作って、緑白色の小さな花を多数咲かせる。頂端が尖った白いつぼみの先端が5つに割れて開くが、横から見るとその中の花弁は隠れて見えない。中の花弁は小さく、花弁のように見えるのは5個の萼片だ。これは卵状披針形である。だが、真上から見ると、この5枚の萼の内側に短い5つの花弁が見える。雄しべは5本だ。

 「果実」は1年かけて熟すので、花と果実が同時に付いている。「果実」は楕円形で、初めは緑色、その後に赤くなり、最後に熟すと黒色になる。黒熟するのは「翌年の8月から9月」である。熟す頃には、新しい花が咲くので、「花と実」を同時に見ることが出来るのだ。
 ところで、この写真を撮ったのは7月20日である。花が咲く時季には少し早過ぎたのだろう。この木に「花を探してみた」が、見あたらなかったのである。
 先日、紹介した同じクロウメモドキ科の「ケンポナシ」の実が食べられるように、この「黒熟」した実は「生食」が可能だという。だが、どんな味がするのか、まだ食べてみたことがないので、私には分からない。

 「クマヤナギ」は蔓性低木だ。だが、この「蔓」には独特の性質があるらしい。勢い良く伸びる「シュート」(注)は巻きつかず、細くなった先端部分が弱く巻きつく程度で、殆ど巻き付いていないこともある。低木の上に出て、垂れ下がることが得意で、他のものに巻きつかず、もたれ掛かるか、または覆いかぶさるようにして大きくなる。若い蔓は赤褐色または緑色で、堅く丈夫だ。幹は古くなると黒っぽくなり、縦に裂け目が出来る。
 名前の「クマ(熊)」は「黒くて丈夫」ということに因るらしいし、「柳」は、葉がヤナギを思わせることに因るらしい。

 時に、葉におかしな出っ張りがあったりする。葉脈に沿って表面に半円状に突き出ているものだ。「虫」の虫である本会会長によると、これは「クマヤナギハフクロフシ」と呼ばれる、「キジラミ」の仲間によって造られるものなのだそうだ。裏面には狭いすじ状の開口部があって、その中には幼虫がいるそうである。

 注「シュート」:1本の茎に葉がついているまとまりをシュートと言う。植物は、シュートに根がついているものである。花は、このシュートから進化したといわれている。

◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その5) ◇◇
(承前)

 …「平沢」の「左岸尾根」に先に上がった私は、先ず、この「課題」、つまり、「暗黙の約束事」の実行に取りかかった。
 沢からの斜面を登り切った場所から20mほどの上方にはミズナラ林があった。そして、その幹にうっすらではあるが「赤ペンキ」跡が見て取れた。視線を左に動かしていくと、その消えかかっている「赤ペンキ」跡がある程度の「間隔」で着けられている幹が次々と並んでいたのである。
 「ということは、あの消えかかった赤ペンキの下手(しもて)に、踏み跡があるのだな」と呟きながら、私はその印と併行して数10m、かなりの早足で進んだ。人間の心理とは「現金」なものだ。「見通し」が立つと途端に元気になる。
 だが、数10m進んで「出た」場所で、私の歩みは止まった。「愕然」となった。どこかで以前に見たような光景が広がっていた。止まったというよりは、「停止」させられて、体の動きが凝固して「佇立状態」になってしまったのである。
 以前見たような光景、そうだ。それは「鰺ヶ沢スキー場拡張ゲレンデ」を造った時の「ブナ林」伐採後の光景であった。また、数年前に「百沢スキー場」尾根の左岸で見たミズナラやブナの「伐採」地であった。
そうしているうちに、「相棒」のTさんもやって来た。開口一番「凄い林道ですね」。そうだ。そこは林道だった。明らかに「ブルドーザー」などの重機だけに頼った荒々しく粗雑なだけの林道が山麓から延びていて、私たちが立ち止まっている辺りで、左折してさらに斜めに、上方に繋がっていた。相棒が言う「凄い」という意味は「荒々しく粗雑なだけ」ということに加えて、「二度と使われることがない」ということも含まれているだろう。
 「樹木を伐採して、その伐った木を運び出すためだけ」の林道は、岩木山でもあちこちに見られる。ここも、その中の一カ所だろう。私たちが簡単に行って見ることが出来るこの手の「林道」は百沢スキー場尾根の左岸にある。5年ほど前のことだ。百沢の住民が「あそこを伐採されると土石流の心配がある。どうすればいいか」と本会に相談してきたのである。私は現場に出かけて行き、調査をしてから「森林管理署」に、「中止」を要請した。
 だが、返ってきたのは「山麓のの人たちが管理している場所(森林)なので、その人たちが伐るというと許可を出さざるを得ない」というものだった。そこには、「森林を守り育てていこう」する姿勢はない。  (明日に続く)

久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その4)

2009-07-24 05:16:42 | Weblog
 (今日の写真は本文の中で説明することにする。何を何の目的で撮ったものかは次を読んでいただくと分かるはずである。)

  ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その4) ◇◇
(承前)

…その「踏み跡らしきもの」から尾根中央ラインを走っている「踏み跡」に戻った私たちは、もう一度、尾根を横断しているであろう「踏み跡」を探した。「踏み跡探し」が、そして、その「踏み跡」を辿って「岳」まで行くということが目的なのだ。「踏み跡」を繋いでいかないと「看板に偽りあり」ということになってしまう。だから、何としても「踏み跡」を見つけたかったのだ。
 だが、やはり、無駄だった。方向としては「正しい」はずなのだが、すでに、横方向への踏み跡を辿る人は、山菜採りを含んで「皆無」状態となっていて、その手がかりはまったく「消滅」していたのだ。
 私は、ふと思った。「消滅」してしまったからこそ、この「淡い紫色」の「梱包用ポリエチレン製のテープ」が付けられているのではないのか。そう思って「踏み跡」の探索を止めて戻り始めた。
 相棒Tさんは、まだ探し続けており、私との距離はかなり離れた。Tさんの藪をかき分けて歩き回る音がまったく聞こえない。どこまで行ったのだろう。
 「おーい、Tさんどこだ。こっちに来て」と叫ぶ。数分後に、私が先刻、やって来た方向からTさんが現れた。
 藪の中では5mも離れると「相棒」の姿は見えなくなる。もしも、数名で行動しようとする時は、「前の人を絶対見失わない」でついて行くということが鉄則である。そのためには「ついて行く」体力と藪漕ぎに慣れていることが求められる。

 さて、Tさんが来たので、私たちは「今日の写真」が示す場所に向かった。これが、「名無しの沢」に降りて行く「取り付き地点」である。
 どう見ても「踏み跡」には見えないだろう。「夏草や強者どもが夢の跡」だ。かつては「営林署担当区作業員」などが定期的に辿ったであろうこの「道」もすっかり枝葉に覆われて「道」の体をなしていない。「道」という「人工物」が、まさに「自然に還えりつつ」あるのだ。
 「浅くて高さがなく、直ぐに沢本流に達する」ような場所では、「踏み跡(道)」は、先ず真っ直ぐに着いているものだ。この写真の踏み跡は「真っ直ぐ」ではないのだ。「名無し」の沢だから、浅くて小さい。しかし、「踏み跡」は「ジグザグ」を2回繰り返していた。
 正面を見据えると「踏み跡」には絶対見えない。ただの「藪」である。しかし、視線を右に振って「じっと見る」とその奥に、草の少ない地表と僅かな空間が見える。それが、「踏み跡」なのである。
 雪が消えたばかりで、樹木がまだ葉を付けず、下草も生えていない時季だったら、この「踏み跡」もはっきりと「区画」されて見えただろう。だが、今は夏緑の季節、下草や樹木の葉が一番繁茂している時季なのであり、私たちは「それ」を承知で「踏み跡探し」山行を実行しているのだから、そんなことを考えても、何の意味があるというのだろう。

 行動を開始したのが7時50分、時計を見たら12時近かった。すでに、4時間を経過していた。私たちは、この4時間、滝ノ沢の崖壁をよじ登り、尾根に上がってからは林内の藪の中を縦に登り、縦に下り、そして「右往左往」していたのである。
 とにかく、これから進むべき方向が明確になった。いくらか、緊張が弛んだのだろうか。突然、空腹感が体の底から突き上げてきたのだ。「昼飯にしよう」と私が言った。
 私たちは、この写真の手前に陣取って向き合って座り、「昼食」を摂ったのであった。 短い昼食だった。20分後、私たちは、この「踏み跡」を降り始めていた。やはり、「踏み跡」は消えかかっている。短い「ジグザグ」を2回繰り返すと、沢縁に繁茂する草木に覆われて「踏み跡」は消えた。
 渡渉地点の目安として対岸に「あるであろう」何かの「目印」を探すが、それもない。「ない」というよりは「見えない」という表現の方が当たっているだろう。
 沢の幅は狭かったが、水は結構、勢いよく流れていた。
 とにかく、対岸の尾根に上がらなければいけない。右側に草木帯の「くびれ」状が続いていた。Tさんはそっちに進んだ。だが、見るところ、その「くびれ地帯」は深い藪を形成していて、そこを登るのは難儀だと思われた。
 「尾根の林内」に出ると確実に合流出来ると判断して、私は左へと登り始めた。深くて背の高い藪を「鉈」で払いながら、数歩登ると、そこは樹木の生えるなだらかな斜面だった。斜めに地を這っている枝を手がかりにして、一気に尾根の縁に出た。
 ついに「滝ノ沢」を渡り、「名無しの沢」を渡渉し、「平沢」の「左岸尾根」に足を踏み入れたのである。
 Tさんはまだ来ない。このように「ある場所」に先に着いたものには、必然的に「課題」が与えられる。それは、その「場所」の調査と「ルート」の発見と見通しをすることだ。これは「複数名」で「山行」する時の「暗黙の約束事」でもある。
(明日に続く)

ケンポナシのこと / 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その3)

2009-07-23 05:20:41 | Weblog
 (今日の写真クロウメモドキ科ケンポナシ属の落葉高木「ケンポナシ(玄圃梨)」である。また「計無保梨」と書く場合もあるようだ。名前は梨だが、梨(バラ科)の仲間ではなく、クロウメモドキ科(ナツメの仲間)である。
 岩木山でよく見かける「クロウメモドキ科」の樹木は他に「クマヤナギ(熊柳)」がある。これはすでに赤と黒の実になっている。
 高さは5~7mほどになる。この写真のものは高木で、下枝には花はまったくついていなかった。花の咲いている枝は、すべて「高い方」のもので、55mmレンズでは「花」を大きく撮ることは出来なかった。これは、その写真の「花の部分」を「拡大」してあるものだ。
 北海道(奥尻島)から本州、四国、九州にかけて日本各地に分布しているが、一般にはあまり知られていない樹木である。まさに、「知る人ぞ知る」といった樹木である。
 そういう私も数年前に、初めて、その存在を知ったのである。しかも、岩木山ではない。
 それは平川市(旧平賀町)の標高350mにある「志賀坊高原」であった。ここは、「津軽平野と岩木山が一望出来て夜景がすばらしい」場所として知られているが、春から秋まで草本や樹木の花が多く見られ、それらを「観察する」場所としては「最適」な所だ。それ以降、毎年、ナニワズの咲く春から、夏、秋と必ず訪れている。
 私は「志賀坊高原」で「ケンポナシ」に出会うまで「岩木山」で「ケンポナシ」に出会ったことはなかったのだ。だから、それ以来「岩木山」で「ケンポナシ」を探していた。そして、ようやく昨年、この木を見つけたのである。それが、ようやく花をつけたのだ。
 このような事情から拙著「岩木山・花の山旅」には「ケンポナシ」は掲載されていない。

 「ケンポナシ」の特徴は、奇妙な形をした「果実のような物」にある。赤みを帯びた茶色の肉質化したものは「果柄(花穂の枝、または花序)」である。その先に、球形の「果実(径7mm)」がついているのだ。この果柄は、甘味があって食べられる。ただ、「甘い」を実感するには時季が問題になる。この「果実」には「酒毒(二日酔い)を消す薬効」があるとされている。また、「利尿、解毒」にも効くそうである。今、花をつけているのだから「果実」となるのは秋遅くである。そして、「果実」をつけたままで、冬を越す。雪解けが始まる頃には、地上に落ちている果実を簡単に拾うことが出来る。その頃だったら、それを拾ってきていると「二日酔い」を心配しないで「大酒」を飲めるかも知れない。

 ちょうど今頃(7月中、下旬)、枝の先に多数の淡緑色の小さい花が花序になって咲く。花弁は5枚で反り返る。雌しべは3花柱で萼片も反り返る。葉は互生し、長さ10~20cmの広卵形で尖り、縁に鋸歯がある。

 さて、この妙な「ケンポナシ」という和名の由来だが、はっきりしない。牧野富太郎は「テンボウナシ(手棒梨)の転訛とし、玄圃梨と表記するのは間違いであろう」と言っている。恐らく「果実」の形が人間の手(指)に似ているところから、「手に棒が付いた形」を表現して、「手棒梨」となり、それが訛って「ケンポナシ」となったものであろう。
 また、その形が「ハンセン病」の人の手に似ているからという説もあるとのことだ。だが、これは戴けない。
 私は、この名前を聞いた時に、「拳棒」という漢字を思い浮かべた。そして、果実を見て、まさにこれは「拳のような棒だ」と実感した。別に「拳棒梨」でもおかしくはない。
 ただ、分からないのは「梨」ということだ。バラ科の梨ではない。梨のような格好もしていない。食べても別に「梨」の味がする訳でもない。葉に鋸歯があることを除いては、「バラ科梨」の特性とは似ていない。疑問だ。
 
 「ケンポナシ」は地域によって様々な呼び名がある。「テンポナシ」「テンコナシ」「テンゴナシ」「テンボナシ」などだ。「テン」は「手」ではなく、その意味は、「実が木のてっぺんになること」から、「てっぺん」を指す「天」が元になっているらしい。他に、「ケンノミ」とも呼ばれるという。
木部は、木目が美しく狂いが少ないので、建築材や家具材として使われるという。)
「岩木山で初めて出会った「ケンポナシ」の花ということで、いつになく「今日の写真」の話しが長くなってしまった。その分だけ今日で3回目になる「久しぶりの踏み跡探し」の報告が短くなることをお詫びする。」

  ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その3) ◇◇
(承前)

 いくら地図と磁石を持っていても「森の中や藪の中」では、自分が「どこにいるのか」分からない限り、不安なものだ。そのような時に、何か「確定的なもの」を発見することは、それだけで「自分の居場所」が分かったような気分になり、ほっとするものだ。
 私たちは、この「ペンキ跡」から二手に分かれ「左右に移動」を開始した。つまり、そこを基準に「左右」に踏み跡がないかどうかを確認するためだ。
Tさんは左、つまり「滝ノ沢」の縁方向に、私は右の「名前のない沢」方向に動き出した。だが、踏み跡らしきものは発見出来なかった。
 そこで、また尾根中央ラインを走っている「踏み跡」を降り始めた。少し降りると「右手」に「淡い紫色」の何かが見えた。それは、梱包用のポリエチレン製のテープで、枝に縛り付けられていた。新しいものではなかったが、それほど古くもない。
 恐らく、「山菜採り」がつけたものだ。しかも、この尾根中央ラインを走っている「踏み跡」から逸れて付けられていた。私たちは、それを辿った。それは、尾根右岸の「名前のない沢」方向へと斜めに登っていた。しかし、間もなく途切れてしまった。そこで、沢の縁に寄ってみると、何と、そこには「沢に降りて行く踏み跡」らしきものがあったのである。
 そこを10mほど降りて、明らかに「踏み跡」であることを確認してから、今一度、私たちは、尾根中央ラインを走っている「踏み跡」に戻った。(明日に続く)

久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その2)

2009-07-22 04:49:20 | Weblog
(今日の写真は滝ノ沢右岸尾根の縁から見えた「滝ノ沢の滝」だ。私は昨日『時期的には下草や枝葉が伸びて、「踏み跡探し」には不向きなことは知っていた』と書いた。今日の写真は、そのことを証明するものだろう。
 この写真では「滝の全景」は写ってはいない。上部と下部が枝葉に遮られて、見えないのである。だから、少し補足をしよう。
 上部の葉に遮られて見えない部分には、その下に見えるほどの垂直の岩が連なっていると思えばいい。下に見える岩はその半分の姿しか見せていない。だからその半分の高さの下が沢本流となっている。写真中央の下端に広がっている「焦げ茶色」の部分がそれだ。
 この滝の全長は大体25~30m程度だろう。前々日、前日と降り続いた雨の所為で「水量」が増しているから、「垂水(たるみ)」(注)としての景観を保持しているが、そうでない場合は「滝」というよりは「二段からなるただの岩崖」である。
 それにしても、この木々の葉の緑の濃いこと、まさに「夏緑」、季節はすっかりと「真夏」なのだ。
 この辺りの樹木は「ミズナラ」が多い。それに「ハウチワカエデ」などが混じる。総じて岩木山の、この尾根を含んだ「南面」では、結構標高の高いところまで「ミズナラ」が生えている。この日もかなり、上部まで登ったが、それでも「ブナ帯」までは行かなかったのだ。
 この写真の「滝」は「沢登り」をしない人には、決して見ることが出来ないものだ。そのような人も、この「写真」を見て、「行った気」になってもらえると嬉しい。)
  注:「垂水」…滝のこと。広辞苑によると、滝とは、古くは「タギ」と呼んでいた。「河の瀬の傾斜の急な所を勢いよく流れる水。激流。奔流のこと」また、「高い崖から流れ落ちる水。瀑布。たるみ(垂水)のこと」とある。

今日の写真にマッチしているようなので、水原秋櫻子の俳句を一句紹介しよう。
    ・滝落ちて群青(ぐんじょう)世界とどろけり・

 ◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その2) ◇◇
(承前)

 私たちは「沢」から「尾根への取り付き地点」を探すことを諦めたわけではなかった。僅かに「旧営林署」時代の痕跡のある「ペンキ跡」の残る立木を発見はしたものの、そこから「沢」に降りる踏み跡も、また、そこから「尾根」を横切る「踏み跡」も見つけることは出来なかった。
 そこで、「よじ登ってきた崩落地の現状」から「沢に降りる・沢から登ってくる」踏み跡は、幅100m、高さ30mにわたって生じた「崩落(地滑りと言ってもいいかも知れない)」によって「消滅」してしまったのだろうと結論づけたのだ。
 そして、…とすると、もっと上部に「別の取り付き地点」があるかも知れない。そこからの「尾根横断の踏み跡」もあるのではないだろうか…と考えたのである。
 私たちは右岸尾根の縁に沿って、「上部にあるであろう取り付き地点」を探しながら、さらには、尾根を「横切る」踏み跡を探しながら登って行ったのだ。もちろん、ただがむしゃらに登るのではない。「鉈」を手にして、枝葉や竹を払いながら進むのだ。これは、「戻ることを余儀なくさせられた時に辿る目印」を作るためであり、前進を阻む「藪」を刈り払いしている訳ではない。
 かなり登った。だが、尾根左岸には「取り付き地点」を示す「踏み跡」らしきものは出てこない。ところで、滝ノ沢右岸尾根はそれほど広くはないのだ。だから、登って行くと次第に「尾根を縦に走る中央ライン」に近づくことになる。
 尾根の中央ラインには、よく、「小さな沢」状の通水跡があるものだ。「藪に捲かれて方向を失った人」が、それを踏み跡や「道」と思い込んで、それを辿ることがある。だがこの「通水跡」は大概、大きな「沢」に「流れ込んで」いるものだから、谷に落ちたり、谷に迷い込んでしまい、にっちもさっちもいかなくなるのが落ちなのだ。
 さっきから、登って行く右側に、この「通水跡」のようなものが見え隠れするようになってきた。
 私は「降りる時に利用すると迷い込む」が登りに利用するには、その心配もない。これを辿って行く分には「目印」をあまり付ける必要もないなどと考えて、「それ」を辿ることにした。
 十数分後、私の「目の高さの樹木の枝」に、紅い「ビニールテープ」が巻き付けられているのを発見したのだ。電気工事用のテープである。「紅い」と書いたが、それはすっかり変色して「白っぽく」なっていた。「電気工事用のテープ」には「黒、白、黄色、赤、褐色」など多色あるが、耐用年数は、結構あるもので、数年で変色することはない。
 私はアマチュア無線を趣味にしていたこともあるので、タワーや屋外配線(ケーブル)の補修によく、このテープを使った。その経験からすると「目の前に見えている」白く変色したテープは、少なくとも20数年前に巻き付けられたものと考えられた。
そして、このテープは「これは通水跡ではなく、踏み跡」であることを教えてくれたのであった。
 私たちは、その踏み跡を辿ることにした。数分後にまた、「巻き付けられたテープ」を発見した。もう確定的であった。これは「古い踏み跡」なのだ。そして、さらに、数分後また「テープ」である。
 ところが、それ以降「テープ」は消えた。忽然と消えてしまった。だが、踏み跡は続いていた。それをひたすら辿る。だが、「目印」のための「刈り払い」頻度が多くなってきた。そうしているうちに、この「踏み跡」も途切れてしまった。「上にも左右にも」もはや、踏み跡はない。
 これ以上、先に行っても「取り付き地点」と「横切る踏み跡」はないと判断して降りることにした。
 登りと降りる時では「視線」の先が違う。登りの時に見えなかったものが「降りる時」に見えることがある。降り始めて、何個目かの「巻き付けられたテープ」を確認した、その場所で、私たちは「色褪せた赤ペンキ跡」を見つけたのだ。登って行った時は、まったく気がつかなかったものだ。この「ペンキ跡」こそ「営林署」が付けたものである。
 これではっきりした。これは、かつて「営林署」が使用していた「踏み跡」なのであった。(明日に続く)

久しぶりの踏み跡探し(その1) / 6月25日放映NHK「赤倉登山道」を見た人の感想

2009-07-21 05:19:11 | Weblog
 (今日の写真はラン科ツレサギソウ属の多年草「ツレサギソウ(連れ鷺草)」だ。
 これは、北海道から九州までの温帯から暖帯に分布している。花期は7~8月だ。茎長は15~30cmほどだろうか。葉は基部に2枚あり、長楕円形で長さは10cm程度。
 淡緑色の花を多数つける。唇弁は黄緑色がかった白色で、距は白色で長い。この様子を「鷺が連れだって飛ぶ様子」に喩えたことが「花名の由来」とされている。湿り気のある林内や林縁の半日陰の林下に生えている。
 昨日、相棒のTさんと1ヶ月半ぶりで「踏み跡探し」に出かけた。5月の段階で百沢石切沢から毒蛇沢を横切り、滝ノ沢へ降りて行く地点までは確認が出来ていた。
 時期的には下草や枝葉が伸びて、「踏み跡探し」には不向きなことは知っていた。だが、「探し極めない」と消化不良がずっと続きそうで、精神的にもよくないので、「実行」することにしたのである。
 今日の写真、「ツレサギソウ」は「柴柄沢」右岸から岳までの踏み跡道で出会ったものだ。)

◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その1) ◇◇

 毒蛇沢の右岸に取り付いたのは7時50分である。ここから滝ノ沢までの「踏み跡」は5月にすでに辿っているので、快調に進む。
 そして、滝ノ沢への降り口も難なく見つけた。昨晩からの雨で沢は増水していたが、登山靴を濡らすこともなく渡渉することが出来た。
 ところが、渡渉はしたものの滝ノ沢右岸尾根への取り付きを示す「手がかり」は全くない。本当に「切り落とされた枝」1本もない。テープなどの目印もない。
 頭上は垂直に近い崩落跡を呈した「崖」である。とても、真っ直ぐには登れない。少し右側に移動して、崩落の少ない、土が露呈している草付き部分をよじ登ることにした。
 草や地面を這う枝を支えに登り始めると、「何かの足跡」が目についた。大きく先端が2つに割れている足跡である。
 これは「カモシカ」のものだ。私たちは「カモシカ道」をよじ登っていたのであった。何とか登り終えて尾根に出た。そこで、沢からは発見出来なかった「尾根」への取り付き地点を「尾根」との接点である部分、つまり、「崩落した崖」の先端に沿って、登り降りを繰り返して探した。
 しかし、「取り付き地点」を示す「踏み跡」は発見出来なかった。だが、僅かに「旧営林署」時代の痕跡のある「ペンキ跡」の残る立木を発見することは出来た。
(明日に続く)

◇◇ 6月25日放映NHK「赤倉登山道」を見た人の感想など(その4)◇◇

(大分間遠になってしまったが、6月25日に放映されたNHKテレビ「赤倉登山道」を見た人の感想が届いているので、それを紹介したい。
 いいとか悪いとかいう評価を越え、さらには感想の域を越えて、番組の編集や制作、目的という点にまで踏み込んだ意見もあり、当事者である私には分からなかったことを示唆してくれるなど、まさに意義のあるものであると考えたからである。このような感想なり意見というものは、先ずは有り難いという気持ちを育み、そして、嬉しいという感情を惹起させるものだ。
 密かに願うことは、この「KM」さんの意見等をNHKの関係者が読んでくれることである。私から言うのはおかしいかも知れないが、この文章に込められたさまざまな点が生かされて番組作りがなされると、もっと「いい」と評価されることは疑いないのではなかろうか。
 正直なところ、「KM」さんの主張には、強く「同意」し、「賛成」しているのである。)

三浦先生へ

 赤倉登山道のテレビ放映見ましたよ。きれいな映像と、久しぶりに見る先生の姿に目を奪われ、心が洗われるような数分間でした。すてきに映っていて、よかったですよ。
 先生が、一番好きだとおっしゃっていた石仏の顔が、本当にきれいに撮れていました。みちのくこざくらが「安寿のかんざし」と呼ばれているというエピソードも心に残るものでした。
 何より、三浦先生のお顔が非常に穏やかで、本当にいい顔に映っていました。一歩一歩雪渓を登っていく後ろ姿もすてきでした。

 番組の構成自体が、赤倉登山道、というものを中心にしていたので、仕方ないのかもしれないですが、個人的には、先生がどういう方で、岩木山との50年以上になる関わりの中身がどういうものであったのか、ということについて、もう少し踏み込んで欲しかったなと、そこだけは残念です。
 いにしえから多くの信者を集めてきた岩木山、という姿も重要なんですが、人と岩木山のかかわりの深さというものを言いたい、というのが、今回の赤倉コースの紹介だということであるなら、先生のように、岩木山に登ることで人生を支えてきたという方の存在を紹介することこそ、現在につながる岩木山と人とのかかわりの深さに他ならないと思います。
 だから、わたしは、先生がどういう方で、どういうとき岩木山に登り、どういうとき登ることで励まされ、癒されてきたか、そういう話を挿入することはとても重要で、先生はそういうソースを持っている方なのになあ、と思えばこそ、何か安易な番組構成に、ちょっと残念だな、という気持ちをぬぐえませんでした。
 それから、伯母石が映った後で、もっと下のブナ林の中の石仏(何番目だったか忘れてしまったのですが)が写ったのは、あれ?と思いました。やっぱり、銀河鉄道の夜、のように、夜空に忠実に順番に星の場所を出していくごとく、順番を守ってやって欲しかったですよね。しかし、何はともあれ、先生がテレビに写って嬉しかったです。

 追子森につれていっていただいて以来、お会いする機会に恵まれませず、テレビを見ながら、ああ、三浦先生お元気だなあ、お会いしたいなあ、と、心から思った瞬間でした。(KM)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(最終回)

2009-07-20 04:09:12 | Weblog
(今日の写真は2008年5月4日に、赤倉キレットの手前から赤倉御殿のピーク、巌鬼山山稜と右奥に見える大鳴沢源頭部の雪渓を撮ったものだ。Iさんたちは赤倉御殿から、このように見える場所までは6月6日に登っていたのである。
 昨年は本当に雪が少なかった。降雪量そのものも少なかったし、雪解けも早かった。ところが、例年ならば5月上旬に咲き出す「ミチノクコザクラ」は一輪も開いてはいなかった。これも不思議なことではある。
 そして、今年はまた、去年とは違っていた。「積雪量」が少ないことは同じだが、「雪の解け具合」が遅いのである。
 昨年よりは1ヶ月以上遅いのである。6月14日に見たこの場所の景色は、大体、昨年の5月上旬と同じで、このようなものだった。
 写真手前から大鳴沢源頭部までが「風衝地」と呼ばれているところだ。1年中風が強くて、雪は吹き飛ばされて殆ど積もることはない。だから、雪解けは早い。

 この風衝地は、しばしば、「お花畑」になることがある。これを「風衝草原」と呼んでいる。高山植物の咲くお花畑には幾つかのタイプがある。
 それは大体次のようになる。
・「高茎草原」…草丈の高いミヤマキンバイなどが咲き、水分条件のよい場所に成立する。
・「雪田草原」…残雪の消えた跡にでき、ミチノクコザクラなどが咲く。
・「風衝草原」…風の強い場所にでき、イネ科やカヤツリグサ科の植物の多い。
・「荒原草原」…崩壊地など砂礫の不安定な場所に成立し「先駆」植物のコマクサなどが咲く。

 ただ、岩木山のように山域そのものが狭く、高山帯が単純な要素で成り立っている山では、この4つのタイプに、くっきりと「区画」されるところは少ないのだ。
 たとえば、赤倉御殿から大鳴沢源頭までは「風衝草原」と呼ぶことは可能だが、それでは「イネ科」の「ノガリヤス」やカヤツリグサ科スゲ属の「ミヤマクロスゲ」だけかというとそうではない。また、「草原」と呼ばれるのだから「草本」だけかというと「木本」も多いのだ。この「風衝草原」の道を辿って出会える「木本の花」を挙げてみると…
「コメバツガザクラ、コケモモ、クロウスゴ、マルバウスゴ、ベニバナイチゴ、ガンコウラン、ウコンウツギ」などだ。
 草本に至っては「早春」から「初秋」まで多くの花々が季節を追いながら、咲いているのである。その意味では「花好き登山者」にとっては「すばらしい場所」と言えるのである。
 山の「地形・地質」や「環境」の違いにより、高山植物の種類は変化し、それぞれの場所の歴史を踏まえて、今の生活をしていることを理解しようではないか。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その14「最終回」)

(承前)

 …時間はすでに3時を回っていた。「ダケカンバの疎林」を過ぎて石仏33、32番近くになってきたので、私は19日にNHKクルーと確認していた「イワウメやコメバツガザクラ、ウコンウツギ」を2人に見て貰おうと右岸の岩場に誘った。
 だが、8日後の「花々」はいずれも散っていた。誤算であった。Iさんの表情には「失望」の色がありありだった。
 赤倉御殿が近づいた。「6日にはこの辺りまで来たんですよ」と私が言う。
2人とも感慨深げに周りの景色を眺めている。6日は雨が降り、濃霧に巻かれて「足許」に咲くミチノクコザクラ以外は何も見えなかった。だが、今、目の前には、大鳴沢の深い峡谷が、その上部に佇立する岩木の峰が、北に向かって続く赤倉の長い山稜が、そして背後には広い風衝地草原が、深く高く広々と存在しているのであった。
 赤倉御殿で最後の休憩をとった。後は登山口まで「ひたすら下る」だけだ。そこからは、実際に登り降りているという6月6日の経験があった。あの日のスピードで降りると2時間程度で降りることが出来るだろう。 
 だが、登山口に着いたのは6時を少し回っていた。それでも、赤倉御殿から2時間40分で降りることが出来た。Iさん夫妻は、よく頑張った。思い切り褒めてあげたいと思う。

 Iさんは翌日付けのハガキで…
     ・人の世よりやや高く来し身を透る山の青さよ仏の笑まひ「注1」よ・
…という短歌を寄せてくれた。
 また、講座の席で…
   ・はてしなき雪のなだり「注2」によろめきてあはれ足場のはらはらながれ・
…というものも紹介してくれた。
 これには「身体を賭けて得た感動」が詰まっている。それを、瑞々しい女性の感性で詠い上げている。見事という他はないすばらしい短歌である。

 それでは最後に私の拙い短歌を載せる。
 先ずは、途中出会った「ミチノクコザクラ」の1首だ。
     ・崖下の貧土に映えるいのちありみちのく高嶺の小桜一花
 次は一緒に登ったIさんたちのことだ。
     ・過ぎし日のリベンジ登山なし終えて石仏の笑み夫妻を包む
     ・雨の日の胸の閊えはいずこにか夕暮れ近き道を降り来て
     ・我が子との山旅と似るその一日「注3」Iさん夫妻は有り難きかな

注:「1」・ほほえみのこと。「2」・ある状態がびっしりとそこにあること。「3」・「ひとひ」と読む。

 長い連載で、しかも、その間に「Tさんとの山行のこと」が入ってきたりして、連続性と系統性に欠けた面もあったが、何とかこれで最終回とすることが出来そうである。(この稿は今日で終わる)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その13)

2009-07-19 05:24:14 | Weblog
 (今日の写真は6月27日午後2時30分頃に同行した私の「講座」受講者のIさんが写してくれたものだ。山頂から直ぐのところに狭い雪渓があった。その周りには「今にも咲き出しそうな」背の低い「ハクサンチドリ」が沢山生えている。
 その雪渓を過ぎて、少し登るとあとは一気に下る岩場の道になる。その岩場の道を右折するといくらか見晴らしがよくなるのだ。周りには「コケモモ」がすでに沢山の花をつけていた。それを見ながら出たのがこの場所である。
 私が先導しているのだから、先ず雪渓の上端に降り立った。その時の写真である。大沢の雪渓を登り、頂上に立って、それから赤倉登山道を降り始めているというのに、このような写真を撮っていたのだから、Iさんは身体的にも、精神的にもかなりの余裕があったようだ。
 場所は赤倉登山道沿いの大鳴沢源頭上部である。下に見えるのが「大鳴沢源頭雪渓の上端」である。私がいるところから右に巻くように降りると、高さ5mほどの垂直な雪の「崖」だ。
 「弥生」方向に降りようとするならば、この「上端」部分から南に向かって30mほど「ハイマツ」や「ナナカマド」の藪こぎをするといい。そうすると弥生登山道に出る。
 だが、30年ほど前までは、踏み跡があったものだが、今は「消滅」しているから、「藪漕ぎ」に適う体力と「踏み跡を辿る目」を持たない人はするべきではない。
 左の竹藪や「ダケカンバ」の樹列に沿って15mほどは急峻な雪面だが、そこを慎重に、「竹藪」や「ダケカンバ」に掴まりながら降りると、あとは斜面も緩やかになり、なだらかな「大鳴沢源頭」のど真ん中に出る。
 正面に見える「山稜」は「巌鬼山」に連なっている部分である。この斜面を降りて、「大鳴沢源頭」の雪渓を横切って「赤倉登山道」のある「ダケカンバ」の疎林に向かうのだ。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その13)
(承前)
 私には目論見(もくろみ)があった。それは、前述の「今日の写真」で示した雪の斜面を「アイゼンを着用せず、ザイルで連繋もせず、キックステップ」で降りるということだった。
 Iさん夫妻はまだ、本格的な「キックステップ」を体験していない。大沢雪渓の登りでは「アイゼン」にだけ頼る登高で、後退するので、若干「キックステップ」をして、それをある程度させないようにすることは出来たが、真の意味での「キックステップ」はしていないのだ。
 私は是非とも「キックステップ」を体験して貰いたかった。「アイゼンを着用せず、ザイルで連繋もせず」に「キックステップ」で下降するということは危険である。それは、一般的にはそうだ。
 だが、私は次のように現場を把握し、それに2人のこれまでの体験と併せて、「危険」はないと考えたのだ。
 先ず、雪渓だが、全長が短いということである。50mほどである。それに、午後も2時を回っているので、表面がかなり軟らかくなっていた、つまり、津軽弁で言えば「じゃけ」ていたのだ。雪面が軟らかいということは「キック」が出来やすく「ステップ」も能く出来ると言うことだ。また、「軟らかい」ので、摩擦係数が高く、「滑りにくい」ということである。
 その上、降りて行くルートにした場所の斜度はある程度緩く、源頭部の中央帯は対岸に向かって反斜面になっているので、滑っていっても自然に停止するような状態になっていた。しかも、雪面には「岩角」などは、まったく出ておらず、ぶつかって「骨折」や「打撲」などを負うことは考えられなかった。
 さらに、登りの「キックステップ」は、「脚」を支点にして、靴先で雪面を蹴り込むので相当のエネルギーを使い苦しいのだが、降りる時は「自分の体重を利用」出来るので、登りに比べると「楽」なのである。山頂に立ったのだから「疲れて」はいるだろう。だが、50m長の斜面を降りることは大丈夫だ。
 仮に、「滑落」しても、それは、「尻」を着けた「シリセード(?)」と打擲される格好で安全だし、「アイゼン」を着けていないので「頭」から転倒して、頭を下にして落ちて行くことは絶対にない。
 ただ、私は恐らく、この「シリセード」タイプの「滑落」はあるだろうと考えていた。そして、そうなったのだ。斜面の3分の2ほどを過ぎた辺りで、Iさんのご主人が、まさに、「足を滑らして」ゆっくりと「尻」を着きながら、持っていた「杖」を途中の笹藪に引っかけて、落ちて行ったのだ。
 「足を踏ん張って立って」と私は叫んだ。そして、止まった。

 私は最後尾にいた。すると今度はIさんが滑って尻餅を付きそうになった。ちょうどIさんとの間隔がよかった。私は直ぐ後ろにいたのだ。そのような間隔をとっていたというべきだろう。
 その瞬間、私の左手がIさんのザックの首にあるベルトを掴んだ。そして、「グイ」と、クレーンのように持ち上げたのである。何だか、思っていたよりうんと軽かったのだ。Iさんはそれで、滑り落ちては行かなかった。
 私はご主人の杖を「回収」して、今度は先頭に立った。そして、出来るだけ深めの「キック」をして、Iさんがそれをなぞるようにしながら降りるように指示をした。そして、「一歩一歩」降りたのである。間もなく、Iさんのご主人が、にこやかな笑みを浮かべて「すっきりした」顔で立っている「雪渓中央部」の窪みに着いたのである。
 私は2人ともいい経験をしたのではないかと思った。一つは、曲がりなりにも、雪渓を登るということのまったく反対の行動としての「踵からのキックステップ」をして「下降」出来たこと、もう1つは、長時間の行動の中で、大分「マンネリ」になっていた「精神のゆるみ」に活が入れられて「緊張」を取り戻せたことである。
 ご主人の「にこやかな笑み」と「すっきりした」顔はそのことを語っているのだろう。
 「初心者に対して危険なことをさせて、事故になったらどうするのか」と言いたい向きもあろう。
 だが、このような「滑落」を「事故」とは言わない。それは、あらかじめ私のプログラムには、「この程度の滑落」はあると「想定」されていたからである。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その12)

2009-07-18 05:17:16 | Weblog
  (今日の写真はスミレ2種である。赤倉登山道の伯母石近くで撮ったものだ。左がスミレ科スミレ属の多年草「ナガハシスミレ(長嘴菫)」、別名を「テングスミレ(天狗菫)」という。右が「ミヤマスミレ(深山菫)」だ。)

 場所は伯母石の下部なので標高は800mほどだろうが、岩木山ではこの高さが「ナガハシスミレ」の生育地の上限であり、「ミヤマスミレ」の下限であろうと思われる。
 ちょうど、そのような場所で2種のスミレが、よくもまあ、姉妹のように並んで咲いていたことには驚いた。驚いただけではなくて、このような写真は滅多に撮れないことでもあるので、嬉しかった。感謝である。
 驚きはもう1つある。それは、「ナガハシスミレ」の花色だ。普通、もう少し「紫」がかった色をしているのだが、これは「白色」に過ぎる。
 それに側弁がひしゃげ過ぎだ。どうもおかしい。唇弁基部の「天狗の鼻(または鳥の嘴)」のように見える部分、これを距(きょ)というが、これも真っ直ぐ過ぎる。これがこのスミレの名前の由来なのだが、普通はもう少し上に反っているのだ。
 スミレの「花のつくり」は、5枚の花弁のうち、上の花弁2枚を上弁、両側の2枚を側弁、下の1枚を唇弁、または下弁という。唇弁の基部は、一般的に膨らんで、後ろに突き出していて、「距(きょ)」を作っている。
 生息地が標高の上限であるという特殊性から、少しずつ「変異」(または、いい意味での「進化」)しているのだろうか。

 右の「ミヤマスミレ」の花色は大体がこの色具合だが、色変わりは多く、白、濃い紫、淡い紫、ピンクなど多様だ。
 この写真は1枚でスミレの生え方をしっかりと教えてくれる「すばらしい教材」なのである。それは、スミレには「有茎種」と「無茎種」があるということを教えてくれるからである。
 スミレは「地上茎がのびて葉が互生」する「有茎種」と「地上茎が伸びないで葉や花柄が根もと」から出る「無茎種」に分けられる。
 「有茎種」には「タチツボスミレ」や「ツボスミレ」、「無茎種」には「ノジスミレ」や「スミレサイシン」などがある。
 さて、写真を見て、考えてほしい。ヒントを与えよう。葉の付き方と全体の「すっきり感」を参考に考えるといい。答は文末で述べよう。

 日本の代表的な「スミレ」は、大きく分類するとモクレン門モクレン綱スミレ目Violalesスミレ科Violaceaeスミレ属 Violaの多年草で、学名を「Viola mandshurica(ヴィオラ・マンジュリカ)」という。
 「スミレ」は世界に800種類以上もあるが、その大部分は熱帯性の木の仲間であるそうだ。この木の仲間の「スミレ」に「ヴィオラ・アーボレッセンス(Viola arborescens)」 というのがあるが、「Viola 」という属名を持っているので、これはれっきとした日本の「スミレ」の仲間である。私たちが普段目にしている「スミレ」はスミレ科スミレ属に分類される「草本」で、日本には60種類ほどが自生し、更に変種が数10種あるとのことである。
 この「草本のスミレ」は、「木本のスミレ」から進化したとされている。地球はこれまで、6回の氷河期を経験しているが、その間に、「スミレの木たち」は耐寒性の強い草に変化しながら、世界中に勢力を広げていったのである。その所為だろうか、日本のスミレの多くは「暑さが苦手」で夏の暑くなる前に花をつける。花のつくりも左右相称であり、進化の度合いが進んでいるのだ。

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その12)
(承前) 

 山頂に着いたのは14時を回った頃だった。日帰り登山としては「非常識」な時間である。遅くても13時までには山頂から降りていなければいけない。
 途中の「二の御坂」上部で声をかけられた。見上げるとそこには「岩木山パトロール隊」の事務局長、Sさんがいた。焼け止り小屋で出会った同隊のKさんから無線で「三浦さんが4人連れで登って行った」と連絡が会ったのだという。それで待っていたらしい。
 少し時間をとって情報の交換をしたかったのだが、1分でも早く山頂に着きたくて、短い挨拶だけで、通り過ぎた。
 そうして、「一の御坂」に続く平坦地に入った時に、道脇で休んでいた人から、また声をかけられた。
「さっきはどうも失礼しました。大変な目に遭いました。おっしゃるとおりでした。帰りは大沢を降りないで、スカイラインにおります。ありがとうございました。頂上に行かないでここから降ります」と一気に言うのだ。
 その人は私よりは若いが年配者であり、大沢の雪渓で、私たちと前後しながら「アイゼン」なしで、登っていた人であった。
 私はその人に次のようなことを言ったのであった。
「キックステップと雪渓脇の竹や樹木を手がかりに登って下さい。とにかく、滑落しないように、必ず、手がかりに掴まって登って下さい。だけれど、大変辛いことになりますよ。」
 その人は、私に言われたことを忠実に守りながら、それでも自力で、頂上まで「あと一息」というところまで来ていたのだ。
 そして、「私が言ったこと」を実感し、「自分の行動」に反省を加えて、目の前にいる私に対して「謝意」を述べているのであった。
 …「ああ、よかった。これでこの人は登山の心構えが変わる。もっと安全な登山を自助努力で出来るようになるだろう」と密かに思った。
 「それでは気をつけて、降りて下さい」と言って、早々に別れて頂上へと急いだ。 
 生憎の天気で、山頂は風が強い上に、雲に覆われて視界があまり利かなかった。Iさん夫妻は何だかとても残念そうであった。
 遠い景色が見られない以上、長居する必要はない。青森と名古屋の2人と交互に写真を撮り合って、直ぐに私たち3人は赤倉登山道へと降り始めた。
 青森と名古屋から来た2人連れは、「大沢」を降りないで、スカイライン経由で岳に降りて、そこからバスで百沢神社前に移動するというのだ。
 賢明な判断である。別れ際に「気をつけて降りて下さい。また機会があったら会いたいですね」と私は言った。
 それにしても、この山行、よく「人」に出会った。まるで、「人に会う山旅」という題目でも付けることが出来そうな登山であった。(明日に続く)

  (左側の「テングスミレが有茎種」であり、右側の「ミヤマスミレが無茎種」である。)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その11)

2009-07-17 05:34:24 | Weblog
(今日の写真はユリ科タケシマラン属の多年草「タケシマラン(竹縞蘭)」だ。岩木山にはこの仲間の「オオバタケシマラン(大葉竹縞蘭)」「エゾタケシマラン(蝦夷竹縞蘭)」が生えている。「蘭」という名前を持っているが、「蘭」とはまったく関係ない植物で、「蘭」科ではなく、ユリ科である。
 ユリ科でありながら「蘭」という呼称を持つものにはユリ科ソクシンラン(またはノギラン)属の「ネバリノギラン(粘り芒蘭)」や「ノギラン(芒蘭)」がある。後者は岩木山では見られない。花名の由来は「花の咲く様子が、イネ科の花の芒(毛のように尖った部分)のようであること」による。
 「オオバタケシマラン」は大型であり、葉も花も大きいが、その花柄に特徴があり、「四角のスプリング状」の柄が花や実を支えている。果実は赤熟するが、形は楕円形である。「エゾタケシマラン」は「タケシマラン」よりも少し大型であり、違いは葉の付き方と葉の形である。果実は球形で赤熟する。この2種は「タケシマラン」より生育数は遙かに少ない。

 「タケシマラン」は本州の中部地方以北に分布して、岩木山では標高800m辺りから目立つようになるが、百沢登山道では非常に少ない。多いのは赤倉登山道だ。花名の由来は「葉の形や縞模様が、竹の葉に似ていること」による。
 茎は高さ20cm前後で、2分枝する。葉の長さは5cm前後である。花は5月から7月にかけて葉腋に1個垂れ下がる。花被片は淡紅色、披針形で平開して先が反り返る。液果は扁平に近い球形、長さが8mm程度で赤熟する。
 この「タケシマラン」を含めて、この仲間はどれも、あまり大きくない。その上、葉の下側に、花や実を付けるので、非常に目立たないのである。だから、漫然と「歩いたり、登ったりしているだけでは「気のつかない」人も多い。特に下山の時には「まったく見えない」場合もある。この花や実に会いたい人は「登り」の時に集中した方がいい。

 ところで、目立たない花や実は、人間によって「踏みつけられて」しまうのである。これまでの人間世界では「目立たない」ことが「生き延びること」の知恵だった。
 「目立つこと」は、「二種類二質」の扱いを受けてきた。それは、社会から「異質」として弾き出されることと、まったく逆の「迎合というすり寄り」を受けるということであった。
 しかし、最近は「目立たない花」が踏みつぶされるように、老人の「孤独死」や「派遣切り」に遭った人たちの悲しい現実が顕在化している。
 花たちは、何も人から目につきやすいことを狙っているわけではない。自分たちの生命が全うされて、「後生に種を残す」というきわめて本源的な目的のために咲いて、実をつけるのだ。
 「目立つ人」も「目立たない人」も「自分たちの生命が全うされる」人生を歩むということが、人間にとって「本源的」で「社会的」な有り様でなければいけないだろう。
 「タケシマラン」が目立たないということは「植物社会」のこの花の有り様なのである。山に入る者は、この有り様を相互的に保障しなければいけないだろう。
 国民に媚びを売るような政治はもう、飽き飽きだ。少なくとも「自己目的」という毒気にすっかり冒された「自民党」のようであってはいけない。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その11)
(承前)

「…」
「…」
「あの、三浦さんですよね」
「え~と、ひょっとしてNさんでしたよね」
「そうです。出版記念会で会ったNです」
 Nさんとの出会いは、これで2回目となった。その経緯はこうだ。
私が「岩木山・花の山旅」を昨年、上梓してから、本会の幹事、Sさんが岩木山山頂で、このNさんと出会い、「花」の話しになった時に「私の本」のことを、私の「紹介」も含めて話したのだそうだ。そうしたら、Nさんはすでに「岩木山・花の山旅」を購入していて、「是非、一度直接、著者に会いたい」と言って、名刺代わりにと「氏名・住所」を書いたメモを寄こしたのだそうだ。
 ちょうどその頃、私の知り合いや有志が実行委員会を作って「岩木山・花の山旅」の「出版記念会」を開こうとしていた。私はNさんの「直接、著者に会いたい」という希望は、この「記念会」に参加して貰うことで叶うのではないかと考えたのだ。
 そこで、実行委員会にNさんの「氏名・住所」を告げて、案内状を送付して貰ったのである。
 Nさんは快く「」に参加してくれた。その席での出会いが最初のものであったのだ。Nさんは私よりは若い。だが、私同様に退職して「サンデー毎日」の生活をしている。そして、今や、「岩木山の魅力に惹かれて登山」に夢中になっていた。昨年も40回ほど岩木山に登ったという。7ヶ月ぶりの再会だった。
 別れ際に「先日も初めての花に出会った。何なのか分からずに、悶々として下山した。帰ってから、早速あなたの本で調べて、それが『ズダヤクシュ』であることが分かりさっぱりした」ということも言っていた。嬉しい再会になった。

 Nさんが下山してきたということは、一般的には「すでに下山する時間」になっていることを意味していた。
 だが、私たちは遅れていた。ようやく、「種蒔苗代」の池畔で昼食を摂った。風が強く体感温度は下がっていた。防風着を羽織っても、寒いくらいである。私は「テルモス」から熱いお茶を注いで、みんなに飲んで貰った。併せてお茶請けという訳ではないが、つれ合いが持たせてくれた「昨晩漬けたキュウリ」の浅漬けを配った。
 昼食を摂っている時に、初めて青森の人の名前が「Sさん」であることを知った。登山口から種蒔苗代までは長い道のりである。その間、色々な会話があった。花の名前や植生、登山道のこと、雪渓登りでの注意もあったし、アイゼンの付け方や「登り方」についての「講釈」もあった。だが、この2人連れ女性の氏名は聞かされないままだったのである。
 そして、もう1人の名古屋から来たという女性の名前はとうとう聞かされないで終わってしまった。(明日に続く)