岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

この花は何だろう?

2009-02-28 04:53:16 | Weblog
 (今日の写真は白神山地に足繁く通い、「白神山地の生き字引」ではないかと私が思っているYさんが写したものだ。1月に開催した本会の写真展「私の岩木山」に出展して貰い、その時口頭で「これこれしかじかの花に会ったんだけど、私はダイモンジソウだと思うが、今ひとつ、同定出来ないでいる。メールで写真を送るので詳しく調べてくれないか」という主旨のことを頼まれていた。
 そして過日、Yさんから「今日の写真」が次のメールと一緒に送られてきた。
 『岩木山の写真展に写真を出させてもらいまして有り難う御座いました。その時にお話をした、「ダイモンジソウ」と思われる写真をお送りします、私はどうしても普通のダイモンジソウと思われないので、三浦先生に見てもらいたいと思います。撮影は7月24日、標高500m位の沢の中で日あたりが良い所です。宜しく御願い致します』

 私は単なる「岩木山という山に登ることが好きなだけ」の人間である。このような私に対する、この「質問」は「難題」である。
 私は植物とは無縁の一介の高校の国語教員であった。私には「専門」などという仰々しいものはない。大学の卒業論文は「平安古典に見られる女子教育思想」というはなはだ文系的なものであった。そして、高校で三十七年間、国語を教えてきた教員に過ぎない。
 だから、理系とはまったく無縁で、生物学の植物・植生、動物、昆虫などとは少しも関わりのない生活をしてきた。このように植物的な専門性や知識がない者にとっては「畑違い」で、「とんでもなく学問的」な質問であった。
 だが、断る勇気もないままに、ここは「ド素人のバカ勇気」と決め込んであれこれと考えてみた。
 私の結論であるが、これは「ダイモンジソウ」の仲間ではあるが、「ダイモンジソウ」ではない。同じ「ユキノシタ科」だが、「ダイモンジソウ」ではないということだ。
 「ユキノシタ科」は北半球の温帯から寒帯の、主に山地に300種ほどあり、日本にも16種ほどが分布しているという。これは次のように区別される。
「左右相称で下の2弁が長いグループ   ユキノシタのグループ」
「放射総称(星形)に花が咲くグループ   シコタンソウ」
 そして、「ユキノシタのグループ」は「ユキノシタ」「ダイモンジソウ」「ジンジソウ」「クロクモソウ」などに分かれる。
『「花」は、 5 弁で下の 2 枚が白く大きく、上の 3 枚は薄紅色で濃い赤紫の点がある。長い雄しべが目立つ。「葉」にはうぶ毛が生えている。』というのが一般的な「ダイモンジソウ」の説明である。今日の写真を見るとそのように見えなくもない。
 「ダイモンジソウ」の花名の由来は、5枚の花弁が「大の字」に見えることによる。
「ダイモンジソウ」の仲間は、北は北海道から南は九州まで日本各地に幅広く分布し、その多くは山地帯から亜高山付近の湿った川沿いの岩場や草原に映える多年草だ。だから、「白神山地」に生えていても別におかしくはない。
 そして、かなりの変種が日本にはあるので、その中の一つかなと最初は思った。
 だが、それらは例えば、「屋久島大文字草」のように、それぞれがその「地方の特産種」であったり、「裏紅大文字草」のように「石灰岩地帯に特産する葉の裏が紅色である」などと「地質が特定」されていたり、「白神山地」という地名とは無縁であった。

 …決め手は開花の時期と葉の形だ。…

 これは、本州、四国、九州の山地に生えるユキノシタ科ユキノシタ属の常緑多年草の「ユキノシタ(雪の下)」だろう。湿った半日陰地の岩場などに自生する植物である。やや湿った場所でよく生育し、日陰にもよく耐える。昔は人里の「井戸のほとり」によく生えていたものである。
 葉は「円腎形」で葉の表面には葉脈に沿った模様がある。葉の裏面は紫色を帯びており、特に若葉で鮮やかな紫色となる。だが、変異が多い。人里では「5月から6月にかけて」花茎を伸ばして多数の花を咲かせる。
 山地における開花時期は、晩春(5月中旬)~初夏(7月上旬)であるから、Yさんの言う「撮影は7月24日、標高500m位の沢の中」とは場所も含めて合致しているだろう。因みに「ダイモンジソウ」は秋の花である。岩木山の「ミヤマダイモンジソウ」は9月から10月にかけて咲く。夏7月に咲き出すことはあり得ない。

 葉の形であるが、ダイモンジソウの葉には「切れ込み」がある。中には「カエデ」の葉に似たようなものまである。この写真では「よく分からない」が、少なくとも「深い切れ込み」はなく、「扁平」に近い団扇型であるように見える。それに、「白い」葉脈も浮き出ているように見える。「ユキノシタ」の葉を特徴付ける「葉の表には葉脈に沿って白い斑」があるようにも見えるのだ。

 花名の由来には、諸説がある。「雪のような白い花を被って、その下層に緑の葉を広げることによる」とか『白い舌状の花の形から「雪の舌」、それが転訛して「雪の下」となった』との説もある。漢名は「まだらで毛のある葉にちなんで「虎耳草」という。
 また、葉には「薬効」があり、怪我をしたらこの葉を火にあぶって患部や傷口に貼ると効き目があるとされて、昔から、もんだ葉は、火傷などの貼り薬、絞り汁は中耳炎やひきつけの薬として重宝されていたようである。
 ただ、これは北海道の「アポイ岳」に生えている「ダイモンジソウ」と似ている点が気になっている。「アポイ岳」の「ダイモンジソウの葉」は「長い柄を持ち、根元からまとまって出て、腎円形で基部は心形、掌状に7~12に浅く裂ける」のである。この部分だけは、今日の写真のものと非常に似ている。しかし、「ユキノシタ」は北海道にはないことになっているので余り気にしなくてもいいかも知れない。
 「ユキノシタ」には「園芸種」が多い。それは、自然界でも「変異」や「変種」が多いということだ。

冬、野鳥にたちに出会う登山は…(5)

2009-02-27 05:17:44 | Weblog
 (今日の写真は本州近畿地方以北に生息している「ヤマドリ(山鳥)」(別名キタヤマドリ)である。これはキジ目キジ科の鳥で、もちろんキジの仲間である。
 だが、雑食傾向の強いキジとは異なり、殆どが植物性のものを食べる。草の芽、葉、実やシダ植物の芽、その他に果実も食べる。
 この食べ物を確保するためには、住んでいる環境としては「多様な植物が繁茂する広葉樹林や混交林が不可欠」なのである。
 この尾根のブナを伐り開いて「カラマツ」という針葉樹を植林したということは、これら「ヤマドリ」の生活を脅かしている可能性は極めて高いといえる。
 「ヤマドリ」は日本の固有種だ。その意味では貴重な鳥である。全体が光沢のある赤銅色で、背・胸・腹に黒白の斑がある。雄のしっぽは長く、90cmにも達し、竹節状の横帯がある。雌は雄に比べると地味で、しっぽは短く、体色も淡めだ。
 亜高山帯下部の森林で生活をする。繁殖期は4月から7月で、その時期になると雄は翼を激しくはばたかせ、オートバイのエンジン音に似た大きな音を出して、縄張り宣言をし、同時に雌を惹きつける。この音を出すことを「ドラミング」という。

 「キジも鳴かずば撃たれまい」と言われるように「キジ」は大きな鳴き声を出して、その所在が人に分かってしまうほどであるが「ヤマドリ」は大きな声を出さないので、雄は翼で胸を打って「ドドド」と音を出し、この「ドラミング」による音が鳴き声の代わりになっているらしい。これを日本語では「ほろを打つ」という。
 繁殖期以外には、雌雄別々の小群で暮らし、主に薄暗い林の中の地上で生活し、歩き回りながら植物の種子や葉などを食べているのだ。鳴き声はか細い感じで「ククク、ホホホ」と聞こえる。

 冬場は「足跡」が残っているので「近くにヤマドリがいるな」という心構えが出来ていて、それほど驚くことはない。しかし、雪のない時季に、ミズナラ林やブナ林内の登山道を登っていて、突然、足下から 「ヤマドリ」が飛び立つことで、これまで何回もびっくりさせられたことがある。
 これは、「ヤマドリ」は人が近づいても、直ぐには逃げずに、人より先に人間の気配を感じ取ると 其の場所にうずくまってしまうので、人には簡単に見つけることが出来ないことによる。「運良く」飛び立つことの出来た時の「羽音」は「ゴトゴト、ガタガタ」と聞こえる。
 餌を採る時は、山の上から飛んで来て、(これを「沢下り」という)麓から採餌しながら山へ登る。この採餌するルートは決まっていて、しかも、毎日ほぼ、同じ時間帯なのだそうだ。「ヤマドリ」と遭った時間を確認しておくと、翌日も「同じ時間」「同じ場所」で出会えるというのだ。「ヤマドリ」に採っては不幸なことだが、「ヤマドリ」の狩猟には、この「知識」が役立っているのだろう。 

 「ヤマドリ」は万葉の時代から人々に親しまれてきた野鳥である。万葉集の巻八、大伴家持の長歌には「…あしひきの山鳥こそは峰(を)向かひに妻問すといへうつせみの人なる我や何すとか一日一夜(ひとひひとよ)も離(さか)り居て嘆き恋ふらむ…」という部分もある。これは、「雌雄は峰をへだてて寝る」と言い伝えられ、古くから「ひとり寝」の例に引かれるところだ。
 また、その尾が長いことから「山鳥の尾の」と続けて「長し」「尾」などを起こす序詞「じょことば」として用いられてる。
 拾遺集の「恋三」柿本人麻呂の歌「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」などもその例である。


            冬、野鳥にたちに出会う登山は…(5)
(承前)

 …その周りには「千切られた」羽がいびつな円を描いて散らばっていた。「死骸」は「千切られて」いたが「食われて」はいなかった。そのままの状態で残されていたのである。「イヌ」も食わず、飼い主も、その「獲物」を持ち帰らなかったのである。

 このことについては、あくまでも推量の域を出ないが、次の2つの解釈が出来るだろう。 その1つは、「飼い主と飼い犬がこの場所に、偶々散歩に来ていて、犬がヤマドリを見つけて追いかけ回して、じゃれてその弾みで、殺してしまった。飼い主はそのままにして帰った。」
 もう1つは、「飼い主はハンター、飼い犬は猟犬である。飼い主は猟犬の訓練のためこの場所に来た。まだ、未熟な猟犬がヤマドリを見つけて追いかけ回して、じゃれてその弾みで、殺してしまった。しかし、ハンターである故に、ヤマドリの狩猟期間が既に過ぎていることを知っていた。だから、持ち帰らなかった。」
 「ヤマドリ」の狩猟期間は1月15日までである。持ち帰ると違法狩猟ということで、罰せられるのである。
 いずれにしても、私の目の前には「羽」をむしり取られた「ヤマドリの雌」が、その「無残な姿」を曝していたのだ。
 猟犬は臭いを採取するのが特技だ。「ヤマドリの臭い」を採ると「ここにいる」とハンターに教える。この時「ヤマドリ」は猟犬に睨まれて緊張し「動けなく」なる。猟犬は次にそれを追い出して、「ヤマドリ」を飛び立たせる。そこをハンターは狙い撃ちするのだ。
 だが、この場合の「犬」は未熟な猟犬か、または、ただ単に遊び好きな「駄犬」であったのである。しかし、犬には罪はない。犬を連れ込んだ「人」にこそ罪があるだろう。「山」に「人に飼われている獣」を連れ込んではいけないのだ。そのことは「山の動物の生態系」を壊すことに繋がるからだ。

 「優しい気持ちを育んでくれた」り「壮観な生命」を見せてくれた「エナガ」や「アトリ」たちとの出会いとは余りにも違うではないか。このような違いを見せる「人間の自然との関わり合い」に、しばらくの間、呆然と立ち尽くすしなかったのである。相棒とその連れはもう既に自動車を置いた道路に出ていた。
 なお、この「ヤマドリ」の死骸はあまりにも残酷だったので撮影はしなかった。ただし、その証拠に「尾羽」を数本拾い、「惨い人間の仕打ち」の記録として、私と「相棒」、それにMさんが2、3本ずつ持ち帰った。(この稿は今日で終わりとなる。)

冬、野鳥にたちに出会う登山は…(4)

2009-02-26 05:37:35 | Weblog
 (今日の写真は2月11日に「追子森」山頂まで行った時に撮ったものだ。この日には「相棒」の他に、もう1人の同行者がいた。岩木山の「夏山」には数回、同行しているが、冬山は「初めて」というMさんである。
 これは私の前を「ラッセル」しながら進むMさんだ。標高は約1000m、ブナ林の上端である。間もなく、このブナが切れると「コメツガ」が現れるというところである。この標高なのに積雪は締まっていず、「ワカン」を着けているのに20cm ほども「埋まる」のである。しかも、雪層の上部は「砂」のような感触の軟雪である。このような雪質では「埋まり方20cm」でもかなりきつい「ラッセル」となる。
 しかも、は「雪上の登高」は初体験だ。「ワカン」を装着して「登下降」するのも初めて、ストックも「スキーと併用」でゲレンデでしか使ったことがない。その上、皮革製の「山靴」も、この日が「履き初め」であった。
 以上の「条件」を考えると、Mさんとの「同行山行」はかなり無謀なことであったことは否めない。ただ、気象条件がその無謀さをかなり「緩和」してくれると考えたので、実行となったのである。その日は弘前に戻るまで、高曇りながら「晴れ」の中を行動出来たのである。

 このようなMさんにとっては、苦しい山行であっただろう。だけど、私の眼から見る限りでは、「登山の基本」である「自助努力」を徹底して実践してくれたように思えるのだ。つまり、「魂を込めて」、初めての冬山登山に挑戦していたのである。「魂を込める」と、そこで体感される「感動」は言葉を越える。
 翌日、そのMさんから送られてきたメールには…
『わたしは一体何を見てきたのだろう、あれは白昼夢だっただろうか?異次元に迷い込んだのではないか?あれが、わたしのほんの身近に本当に現存する景色だろうか?と、完全に我を忘れて昨日の出来事に没入しているのです。』
 あの景色を見て『「幾千幾万の形容詞を積み上げても、なんか違うな、と思う。結局黙り込んでしまうか、「感動した!!」と叫びだすかしかなくなってしまうのです』…とあった。

 Mさんの登り方は「背中の横揺れ」が激しい。この写真からもそれは見て取れる。これは無駄なエネルギーの費消になる。下半身で動いても、ザックを背負っている「背中」は真っ直ぐに、「横にぶれない」姿勢での登山が望まれるのだ。だが、これも、慣れである。これから一緒に登る機会が増えていくと自然に直るだろう。心配はしていない。)

            冬、野鳥にたちに出会う登山は…(4)

(承前)
 「エナガ」に会い、「アトリ」の大群に出会って、気分をよくしながら「追子森」山頂を踏んで私たちは、夏道の入り口付近まで帰って来た。
 積雪が平年並みか多い時季には「違法・不法」のスノーモービルがこの登山口付近から「追子森山頂」まで多数侵入しているのだ。そして、その中のかなりの台数が「追子森山頂」から「西法寺森」に登り、そこから山頂方向に行こうとする者もいる。
 「禍福はあざなえる縄の如し」というが、今季の少雪は「スノーモービル」にとっては「禍」なのだろう。積雪が少ないので、ブナ林下部の雑木と上部の低木カラマツが、その梢や枝を出していて、それが障害となって侵入出来ないのだ。だが、侵入がする「スノーモービル」が全くないというわけではない。
 それは「追子森山頂」までは行っていないだけで、山麓の上部までは結構侵入しているし、雪上に出ている樹木の枝や梢を「折り散らして」走行した「痕跡」が至る所に見られたのである。
 「スノーモービル」愛好者にとっては「禍」であろうが、私たちにとっては、「幸い」なことであった。森の「静かなたたずまい」、「霧氷の静寂」とそれに優しく吹きつける「そよぐ微風」までが「高曇り」の空の下で心地よかった。彼らの「エンジン音」は静かな森の風情とはどうしても「合致」しないのだ。
 おそらく、「エナガ」や「アトリ」に出会えたのも、激しい爆裂音のような「スノーモービル」の「エンジン音」が聞かれないという静寂さがあったからかも知れない。
 どのような人であっても「山に来る」以上は「山の生きもの」を脅かしてはいけない。「山の生きもの」は私たち人間と同じ「生きもの」なのだ。「山は人を含めた生きものと等しく共有すべき場所」なのである。

 先頭を行く「相棒」は少しでも距離を稼ごうとしたのかも知れない。その日の朝通った登山道入り口付近に向かわないで、「布置されている」スノーモービルの「走行踏み跡」に入って行った。私の前を行くもう一人のメンバーMさんと私はそれに従った。
 ところが、その「走行踏み跡」には何やら「野鳥の羽毛」が散らばっているのだ。夥しい数である。丸みを帯びて、軽いた胸の羽毛はその範囲を広げて散らばっているし、大きくて長い直状の羽もその中に見られる。
 「何の羽だろう」と思ったが、その時は分からなかった。少なくとも「小鳥」のそれではない。大型の鳥である。私はその確認のために散らばっている羽の「発散源」を探して、羽を辿って行った。
 私が辿る視線の先々には「獣」の足跡がくっきりと残っていた。この時季に見られる「獣」の足跡には「ウサギ」や「カモシカ」、雑食性のものでは「タヌキ」、「アナグマ」、それに「キツネ」、また肉食性のものでは「イタチ」や「テン」などがある。しかし、その足跡はすべて、「形状」と「大きさ」からそれらではなかった。残るとすれば「イヌ」しかない。
 「野犬」だろうか。その足跡に混じって「人の靴跡」もあった。「野犬」ではない。これは「飼い犬」と「飼い主」の痕跡である。
 そして、視線の先にあったものは、雌の「ヤマドリ」の死骸だった。まだ新しいもので、少なくとも、2、3日前に殺されたことは明らかだった。(明日に続く。)

冬、野鳥にたちに出会う登山は…(3)

2009-02-25 05:39:12 | Weblog
 (今日の写真は、追子森山頂「標高1139m」直下に見られる、雪を纏ったマツ科ツガ属の常緑針葉樹「米栂(コメツガ)」である。ブナの低木林が切れた辺りの高みになると出会える樹木だ。
 今年は少雪ゆえに、まだ「針葉」の緑が見える。しかし、例年並みの降雪が続いていると、八甲田山の「アオモリトドマツ(オオシラビソ)」が造り出す「樹氷」のような「風姿」となる。だが、それは「出来方」が同じなだけで、厳密な意味では、その姿も趣も全く違う。その違いを簡単にデフォルメすると、八甲田山の「樹氷」は「ゴツゴツ感と屹立」だが、岩木山の「コメツガ」の方は「すっぽりと白いマントを被った円柱」とでもなろうか。「今日の写真」の右隅に見える雪塊がそれに近いのである。
 しかし、今季は少雪だから、「白いマントをすっぽり」被ったような姿にはなっていないのである。
 この写真のような今季の「雪を枝々に載せているコメツガ」を見て、ある人が「人工的な作り物」とか「舞台の大道具のようだ」とか「デズニーランドにある風景」だとか言ってくれた。確かにそのようにも見える。だが、これには「人手」も「人の知恵」も「人の感性」も何一つ加えられてはいない。純粋な自然の「造化」である。
 私は「タイガ」のことを想像しながら、タイガの森のモミやトウヒも雪を戴くとこのように見えるのだろうと思った。そして、しばし「シベリヤ」の森にいる「雰囲気」に浸った。
 「タイガ」とは、ロシア語でシベリア地方の針葉樹林のことだ。これはユーラシア大陸と北アメリカ大陸の亜寒帯に発達するものだ。地下は永久凍土層になっている。
 樹種は、針葉樹のモミ、トウヒ、カラマツ、それに広葉樹のカバノキとハコヤナギが混じる。日本に近い極東や北アメリカのタイガもすべてモミやトウヒを中心とした常緑針葉樹林である。
 この「コメツガ」は、岩木山では「赤沢の左岸尾根」から「水無沢の右岸尾根」にかけての範囲には全く見られない。つまり、岩木山の南寄りの尾根から北東面の尾根には生えていないのである。だから、岳登山道尾根、百沢登山道尾根、それに弥生登山道尾根を登っても出会えない樹木なのだ。
 この生えていない尾根は「新しい岩木山」が形成した尾根であり、生えている尾根は「古い岩木山」が造山運動の中で形成したものだといわれている。「新しい岩木山」とは現在の山頂(中央火口丘)が出来た頃の岩木山である。
 諸説あるが一説によると、今から2500年くらい前に、噴火爆発が起こり、今ある山頂ドームを形成したというのだ。それによって、弘前方面から見えるような山容の現在の岩木山になったという。
 その時に、噴出した溶岩や破砕物が生えていたコメツガを埋めてしまったのだろう。その噴火の影響を受けなかった尾根には今でも「コメツガ」が生えているのである。)

           冬、野鳥にたちに出会う登山は…(3)

(承前) 

 …雪面を褐色に染めて敷き詰められていたものは、「カラマツ」の「松笠」である。といっても、当然「種子」は入っていない「アトリ」が食べた空の「松笠」であった。
 それにしても、凄い数である。その数が、短く「キョッ キョッ キョッ」と続けて鳴き交わしながら「松笠」の種子を啄んでいるのだ。
 「アトリ」は時に、数千、数万もの大群で飛び交うことがあるそうだ。さっき耳にした「大粒の雨か霰が降ってきたような音」から想像すると、それくらいはいるのかも知れない。
 これが一斉に飛び出し、天を舞ったら文句なしで「壮観」なことだろうと思った。
 この「壮観」な「アトリ」などの「渡り」の情景を、「島崎藤村」は「夜明け前」の 第二部上の中で、…�子鳥 、深山烏 、その他の小鳥の群れが美濃方面から木曾の森林地帯をさして、夜明け方の空を…と表現している。私も、「藤村」の気分を味わいたかったが、その「乱舞」する時まで待っているわけにもいかず「キョッ キョッ キョッ」という明るくはしゃいでいるような鳴き声をあとに、「追子森」を目指して、登り続けたのである。
 昨日の写真からも分かるように、「アトリ」は全体的に「三色」である。雄は、喉から胸にかけて橙色、頭部から背中にかけて黒、腹部が白である。雌は、これらの色具合が薄くなっている。大きさは、頭から尾までの長さが15cm前後である。
 スコットランド、スカンジナビア半島、ロシア、シベリア、アムール、サハリンなどユーラシア大陸の亜寒帯の針葉樹林帯で夏に繁殖し、秋になると南下し、西はイベリア半島、欧州中央部から、東は日本列島に至るまでの広い地域で越冬する典型的な冬鳥である。
 渡って来た頃には、亜高山帯の針葉樹林で大群が見られるが、徐々に山を下って、山麓のカラマツ林や落葉樹林、雑木林などに生息するようになる。また、平地で見られることも多い。
 餌となる「果実」はナナカマドやズミなどであり、「種子」はカエデ類やモミなどの針葉樹の「種子」だ。冬季は群れで行動し、水田、河原、畑などで草本類の「種子」を食べる。
 きっと、「追子森」や「赤倉登山道尾根」に生えている「コメツガ」にも、雪が消えたら、その実を食べるために「アトリ」はやって来るに違いない。

 春になると帰る「タイガ」の森のモミやトウヒも今はきっと、岩木山のコメツガのように「雪を枝々に載せている」のだろう。やがて、雪が消えて緑一色にタイガの森が染まる頃、「ヒュルヒュルチチチギィー」という鳴き声を残して、彼らは「天空を乱舞」しながら立ち去るのだ。
 果たして、暖冬と言われている今季は、その時期が早くなるのだろうか。(明日に続く)

冬、野鳥にたちに出会う登山は…(2)

2009-02-24 05:22:09 | Weblog
 ★★※※☆☆ 昨日から、左のフレームの最上段に「このブログはJapan Blog Award 2009 にエントリーしている」ことを表示する画像が貼り付けられた。
 色々と苦労したが、実際は私の「Web」や「Blog」に関わる「無知と誤操作」によることなのだが、…ようやく貼り付けられて機能するようになった。
 「フレーム」に貼り付けられた、これを「アクセス」した人が「クリック」すると「自動的」に「Japan Blog Award 2009」の画面が表示されて、これに関する情報が得られる仕組みになっている。どうか、アクセスして欲しい。 ★★※※☆☆ 

 (今日の写真はスズメ目アトリ科の「アトリ(花鶏、�子鳥)」である。漢字書きにすると非常に「読み」が難しくなる。「当て字」なのだから、無理もない。読めないといって悩む必要はない。恐らくこの国の総理大臣だって読めないはずだからだ。何々、「あの総理とは同列に扱って欲しくない」ってか。それはそうだろう。これまた失礼。)

 「アトリ」とは不思議な名前だ。私は「カタカナ」表記しかない名前かと思っていたが、広辞苑を引いたら…あ‐とり【�子鳥・花鶏】「スズメ目アトリ科の鳥。小形でホオジロに似て、大体栗色と黒色で腹は白い。ユーラシア大陸の北部で繁殖、秋・冬の候、大群をなして日本に渡る。あっとり。季語としては秋。」とあった。
 ところで、「染谷幸子」の俳句に「裏山に木々散りつくし�子鳥群る」というのがある。
枯れ葉がすべて落ちて、地面を覆っている。その色あせた枯れ葉を背景として、頭と背が黒く、喉と胸、わき腹は橙色で、飛翔時に腰が白く目立ち、嘴が黄色いアトリが色を添えているというのが句題であろう。
「アトリ」はれっきとした「漢名」を持っていたのである。「アトリ」の鳥名の由来は「万葉の時代には�子鳥(あとり)と呼ばれ、室町、安土桃山時代には「あっとり」と呼ばれ、江戸時代にはその双方が用いられ、今日の「アトリ」に統一されるに至った」と説明されている。「万葉集」には「国巡る�子鳥(あとり)かまけり行き廻り帰り来までに斎(いは)ひてまたね」(詠み人知らず)という防人(さきもり)の歌がある。
 また、「大群をなして移動すること」から集鳥(あつとり)が略されたという説もある。やはり、「アトリ」はれっきとした「日本語」だったのだ。
 また、もう一つの「漢字名」である「花鶏(かけい)」は、中国で「花鶏」と記述されたアトリを、日本でそのまま取り入れ、「アトリ」と読んでいたのであろう。今日、「アトリ」のことを、台湾では「花雀」、中国では「燕雀」と書くそうである。


          冬、野鳥にたちに出会う登山は…(2)

(承前)

 「エナガ」についてもう少し書きたい。「エナガ」は日本では、北海道以外の全国で見られる。低地や低山帯のいろいろな樹林にすむが二次林や落葉広葉樹林や混交林で、よく見られる。
 この時季の冬は、20羽ぐらいの群れで過ごすのだ。先日、「追子森」に行く途中で出会ったものは、まさに、この「群れ」であったのだ。そして、夜は共同のねぐらで並んで眠るというのだ。繁殖期のつがいは3月ごろに群れから出るそうだが、どのつがいも冬の群れは縄張りからは出ないといわれている。
 この小鳥は雌雄同色だ。頭頂は白いものの、顔の他の部分は黒褐色だ。鳴き声は「チーチーチー、チャッチャッ、ツリリージュルリ」と聞こえる。
 「エナガ」は森にとっては益鳥であろう。樹上を中心に、藪などでも餌を採る。春や夏には小枝や葉の表面についているアブラムシなどを主に啄むのだそうだ。
 強風に激しくゆれる小枝でも、小さい虫や虫の卵を食べる事が出来るという業師でもある。チョウ・ガ類の卵・幼虫・成虫、アブラムシ類の卵・成虫などが主食であるというから「益鳥」でないはずがない。
 さらに、木についた菌類も食べる事があるというから驚きである。そして、樹木からは「ご褒美」として、熟した果実や樹皮の割れ目から滲み出る樹液を貰っているのである。
 繁殖期は4~6月で、確乎とした「一夫一妻」で、巣造り、抱卵、雛育てをする。巣造りは雌雄で行う。コケを集めて木の枝に球形の巣を造り、外側にクモの糸でウメノキゴケを貼りつけ、内部には鳥の羽や兎の毛などを敷くという完璧さである。巣造りの初めは雄が行い、雌がそれに従うというやり方である。一つの巣の卵の数は7~12個位だと言われている。
 抱卵は日中は雌のみが行い、夜間は雌雄ともに巣に入って行う。雛は13~15日で孵化し、雌雄で雛を育てて、雛は14~17日で巣立ちをする。何と、雛を育てるには「つがい」を組めなかった他の「エナガ」がエサを与えて子育てに参加する「ヘルパー」の役割をするのだそうだ。人間も見習ったほうがいいだろう。

 「追子森」に行く尾根には、その昔昭和40年代に「ブナ」が伐られて「落葉松(カラマツ)」が植林されている場所が数カ所ある。それも、ブナ・カラマツと交互に姿を現すという伐採と植林方法である。この馬鹿げた事業をやったのは、こともあろうに「林野庁」である。
 標高の高いところに植林された「カラマツ」は「ひこばえや実生」のブナよりも成長が遅く、完全に「死に体」をなしている。
 全くもって「アホ」なことをしたものである。黙って何もしないでおくと、今では東北有数のブナ原生林として有名になっていたであろう。
 その「カラマツ」帯を登って行くと、雪面が褐色になるほどに「何か」が落ちている。敷き詰められているのだ。

 その時だ。突然、大粒の雨か霰が降ってきたような音が頭上を覆ったのである。何が何だか分からないまま、近くの「カラマツ」に目を遣ると…そこにはアトリの大群がいたのである。(明日に続く)

冬、野鳥にたちに出会う登山は…(1) / 山頂を目指すだけが「登山」ではない(13)

2009-02-23 05:38:41 | Weblog
 (今日の写真はスズメ目エナガ科の「エナガ(柄長)」である。四季を通じて岩木山に通っていると多くの野鳥との出会いに恵まれる。先日、追子森山頂まで行ってきたが、その登りの途中で「エナガ」の群れと「アトリ」の大群に出会った。また、帰りには登山口近くで「ヤマドリ」の雌の死骸にも出会った。今日から連載で、これら野鳥のことについて書くことにする。)

 「エナガ」にはよく、4月の残雪期に標高600mほどのミズナラとブナの混交林の林縁で小低木が生えている場所で出会うのだ。越冬季や残雪期にはヤマガラ、シジュウカラ、ヒガラなどと混群を作ることが多く、残雪期の小低木林は結構、賑やかな場所となる。

 …こんなことがあった。その日も単独山行だった。弥生登山道口から登り始めて、水無沢の左岸から赤倉尾根に出ようとしていた。その左岸に取り付き、稜線に出たところで、ザックを降ろして「休憩」をしていた。
 その日は、とりわけ暖かく、微風が心地よく流れ、陽光を浴びて、白い「タムシバ」が咲き誇っていた。何だか「山」全体がとても静かだった。
 ところが、急に周りが「うるさく」なった。「うるさい」とは「五月蝿い」と当て字する。夏、五月蛹から孵化した蝿は「しつこい」ことからだろうか。「しつこくされてやりきれない」という意味だ。
 だが、周りの「うるささ」を、私には「うるさい」とは受け取れなかった。その逆である。心地いいのである。その声は生命溢れるきらめく鳴き声だったのだ。私はその命の声に没頭していた。そして、その声に身を置いた。
 その声の主たちは、ヤマガラ、シジュウカラ、ヒガラ、コガラ、それに「エナガ」であったのだ。偶には「メジロ」も混じっていたりする。
 その声は私を完全に「包囲」した。ザックの傍に腰を降ろしている私は、しばしの間、「塑像」である。
 だが、「息を殺して」いるわけではない。その場所にあるがままの人型として静かに呼吸をしていたのだ。ミズナラの枝やカエデの枝をかなり激しく動き回り、餌を探している。そして、私の手が届くほどに近寄ってくる。
 その中の一羽が「私の横に置かれた」ザックの上蓋に止まった。それが「エナガ」だった。白と黒を基調とした羽の色で、背の一部と下腹部が「ワインレッド」という落ち着いた配色だ。何となく風格を感じさせる。
 小さい鳥だということは承知していた。しかし、至近距離で見て初めてその「小ささ」を実感し驚いた。
 日本の野鳥の中で、一番小さいものは「キクイタダキ」である。体重は何と、5g前後だという。そして、その次に小さい野鳥がこの「エナガ」で、体重は8gほどしかない。
 翼を開げた長さは13.5cmほどである。尻尾の長さを取り除くと、胴体と頭部だけでは4cm程度になるのだろう。綿を丸めたような体に長い尾羽をつけた可愛らしい小鳥だ。野鳥の中で、私はこの「エナガ」が一番好きなのである。
 私は至福の中にいた。それは、「一番好きな鳥」に至近で出会ったからだけではない。私は今、野鳥たちと「岩木山の自然」を共有しているのだ。私はすでに「エナガ」たちの仲間になっていた。
 だが、「ザックの上蓋」に止まった「エナガ」は直ぐに飛び去ってしまった。止まっていた時間はわずかに数秒である。「エナガ」は「忙しく行動する鳥」のベスト3にはランクされるそうだ。
 そして、この「エナガ」も、ミズナラ林の枝先から枝先へと、「ジュリリジュリリ」と鳴き交わしながら群れで移動して行ってしまった。おそらく、別な林の中でも、樹皮などを丹念に探しながら、餌となる小さな虫を探し出して「採餌」するのだろう。(明日に続く)

      山頂を目指すだけが「登山」ではない(13 最終回)

 (承前)

 黒森山から降りてきた私たちは、一休みをしてから、また、「一泊全装備」を背負い、スキーで「スカイライン」道路に沿って下降を続けた。
 さっき黒森山に登った時に降っていた雪は小康状態となっていた。降りるに従い、気温は上がり、スキーは益々その滑りを、鈍くして、斜面なのに「スキー」を履いて、引きずって歩かなければならいのだ。
 そうしているうちに、檜の丸太を主材にした「巨木の森」の大きな「標識」が見えてきた。もうすでに「巨木の森」に直結する「ブナの森」を十分体感してきたので、ここはあっさりと「パス」をした。右前方に黒森山の東面の「直登」のような斜面が見えてきた。
「山登りというのはルート選びが、いかに大事なことか分かるだろう」と私は「相棒」に語りかける。「相棒」はその急峻な斜面を見ながら頷くのだった。
 スカイラインの下方から「懐かしい機械音」が聞こえてきた。それは、まだ、スカイライン株式会社が「雪上車」と「圧雪車」を使って、「岳登山道尾根」にゲレンデを敷設して「スキー場」を開設していた時に聞いた音である。
 その「音」は確実に、登って来ていた。そして、私たちに近づいて、その姿を現したのだ。私たちは慌てて「ライン」の脇に寄って、それをやり過ごしたのである。
 それは大型の「圧雪車」であった。もの凄いエンジン音を残して、「圧雪車」はさらに上部へと登って行った。
 有り難いことに、「圧雪車」は結果的に、「私たちに滑りやすいゲレンデ」を造ってくれたのだ。「湿り雪、深雪、重い雪、滑らない雪」が180度変化したのだ。私たちはスカイライン入り口まで、その「圧雪」されたスロープを降りたのである。
 それにしても、「何のために圧雪車を走らせている」のだろうか。入り口の事務所に顔を出して、「圧雪されたスロープ」を使わせて貰ったことへの謝意を述べ、「どうしてこの時季に圧雪しているのか」について訊いてみた。
 実は、28日に「岩木山日赤パトロール隊」がターミナル周辺で「遭難救助と搬出」の訓練をすることになっているのだ。これには私も「講師」の一人として参加する。
 その時に、搬出車両として「雪上車」も参加し、加えて、参加者を「運搬する」という計画があるのだ。そのための準備として「圧雪車」を運行させたというのだ。
 おかげさんで、私たちは「楽に」しかも、短時間で、その「スロープ」を使って下山出来たわけである。「登山では何が起きるか分からない」を実感した登山であった。
 スカイライン入り口から岳温泉に向かって歩き出した時、また雪が降ってきた。
ふと、「渡辺水巴」の俳句、「降りしきる雪をとどめず辛夷咲く」が頭をよぎった。
 スカイラインターミナルの下方で出会った「幣辛夷(シデコブシ)」のような霧氷を思い出していたのだ。あの霧氷の辛夷は、まだ咲いているだろうか。

 …泰然自若としたコブシ。降りしきる冬の名残の雪。お前も精一杯冬を主張すればいい。だからといって、春を謳うことを止めることはないぞ。…そんな思いだった。

 こうして、山頂を目指さない「奇妙な厳冬期の登山」が終わったのだ。「相棒」は一緒に出かけるごとに成長している。
                      (この稿は今日で終わりとなる)

今日の写真、ブナの在りよう / ブログを書きはじめて今日で満2年

2009-02-22 05:28:12 | Weblog
 (今日の写真は黒森山北面のブナ林である。ここは「巨木の森」と呼ばれている場所よりも北西寄りで、標高も少し高い所である。スカイライン自動車道路のちょうど中間地点辺りから、緩やかに下って、沢を二つ渡って南東にルートを取った辺りである。
 写真からも分かるだろうが、ここは黒森山の北面に位置しており、緩やかな「登り」になっている。
 ここは「巨木の森」に繋がっており、「巨木の森」の延長線であり、生えている「ブナ」も同じように巨木あり、低木ありという「ブナの原生林」である。この場所を通過すると、あえて、「巨木の森」という看板のある場所に立ち寄る必要もないというものだ。
 「ブナ」とか「ブナの原生林」というと、まるで「バカの一つ覚え」のように、あるいは「鸚鵡返し」のように「白神山地」と答えたり、答えたがる人がいる。だが、それは「認識不足」というものだろう。
 岩木山は「白神山地」よりも「弘前」からは近い。「ブナの原生林」を訪ねて、その森林の息吹に触れたければ岩木山で十分満喫出来るというものだ。最も近いところでは「岳登山道尾根」だ。
 岳温泉でバスを降りて、登山道をゆっくり45分ほど登ると「樹齢300年」以上のブナに会えて、「ブナ原生林」が醸し出す「自然の森」を味わえるのである。そこでは、登山道を外れて是非「森」の中に入ってみよう。足で腐葉土の感触を確かめ、落ち葉一枚の下に多くの生命が輝いている宇宙を見てみよう。

 さて、写真中央に見えるブナに注目してほしい。樹齢は400年くらいかも知れない。何だか数本の幹が集まっているように見えるが、幹は太いが一本だ。それから幹のような太い枝が曲がりながら上に、または横へと張り出している。
 この姿は、この「ブナ」の数百年にわたる苦難の歴史を語っているのだ。一般的にブナを含めて樹木は「障害」がなければ「天」を目指して真っ直ぐに伸びる。だが、この「ブナ」には、それが出来なかったのだ。雪の重みなどに圧されて、上に伸びることが出来なかったのだが、それに耐えて、横に広がることで、生きてきたのである。
 この「大きなブナ」の周りには、「低木」のブナが生えていない。まるで円を描いたようにその「ブナ」を中心に丸い空間が開いている。これはこの「大木ブナ」が枝を伸ばし、葉を繁らせて「陽光」を遮っているから、下草はわずかに生長しても「樹木」は育たないからである。
 だが、この腐葉土に蒔かれた種は「土中」でこの「ブナ」が倒木となり、陽光を思い切り浴びるようになることをじっと待っているのだ。長い長い忍耐の時を生きている。
 道なき森の中を歩く時、このような「特徴」あるブナや生えている場所は格好の道しるべになるものだ。「相棒」はこの「ブナ」の位置を地図に書き込んだであろうか。)

     ■■ブログを書きはじめて今日で満2年が過ぎる■■

 2007年2月22日から、このブログ「岩木山を考える会事務局長日誌」を始めた。そして、毎日、2000~2500字以上で何かを書いてきた。昨日などは3000字を越えていた。 今朝のカテゴリー(Weblog)は743である。
 昨年の2月22日からの、この1年間でアクセス数は約7500である。私の気持ちとしては年間10.000アクセスを目標にしていたのだが、及ばなかったことは残念である。
 ただ言えることは、「毎日何かを書く」ということが別に苦労でなかったということである。
 だが、悔しい思いは何度かした。「ブログ」編集ページに書いた2000字以上の「原稿」が「瞬時」にして消失してしまうことであった。この悔しさの本質は「同じ内容のものは二度と書けない」ということにあった。
 毎朝、5時前後に起床する。そして、書き出すのだ。今朝のカテゴリー(Weblog)が「743」だということは07年2月22日からの「累積」である。1日に1つの記事を書いていれば365日x2で「730」となるところだが、この「累積数」は07年に1日に数回、別な内容のことを書いたことによるものだ。2008年2月22日から09年の今日までは「1日に複数回で記事を書いた」ことはない。
 最近ふと思う。この「ブログ」が私の生活の一部になっていて、一日がこの「ブログ」書きから始まるのではないかと。実際そうだ。「ブログ」を書かなければ一日が始まらないのであれば、しようがない。今日からまた、毎日、何かについて書いていくことにするつもりだ。

 私が「ブログ」書きを始めた年に、「ジャパン ブログ アワード 」というものが始まった。これは何かの「縁」だろうと思い、昨年の募集期間に「エントリー」したら、次のようなメールが送られてきて、「第一次選考」を通過したことを知った。
 思いがけないことだが、嬉しかった。このブログが「人並み」のレベルにあるということを知ったからである。
 これも、「毎日何かを書き続ける」ということを後押ししたことは言うまでもない。
…『【JapanBlogAward2008】 第一次選考の結果のお知らせ
 三浦章男様
 このたびは、JapanBlogAward2008にエントリー頂きまして、誠にありがとうございました。あなたのブログを楽しく拝見させて頂きました。本日は、第一次選考の結果、見事に通過致しましたのでご連絡差し上げました!!
 このご連絡から順に、先日ブログに貼っていただきましたパーツ・画像も公開されていきますので、お楽しみ下さい。』… 

 その後のメールで『2月22日中には第2次選考を終了いたしますので、お待ち下さいませ。』…とあった。何と、第二次選考が22日中となっているのだ。その発表の日が、このブログを書きはじめて2年目に当たる日だったのだ。
 「人は欲張り」なものだ。「第一次選考」を通過して「人並みのレベル」にあると「満足」して、「それでよし」としたはずなのに、私は、何とか「第二次選考にも通過」して、2年目の「ブログ」書きの弾みにしたいと…強く念じたのである。
 だが、結局「第2次選考の結果通知のメール」は届かなかった。

 今年もまた「Japan Blog Award 2009」にエントリーした。私のブログ書きに変化はない。その内容、主旨・主張、体裁などこれまでと同じである。選考基準に変化がなければ、結果は分かっている。
 それでも、エントリーしたのは、主催者が言う「公正かつ適正な個人ブログの普及と促進」のために「本アワードは日々、自らが体験していることをお金のやり取りなどではなくピュアに、力強く、個性ある内容でブログを書き続けている人を表彰する場を設けたい、この想いから有志で立ち上げたものです。」と、そして、「日本におけるブログ文化を更に盛り上げ、日本からブログ文化を発信していきたい」ということを、認め、信頼しようとしているからである。
 ただ、困ったことに「ブログパーツ」を、この「Gooブログ」では貼り付けることが出来ないでいる。貼り付けると「属性のhttp://www.japanblogaward.com/common/js/jba_2009_e.js は許可されていない値です」と表示されて、貼り付けを拒否されてしまうのだ。
 これはこの「ブログ」は『「Japan Blog Award 2009」にエントリーしているものです』を閲覧者に示すためのものであり、これがないとの閲覧者は「投票」出来ないことになるわけだ。そうなると今回も「第一次選考」で終わりとなることは当然だ。
(3000字を越えてしまったので『山頂を目指すだけが「登山」ではない(13)』は明日掲載する)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(12)

2009-02-21 05:26:19 | Weblog
 (今日の写真は霧氷である。スカイラインターミナルの下部から少しだけ滑降を続けた辺りで写したものだ。その時はまだ晴れていた。昨日の写真はそれから2時間後のもので、すっかりと雪雲に覆われている。冬季の天気は一端「下り坂」になると、その変化は時を待たない。
 2月12日のブログで私は「霧氷」を、『「白い花を咲かせている」などと表現するが、それは「俗っぽい」ものだ』と書いた。そして、『「それは神に供える麻の布や絹などで造った白い幣「ぬさ」である』とも書き、霧氷の樹列を「白い幣が立ち並ぶ青い参道」とも表現した。
 しかし、今日の写真の「霧氷」に出会った時、それをどうしても「白い幣」と呼ぶことは出来なかった。そして、「俗っぽい」表現と貶(けな)していたが、やはり「白い」花に見えたのである。このブログにアクセスしてくれる皆さんにそう見えないだろうか。
 私には「蒼空の下のタムシバ(匂辛夷)」に見えたのである。それは、たおやかに青空に揺らいでいた。そして、離れて見るとタムシバは蒼い空にも実によく似合うのである。
 だが、この「タムシバ」の仲間には「辛夷」があり、その別名の中には「シデコブシ(幣辛夷)」と呼ばれるものもあるので、私が「霧氷」を「幣」としたこともあながち当を得ていないわけではないだろう。
 となると、さしずめ、「今日の写真」は厳冬期に咲いた岩木山の幣辛夷」とでもなるだろうか。
 そして、実際に春の4月、花が開くと、「毅然として鷹揚な」、「清楚な」、「優雅な」などと、どのようにでも形容・表現出来るという不思議な花が「タムシバ(匂辛夷)」なのである。

 「タムシバ」について書こう。
 …匂辛夷は津軽では一般的にタムシバと呼ばれている。モクレン科モクレン属の落葉小高木であり、春を教えてくれる花の一つでもある。その「冬芽」は、柔らかい羽毛を纏い、すでに大きく膨らんでいる。
 春を告げる花は多いが、残雪を置く藪から抜きん出て咲く姿は異様な神々しさを放つ。山の女神といってもいいかも知れない。
岩木山水無沢沿いの尾根で昨年は4月の初旬に咲いていた。今年は去年以上に暖冬なのでもっと早く咲き出すかも知れない。
 花にも芳香があるが、葉や枝にもあってこれは折ったり噛むといい香りがするのである。これが「噛む」「柴」である。「カムシバ」が転訛して「タムシバ」となったとするのが花名の由来だ。
「ニオイコブシ」の場合は、「微かに」匂うことと「蕾が赤子の拳の形に似ていること」に因るとされている。また、この果実の形が「握り拳」に似ていることが由来だとする説もある。
 別名としては、「辛夷」の場合は、木筆(こぶし)・山木蘭(やまもくれん)・幣辛夷(しでこぶし)・姫辛夷(ひめこぶし)・やまあららぎなどと呼ばれる。
 また、「タムシバ」は「山の磁石の木」といわれている。蕾は確実に南側が太るので北の方向に曲がるのである。つまり、曲がっている方角が北ということになる。「タムシバ」の蕾が膨らんだり、花が咲いている時季に「濃霧」に巻かれて道を失った時などには、方位の確認の助けにはなるだろう。
 よく知られている辛夷(コブシ)とこの「タムシバ」の簡単な見分け方であるが、「花の下に葉がない。葉は薄く裏が白っぽい」である。

 私は、この霧氷「幣辛夷」を見ながら…、「木俣修」の短歌「朝空をつづる辛夷の白花のそよぐともなく春はしづけき」を思い出していた。
 2月の9日である。まだまだ厳冬の季節だ。だがここはすでに春の装いだ。明るい朝空の主役はコブシの花だ。日が昇り、明るさをさらにコブシの白さでゆっくりと染め上げていく。緩やかな動きと茫洋と広がる軽快な時間の流れ。しかし、何と静かな春の朝であろう。
 たおやかな白い花びらには強い風は似合わない。花びらは飛び散ってしまうかも知れない。現実的にはこのタムシバの咲く頃はまだ、西からの季節風が周期的に吹き荒れるのだ。それを繰り返しながらいつともなく季節は初夏に向かっていく。
 作者「木俣修」は待ちに待った静かな春の訪れに満足しきっているようだ。鷹揚な外的な風情を承けて、地中では旺盛な生命がまさに「春めいて」息づいていることまで感じさせる歌だと、私には思える。


      山頂を目指すだけが「登山」ではない(12)

(承前)

 不要なものは全部ザックに詰めて、「デポ」をしてから、私たちは「黒森山」山頂を目指して出発したのだが、背中に「重いザック」のない「相棒」の動きはとにかく速い。もちろん、「デポ」地点から二つ目の沢を徒渉するまでは緩やかな「下り」となっている所為もあるのだが、それにしても速い。
 二つ目の沢を渡って細い尾根に出たら、その尾根なりに山頂を目指せばいいのだ。だが、変に尾根から外れると、急峻な登りを余儀なくされてしまう。その尾根に上がると「登り」が始まる。
 登りになっても「相棒」のスピードは落ちないのだ。どんどんと私との距離は離れるばかりだ。私が「遅れる」から「そんな速いスピードで登るな」というわけでは決してない。私には「相棒」に対して暗黙の「願い」があった。それは冬季における「黒森山」に登るルートを確実に把握して欲しいということだった。
 この速い「登り方」では「周囲に気を配りながらルートを確認」することは、普通では無理である。
 「相棒」は先を進みながら「方向はこれでいいですか」などと私に確認はする。しかし、私への確認と併せて「地形や生えている樹木」などの観察を続けて、次に「相棒」が単独で、または複数名でここに来る時に「絶対のルートファインデング」が出来るようになって欲しいと思っているのである。
 山頂に近づくにつれて、斜面はやたらに急になってきた。「直登」は出来ない。「相棒」の踏み跡を丹念に辿り、ジグザグの「登高」を繰り返す。私の視界から「相棒」はすでに消えていた。「相棒」は山頂にいたのだ。
 …遅れること数分、私も山頂に「やっと」辿り着いた。予想したとおり、いや既成の事実として「岩木山」の標高1000m以上の高みは雪雲に覆われていた。
 私にとっては今回もまた「この場所からの岩木山全容」を見ることが出来なかったのだ。ただ、眼下の樹木の切れ間、つまり沢を横切った所には、私たちの「トレース」がくっきりと見えていたし、眼上には「スカイラインの蛇行」がよく見えていた。
 黒森山山頂に「立った」ことを記念して、お互いを「岩木山」をバックにして撮り合って、直ぐに下山を始めた。
 下降時は私が先頭になった。登って来た時の「トレース」を意識的に「外れた」ルート取りをするためである。だが、その「ルート」は登りの時の「トレース」と全く違うというものではなかった。時々「登りの時のトレース」と交差することもあった。私は色々な視点からの「ルート取り」訓練を「相棒」にして欲しかったのである。
 「あっ、沢に出ましたね」とか「この辺りをさっき通りました」と「相棒」は私に追いついてきては言った。これでいいのだ。私の「目論見」を「相棒」は理解している。
 その後、先頭を「相棒」が務めて「デポ」地点に戻ってきたのは、そこを出発してから1時間25分後であった。予定した時間よりも35分も早かったのである。
 私は「相棒」に「今日登ったデポ地点から黒森山山頂までのルートを地図に書き込んで私に提出して欲しい」という課題を与えた。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(11)

2009-02-20 05:36:07 | Weblog
(今日の写真は寄生火山「黒森山」山頂から岩木山を撮ったものだ。黒森山の標高は887mだ。その高さから1625mの岩木山を眺めると、このように見えるのである。
 岩木山の約半分の高さから見ると、さすがに「岩木山」は大きく、広い。残念なことは雲に覆われて標高1000m以上の高みが見えないということだ。
 この雲は「雪雲」である。この雲に覆われているところでは「盛んに」雪が降っている。自分で「予想」したとおりの天気となって来ていることに少々、驚いた。
 私はこれまで、数回この「山頂」に立っている。いずれも「冬季」である。何故なのだろう。そのたびに「このような天気」、つまり、雪雲に覆われた「岩木山」しか見ていない。黒森山の頂上からは岩木山の「全容」をいまだに見たことがないのである。
 岩木山は黒森山の頂上からの「景観」を見せたくないのではないだろうか、などとふと思った。

 「ブナの新緑萌える岩木山の西山腹。描かれた奇妙な螺旋模様は現代の鬼っ子か」と言った人がいる。これはヘリコプターでスカイライン上空を飛んだ人の言葉であり、感想である。
 この人は「スカイライン」を…「西面にドライブウエイがあった。これは現代の鬼っ子か。現代人は自分で自分を捕らえて、食われつつあるのかもしれない」…ととらえている。鬼は一般的には人に対して悪さをするものとされているが、「逆さ堰」の伝説からも分かるように、岩木山の鬼は、特に赤倉の鬼は古来農民の味方であった。その民の味方を捕らえて食っているとすれば一体どうなるというのだろう。
 自然の草木を含んだ表土を剥いで、「スカイライン」という自動車道路を敷設したり、スキー場を開設したり、ダム(堰堤)を造営したりすることは「鬼っ子」を越えて人を食らう「鬼」そのものかも知れないという視点で、今一度考え直す必要はあるだろう。
 そんなことを考えたら、この山頂に来る度に「雪雲に覆われるという理由」がおぼろげながら理解出来たような気分になった。
 晴れていると、ここからは「スカイライン」の下部を除いたすべてが見える。「スカイライン」とは「Sky-line」と書く。本来は「山・建物などの空を画する輪郭」とか「地平線」という意味を表す英語だ。ただし、日本では「山の尾根や高原を走る自動車用遊覧道路」のことをこのように呼ぶ。たとえば、「磐梯吾妻スカイライン」「津軽岩木スカイライン」のようにだ。
 いくら、英語読みに「アレンジ」して「美しい響きを持つ」スカイラインとしても、その事実は、あるがままの自然である山肌や尾根につけられた、痛々しい「傷」でしかない。
 岩木山からすれば、まさに、それらは「不名誉」な傷なのである。しかも「不名誉」な「古傷」なのである。「傷」を人前に曝して、いい気になるのは「ヤーさん」ぐらいが相場だろう。やはり、岩木山は「霊山」であり、「神山」だ。それなりの「神格」や「山の格」を持っている。
 だから、黒森山の頂上からの「景観」、つまり、この広い尾根につけられた「古傷」を見せたくないのである。 

 ここからの景観はなかなか見ることが出来ないので、雪雲に覆われていない部分の説明を少ししよう。
 左にうっすらと見える頂は「追子森」だ。それとスカイラインのある尾根に挟まれている樹木のない、蛇行している細長い雪の斜面を見せている深い谷は「赤沢」である。眼前の広い尾根の左岸の深い谷は「湯段沢」である。そして、その右側の尾根が「岳登山道尾根」である。)


           山頂を目指すだけが「登山」ではない(11)
(承前)

 私たちは「滑らないスキー」を引きずるようにして、ようやく黒森山の北麓に辿り着いた。その場所は今日の写真で言うと、尾根の上部を蛇行して続いている「スカイライン」が急激に写真の右側に向きを変えている辺りである。
 そのまま「スカイライン」上を下山していくと、黒森山とはどんどんと離れていって、黒森山の東斜面からも遠のく位置に出てしまうのだ。
 しかも、黒森山の東斜面は急峻だ。黒森山の山頂から下山する場合は、この「東斜面」を降りると最短距離で、時間短縮にはなる。
 しかし、何せ「斜度」がきつ過ぎる。いくら「ブナ」の巨木に支えられて「雪崩」の心配はないと言われても、私にはこれまでも降りることが出来なかった。
 だから、その日は「そこ」から緩やかな斜面を南に下降しながら進んで、西寄りに沢を二つ渡ってから、南東よりに登って山頂を狙うことにしたのだ。もちろん、山頂からはまたここに戻ってくるという「ピストン」行動である。
 「スカイライン」から、少し入った低木ブナの林中に「デポ」地点を見つけて、そこで、ザックを降ろし、スキーを外してほっとする。
 12時近かったので、先ずは「昼食」だ。腹ごしらえをしてから、その日の最終「登山」に向かうのである。

 昼食を終えた私たちは、少しの「行動食」をポケットに詰め込んで「空身(ザックを背負わないで登山行動をすること)」で出かけることにした。昼食を摂っているうちに、上空の青空は消えて、次第に薄暗くなってきた。雪もちらちらと降り始めた。天気は私が「予報」したとおりに推移していた。
 この程度の降雪だと「踏み跡」が「新雪に埋まって見えなくなること」はあるまい。そう考えて、「送り(竹に赤布を付けたもの)」は持っていかないことにした。
 視界不良の中で、この「送り」の果たす役割は重要である。そのことをすでに「体験済み」の「相棒」は私が使っている「送り」を見よう見まねで手作りして、今回数十本持参していた。だが、残念ながらその「初見せ」興行はなかった。
 いよいよ出発だ。「黒森山山頂往復」2時間と私は踏んだ。スキーを着けて動き出した。その途端、「相棒」が感動的な声を発したのである。
 「おお、なんぼ軽いんだ」と。そうだ。背中に大きくて重いザックがないのである。本当に軽い。「無」であり、「空」である。軽いのは当たり前だが、これまで「重い」ザックと格闘してきた者にとっては、その「当然さ」が信じられないのである。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(10)

2009-02-19 05:22:11 | Weblog
(今日の写真は「スカイラインターミナル」からカーブを10個ばかり下った場所を滑降する「相棒」だ。雪の埋まりは約10cmだ。この「埋まり方」だと、「スカイライン」を形成している「斜度」では、「スカイライン」に沿って滑降することは出来ない。つまり、「滑降」を満足させる斜度ではないのだ。それには余りにも「緩やか」過ぎるのである。
 人間が「歩いたり」「走ったり」「担いだり」「背負ったり」「運んだり」することに比べると、「自動車」のそれらは、確かに人間の数倍から数十倍の「速さ」や「仕事量」を示し、こなす。
 しかし、「自動車の登ることの出来る能力(登攀力)」は人間の「登攀(登坂)力」に比べると、実に大したことはないのである。
 私たちが「スカイライン」の道なりに「スキーで滑り降りることが不可能」な「緩い斜度」の道しか、自動車は登ることが出来ないのである。現代社会を席巻して憚らない文明の利器、「自動車」もそのように把握すると、それほどのものではない。
 まあ、「ガソリン」という化石燃料が生み出す「エネルギー」なしでは単なる「鉄とプラスチック」の筐体に過ぎない「使い価値」のない代物なのだから、当然だろう。
 この写真を撮った時は、偶々私が先頭になっていたのだ。だが、大体「登り」はその3分の2は、決まって相棒が先頭」であり、「下り」も大体相棒が先頭」なのである。この順序が「逆転」したのは本当に「偶々」のことだ。
 ウインドヤッケの上着を着けていないところを見ると、恐らく、それを脱いでザックにしまい込んでいる時に、私が「追い越した」のではなかろうか。
 そんなことはどうでもいい。この写真を今朝掲示したのは、「相棒」が背負っているザックの大きさとそれに付随させて背負っている全装備の大きさに注目して貰いたいからである。冬山における「一泊全装備」とは、このくらいの大きさと「重量」になるのである。
 ところで、私の滑り跡、シュプールはどうだろう。結構「美しく」描けてはいないだろうか。背中に「重い」ものをつけて「滑る」ということは「弘前高校で成績トップといわれる秀才が東大に受けて滑る」よりも難しいかも知れない。
 「相棒」のザックは私のザックよりも、その「容量」が20リットル多い。冬山装備の「個人」が背負う絶対量は余り変わらないものだ。
 だが、「相棒」と私が背負っている物品的な共同装備の違いは「相棒」が「テント本体」、「ポール」それに「軽量スコップ」を背負い、私は「テントのフライシート」を背負っていることであった。あっ、忘れていた。昨晩出した「ゴミ」も、「相棒」が「私のザックには空きがありますから」と言って背負っていた。「ゴミ」はどんなことがあっても持ち帰るのだ。「相棒」はこの「ゴミ」もスカイラインターミナル付近まで背負い上げて、そして持ち帰るのである。)

          山頂を目指すだけが「登山」ではない(10)
(承前)

 私たちは、まさに、「常軌を逸した」方向転換をして、「下降」を始めたのだ。「下降滑降」を始めたのだが、それは単なる「下山」のための「滑降」ではなかった。
  私たちには、「下山」がてらにする目的があった。下山することが目的ではあったが、それを含んで、別の目的もあったのである。
 その一つは厳冬期の「巨木の森」のたたずまいを、この目でしっかりと観察し、その名称に込められているであろう「由来」の実態を確認して、その雰囲気を感得することである。
 そして、もう一つの目的は冬季でなければ山頂を踏むことが難しい道なき「黒森山」の「山頂」に立つことであったのだ。
  大きく蛇行を繰り返す「スカイラインの長さ」は約10kmだ。その「蛇行」の数は64もある。「スイスイ」と滑るのであれば、恐らく、いい天気のこともあるので「爽快」であろう。確かに「今日の写真」からも分かるとおり「いい天気」である。
 しかし、「現実」は違っていた。下降を続けるのに従って、スキーの「埋まり方」は深くなってきた。益々「スキー」は滑らない。
 「滑らせよう」とすれば、いきおい「斜度のある場所」を探さねばならなくなる。その場所とは一段下にある道路を直線的に横切ることを要求する「道路の上段法面(のりめん)」だ。
  だが、そこには、まるで「フエンス」のようにミヤマナラやミズキなどの雑木が列を成していて、行く手を阻むのであった。これも、今季の「少雪」の仕業だ。
 私は、このルートをこれまで数回滑降している。その時もスカイラインに沿って「蛇行」はしなかった。雪に覆われて殆ど「樹木の影」のない「法面」を下った。もちろん、「直滑降」ではない。そのような技術もないし、「山頂まで登り、降りてきている身」には「直滑降」をする「体力」はなかった。仮にあったとしても「背中に重い荷物を背負って」では出来ることではないだろう。だから、スピードを落として、大きく左右に「回転」しながらの「滑降」であった。

 ところで、かなり「昔」になるが、一時期、「スカイライン株式会社」が「雪に覆われたスカイライン」の法面をつないで、それを直線的な「ゲレンデ」化して、「スカイラインスキー場」と呼称して「商売」をしたことがあった。それが出来るほどこの尾根の「積雪」は多いのだ。
 ところが、それでも、「雑木の梢」などが雪面に出ている。圧雪車で「均され整地されたゲレンデ」でしか滑ったことのない「スキーヤー」にとっては、わずかに出ている「梢」や「雪面の起伏」は「障害物」でしかないのだろう。その障害物を除去するために、いつの頃からか、雪上車でそのルートを踏み固め、圧雪車で均し始めたのである。
 その結果は明らかであった。梢のみならず法面に生えている樹木は「ずたずた」に折られてしまったのである。私が抗議したのは言うまでもない。
 だが、今回は「法面」をスロープにすることすら出来ないのだ。「相棒」が私に後れを取った理由は「着替え」のためだっただけではなかった。この「雑木」に「スキー」を取られて「頭から雪中に突っ込んだ」ためだと、後になってから教えてくれたのだ。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(9)

2009-02-18 05:23:25 | Weblog
(今日の写真はスカイラインターミナルの下部辺りからの眺めである。写真には見えないが、山並みの右には「向白神岳」などの白神連山がある。ここに見える山並みは、それから北に連なっている山である。
 ある人がここからの、もちろん白神山地の南から東の秋田県との県境にかけて広がる山並みを見て、『なるほど、「青森県は山国」なんですね。どこもかしこも山、山、山ですよ。』と言ったが、そのとおりである。
 青森県だけではない。日本全国どこにでも山が存在し、今はもっと少ないのかも知れないが、私たちは学校で「国土の75%が山林である」と教えられたものである。日本はまさに、「山国」であり、日本人は本来、「森林の、森の民」なのである。
 だが、都会に住む多くの人々を含んで、国民の殆どは「自分たちが本来、森の民である」ことを忘れている。いや、忘れているというよりも、「森の民」であることに気づくこともないのである。
  それは、政治も教育も、国民に「日本は山国で、国民は森の民」であるということを教えないからである。「山や森と農業の関係」を教えないからである。だから、「農業は衰退し、都会は人で溢れかえる」ようになったのだ。挙げ句の果てが、「食料の自給が出来ない国」へと堕したのである。
 「国を守る」というと、専守防衛だとか、自衛軍だとか外国からの「武力攻撃」を前提とした考え方だけが幅を利かす。だが、本当に、それ以前に、「国を守る」ということで、しなければいけないことは「森を護り育てること、山林を守ること」ではないのか。
 「国破れて山河あり」という言葉は、それを深く暗示しているものだろう。山や川があってこそ、国土の保全は保たれるのだ。自然の山や川があるがままに存在する国、それが「日本」という国だ。
 
 …写真のほぼ中央に見える大きな山が、寄生火山「黒森山」である。その後にも「一ツ森」「二ツ森」という寄生火山が続いている。また、「黒森山」の南には「若木森」という寄生火山が見える。岩木山の南西山麓は「寄生火山」の大集落である。これが、岩木山南西山麓の景観を特徴づけているのだ。そして、この特異な景観を生み出す「地形」がこの辺りを吹き渡る風の流れに、独特な「上昇気流」を発生させるという。
 だから、この辺りには飛翔のために「上昇気流」を必要とする猛禽類が多いのだそうだ。)

            山頂を目指すだけが「登山」ではない(9)
(承前)

 その「雪崩事故」発生の概要は「4人パーティはスカイラインターミナル東面直下に張り出している雪庇の西側を登り、それを避けながらスカイラインターミナルに至り、さらにリフト鉄塔沿いに少し登ったところから、東に移動して通称、鍋沢の上部に入った。そこからK氏、一般スキーヤーのT氏、B氏の順でスキーを滑り始め、K氏が転倒、T氏が立ち止まった途端、西側斜面の雪庇が崩れるとともに、東側の斜面の雪も崩れ落ちた。K氏、T氏が流され埋没した。B氏も流されたが自力脱出した。ガイドA氏はまだスキーで滑り出していなかった。」である。
 つまり、転倒による衝撃が、西側斜面(スカイラインターミナル東面直下)に張り出していた雪庇を崩落させ、その振動が東側斜面の崩落を誘発したということである。
 また、私はこの張り出している雪庇を、雪崩発生日の1ヶ月前の12月24日と29日に、それに同じ月の13日と14日の都合4回に渡って確認していたのである。
 東奥日報社から、19日昼過ぎに「岳登山道尾根で雪崩が発生した。具体的に場所が分かるか」との問い合わせがあった。即、私は「鍋沢」を指摘した。「岳登山道尾根」で雪崩が発生するといえば、極端な話し、「鍋沢」しかないのである。

 私たち登山者は登高、下降に際しては、決して鍋沢を通らないことにしている。ましてや、降雪の続く厳冬期にあっては絶対に通行しない。これは岳登山道尾根を登る者の常識である。
  しかし、この雪崩に遭った人たちは「危険ではある」が「状況」によっては、そこを滑降してもいいと考えていたのかも知れない。確かにそこを通過すれば100%雪崩を引き起こすということではない。
 だから、これまでも実際滑っていたようである。私は鍋沢にスキーのトレースを毎シーズン多数見てきたし、雪の締まる残雪期には滑っているスキーヤーを見ている。
 さらに、殆どの雪崩事故は人為的な刺激が加えられることで発生していることなどに加えて、「雪崩発生とその場所が予見されていたにも拘わらず、そこを滑降したこと」で、事故原因には人災的な要素が強くなるのではないだろうかと考えている。

 …快晴、何も遮るもののない山頂に背を向けて、私と相棒の二人は、眼下に見える「黒森山」を目指して下降を始めたのである。
 もし、この二人の様子を「一連の動き」をとおして見ていた人がいたとしたら、恐らく「この二人は何を考えているのだ。全装備を背負って、ここまで来たのは頂上に行くためだろう。狂っているのではないか」と捉えただろう。
 それほど「常軌を逸した」方向転換であり、「下降」だったのである。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(8)

2009-02-17 05:41:50 | Weblog
(今日の写真は標高1250m付近に展開している「岩木山スカイラインターミナル」やその下部の道路上に見られる「造化」である。
 日本語では「風紋」と言っているようだが、外来語では「シュカブラ(Skavla)」と言っている。ノルウェイ語である。風が造り出す「文様」だ。同じものは「万に一つ」もない。岩木山では標高1000m近くから、その上部でないとなかなかお目にかかれない。
 定義づけると「雪面が強風を受けて、波状の模様になっている状態」ということになる。
 この「シュカブラ」の出来る条件は「降った雪を運ぶほどの強風」が吹くことである。ただし、強過ぎて、積もらない状態だと、そこには出来ない。
 そのような場所には「海老の尻尾(エビノシッポ)」という「読んで字の如し」の、本当に「尻尾」状のものが「風に向かって」出来るのである。分かりやすく百沢登山道に沿って言えば、「鳳鳴小屋」より上部では「エビノシッポ」が出来る世界となる。まあ、標高1400m以上の世界である。
 この「シュカブラ」が出来る場所は、岩木山では多くはない。先ずこの場所、スカイラインターミナル付近である。だが、上部にはあまり出来ない。駐車場とか道路のある場所である。つまり、ある程度「平面」を保っている場所で、風の強い場所である。
 「百沢登山道尾根」では、鳥海山東面尾根の大沢右岸斜面と大沢中部と源頭部である。加えて、「後長根沢源頭上部」である。ここは少し窪んでいてすり鉢の底のような地形であるがかなり広い。
 「弥生登山道尾根」では、七合目「大岩」から耳成岩下端にかけての高原状の斜面である。
 「赤倉登山道尾根」では、大開から赤倉御殿にかけての、赤倉沢右岸に広がる斜面と大鳴沢源頭部上部から弥生尾根に広がる斜面である。
 「長平登山道尾根」では、西法寺森下端から西法寺平にかけての斜面である。
 「扇の金目山」山稜ルートでは、扇の金目山上部の大鳴沢右岸尾根である。
 「追子森登山道尾根」では、「追子森」山頂が雪で埋まり、平面状態になると「シュカブラ」が出来る。しかし、雪の少ない年は見ることは出来ない。
先日11日に「追子森」山頂まで行ってきたが、殆ど「シュカブラ」は見られなかった。
 いずれも標高が1200m前後以上の場所であり、1450mを越えない範囲に限られている。ただし、例外的に山頂直下の耳成岩鞍部にある広場にも出来ることがある。そこは標高が1600mを越えている。

 「シュカブラ」の形状は千差万別だ。形状のみならずその質感や「ないはずの色彩」までが、同じ場所でも違うのである。まさにこれは「天が創り出したオブジェ(objet)物体・対象」である。この違いはどうして生まれるのだろう。
 それは、風の強弱や吹きつける角度、それに吹き込む間隔、つまり、風の息づかいなどに因るのだ。それだけではない。
 雪の質にもよる。細かく乾いたパウダースノー、重く湿った雪、ザラザラとした質感の雪、霰「あられ」、霙「みぞれ」などによってみな違うのだ。
 当然、季節の推移によっても変化する。春先の「シュカブラ」は、表面が陽光を受けて解け出し、それが放射冷却などで凍って氷化している。そうなると「透明度」を強くしたものに変化する。
 この他にも気象全般、寒暖などを含めたさまざまな理由・条件から「同じものは万に一つもない」という「シュカブラ」が雪面に出来るのである。)

          山頂を目指すだけが「登山」ではない(8)
(承前)
 私たちには「鍋沢」の右岸の縁を登って鳥海山南陵の中腹部に取り付く必要はなかった。山頂に行かないからだ。
 昨晩テントの中で、相棒から、どうしても冬季の「巨木の森」を見たいし、「黒森山にも登りたい」という意向が語られていた。相棒は、そのことを「テントの中で思いついた」のではなかった。今回の山行目的には最初から「巨木の森」または「巨木の森」付近に幕営するということが盛られていたのだ。
 それでは、その「巨木の森」上部にある、夏道らしきものもない、冬季でなければ登ることが難しい「黒森山」に登ってみよう、ということになったのである。

 私たちは、湯段沢源頭部を上方に向けて斜めにトラバースをして、スカイライン道路の敷設されている尾根に取り付いた。
 新雪が多ければここも、偶(たま)に雪崩が発生する場所だ。相棒が先にトラバースしていく。私はその間「相棒」の行動に注意していた。もし、相棒が雪崩に巻き込まれ、埋まったらその位置を特定するためだ。
 私がトラバースしている間は、相棒が私を注視することになる。山では、基本的にその行動は「自助努力」でありながらも、自分以外の人の行動にも「責任」を持つことが要求されるのだ。

 私の視線は相棒にきっちりと向けられていたが、…私の脳裏は、2002年1月19日午前11時30分ごろ、スカイラインターミナル東面直下の「鍋沢」で雪崩が発生して、スキーヤー2人が巻き込まれて亡くなったという「事故」に捕捉されていたのであった。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(7)

2009-02-16 05:47:28 | Weblog
(今日の写真は湯段沢の右岸源頭部と湯ノ沢左岸の源頭部に挟まれた鳥海山南陵尾根の下端から、その「南陵」を撮ったものだ。このシリーズが始まった最初の写真(2月10日付)がこの「南陵」の「遠望」である。
 その写真と比べてみるとどのくらい登って来て、どのくらい近づいたかが分かるだろう。ここまで来ると「スキー」は殆ど「埋まらなく」なる。
 出来るだけ、広い範囲を収めるために「広角ズーム」で撮っているものだから、写真ではその斜度が分からない。しかし、このあたりはかなり急峻なのである。そして、この「南陵」も「岩木山のマッターホルン」と書いたように鋭く「急斜して屹立」している。
 写真手前の「風紋(シュカブラ)」の走る一見「なだらかな」斜面の下は「沢」である。雪に埋もれてその姿はない。この沢の右岸を夏道がジグザグ状にスカイラインターミナルへと続いているのだ。写真の中央に横列して「霧氷」をまとって並んでいる樹木は「低木」ブナだ。この尾根にはここまで「ブナ」が生えている。標高約1200mである。
 その上部の雪に覆われた無数の「突起物」も「樹木」である。これらは「ダケカンバ」である。今季は少雪なので、「突起観」が強いが、例年どおりの積雪ならば、もっと疎ら突起物の集団に見えるのだ。
 このダケカンバに覆われた急斜面は「冬の始まった頃」が一番美しいと、私には思える。それは、白い雪と淡く白と橙とをミックスしたような幹を見せ、その上部に赤みを帯びた枝を伸ばしている「ダケカンバ」の森の風情が独特の、妖しい「造化」を醸し出すからである。
 特に、この日のように「快晴」の下では、その「妖しい美しさ」は格別なのである。)

           山頂を目指すだけが「登山」ではない(7)
(承前)
  
 私たちは10時少し前に、この「場所」まで「一泊全装備」を背負って、登って来ていた。「視界」は100%利くと言っていいほどの天気である。雪質も最高だ。
 ここから山頂までは、ほぼ「クラスト(雪面が氷化して硬くザラザラして、殆ど埋まらないこと)」している状態であろう。
 「スキー登高」では、この「クラスト」状に加えて、「少雪」のために「障害物」が多くて難儀だが、「ワカン」を使えば、「容易」に山頂に行って帰って来ることの出来る時間である。もちろん、この「一泊全装備」を背負うことはやめて、「ワカン」に履き替え、食料などの最少の装備を背負って、スキーのストックを「ピッケル」に持ち替えての「登降」をした場合の話しだ。往復で3時間は決してかかるまい。
 私の心の中には「山頂に行きたい」という思いが素直に、正直に広がり、充満していた。だが、その思いの中で、私の視線は目の前に見える「鍋沢」に注がれて、しばらくの間、他の景物が見えなくなっていた。 
 私の視線を捕らえて放さなかったものは、この写真の左側の中央部である。そこに目をやって欲しい。大きな「影」のような黒い部分である。
 この黒い部分は古い爆裂火口である。この平坦に見える埋まった沢を直線的に辿ると、この「鍋沢」に入ってしまう。積雪が多ければ「大きな雪庇」が出来ていて、侵入を阻むが、今季のように少雪だと、すんなりと「落ち込んでしまう」はずだ。
 また、この「鍋沢」の西側谷頭には例年ならば「巨大な雪庇」が出来るのである。今私は「落ち込んでしまうはずだ」と書いたが、その理由は、40数年の冬山経験の中で、この「鍋沢」に入り込んだことは1回もないからである。それは体験と先人から教えられたことを堅守しているためだった。

 その体験とは…私は29歳から34年間連続して岩木山の「年末年始登山」を実行した。35年目からはこの非常に期間が限定されている「年末年始登山」は止めたが、厳冬期に山頂に立つことはその後も続いている。
 今年も1月18日に山頂に立った。来年の厳冬期に山頂に立つことが出来れば40年間、ずっと「真冬の岩木山山頂に立つ」ことになる。
 その経験の中で、何回もこの「鍋沢」右岸で雪庇の崩落やそれに伴う雪崩やそのデブリを目撃していた。
また、その先人から教えられたこととは…「鍋沢」は湯ノ沢の厳頭部で古い爆裂火口である。戦前、戦後にかけては、「昔は観桜会と呼ばれていた」桜まつり等で興行される曲芸オートバイの曲芸乗り場に似ている形状から「オートバイ乗り場」または単に「オートバイ」と呼ばれていた場所であり、雪崩の頻発する場所であるということであった。

 私は、いつも、今日の写真で説明すると、写真の左端中央部を斜めに登って行く。晴れていると間違いなく「スカイラインターミナル」へ辿り着く。
 だが、吹雪やホワイトアウトの中では、しばしば、東側に寄り過ぎてしまい、この「鍋沢」に張り出している「雪庇」上に出てしまうことがある。
 そのような時に「雪庇」を踏み抜いて「自分が雪庇崩落」を起こし、雪崩を発生させてしまうことがあるのだ。この西側斜面の「雪庇崩落」については拙著「陸奥の屹立峰・岩木山:48ページ~」で詳しく述べているので参考にして欲しいところである。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(6)

2009-02-15 05:47:04 | Weblog
(今日の写真は陽光を遮断しようと健気に輝く霧氷樹や枝である。まるで、太陽が月に見えて、満月が輝く夜の風景のようだ。
 これらはすべて「ブナ」である。岳登山道沿いの尾根には低木ブナを入れると標高1150m近くまで多くはないがブナが生えている。「多くはない」とは「雪上車利用スキー場」のゲレンデとして伐採されたからである。
 写真奥に見える対岸の湯ノ沢尾根は殆ど伐採されていないので、ブナの森は「写真」の中でも「黒々」としているだろう。
 写真では見えないが、反対の湯段沢の尾根も、1965年までは同じであった。この年に「津軽岩木スカイライン」が開通したのだ。正式名称は「岩木山登山自動車道」である。
その起点の標高は445m、終点は1247mであり、全長が約10kmに及ぶ。69ものカーブがあり、「路幅」は2車線の7mだ。
 この「岩木山登山自動車道」の面積は単純に計算すると「7m×10.000m」となり、「70.000�」となる。スカイライン株式会社は、この面積のブナ等の樹木を皆伐して、自然の草木を含んだ表土を剥いだのである。
 だから、どうしても「同じであった」という表現にならざるを得ないのである。1965年というと昭和40年、「自然生態系」という言葉も殆ど聞かれず、ブナがその「自然生態系」の中で重要な役割を担っている樹木であるという認識を社会そのものが持っていなかった時代ではあった。役に立たない木という意味で「木」偏に「無」をあてた「�(ブナ)」という漢字が大手を振っていた時代でもある。
 東京オリンピックに浮かれ、人工の建造物がどんどんと増え、日本の山峡に大きなダムが次々と造られていた時代でもあった。林野庁が主導して「山のブナ」を皆伐していた時でもある。私は当時まだ大学生であったが「自然保護」などという思想には、まだ出会っていなかった。
 だが、今、私たちが登っている「雪上車利用スキー場」が開設された1980年代の半ばには「自然保護」思想は形を持って歩き出したし、「自然生態系」と「山のブナ」との関係とその重要性は十分社会で認識され始めていた。それでも、ブナを皆伐してしまったのである。
 鰺ヶ沢スキー場が開設された1990年代から2000年にかけて、社会は「自然保護、自然生態系、ブナ」との相関関係をはっきりと認めた時代だった。しかし、青森県の木村知事、林野庁、鰺ヶ沢町、それに企業である「コクド」は認めなかったのである。)

        山頂を目指すだけが「登山」ではない(6) 

(承前)

「ペグ」を持ってこなかった私たちは何を「ペグ」代わりに使用したのかと昨日のブログで尋ねたが「コメント」欄への書き込みはなかった。そこで今朝のブログで答えることにしよう。
 「スキー」と「ストック」の他には、「ピッケル」「スコップ」「ワカン」である。「ピッケル」は70cm長のものが2本だ。これを雪面に刺し込んで使用する。「スコップ」は1丁であるが、これはいつ何時に、緊急的に使うか分からないので「浅め」に埋めて利用する。「ワカン」は2足だから4枚となり、これを張り綱の先端に結わえてから埋めて使うのだ。
 これだけ「ペグ」代わりに利用するものがあるのだから、「冬山」では「ペグ」を背負ってくる必要はないのである。

 その日は晴れていた。毎年「建国記念日」の前後は大荒れになるものだ。私はこれまで、この「時季」に必ず、岩木山に登っているが、毎年のように「凍傷」になったものだ。しかし、この日は晴れている。これは凄く珍しいことである。

 雪稜で見る晴れ間は、本当に青い。こう書くと一般的イメージとしての「青」という色に限定されてしまうので困るが、ここでの青は「深い海の青」に、透明度を付加した青と考えてほしい。かといって群青(ぐんじょう)色でもないし、青鈍(あおにび)色でもない。
 この青には、樹木の霧氷がよく合う。対照的な美であり、細かい銀粉までが、その輪郭を明確にする。判然とした美が、造化の妙がそこにはある。
 だが、青い空を背景とした樹木の霧氷は、額縁の中の絵画でしかない。

 ところで、大荒れで吹雪とか濃霧に包まれる霧氷樹林は、墨絵の世界へと変身する。
 空間を覆う濃霧も、よく見ると小さな結晶をなしていて、細かい雪である。それに包まれたブナの枝々には、霧氷が凍結して、銀粉をまぶした白い花を咲かせ、ちょっぴり厚ぼったい白い葉をつけている。
 足元には、踏むときしみ音を立てる積雪が延々と続く。まるで、空間も平面も、四囲が宇宙が、そして吸い込む空気までが微粒の雪だ。まるで、乳白色の、広い雪の風洞を登っているのと同じなのだ。何と豊かで多彩ではないか。      
 ところが、小さな雪の結晶粒が、空間に満ちて漂う濃霧の中では、この輪郭の明確な美は消滅する。だが、何とうまく出来ていることだろう。自然の造化は奥が深い。そこには、混沌とした融合の美が存在する。
 さらに、乳白色の中には微かな白の輪郭が見え隠れする。それは時には、水に洗われた墨絵の世界のように流れ、太い線がぼ~と霞んでは消えてしまう。
 濃霧の中での霧氷樹は、まさに動く幽玄。乳白色の銀幕が何層かになり、それらがくっついては全てが、白い闇に変わる。そして、突然、黒くて太い輪郭が佇立しながら全的に流動する。
 溶解、そして明るい霧散。静かではあるが止まることはない。常に動いている世界。それは、全体が巨大な生き物でもある。
 これが濃霧の中の霧氷樹林だ。乳白色に彩られた冬のブナ林を登ることは、墨絵の世界に遊ぶのと同じで、楽しいものだ。

 …そのような思いに浸りながら私たちは「スカイラインターミナル」の直下にようやく辿り着いたのであった。(明日に続く)

山頂を目指すだけが「登山」ではない(5)/ 総合立体的『岩木山の生き物』シンポジウム

2009-02-14 05:44:56 | Weblog
(今日の写真は2月8日から9日朝まで「宿泊した」テントである。相棒のTさんが撮影したものだ。このブログでも「幕営地」の説明をしてきたが、写真からも分かるであろう。ここは谷頭の林縁である。
 風は弱かったが、私の左肩を「押す」ように吹いていた。南風である。この時季に南風が吹くということは珍しい。本当に奇異なことだ。
 この時季の「正常な」風は「北西」から吹き付ける。強くて冷たくて激しい吹雪となることが普通だ。
 だが、今季はすでに「春の装い」である。南風が吹くということは日本海の中部に「高気圧」があるということだ。気象情報では「高気圧」はせいぜい、新潟県沖合まで北上し、そこから北関東を横切って太平洋に出るだろうという配置になっていた。だから、等圧線が縦型の西高東低の気圧配置となり、降雪に併せて風も北西から強いものとなるだろうと、私は予想して、「天気予報」を構築していた。
 しかし、これは外れた。日本海の高気圧が北上してきたのだ。しかも、この高気圧は「寒気」を伴う「シベリヤ高気団」からのものではなかった。緯度の低い大陸南部で発生して日本海を北上してきたものだった。
 昨晩も殆ど降雪はなかった。テントの周囲も雪に埋まってはいないし、テントの頂部にわずかに「張り付いて」いる程度だ。「晴れ」は昨晩の11時ごろから始まり、その日の朝もまだ続いていた。この写真は7時30分頃に写したものだ。すでに「晴れの時間帯」は9時間を経過しようとしている。
 「これだとこの晴れも長くは持つまい。日本海には低気圧が発生して、高気圧の縁に沿って、つまり、本州北部に近づいて来る。せいぜい、午後の早い時間から崩れるだろう」と私は踏んだ。そして、そのとおりになった。)

     山頂を目指すだけが「登山」ではない(5)
(承前)

 冬場にテントを設営する場合は、最近のテントでは「ペグ」を使わない。ただし、「ペグ」という道具は使わないだけで、それに代わるものを使うのである。 

 私が冬山登山を始めた頃には、確かに「ペグ」は「幕営の必需品」で「必携」のものだった。それは、非常に嵩張るもので、リュックの中には入らないので、まとめて袋に入れるか、縛るかして「リュック」の外側に縛り付けて運んだものだ。
 材料は竹である。太い竹を四枚に割って、50cmほどの長さに切って、下端を槍のように細工してから、上端に下斜めの35度ほどの切れ込みを入れて完成だった。これを30本以上まとめて運ぶのである。これだけでも大変だった。
 使用するには下端の「槍」部分を固めた雪面に差し込んで、頭程度だけ出して、「出た切れ込み部分」に張り綱の先端を結わえるのである。
 何故そこまで「竹ペグ」に依存したのかというと、それは当時の「テントの構造」にあった。当時のテントは殆どが「屋根型」であり、「家型」だった。
 今日の写真のテントはその形状から「ドーム」型と呼ばれる。昔の「屋根型や家型」はグランドシートとテント本体が別々になっていた。
 つまり、底面に「グランドシート」を敷いて、それをまず、「ペグ」で固定する。その上部に「家(側面のあるもの)」なり「屋根(側面がないもの)」を「載せ」て、それを「ペグ」で固定してから、さらに「フライシート」をかけて、張り綱で固定する訳だ。
 これだと、使う「ペグ」は多くなる。何故ここまで、「ペグ」に依存するのか、それはテント本体とグランドシートとの間から風が入って「吹き飛ばされる」ことを防ぐためだったのだ。
 その後、最近まで「テント」の殆どは「ドーム」型になり、グランドシートとテント本体が「縫合」され、「一つの成形体」となり、「底部」から風が吹き込むことがなくなった。これで、「風に煽られて」吹き飛ばされることは先ずなくなったし、テント本体が強風を受けてもグラスファイバーの「骨」が撓(しな)って、風を躱(かわ)すので、「多くないペグ代わり」のものでも、それにテント内にいる「人と荷物などの重量」で「テントごと」吹き飛ばされるということもなくなったのだ。

 さて、「ペグ」を持ってこなかった私たちは何を「ペグ」代わりに使用したのだろう。それらはすべて私たちが、持参したものである。今日の写真を見ると、その2つは分かるだろう。
 1つはスキーであり、その2つはストックである。他に3つあるがテントの後や雪に埋まっているので見えない。何だろう。分かる人は是非、コメント欄に書き込んで欲しい。(明日に続く)


  『岩木山の生き物を総合立体的にとらえる』シンポジウム…へのお誘い

 会員の皆さん、これまでに岩木山の生き物をこのように立体的で重層・多面的にとらえようとしたシンポジウムはあったでしょうか。この度、下記の要項で討論会を開催することになりました。 どうか、ご家族、友人をお誘いの上、ご来場下さい。会場からの質問・意見も大歓迎です。よろしくお願い申し上げます。

                岩木山を考える会 会長     阿部 東

 岩木山を考える会主催 

 後援: ・弘前市教育委員会・東奥日報社・陸奥新報社・NHK弘前文化センター

日 時: 3月7日(土)午後2時~5時

会 場: 弘前文化センター中会議室

第1部:基 調 講 演

◆岩木山に棲む小哺乳類

モグラ・イタチの仲間を中心に

弘前大学農学生命科学部教授   小原良孝氏

第2部:岩木山の動物たち

◆岩木山系の湧水と水生生物 東 信行氏(本会会員)

◆岩木山の猛禽類     飛鳥和弘氏(本会会員)

◆岩木山に分布を広げた猿  笹森耕二氏(本会会員)

           ●コーデネーターは本会会長 阿部東がつとめる●
 
   登山道を歩いていても、お目にかかれない小さな動物たちの生態…
  岩木山の自然の中に生きる動物たちのつながりなどに思いをはせて…
  それらを立体的重層的にとらえてみませんか?

 岩木山の生きものの世界は、どのようになっているのでしょうか…
  その全容に迫ります。

 問い合わせと連絡先: 

弘前市田町4-12-7 岩木山を考える会事務局 三浦章男
 電話・FAX 0172-35-6819 


 カラー版の大きなパンフレットを近々に、このHPに貼り付けますので、詳しくはそちらをご覧下さい。
 このような多面的で立体的、しかも重層的な内容で構築される「討論:シンポジウム」は初めての試みであろう。多くの方々の来場を期待している。もちろん入場は無料である。これに関する幹事会を会長の都合によって3月4、5、6日のいずれかに開く予定である。