岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山は単独峰ではない

2009-04-30 05:36:14 | Weblog
今日の写真は何処から写した岩木山だろう。種明かしをすると、鰺ヶ沢スキー場の駐車場から写したものだ。
 岩木山という山は見る場所によって見事に変貌を遂げるところが何ともいえない魅力である。「おらほの山」といって見る場所を限定して「そこから見える岩木山が一番美しい」と想うことも、それはそれでいいだろう。
 しかし、たまには「岩木山」の環状道路(県道30号線)をぐるりと巡って、変貌していく岩木山の山容を眺めて見てはどうだろうか。
 そんな思いをもって私は今から30数年前に「岩木山一周歩こう会」というものを提唱して、実際に歩いた。 今でこそ「歩こう」会は「・・ウオーク」「ウオークラリー」「・・マーチ」などと名前を変えて一般的になり、人々の間に根をおろしている。
 1974年(昭和49年)に、この「岩木山一周歩こう会」を始めたころは全国的にも「歩こう会」という組織も行事も殆どなかった。もちろん、青森県においては皆無であったろう。
 だから当然、第1回「岩木山環状道路一周一日歩こう会・60km」は県下で最初のものであったわけだ。その意味では、全国的に見ても「歩こう会」の先駆けと言える。
 動機には私の岩木山への思いとこだわりがあった。その頃の私にとって、岩木山は主に登る対象の山であったが、眺めながらその周りをぐるりと歩く山でもあったのである。ただ登山をするだけという一面的な山ではなかった。
 ましてや、私の原風景的に屹立している多くの山の一つでもなかった。私の原風景は岩木山一山であるといっていいだろう。やはり、原点は眺めることで存在し、それによって癒される山でもあった。
 私は眺められる岩木山にも拘っていたし、原風景を大事にしたいと思っていた。その根底には、ずっと長いこと津軽を「故郷」にしたいという強い執着心があった。
 それを満足させるためには、津軽に生まれた人のすべてが保持している原風景としての岩木山の全山体を、全山容を360度の方位から見ることだと考えたのである。
 さらに、そのことによってのみ、津軽人(びと)のどこの誰とでも、「見える岩木山」を共有出来るのであり、それが出来ることで、私はこの地を故郷と呼べるに違いないと考えたのである。今もこの考えに変わりはない。

 弘前ハイキングクラブ・千里の会(現「峠の会」)会報「山族」に、「第一回岩木山一周歩こう会」の発会動機と内容報告に関する記述があるので、次ぎに抜粋掲載しよう。

 『この「歩こう会」は1974年、弘前勤労者山岳会・会報「ざんせつ」7月8日付号外で、発案者でもあり発起人である三浦章男から、長内敬蔵、佐藤吉直、相馬正八に呼びかけがなされたことに端を発したものである。同年9月8日に有志の十名(三浦章男、相馬正八、長内敬蔵、佐藤吉直、貴田善直、今井勉、小山純夫、田中隆夫、飯島久子、山口妙子)が参加して第1回目がなされたのである。
 なおこの号外では、名称を「岩木山環状道路一周一日歩こう会・60キロ」としてある。これは弘南バスのガイドが観光案内の中で、「通称岩木山ハチマキ道路は約60キロございます。」とアナウンスしていたことに拠(よ)ったものである。実際は53キロほどである。注意の項には「身体的故障などは一切参加者が責任を負うこと。あくまでも、自主参加であること。」とある。ルートは百沢ー大石ー長平ー白沢ー松代ー岳ー百沢であった。
 これは試行ということもあり、記録的にも速く、膝を痛めた一人をのぞき、9時間台で完歩した。三浦、佐藤、長内は片足2kg近い「重量級の登山靴」を履いて歩いたのである。弥生から白沢までと松代から枯木平までは、まだ舗装されていない道路であり、ペース配分も解らず、白沢と松代の間で雷雨にみまわれたりして散々であったが、成功だったと言えるだろう。』

 ところで、どうして「岩木山一周」という名称のついた「歩こう会」なのだろうか。それは、ただ単に岩木山の周りにある道を歩けばいいというものではなかった。私には強い拘りがあった。強い「想い」と言ってもいい。
 2回目の「歩こう会パンフレット」に…私は次のように書いた。
 『私たちが、いつもおらほの山として仰ぎ見て育ってきた故郷の山、岩木山をぐるりと自分の足で回って、その全容に触れてみませんか。初夏の高原の野趣を自分の足で確かめてみませんか。』と…。

 津軽の人たちは自分が暮らしている所から見える岩木山を、特別の思いを持って眺めて「一番美しいのだ。」と、とらえている。
 私たちは、人々の持つそれぞれの「一番美しい眺めを共有」して満喫しようではないか。天気や季節の変化、刻一刻と姿を変える岩木山と高原風景を楽しめるようになったら本物だ。車で通ったら、決して見ることの出来ない何かしらにきっと出会えるはずである。
 「おらほの山」はどこから眺めても美しい。それを実感し、改めて「津軽人」として、岩木山に誇りが持てるのではないだろうか。
 その誇りを持とう。これが「想い」の一つである。

 その頃から日本は本格的に車社会へと突入していった。それと並行して自分の足をフルに使って歩くことが次第に少なくなってきていた。
 岩木山一周の環状道路53kmほどを歩こうとしても、一体自分は歩けるのだろうかと、自分の「歩く能力」すら把握できていない。
 人は直立して歩くことによって類人猿から分かれ、文明を発達させてきた。文明・文化の根元は歩行にあるわけだ。
 我々は人間だけが持つ直立歩行の意味と可能性を取り戻して、「歩く」文化の回復を求めた。これが「想い」の二つ目であった。

 私は登山者であり、山岳会会員である。足を使い登り降りることには、そこはかとした自信はある。しかし、平地に近い高原の平坦で砕石が敷かれたり、アスファルト舗装された固い道を、果たして53kmも歩けるものだろうかという自分に対する「疑問と不確かさ」があった。
 だから「歩こう会」は「歩くことの可能性」に解答を与えるもの、つまり可能性を知ることでもあった。これが「想い」の三つ目である。

さらに加えて、「自然や景観を壊しながら、開発を御旗(みはた)に掲げて車中心の社会へと進んでいく時流への批判」などを多くの人たちと理解・共有したいという「想い」が四つ目であった。

 そこで、第2回目から、会員以外の市民たちとこの「想い」を、共に大事にしたいと考えて、一般市民を募集し、一緒に歩くことにしたのである。

 今年も6月の第一日曜日に「岩木山一周歩こう会」は開催される。

赤倉沢奥壁と崖壁の崩落 / 「ミズバショウ沼」のミズバショウたち(その3)

2009-04-29 05:25:35 | Weblog
 (今日の写真は赤倉沢奥壁と崖壁の崩落だ。望遠レンズで撮ったならば「崩落して、雪渓上に貯まっている岩石」もよく見えるかも知れない。しかし、このブログに許されている写真の大きさでは「そのこと」を見せることは不可能だ。
 4月24日に「扇ノ金目山」に続く林道から写したものだ。この写真は大きな解像度で写してあるので「拡大」してもかなり明瞭である。だから、「拡大」して「雪渓に貯まっている岩石」をはっきりと確認することが出来たのである。
 私は420mmの望遠レンズを持っているが、あまり持ち歩かない。これはF2.8の28mm~70mmズームレンズで写したものだ。)

            「ミズバショウ沼」のミズバショウたち(その3)

(承前)
 ここの「ミズバショウ」が、もちろん平年に比べての話しだが、このようなおかしい咲き方をする理由は「少雪」と「暖気」であろう。今月、20日過ぎから「寒くて雨天」の日が続いているが、その前は5月中旬から下旬並みの気温の日が続いた。
 明らかに「異常」だ。青森気象台の発表にも、この「暖かさ」のことを「記録を取り始めてから80年振りのことだ」とあったが、これは青森に限ったことではなかった。
 何と、北海道の札幌でも、4月中に、6日間連続で20℃を越したそうで、それは、実に「81年振り」という。

 ところが、それ以降気温は下がった。そして、26日は雨から雪に変わった。私たちが、「ミズバショウ沼公園」を巡って観察を続けている時には、まだ雨だった。「フキノトウ」の雌雄の見分け方に「興じて」いた時もまだ雨だった。
 大体、「雨」の日には外に出歩かないものだから、私たちは「雨降りの中の風情」に出会うことは少なく、もちろん、雨に煙る「ミズバショウ」というものにも会う機会は少ない。ミズバショウの咲く湿地は「外気温」よりも「暖かい」のが普通だ。だから、そこから「水蒸気」が立ち昇ることがある。雨の日にはそれが顕著だし、しかも近くに「残雪」があるとなおさら、まるで「雲」のように「水蒸気」が湧く。
 白い花だと多くの人が勘違いをしている「仏炎苞」と出たばかりの淡い緑の葉が、その湧き出している「水蒸気」と融け合う風姿は、この世のものとは思えないほどに幻想的なのだ。
 私はそのような「風景」も期待していたのだが、数日続いた「寒冷」は湿地全体を「冷たく」し、その日は「気温」も低かったので、「雲」が湧くということはなかった。

 私の記録によると、これまで、4月の岩木山は、10日周期で「寒暖」を繰り返してきた。「寒」の日はまさに、「真冬」の装いで、大荒れだ。この気象時に岩木山では「遭難事故」が発生している。かれこれ40数年前になるが「弘前南高校山岳部員」の「疲労凍死」はこの「10日周期での寒暖」を繰り返す「寒」の日にあたっていたのである。
 だから、26日の雨が「雪に変わったこと」は、当然「想定」内のことなのであった。「ミズバショウ沼」から「岩木山トレイルセンター」に向かう途中、雨は霙になった。この辺りは標高が400mを越えている。霙が降っても、別に驚くことではない。
 「岩木山トレイルセンター」に入り、「学習」をしている間に、霙は「完全」な雪に変わった。見る見るうちに外の景色が「白色」に変わっていく。
 受講者たちは、それを見て「嬌声」をあげている。もし、悪天だからといって「座講」に代えていたら、決してこの「嬌声」を聞くことは出来なかったであろう。「自然観察」はやはり、「自然に出てするべき」ものなのである。1時30分頃にNHK弘前文化センターに帰ってきたが、弘前でも「霙」とも「雪」ともつかない妙な「春の雪」が舞っていた。  
 もう少し、「ミズバショウ」について書くことにする。「ミズバショウ」は決して「特別扱いするような花」ではない。「ミズバショウ」は「立派な雑草」なのだ。
 このように言うと「ミズバショウ」ファンから「あの清楚で美しい花」の価値を知らない人の言い分だとか、価値を過小評価しているなどという「お叱り」を受けそうだが、実際は単なる「雑草」なのである。
 実際、岩木山では湿地や沼地、道路脇でも、水が流れるような所なら、どこでも「ミズバショウ」と出会うことが出来る。
 特に、夏場はあの「大きな葉」がその存在感を誇示している。「ミズバショウ」は花の後に、葉が大きく育ち、1m以上にもなるのだ。
 それでは何故、「春植物」と言われる「ミズバショウ」の葉は大きくなるのだろうか。普通の「春植物」は、周囲や地上のミズナラやハンノキなどの高木が葉をつけ出すと、「光合成」に必要な日光が遮られるので、その前に「花を咲かせ」て、花後は次第に茎や葉を枯らし「休眠」して、その地上での「生活史」を終わるのである。
 その「息吹」が余りにも儚(はかな)いので「スプリング エフェメラルズ(Spring Ephemerals)」、「春の儚い生命」とか「春の妖精」とも言われるのだ。
 だが、同じ「春植物」である「ミズバショウ」は、その「儚い命」の道を選ばなかったのである。むしろ、その逆の道を選択したのである。
 次第に「高木の葉」によって遮られ、少なくなる日射しを、葉のどこかでも「受けること」が出来るようにと「葉を大きく」していったのである。
 それは、微弱な電波をキャッチするためのレーダーが、遠くの星を観測する望遠鏡が、次第に大型化してきたことに似ている。
 植物は生きるために、独自の知恵を出している。模倣に生きる多くの人間に比べると、何と「植物は賢い」ものであろうか。
 「ミズバショウ」には、毒性の「アルカロイド」が含まれている。だから、口にすると吐き気、最悪の場合、呼吸困難や心臓麻痺など命に関わることもある。ただ、「化膿した傷を治す薬」として使うことは可能だそうだ。
 しかし、面白いことに「クマ」はこれを食べるのだが、その時季は限られている。
それは「冬眠から目覚めた」時季である。「クマ」は有毒な「ミズバショウ」を食べて、腸に詰まった脂肪分を排泄させるのである。「クマ」は賢い。便秘薬として「ミズバショウ」を利用しているのである。(この稿は今回で終わる)

すでに一斉に花を開いた「ミズバショウ沼」のミズバショウたち・高谷さんの絵(その2)

2009-04-28 05:33:04 | Weblog
 今朝、5時過ぎに起床して、外を眺めて何だかほっとした。「お天気」というものはこれほど、「人の心」を左右するものなのかということを、改めて思い知らされたような気分だった。
 26日のNHK弘前文化センター野外講座「津軽富士・岩木山」では、結局のところ、「高長根山」には出かけなかった。悪天のために、野外に出かけられない時は、室内で実施する「座講」に切り替えることが一般的である。だから、その用意もすでに、万全的に調えてはあった。座講内容の資料印刷、デスクトップのパソコンで資料と写真をパワーポイントで作成して、ノートパソコンに取り込み、オーバーヘッドプロジェクターを用意して、「座講」に備えていたのである。
 だが、その準備をしても、私は「野外」での観察を放棄したくなかった。「強風」と「雷」さえないならば、雨具をつけて「傘」さしながらでも「観察」出来る場所があるのではないか。受講者はみんな雨具の用意はしている。
 24日の下見で、「農村公園」の「ミズバショウ沼」もすでに観察済みだった。あそこならば、「傘」をさしながら観察出来るし、今季の「異常な咲き方」と『まだ葉が出ていない「ヤチハンノキ」の足元に、「ミズバショウ」の大群落があるという「植物生態の典型的な一面を示す」貴重性』をも十分観察出来うるのではないかと考えたのである。
 これ以上の悪天ならば、「岩木山トレイルセンター」で、休憩と「座講」にすればいい。
そのように考えて、26日は「ミズバショウ沼」で野外観察をして、「岩木散歩館」でプリント2枚を使い学習もしたのである。「有り難いかな、ミズバショウ沼、散歩館」であった。

 さて、今日の写真は昨日のブログで紹介した高谷初男さんの絵である。油絵でなく「水彩画」なので、額縁をガラスで覆っている。だから、「ガラス」表面が反射して、絵がよく見えないのが残念である。
 実物をしっかりと鑑賞したい人は「岩木山トレイルセンター(岩木散歩館)」を訪れてほしい。そのあとで、実際に「ミズバショウ沼」を訪れてもいいし、またはその逆でもいいだろう。そうすると、今年の咲き方、生え方の異常性がよく分かるというものだ。

 …次に少し長いのだが、作曲「中田喜直」、作詞「江間章子」の『夏の思い出』という歌の全歌詞を紹介したい。何故かというと、私はこの歌詞を否定しているのではないが、この「歌」から、「誤ったミズバショウに対するイメージ」を持っている人が結構いるのではないか、とすれば、やはりそれを「払拭」してもらいたいと考えるからである。
  
(1) 夏が来れば 思い出す / 遥かな尾瀬 遠い空
   霧の中に 浮かび来る / 優しい影 野の小道
   水芭蕉の花が 咲いている / 夢見て咲いている 水のほとり
   石楠花(しゃくなげ)色に 黄昏(たそがれ)る / 遥かな尾瀬 遠い空
(2) 夏が来れば 思い出す / 遥かな尾瀬 野の旅よ
   花の中に そよそよと / ゆれゆれる 浮き島よ
   水芭蕉の花が 匂っている / 夢見て匂っている 水のほとり
   まなこつぶれば なつかしい / 遥かな尾瀬 遠い空

 これは、1949年、NHKラジオ歌謡で放送された歌で、日本人であれば、誰もが『「夏が来れば思い出す」という歌』だと言うのではないだろうか。それほどに、ポピュラーな歌である。
 ある人が「この歌でだまされた人は沢山いる。平地でミズバショウは早春に咲く。何も、尾瀬の特産種ではない」と腹立ち気に言っているのを聞いたことがある。
 私もそう思い、思わず納得であった。確かに、そのとおりなのだ。「ミズバショウ」は湿地に生える多年草で、雪解け直後から咲き出す「春一番の花」、春植物である。
 東北地方や北海道では平地でも、水田脇の水溜りのような場所、牧草地内の沢筋などで、かなり一般的に「観察」が可能な植物なのである。
 この歌にいう「はるかな尾瀬」を「心情表現」と捉えて「遠い思い出の彼方にある尾瀬」と考えると、それほど問題はないのだろうが、これを「都会から離れた地理的に遠方である高い山の尾瀬」だと考え、そして「夏がくれば…」と続くものだから、いきおい「夏に咲く高山植物」というイメージが強くなってしまうのだ。
そして、単純に『「ミズバショウ」は尾瀬でしか見られない。花は夏に咲く』ということになってしまうのだろう。
 このような、「イメージ」から、夏の暑い盛りに、尾瀬に出かけて、1m以上に大きく延びた立派な「ミズバショウの葉」だけを見て帰ってきた人もいるかも知れないと思うとこの「夏の思い出」という歌は、何という「罪作り」な歌であろうか。
 はっきり言って、「スプリングエフェメラルズ」と呼ばれている「カタクリやイチリンソウ」などと同等にとらえていい「春植物」であるのに「夏が来れば思い出す」と歌わせるところに無理があるのである。
 確かに、疑義を挟まず、漠然と歌い、聞いていると、「ミズバショウは夏の花」なのかと思うだろう。事実、「尾瀬」では「ミズバショウ」は初夏に咲く花であるのだろう。
 しかし、実際は「早春の花」であり、北海道や東北地方のみならず、関東でも「春」に咲くのである。むしろ、「尾瀬」に咲くものは標高の高さから「例外的」であり、時季的には「特殊」なのだ。このことを知らずにいる多くの人に、この歌は「ミズバショウは初夏の花」というイメージを植え付けてしまったのである。
                              (明日に続く)

すでに一斉に花を開いた「ミズバショウ沼」のミズバショウたち

2009-04-27 05:27:12 | Weblog
 (今日の写真は岩木山湯段地区にある「農村公園」に咲いているミズバショウである。24日に撮影したものだ。その周囲に生えている樹木は「ヤチハンノキ」である。「ハンノキ」の仲間は「落葉広葉樹」だから、まだ葉をつけていない。
 そのため、「ミズバショウ」の生長に必要な陽光は沼地にまで届き、「ミズバショウ」はその光を利用していち早く受粉に必要な花を咲かせるのである。
 「ミズバショウ」は高木の葉が出てくる前に花をつける植物だから、「カタクリやエゾエンゴサク」などと同じ「春植物」とも言えるだろう。
 まだ葉が出ていない「ヤチハンノキ」の足元に、「ミズバショウ」の大群落があり、花が咲いている「ミズバショウ沼」は、「植物生態の典型的な一面を示す」貴重な場所である。
 因みに、「ヤチハンノキ」は「水田」脇にも生えるので、昔は「水田の畦道に稲掛け用」に植えられていたものである。

 さて、写真だが、よく見ると「ミズバショウ」の今季の「生え方と咲き方」には特徴がある。毎年観察しているからその違いがよく分かるのだ。「大きな葉っぱに白い花」というのが「ミズバショウ」の定番的な表現だろう。だいたいはそのように見えるし、そのように咲くのだ。
 その特徴は、この場所に、「一斉に生え出して、一斉に咲き出したこと」であり、もう一つは「葉が小さい」ということである。
 「ミズバショウは雪解けとともに湿地や沼地に顔を出す」植物である。このことを考えると、「一斉に」ということは、一斉に「積雪が解けた」ということであろう。つまり、今季は少雪と暖気から「雪解けが早く、しかも、次第に、または部分的に解けだしたのではなく、場所全体の雪解けが4月の中旬に終わっていた」ということになる。
 例年ならば「雪の解けた場所」から咲き出すので、この湿地の「ところどころ」に小さな群落をなすように咲き始めて、それがいつしか「この場所全体」を埋め尽くすようになるのだが、今季は「咲き始めたら、すでに、埋め尽くしていた」という状態なのである。
 このことは、「葉」の大きさと緑色の「濃淡」にもよく表れている。「葉」は総じて「小さい」のだ。例年、雪解けに併せて順次、咲き出すので、早く咲いたものの「葉」は生長して大きくなっている。そして、「葉の色」も濃くなっている。だが、今季はそれが見られないのである。
 もちろん、濃くなっているといっても「花」が終わり、夏になっている頃の色の濃さには比べようがないし、大きさなどは比較にならないほど「小さい」。
 夏になると、「名は体を表す」ということを実際に証明してくれるほど、つまり「芭蕉(バショウ科バショウ属・芭蕉布の材料)」の葉のような大きさと濃緑になるのだ。花が終わると、「仏炎苞(白い帆のように見える部分)」は落ちてしまい、葉は大きくなって1m以上にもなる。
 ところで、紫色をした仏炎苞を持つ「ザゼンソウ(座禅草)」も、まだ小粒ながらすでに、咲いている。しかも、これまた、例年と違い「生えている場所」を広げているのだ。「ザゼンソウ」は「ミズバショウ」より「乾燥した水気の少ない所」に生育するので、「ミズバショウ沼周囲の湿地」が乾燥してきているのかも知れない。そうであるとすれば、「水源」の確保と管理が大切になるだろう。

 例年ならば、どのような咲き方をしているのかを詳しく知りたい方は、岳にある「岩木山トレイルセンター(岩木散歩館)」に出かけて、展示してある「ミズバショウ沼」の「絵画」を見てみるといい。
 この絵は、私の知り合いの「高谷初男」さんが描いたものだ。絵画を「サイズ」で表現する方法を知らないので、その大きさをなんと言っていいか分からないが、とにかく特大サイズであろうと思われるものが2枚、それに、小さいサイズの「ミズバショウ」と「ザゼンソウ」の単体画が2枚である。
 展示は6月の中旬までであるから、急ぐことはないが「一見」する「価値」のある「絵画」であることには変わりはない。

 「ミズバショウ」はサトイモ科ミズバショウ属の多年草だ。早春4月から5月の上旬にかけて、「水の豊かな湿地」に、他の植物がまだ成長しない時に真っ先に「白くて大きい目立った花」をつける。「バショウの葉」と良く似ていて、「水気の多い所に生育する」ことで「ミズバショウ」という名前がつけられている。
 白くて「花弁」のように見えるのは、「仏炎苞」と呼ばれ、「葉」または「萼」の変形したものだ。だから、「ミズバショウの花」は白いものではない。「仏炎苞の中」に円柱形の棒のようなものがあり、これを「肉穂花序」と呼ぶ。それに付いている「粒々の1つ1つ」が花(または蘂「しべ」)なのだ。「雌しべ」は「雄しべ」よりも早く顔を出すといわれている。

 閑暇休題…、「ミズバショウ」を北海道では「ヘビノマクラ」と呼ぶそうだ。これを聞いたら、「白く可憐で清楚な花」というイメージを「ミズバショウ」に抱いている人にとってはショックだろう。
「なぜだか判らない。小さい頃から白い花(仏炎苞)の中にヘビがいると言われていた。そして、誰も近づかなった」というのが「ヘビノマクラ」と呼称される由来であるそうだ。
 「ヘビノマクラ」の由来は、はっきりしないが、類推すると…、
 先ず、この「棒状の花に関係があるのでは」となる。つまり、こうだ。
 花が終わる時「白い苞の部分は茶色になって汚く、棒状の花が倒れている様子が蛇のように見える」からだろう。
 他に、「沼地の汚いところに生えて誰も寄り付かない」ということや「食用にはならない」などが挙げられるかも知れない。また、「牛の舌」という方言もあるそうだ。
 1949年、NHKラジオ歌謡で放送された「夏の想い出」という歌で、「尾瀬」とともに有名になった「ミズバショウ」に、「夏に咲く高山植物」で「可憐で清楚、美しい」というイメージを持っている人にとっては、まさに、この「ヘビノマクラ」や「牛の舌」は許し難い表現であろう。(明日に続く)

「高長根山」という山は…

2009-04-26 05:44:52 | Weblog
(今日の写真は岩木山東麓にある「高長根山(標高172m)」山頂から見た岩木山だ。実は今日ここで、NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外実習と観察をする予定なのだ。だが、あいにくの天気となっている。)

 10時少し過ぎにNHK弘前文化センターを出発して、現地には11時近くに着く予定なので、それまでに雨が上がり、13時頃まで晴れ間が出てくれると、何とか目的は達成出来るだろうと考えている。
 この講座は今回で49回目である。その中で「野外」での観察と実習は数十回であったが、雨に降られたのは僅かに「1、2回」であった。今年もこれまでと同じように「晴れ」の中で「自然観察」が出来るといいなあと考えていたら、今年度最初の「講座」が雨となってしまった。
 まあ、いいだろう。先月29日の講座では「新雪」の上を「抜かり」ながら歩いたし、受講者は「自然」との対応には馴れてきている。雷さえ「鳴らなければ」、今日は出かけることにしてある。
 今日のテーマは「周囲の山から岩木山を眺める・早春の雑木林の観察(花や樹木、草に注目する)」である。
 「周囲の山から岩木山を眺める」ということは昨年から盛り込んだテーマだ。そして、昨年は平川市の「志賀坊高原」に行った。だが、春霞に煙って「岩木山」はよく見えなかった。その反省から、もっとよく見える「近場」の山を探したところ「高長根山」ということになったのだ。まあ、「高長根山」一帯を散策するということである。

「高長根山(標高172m)」は岩木山の東麓にある。通称「流山」と呼ばれている一部である。「流山」とは「旧岩木山」がまだ火山活動をしていた時に、噴出した「土石」がこの辺りまで流下してきて、このあたりで「停滞」し、小丘群を形成したものをいう。
 これは、岩木山の南東から北東にかけての山麓に、まるで「岩木山」を取り囲む「堤防」のように存在している。
 地図を辿ると、北から「御月山」、「大森山」、「手白森山」、「糠森山」などが続いており、標高も200mから140mである。現在、「高長根レクリエーションの森」と呼称されている「高長根山」もその一部である。

 …この辺りは「高長根山および長者森」と呼ばれている。広い岩木山東麓原野の一部で、昔から高杉地区の「草山(草刈り場)」であった。
 歴史的にみると、縄文文化を伝える遺跡があり、「高長根遺跡」として知られている。さらに、周辺地域には「跡」「寺跡」「板碑」などの中世の遺跡や遺物も多く、私たちの祖先と関わりの深い場所である。
 「藩政時代」は厳しい藩の山林規制を受けることなく、「入会地」として残った。明治期には「高杉」の「山」となった。
 それ以来住民に配分されて、多くは「りんご園」となった。しかし、それ以外は「採草地(草刈り場)」として残された。だが、戦後、牛や馬が少なくなり、採草地は高杉地区の「植林地」とされたのだが、1978年に弘前市がここを「高長根レクリエーションの森」として、市民に開放したのだ。

 「高長根山」という名前について少し考えてみた。「高い」「長根」をなしている「山」とすればいいのだろうか。「根」とはここでは、「草木の根」とは考えないことにしよう。因みに「高根」とは「高い峰。高い山」のことだ。
 「根」は「峰・嶺」と同義で「山のいただき」であり、万葉集(巻14)には「高き根に雲の付く」との用例があり、古くから使われてきた語である。また、「根」とは「鏃(やじり)。矢の根」のことでもある。この語意を採ると「高く長く鏃のような形をした山」ということになる。だがこれもどうもおかしい。
 何よりも「おかしいこと」は高い山である岩木山を背にして、どうして「高い」という形容をしたのかということである。見た目には確実に「低い」のである。

 24日に今日のための「下見」に出かけた。風は冷たい「冬」の北風だった。だが、日射しは春だった。
 日射しに誘われて出てきた「カナヘビ」に「スキー場」の草原で出会った。テングスミレ、タチツボスミレ、スミレサイシンというスミレ3種にも出会った。オオバクロモジも咲き出していた。
 野鳥の鳴き声も聞こえた。ヤマガラやシジュウカラ、コルリ、ヒワなどである。姿を見たのは「コルリ」や「ヒワ」、それに、ゴジュウカラである。
 葉芽の方が色鮮やかで、林縁に咲いている「キブシ」も発見した。これには…雌花と雄花がある。その違いなども観察出来るだろう。
 雌雄異株の蕗の薹「フキノトウ」もいっぱい生えていた。この雌花と雄花の違いも観察しよう。花茎であるフキノトウにも雌雄の別があるのだ。雌花は白色に近く、雄花はやや黄みがかっているのだ。
 雌の方は花が終わると茎が高く伸びて、いわゆる「トウが立つ」状態になって、白い綿毛のある種子が風で飛ばされて散るようになる。雄の方は余り高くは立たず用が済むとそのまましぼんでしまうのである。
 「高長根レクレーションの森」にはソメイヨシノ以外のサクラも植栽されている。その中に、「テングス(天狗巣)病」に罹っていたものを発見した。これも、観察の対象になる。一カ所に枝が密生し、葉ばかりが茂っている様子を天狗が巣を作っているようだという意味で、「天狗巣病」という名前をもらった病気である。
 さて、今日の観察対象は「雑木林・杉林・芝草地の違い」、「縄文遺跡の残骸」、「道に生えている植物」などである。
 …さて今日のお天気はどうなるか。11時頃から13時までの数時間だけでも「降雨」のないことを願うだけだ。       

古い道をたずねる / ライトアップされる桜

2009-04-25 05:14:45 | Weblog
(今日の写真は果たして、何処から撮った岩木山だろう。岩木山は「見る場所」によって、その姿を千変万化させる。
 これは、岩木山の北麓、環状道路から「長前沢」沿いに約2.5kmほど南に入った古い「林道」から写したものだ。この道の入り口の西側には弘前市の「ゴミ集積処理施設」があり、さらに、上部には「板柳町のゴミ処分場」もある。
 そして、「長前沢」は「長前川」と名前を変えて、弘前市十腰内地区やつがる市森田地区に流れ下っている。このような「沢」に隣接している場所に「ゴミ処分場」を設置して、下流域の「生活」に影響がないのかと心配になるのは私一人ではあるまい。

 さて、写真の説明をしよう。上からいこう。真ん中に見えるのが山頂部である。左から赤倉尾根と巌鬼山山稜、赤倉キレット、1396mピーク、烏帽子岳、そこから下部に、つまり北に下降すると「扇ノ金目山」だ。視点を大きく振って、右側の端に見える「伐採」地が「拡張ゲレンデ」である。
 この写真を見せられて、「これは岩木山ですね」と即答出来る人は何人いるだろう。まして、写した場所を言い当てることの出来る人はいるだろうか。
 木々や枯れたススキの風情は、まだ「春」である。それに、昨日は北風がとても「冷たか」った。
 しかし、雪を戴いている岩木山全体の風姿は、平年ならば6月上旬のものだ。季節はやはり、1ヶ月早く進んでいる。 )

             ◇◇ ライトアップされる桜 ◇◇ 

 弘前公園の「桜まつり」が始まった。「満開」という発表とほぼ同時の「始まり」である。ニュースによると、人出予想は全国の行楽地では一番だそうだ。毎年上位であることは間違いなにのだが、これはあくまでも予想なので、当たり外れもあろう。
 それにしても、この時期に青森県の総人口よりも遙かに多い、「230万人」以上の「人」が弘前公園に「集まる」ということは「驚異」の何ものでもない。

 昨日の朝に、亀甲通りを歩いたら、壕沿いの桜「染井吉野」も満開だった。「若葉」も何もないただ「花」だけを空間に浮かせて咲いていた。
 「染井吉野」は「彼岸桜」と「大島桜」の交配によって生まれた桜である。「彼岸桜」は独特の性質を持っていて、若葉が出る前に満開になるし、花は小振りだ。これを「染井吉野」は受け継いだ。花の色は「山桜」と同じで、淡いピンクである。だから、素人考えでは花の色は「白」でなくてもいいと考えてしまう。だが、「染井吉野」は純白の花を咲かせる。
 これは、「染井吉野」のもう一方の親である南伊豆に自生している「大島桜」の形質を受け継いだことによる。
 「大島桜」は山桜の南方適応型の変異種で純白の花を咲かせる。花は彼岸桜とは比較にならないほど立派だ。「染井吉野」は、この立派な花を受け継いだのである。

 とにかく、弘前公園の外郭を形成している壕端の「サクラ」は「白」一色に染まっている。もちろん、「染井吉野」は公園の内側にもある。「染井吉野」の「寿命」は平均して60年だと言われている。樹木にしては短い方だろう。
 江戸時代末期に園芸品種として作られ、戦後「復興の象徴」となったのが「染井吉野」だ。だから、戦後全国のあちこちで、まるで「ここでもか」と思わせるような数と場所で植樹が行われた。その「染井吉野」が、全国的に、いわゆる「寿命60年」を迎えている。だが、弘前公園の「染井吉野」には樹齢120年を越える樹木も存在している。

 しかし、弘前公園のみならず、「パンフレット」に使われている写真と、実際に、直接目の前で見る樹木とはかなり違っていて、「樹木が弱っている」と感じることが多い。これは「古木」と呼ばれているものほど顕著だ。
 樹齢120年という弘前公園の「染井吉野」もこの種では立派な「古木」である。日本で一番古い「染井吉野」かも知れない。
 「古木」が衰える原因の一つに挙げらているのが、観光客から人気の夜桜の「ライトアップ」だといわれている。闇夜に浮かび上がる夜桜の美しさは格別で、これは「観光資源」であろうが「観光の原資」である「古木」そのものを「弱らせて」は元も子もない。
 「ライトアップ」は、「木の生育に不自然」であり、加えて、「虫が集まりやすい」など問題が多いのである。
 弘前市公園緑地課の発表によると、公園内の桜の総数は「2600本」だそうだ。だが、これまでの植樹の歴史から、その植樹された総本数を尋ねると、約10.000本である。つまり、「手入れ」をしても3分の1に満たないものしか「生き延びれ」なかったのだ。
 桜の成長の妨げになるものは極力避けるべきだ。まあ、10.000本すべてが、生き延びたとしたら、弘前公園は単なる「桜の山」となり、味も素っ気もなくなっていただろう。いや、その前に「自然淘汰」で枯渇していたはずだ。

深い「亀裂」が入り今にも崩落しそうな1396mピーク近くの「雪庇」/ 「クマ」冬眠あけの時季

2009-04-24 05:01:12 | Weblog
(今日の写真は『深い「亀裂」が入り今にも崩落しそうな1396mピーク近くの「雪庇」』だ。雪がなければこの「場所」は岩と根曲がり竹だけの藪である。細い上に吊り尾根状になっているので、特に「谷川」に落ちないように注意しながら「渡って」いかねばならない。
 この場所からは「真下」は見えない。突き出した「雪庇」に阻まれ、遮られているからだ。だが、これ以上前には出ていけない。
 「ものが落下」するということは、それまで微妙な均衡状態で釣り合いがとれていたものの一方が、1gでも重くなり、「バランスが崩れた時」のことだ。
 簡単にいうと、この「雪庇」の場合は、「張り出している重さ」を支えている直下の雪面摩擦力よりも、載っている「雪庇」の重力が1gでも勝った時に崩落するということだ。
 この「雪庇」の「直下はどうなっているのだろうか」とか「直下の風情や赤倉沢の源頭部はどうなっているのだろうか」など考え、それを見たいと思い、一歩でも踏み出したときに、「梃子(てこ)」や「支柱」の原理を支えている力が雪庇先端部に加わる。
 そして、「亀裂」は大きく「裂けて」、そこから「雪庇」の崩落が始まる。
 文章で書くと、何だかゆっくりとした「動き」になってしまうが、事実は「一瞬」のことだ。それは、最近頻発している「大型クレーン車」の「アーム折れ」や「アームとそれを支える車体」の横出し事故の原理と原因に通じている。

  そういうわけで、「雪庇先端部分」に踏み出せない分だけ、かなり距離のある「遠目の眼下」はよく見える。
 「遠目の眼下」に見えているのは「赤倉沢」の中流部から下流部だ。非常に広い。ちょうど見えない上流部になると、途端に「沢幅」は狭くなり、同時に急峻になる。この急峻で狭い部分まで「堰堤」が敷設されている。最上流部にあるものが下から数えて「15基」目になる。
 右側の尾根(赤倉沢右岸尾根)には「赤倉登山道」がある。この「赤倉登山道」からは殆ど赤倉沢は見えない。だから「巨大な堰堤が人工物の竜のように仰臥」しているの見ることは出来ない。そして、登山者の誰も、赤倉沢の「大堰堤群」には気づかない。ましてや、この敷設工事に伴う「行き過ぎた自然破壊」を目の当たりにすることはない。

 その赤倉右岸尾根の麓に、沢に沿って樹木が伐られているところが見えるだろう。これは「堰堤工事」用に敷設した道路である。これが「自然破壊」の現実だ。「堰堤工事」のために、「ブナ」を伐採したのである。「堰堤と道路を造らせたのは林野庁」で「施工」したのは「白神山地」で「青秋林道」を手がけていた「F建設」である。
 赤倉沢の堰堤工事は、この「林野庁と」が「県民の反対」に遭い、「」工事から撤退した時期と、不思議なくらいに、ちょうど時を同じくして始まった。
 何も不思議な話しではないのだ。「発注と受注」という契約を履行するために、「林野庁」が「青秋林道」の「受注額」に見合う分の「仕事」を「F建設」に与えたに過ぎないということなのだ。
 だからどう考えても、どのように検証しても「必要でない」数の堰堤が敷設されているとしか思えないのである。
 見えない部分の赤倉沢左岸部の上部、つまり、この「雪庇」の直下には「修験者」の道がある。夏場も同じように直下は見えない。猛烈な根曲がり竹に覆われて周囲が見えないからだ。岩木山にある斜面の中では勾配が一番きついところでもある。「修験者」が「修行」のために選んだだけのことは、確かにある。)

      ◇◇「クマ」冬眠あけの時季…「お目覚め時、要注意」◇◇

 一昨日、昨日と寒かった。北風が冷たかった。今朝の外気温は6.5℃。今日は暖かくなるのだろうか。昨日から弘前公園で「桜まつり」が始まった。すでに満開だという。
 だが、日ごとに暖かくなるだろう。「桜が満開」、そして今季は、少雪、山麓には殆ど積雪はない。「山菜採り」や「渓流釣り」の時季が始まった。
 そして、この「山菜採りや渓流釣り」などで山に入る時に注意しなければいけないのが「冬眠から目覚めたクマ」である。
 13日に「扇ノ金目山」の手前で、クマの「冬眠岩」を見かけた。出来るだけ、そばを通りたくなかったのだが、「ルート採り」の関係から、すぐ前を通ることになった。
 「まだ目覚めるなよ。今出てきても、食べ物はないぞ。だから、もう少し眠っているんだぞ」と念じながら、細心の注意をして、ゆっくりと、音をたてないように慎重に通り過ぎた。これが、ルールだ。山に来たら「山の住人」に合わせることが作法というものであり、礼儀でもある。
 「クマ」は最近は「人慣れ」したからか、人里まで出てくるケースも増えてきた。「クマよけの鈴」を普段から持ち歩いている人も多くはなく、対策は難しい。「クマよけの鈴」を必要でない場所で「チンチン」「カランカラン』と鳴らして、騒音をまき散らしている登山客は多いが、「必要な時と場所」でそれを効果的に使っている人は少ない。

 本県や岩手県でも、ここ数年「ツキノワグマによる人身被害」は10件前後、被害者も10人前後である。そのうち、山林などクマの生活圏以外で襲われたケースは、半数以上を占めている。
 これは「人間とクマのすみ分けが崩れ始め、山以外での被害が増えている」ということを示していることだろう。間伐されずに荒れた山が増えてエサが少なくなったり、少子高齢化で中山間地に住む人がいなくなったりしたことが原因だ。つまり、「クマと人間との境界線がなくなりつつある」ということだ。もはや、「人間のパワーで野生動物を押し返すことが出来なくなった」ということだろう。
 山に入る時は鈴やラジオなどで音を出すことで人の存在を知らせることが有効だが、人間の生活圏に下りて来た「クマ」と遭わないようにするのは困難だ。
 「もし出合ってしまったら、背中をむけて逃げてはいけない」ということぐらいしか、私には言えない。
 先ずは、「クマ」から目をそらさず、後ずさりするように距離をとり、ザックや荷物などを間に置いて関心を逸らすことが有効だろう。

長平尾根の亀裂(鰺ヶ沢スキー場に降りるボーダーやスキーヤーは注意)

2009-04-23 05:28:00 | Weblog
 (「今日の写真は赤倉キレットに続く北側稜線のピーク、1396m付近から、大鳴沢を挟んだ対岸稜線を4月13日に写したものだ。」
 …と説明すると、「何だあ、それだけの意味しか持たない写真か」と片付けられてしまいそうだが、片付けないで欲しい。

 左の際だって高く、きれいな三角形の山容を見せているのが「西法寺森(標高1288m)」だ。その奥に長い台形が先端部で、がくっと落ち込んでいるような山容を見せているのが「追子森(標高1139m)」だ。この「」の北東斜面は特に「急」だ。何しろ、古い「爆裂火口」の外輪山で、「崖壁」になっている。大げさに言うと「垂直」に近い。夏場、この「追子森」山頂まで行っても、その「垂直」さを実感することは出来ない。それは、根曲がり竹などが密生しているので「見えない」からである。
 前景の暗緑の樹木は「コメツガ」だ。それに混じって急峻な斜面を谷に向かって「腹ばい」になりながら「駈け降り」ている樹木は「ダケカンバ」だ。
 今季は特にこのような姿勢になって「下方」に向かって「倒れ伏している」ダケカンバが多い。扇ノ金目山からの細い稜線を登り、烏帽子岳直下のいくらか広い急斜面に達したところの「ダケカンバ」も同じような恰好で半ば「積雪」に埋まっていた。
 特に、今季はこの「特徴」が顕著なのだ。だが、大鳴沢対岸の長平登山道尾根を見ると、その斜面に疎らに生えている「ダケカンバ」は決して「下方に倒れ伏して」はいない。
 しっかりと、「天」を目指して立っている。同じ沢の両岸の斜面に生えている「同種の樹木」でありながら、この「立ち居」の違いは何故なのだろう。
 これはすべて、今季の「降雪」と「積雪寡少」にその理由がある。今季は、3月20日過ぎまでは「極端な少雪」であった。
 だから、この写真に見える「ダケカンバ」は、いずれも、その時点まではかなり、垂直に雪面に梢や枝を出していた。

 ところが、3月20日以降約1週間にわたって「降雪」があった。硬い氷のような、しかも「黄砂」を「積もらせ、塗して」汚れた積雪面に、新しい雪が降り積もったのだ。新雪は美しい。すべての汚れを覆い尽くし、「隠して」しまう。
 岩木山の遠景も近景も、この時は今季で一番美しかった。まさに輝いていた。だが、その後の「温暖」さは、それを許さない。
 日射しは、新雪を溶かし、沈降させる。しかし、それを支えている下層は「硬い氷」の面だ。新雪の層は約60cm、吹き溜まりでは1m以上になっていただろう。
 それが、「硬い氷の面」を静かにゆっくりと滑り出して下降し始める。その時の張力によって、雪面に出ていた「ダケカンバの梢や枝」は下方に引っ張られ、ねじ伏せられる。
 そして、写真のような「ダケカンバ」の様相を見せているのだ。だが、対岸斜面の「ダケカンバ」とは、その様相がちがう。その理由は「新雪積雪」の溶け方の違いにある。大鳴沢左岸尾根の谷側は、岩木山の「東面」に位置している。この場所は余り陽光を浴びない場所だ。
  昇ってくる太陽の「日射し」はまず、山頂山体によって遮られる。3月末から4月の上旬は、すでに春分の日を過ぎているから、太陽の高度はかなり高くなっているとはいえ、この場所が日射しを浴びるのは午後になってからである。南面や西の斜面に比べると「浴びる」時間が少ない。しかも、斜面の低く深いところでは、この左岸尾根自体が「遮蔽物」となって、陽光を遮る。だから、もっとも「陽光」の恩恵を受けない場所と言えよう。
 積もった「新雪」は溶けることも出来ず、そのままの状態で「置かれて」いるに等しいのだ。動かないのだ。だから、直立する「ダケカンバ」を引き倒すこともなければ、ねじ伏せることもない。
 斜面全体に積もった雪層は吹き溜まりを含めて総体的に、じわじわと下方に向かって動いているのである。そして、この動きは「吹き溜まり箇所」を中心として「亀裂」を形成していく。
 だが、これが曲者なのだ。今日の「本題」はここにある。「西法寺森」から大鳴沢に落ち込んでいる広い斜面をよく見て欲しい。上部から都合、大小の亀裂が4箇所見える。
 スキーヤーやボーダーが鰺ヶ沢スキー場に降りていこうとする場合は、この亀裂が下方に連なっている長くて広い斜面を「斜滑降」していく他に「ルート」はない。もちろん、「西法寺森」の頂上に登り詰めて、そこからスキー場ゴンドラ終着駅を目指して行ってもいいが、「今季」は少雪だ。山頂部は竹藪が出ている。恐らく、担いで登り、そのまま「藪漕ぎ」をして、ブナの疎林まで「スキー靴」で下降して、そこで「スキー」を着けて降りるということになろう。
 だが、「登山者」にとっては当然のような行為を、「スキーヤーやボーダー」は誰もそのような「疲れる」ことはしないだろう。いきおい、「亀裂」の上部の、余り張り出していない「雪庇」の上を滑っていくだろう。
 平年は、この写真では見えないが「西法寺森」と「岩木山本体」との「繋ぎ目」となっているなだらかな「鞍部」付近に「巨大」な雪庇が出来るのだ。そしてこれは、毎年5月の中旬頃に崩落して、大鳴沢の東斜面、「西法寺平」の下で巨大なデブリを造り、堆積する。
 ところが、今季はその巨大な「雪庇」が形成されず、その下部に「雪庇」を下から引きずり込んで、「崩落」させる「亀裂」がほぼ横に行儀よく並んでいるという訳である。
 つまり、この「亀裂」の上部にある「雪庇」はいつでも、「崩落」する。準備万端整えて、やって来る「」を待ち構えているのである。これは、自然が造った「罠」である。
 「罠」であることを知りながら、またそこに「罠」があることを知っていながら、その「罠」に填ることほど「アホ」なことはない。誰も褒めてはくれないし、「何とアホなことよ」という誹りと侮蔑、それらは「スキーヤーやボーダー」たちに汚名を着せることになる。
 それが嫌ならば、この場所に行かねばいいのだ。今季、このルートで鰺ヶ沢スキー場ゲレンデに出ることは止めるべきだ。
 だが、今日は23日、この写真を撮ってから10日も経つ。恐らくもっと、変化しているだろう。

扇ノ金目山から / 「春日山原始林」の対照的な異界、若草山その存在する意味は…(最終回)

2009-04-22 05:26:40 | Weblog
 (今日の写真は今月13日に扇ノ金目山から見た烏帽子岳と標高1396mピークである。烏帽子岳に続いている稜線右岸が「白狐沢」で対岸の尾根が「白狐沢」右岸尾根「赤倉沢左岸」だ。その奥の一際高い稜線が赤倉沢右岸の稜線になり、赤倉登山道の夏道が通っている。
 赤倉沢右岸の黒く見える部分は崖頭と崖壁の崩落部分だ。この位置からでもそれがよく分かる。

 待ちに待った4月最初の岩木山登山は13日に実施した。「待ちに待った」という意味は…『暖かくていい天気が続いていた。この分だと雪が消えてしまう。「残雪期の登山、しかも、岩陵のある扇ノ金目山から烏帽子岳、1396mピーク、赤倉キレットを辿るというルートだ。残雪がなくなると猛烈な藪漕ぎをしなければいけないところがあったり、岩陵が直に出ていて、手がかり足がかりがなくて、非常に危険な場所が出現する」ので、「積雪」のあるうちに、出かけたい」といい天気を横目で眺めながら恨めしくもじりじりとした毎日を過ごしていた』
 …ということである。
 昨年、5月1日に「追子森」山頂から残雪を辿って「山頂」を目指したが、「残雪」は殆ど無く、「追子森」山頂から長平尾根の登山道分岐まで行くことが出来なくて、「不様な撤退」をしていた。その痛恨の思いが『4月中、残雪のあるうちに、是非、この「ルート」での登山を成功させたい』という思いに拍車をかけていたのだった。

 それにしても「積雪」は少ない。平年ならば「写真中央下」に見える雪庇はこの2倍の大きさであり、右側の藪は数mの積雪に埋没して何も見えない。
 それと同じように、この「雪庇」から続いている細い稜線上の「雪庇」も、約2倍の大きさとなっており、両側のブナはその梢を僅かに見せる程度に「低く」なっている。
 もちろん、「ルート」として採る稜線は細くて狭いので、それだけ「ルート」採りが難しい。さらに「雪庇」が大きいので、「踏み抜き」という可能性もあり、その「崩落」は雪崩を誘発するので怖い。
 その細い稜線には、谷側に向けて歪な「波形」を見せながら「雪庇」が上部に向かって見えるだろう。その中でも、特に谷側に突き出している「雪庇」の部分は、以前に崩落して、下部にある「ブナ」を折ってしまったところである。「雪庇崩落」による「ブナ林」の攪乱である。
  この細い稜線は急斜面である。「扇ノ金目山」山頂から少し降りてからまた、登ることになり、烏帽子岳まではかなりの距離であり、危険な上に急峻な登りでもあるのだ。
 「扇ノ金目山」山頂には旧青森営林局が建てた「標識」が、かつては在ったので、「残雪」が少ないことを幸いに、探してみたが見つからなかった。数年前までは「クマ」に所々囓られてはいたが確かにあったのだが、この「ルート」のように、もう朽ち果ててしまったのだろうか。この「ルート」は国土地理院の発行する地図に「歩道(登山道)」として記載されていたものである。だが、今は、夏場には決して登ることの出来ない「幻の道」になってしまっている。

 注: 文中でいう「尾根や谷(沢)」の「左岸・右岸」とは…
 山頂側から見た場合のことで、決して「登る人」を基準にしているものではない。登る人の右側にある「沢や稜線、尾根」は「左岸」となり、左側にあるものは「右岸」と表現される。…)

◇◇「春日山原始林」の対照的な異界、若草山その存在する意味は…(その3)◇◇

(承前)
 …密閉された「薄暗い照葉樹林」と背中合わせで生きている人々は、気持ちの「奥」に何か「抑圧」されたものを持っているのではないだろうか。それを解き放して昇華してくれる場所は「明るくて広い草山」ではないのか。「若草山がここに存在している」ことは、何も、「鹿」と「芝草」との関係だけではないだろう。

 若草山や公園内の「飛火野や春日野」には、イネ科の草である「シバ」や「スズメノカタビラ」の草地が広がっている。奈良公園内には1000頭を超えるシカが生息し、この「シバ」を食べて「芝刈り機」の役割を果たしている。「シバ」と「シカ」は、互いに共利関係で生活している。
 「シバ」の茎は地中または地面近くにあって丈は低い。背の高い草本や樹木に遮られると光を十分に受けることが出来ない。そこで、「シカ」などの偶蹄類に草本・木本を排除させ、「シバ」自身もその餌となった。「シバ」は動物による踏みつけにも強く、むしろ成長を促すという性質を発達させた。さらに、食べられても根は簡単に抜けず、葉は先端部が失われても基部が残っていればまた伸びだし容易に回復することが出来るように進化したのである。
 「シバ」はまた「シカ」から肥料を与えられている。「シカ」の排泄する大量の糞は、土壌中の微生物によって植物が吸収できる形に還元されているのだ。
そして、この糞は「シバ」の微小で堅牢な種子を「シカの噛み砕き」や「すりつぶし」もくぐりぬけ、「消化にも耐えて」排泄されることで、広く散布することにもなっているのである。

 ……などなどと、考えて降りていたら、「二月堂」の前まで来ていた。その後で、「東大寺」にも行った。
 さらに、足を延ばして、奈良JR駅から法隆寺まで行ったが、「樹木と植生」に関しては見るべきものがなかったので、昨日の「土塀」の話しだけにして、この稿は以上で終わりにする。

「春日山原始林」の対照的な異界、若草山その存在する意味は…(その2)

2009-04-21 05:23:41 | Weblog
  (今日の写真は「法隆寺の土塀」である。修学旅行では「生徒」と一緒に「法隆寺」の中に入ってしまうので、寺を囲んでいる「土塀」をじっくりと見ることが出来なかった。
 「入る前」とか「出てバスに乗り込む前」にチラッとしか見たことがなかった。それがずっと気がかりだった。しかも、それはすべて秋残暑の厳しい9月であった。さて、早春3月下旬、昼下がりの陽光の中で、「土塀」はどのような趣を与えてくれるのだろう。
 私はとうとう午後3時過ぎの日射しの中で「土塀」の前に立っていた。そして、「土塀」も早春の午後の、日射しを受けて反射するわけでもなく、屈折するわけでもなく、しかも透視しながら吸収する訳でもなく、千数百年前の装いのまま、じっと立っていた。
 それは、人工物を感じさせないような、自然との静かな調和であった。私もその調和の中にいた。
 「修学旅行」、それは慌ただしさと騒然、対象を静かに受け容れて、自照する空間や時間がない。
 それにしても、「土塀」の奥に見える「樹木」の濃厚な緑葉は何ということだろう。この地の人にとっては、これが当たり前なのだろうが「3月末」の落葉樹やその林や森を見慣れている私にとっては、どうしても「3月末」の風情には見えなかった。これでは、夏だ。
 …だが、軽く吹き流れる風は冷たかった。)

◇◇「春日山原始林」の対照的な異界、若草山その存在する意味は…(その2)◇◇

(承前)
 「イヌシデ(カバノキ科クマシデ属)」は本州岩手県以南、四国、九州に分布する「落葉高木」で、多くは二次林に生育し、山道の傍側などに多い。葉は長さ4~8cmで側脈が著しく、12~15対の側脈がある。若枝や葉には毛が多い。シデの仲間はよく似た種が多い。しかし、「イヌシデ」の判断は、この毛であるそうだ。花は4~5月に開花し、尾状に垂れ下がるそうだが、それを確認することは出来なかった。まだ咲くには時季が早すぎたのだ。
 「ツブラジイ(ブナ科シイノキ属)」は関東南部以西、四国、九州などの暖帯に自生し、主として内陸地方に多いとされているものだ。別名の「コジイ」はスダジイに比べて果実が小さいからである。常緑高木で幹は通直であり、枝葉はよく繁り、球形の樹冠をなしている。今日の写真にも「球形の樹冠」のものが見えるだろう。それである。
 樹皮は灰青色で、老年までなめらかで、ほとんど割れ目ができない。枝はよく分岐し、細い。葉は有柄で、卵状長楕円形、先は長く鋭く尖る。上面は深緑色、下面は灰褐色だ。種子は食用となる。
 この辺りからは、ますます、「ツブラジイ」や「イヌシデ」も多くなる。山側は鬱蒼とした照葉樹林で標高250mあたりからの道沿いには「ツブラジイ」が多く現れ、11月頃には「ツブラ(どんぐりが小さくて丸いことから円ら椎)」と思えないほど大きな「堅果」を手にすることができるそうだ。

 奈良公園内には「スダジイ(ブナ科シイノキ属)」も多く見られるが、こちらはもともと沿海地域に自生するもので、奈良盆地に自生する「シイ(椎)」は「ツブラジイ」の方であると言われている。
 「スダジイ」は本州新潟県以南の日本各地に自生する常緑で20m以上にもなるというの高木だ。これは常緑高木の「タブノキ(クスノキ科タブノキ属)椨の木」とともに日本の常緑広葉樹林を代表する樹木であるとされている。
 葉の裏面には淡い褐色鱗状の毛があり、光沢がある。5月から6月にかけて遠方から見ても、すぐに分かるほどの花序を形成しているという。葉の裏面には灰褐色の鱗片状の毛があり、光沢がある。長寿であり、大きく育って、樹皮には縦に深い割れ目が入る。堅果(ドングリ)はそのままでも食べられるそうである。

 若草山の尾根筋が近づいて来ると、「シカ」が多くなってきた。照葉樹の森の中にはシカの餌は少なく、元来シカの好む餌場は草原である。草原が近いということだろう。
 ようやく、若草山の頂上(341.8m)に立った。山頂からの眺望は素晴らしかった。そこからは観光客の騒音は聞こえず、その列を成す蠢きは見えなかった。東大寺を中心に「古い歴史」がただ、ひっそりと「水底に佇んでいる」ようだった。
 かつて、数回訪れた「修学旅行」の引率では「若草山」の麓を一寸だけ歩いたに過ぎなかった。私は、今回、その頂上に立ち、眼下を見下ろしながら、若草山の草原の中の道を降りた。毎年1月の半ばに野焼きが行われるのだそうだが、その焼け残った「ススキ」の株があちこちに見られる。何だか寂しい「焼け残った骨格」のような風情が漂っていた。
 「若草山」は麓からは1つの山に見えるが、実は3つの山が連なっているのだ。遠くから見ると、その3つを重ねた恰好に見えるのだそうだが、修学旅行の生徒たちは、のっぺりとした草山しか見ていない。だから、別名「三笠山」の謂われも知らない。古い「和歌」に「三笠山」という地名が出てきても、それが「若草山」であるということが「ワカ」らないというものだ。
 一番低い山麓の草地を「一重目」という。その上が「二重目」であり、「三重目」が山頂部である。その三重目から二重目へと降りている道は細い稜線を為している。まだ草も生えていず、赤土の出た「痩せた」稜線に過ぎなかった。

 この違いは何なのだ。直ぐ傍には「昼なお暗い」照葉樹の森が、山を覆い尽くしている。ところが、直ぐ傍は「草」まだ生えぬ禿げ山である。
 まるで「異界」である。暗と明、緻密と空疎、立錐と水平、密閉と開放という対意した世界である。
 赤土のむき出した細い道を降りながら、私は、「島尾敏雄」の「春の日のかげり」を思い出していた。そうだ、それは、中国西湖の景色に似ていることから名付けられた長崎の「唐八景」のなだらかな丘が続く「草山」のことだ。
 これは、この「若草山」に似ている。(明日に続く)

「春日山原始林」と対照的な異界、若草山その存在する意味は…(その1)ススキとの関わり

2009-04-20 05:37:30 | Weblog
 (今日の写真は「春日山原始林」の自然歩道を巡り、若草山に出て、その山頂から降りる途中で、その眼下を写したものだ。
 そこから見る「眼下の景物」は、これまで歩いてきた「薄暗い森を上空から眺めている」ような「俯瞰図」に等しかった。そこは、「常緑照葉樹」と「落葉樹」の混交林だった。
 その「俯瞰図」の森は、常緑照葉樹が造り出す「黒ずんだ緑、濃い緑、淡い緑」と、「芽出しの落葉樹が見せる、淡く明るい緑や葉芽を出しかかっている淡い赤の梢」などが「パッチ」を為していた。
 一際、ピンクに輝くのは植生どおりの「ヤマザクラ」だ。自生するものは列を成さないし、孤高にぽつりぽつりと間遠に位置して、樹冠を天空に射し出している。これが自生する「サクラ」の真の姿である。
 この若草山の中腹から始まる「森」は「東大寺の境内林」になっているのだ。大きな「大仏殿」も周りを大木の森に囲まれ、護られているように見える。大勢の観光客が出す雑踏の音も、嬌声も、騒音という騒音も何一つ聞こえてこない。周りの森がすべてを飲み込み包み込んでいることが静寂の所以だろう。しかも、この森の陰になっていて、列を成して歩く観光客の姿は一人として見えなかった。森のある生活の中で、「古い歴史」が日々、護り伝えられているということがよく分かるような気がした。
 奈良市は、この森を「後背地」として広がっているように見えた。森の下端近くが「東大寺」、そしてその奥に奈良県庁が見えて、そこから「奈良市街地」が広がっているのだ。

 前景は「野焼き」の残滓(ざんし)である「焼け残った」ススキである。「ススキ(芒)」はイネ科の大型多年草で、日当たりのいい山野のいたるところに自生する。屋根葺きに使ったので、「カヤ(かや「茅・萱」)」ともいい、「チガヤ・スゲ・ススキ」などの総称でもある。
 この写真のように、焼いた後でも、この背丈だと、夏から秋にかけては相当の背丈になるであろう。「ススキ原」は樹木が遷移していく過程である。「ススキ」が入り込むことは、その場所の「地味」が痩せて、荒れ果てていることを証明するものだ。
 このままで放置すると枯れた株が「土壌」の役割を果たして、そこが低木などの育つ「温床」となる。そして、いつの日にか、「ススキ」が消滅して低木の生える原野に遷移していくのだ。
 「野焼き」を続け、「芝草の山(草山)」の景観を保守することは「観光」という商売のためにはなるであろうが、「自然の遷移」ということからすれば、それは「摂理」に反することであろう。仮に「野焼き」をしないでそのままにしておくと、若草山も100年後には「鬱蒼」とした森になっているだろう。
 日本人は「ススキ」が好きな民族であるらしい。和歌や俳句にそれを訪ねることは容易だ。万葉集や他の和歌集にも、「ススキ」は多数詠まれている。それから、源氏物語や徒然草などの「古典」にも多く登場している。秋に、黄褐色か紫褐色の花穂を出す。花穂が開くと「真っ白な獣の尻尾」を思わせるような形となるので、「尾花」と呼ばれ、秋の七草の一つだ。もちろん、俳句の世界では「秋」の季語でもある。だから、「ススキ」が句題となってものは多い。
「何ごともまねき果てたるススキ哉」(芭蕉)
「夕闇を静まりかへるすすきかな」(暁台)
「線香やますほのすゝき二三本」 (蕪村)
 「薄(すすき)」「尾花」「花芒」「鬼芒」「糸芒」「十寸穂の芒(ますほのすすき)」「真赭の芒(まそほのすすき)」「縞芒」「鷹の羽芒(たかのはすすき)」「芒原」などとして登場する。
 「万葉集第十六巻」には「はだすすき穂にはな出でそ思ひたる心は知らゆ我れも寄りなむ(よみ人しらず)」などがある。
 また、「源氏物語(宿木)」では、「匂宮」の歌として「穂に出でぬもの思ふらししのすすき招くたもとの露しげくして」という歌が出ている。 

 これほど、和歌や俳句、それに古典に「ススキ」が登場していることは何を意味するのだろう。「風に一斉になびく様子の美しさ」に惹かれるという「自然に対する叙情的な心情」が強い人たちの存在だけを答えにするには無理がある。
 事実を見よう。多くの人たちの目に「ススキ」が触れていたのである。そのことは至る所に「ススキ原」が存在したことを意味している。「ススキ」は森が攪乱を受けると真っ先に入り込んで来る「草本」だ。森林が伐採をされて、「耕地」や「荒れ地」になると現れる草だ。「荒れ地の指標」ともいわれている草本なのである。「ススキ」が多いことは「森を壊してきた証拠」なのだ。「森林の破壊者」、それが日本人なのである。
 日本人は昔から「森」を「耕地開墾」などのためにどんどん「伐採」し、『開発』してきた民族なのだ。その行為は、今も続いている。)    

◇◇「春日山原始林」の対照的な異界、若草山その存在する意味は…(その1) ◇◇

(承前)
 …そこから、自動車道路に通ずる遊歩道を採る。かつて、この「自動車道路」はバスが運行されていたとあって道幅は広く整備されている。沿道には、植樹されたと思われる「イロハモミジ」や樹高が30mにもなるという落葉高木の「ケヤキ(ニレ科)」などが大木に育っている。三本杉跡の向かいには、「サカキ」、「ヒサカキ」、「イヌシデ」、「ツブラジイ」などが見られ、それぞれ名札がかけられていた。

 関東地方以西の温暖な地に生育する常緑の「サカキ(ツバキ科サカキ属)」も見られた。「サカキ」は漢字では「榊」と書く。神様に捧げる木で、あの玉串に使うものである。葉は全縁で鋸歯はなく、端正で美しい。枝先の芽は細長く鎌状に湾曲しており、これも美しい。
 また、常緑小高木の「ヒサカキ(ツバキ科ヒサカキ属)」も生えている。樹名の由来はには「サカキ」に似ているが「全体が小さい」ので「姫榊」、それが訛って「ヒサカキ」という説と「榊に似ている」が榊に「非ず」という説がある。本州(岩手、秋田以南)、四国、九州の丘陵帯に分布している。
 「ヒサカキ」は照葉樹林帯の二次林から極相林まで広く生育しており生育範囲が広い。照葉樹林域ならば、どんな森にも生育しているというのだ。
 春、3~4月にいち早く花を開き、独特の「匂い」で春の訪れを感じさせてくれるそうだが、花を見ることは出来なかったし、「匂い」も感じられなかった。
 雌雄異株なので、雄株を見ていたのかも知れない。葉は「サカキ」と違い、光沢はあるが葉の表面は濃緑色で、裏面は淡緑色、葉縁には細かい鋸歯がある。(明日に続く)

春日山原始林の「自然歩道」に樹木をたずねる

2009-04-19 05:07:57 | Weblog
 (今日の写真は「アセビ」である。至る所で見ることが出来た花だ。奈良公園の植え込み、住宅街の垣根や植え込み、「春日山原始林」の南に面した道路端や林縁などである。
 宮城県以南の本州、四国、九州に分布する樹木なので、私たちは自生しているものを見ることが出来ない。その点で、珍しい花である。
 もう一つ「珍しさ」が加わった。それは3月31日だというのに、すでに満開のように咲き誇っているということだ。3月末に「咲き誇っている花」がこの弘前にあるだろうか、「ない」のである。
 この2つの要因から、最初の出会いは、まさに「驚喜」であった。しかし、時間が経ってくると、どこにでも余りありすぎて「食傷」気味になってしまったのだ。
 最初の出会い…「あっ、あれは何だ」と好奇心の塊、丸出しだ。だが、次第に、その塊も角がとれて、「ああ、アセビではないか」となり、「ああ、そこにもある」「あそこにもある」、そして「ああ、またか」となり、最後は首を左右に振って目を向けなくなってしまうというわけである。
 「アセビ」はツツジ科アセビ属の高さが3~数mになる常緑低木である。早春から「釣り鐘型」の花を咲かせ、その地方では「春の到来を実感させる」植物であるだろう。
 早春に、白色の「壺状花」を開き、房のように総状に垂れ下がる。秋には果実を稔らせるのだが、夏には花序を準備し始め、冬には直ぐにでも花を咲かせることが出来るほどの状態で花序を形成している。実に長い時間をかけて花を準備する植物なのである。
 山地の乾いた土地に好んで自生するが、花が美しいので、庭木としても植栽されている。しかし、全株が「有毒植物」であり、牛馬が食べると麻痺するので、漢字では「馬酔木」と書く。葉の煎汁は殺虫剤や皮膚病薬として利用され、材は堅く、薪炭材や細工物とする。 別名を「あしみ、あしび、あせぼ、あせみ」といい、他に「毒柴」や「柃(ひささき)」とも言うそうだ。
 「馬酔木」と書いて「アセビ」と読めるわけがないではないか。私なら絶対に読めない。全くの当て字だ。腹立たしいほどの当て字である。
 「アセビ」という古来からの「音読み」には、例えば「山」は「ヤ」+「マ」でそれぞれ意味を持って成り立っているように、「ア」「セ」「ビ」一字一字に、または、「ア」+「セビ」、あるいは「アセ」+「ビ」としての別の意味があるのではないのだろうか。妙に知りたくなった。

 「馬酔木」または「馬酔木の花」、または「花馬酔木」などは、俳句の「春」を表す季語である。
 「春日山原始林」から「若草山」、そして「東大寺」を巡ったが、そこで出会った「馬酔木」の風情を伝えていると思われた俳句を見つけたので紹介しよう。
 ・「花馬酔木山深ければ紅をさし(福田蓼汀)」
 ・「仏にはほとけの微笑あしび咲く(飯野定子)」 )

「春日大社」の大きな朱塗りの鳥居を右に見ながら、「ナギ林」を抜け、しばらく住宅地を歩くと、葉の芽が出たばかりの、落葉樹「ナンキンハゼ(トウダイグサ科)」がよく目につく。
 これは中国原産だという。この木は昭和の初めに奈良公園内に持ち込まれたものであるそうだ。「ナンキンハゼ」は、「ナギ」や「アセビ」、落葉低木で、蕾を膨らませた「イヌガシ(クスノキ科)」、落葉低木で1m程度しか伸びない「イズセンリョウ(ヤブコウジ科)」などと同様にシカは食べないのだ。
 だから、これらが選択的に残り、特にナギやナンキンハゼがその分布域を旺盛に広げているのである。
 その瀟洒な住宅地を、少し下って再び東向きに進んでいくと能登川と交差する。ここからこの川沿いに進む道が「柳生街道 」で、奈良と柳生を結んでいる古くからの街道なのだ。車道が整えられるまでは唯一の交通路で、何と、昭和30年代頃まで、人々の「生活道路」として盛んに利用されていたというのだ。今は、「石畳」の道となり、人が2人並んでようやく歩けるぐらいになっている。

 静かな住宅街を抜けると、いよいよ照葉樹の森の中に入る。道の右手に、当地岩木山でも偶に出会える大きな落葉樹「エゴノキ(エゴノキ科)」を見つけることが出来た。橋を渡るとやがて三叉路があり、この辺りから樹冠を見上げると、背の高い樹木を見つけることが出来る。これが落葉高木で、樹高が20~25mといわれる「ムクロジ(ムクロジ科)」である。
 それから、次第に、樹高が15~20mで常緑高木の「ウラジロガシ(裏白樫)」や、これも樹高が15~20mの常緑高木である「ツクバネガシ(衝羽樫)」などのブナ科の照葉樹が顔を出す。この2種類は葉の大きさや形が非常に似ているので、裏の白さが決め手だろう。
 こうした谷筋には、日光が林床まで差し込むところもあり、落葉高木の「カラスザンショウ・烏山椒(ミカン科)」や落葉高木の「アカメガシワ(トウダイグサ科)」などの「陽樹」も見つけることが出来る。
 また所々で、「スギ」の巨木が森の中で、顔を覗かせる。これらは植樹されたもので、樹齢700年以上のものも確認されているそうだ。

 「柳生街道」の「首切り地蔵」から、地獄谷新池を周遊してみるのも面白いそうだ。池の周りは、岩木山でも見られる落葉高木の「コナラ(ブナ科)」や岩手県以南に自生する、つまり岩木山では見られない「クヌギ(ブナ科)」、岩木山に見られるヤマモミジの仲間の落葉高木である「イロハモミジ(カエデ科)」など二次林の様相をなしているそうだ。
 時間がなかったので、そこまでは行かなかったが、「原始林」の中の「二次林」、何ともはや、面白いことではないか。(明日に続く)

照葉樹木に会う旅、「春日山原始林」の「東海自然歩道」

2009-04-18 05:26:08 | Weblog
 (今日の写真は春日山原始林の中を通る「東海自然歩道」の途中にある「朝日観音」と呼ばれる自然の岩壁に彫られてある「石仏」である。
 説明案内板によると…「早朝、東にある「高円(たかまど)山」の頂から昇る朝日に真っ先に照らされるので「朝日観音」と名付けられたものである。だが、実際は「観音」ではなく、中央は「弥勒菩薩」で左右は地蔵菩薩であるという。この岩壁の彫像には「文永二年(西暦1265年)」の銘が彫られており、鎌倉時代の石彫像の代表的なものだ。」…とある。この場所よりも手前に「夕日観音」というのもあり、同じ作者のものだとされている。
 また、この他にも「寝仏」や「首切り地蔵」などの石仏や「春日山石窟」などもあり、その歴史を訪ねると、「味わい深い」歩道であるに違いない。
 また、「歩道」脇の木の下には「イノシシ」の土耕跡や「ぬた場」が見られ、夏場は、湿度も高く、「ヤマビル」がいるのだそうだ。
「イノシシ」や「ヤマビル」などとの遭遇は青森県ではあり得ない。会えるものなら会いたいと思って、「足元」に注意しながら、「歩道」脇にも目配りをしながら歩いたが、3月末という早春である。悔しいかな、そのいずれにも出会えなかったのである。
 この「歩道」だが、住宅街を抜けて、薄暗い樹林帯に入る途端に「石畳」の道になる。そして、この「石畳」は「能登川」に沿った「東海自然歩道」が「首切り地蔵」のところで、「奥山ドライブウエイ」方向に分岐するところまで続き、さらに「ドライブウエイ」と出会うまで急な坂道となって続いているのだった。
 この分岐点には大きな杉が2本立っている。道標として「植栽」されたものだろう。この分岐を直進すると「柳生街道」だ。つまり、「東海自然歩道」は古い「柳生街道」なのである。石仏などがあるのも、その「生活史」から推して知るべしであると思った。やはり、歴史の道なのである。
 だが、私は「石仏や寺院、神社、」を観察し歴史を探索するために、この「春日山原始林」の中の「東海自然歩道(柳生街道)」を歩いているのではない。あくまでも「照葉樹」と「その森」を見るためなのである。

 だから、視点を「春日大社境内の樹木と春日山原始林に見られる主な植生」に移して、歩いた行程を追って説明をすることにする。

 先ずは出発点となった春日大社界隈からだ。春日大社の境内には「ナギ(マキ科ナギ属)樹林」が多く見られる。これは「天然記念物」となっている。
 日本に「マキ(槙)科」の植物は、「イヌマキ」と「ナギ」の2種しか自生していない。「コウヤマキ」はコウヤマキ科である。ナギは暖地性の「常緑針葉樹」で、本州では和歌山と山口、あと四国と九州以南に見られる。
 「針葉樹」といわれるが「葉」は「針葉」ではない。私のような素人には絶対に針葉樹には見えない。何と葉は「卵状長楕円形」である。しかも肉厚で「光沢」がある。「照葉樹」として扱ってもおかしくないものだろう。面白いことに葉には「中央脈」が見られないのだ。これが「針葉」の所以かも知れない。
 春日大社の境内のものは、「純林の北限」とされている。ここの「ナギ」は自生種ではないだろうとされ、1200年ほど前に「春日大社」へ「献木」されたものが今のように広がったとする説が一般的である。
 奈良公園の「鹿」も「ナギ」の葉は食べない。また、「ナギ」の発する「アレロパシー(植物が生産する化学物質が環境に放出されることによって、他植物に直接または間接に与える害作用のこと)」が、他の植物の成長を抑制するため、このように、純林だけが広がったとも言われているそうである。

 一方、春日大社の境内には「イチイガシ(石櫧)」の大木が生えているのだ。
 だが、これはイチイ科の常緑高木である「イチイ(一位)」とはまったく関係のない樹木だ。「イチイ」は、笏(しゃく)の材料としたので、「一位の位に」因んで「一位」という漢字を当てている。
 日本の比較的北の深山に自生している。幹は直立して、約15mほどになる。樹皮は赤褐色で雌雄異株だ。果実は9月頃に熟し、橙赤色で甘く食べられる。
 材質は非常に密でで器具、装飾品などに使用されている。また、庭木や生垣などにも利用されている。別名を「アララギ」や「オンコ」、または「紫松」などいう。
 「イチイガシ」は、ブナ科の常緑高木である。暖地に育ち高さは約30mにもなる。葉は先端で急に尖り、裏面、若枝は黄褐色の短毛で被われている。
 大昔から、このシイの実に似た味の大形の果実は人々に食べられ、材が堅くて強いので、「鋤(すき)や鍬(くわ)の柄、大工や土木用具」などに用いられてきたのだ。だが、やはり、役立つ故に「数」が少なくなるという皮肉な運命は免れなかった。
 「春日大社」が創られた8世紀頃には、ご神体である御蓋(みかさ)山の麓には「イチイガシ」を「優先種」とする「照葉樹林」が広がっていた。現在、春日大社の境内に生えている「イチイガシ」は、そのことを教えるような幹周りが3mを越える大木が多いのだ。
 奈良盆地の中心部は、かつて「湖や湿地帯」となっていた。周辺の扇状地の「極相林」は「イチイガシ林」であったことが、それぞれの調査で知られているそうだ。
 しかし、このような場所は人々の「生活領域」であり、古くから人為的に攪乱を受けてきたのである。そのような「経緯」を辿りながらも、春日大社の境内にこうして生えている事実は、まさに、「神社」ならではであり、御神域ならではのことだろう。
 「神社」や「信仰心」は下手な「自然保護運動」よりも遙かに力があるように思える。(明日に続く)

「春日山原始林」照葉樹林と「ヤブツバキ」、人との関わり「照葉樹林文化」

2009-04-17 05:18:37 | Weblog
 (今日の写真は「常緑照葉樹」林縁に咲いている「ヤブツバキ」である。3月31日に写したものだ。「ヤブツバキ」は樹高が18mにもなる高木である。これは6m程度の低木であった。だから、葉の縁の鋸歯がよく見えた。
 これは、生育地が「青森県が南限」ということで、私たちにも馴染みが深いものだ。
 自生する「ツバキ」には「ユキツバキ」というものもある。こちらは高木にはならない。背丈は1~2mで幹は斜上する。主に本州の日本海側の多雪地帯に見られる。写真の奥に見えている常緑照葉樹は「スダジイ」だろう。樹高は25mほどになるというから、これはまだ、若木のようだ。
 写真ではよく分からないだろうが、葉の形は細長く、葉の縁には鋸歯が見えないので、「スダジイ」としておいたのだが、正しいかどうかは分からない。図鑑で見る限りは可愛い葉っぱだ。何となく手触りもよさそうである。

 とにかく、「歩道」から一歩も林内に入ることが出来ないので、直近での「撮影」も出来ない。もちろん、「葉」を1枚たりとも採取することは禁じられている。
 このように「禁ずること」に行政は腐心しているようだし、そこを訪れることの多い地元の人たちも、いわばこの「原始林」と背中合わせで暮らす人たちも、その「禁じられて」いることを極めて自然に遵守しているように見えるのだ。
 恐らく、この「原始林」そのものに対する愛着と誇りがあるのではないだろうか。だから、「護られている」のだ。
 観光業者やそれに付随した業者が「観光地」の自然を切り売りするようなことはしないから、いつまでも「あるがままの自然」が残るのである。観光客などに「自然を切り売り」していると、やがて、その「自然そのもの」が痩せ細っていく。そして、いつの間にか「観光地としての自然」はなくなってしまうのだ。

 ところで、「照葉樹」というものは、どのような樹木なのだろう。庭木の「ツバキ」か、岩木山で見られるものでは「アカミノイヌツゲ」を思い浮かべるといいだろう。
 全般的に「葉は厚い」があまり大きくなく、「クチクラ層」が発達して光沢があるので、常緑であっても冬の寒さには比較的強いものだ。
 「クチクラ」は英語でいう「cuticul:キューティクル」であり、表皮に出来る膜のことだ。表面を保護する役割を果たしていて、動物の毛の表面にも存在する。
 植物にあっては葉の外側「表面」を覆う「蝋を主成分とする透明」な膜である。「照葉」とは、樹木の葉に「クチクラ層(膜)」が出来て、その表面が、「てかてか」と時には「きらきら」と光り、「照って」見えることからつけられた命名だ。

 「春日山原始林」の鬱蒼とした照葉樹林の中に身を置くと、遙か遠い「ブータンの森」や「縄文時代の人々の生活」をイメージすることが出来るという人がいる。それはこういう意味を含んでいるからではないだろうか。
 …「照葉樹林」は暖温帯の雨量の多い地域に成立し、ヒマラヤ南面の「ブータン」から中国の長江以南地域を経て、東は日本の本州南半分まで広がっている。
 また、大陸から稲作が伝わってくる前の縄文時代の人々は、この照葉樹林に生活の糧を求め、そこをところどころ破壊しながらも「一定の共生」を保持する中で、生活の場所としていたことに因るのだ。
 そして、例えば、「水晒しによるアク抜き技法」や「ウルシの利用」、「野蚕の利用」などという「照葉樹林文化」が日本の縄文時代にすでに伝わってきていて、日本の「照葉樹林帯」においても、「ブータン」などとの「文化的共通性」があるのだ。…
 だが、日本の「自然」としての「照葉樹林」は、稲作が伝わってからは、急激に破壊され田畑や住居地へと変貌を遂げていったのである。従って、弥生時代以前に見られた照葉樹林の残存は極めて少ないのが現実である。
 それは、この春日山原始林や那智原始林(和歌山県)にその面影を、僅かに垣間見ることが出来るだけなのである。

 「春日山原始林」は、照葉樹林の極相林ともいえる。だが、ところどころに「アカマツ」のような「陽樹:日射光のもとで種子が発芽し、生育する樹木。乾燥や貧栄養の土地でも成長が早い。アカメガシワ・カラスザンショウ・アカマツ・クリなど」も見られる。「陽樹」の対意語は「陰樹」といい、「日陰によく成長・繁殖し得る樹木。ブナ・トドマツの類」を指す。
 「陽樹が見られる」ということは部分的に自然撹乱(かくらん)を受けたことを物語っており、極相林と言えども、台風などある程度の頻度で、撹乱を受けて、その修復を繰り返しながら全体として均衡を維持しているのであろう。
 この撹乱を受けて「樹木のなくなった空間部分」を「ギャップ」といい、そして、そこに構成される周囲と異なった「種組成」や「サイズ」をもつ集団を「パッチ」ということは「森林」に興味を持つものにとってはよく知られていることだ。
「春日山原始林」にもパッチ構造が見られ、そうした場所には「先駆樹種」として「アカマツ」以外にも「アカメガシワ」や「カラスザンショウ」などが見られる。
 特に「アカメガシワ」は、種子が何年も林内土壌に眠っていて、森林が破壊されて光条件がよくなり土壌が高温になると発芽して、すばやく遷移の初期段階を迎えるのだ。

 照葉樹林、落葉樹林問わず、「里山」と言われているところは二次林である。津軽からは里山は消えて、すべて「りんご園」になってしまった。
 照葉樹林帯でも、人々が農用や薪炭用に利用するため手を加えて山だ。「クヌギ」や「コナラ」は薪炭用に人の手によって植えられたもので、落ち葉が肥料用に採取され、痩せたところには「アカマツ」なども見られる。しかし、こうした里山にも、シイ類やカシ類の幼木、マンリョウやヒサカキなどを見つけることが出来れば、そこの極相は照葉樹林であろうと判断出来るし、遠い将来にわたっての遷移が始まっていると考えられる。

 樹木や森の時間は決して「人」の時間ではない。そのスパンは途轍もなく長いのである。(明日に続く)

照葉樹林の早い春「春日山原始林」

2009-04-16 05:49:49 | Weblog
 (今日の写真は3月31日に撮った「春日山原始林」、「照葉樹」の森の一部だ。先ず、昨日のこのブログをクリックしてもう一度、「落葉樹」ブナ林の写真を見てほしい。昨日のものと今日のものを並べて「画像表示」も出来るのだが「小さく」なってしまうので、それは止めた。
 そして、「落葉樹」ブナの明るい森をしっかり確認してから、今一度、この「照葉樹」の森の写真を見てほしいのだ。

 実は今日の写真は「春日山原始林」内の照葉樹林のもっとも暗い樹間のものと比較的明るい場所のものと2枚くっつけてある。左側が最も暗い場所のもので、時間が午前の10時頃で、晴れているにも拘わらず、この暗さなのだ。右側のものは出来るだけ明るい場所を探して写したものだから、これくらいの空間が存在しているのである。
 とにかく、3月31日だというのに、これほど緑で覆われて暗い森を見たことはなかった。ただただ、驚くばかりである。「冬だというのに葉を落とさない」森、この「出会い」は新鮮であり、貴重な体験であった。間もなく70歳に手が届くようになって初めての体験、私の心は、少年のように弾んだ。

 ところで、この暗い「照葉樹林」を構成している樹木の種類にはどのようなものがあるのだろうか。
 私は「葉でわかる樹木625種の検索」(馬場多久男著・信濃毎日新聞社刊)という本を持っている。出かける前に「常緑高木」や「常緑低木」などの項目で一応簡単に調べてはおいた。しかし、現場で、それを思い出すことは至難であった。
 今思えば何故この「本」を持参しなかったのかと、残念でならない。

「照葉樹林」を構成している樹木の種類には大体次のようなものがあるらしい。高木になるものから見てみよう。

 先ずは、「カシ」の木である。「カシ」は(樫、橿、�)という漢字を当てる。また、これは「ブナ科コナラ属の常緑高木の一群の総称」でもある。
 狭義にはコナラ属中のアカガシ亜属を指すが、コナラ亜属中の常緑性の種類も「カシ」と呼ばれる場合もある。シラカシ・アカガシ・イチイカシなどである。
 次は「シイ」である。「シイ」は椎と書き、「ブナ科シイ属」の樹木の総称だ。ツブラジイ(コジイ)とその変種スダジイ(イタジイ)がある。うっそうとした大木になるというから、今日の写真の左側がそれかも知れない。葉は革質で裏面は淡褐色。5~6月、香りの強い小花を雌雄別々の穂状花序につける。
 果実は先のとがった卵円形で、果実の「ドングリ」は食べられるので、古くから親しまれている。特にツブラジイの実は美味しいそうだ。材は建築・器具に、樹皮は染料に用いるし、椎茸栽培の原木とされるという。まさに、照葉樹林の代表的構成種でもある。また、マテバシイ属のマテバシイもこの名で呼ばれている。
 次は「タブノキ」だ。これは「椨の木」と書いて、「クスノキ科タブノキ属」の常緑高木だ。イヌクスとも呼ばれる。ちょうど、幼木が葉の新芽を出しているのに出会った。これだけは直ぐに名前が口を衝いて出た。不思議だ。
 さらに同じ科の「クスノキ」だ。これは漢字で(樟、楠)と書く。「クスノキ科ニッケイ属の常緑高木」である。
一般的にクスノキに使われる「楠」という漢字は本来は南国から渡来した木の意であるとされ、中国のタブノキを指す字であるとされている。高さは20m以上に達し、全体に芳香がある。5月頃、黄白色の小花をつけ、果実は球形で黒熟。材は堅く、樟脳および樟脳油を作る。
 亜高木としては、「ヤブツバキ」、「モッコク」、「ヤマモモ」、「ユズリハ」などがある。「ヤブツバキ」は盛りを少し過ぎて「落花」しているものもあった。だが、暗い森を背景にして、林縁で咲いている風姿は、光沢ある葉に映じて、一際鮮やかなものであった。紅い色は、何も「白」だけに映えるものではない。暗い森とその僅かな明るい空間を背景としても美しいものである。
加えて、低木には「サカキ」、「サザンカ」、「ヤブニッケイ」などもあるのだ。
亜高木や低木の「常緑照葉樹」は庭木として、この北国「津軽」でも結構見られるものである。人の心はやはり、どこかで「常緑照葉樹」に深いあこがれを持っているのかも知れない。
 
 さて、「春日山」について少し説明しよう。それは奈良市の春日大社の真東に、標高498mの「花山」を最高峰として位置する山群である。春日大社と花山の間には、標高297mの御蓋山(みかさやま)あり、さらにその北には標高342mの若草山(三笠山)がある。
 私は御蓋山の麓から中腹を通り、若草山の山頂を辿って東大寺に下山したのである。
 「春日山」は841年(承和8)に、山内での「狩猟や伐採」を禁じたことが『類聚三代格』に記されている。その頃から「春日山一体」が春日大社の神域となっていたのである。
この「春日山」には、このような「歴史的経緯」から、1100年以上にわたり積極的に人の手が加えられず、照葉樹の「原始林」が広がっているのである。
 奈良という「観光都市」とに接しながらも、この地域の暖帯「常緑広葉樹」林の極相を示す状態で残っているのだ。
 ただ実際には、「イロハモミジ」や「ケヤキ」が遊歩道沿いに植栽されていたり、また「人の手」によって植えられたと思われるスギが多数、巨木となっている。
 鬱蒼として暗い森の中で、そこだけ明るい場所がある。見ると、そこには「モミジ」があって、小さな若葉を出しているのである。というわけで、厳密には「原始林」とはいえないかも知れない。
 しかし、そのようなことで1100年もの間、培われてきた「原始の森」の価値が変わるべくもないだろう。そこに、国指定の「特別天然記念物」として意義があり、また1998年に「世界遺産」の指定を受けた意義があるのである。
 私が歩いたのは「歩道」だけである。「歩道」から一歩も「森」の中には入ることが出来なかった。そのように「森」は手厚く保護され、「人間」には厳しく「入林・入山を禁止」しているのである。
 同じ「世界遺産地域」でも、観光やコマーシャリズムが優先している「白神山地」とは雲泥の差であろう。(明日に続く)