今日の写真は何処から写した岩木山だろう。種明かしをすると、鰺ヶ沢スキー場の駐車場から写したものだ。
岩木山という山は見る場所によって見事に変貌を遂げるところが何ともいえない魅力である。「おらほの山」といって見る場所を限定して「そこから見える岩木山が一番美しい」と想うことも、それはそれでいいだろう。
しかし、たまには「岩木山」の環状道路(県道30号線)をぐるりと巡って、変貌していく岩木山の山容を眺めて見てはどうだろうか。
そんな思いをもって私は今から30数年前に「岩木山一周歩こう会」というものを提唱して、実際に歩いた。 今でこそ「歩こう」会は「・・ウオーク」「ウオークラリー」「・・マーチ」などと名前を変えて一般的になり、人々の間に根をおろしている。
1974年(昭和49年)に、この「岩木山一周歩こう会」を始めたころは全国的にも「歩こう会」という組織も行事も殆どなかった。もちろん、青森県においては皆無であったろう。
だから当然、第1回「岩木山環状道路一周一日歩こう会・60km」は県下で最初のものであったわけだ。その意味では、全国的に見ても「歩こう会」の先駆けと言える。
動機には私の岩木山への思いとこだわりがあった。その頃の私にとって、岩木山は主に登る対象の山であったが、眺めながらその周りをぐるりと歩く山でもあったのである。ただ登山をするだけという一面的な山ではなかった。
ましてや、私の原風景的に屹立している多くの山の一つでもなかった。私の原風景は岩木山一山であるといっていいだろう。やはり、原点は眺めることで存在し、それによって癒される山でもあった。
私は眺められる岩木山にも拘っていたし、原風景を大事にしたいと思っていた。その根底には、ずっと長いこと津軽を「故郷」にしたいという強い執着心があった。
それを満足させるためには、津軽に生まれた人のすべてが保持している原風景としての岩木山の全山体を、全山容を360度の方位から見ることだと考えたのである。
さらに、そのことによってのみ、津軽人(びと)のどこの誰とでも、「見える岩木山」を共有出来るのであり、それが出来ることで、私はこの地を故郷と呼べるに違いないと考えたのである。今もこの考えに変わりはない。
弘前ハイキングクラブ・千里の会(現「峠の会」)会報「山族」に、「第一回岩木山一周歩こう会」の発会動機と内容報告に関する記述があるので、次ぎに抜粋掲載しよう。
『この「歩こう会」は1974年、弘前勤労者山岳会・会報「ざんせつ」7月8日付号外で、発案者でもあり発起人である三浦章男から、長内敬蔵、佐藤吉直、相馬正八に呼びかけがなされたことに端を発したものである。同年9月8日に有志の十名(三浦章男、相馬正八、長内敬蔵、佐藤吉直、貴田善直、今井勉、小山純夫、田中隆夫、飯島久子、山口妙子)が参加して第1回目がなされたのである。
なおこの号外では、名称を「岩木山環状道路一周一日歩こう会・60キロ」としてある。これは弘南バスのガイドが観光案内の中で、「通称岩木山ハチマキ道路は約60キロございます。」とアナウンスしていたことに拠(よ)ったものである。実際は53キロほどである。注意の項には「身体的故障などは一切参加者が責任を負うこと。あくまでも、自主参加であること。」とある。ルートは百沢ー大石ー長平ー白沢ー松代ー岳ー百沢であった。
これは試行ということもあり、記録的にも速く、膝を痛めた一人をのぞき、9時間台で完歩した。三浦、佐藤、長内は片足2kg近い「重量級の登山靴」を履いて歩いたのである。弥生から白沢までと松代から枯木平までは、まだ舗装されていない道路であり、ペース配分も解らず、白沢と松代の間で雷雨にみまわれたりして散々であったが、成功だったと言えるだろう。』
ところで、どうして「岩木山一周」という名称のついた「歩こう会」なのだろうか。それは、ただ単に岩木山の周りにある道を歩けばいいというものではなかった。私には強い拘りがあった。強い「想い」と言ってもいい。
2回目の「歩こう会パンフレット」に…私は次のように書いた。
『私たちが、いつもおらほの山として仰ぎ見て育ってきた故郷の山、岩木山をぐるりと自分の足で回って、その全容に触れてみませんか。初夏の高原の野趣を自分の足で確かめてみませんか。』と…。
津軽の人たちは自分が暮らしている所から見える岩木山を、特別の思いを持って眺めて「一番美しいのだ。」と、とらえている。
私たちは、人々の持つそれぞれの「一番美しい眺めを共有」して満喫しようではないか。天気や季節の変化、刻一刻と姿を変える岩木山と高原風景を楽しめるようになったら本物だ。車で通ったら、決して見ることの出来ない何かしらにきっと出会えるはずである。
「おらほの山」はどこから眺めても美しい。それを実感し、改めて「津軽人」として、岩木山に誇りが持てるのではないだろうか。
その誇りを持とう。これが「想い」の一つである。
その頃から日本は本格的に車社会へと突入していった。それと並行して自分の足をフルに使って歩くことが次第に少なくなってきていた。
岩木山一周の環状道路53kmほどを歩こうとしても、一体自分は歩けるのだろうかと、自分の「歩く能力」すら把握できていない。
人は直立して歩くことによって類人猿から分かれ、文明を発達させてきた。文明・文化の根元は歩行にあるわけだ。
我々は人間だけが持つ直立歩行の意味と可能性を取り戻して、「歩く」文化の回復を求めた。これが「想い」の二つ目であった。
私は登山者であり、山岳会会員である。足を使い登り降りることには、そこはかとした自信はある。しかし、平地に近い高原の平坦で砕石が敷かれたり、アスファルト舗装された固い道を、果たして53kmも歩けるものだろうかという自分に対する「疑問と不確かさ」があった。
だから「歩こう会」は「歩くことの可能性」に解答を与えるもの、つまり可能性を知ることでもあった。これが「想い」の三つ目である。
さらに加えて、「自然や景観を壊しながら、開発を御旗(みはた)に掲げて車中心の社会へと進んでいく時流への批判」などを多くの人たちと理解・共有したいという「想い」が四つ目であった。
そこで、第2回目から、会員以外の市民たちとこの「想い」を、共に大事にしたいと考えて、一般市民を募集し、一緒に歩くことにしたのである。
今年も6月の第一日曜日に「岩木山一周歩こう会」は開催される。
岩木山という山は見る場所によって見事に変貌を遂げるところが何ともいえない魅力である。「おらほの山」といって見る場所を限定して「そこから見える岩木山が一番美しい」と想うことも、それはそれでいいだろう。
しかし、たまには「岩木山」の環状道路(県道30号線)をぐるりと巡って、変貌していく岩木山の山容を眺めて見てはどうだろうか。
そんな思いをもって私は今から30数年前に「岩木山一周歩こう会」というものを提唱して、実際に歩いた。 今でこそ「歩こう」会は「・・ウオーク」「ウオークラリー」「・・マーチ」などと名前を変えて一般的になり、人々の間に根をおろしている。
1974年(昭和49年)に、この「岩木山一周歩こう会」を始めたころは全国的にも「歩こう会」という組織も行事も殆どなかった。もちろん、青森県においては皆無であったろう。
だから当然、第1回「岩木山環状道路一周一日歩こう会・60km」は県下で最初のものであったわけだ。その意味では、全国的に見ても「歩こう会」の先駆けと言える。
動機には私の岩木山への思いとこだわりがあった。その頃の私にとって、岩木山は主に登る対象の山であったが、眺めながらその周りをぐるりと歩く山でもあったのである。ただ登山をするだけという一面的な山ではなかった。
ましてや、私の原風景的に屹立している多くの山の一つでもなかった。私の原風景は岩木山一山であるといっていいだろう。やはり、原点は眺めることで存在し、それによって癒される山でもあった。
私は眺められる岩木山にも拘っていたし、原風景を大事にしたいと思っていた。その根底には、ずっと長いこと津軽を「故郷」にしたいという強い執着心があった。
それを満足させるためには、津軽に生まれた人のすべてが保持している原風景としての岩木山の全山体を、全山容を360度の方位から見ることだと考えたのである。
さらに、そのことによってのみ、津軽人(びと)のどこの誰とでも、「見える岩木山」を共有出来るのであり、それが出来ることで、私はこの地を故郷と呼べるに違いないと考えたのである。今もこの考えに変わりはない。
弘前ハイキングクラブ・千里の会(現「峠の会」)会報「山族」に、「第一回岩木山一周歩こう会」の発会動機と内容報告に関する記述があるので、次ぎに抜粋掲載しよう。
『この「歩こう会」は1974年、弘前勤労者山岳会・会報「ざんせつ」7月8日付号外で、発案者でもあり発起人である三浦章男から、長内敬蔵、佐藤吉直、相馬正八に呼びかけがなされたことに端を発したものである。同年9月8日に有志の十名(三浦章男、相馬正八、長内敬蔵、佐藤吉直、貴田善直、今井勉、小山純夫、田中隆夫、飯島久子、山口妙子)が参加して第1回目がなされたのである。
なおこの号外では、名称を「岩木山環状道路一周一日歩こう会・60キロ」としてある。これは弘南バスのガイドが観光案内の中で、「通称岩木山ハチマキ道路は約60キロございます。」とアナウンスしていたことに拠(よ)ったものである。実際は53キロほどである。注意の項には「身体的故障などは一切参加者が責任を負うこと。あくまでも、自主参加であること。」とある。ルートは百沢ー大石ー長平ー白沢ー松代ー岳ー百沢であった。
これは試行ということもあり、記録的にも速く、膝を痛めた一人をのぞき、9時間台で完歩した。三浦、佐藤、長内は片足2kg近い「重量級の登山靴」を履いて歩いたのである。弥生から白沢までと松代から枯木平までは、まだ舗装されていない道路であり、ペース配分も解らず、白沢と松代の間で雷雨にみまわれたりして散々であったが、成功だったと言えるだろう。』
ところで、どうして「岩木山一周」という名称のついた「歩こう会」なのだろうか。それは、ただ単に岩木山の周りにある道を歩けばいいというものではなかった。私には強い拘りがあった。強い「想い」と言ってもいい。
2回目の「歩こう会パンフレット」に…私は次のように書いた。
『私たちが、いつもおらほの山として仰ぎ見て育ってきた故郷の山、岩木山をぐるりと自分の足で回って、その全容に触れてみませんか。初夏の高原の野趣を自分の足で確かめてみませんか。』と…。
津軽の人たちは自分が暮らしている所から見える岩木山を、特別の思いを持って眺めて「一番美しいのだ。」と、とらえている。
私たちは、人々の持つそれぞれの「一番美しい眺めを共有」して満喫しようではないか。天気や季節の変化、刻一刻と姿を変える岩木山と高原風景を楽しめるようになったら本物だ。車で通ったら、決して見ることの出来ない何かしらにきっと出会えるはずである。
「おらほの山」はどこから眺めても美しい。それを実感し、改めて「津軽人」として、岩木山に誇りが持てるのではないだろうか。
その誇りを持とう。これが「想い」の一つである。
その頃から日本は本格的に車社会へと突入していった。それと並行して自分の足をフルに使って歩くことが次第に少なくなってきていた。
岩木山一周の環状道路53kmほどを歩こうとしても、一体自分は歩けるのだろうかと、自分の「歩く能力」すら把握できていない。
人は直立して歩くことによって類人猿から分かれ、文明を発達させてきた。文明・文化の根元は歩行にあるわけだ。
我々は人間だけが持つ直立歩行の意味と可能性を取り戻して、「歩く」文化の回復を求めた。これが「想い」の二つ目であった。
私は登山者であり、山岳会会員である。足を使い登り降りることには、そこはかとした自信はある。しかし、平地に近い高原の平坦で砕石が敷かれたり、アスファルト舗装された固い道を、果たして53kmも歩けるものだろうかという自分に対する「疑問と不確かさ」があった。
だから「歩こう会」は「歩くことの可能性」に解答を与えるもの、つまり可能性を知ることでもあった。これが「想い」の三つ目である。
さらに加えて、「自然や景観を壊しながら、開発を御旗(みはた)に掲げて車中心の社会へと進んでいく時流への批判」などを多くの人たちと理解・共有したいという「想い」が四つ目であった。
そこで、第2回目から、会員以外の市民たちとこの「想い」を、共に大事にしたいと考えて、一般市民を募集し、一緒に歩くことにしたのである。
今年も6月の第一日曜日に「岩木山一周歩こう会」は開催される。