岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

寄生火山のことを「側火山」という / 石切沢早春の森と堰堤工事の観察会案内 (その3)

2010-04-30 05:20:54 | Weblog
 (今日の写真は小森山北側山麓から見た岩木山である。このような岩木山は「県道30号線(岩木山環状線)」からは絶対に見えないのである。それは「小森山」が隠してしまうからだ。「小森山」の背後に回り込まなければ見ることが出来ないということである。「小森山」は南側に対峙する「森山(守山とも書かれる)」と同じく寄生火山である。

 なかなか見ることが出来ない「山容」なので少し尾根や沢の説明をしよう。
 左からいくことにしよう。左の頂が「鳥海山」。その下部に開けている逆三角形の岩肌を見せている場所が「滝ノ沢」の源頭部である。これは古い爆裂火口跡である。「滝ノ沢」は環状線を越えた辺りで、その隣の「平沢」と合流して大秋川に注ぎ、次いで岩木川に流れ込んでいる。その右隣の沢は「毒蛇沢」である。これは森山の西麓を通り、大秋川を辿って岩木川に出ているのだ。
 右端に目を転じてみよう。広く樹木が伐採されて積雪の見えるところが百沢スキー場のゲレンデである。その左の沢は「蔵助沢」だ。そして、真っ正面に見える広い尾根、つまり、「毒蛇沢」と「蔵助沢」に挟まれたこの尾根に、向かって左から順に「姥人沢」、「クルミ長根沢」、「石切沢」という3つの沢があるのである。
 今年度、敷設予定の「石切沢4号堰堤」はこの中の「姥人沢」に造られるものである。「姥人沢」に造られるのに、「石切沢」という名称を与えている理由は「姥人沢」も「クルミ長根沢」も下流で「石切沢」と合流しているからであろう。「石切沢」は下流で「蔵助沢」と合流して、そのまま岩木川に注ぐのだ。
「姥人沢」は尾根左側の窪んで積雪の見えるところである。百沢登山道は、七曲りの手前でこの「石切沢」を渡って、「石切沢」右岸尾根を辿るのである。
 見て分かるとおり、スギの植林地が多い。これは、全くといっていいほど「手入れ」はされていない。手入れをしないとスギは育たない。それだけではない。下草が生えないから「保水力」もなくなる。土石の流出も多くなる。
 ブナやミズナラの「原生」に近い森が一番いいのだが、人手をかけて「森」を育てると、「人工物」の「砂防堰堤」で土石の流出を防ぐことより、自然を壊さず、経済的であることは疑いのない事実だろう。)

◇◇ 寄生火山のことを側火山という ◇◇

「寄生火山」とは、火山の主火口以外の場所での噴火活動で形成された山や小丘、または山体を伴わない爆裂火口や割れ目などの火山性地形のことである。
 成層火山はいつも山頂から噴火するとは限らないのである。地下でマグマが側方に移動して、山腹や山麓から噴火が始まって小型の火山体を作ることがある。これは、一度の噴火で形成される単成火山で、大きな山体を伴わないことが特徴である。
「地下でマグマが側方に移動」する、つまり、噴火をもたらすマグマは山頂噴火と共通なのである。これは「寄生」という概念にはあたらない。そこで、最近では「寄生火山」のことを「側火山」と呼ぶようである。
 岩木山の寄生(側)火山は、北面と西面に偏在している。北の鍋森山から反時計方向に西の黒森山まで一応つながりを見せるが、黒森山から南面のこの「小森山」までは空白なのだ。つまり、岳温泉から百沢間の県立公園「岩木高原」には「側火山」がないのである。これまた不思議なことだ。小森山と森山は孤立した「側火山」なのである。
 小森山の山頂には、しっかりとした三角点(標高323.7m)の標石がある。ただし、夏場は樹木や草に紛れてなかなか発見することが難しい。この時季が発見には最適である。

◇◇ 岩木山石切沢早春の森と堰堤工事の観察会の案内 (その3)◇◇

(2)小森山と小森山地区について

 「小森山」は岩木山の南麓に位置する標高323.7mの寄生(側)火山である。この場所は「小森山東部遺跡」が存在する縄文時代から人跡のあったところでもある。
 その「遺跡」は山頂から一段下がった広い平らな台地上にある。土偶頭部破片やイヌ形土製品、土偶脚部、中空土偶体部などが出土しているが、それらは、縄文晩期のものが中心である。

また、ここは戦後の昭和24年に東目屋村から開拓農業協同組合員10戸が「入植」した場所である。そして、「小森山の南面」を中心に、周囲の農業開拓が行われたのである。
 戦後の開拓は主に「引き揚げ者」が中心であったが、隣村でしかも、耕地面積の狭い「東目屋」から、農民が入植したということは極めて珍しい事例であろう。
 戦後の入植は、その共通項に「辛苦と辛酸」という歴史を背負っている。それは開墾と栽培に伴う「辛苦と辛酸」だけを指すのではない。
 戦後の日本は産業の中心を「工業」にシフトして、農業を見限ってきた。農業者から「農業で生産する喜びと誇り」を奪うような「補助金制度」と、農業以外の工業や土建・建設業者だけが潤うような「農業」事業を矢継ぎ早に「政府主導」で打ち出し、農民から生産意欲を削いでいった。水田の「減反政策」はまさに、その典型であり、愚策の見本のようなものであった。
 このような「猫の目」行政に振り回されたことも、まさに「辛苦と辛酸」以外の何物でもなかったのである。全国の何処の入植地でも、入植者全員が、現在も「その地で頑張っている」というところはない。完全に「廃集落」となっているところも多い。
 この農業労働による物理的な「辛酸」を今に残すものが、「姥人沢」を中心に多く見られるのだ。その多くは「水利」に関するものだ。それを目にした時、私は「機械」に頼らず「人力のみでの労働の辛さ」を思い、同時に、その「技術の高さ」に驚き、敬服した。
 もともと、「小森山」は小高い丘である。畑や田んぼに絶対必要な水の確保が難しい場所でもあるのだ。
 入植者たちは山中に「溜め池」を造り、そこに水を流入するための「石積(組)み水路」を造った。その水路の中には「沢を跨ぐ水路橋(石組の樋)」まであるのだ。
 さらに驚くことに、「滝ノ沢」から水を引くために、数キロに渡って人工の「流水路(溝)」まで、「手堀り」で造っているのである。これらは、今も「当時の名残」として存在している。
 ここまでして、頑張ったのだが、現在は数戸が残るのみの集落になってしまっている。
 さらに、近年、新しく開墾された小森山北面部分の「田んぼ」も減反政策の煽りを受けて、今や完全に「ススキ原」となってしまっているのだ。(明日に続く)

西法寺森周辺を滑降する人に / 石切沢早春の森と堰堤工事の観察会案内 (その2)

2010-04-29 05:18:11 | Weblog
 (今日の写真は、本会幹事で環境省自然公園指導員である工藤龍雄氏が24日に撮ったものである。 
 場所は岩木山の北面に聳える標高1288mの西法寺森の山頂部である。ここは鰺ヶ沢スキー場ゲレンデに降りて行くルートになっている。中央部に見える「ポール」は岩木山パトロール隊が設置した先導標識である。
 写っている人が「スキー」を履いていないということは、この「山頂部」に来る手前で「スキー」を外して背負って来たことを教えてくれる。パトロール隊が設置した標識に従うと一部区間は「スキー」を外さなければいけないのである。
 なぜ、パトロール隊がこの先導案内の標識を設置しているのか、言うまでもない。それは「スキーヤー」の安全確保のためだ。だから、少々登りがあって、スキーを担いで登るのは辛いかも知れないが、その「標識」の指示に従って欲しいのである。
 特にこの「西法寺森」の右岸には例年「雪庇」が出来るし、「亀裂」も出来る。「雪庇崩落や底雪崩の危険」が多い場所なのである。
 ところが、「登りを嫌い」ここを通らないで危険な雪庇の下部を滑降して行く者が大勢いるというのだ。

 写真には「亀裂」が写っている。人物の前である。幅は狭い。だが、「亀裂」の幅は余り問題にならない。問題にすべきはその深さと見えない深部の広さである。もしこれが2m以上の深さであり、その内部が広い空洞になっているとすれば、「要注意」である。
 対応の仕方については次の「西法寺森周辺を滑降する人に」を参考にして欲しい。) 

◇◇ 西法寺森周辺を滑降する人に ◇◇

・西法寺森頂部の亀裂について

 写真で見る限りは、亀裂は大きくはない。20cmほどだろう。だが、深さがあるということだ。氷河における「ヒドウンクレバス」は雪を被っていて見えないし、見えていても開口は小さい。だが、その奥は深くて広い。
 亀裂にもその傾向が見られるものだ。積雪の解け方次第では次第に亀裂は広がり、右山側に「破断」する恐れがある。
 積雪にゾンデ棒を差し込んで「厚さ」を測定して、1m以下であれば心配することはない。だが、それ以上の厚さであれば、破断して「崩落」する恐れがないわけではない。
 スキーヤーは出来るだけ、この「亀裂」に近づかないように注意すべきだし、関係者もスキーヤーにこのことを周知させる必要があるだろう。

・雪庇下部をルートにとるスキーヤーへの対応について

 実は私も4月11日に大鳴沢右岸稜線から、西法寺森側稜線に出来た雪庇が崩落して「底雪崩」となった痕跡(デブリ)を視認している。そのような危険な場所を、山頂から西法寺平を通り、大鳴沢の谷側に降りて、上部雪庇の真下を通るルートで西法寺森右岸から標高1100m付近にある高層湿原を通り、鰺ヶ沢スキー場ゲレンデ(頂部標高950m)に滑降する者が大勢いるとのことである。
 雪庇が存在する以上、崩落による「底雪崩」は発生し得る。雪庇の下部でなく、出来るだけ「雪庇の山側」という安全なルートを採ることが肝心なのだ。
 確かに「危険」なこのルートには「登る」という場所はない。スキーを着けたままや担いだりしながら登ることは辛くていやなことだろう。
 だが、「山スキー」というものが持つ特性としては「アップダウン」が、必ずあるということだ。一方的に下りだけの山は何処にもない。
 無い物ねだりをすることは不遜であり、横柄なことだろう。「楽なこと」だけを求めて、それで「雪崩」に巻き込まれてはたまったものではないだろう。関係機関も関係者もこの点と箇所に留意して指導すべきであろう。

◇◇ 岩木山石切沢早春の森と堰堤工事の観察会の案内 (その2)◇◇

(1)観察地の植生についての解説

 今季は積雪は少ないが雪解けは遅い。そのため「スプリングエフェメラルズ」の咲き出しは遅れている。例年ならば「カタクリ」で埋めつくされるミズナラ林も雪に覆われている。目につくのは「オオバクロモジの花芽と葉芽」である。だが、「ツノハシバミ」は花を咲かせている。
 雪消えがほぼ終わった場所には、「ホクロ」とか「ジイババ」と呼ばれる常緑の「名に春を負う、林縁に咲く稚き童…ラン」が蕾をつけていた。古名は「らに」で、万葉の時代には「蘭」で「シュンラン」を指していたのだ。間もなく咲き出すだろう。
花という花はまだという状態の中で、目につくのは「ヤナギ」である。大半は「バッコヤナギ」だが、所々に「コリヤナギ」も混じっている。そういうわけであるから「ヤナギ」についての観察と学習もしたいところである。
 柳は「無花被花」と分類されている。雌雄異株であるが、外見的には雄花の花序も雌花の花序もさほど変わらないので、その見分けはなかなか出来ない。雄花は雄しべが数本、雌花は雌しべがあるだけで、花弁はない。代わりに小さい苞や腺体というものがあり、これらに綿毛を生じて、穂全体が綿毛に包まれたように見えるものが多い。
 小さい花が集まって穂になり、枯れるときには穂全体がぽろりと落ちる。花弁はない。代わりに、小さい苞(ほう)や腺体というものがあって綿毛を生む。全く「花らしくない花」である。これらのことを「裸花」ともいう。
 だから、通常「ネコヤナギ」と呼ばれる段階では「雄花」と「雌花」の区別は「外見上」は出来ない。だが、それぞれの「蘂(しべ)」が出て来ると、その違いが分かるようになる。雄花の方は、雄しべに赤い「葯(やく)」がついていて先端が割れて黄色の花粉を出し、雌花には、黄色の雌しべが沢山あり、大量の綿毛を飛び散らすのである。
 花の分類には、他に「完全花」がある。これは「萼(がく)、花弁、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)」が全部そろっている花である。これに対する分類が、「不完全花」であり、「萼、花弁、雌蕊、雄蕊」の1つ以上が欠けている花のことだ。スプリングエフェメラルズと呼ばれる花々にはこのタイプが多いのである。
 なお、「ヤナギ」いう名称の由来は、この木や枝で「矢」を造ったことから、「矢の木」の転であろうと言われているが不詳である。(明日に続く)

今季(今春)の積雪事情 / 石切沢観察会の案内

2010-04-28 04:47:08 | Weblog
 (今日の写真は、まだ開いていない「カタクリ」だ。ほぼ「平年」の5月上旬には、スキー場下端横から入る百沢登山道に足を踏み入れるとカタクリに出会うことが出来るのだ。 「七曲り」標識手前のジグザグ登り辺りから増えだして、標識付近からは群生をなして、それが「姥石」下部まで続くのである。
 その風情はまさに壮観な美しさであり、「スプリングエフェメラルズ」と呼ばれるものの命の強さでもあろう。
 だが、4月26日現在、「七曲り」のジグザグ登りも積雪で覆われ、登山道も雪の下であった。積雪そのものは例年、または昨年よりもうんと少ないのである。だが、積雪は余り消えないであるのだ。
 「姥石」では「姥石と呼ばれる大岩」は積雪の下で見えないが、氷柱は頭の部分をわずかに出していたので、恐らく2m弱であろう。
百沢登山道も「七曲り」からずっと積雪があるのである。百沢登山道の「七曲り」から上部左岸には高さが1.5mほどの土塁が数百mに渡って続いている。何の目的で、いつ頃造られた土塁なのかは分からないが今でもしっかりと残っている。
 低木の枝葉が覆い隠すので「夏山」登山者の目に触れることは先ずないだろう。だから、春先のカタクリが咲き出す時季か秋遅く木々が葉を落としてしまった時季でないと、なかなか確認することが出来ないのだ。
 その土塁の頂部は雪解けが早い。すでに地肌が出ている。そのようなところの「カタクリ」は今日の写真のように、花茎を伸ばし、重そうに「蕾」を擡(もた)げているのである。
 次の話は又聞きのことだ。最近、あるカメラ雑誌の投稿欄に「自動車から降りて歩いて直ぐのところ…カタクリの群生地」という内容の見出しで、この登山道沿いのカタクリを紹介した人がいるそうだ。
 目敏くそれを読んだ人たちが「わんさ」とやって来るかも知れない。その前に「観るルール」や「楽しむためのルール」作りをしておかないと大変なことになるだろう。登山道を管理しているのは弘前市…だ。この登山道沿いの「カタクリ」のことはこれまで何回もこのブログでも書いている。行政の管理の仕方についても「言及」してきた。
 弘前市が、このブログを読んで、速やかに対応してくれることを望む。私も「環境省自然公園指導員」の立場で、「やって来る人たちの観察の仕方」の指導と監視には出かけるつもりでいる。)

◇◇今季(今春)の積雪事情◇◇

 今年の冬も12月から3月まで10回近く岩木山に出かけた。4月を入れると10数回となる。そして、何よりも感じたのは、その雪の少なさである。
 大寒のさなかにも登った。その前々日からは雨降り、「里は雨でも岩木山は雪が降る」というのが定説だろう。だが、その大寒にもかかわらず雨が降り、そして、岩木山では標高1200m以上の高山帯でも雨が降ったのである。
 降った雨は積雪を解かし、流れ下り、雪面を穿って溝を掘り、まるで「雪面の沢や谷」のような景観を生み出したのだ。
 それが大きいものでは「遠目」に深い亀裂や「沢」のように見えたものである。雪になるべきものが「雨」、そして、降雪の全体量が極端に少ない。その上、暖気である。季節風の吹き出しも弱かった。
 だから、「降雪寡少」と相まって「大きな雪庇」は出来なかった。「雪庇」がないわけではないが、あるとしても、それは「雪庇」の赤ちゃんだった。
 季節風は「風向」が季節をとおして同じである。岩木山の場合は「西または北西」から吹き込む。だが、今季は、その風向にも異変があった。回数にしては多くはないが「南東や南西」から吹き込むものもあった。これが、既存の小さな「雪庇」をナイフリッジに変えたのだ。 平年ならば、3月に入ると急な斜面のいたるところに「大小」の亀裂「雪面の割れ目」が出来るのだが、今季はほぼ何処にもそれが見えないくらいに少ないのだ。だが、例年どおり亀裂の出来ている場所がある。それは、「西法寺森」の山頂部である。西法寺森から大鳴沢に落ち込んでいる稜線には例年雪庇が出来て、それが崩落して「底雪崩」を起こしているが4月11日には対岸から視認することが出来た。十分注意する必要があろう。。
 今季は積雪が少なくて、その加重と張力のバランスを崩す力がかからないので「出来ない」のである。これだと、スキーヤーが亀裂に填る心配はない。何よりも「亀裂」から崩落が始まり、底雪崩を起こすという恐れもない。スキーヤーたちにとっては願ってもないことだろう。だが、喜んでばかりはいられない。積雪が少ないということは、総じて「滑る」場所が限定されて、少ないということだ。積雪の少なさはスキーヤーにとって雪崩以上に致命的なものだろう。
 登山者にとっても積雪寡少は「難題的」な側面を持っていた。積雪期は夏場では登れないような地形の登攀や下降を可能にしてくれる。だが、今季の積雪はまるで、「夏場」なみの地形そのままの状態を保持させたのである。だから、「登攀や下降」にはかなりの無理があった。
 積雪寡少だから、雪解けは早いだろうと予測した。ところが、「北極振動」の影響で「寒気」が全国を覆い、寒い日が続いて「雪解け」は進まない。暖かくならない。
 桜の開花も遅れた。だが、桜の開花は「寒い」から遅れただけではない。「大寒」の時の「寒さ」が桜の「休眠打破」を促すのだが、「大寒」中に雨降りで、暖かかったから桜はずっと「休眠」を続けたのである。それも遅れた理由の1つである。

◇◇ 岩木山石切沢早春の森と堰堤工事の観察会の案内 (その1)◇◇

 「青森県自然観察指導員連絡会(ウォッチング青森)」と「岩木山を考える会」共催で5月2日(日)に実施する。

※目的は「スプリングエフェメラルズを楽しみながら、現在工事が進められている砂防ダム工事現場の現状を視察し自然保護と災害の問題を考え、小森山開拓について知る」となっている。

※開催時間は10時~12時までを予定しているが、現場の諸事情によって1時間程度の延長もある。
※集合場所は「百沢スキー場駐車場」、9時50分までに集合。

※観察コースは、駐車場から移動して、「国民宿舎からのT字を右折し林道に入る…古い林道を西にたどる…姥人沢にいたる…堰堤敷設地に到着し、そこから小森山沿いの道路を通り駐車場所に向かう」となっている。

※持ち物は「雨具、手袋、長靴または登山靴」「昼食・おやつ」「双眼鏡・むしめがね」など。なお、保険料として200円徴収する。
※参加申し込みは30日締め切りで事務局の三浦まで
                                  (明日はこの詳細について掲載する)

20年近く履いてきた靴の終焉(その3)/ 水無沢両尾根登降山行 最終回(16 )

2010-04-27 05:19:55 | Weblog
 (今日の写真は、「Meindl」社製の厳冬期でも高所でも履ける靴「マッターホーン EX GTX」だ。スパッツを着けているので、その「全体像」は見えない。「履き初め」である。
 雪が腐っているので「ワカン」を着けて登った。昼飯を食べている時に、腰を降ろした脚を伸ばした状態で撮ったものだ。
 麓では「つぼ足」だったが、「踏み抜き」がなければ、足取りそのものは「夏山」なみだった。最初は「軽い」と思ったが、次第にその思いは霞んでしまった。
 だが、「フィット」感は素晴らしく、ソールの制動もビシビシと効いた。「足」の横揺れも縦揺れもなく、前後のぶれもない。「いい靴だなあ」と思った。
 …昨日はいい天気だった。その天気に誘われて、岩木山の百沢登山道尾根を「焼止り小屋」まで行って帰ってきた。
 積雪は少ないが、時季的な「消え方」としては遅い。「姥石」の標柱は微かに頭を出している。焼止り小屋は半分以上は積雪の上に姿を出している。ちょっとだけ雪を掘り起こすと「下」の入り口からの出入りは可能だ。)

◇◇20年近く履いてきた靴の終焉(その3) ◇◇ 
(承前)
 …しかし、私は新しい「厳冬・高所登山靴」を買う決心をしたのである。今は春山シーズンだ。「冬山」という概念からはシーズンオフなので、「冬山用の靴」はいくら価格が下落している。買い時でもある。
 この「Meindl」社製のハイエンド高所靴「マッターホーン EX GTX」の正価は66.150 円 (税込)だ。決して安い買い物ではない。だが、正価よりも10.000円ほど安く買うことが出来た。
 「HanWag」社製の「高所登山靴」は重かった。片足1200gである。ワカンを着けたり、スキーを履いたりでは、その重量は数キロになってしまう。老体の脚にかかる加重にしては遙かにオーバーの域にあった。
 新しい靴は900gを切っている。軽いことは魅力だ。だが、現在の私にとって、それは「魅力」を越えて絶対の必要条件である。手元に届いたこの靴を手にして、実際履いて家の中を歩いてみて、「ああ、これだったら後数年は冬山に行けそうだ」と思ったのである。
 軽いだけでなく、私の足に完全に「フィット」しているのである。それはそうだろう。何だって、「フィット感」抜群で、しかも軽く、その上、安定性のある「マカルー」や「バーマプロMFS」の兄貴分の靴である。悪いわけがないのだ。
 家の中を「履いて」歩いて満足するわけがない。直ぐにでも、積雪の上を「登り降り」てみたかった。
 だが、この靴を手にしてから雨天が続き、ようやく晴れた日曜日の25日はNHKの講座で出かけることは出来なかった。私はこの靴に対する「信頼性」を確認したくてしようがなかったのだ。
 山の道具の「善し悪し」は、実際に山に出かけて、それを使ってみなければ分からないものだ。「見た目」での判断はするべきではない。
 「ザック」は自分が背負う分量の「物」を販売店に持ち込んで、お目当ての「ザック」を見つけたら、そのザックに持ち込んだ「物」を詰めて、背負って、歩いて、支障がなければ購入するくらいのことをするべきである。この点では、その選択肢の少ない「地方」在住者は恵まれていない。
 ネットによる販売が盛んだが、これは「実物に触ることをも拒否する」横暴な販売法である。「便利」という名目の中で、買う人は「手で触って、実物を持って選択する」という自分の権利を奪われている。
 5月2日には石切沢周辺で自然観察会を行うことにしている。その下見にも出かけなければいけなかった。その序でもあった。バスで岩木荘まで行き、登り始めたのが9時過ぎだった。

◇◇ 水無沢両尾根登降山行…最終回(16) ◇◇
(承前)
  …まず、初心者が同行しているからには「短時間」ということは不可能である。右側、すなわち、大黒沢寄りに降りるしかないのだ。「短い距離」というと、斜面をトラバースして細い岩稜帯の下部に出ることがベターだ。だが、急斜面のトラバースはこれまた、初心者にとっては難しいことである。
 この場所から「雪崩」を避けて脱出する極めて一般的な方法は、「雪面に横方向の踏み跡を付けないように、真っ直ぐに沢の底部に降りて、そこからこの稜線の鞍部に上がる」ことであった。
 これには「猛スピード」の下降が必要であった。それでも、時間はかかるだろう。そして、「距離」もすごく長くなるのだ。「相棒」さんは安全策として「右側に降りる」ことを言っているのだろうが、その「登山のセオリー」である「一般論」を実行出来ない事情があったのだ。
 それがパーティとして「猛スピード」では降りることが出来ないということだったのである。
 とはいえ、右側を降りるしかない。ゆっくりと降りるしかない。出来るだけ距離を短くするように降りるしかない。これが、私に与えられた「ルート」造りの条件だった。
 積雪が少ないことが幸いした。低木ダケカンバの細い枝が雪面に出ている。私は小刻みにそれを辿りながら、小さな「ジグザグ」を繰り返して、沢の底部には降りることをしないで、「迂回」する形をとって、広い「岩稜帯」の下部に向かったのだ。
 ようやく、広い「岩稜帯」の下部に到着した。これで一安心だ。あとはこの稜線を降りて行けばいいだけだ。私たちは一息入れた。
 稜線の左右にはブナの森が見えてきた。そして、その梢はかなりの「赤さ」になっていた。ブナの芽出しも近いのである。ブナの森の春は、まずこの「梢」を「赤く染める」ことから始まり、次いで「根開き」へと進んでいくのだ。
 だが、「一難去ってまた一難」とはよく言ったものだ。積雪が「平年なみ」だったら、「一難去ってもう安心」というところなのだろうが、降りて行く広めの稜線が、進行方向の先端で次第に細くなり、途切れているのであった。
 少し不安になった。そして、そこまで行って驚いた。離れた場所からは見えないが、左右をブナの樹木で支えられてはいるものの、急峻で細い「ナイフリッジ」が100mほどに渡って続いていたのである。これも、少雪のなせる業、暖冬のなせる業だろう。私はこれまで、「雪庇」上の登降をしたことはあるが、この場所がこれほどの「ナイフリッジ」になっていることを経験してはいない。
 20mほど下部はブナが生えていて、誤って転落しても「停まる」ことは可能だろうが、幹に衝突したら、打撲どころではない。骨折などはあり得るだろう。  
後方で、Kさんの「あっ、これナイフリッジですよね」という声が聞こえた。3月14日、追子森山頂から西法寺森に向かう途中、白沢源頭の先端に出来ていた「ナイフリッジ」を通過したのだ。その時にこのような形状のものを「ナイフリッジ」と呼ぶということを学習したのだった。
 それをしっかりと理解していたのである。私はまた、嬉しくなった。いつの間にかブナ林帯が途切れ、ミズナラ林に変わっていた。後はこのミズナラと雑木の森を降りればいいだけであった。
 そして、その数十分後、私たちは尾根の左岸に水無沢本流が見えるY字型の末端部に出ていた。(この稿は今日で終わります)

20年近く履いてきた靴の終焉(その2)/ 水無沢両尾根登降山行 (15 )

2010-04-26 04:12:26 | Weblog
 (今日の写真は水無沢左岸の下流にある「祠」である。下流と言っても人家の近くではない。弥生登山道入り口1合目辺りから分かれて、距離にして数百mほど来たところにある。
 水があり、大きな岩や石があるところ、しかも、その大岩が大地に対して「庇」のように覆い、突き出している場所には「祠」が結構あるものだ。沢の水は「水神」さま、大きな岩は神が降臨した「岩盤(いわくら)」である。
 「祠」は人が造ったものだ。だから、補修、つまり、メンテナンスをし続けないと壊れてしまう。そして最後は「朽ち果てる」。この「祠」もそのような運命にあることは明らかだ。
 岩木山を歩いていると、このような「名称不詳」の「祠」に出会うことが多い。そんな時には、先ず、その祠が建立された由来を考える。そして、建てた人の「信仰心情」と「岩木山に対する思い」を思う。
 その後に来る感慨は「ああ、何とかして残してあげたいなあ」ということである。その「心情」も「思い」も、建てた人の「個人」に関わることかも知れないが、これらは、まとめて言うと「岩木山信仰」という精神文化、つまり、岩木山に関わる文化遺産ではないのか。
 何とか、朽ち果てる前に、「残してあげたい」のである。岩木山に関わる「行政」が、その役割を果たしてくれることを切望している。)

◇◇20年近く履いてきた靴の終焉(その2) ◇◇ 
(承前)

 …確かに、「ビブラム底」を新しくすると「スリップ」の度合いが極端に少なくなるので「登下行」は楽である。何といっても、滑らないという安心感は絶大である。
 「夏場は同じ靴を2足」という私の「哲学」は、その後「同じメーカーの靴」という風に変わった。それは、この「マカルー」はすでに製造中止の製品になっていたからである。 だが、この後継のものがないわけではない。それは「YARI JAPAN」という製品名で呼ばれているものである。だが、後継はあくまでも後継であり、同一物ではない。
 そこで、私は同じ「Meindl」社製の「バーマプロMFS」を購入し、古い「マカルー」は「相棒」さん同様に靴底の張り替えに出した。
 「バーマプロMFS」は、軽くて履きやすい皮革製の靴だ。気に入って履いている。だが、「ワンタッチアイゼン」は使えない。もちろん、スキーも使用出来ない。これはもっぱら、「観察会」とか低山歩きに使用している。登山靴の機能には「足の保護」もあるのである。遊びの少ないがっちりとした「皮革製」の靴には安心感があるものだ。これで、どのような藪だろうが、泥濘だろうが、沢だろうが、草付きの急斜面だろうが、ところ構わず歩き回っている。だから、新しい割には「皮革」部分にかなりのかすり傷が出来ているのだ。それを覆い隠す意味もあって、時々、ミンクオイルを塗っているのだ。
 そして、岩稜帯や雪渓を登る必要のある登山の時には、愛用の「マカルー」を履くことにしているのである。

「HanWag」社製の「厳冬・高所登山靴」は経年変化どおりに「履くこと」に耐えない状態になった。殆ど「雪上」しか歩かないので「ビブラム底」は摩耗はしていない。だが、その靴底も劣化して、ボロリと欠けるような状態になっている。もう完全に履くことは不可能だ。
 だが、これからも、岩木山の「冬山登山」を続けようと思えば、「厳冬期」の靴は必要だ。しかし、私の68歳という年齢から、実際は後何年間「冬山登山」が出来るというのだ。この「靴」が壊れてしまったのは「もう冬山登山を止めよ」といわれていることではないのか、などという思いが脳裏を駆け巡る。(明日に続く)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行…(15) ◇◇
(承前)

 …とにかくその狭くて急峻な岩稜は「真っ直ぐ」には下降出来ない状態にあった。それでは、その左右の「縁」沿いにルートを探して降りることが可能かというと、先ず、左は完全に無理だった。
 「雪庇」そのものがないので、その張り出しが崩落することはないが、直下を覗くと「垂直」に見えるような深い雪壁が続いている。まるで、谷底が見えないのである。
 右側は南に位置している斜面で、大黒沢に落ち込んでいる。私はこれまで何回もこの岩稜帯を通っている。だが、この大黒沢に落ち込んでいる南側の斜面の登下行をしたことはない。「したことがない」というよりは、それを避けてきたのである。
 「南に開いた沢の上部は降りない、登らない」が冬山登山の鉄則である。私はそれを頑なに守ってきた。「南に開いた沢の上部」は、天気のいい日の午後は、特別危険なのだ。それは、「雪崩」が発生しやすいからである。陽光浴びて、暖気を受け積雪は「緩む」のだ。そして、それが雪崩を生むのである。
 実際、ここでは雪崩の残滓である「デブリ」を何回も見ている。私が作成した1985年以降に岩木山で起きた雪崩の発生場所を記した「雪崩発生マップ」にも、その記載のある場所なのである。
 だが、その右側の「危険」な斜面を降りることが、一番「危険」でないルートであると判断せざるを得なかったのだ。
 その日の山行リーダーは「相棒」さんであった。ラストを務めている「相棒」さんが、盛んに「右に降りたらどうですか」と言う。
 このような危険な場所の通過に2つの条件を満足させる必要がある。それは「より短い距離を、短時間で」ということだ。(明日に続く)

20年近く履いてきた靴の終焉(その1) / 水無沢両尾根登降山行 (14)

2010-04-25 04:51:55 | Weblog
 (今日の写真は、私が履いている厳冬期の登山靴だ。正しくは右側のものが履いている靴で、左のものはこれから履こうとする新品の靴、ドイツ「Meindl」社製のハイエンド高所靴「マッターホーン EX GTX」である。どちらも、「皮革製」の「高所登山用」の靴で、ドイツのメーカーのものである。
 右側は「HanWag」というメーカー製のものだ。これは1988年に「パミール」の7500m峰に出かけた翌年か翌々年に購入したものである。非常に高額の靴だった。これ1足で「軽登山靴」が4足ぐらいは買えたはずである。
 かれこれ、20年近く「履いて」来たことになる。だが、これもその使命を果たし終えた。靴底の摩耗と損傷ならば、張り替えて使い続けることが可能だが、皮革の部分と靴底部分と成体型をなしている「合成ゴム素材」か、または「プラスチック素材」の部位に細かい割れ目が多数出来て、いつパラパラと剥離するか分からないほどになっているのである。
 加えて、皮革部分もあちこちで「裂け」と「破れ」部分が目立ってきたのである。前位置には余り、その「破れや裂け」は目立たないが、後部には至る所に小さなそれらがあり、大きく裂けた部位には「テープ」を貼って補強しているほどなのである。青い部分がそれだ。
 これは、厳冬期の靴だ。この時期に履く靴は「防寒」という点では「完全無欠」であることが常に要求されるものだ。この状態では、もはや、厳冬期には履くことは出来ない。
 それにしても重い靴である。片足で大体1200gもある。老体にこの重い靴は堪える。それに比べると新しい「マッターホーン EX GTX」は900gないのである。老人にとっては有り難いことだ。)

◇◇20年近く履いてきた靴の終焉(その1) ◇◇ 

 この「HanWag」社というメーカー製のものは、厳冬期(積雪期)専用の靴である。だから、ビブラム底は殆ど摩耗していない。私は靴を、これを含めてある時期には5足持っていた。
 その1つが「パミール7500m峰」に出かけた時に履いた「プラスチック素材」の高所靴である。これは、インナーブーツと外側のプラスチックブーツがセパレートになっているタイプで、テントの中では皮革製の「インナーブーツ」のままで過ごせるという利点があったし、外側の靴は頑丈で「アイゼン」の装着も難なく出来るというものであり、非常に「履きやすかった」が、上に「超」が付くくらいに「重かった」のである。
 その上、「岩木山の厳冬期」に履くには少々「重装備すぎ」たし、何時、アウターのプラスチック靴が経年変化で「バリッ」と割れてしまうかも知れないという懸念があったので、それ以降は履くことはなかった。これは、予想が的中して、十数年前に「バリッ、パリッ」と割れてしまい、今はない。
 もう1足は「HanWag」社製の「厳冬期」を挟む前後の時季に履いていた皮革製の靴だ。これは、「厳冬期を挟む前後」に履いていたものだが、7000mを越える高所登山には使えないが、十分「厳冬期」に履くことの出来るものだった。そして、私が履いている「HanWag」社製の靴よりもうんと軽量であった。
 この靴は現在「相棒」さんが履いているのだ。何という偶然か、「相棒」さんと私とは「足」の大きさが同じなのだ。その上、「形状」までが類似していて、「扁平」さに欠けている。だから、日本人の足形に馴染まないと言われている「ヨーロッパ」製の靴に馴染むのである。これは、初冬と残雪期に履いていたのである。
 無雪期、つまり、夏場は山行回数が多い。靴底や皮革部分の損傷や摩耗が激しいので、同じ靴を2足持っていて、それを交互に履き替えて使っている。今もこの使い方は同じだ。
 その頃は「Meindl(マインドル)」社製の「マカルー」という皮革製の靴だった。2年か3年に1回は「摩耗したビブラム底」を張り替えていたものである。この1足も、現在は「相棒」さんが履いている。昨年、「ビブラム底」を張り替えて、「新品同様になった」と喜んでいた。
 この「マカルー」は構造上、スキーもはけるし、「ワンタッチアイゼン」も装着が可能である。だから、「夏山」での雪渓登りにも対応出来るのである。
 昨年、岩木山の大沢雪渓を、「相棒」さんと登った時には、2人とも、この「マカルー」を履いていたのである。(明日に続く)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行…(14) ◇◇
(承前)

 …Kさんが言う「足を踏み出すとビシッと停まる」という「アイゼン」の機能を味わう場面は間もなくなくなった。
 積雪が少なくて、例年並みならば「出ていないはず」の狭い岩稜が、その大半を「累々」と見せているのだ。しかも、その岩の放射熱で、岩周辺は雪解けが進み、大きく「穴」を開けて、私たちが落ち込むことを待っているかのようだった。
 「アイゼン」の爪が摩耗する心配もあったが、何よりも「岩稜の上」をアイゼンで歩くことは困難である。だが、歩けないわけではない。
 私が行った高所登山では、「アイゼン」を着けたまで「岩の上」を歩いたし、「出っ歯の2本爪」を断崖絶壁の岩の小さな出っ張りにかけながら横に数10mも移動したこともある。だが、このようなことは「しないで済ませる」ことに越したことはない。
 2人は「アイゼン」を外して、「ワカン」に履き替えた。そして、Kさんは昨日の写真のようにザックに付けて背負ったのである。
 「一難去ってまた一難」とはまさにこのことを言うのであろう。この細い岩稜帯は下端でほぼ50度近くの急勾配をなしているのだ。積雪が多ければ、それによって覆われていて、滑落さえ防ぐことが出来れば「下降」は可能な場所である。だが、雪が少ない。その少ない雪も「腐って」いて、ブスブスと崩落する。
 まかり間違うと、その腐った雪と一緒に私たちが崩落していきそうなのである。(明日に続く)

水無沢両尾根登降山行 (13 )

2010-04-24 05:14:12 | Weblog
  (今日の写真は、「相棒」さんが撮ったものだ。先頭を行くのが私だから、このような写真は私には絶対に撮ることは出来ない。だから私にとっては実に貴重な写真となる。「相棒」さんとの山行が続いているここ3、4年は、このような写真を「相棒」さんが撮ってくれるのでいくらかはある。だが、それまではほぼ「単独山行」だったので、「自分」を写したものは皆無に等しかった。
 どうしても「そこに自分はいた」という「証明写真」を撮りたければ、大方の人は「三脚」を背負い、自動シャッター機能を使い「撮る」のだろう。
 20年近くもカメラに親しみ、山行には必ず持って行くのだから、一応私も「三脚」は2台持っている。1つは大型で重量級だ。もう1つは背丈の低い花などを撮る時に使えばいいかと思い用意した小さな小さな、しかも「雲台」が自在に動くというものだ。
 購入した当初は1回か2回ほど背負っていったが、その後は、「三脚」を使ったこともないし、背負っていったこともない。
 それは、「三脚」というものは「ザック」に着けた時、実に登山行動の「邪魔」になるということと、草花の咲く場所や草花そのものを三本の脚が傷つけるということを知ったからである。
 前者は「整備された登山道」を登り降りている者にとっては、体験することはないだろうが、少なくとも「踏み跡」や「道なき道」を登降する者にとって、ザックの外側に着けた「三脚」は藪や枝、岩角などの引っかかって、「邪魔」をする代物なのである。
 登山者の中には、この「三脚」や他の異物を雑然とザックに括り付けて、きわめて普通に整備された登山道を登降する者もいる。そのような「背負い方」だと、いくら「整備」されている登山道でも「引っかかる枝」がある。それを捉えて「この登山道は整備されていない。どうなっているのだ」と喚くのである。
 後者はミチノクコザクラの開花期に多い。雪渓を伝い、大勢の「カメラマン(?)」がミチノクコザクラの咲いている場所に集まる。ミチノクコザクラは「崩落地」など、開けた場所に咲くのだが、咲いている場所の「表土」は非常に「薄い」のである。そこに入って「靴」で踏みつけ、その上、「三つ」の「脚」でかき回す。何だって三脚を使うということは1人で「5つ脚で自然に攪乱を与える」ことになるのである。
 その開花期には数十人の「カメラマン(?)」がそこに入る。仮に50人とすれば、250もの「脚」が自然を破壊するのである。表土はどんどんと剥がれ、数年後には「そこ」からミチノクコザクラは消えてしまう。
 最近は「カメラマン(?)」が実に多い。携帯電話に「カメラ」機能がついたことがそれに拍車をかけている。まるで、国民すべてが「カメラマン」である。
 「?」の意味は、そのことであると同時に、「カメラを持ち歩くだけの人」、「写すだけで満足する人」という意味である。
 そういう私も、重量1kgに近いカメラを「頸椎損傷」という恐怖を抱きながらも、いつも首に提げて行動している。その「形態」は同じだ。しかし、「自然に対する配慮」と「撮る目的」は明らかに違っていると自負している。

 写真の説明を少しだけしよう。Kさんのザックには「アイゼン」が付いている。外してワカンに履き替えた後である。「ある危険」な場所を過ぎて、もう一ヶ所の危険な場所に向かうところだ。きれいな雪稜が続いている。
 ブナもかなり「赤く」なってきている。この写真は、次の稿の記事とダブるので、併せて、明日も読んでいただきたい。)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行…(13) ◇◇
(承前)

 …「アイゼン」を装着して「アンザイレン」で行動する時は、「アイゼン」の爪をザイルに引っかけないことと、その「爪」で「ザイル」を踏みつけないということが重要になる。
 前者はそのことで、足が取られ、ザイルに「足」が絡み、転倒するからである。「アイゼン」を必要とする場所での「転倒」は即「氷の斜面」を猛スピードで滑落していくことを意味する。死という「奈落の底に向かって」のスライデングだ。ザイルに繋がった同行者が「ビレイ(確保)」してくれるかも知れないが、そのことを「当てにして」いてはいけない。「自助努力」の世界である。同行者も「自己確保」に夢中なのだという認識が大事だ。
 後者は、命綱である「ザイル」を「アイゼン」の爪で傷つけることになる。「爪」は鋭利な刃物と同じだ。傷つけることは「切断・破断」という最悪な状態を引き起こす。「滑落」した者を「ビレイ」しようとした時に、そこから「切れてしまう」可能性があるのだ。
 これは、同行者の安全をも脅かすことなのである。幸い、誰も、「引っかけ」や「踏みつけ」をすることはなかったのである。

 「アイゼン」を着けたKさんは「足を踏み出すとビシッと停まる」と言った。これはまさに、「アイゼン」という道具の真骨頂である。「ビシッと停まる」ことが、「機能」なのだ。
 だが、「道具」というものには、同時に2つの機能を果たすということを求めることは難しいのである。足、つまり「靴」をそこに「停める」ことは出来ても、上体の慣性、つまり、降りて行こうとする上体の加速度的なエネルギーを消滅させることは出来ないのである。「ビシッと停め」て「固定」しているのは「アイゼン」の爪だが、「前に行こうとする慣性」を停止させるものは、「背筋」や「腹筋」、それに「脚の筋肉」などである。
 これらの「筋力」が脆弱な者は、「ビシッと停まった」瞬間に、足を掬われて前のめりになり、頭から転倒する。これが、アイゼンの怖いところである。
 私は「パーミル」で5km以上の氷の急斜面を「アイゼン」を着けて降りたことがあるが、降りきった時には「全身の筋肉がずたずた」になったような疲労感に襲われたものである。
 恐らく、Kさんは「短い距離」だったこと、雪面がある程度柔らかく、それが「慣性」の力を緩和してくれたことによって、そのような疲労感は持たずに済んだはずである。(明日に続く)

水無沢両尾根登降山行(12)

2010-04-23 05:20:25 | Weblog
 (今日の写真はコメツガだ。樹齢が何年なのかは想像もつかない。標高1400m付近の岩稜帯、しかもその先端部に生えているのである。
 その気象条件を思う。先ずは風だ。この樹の姿からここを吹く風の向きが一定であることが分かる。つまり、写真左側から吹き込んでくるのだ。西から季節風、とりわけ、厳冬期は強い。風速50mは楽に越える。
 積雪もこの樹姿が埋没してしまうほど多い。そのために、天を伺うことは出来ない。否応なしに「陳(ひ)ねこび」た姿になってしまうのだ。積雪は11月に始まり、5月の下旬まである。1年の内で雪がないという時期はわずかに5ヶ月である。
 その上、「標高1400m」という高さだから気温が低い。11月から5月までは氷点下の気温に曝されることが多いだろう。雪にすっぽりと覆われている時季が、コメツガにとってはもっとも安住の出来る時かも知れない。雪の中は気温が大体0℃に保たれているからだ。
 そのような中での成長は遅い。年輪は1mm以下である。いや、1mmの半分か、あるいは5分の1、10分の1かも知れない。直径1cmの枝の年輪が30~50ということも珍しくない。1cm太くなるのに50年だ。気が遠くなるような長い時間をかけて、それでも成長を続けるのだ。
 手前には「枯れた」ものが見える。雪面に見える部分は結構太い。この雪の下に太い幹が横たわっているのだ。これは、寿命が来て枯れ始めたものだ。奥にある「コメツガ」に命を譲ったのである。「コメツガ」の更新だ。しっかりと「バックボーン」を遺して、世代交代をしたのである。恐らく、年輪は数千を数えるはずである。
 そして、この「枯れたコメツガ」も「生物多様性」を担っていくのである。)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(12) ◇◇
(承前)

  …「相棒」さんが背負っているもう1つの「アイゼン」は軽量の「プレス打ち抜き」タイプのもので、10本爪だ。つまり、前爪がない、出っ歯のないものである。この「アイゼン」は大量生産が可能だ。だから、「鍛造焼き入れ」タイプに比べると遙かに安く、値段は3分の1程度であった。もちろん、着脱が「ワンタッチ」式ではなく、ベルトで靴に固定するものである。かれこれ、40数年前の「化石」のような代物であった。これはもっぱら、岩木山で使った。ただし、何回かは厳冬の「岩手山」、残雪期の「岩手山」でも使用した。

 「アイゼン」というものは、何しろ「鋭利な爪」を持つ道具なので持ち運びが難しいのだ。ザックに収納する際には、他の同梱物にその爪が刺さらないように気をつけなければいけない。これがとても、厄介なことなのである。そのような「厄介」さを知り、ザックのパッキング仕方の習熟も「初心者」には必要なことなのである。だから、私は当然、「アイゼン」をKさんは、自分のザックに入れて、背負っているものと思っていたのである。
 
 2つの「アイゼン」を「相棒」さんが背負っているということは知らなかったが、「アイゼン」を持って来ていることは知っていた。私も当然背負っている。
 背負って来ているからには、使ってみたいだろうと思って、「アイゼン使ってみたら」と促したのは私である。先ずは、「ものは試し」である。
 実は、雪質の状態から「アイゼン」の必要性はそれほどなかったのだ。私は、だから「アイゼン」を装着しなかった。
 登りの時には「ワカン」を着けて、キックステップを繰り返し、その「爪」を効かせ、3人はアンザイレン(ザイルで結びあう)をしていた。その目的は「自己確保と互いの滑落を防ぐ」ことではあったが、その時、私はKさんに、その「ザイル」の操作、ザイル運びについて知ってもらいたかったのだ。
 その「基本」は前後の間隔を常に一定にし、前後に重さや張力の負担をかけないことである。加えて、「ザイル」をワカンに引っかけたり、踏まないことである。これが守られて初めて、「アイゼン」の使用が可能になるのである。Kさんは、それらを実践の中で十分に守ってくれた。だから、「アイゼン使ってみたら」という促しの言葉が出たのである。

 「ベルト締め付け式」ということもあって、装着には結構時間がかかった。私は、登山における机上での「理論」よりも、実際、山に入って「実践から学ぶ」ことを重視する人間である。理論よりも体で覚えることを大切にしている。
 だが、このような私でも、許せないことはある。それは、山の道具を「その場に来て初めて手にする、使う」ということである。
 もしも、「その場」でその道具が使えなければ「進退窮まる」ことになるわけである。だから、せめて「道具」は里にいる時に「一度」でいいから、「着けて」みるくらいは、しておかなければいけないのだ。 
 
「アイゼン」装着完了、外した「ワカン」をザックに着けて背負い直して、アンザイレンのままで、出発下降である。
 私の後ろからKさんの感極まった声が聴こえる。Kさんにとっては初体験の「アイゼン」歩行と下降である。
 …その声にいう。「(ワカンと)全然違う」「びしびし効く」云々だ。嬉しくなった。よかったとも思った。
 違いが分かるということは、理解したということである。しかも、それは、体で理解しているということでもある。
 そして、次の声にいう。「足を踏み出すとビシッと停まる」である。これはアイゼンの爪が雪をがっちりと噛むからである。Kさんは「鍛造焼き入れ」の本格派を履いていたから尚更だろう。(明日に続く)

水無沢両尾根登降山行(11)

2010-04-22 05:23:13 | Weblog
 (今日の写真は、水無沢右岸稜線の上部から山麓方向を撮ったものだ。少し解説をしよう。
 …写真中央やや上に見える建造物群がいわゆる「赤倉神社」社屋群だ。それを中心にして位置関係の説明をする。先ずはその下部が広い赤倉沢である。この沢には15基の治山ダム(床固め)が敷設されている。
 その左岸「沢の上部から見て左」には斜めに下っている道路が見える。これは「治山ダム」敷設のための「工事用道路」だ。
 この道路はもっとも高いところにある15基目のダムの直下まで続いている。「ダム」は「無駄」といわれて久しい。だが、「ダム」だけでなく、それを造るために「造られる」工事用の道路もまた「自然破壊」と同時に「無駄」なのである。
 ダムの完成後も、この道路の自然は復元することはない。ダムの保守と点検という名目で「放置」されている。その名目があるために「自然」が自己治癒的な回復を目指して、遷移することも許さない。よって、仮に使用されなくても「植生」等の回復はないのである。
 その左の赤倉沢左岸尾根稜線には「稜線」に沿って樹木が伐採され、「道路」状に見える。これは、人為的に造られた山火事の延焼を防ぐための「防火帯」である。これを辿ると「赤倉沢左岸」と「白狐沢右岸」が合流する1249mピークと1396mピークを結ぶ「大鳴沢右岸」稜線に出るのである。
 目を転じて「赤倉沢」の右岸尾根に注目しよう。なだらかな尾根である。その中央に「道路状」の伐採跡が見えるだろう。これが「赤倉登山道」である。赤倉登山道一番石仏(如意輪観音)のある標高560mからほぼ真っ直ぐに続いているあの登山道である。
 その右岸にある沢は「日影沢」と呼ばれている。赤倉登山道尾根の上部に見える「コメツガ」の生えている「ピーク」は「伯母石」岩稜の上端だ。つまり、この尾根を登山道が通っているのだ。
 夏場には迷うことはないが、残雪期や冬場には「伯母石」から日影沢左岸尾根に入ってしまい、「赤倉神社」に降りることが出来なくなることもあるから、気をつけなければいけない。だが、尾根を辿ると「北小苑」とかいう「温泉施設」に出るので心配することはない。少し時間がかかるが駐車場所まで歩けばいいだけのことだ。
 赤倉登山道尾根の右岸の沢は「八ツ森沢」と呼ばれる。この写真いっぱいに広がって「ダケカンバ」と「コメツガ」に覆われている尾根が「八ツ森沢」の右岸尾根であり、「水無沢」の左岸ということになる。
 4月11日、「相棒」さん、Kさん、それに私の3人は、この尾根のほぼ真ん中を登って、水無沢源頭上部の崖頭に出たのである。)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(11) ◇◇
(承前)

 …いよいよ、水無沢右岸稜線を下ることになった。もちろん、私たち3人は「アンザイレン」をしていた。
 実は私も「相棒」さんも「アイゼン」を背負っていた。「相棒」さんは何と、Kさんの「アイゼン」も背負っていた。このことは、アイゼン装着するという時になった初めて知ったのである。私は、各自「アイゼン」を背負うことを指示しなかった自分の「うかつさ」と「不明」を恥じた。
 「アイゼン」を使うというのであれば、当然、使用する本人が自分のザックに入れて背負っているものだと思っていたのである。
 「アイゼン」を装着する場所は、大体が危険な場所の直近である。そのような場所では、先ず、自分のことは自分で支えるが基本になる。相棒さんが、自分のザックから、Kさんのアイゼンを取り出したりするという「人手を煩わせてはいけない」のだ。
 また、仮に、Kさんが「相棒」さんと離れてしまったり、運悪く、「相棒」さんが、先に滑落してしまったら、Kさんのアイゼンは「ない」ことになってしまう。そうなったらKさんはアイゼンを使えない。行動不能に陥るのである。
 自分の命を支えてくれるものを他人に背負わせることなどあってはならない。ずいぶんと偉そうな物言いをしているが、許して欲しい。これからも「一緒に山に登りたい一心」が言わせているのである。
 まあ、Kさんだけではない。初心者にはよくあることなのである。また、心優しい相棒さんの心情も理解出来ないわけではないが、「山は自助努力」が基本であることを肝に銘じて欲しい。
 「アイゼン」、それは「硬い雪面」に爪を差し込んで、「滑落」を防止するための道具である。自分を危険から避けさせるための道具である。
 「相棒」さんは「アイゼン」を2つ持っている。1つは「鍛造焼き入れ」という丈夫な12本爪のものだ。これは重い。旧式なので「ワンタッチ」での装着は出来ない。実は、この「アイゼン」は1988年に私がヒマラヤの西端、パミールの7500m峰に登った時に使ったものだ。
 岩木山で使うには「重装備」に過ぎるし、着脱が面倒なので、「相棒」さんに譲ったものである。
 「着脱が面倒」なものを他人に譲って、「自分は着脱が簡単なワンタッチ式を使っているのか」と非難されるかも知れないが、「山のイロハ」を学ぶには「面倒なことから入る」ことが大切なのである。
 そのようなプロセスを経験して、自分で何でも出来るようになってから「ワンタッチ」の世界に入っていくべきである。私はそう思っている。だが、今時の登山者はより簡便であること、容易であることを求める。
 「ワンタッチ」の世界というものは応用が効かないものである。「ワンタッチ」のアイゼンはもしも一部品が壊れるとそれで終わりだ。「アイゼン」という機能を完全に失う。それは、滑落を意味し、死に直結することだ。
 しかし、ベルトで締め付けて靴に固定する旧式のタイプのものは、「ベルト」が切れても、シュリンゲや他のロープなどの代用が効くのである。何とか急場はしのげるというものだ。(明日に続く)

水無沢両尾根登降山行(10)

2010-04-21 05:16:15 | Weblog
(今日の写真は、水無沢右岸稜線ピーク標高1457mから少し下部の「コメツガ」の疎林から、赤倉御殿ピークを撮ったものだ。
 この「コメツガ」の疎林だが、「コメツガ」以外に「ダケカンバ」、「ミヤマハンノキ」、「ミネザクラ」などが生えている。その割合が比較的多い場所である。
 一般的にコメツガは、栄養の貧しい岩稜帯などに好んで生える樹木である。だから、そこは栄養の欲しい他の樹木は「生える余地がない場所」であるといえるのだ。そういうことで、しばしば「コメツガ」は純林を形成する。
 だが、この場所はそうではなく、コメツガを主にした「雑木の疎林」となっている。ということは長い年月の間に、この「岩稜」に他の樹木の生えることが出来る「土壌」が形成されたのかも知れない。
 岩木山の「コメツガ」は大雑把に見ると、東から西に直線で区切った「北面」のほぼ標高1000m辺りから見られるのだ。今日の写真を撮った場所は、その「東から西に直線で区切った」南端にあたる。この場所から、南から西にかけては「コメツガ」は生えていないのである。
 岩木山が火山灰を大量に噴き出すほどの噴火をしたのは、地質学的には比較的新しいことのようである。古い話しではない。
 この「火山灰噴出」による「降灰」の影響を余り受けなかった範囲を「古、または旧岩木山」と呼んでいる。「コメツガ」はこの範囲に限定されて、現在は生えているのである。「火山灰噴出」による「降灰」の影響を受けて、火山灰が大量に降り積もった範囲が百沢登山道尾根から岳登山道尾根にかけての広い範囲である。この範囲を「新岩木山」と呼ぶ。そして、この区域には「コメツガ」はまったく見られないのだ。
 以上の事実から、さらに、貧弱な私の想像力を加えると、次のことも考えられる。
 この場所はちょうど「コメツガ」が生育している南の端である。「降灰」の影響ということで言うと「北の端」ということになる。つまり「端境(はざかい)」ということだ。ある地域の端という場所は、両地域の特性を併せ持つことが多い。
 ここにも、「降灰」はあったのである。だが、岩稜を埋め尽くすほどのものではなかった。他の樹木も生えることが出来る程度に「灰」が積もったのだ。そして、その後、数千年を経て現在に至っているのだろう。
 降雪がいつもの年のようであれば、この写真に見られる「コメツガ」など、もちろん他の樹木もまったくその姿を現してはくれない。積雪の下に埋まっている。このような思いを巡らせたのは、すべて「少雪」の所為である。

 写真の奥に見える対岸の稜線は「赤倉登山道」尾根である。その突端が「赤倉御殿」である。そこから、南に続く雪稜には「雪庇」状のものが見えるが、その現場に行くと、それは「雪庇」ではなく、「緩やかな圧雪の堤防」でしかない。
 対岸尾根稜線の下部には、波打ち際を白く染めている日本海の海岸が見える。天気は次第に下り坂、白い波は海が「荒れて」いることと「低気圧」の接近を教えているのだ。)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(10) ◇◇
(承前)
…キレットの見えるところで、「相棒」さんは、その「キレット」を背景にしてKさんを写している。Kさんの感激は、まさに、天に駈けのぼるかのように私には感じられた。だが、その天は次第次第に低くなり、雲が増え、雲堤が麓から迫り出してきていた。
 私はさっきから、この雲の動きが気になっていた。明らかに天気は下り坂である。雲が湧くことが一番怖い。この「風衝地」と雪原で「雲」に巻かれたら、「ホワイトアウト」ほどではないが「視界」不良になる。そうならない前に下山することが「良策」なのだ。
 確実に「日本海」の低気圧は近づいて来ている。時間もすでに、14時を回っている。

 ようやく、1457mピーク下部の岩稜帯を目指して動き始めた。岩稜帯手前は夥しいほどの「ダケカンバ」の疎林になっている。そこを斜めに横切ることは、「竹藪をトラバース」するほどの困難性はないが、「ワカン」が引っかかるなどして、決して楽しいものではない。
「せめて、もう少し積雪があったらなあ」などと思ってしまうのであった。

 下山のルートにしようと考えていた「水無沢右岸稜線」には危険な箇所がいくつかあった。それはすでに、織り込み済みだったが、この積雪寡少はさらに、危険箇所を増やすと考えられた。
 頼りにしている「相棒」さんにとっては「初めて」のルートだった。だから、危険箇所の確認を含めた「ルートファインデング」をしなければいけない「トップ」を任せるわけにはいかない。そう判断して、私が結局は弥生登山口まで「トップ」を続けた。(明日に続く)

水無沢両尾根登降山行(9) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(38)

2010-04-20 05:24:28 | Weblog
 (今日の写真は、不思議な感じを与えるだろう。何故こんなところに「緑の葉っぱが集団であるのだろう」と思わせるのではないだろうか。
 これは、山地に生える常緑の蔓性低木の「ツルマサキ(蔓正木)」である。この緑葉の集団に巻き付かれている樹木は、左の樹木の幹とその縦縞模様などの樹皮から推量すると「ヤチダモ(谷地ダモ)」だろう。「ヤチダモ」は北海道、本州の湿原の周辺などの湿潤地に生育する「モクセイ科トネリコ属」の落葉高木だ。「ダモ」は「タブノキ」のことだろうといわれている。
「ツルマサキ」は「ヤチダモ」とは相性がいいらしい。「ヤチダモ」は開葉が遅く落葉が早い樹木であるといわれている。
 常緑樹である「ツルマサキ」にとって「太陽の光」は、命である。周りの葉の出が遅く、落葉が早ければ、それだけ長い期間「日光」に当たることが出来るというものだ。蔓性樹木の「ツルマサキ」は絡みつく相手を選んでいるとしかいいいようがない。そして、この「ツルマサキ」は葉を氷点下という冷たい大気にさらしながら、寒い冬を乗り切っているのである。

 まだ葉の出ていない林で、このような「常緑の葉の集団」に出会うと驚く。何も芽出し前の森だけではない。真冬の森でもそうだ。この「ツルマサキ」や「アカミノヤドリギ」などに出会うと、その常緑という色彩に先ずは驚く。そして、「おう」という感動の言葉が思わず口を衝いて出るのだ。
 周りの樹木の枝や梢には葉が全くないのに、その部分だけが緑葉を湛え、新鮮な生命に満ちあふれているからである。
 ところが、緑葉である、針葉樹の「スギ」や「マツ」には、その感動がないのである。これも不思議だが、おそらく、「スギ、マツ」はこんなものだという固定観念があるからだろう。
 「アカミノヤドリギ」は名前が示すように「赤い実」を春先までつけているから冬でも、この時季残雪期でも見ることが出来る。今日の写真の「ツルマサキ」は「マユミやツリバナ、ツルウメモドキ」と同属の「ニシキギ科ニシキギ属」である。
 山地に生える常緑の「蔓性低木」で、枝から「気根」を出し、他の樹木によじ登り、10数mも樹木を上ったり、地面を這ったりするのだ。葉や花、それに実は「ツルウメモドキ」に似ている。だが、葉にはマサキのような光沢はない。若い枝には突起物がある。
 6月ごろ、葉液などから長い柄のある「集散花序」を出し、5mmほどの緑白色の花をつける。花弁と萼片は4枚だ。果実は球形で、秋に熟して裂けると「ツルウメモドキ」のような橙赤色の種子を出す。
 この写真、かなり遠目である。双眼鏡で覗いて、その「果実」を探したが何だかついていないようであった。「ツルウメモドキ」の仲間であるから「雌雄異株」で、これは「雄株」なのだろうか。
 ああ、自然は奥が深い。知らないことばかりである。そうであろう。人が「自然」そのものに追いつけるわけはないのだから、知らないことばかりでいいのだ。)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(9) ◇◇
(承前)

 …ようやく、赤倉御殿と標高1475mピークを結ぶ稜線の手前まで来た。この「稜線」は「風衝地」である。西からの季節風の吹き出しは岩木山で一番強く、しかも、長期間にわたる。だから、降雪は吹き飛ばされてしまい殆ど積雪はない。
 そのかわり、東側のその下部には運ばれた雪が溜まって大きな雪庇を造る。だが、今季はその雪庇が全くないと言っていいほど、少なく、小さいのである。
 残雪期を入れると私と岩木山の付き合いは50年以上になる。この風衝地稜線下部に「雪庇」がないということは、初めての体験であると言っていい。
 今季の積雪期である、11月からこの4月まで岩木山に10回近く登っている。その度に極端に少ない「積雪」を実感していたが、この稜線に「雪庇」が形成されないという事実は、この時初めての「確認」であった。
 恐らく、雪の極端に少ない2009年積雪期の岩木山を示す証明事項になることだろう。きっと、「このこと」が今後の「積雪量」の多寡を表す基準となるかも知れない。
 
 「相棒」さんがお気に入りの「赤倉キレット」を同行の「K」さんに見せたいらしい。
「赤倉御殿」まで行こうと言い出したのだ。ほぼ平坦に近い硬い雪面を辿って「赤倉キレット」が直近で見える場所まで移動した。
 Kさんはまた、「私はここまで来る資格があるのでしょうか」と言う。これは、非常に謙虚な物言いであろう。
 「なかなか見ることの出来ない場所」とか「容易には見られない場所」、または「見るためにはそれなりの苦労や技量がなければいけないという場所」にやって来るには、それなりの限定的な「縛り」がある。平たく言うと「来る人に制限がかかる」ということだ。つまり、「誰でもやって来られるというところではない」ということである。
 ところが、文明に毒気を吹きかけられている多くの人は「自分」が行きたいと希望すると「何処」にでも行けると思うし、カネの信奉者は、その問題を「大金」を出して解決しようとする。
 だから、「自分にとって行くことの出来ない」ところはないと思っている。まさに、不遜なのである。Kさんは「自分1人では絶対にそこまで行くことは出来ない」と認識しているのである。行くためには前後に「人を侍らして」行くしかない。「何という贅沢で、召使いを従えたような山行であることよ」という風に理解し、認識しているのである。
 つまり、の言い分には十分な「反省と同行者への感謝」が内在しているのである。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(38)最終回◇◇
(承前)

(あとがき2)
 私がこの小論で言いたいのは、あくまでも若泉敬氏が遺した…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」という…一節である。
 ほぼこれに尽きる。他には…
「何事にも知らぬ顔を決め込む日本人」ということであり、「何事にも他人事となってしまい、どのようなことでも他人事にしてしまうという日本人の体質」である。
 さらに、加えて、「総括の出来ない、論理的に反省出来ない日本人」である。
 かつて、戦争を仕掛け、「完敗(スコンク)したというのに、敗れた理由や原因なりを総括もせず、反省もせず、そのまま別のものに容易に移行し、簡単に『愚かな覚醒』をして、いい気になって、『アメリカナイズ』に身を任せているいるのが日本人」である。
 「アメリカに飼い犬のように尻尾を振り、御薦(おこも)のように『ものをねだ』ってこの60数年、一向に変わっていない日本人」である。
 相変わらず「道義の退廃と、節操の欠如」は存続したままなのだ。やはり「根無し草」いや、ネナシカズラである日本人である。
 民主党は色々と批判をされて、支持率は急降下である。だが、これも、上記のような現在の日本人たちが選んだ政党であるからには「当然」といえば当然の帰結であろう。そう焦らずに、待ったらどうだろう。待つことすら出来ないのならば、やはり、「所詮、ネナシカズラのフールズが選んだのであるからだ」と言われても仕方がないではないか。(この稿は今回で終わりとする)

水無沢両尾根登降山行(8) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(37)

2010-04-19 05:22:09 | Weblog
 (今日の写真はある植物の1年生の「芽」である。何の芽だろう。解く鍵は写真下部手前の「葉」である。この「芽」にピントを合わせているので手前の葉はピンぼけだ。だが、この植物の葉特有の模様がいくらか見えるので、それを頼りに「何」であるかを考えるといい。この花の古名は「かたかご」だ。これは「片葉鹿子(かたはかのこ)」という意味で、育ってしばらくは片葉(1枚葉)であり、葉に鹿子模様の斑点があることでこう呼ばれている。
 この花の開花時期は、4月下旬から5月中旬である。今季は雪消えが早いのですでに咲き出したところもあり、テレビなどで伝えられている。
 山林の中に生える高さ15cmほどの花で、紫がかったピンクの花びらの可憐な花を咲かせる。 
 場所によっては群生する。花は下向きに咲き、陽のあたるときのみ開く。しかし、 曇った寒い日や雨の日は開花しにくいが、曇ってても温度が高めだと開花するという、なかなかデリケートな花だ。
 この1年生の芽は、種子に蟻の好む「エライオソーム」という物質が付いていて、蟻に運んでもらうことによって増える。生育に適した場所に運ばれた種は翌年の春、発芽し細長い葉を出すのである。今日の写真はそれである。
 2年目からだんだん幅広い葉に成長し、開花するまで7~8年もかかるといわれている。そして、その時、ようやく2枚の葉を出して、茎を伸ばし開花するのだ。
 今日の写真は「発芽した細長い葉」である。葉の先端にえんじ色の「種子」の殻を載っけている。これがまあ何ともいえず可愛らしい。手前の葉はおそらく、4、5年目の葉だろう。
 「樹冠」が緑の葉に覆われる前のわずかな日光を利用して、地下の鱗茎を太らせて花を咲かせ、花のあとの6月頃に葉も枯れたあとはなくなってしまう。そして、ずっと翌年の4、5月まで、1年のうちの約10ヶ月以上は地中で、 球根のまま休眠するのである。地表からは完全に消えてしまい、見ることは出来ない。

このように、まわりの木々や草がすっかり緑になる季節になると地上から全く姿を消してしまう植物のことを… 「エフェメラルプラント(短命植物)」という。「エフェメラル」とは「かげろう」のことだ。英名では何と「Dog tooth violet」(犬の歯の「すみれ」)と呼ばれる。花弁の形が、そういわれると「犬歯」に似ている。

 「万葉集巻十九」には、この花を「堅香子草の花をよじ折る歌」として、次の歌が登場している。
・物部の八十少女らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花(大伴家持)
 次の短歌と俳句に、この1年生の「芽」の花名が出て来る。それは「カタクリ」である。
・かたくりの若芽つまむとはだら雪片岡野辺にけふ児等ぞ見ゆ…若山牧水
・かたくりは耳のうしろを見せる花…川崎展宏             )

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(7) ◇◇
(承前)
 広くて急な雪面を登っている時に…「ガラスの風鈴」のような微かな音色が聴こえた。これは、もう少し低いところにある「ダケカンバ」の傍を通り過ぎた時にも聴こえたものだ。その「ダケカンバ」の梢には、霧氷崩れの「氷」の鞘、または「筒」が多数付いていたのである。
  時折、風が吹く。それによって、その中空の「氷の筒」同士が触れあう。その時に微かな「ガラス音に近い」音を出すのである。まさに、天然の金管打楽器が奏でる音だ。「氷のシロフォン」だ。視覚的に拡大して「喩える」と「ガラスコップが枝の先端に逆さに立てかけてある」としてもいいだろう。同じガラスコップに容量の違う水を入れることによって、叩くと音階に違いが出る。それを利用した演奏などもあると言われている。
 「今日、山でシロフォンの合奏を聴いたよ」と言っても、言われた方は「目を白黒させて」聞く耳を持たない。「なにそれ?」とあしらわれて終わりだろう。そんな時、私は無性に寂しくなる。「共感」するということは「同じ体験」が必要だし、同じ体験がないのならば、せめて、基本的根源的な「感性」だけは同じであってほしいものだ。
 だが、私は聴いたのである。それは光の騒然さと相まって素晴らしいシンフォニイであったのだ。
 山とは、感性的に登るものだ。規格化された日々の中で、「山」に出かけるとは抑圧されている人間の感性を、各自の個性に合わせて取り戻すためなのである。
 広くて急な雪面の中で、「窪地」に見える場所までやって来た。そこで、私たちは「アンザイレン」をした。これは、「ザイル」につながって行動することである。
 Kさんを挟んで、トップが「相棒」さん、ラストが私だ。そして、「1457mピーク」を目指して、斜め方向で一歩一歩と登って行った。
 その時である。またまた「ガラスの風鈴」に似た音色を聴いたのだ。今度は前のものよりも遙かに「微か」である。そして、音色にも違いがあった。「カランカラン」ではない。それは「カラカラ」であり、「サラサラ」や「サー」に近かった。
 恐らくトップを行く「相棒」さんには聴こえないだろう。Kさんと私にはよく聴こえた。

 雪面には「光沢」があった。表面が凍結して、本当に薄い板状の氷、おそらく2mmほどだろう…になっているからである。
 その「薄い板状の氷」にワカンを突き刺して足場を造りながら登って行く時に、その「板状の氷」が割れて砕けて飛び散るのだ。それが、急な斜面を滑り落ちていく。Kさんと私の脇を、「」という音を奏でながら流れ落ちていくのである。
 所々に、それら氷片よりも大きな窪みがあると、音は「サラサラ」「カラカラ」から「カラン」と「コツン」というオクターブ高い音色に変わるのだ。
 私は、自分のワカンの「踏みだし音」でそれらを消しながらも、私の耳は感性を働かせて、しっかりとその「音色」を捉えていた。雪面のシロフォン、小さな雪崩の合奏である。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(37)最終回:あとがき◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

(あとがき 1 )
長い連載になってしまった。最初は「日本の伝統的な精神や文化を忘れてアメリカナイズされたものに走る」日本人への批判を書くつもりでいた。
 だが、色々と考えると、それは、どうも、日本人の精神のあり方と歴史的に深く関わっているということが分かってきて、その方にも目がいくようになった。(字数の関係で明日に続く)

水無沢両尾根登降山行(7) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(36)

2010-04-18 05:13:58 | Weblog
 (今日の写真は、水無沢の源頭部、その崖頭近くを登っている同行者たちである。先頭を行くのは「相棒」さん、2番手はKさんである。
 この辺りは標高が1250mほどだ。私たちは1457mピークを目指して登っていた。この位置から南に向かって標高差200mを登らなければいけない。きつくて、危険な急斜面が続くのである。
 森林限界だから、例年ならば樹木はすべて積雪の下でまったく見えない。この写真でもほぼ見えないがこの下部には「コメツガ」の孤木や「ダケカンバ」が見えていた。雪が少ないのだ。
 ワカンの埋まり方(その深さ、キックステップが出来るか)やピッケルの刺さり方を考慮しながら、とりあえず、上方の窪地まで「ザイル」なしでの登高を続けた。
 もし、キックステップも出来ず、ワカンの爪も効かないし、ピッケルも深く刺さらない状態になれば、そうなる前に「アンザイレン」しなければいけない。トップを行く「相棒」さんはそのことを念頭に置いて慎重に登っていく。
 それほど「急な斜面」には見えないだろうが、これも「広さ」を強調しようとしてズームレンズを「広角」にして撮っているからである。
 この真下は水無沢の崖頭だ。転倒滑落して、「ピッケル」操作が出来なければ、崖頭から「死のダイビング」ということになる。
 Kさんは初心者である。この時季にこのような高さの雪原までやって来たのは「初めて」である。もちろん登ることも初めてである。ピッケルの扱い方もよく知らない。
 それが、この写真にもよく現れている。つまり、ピッケルと上体の位置が離れ過ぎているのだ。上体をしっかりと立てて、ピッケルをもっと体に引き寄せた位置に突き刺すようにしなければいけないのである。そうしないと、転倒し滑落するという一瞬の事態の時に、滑落を停止させる「ピッケル操作」が出来ないのである。
 「本当」に危険な場所に入る前に、そのことをKさんは理解した。だから、ザイルなしで上部の窪地に見えるところまでは、登ったのである。) 

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(7) ◇◇
(承前)

 …ブナ林内の「開かれた稜線」を登り切ったら、「風景」は忽然と豹変した。
 先ずは、両側の「ブナ」の樹林帯が消えた。だが、全く生えていないというわけではない。「ブナ」は生えているが疎らなのだ。しかも、それらは、一様に「低木」で、その上「ひねこびた」ようにねじれ曲がっていた。その中で、ひときわ背の高い樹木も数は少ないがある。それは「ダケカンバ」だ。
 「ダケカンバ」はその梢をキラキラと輝かせていた。梢を透明な氷の「鞘」が覆うているのだ。梢は縦横斜めと「幹」から放射状に広がっている。その無限の角度が「陽光」を受けて、思い思いに輝くのだ。まるで、「ダケカンバ」全体が「イルミネーション」のように騒然と煌めくのである。
 電球やLEDをつけなくても、ここでは、このような気象条件の時には、天然の「イルミネーション」をしっかりと見せてくれるのである。その条件とは標高1000m、霧や雲が湧いてそれが梢に付着して凍結することである。だが、これだと「純白」な霧氷にしかならない。それだと「キラキラ」とは輝かない。その「霧氷」が暖気によって融け出して、透き通る輝きを醸し出す時にしか、「イルミネーション」にならないのである。
 この「騒然とするほど」の煌めきを燦然と輝くという。「燦燦(さんさん)」という形容動詞もある。太陽などの光が、きらきらと輝く様子を表す言葉で、「日が燦燦と照る」とか「燦燦たる陽光」などという使い方がある。
 また、「珊珊(さんさん)」という漢語を当てる場合もある。これは、本来音の美しさを表す言葉だが、「きらきらと美しく輝くさま」を表現する時にも使われている。
 なお、「粲粲(さんさん)」という語をあてる場合もある。これは、「あざやかに美しいさま」という意味を持っている。

 忽然と豹変した風景とは低木と「ダケカンバ」のイルミネーションだけではない。それらに加えて、登っていこうとする方角がすべて見渡せるということであった。そうだ、上方には雪原が広がっていたのだ。
赤倉御殿から1457mピークにかけての細くて長い雪稜を頂にして、その下部にまるで、大きくて広い円形劇場の丸みのある斜面のような雪原が広がっていたのである。(明日に続く) 

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(36)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 …他国に従属しない国、自主独立の国民となるためには、「精神風土と伝統、それに民族の誇り」を身につけようとする「亡命チベット人」に学ばなければいけない。だが、もっと身近なところに「学ぶべき」ことがあるのだ。
 それが「沖縄」の現実なのである。
米軍基地の負担に置き換えてみる。沖縄にある米軍専用施設の面積を沖縄県民約138万人(08年10月現在)で割ると、1人当たりの基地面積は166.60㎡。
 沖縄では、生まれたばかりの赤坊からおじいさん、おばあさんまで、1人50坪ほどの基地負担になる計算だという。
 それに対して全国平均は、1人当たり2.42㎡である。1坪にも満たない。その格差は、何と68.84倍だ。
 「人権」とは時代や国境を越えて普遍なものであり、自由と平等が原則だ。だが、「基地負担の平等」は憲法に明記されていない。だからといって、この現実を「沖縄」の人たちにだけ押しつけていいものか。何故、押しつけられているのかということに「論」が進まない。ただただ、「既定の事実」として、見ているだけだから「基地の移転」だけが話題になる。

 かつて、(1995年)米軍用地強制使用に伴う代理署名訴訟では、当時の大田昌秀沖縄県知事が、過重な負担を『法の下の平等に反する』」と訴えたことがある。
 しかし、「最高裁判決は裁判官15人中、7人が補足意見で負担の重さに理解を示しながら『是正は行政の裁量の範囲内で、司法審査の対象外』」とした。」
 米軍機の爆音を巡る基地訴訟も、騒音の違法性を認める一方、音源の米軍機飛行に「待った」をかけた例はない。このようなことが「安保条約」の下で、今も続いているのだ。(明日に続く)

水無沢両尾根登降山行(6) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(35)

2010-04-17 04:50:20 | Weblog
 (今日の写真は、水無沢左岸稜線だ。左に見える樹木はブナだが、右にみえるものはミズナラである。ちょうどミズナラ林が切れてブナ林に変わろうとしている高さの場所である。
 まるで、「ここを登って下さい」と言っているように一定の間隔で「樹木」がなく、稜線上が「天然(?)の登山道」になっている。春早く天気のいい日の登りは楽しいものだが、特に、このような開放感溢れる「稜線」登りは楽しいのである。)

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(6) ◇◇
(承前)

 何だかどこまでも続いているように「遠近法」図形が示すような構図で、この「開かれた稜線」は上方に続いている。
 走ってでも行けそうな感じだが、傾斜は本当はきついのだ。この細い稜線の横の広がりを出すために「ズームレンズ」は「広角」で作動するようにしてシャッターをきった。そのために、前方の斜面の「急峻」さがなくなり、平板でのぺっりと「斜面」になってしまったのだ。
 4月11日、例年ならば積雪は「凍結」が進んで「堅雪」になっている。それを期待して、出来るだけ陽光を受けて雪面が融け出す前に「登りたい」と思い、7時に自宅を出たのである。弥生登山口から、この稜線の末端に取り付いたのが7時40分、そして、この写真の場所に達したのが、9時くらいだろうか。
 だから、「凍結」してさえいれば決して、融け出して、ぐしゃぐしゃな状態になるような時間ではない。だが、事実は違った。
 「ぐしゃぐしゃ」でワカンを着けている靴が「ブスブス」と20cmも埋まるのだ。こうなると、楽しさは半減する。きつく辛い。ましてや、「快適な登り」を想起させるこのような開かれた稜線に裏切られた思いになり、その空虚さが「辛さ、きつさ」に拍車をかける。
 実はこの「開かれた稜線」は自然に出来たものではない。山火事の延焼を防ぐための「防火帯」なのである。かつて営林署が、この部分を「伐採」して造ったものだ。
 この写真で言うと、上部のカーブしているところから少し上で、この「開かれた」稜線は途切れる。そして、低木ブナの疎林に変わるのである。
 また、この「開かれた稜線」はかつての「登山道」でもあった。昭和30年代の「5万分の1」地図には、現在の弥生登山道は記載されていないが、ここを通り赤倉登山道に抜ける道がはっきりと記載されているのである。
 若い頃、数回その道を辿ったことはある。だが、その記憶は定かではない。確か、赤倉登山道の大開付近につながっていたはずである。 

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(35)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

…「愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまった」ことから、抜け出るために学ぶべき好例が、インド北部の「ダラムサラ」にはある。

 「ダラムサラ」…52年前に、チベット仏教最高指導者「ダライ・ラマ」14世が中国からこの地に亡命した。
 その後、中国のチベット地区から多くのチベット人がこのインド北部の「ダラムサラ」に亡命した。亡命の理由は、「仕事がなく、生まれてくる子の将来を思ってのこと」だったという。
 そこの小学校は全校生徒が187人。大半の親たちが、同じような思いを抱き、ヒマラヤを越え、インドで新たな命を産み、新たな命を育んだ。
 中国にしても、北朝鮮にしても「亡命」には厳罰で臨んでいるが、「国民に亡命を決意させる」ということの責任は、すべてその国家にある。
 誰が好き好んで「生まれ故郷」を捨てるか。大方の人にとっては「故郷」つまり母国は「揺りかご」であらねばならない。
 住み心地がよく、安全で安心のおける場所でなければいけない。そして、自分の子供たちの将来が保証されるところでなければいけない。その責任はすべて政治家にある。為政者にある。
 「仕事がなく、生まれてくる子の将来」に展望がないとなれば、捨てざるを得ないだろう。そうさせたのは、亡命者個人だけの問題ではないだろう。
 そこに目を瞑って「亡命者」を弾圧することは亡命者を二重三重に苦しめる。北朝鮮からの「脱北」はその典型的な事例であろう。
 表面的に弾圧がなくても、日本の「年金問題」には「生まれてくる子の将来」という視点では「亡命」の理由の1つになるかも知れないのだ。

 ところで、「ダラムサラ」での「中国チベット」からの亡命者社会には目を見張るようなことがある。
 「愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまった」日本人からすると驚くような、感心するようなことがあるのだ。「驚き感心している」だけでなく、私たちは彼らに学ばねばならない。そして、学んだことを、今すぐにでも「実践」しなければならない。
 それは、「亡命社会の教育熱」である。だが、それは学力偏重、知識の詰め込みにつながる「いい大学に入る」とか「資格を取る」とかという、いわゆる日本での「受験」熱ではない。
 それは、子供たちに「伝統文化や母語をしっかりと教え、世界に通用する人材を育てる」ための留学などに惜しみない援助を与えているということである。
 日本ではどうだろう。「伝統文化や母語」の教育に活用出来たはずの「ゆとりの教育」は挫折し、新しい指導要領では教科学習が大幅に復活し、「詰め込み教育」が始まった。
 これでますます、日本の子供たちは「生まれ故郷である母国」から遠い存在になり、「フールズ」の群れの一員になっていくのだ。

 「ダラムサラ」における「中国チベット」からの亡命者、その「半世紀を超えた非暴力の戦いは半端ではない」と毎日新聞の記者は語っている。
 「ダラムサラ」の小学生が言うのだ。「両親とチベットで暮らしたい」と…。子供たちは「故郷に帰りたい」のである。もちろん、両親も同じだ。母国に帰る」とは、体だけが帰っても意味がない。そのような物理的な移動ではない。
 「精神風土と伝統、それに民族の誇り」をしっかりと身につけて帰るために親も子供も頑張っているのである。
 それは、他国に従属しない国、自主独立の国民となり、それが、世界に通用する国の一員であることを理解していることでもある。
 これは、亡命チベット人の強さであろう。日本人も、この「亡命チベット人」の強さに学ばなければいけない。

水無沢両尾根登降山行(5) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(34)

2010-04-16 05:07:48 | Weblog
 (今日の写真は、赤倉御殿と大鳴沢源頭を結ぶ稜線上にある標高1457mピークの下部から撮った耳成岩と山頂である。
 …と解説すると「そうか」で終わってしまうだろう。左の山体、その右が山頂で左が耳成岩である。だが、私がこの写真を写した狙いは別なところにある。
 それは、山稜の下部に広がる斜面にある。よく見てほしい。斜面に沿って10本近くの直状痕が見えるはずだ。これは「スノーモービル」の走行跡だ。
 4月11日、複数台のスノーモービルが「大黒沢」を遡上して、この天然の素晴らしい「春スキーのゲレンデ」に侵入していた。彼らが「付けた」直状痕なのである。
 法律を改正して「スノーモービル」の走行・侵入を現行よりも厳しく規制するそうだが、「現行」そのものには全く「規制」がないに等しいのだから、実際問題としてどのようにしようとしているのだろう。今までこの岩木山で「不法侵入・不法乗り入れ」で「スノーモービル」運転者が逮捕されたという話しは聞いたことがない。
 本気で、厳しく規制するとなれば、1月から4月まで、岩木山の尾根という尾根の末端や沢という沢の下流域に「監視」のための人員を配置しなければならない。
 その人員数は延べにすると、数千人になるはずである。その人員と予算の確保は出来るのか。行政にその覚悟があるのか。…?である。
 不法に乗り入れる「スノーモービル」運転者たちはきっとほくそ笑んでいるだろう。
 ここを滑ろうとするスキーヤーのテクニックは上等なものだろうから、この「直状痕」の轍に足を取られて転倒ということはないだろうが、私だった確実に転倒する。そして大黒沢深くに落ち込んでいくだろう。
 これではまさに、スキー場ゲレンデに入って来る「スノーモービル」と同じではないか。) 

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(5) ◇◇
(承前)

 …「空の色が、まだ冬を湛えている」からだろう。耳にする野鳥の鳴き声も少ない。目に見える影はさらに少ない。
 ミズナラ林の下部では名前は定かではないが「鷲鷹類」の鳴き声を聴いた。姿が見えると名前は特定出来るのだが、何しろ視認できない。かなり探したが、その姿は発見出来なかった。
 ミズナラとブナが混生している辺りで、スズメ目シジュウカラ科の「ヒガラ(日雀)」を見かけた。最初は「ツーツーピー」という鳴き声を聴いたことにはじまった。
 「あれ、シジュウカラかな」という思いで、その鳴き声の方を目で辿った。小さな野鳥である。なかなか視認出来ない。けっこう、あちこちと動き回る。それが、「見つける」ことにつながるのだ。
 「いたいた、たった1羽だ」と呟く。シジュウカラより少し小さいシジュウカラ科の鳥だ。見分け方は頭が少し、尖っているということだ。「ああ、ヒガラだ」と思った時、すごく幸せな気持ちになった。
 背は青みがかった灰色で、腹は白く胸から腹にかけての黒い線はない。いわゆる、「ネクタイ」をしめていない。特徴は頰と後頭部が白いことだ。本来は「亜高山帯」に棲息している鳥だが、秋や冬には人里近くに下りて来ることもある。地鳴きは「チーチー」である。この地鳴きも囀りも「シジュウカラ」と似ているが、こちらが少し金属的で甲高い感じがする。
 これまで、5月中旬の残雪期に、ミズナラやブナの森で多くの野鳥に出会ってきた。シジュウカラにしろヒガラにしろ、コガラにしろ、エナガにしろ、数羽という集団だった。ところが、その日であった「ヒガラ」は雄1羽の単独だった。
 縄張り宣言のためだろうか、それとも「伴侶」探しのための「単独行」なのだろうか。
 俳句の世界では、「ヒガラ」は「夏」の季語である。どう考えてみてもこれはおかしい。その日に出会った「ヒガラ」は冷たく青さを失いかけた冬空の下、ミズナラの梢で囀っていたのである。

    ・日雀鳴く或る日さみしさ火のやうに (神尾久美子)

 難解な俳句だ。悲しいかな、とても解釈出来るものではない。「火のようなさみしさ」とはどのような心情なのか、またその心情と日雀がどのように結びつくのかが、私には理解出来ないのだ。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(34)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

…「60年安保闘争」にかかわった学生の間で、広く口ずさまれた歌に「作詞、水木かおる・作曲、藤原秀行・唄、西田佐知子」の『あかしやの雨がやむとき』がある。
 その第3番の歌詞には…「アカシアの雨が止む時/青空さして鳩がとぶ/むらさきの羽の色/それはベンチの片隅で/冷たくなったわたしのぬけがら/あの人をさがして遙かに/飛び立つ影よ」とある。
 今では殆ど聴くことはなくなったが、一人でいる時に、たとえば「冬山登山で厳しいラッセル」をしている時などに突然メロディだけが口を衝いて出ることがある。私にとっては懐かしい青春の歌であり、悔恨の歌でもある。
 命を賭けていたにもかかわらず、若い学生たちは自分たち親世代に諦観を持っていた。親たちの中に「総括の出来ない」という日本人の本質を見ていたのではないか。だからこの歌に惹かれ、この歌を「寂しく口ずさん」だのだ。これは希望のない歌である。無性に悲しい歌である。今でも私は口ずさむだけで涙が出る。

 2010年になった。「日米同盟」という言葉が簡単に口をついて出てくる時代になった。このような風潮の中では、決して「アカシアの雨」は止むことがないだろう。
 だが、まだ遅くはない。本物の他国に従属しない自主独立の国を求めて、朝鮮民族に「創氏改名」を強制した民族であるが故に、今度こそ「自主独立」の尊厳を今こそ認識して、この「世界から従属国家がなくなること」のために頑張ることが、日本国民の使命だと私は考えている。「世界から従属国家がなくなること」のためには、先ず日本がアメリカとの属国的な「条約」を止めることだ。「隗より始めよ」だ。
 「世界から従属国家をなくする」ことをしないでは、アジア近隣諸国に対する真の謝罪にはならない。「村山談話」も絵に描いた餅に過ぎない。
 「世界から従属国家をなくする」ことの基本は、その国の国民の真の「人権」を保証することにある。「人権」とは時代や国境を越えて普遍なものであろう。
 だからこそ、「自国の戦争犯罪」は、自らが歴史的に清算しない限り、本当の謝罪にはならないのである。(明日に続く)