(今日の写真は小森山北側山麓から見た岩木山である。このような岩木山は「県道30号線(岩木山環状線)」からは絶対に見えないのである。それは「小森山」が隠してしまうからだ。「小森山」の背後に回り込まなければ見ることが出来ないということである。「小森山」は南側に対峙する「森山(守山とも書かれる)」と同じく寄生火山である。
なかなか見ることが出来ない「山容」なので少し尾根や沢の説明をしよう。
左からいくことにしよう。左の頂が「鳥海山」。その下部に開けている逆三角形の岩肌を見せている場所が「滝ノ沢」の源頭部である。これは古い爆裂火口跡である。「滝ノ沢」は環状線を越えた辺りで、その隣の「平沢」と合流して大秋川に注ぎ、次いで岩木川に流れ込んでいる。その右隣の沢は「毒蛇沢」である。これは森山の西麓を通り、大秋川を辿って岩木川に出ているのだ。
右端に目を転じてみよう。広く樹木が伐採されて積雪の見えるところが百沢スキー場のゲレンデである。その左の沢は「蔵助沢」だ。そして、真っ正面に見える広い尾根、つまり、「毒蛇沢」と「蔵助沢」に挟まれたこの尾根に、向かって左から順に「姥人沢」、「クルミ長根沢」、「石切沢」という3つの沢があるのである。
今年度、敷設予定の「石切沢4号堰堤」はこの中の「姥人沢」に造られるものである。「姥人沢」に造られるのに、「石切沢」という名称を与えている理由は「姥人沢」も「クルミ長根沢」も下流で「石切沢」と合流しているからであろう。「石切沢」は下流で「蔵助沢」と合流して、そのまま岩木川に注ぐのだ。
「姥人沢」は尾根左側の窪んで積雪の見えるところである。百沢登山道は、七曲りの手前でこの「石切沢」を渡って、「石切沢」右岸尾根を辿るのである。
見て分かるとおり、スギの植林地が多い。これは、全くといっていいほど「手入れ」はされていない。手入れをしないとスギは育たない。それだけではない。下草が生えないから「保水力」もなくなる。土石の流出も多くなる。
ブナやミズナラの「原生」に近い森が一番いいのだが、人手をかけて「森」を育てると、「人工物」の「砂防堰堤」で土石の流出を防ぐことより、自然を壊さず、経済的であることは疑いのない事実だろう。)
◇◇ 寄生火山のことを側火山という ◇◇
「寄生火山」とは、火山の主火口以外の場所での噴火活動で形成された山や小丘、または山体を伴わない爆裂火口や割れ目などの火山性地形のことである。
成層火山はいつも山頂から噴火するとは限らないのである。地下でマグマが側方に移動して、山腹や山麓から噴火が始まって小型の火山体を作ることがある。これは、一度の噴火で形成される単成火山で、大きな山体を伴わないことが特徴である。
「地下でマグマが側方に移動」する、つまり、噴火をもたらすマグマは山頂噴火と共通なのである。これは「寄生」という概念にはあたらない。そこで、最近では「寄生火山」のことを「側火山」と呼ぶようである。
岩木山の寄生(側)火山は、北面と西面に偏在している。北の鍋森山から反時計方向に西の黒森山まで一応つながりを見せるが、黒森山から南面のこの「小森山」までは空白なのだ。つまり、岳温泉から百沢間の県立公園「岩木高原」には「側火山」がないのである。これまた不思議なことだ。小森山と森山は孤立した「側火山」なのである。
小森山の山頂には、しっかりとした三角点(標高323.7m)の標石がある。ただし、夏場は樹木や草に紛れてなかなか発見することが難しい。この時季が発見には最適である。
◇◇ 岩木山石切沢早春の森と堰堤工事の観察会の案内 (その3)◇◇
(2)小森山と小森山地区について
「小森山」は岩木山の南麓に位置する標高323.7mの寄生(側)火山である。この場所は「小森山東部遺跡」が存在する縄文時代から人跡のあったところでもある。
その「遺跡」は山頂から一段下がった広い平らな台地上にある。土偶頭部破片やイヌ形土製品、土偶脚部、中空土偶体部などが出土しているが、それらは、縄文晩期のものが中心である。
また、ここは戦後の昭和24年に東目屋村から開拓農業協同組合員10戸が「入植」した場所である。そして、「小森山の南面」を中心に、周囲の農業開拓が行われたのである。
戦後の開拓は主に「引き揚げ者」が中心であったが、隣村でしかも、耕地面積の狭い「東目屋」から、農民が入植したということは極めて珍しい事例であろう。
戦後の入植は、その共通項に「辛苦と辛酸」という歴史を背負っている。それは開墾と栽培に伴う「辛苦と辛酸」だけを指すのではない。
戦後の日本は産業の中心を「工業」にシフトして、農業を見限ってきた。農業者から「農業で生産する喜びと誇り」を奪うような「補助金制度」と、農業以外の工業や土建・建設業者だけが潤うような「農業」事業を矢継ぎ早に「政府主導」で打ち出し、農民から生産意欲を削いでいった。水田の「減反政策」はまさに、その典型であり、愚策の見本のようなものであった。
このような「猫の目」行政に振り回されたことも、まさに「辛苦と辛酸」以外の何物でもなかったのである。全国の何処の入植地でも、入植者全員が、現在も「その地で頑張っている」というところはない。完全に「廃集落」となっているところも多い。
この農業労働による物理的な「辛酸」を今に残すものが、「姥人沢」を中心に多く見られるのだ。その多くは「水利」に関するものだ。それを目にした時、私は「機械」に頼らず「人力のみでの労働の辛さ」を思い、同時に、その「技術の高さ」に驚き、敬服した。
もともと、「小森山」は小高い丘である。畑や田んぼに絶対必要な水の確保が難しい場所でもあるのだ。
入植者たちは山中に「溜め池」を造り、そこに水を流入するための「石積(組)み水路」を造った。その水路の中には「沢を跨ぐ水路橋(石組の樋)」まであるのだ。
さらに驚くことに、「滝ノ沢」から水を引くために、数キロに渡って人工の「流水路(溝)」まで、「手堀り」で造っているのである。これらは、今も「当時の名残」として存在している。
ここまでして、頑張ったのだが、現在は数戸が残るのみの集落になってしまっている。
さらに、近年、新しく開墾された小森山北面部分の「田んぼ」も減反政策の煽りを受けて、今や完全に「ススキ原」となってしまっているのだ。(明日に続く)
なかなか見ることが出来ない「山容」なので少し尾根や沢の説明をしよう。
左からいくことにしよう。左の頂が「鳥海山」。その下部に開けている逆三角形の岩肌を見せている場所が「滝ノ沢」の源頭部である。これは古い爆裂火口跡である。「滝ノ沢」は環状線を越えた辺りで、その隣の「平沢」と合流して大秋川に注ぎ、次いで岩木川に流れ込んでいる。その右隣の沢は「毒蛇沢」である。これは森山の西麓を通り、大秋川を辿って岩木川に出ているのだ。
右端に目を転じてみよう。広く樹木が伐採されて積雪の見えるところが百沢スキー場のゲレンデである。その左の沢は「蔵助沢」だ。そして、真っ正面に見える広い尾根、つまり、「毒蛇沢」と「蔵助沢」に挟まれたこの尾根に、向かって左から順に「姥人沢」、「クルミ長根沢」、「石切沢」という3つの沢があるのである。
今年度、敷設予定の「石切沢4号堰堤」はこの中の「姥人沢」に造られるものである。「姥人沢」に造られるのに、「石切沢」という名称を与えている理由は「姥人沢」も「クルミ長根沢」も下流で「石切沢」と合流しているからであろう。「石切沢」は下流で「蔵助沢」と合流して、そのまま岩木川に注ぐのだ。
「姥人沢」は尾根左側の窪んで積雪の見えるところである。百沢登山道は、七曲りの手前でこの「石切沢」を渡って、「石切沢」右岸尾根を辿るのである。
見て分かるとおり、スギの植林地が多い。これは、全くといっていいほど「手入れ」はされていない。手入れをしないとスギは育たない。それだけではない。下草が生えないから「保水力」もなくなる。土石の流出も多くなる。
ブナやミズナラの「原生」に近い森が一番いいのだが、人手をかけて「森」を育てると、「人工物」の「砂防堰堤」で土石の流出を防ぐことより、自然を壊さず、経済的であることは疑いのない事実だろう。)
◇◇ 寄生火山のことを側火山という ◇◇
「寄生火山」とは、火山の主火口以外の場所での噴火活動で形成された山や小丘、または山体を伴わない爆裂火口や割れ目などの火山性地形のことである。
成層火山はいつも山頂から噴火するとは限らないのである。地下でマグマが側方に移動して、山腹や山麓から噴火が始まって小型の火山体を作ることがある。これは、一度の噴火で形成される単成火山で、大きな山体を伴わないことが特徴である。
「地下でマグマが側方に移動」する、つまり、噴火をもたらすマグマは山頂噴火と共通なのである。これは「寄生」という概念にはあたらない。そこで、最近では「寄生火山」のことを「側火山」と呼ぶようである。
岩木山の寄生(側)火山は、北面と西面に偏在している。北の鍋森山から反時計方向に西の黒森山まで一応つながりを見せるが、黒森山から南面のこの「小森山」までは空白なのだ。つまり、岳温泉から百沢間の県立公園「岩木高原」には「側火山」がないのである。これまた不思議なことだ。小森山と森山は孤立した「側火山」なのである。
小森山の山頂には、しっかりとした三角点(標高323.7m)の標石がある。ただし、夏場は樹木や草に紛れてなかなか発見することが難しい。この時季が発見には最適である。
◇◇ 岩木山石切沢早春の森と堰堤工事の観察会の案内 (その3)◇◇
(2)小森山と小森山地区について
「小森山」は岩木山の南麓に位置する標高323.7mの寄生(側)火山である。この場所は「小森山東部遺跡」が存在する縄文時代から人跡のあったところでもある。
その「遺跡」は山頂から一段下がった広い平らな台地上にある。土偶頭部破片やイヌ形土製品、土偶脚部、中空土偶体部などが出土しているが、それらは、縄文晩期のものが中心である。
また、ここは戦後の昭和24年に東目屋村から開拓農業協同組合員10戸が「入植」した場所である。そして、「小森山の南面」を中心に、周囲の農業開拓が行われたのである。
戦後の開拓は主に「引き揚げ者」が中心であったが、隣村でしかも、耕地面積の狭い「東目屋」から、農民が入植したということは極めて珍しい事例であろう。
戦後の入植は、その共通項に「辛苦と辛酸」という歴史を背負っている。それは開墾と栽培に伴う「辛苦と辛酸」だけを指すのではない。
戦後の日本は産業の中心を「工業」にシフトして、農業を見限ってきた。農業者から「農業で生産する喜びと誇り」を奪うような「補助金制度」と、農業以外の工業や土建・建設業者だけが潤うような「農業」事業を矢継ぎ早に「政府主導」で打ち出し、農民から生産意欲を削いでいった。水田の「減反政策」はまさに、その典型であり、愚策の見本のようなものであった。
このような「猫の目」行政に振り回されたことも、まさに「辛苦と辛酸」以外の何物でもなかったのである。全国の何処の入植地でも、入植者全員が、現在も「その地で頑張っている」というところはない。完全に「廃集落」となっているところも多い。
この農業労働による物理的な「辛酸」を今に残すものが、「姥人沢」を中心に多く見られるのだ。その多くは「水利」に関するものだ。それを目にした時、私は「機械」に頼らず「人力のみでの労働の辛さ」を思い、同時に、その「技術の高さ」に驚き、敬服した。
もともと、「小森山」は小高い丘である。畑や田んぼに絶対必要な水の確保が難しい場所でもあるのだ。
入植者たちは山中に「溜め池」を造り、そこに水を流入するための「石積(組)み水路」を造った。その水路の中には「沢を跨ぐ水路橋(石組の樋)」まであるのだ。
さらに驚くことに、「滝ノ沢」から水を引くために、数キロに渡って人工の「流水路(溝)」まで、「手堀り」で造っているのである。これらは、今も「当時の名残」として存在している。
ここまでして、頑張ったのだが、現在は数戸が残るのみの集落になってしまっている。
さらに、近年、新しく開墾された小森山北面部分の「田んぼ」も減反政策の煽りを受けて、今や完全に「ススキ原」となってしまっているのだ。(明日に続く)