岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

この白っぽい緑色の「草」は何だろう

2008-09-30 05:56:30 | Weblog
(今日の写真は今月10日に岩木山の砂礫地で写したものだ。ここには3種類の植物が写っている。
 写真上端の左側が北海道と本州(東北、関東、中部)の高山・亜高山に生えて、岩木山では6月頃に黄金色の梅のような花をつけるバラ科キジムシロ属の「ミヤマキンバイ(深山金梅)」である。
 その右側が北海道、本州(中部地方以北)の亜高山~高山帯の草地や湿原に生えるセリ科シラネニンジン属の「シラネニンジン(白根人参)」である。7~8月に直径2~3mmの白色の花を多数つける。
 この白い花をつけるセリ科の花には、イブキゼリモドキやミヤマセンキュウなど仲間が多く、見分けが難しい。DNAで判定しなければ出来ないとまで言う人がいるくらいなのだ。だが、シラネニンジンは、葉が根際にまとまってつくことで、なんとか同定できるのである。
 さて、この深緑の2種類の下、写真中央に点在しているこの「白っぽい緑色の草」は何だろう。)

 今月17日に、五所川原市で開かれた青森県民カレッジ講座「岩木山の自然とイヌワシ」の中で、岩木山の自然を護るためには、「岩木山から植物を持ち出さないこと、そして持ち込まないこと」が大切だとして「ヒメアカバナ(姫赤花)」とこの「白っぽい緑色の草」のことを例にあげて話しをした。
 「ヒメアカバナ(姫赤花)」は持ち出されて、それが八甲田山で生育しているし、この「白っぽい緑色の草」は本来岩木山には生育していないものなのだが、先年何者かによって持ち込まれたものなのである。
 私は県民カレッジ受講者に対して「持ち込まれたものは抜き取り除去をしている」ことを話した。
 実際、この「白っぽい緑色の草」はこの写真が撮影されてから「抜き取り除去」されたのである。これは「コマクサ」の若い葉と茎である。

 数年来続けているのだが、今年は7月17日に先ず生育調査を県自然保護課と本会で実施した。
その調査結果は…

○ 昨年抜き取り除去した跡地およびその周辺で多数の幼苗の発生が確認された。
・30X70cmくらいの広がりの中に、全部で約80個体の幼苗が確認された。
・離れた場所にも点々と幼苗が見られ、最も遠いものは、跡地から約2m離れていた。
今年生えた幼苗
・幼苗は当年生の実生がほとんどで、2~3年生のものは6個体あった。
・今回見られた個体は花を付けていないので、種子が生産されることはない。
○ これらの幼苗は、昨年結実した種子から発生したもの(当年生の実生)と、昨年除去しきれなかったもの(2~3年生)があると思われる。
・昨年9月に除去作業したときは既に実を付けていたので、種子がこぼれ落ちていたと思われる。
…であった。       
 そして、9月10日に…
 ○ 確認された多数の幼苗は花を付けていないことから、今年は新たに種子が生産されて殖えることはないものの放置して残されるとゆくゆくは増殖のおそれがあるので、葉が目立つうちに早めに抜き取るものとして、自然公園法の許可手続きをしてから自然保護課と本会で2~3年生を20本、幼苗を20本を抜き取り作業を行い除去したのである。

 以上のようなことを話したら、受講者から次のように言われたのである。

『私はすでに先生の花の本を購入して読んでいます。花に対してあれほどまで慈しむ気持ちのある人が、どうして、あのように美しく愛らしく咲く「コマクサ」を抜き取れるのですか。』…
 これには参ってしまった。「自然の生態系を保護するには、時には涙を飲んでしなければいけないこともあるのです」と言うのが精一杯だった。

 「コマクサ」は高山植物の中でも、何も生育していない厳しい環境の土地に最初に根づく先駆植物といわれている。だから、岩木山の「コマクサ」はこの場所で発芽し根を張ったのだ。
 乾燥した軽い火山弾のような礫が敷き詰められているこの場所も、「コマクサ」が根づいて根を張るようになると、それに支えられて、長い年月を経て、養分が豊かになり、「コマクサ」よりも大型の草が生えてくる。これが今日の写真に見えるミヤマキンバイなどだ。
 そして、その大型の草の「大きな葉陰」のために、「コマクサ」生きられなくなる。そのような過酷な運命を背負っているものが「先駆植物」なのだ。
 この場所は、まさに「先駆植物」である「コマクサ」にぴったりの、痩せて貧栄養の「土地」なのである。
 このような「コマクサ」は他にも、こうした厳しい環境の中で生きていくために、幾つかの戦略的な「仕掛け」を持っている。
 7月の末に花が終わり、実が熟すと「コマクサ」の「花茎」は枯れる。やがて秋、そして冬の到来、強くて冷たい風が吹き始めると花茎は根元から折れて、風によって砂礫地を転がって行く。転がりながら「種子」を蒔くのだ。
 岩木山のこの場所では北西の季節風が吹く。だから、「コマクサ」は、いきおい低い方に運ばれていく。写真の「コマクサ」が、最初に蒔かれた場所よりも下方10mの場所で根づいて花を咲かせたのも、この所為(せい)なのだ。
 また、「コマクサ」の葉柄や花茎のかなりの部分は砂礫に埋まっている。地上の花からは想像も出来ないほど長くて丈夫な根が地中深くにもぐっていて、地下部は地上部の5倍以上の長さに達しているものもあるくらいだ。この根も細くてしなやかなのである。
 しかも、その根を横方向に束ねるように張り、そこに溜まる水分や養分を吸収している。このようにして乏しい水分や養分を確保しながら、一方では、凍結と融解を繰り返し「動く構造土」(砂礫は崩れやすいということ)といわれる場所での生育に耐えている。だから、「コマクサ」は、砂礫が崩れ、流されても生きていけるのである。
 というわけだから、「コマクサ」の「抜き取り除去作業」は口で言うほど易しくはない。注意して抜き取っても細かい根は残るのである。「残ったもの」はまた来年そこから茎を出す。
 本来、弱い植物と言われている「コマクサ」は、いろいろな方法・仕組みを身につけて、他種の植物が生きられない場所で「生きる強さ」を獲得してきたのだ。これを「弱さゆえの強靭」と呼ぶ人さえいる。

山は「実」の季節だ

2008-09-29 05:33:58 | Weblog
(今日の写真はクスノキ科クロモジ属の小低木「オオバクロモジ( 大葉黒文字 )」の実である。まだ完熟していない。完熟期には「真っ黒」な実になる。)

 仲間に「クロモジ」があるが、これは主に、東北(岩手県)から九州北部の太平洋側に生育している。オオバクロモジは東北から中部地方の日本海側に自生している。ククロモジの名の由来は、樹皮の「黒い模様が文字のように見える」ことによる。
 高さが3~5mになる「雌雄異株」の落葉低木で、山地の雑木林などに生える。春、5月頃、まだ残雪のある時季に花をつけるので、結構目立つ存在である。
 葉と同時に小枝の節に散らばるように花序を出して、淡黄緑色の花を、雄花序、雌花序として多数つける。ただし、クロモジと比べると、花色の黄色が淡く、房となって垂れ下がって咲く花の数は少ない。葉の長さは10㎝前後である。
 材は香りがいいので、高級な爪楊枝とする。クロモジは岩手県の太平洋側~九州北部に分布し、オオバクロモジより全体に小型で葉の長さは5~10㎝だといわれている。
 ところで、このオオバクロモジの花に似ているものがある。それは同じクスノキ科の木で落葉小高木の「アブラチャン(油瀝青)」である。ただし、属は「シロモジ」である。
 こちらも「雌雄異株」ではあるが、幹は細く株立状であり、樹皮は灰褐色だ。葉は互生して、卵形だが紙のような質感をしている。全緑であり、下面は帯白色である。本州、四国、九州に分布している。オオバクロモジと同じように、クスノキ科の樹木特有の香気を含んでいる。
 株立状の樹風と早春の黄色い花を鑑賞するために庭木とされることも多い。別名として「ムラダチ」と呼ばれるように「叢状」になるのである。土地はあまり選ばないが、向陽地を好む傾向があるそうだ。

 花はオオバクロモジより少し早いくらいの残雪が所々にある頃に、葉に先だって咲き出す。咲き方もオオバクロモジに似ていて散形花序であり、花は小形で黄色である。果実は10月ごろに成熟し、径が1.3~1.5cmの球形で黄褐色、固い殻になっているのだ。
 オオバクロモジの実は「球形」だが、柔らかく簡単につぶれる「液果」のようであるが、アブラチャンの実は固い「堅果」なのである。

 私は長いこと花には興味を持っていたが「果実」はあまり目がいかなかった。そして、愚かにも、無謀にも「似ている花は似ている実をつける」ものだろうと「独り合点」をしていたのである。
 その「独り合点」に厳しい刃を突き刺してくれたのが「オオバクロモジ」の実とアブラチャンの実なのであった。花はそっくりなほど似ているのに「実」は似ても似つかぬ「液果」と「堅果」、この不思議に私はそれ以来とりこになってしまった。そこで、出来るだけ、「実」も写真で記録するように心がけるようになった。


 さて、「花と実」に関心のある方々に「自然観察会」の案内をしよう。

          ◎ 「この実の花は…どんな花」 ◎
           ・岩木山「草木の実」観察会・

        「実を見ながら、その実をつけた花を思いましょう」

 ・期  日:10月19日(日曜日)

 ・観察時間: 10:00~14:00

 ・観察場所: 宮様道路下部から高照神社南側(歩行距離3km)

 ・集合場所: 百沢駐車場

 ・集合時間: 9:50

(主催は青森県自然観察指導員連絡会で、講師は私です。
 問い合わせは青森県自然観察指導員連絡会の竹浪純さん「電話:87-3174(夜間のみ) 携帯:080-5229-6076(常時)」にして下さい。)

白狐沢山麓からの岩木山は森に覆われている

2008-09-28 03:55:48 | Weblog
(今日の写真はミズナラとブナが混在する森の一部である。左手に見える樹木がミズナラでその奥にあるものはすべてブナである。右の上にはハウチワカエデも見えている。
 陽光が射し込む細い稜線上では、数種の樹木が競い合ってよく伸びる。それらに負けんとばかり竹も伸びるのだ。
 手前の根曲がり竹の藪は1~1.5mの高さである。この高さとこの密集では「藪こぎ」は苦痛なものとなる。
 白狐沢左岸尾根も純粋にブナ林に変わる前の高度では、このような森が続く。そして、いつの間にか「ブナ林帯」に入っていく。
 ブナ林下には竹は殆どない。非常に歩きやすく登りやすい。だから、あえて踏み跡などない方がいい。磁石で方向を確認しながら、自在に歩けるのがブナ林なのだ。ところが、少しでも「伐採」されているとそうはいかない。「竹」や「低木」の茂みが行く手を阻む。
 ブナ林帯を抜けるとダケカンバやミヤマハンノキの低木と竹藪が出てくる。道が消失したり、方向を誤ってこの「藪」に入ると、全身運動をしなければいけないことになる。しかも、そのあたりは地面が「岩混じり」なので足場が悪く、転倒する。
 樹木も豪雪の圧力で幹が歪にたわみ、私たちの足に絡みついては、掬う。下手をすると、頭から転倒したり、背中側に逆さまに落ちたりする。
 悪戦苦闘を続けているうちに「針葉樹林帯」が出てくる。岩木山の場合は「コメツガ」であり、八甲田山の場合は「アオモリトドマツ(おおしらびそ)」だ。
 岩木山には「コメツガ」のない尾根もある。それは百沢や岳から登る尾根だ。この尾根は、それだけダケカンバやミヤマハンノキの低木と竹藪が広範囲に長く続いている。
 その「針葉樹林帯」の上が「ハイマツ(這い松)」帯となっている。これが普通の樹林帯の構成なのだが、岩木山では「コメツガ」も見られず、「アオモリトドマツ」も見られない尾根が存在するのだ。)


     … 白狐沢下流域山麓から見える岩木山は森に覆われている…

   その「いい森」のある尾根を晩冬に登った記録(その2)

 この尾根のブナは、見たところみなまだ低くて細い。7~80年前に伐られた後に、ひこばえとして、または実生として育ったもののようだ。
 それでも、私よりはうんと年上だ。ひこばえとして育った木は、親木である根株の年を加えたら200年、いや300年にもなるはずだ。
 人ならば終焉であるはずのものが、まだ若木であり、4、50年では子供である。森はゆっくりと宇宙のペースで巡る。人は慌ただしくも、せっかちで短命だ。

 ゆっくり行こう。時間は十分にある。速さを競う年でもない。森に従おうではないか。 風を背にして、ザックの蔭(かげ)で仰向けになる。赤く色づいた梢がふもとに向かって弧を描き、枝が小刻みに震えて青鈍色の斑点を描く。吹かれるに任せ、動いて止まない。
 また、雪の上を動くのは、雪面に映るはっきりとした枝と梢の影や、天空を駆けるはぐれ雲の薄い影であり、時々ブナの根元の雪穴から飛び出すうさぎたちだ。
 騒然と風に翻弄(ほんろう)されながらも、抵抗など微塵も感じさせない。風よ、気の済むままにである。
 ところが、幹だけは動かず屹立している。微動だにしない静かな抗(あらが)いなのだ。まるで細くて低いのに、嵩(かさ)を感じさせるほどだ。

 自然に我が身を任せながらも、自分を生きて、命を引き継ぎ、種を伝えていく。長い生命の巡りの中で、自然に添って新しい形質を育んでいく。
 私はそこに、「人がすでに放棄してしまった進化」を見たような気がした。目の前のブナは、親木の命を引き継いで、まさに自噴する力で立っていた。
 道具を使い始めたころから、人は進化を拒否してきた。人ほど他力本願で自己変革になじめないものはない。自分ですることを忘れた人の「終末」は案外近いかも知れない。地球の温暖化も人は回避できないまま、死滅するのかも知れない。

 そんなことを考えていたら、「地球は冷える」と主張する地質学者がいることを知った。
 確かにCO2削減に向けたエコ論議は過熱気味だ。原子力発電を促すための「プロパガンダ」ではないのかと、思うことすらある。
 その中で、「地球温暖化の大きな原因が本当に二酸化炭素(CO2)なのか、もう少し冷静に議論する必要がある」と主張するのは丸山茂徳さんだ。マントル運動の研究で知られる彼は、国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は、20世紀後半以降の気温上昇の原因を人類の出すCO2としたが、それに疑問を投げかける。

 温暖化人為説は、昨年アル・ゴア前米副大統領と科学者集団のIPCCがノーベル平和賞を受賞するなどして「確乎」たるものとなった。しかし「IPCCの中にも異論を唱える学者はいる」のだそうだ。
 地球の歴史を見れば、温暖化は頻繁に起きてきた。気温に影響する最大の要因は太陽の活動で、宇宙線や地球の磁場に左右される雲の量、火山活動などもある。 

 「CO2が寄与する気温の上昇は太陽活動に比べたら微々たるもの。1940~1975年はCO2の濃度が高くなったのに気温は下がったんですよ」「これからは寒冷化に向かいます。私が正しいかどうかは、5年後に決着がつくでしょう」と丸山茂徳さんは言う。
 太陽活動はすでに弱くなっているのだそうだ。そう言われると、急に寒くなったここ数日間のことが気にかかる。
 だが、現在は、氷河時代の真っ只にある中のつかのまの間氷期(後氷期又は完新世と呼ばれる)に位置するのである。そして、「太陽活動はすでに弱くなっている」という「間氷期」であるにもかかわらず、地球が温暖であることが問題なのだろう。
 だから、環境省は、二酸化炭素(CO2)が引き起こしているとされる地球温暖化を否定する声に対して、国内の研究者の知恵を結集して反論していく方針を決めたのだろう。
 一方では、丸山茂徳さんをはじめとする「20世紀の気温上昇は都市化に伴うヒートアイランド現象のためで、CO2は無関係」など、CO2による温暖化自体を否定する声も一部の研究者の間で根強いのである。
 「地球温暖化」が杞憂であればそれにこしたことはないのだが…。
(この稿の一部は、毎日新聞電子版「ひと」欄を参考にして書いたものである) 

「野外観察」での発見 / 白狐沢山麓からの岩木山は森に覆われている

2008-09-27 05:53:46 | Weblog
(今日の写真はハナワラビだ。だが、今回の「野外観察」で撮ったものではない。数年前の秋に、二子沼に出かけた時のものだ。だから、ブナ林内のいくらか日当たりのいい場所に咲いていたものだ。
 今回の観察会で発見したものはその「場所」が全く違う。樹林の全くない「ススキ原」で、この写真のものより数等太い「担葉体」であって、その立ち姿は、まさに「にょきにょき」であり、色彩も輝くほどの「黄色」であった。
 他人は私を「被写体」を見ると「すぐに撮影する」人だととらえているらしいが、そうではない。まずは、肉眼での「観察」を始める。興味の引かれる被写体は「観察」する時間が長くなり、感興がのってくると「撮す」ことを忘れてしまうことがあるのだ。今回の「撮影忘れ」はそのような事情と、同じシダ類のヒカゲノカズラとの出会いという偶然性に驚いていたからであった。)

  ◎ 岩木山白狐沢下流域で開かれた「野外観察」その5 ◎

 … 白狐沢下流域山麓から見える岩木山は森に覆われている…

 井原俊一はその著「日本の美林(岩波新書)」の中で…、
 『人工林だってかまわないのではないか。ー数百年という時間をかけ自然を取りこんでいけば、天然林に近づいていく。問題なのは、樹木と生き物たちを根絶やしにして、森の時間をゼロにしてしまうことにある。環境と資源を含めた「いい森」とは、時間を貯え、その時間をけっしてゼロにしない、ということではないだろうか。』と言う。     

 牧草地から眺めても「大石神社から白狐沢左岸尾根を通り、大鳴沢右岸尾根を辿り扇ノ金目山を経由して赤倉キレット、赤倉御殿へと続く」かつての登山道跡は全く見えない。
 実際に入ってみると、取り付き地点が林道によって曖昧にされている上に低木と藪に覆われて見えない。
 さらに、中間地点ではブナの伐採によって、その後生えてきた萌芽林「ほうがりん:樹木の幹・枝を伐採利用した後の、切り口付近から出る萌芽によって造られた森林」によって道は消されている。
 扇ノ金目山には、熊の爪跡のある古い木製の標識があるが倒れて、藪に埋まっている。その上部は根曲がり竹が密生していてほとんど道は解らない。
 この状態はまさに、井原俊一が言う…、
 『環境と資源を含めた「いい森」とは、時間を貯え、その時間をけっしてゼロにしない』ということだろう。
 その「いい森」のある尾根を晩冬に登った記録を載せよう。

 このように夏場は「藪や低木」に阻まれる「時間がゼロ」でない尾根を登ることは苦しいものだ。だが、同じルートでも、積雪が固く締まってくる3月中旬ごろからの岩木山登山は本当に楽しいものとなる。この時季は、地図上には道のない多くの尾根を登ることが出来るのだ。
 ある年の3月22日、単独で白狐沢の左岸を詰めた。ここももちろん地図の上では道はない。それに続く稜線上の道も平成7年発行の地図からは消えている。
 雪質は硬くて歩きやすく、夏道を辿るよりも速い。当然、冬山を意識しているからザックは50リットル、重量は12キロを越えている。その上、耐風姿勢を時々とらなければいけないほどの突風が吹くという状態であった。
 そのような中を、標高1396mのピークまで2時間たらずで行けたのだ。これには我ながら驚いた。
 ピーク手前の急斜面ではアイゼンを持ってこなかったわが身を悔やみ、ののしりたくなるような思いをした。
 アイゼン代わりに輪かんを着けて、その爪を効かせての登攀を試みたのだが、歩きやすさを提供してくれた硬い雪にはあまり効果はなかった。結局ピッケルに頼り、爪やキックの効かない雪面ではカッテングで登るしかなかった。
 時折、風が回る。進行方向から吹いているものが、瞬時に横から、背後からと向きを変えて攻め立てる。何回かそれにあおられて、沢の北側絶壁に落下しそうになったが、その緊張を持続させながら、なんとか赤倉沢の切戸(キレット)を抜けて頂上に向かった。
 しかし、私のアイゼンを着けていない足まわりはあまりにも貧弱であった。更なる強風と雪面の氷化に追い立てられて、とうとう頂上を目前にして逃げ帰った。

 下山である。ピストンをするには、この尾根の場合はつまらないよりも恐怖に近い。百沢に下る尾根はつまらない。さりとて大黒沢の左岸尾根を経て弥生に出るのも、その年の2月に登ったばかりで新味がない。
 そこで、今は地図から消えてはいるが、30数年前の地図には登山道が明記されていた水無沢の左岸尾根を降りることにした。
 
 大鳴沢いっぱいに集められた風はエネルギーを指数的に増やし、限界点に達するや爆風となって岩鬼山の稜線越えに、森林限界まで一気に吹き下る。
 そして、雪面に出ているダケカンバやミヤマハンノキなどの梢を這わせて、それに続く疎(まば)らなコメツガの低木を踏みにじりながらブナの森に入り、一直線に幹を鳴らし、枝や梢に放物線を描かせる。
 白さを増した幹の灰色を辿って上を見上げると、高い青鈍色の空を遮って、わずかに赤く色づいた梢が大きく揺れる。

 森の時間は、誕生から終焉までとてつもなく長い。
人の暮らす日常時間とは違うのだ。人の命はここ数年、平均余命が延びてきているから、大きくみても80年だろう。(続く)

ヒカゲノカズラとハナワラビ「野外観察」での発見

2008-09-26 05:55:33 | Weblog
(今日の写真は、ツル性のシダ植物「ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属のヒカゲノカズラ「日陰の葛」だ。白狐沢を渡り、古い急な林道を登ったところの南面の「日陰」に咲いていた。受講者のある者が目敏く見つけて訊いてきた。私は山頂近くの高山帯でよく見かけるヒゲカズラかと思い、そう答えていたのだが、自信がなかったので阿部会長に訊いたところ「ヒカゲノカズラ」だと言う。)

  ◎ 岩木山白狐沢下流域で開かれた「野外観察」その4 ◎

 これは北海道から九州に分布している。和名は「日陰の葛」と書くが、何と日当たりの悪い場所(日陰)には生育しないのだから、奇妙である。
 ある程度の水分があり、尾根筋や谷筋の「鉱物質土壌」が露出しているような場所に生育する。私たちが見たものは急な林道の赤土がむき出しになっている場所であった。ただ、この写真は私たちが見たものではない。後述する「事情」があって実物を撮影することが出来なかったので、あるブログから「借りた」ものである。それには「花崗岩地帯の小規模な土砂崩れの跡地で撮影した」との注書きがあった。
 阿部会長によると「昔は道端などによく生育していたものだが、近年は見ることが少なくなった」ということである。アスファルト舗装道路になり、日当たりのよい土がむき出しになっている裸地が少なくなったからであろう。
 茎は地上を這い、所々から根を出して広がり、群落を形成する。夏から秋にかけて、胞子嚢を形成する。
 水の中に沈めてもなかなか腐らないので、養魚池に入れて金魚や鯉の産卵のための藻場の代用にするそうである。特に、リンゴ農家では「胞子」をリンゴ受粉の際の「花粉増量剤」に利用したものである。現在は使っているのかどうなのかは定かではない。
 ただ、「ヒカゲノカズラ」とは呼ばず「石松子(せきしょうし)」と呼んでいたように思う。これはヒカゲノカズラの胞子のことだ。漢名では全草は「石松」あるいは「神筋草(しんきんそう)」という生薬名で呼ばれている。
 これは風湿・活血などの効能があり、リウマチなどの関節痛・麻痺やしびれなどにも効き目があるそうだ。
 あまり知られていないことだが、この「胞子」は赤ちゃんのおむつかぶれや寝たきり病人の「床ずれ」防止のために用いられていたそうである。

 私たちは阿部会長から出されていた「どうしてヤマブドウの蔓は垂直に伸びる、つまり成長することが出来たのだろうか」の答えを探すためにヤマブドウの蔓ある藪に目を向けながら急な林道を登って行った。
 そして、ある受講者がヤマブドウの蔓を見つけたのである。だが、発せられた声は「(ブドウが)なっていない」であった。答えより先に「食べられるブドウ」に関心がいったのだろう。当然といえば当然のことだ。この時季のヤマブドウは甘酸っぱくて美味しいのだ。
 藪中のブドウ蔓はまだ幼木であるらしい。5、6年生のナナカマドの枝にしっかりと絡みついている。蔓を引っ張っても抜けることはない。絡みつかれたナナカマドが大きくしなるが、抜けない。しかも、蔓はさっき見たような「直状」ではない。
 何故、蔓が「直状」に垂れ下がるのか、それは絡みついた樹木の成長とヤマブドウの蔓の成長度合いが同じだからである。つまり、この場合は今後、ヤマブドウとナナカマドが同じ速さで成長していくという訳なのである。そして、数十年後にはナナカマドの枝からヤマブドウの蔓が「直状」に垂れ下がることになるのだ。
 
 受講者たちはすばらしい解答をした。そのご褒美だろうか。今度はたわわに実った「ブドウ園」に出会ったのである。林道の山側斜面がすべてヤマブドウに覆われていたといっていいほどであった。
 だが、入っていくところが狭く、全員は入っていけなかったので、残った者たちは、私を先頭にさらに林道を回り込んで、その上部に辿り着いたのである。
 そこは平らな広場になっており、背丈ほどの赤松やミズナラの小木にヤマブドウが絡みついており、秋の陽光を浴びて「紫色」の房を重そうに垂れ下げていた。
 その近くの赤土の部分に、先ほどの「ヒカゲニカズラ」を発見したのだ。だが、その時、目はヤマブドウも発見していた。下では歓声を上げながら、ブドウ狩りに興じている。「私たちもその人たちに負けてはならない、負けていられるか」という思いに囚われていた。
 背丈ほどのところにたわわに実っているヤマブドウである。実に簡単に採れるのである。瞬く間に、各人歓喜の中でビニール袋いっぱいのヤマブドウを採取したのである。
 私も同じように、この「自然の恵み」に興奮していた。そして、「ヒカゲノカズラ」の撮影を忘れてしまったのだった。

 偶然と言えばあまりにも偶然である。本当にこれが事前に計画されたものであったら、その計画性はピカ一というほかないだろう。
 お昼ご飯は、山麓の廻り堰大溜め池が見えるススキ原の中で、思い思いの場所に陣取って食べた。
 そのみんなの足下、腰下にヒカゲノカズラと同じシダ植物のハナヤスリ科ハナワラビ属「ハナワラビ(花蕨)」がにょきにょきと生えていたのである。
 偶然か、神の思し召しか、それとも、事前に「あの場所でXをみる。この場所でXと関係あるYを観察する」と計画したことなのだろうか。観察とはこの偶然性があるから楽しいのである。マニュアルどおりの観察会ほど「つまらない」ものはない。

 「ハナワラビ(花蕨)」は一風代わったシダ植物だ。裸子植物の遠いご先祖様ではないかという説があるくらいで、葉だけはいかにもシダ植物という印象である。担葉体の上に栄養葉と胞子葉を持っていて担葉体は多肉質、栄養葉は羽状複葉、胞子葉も羽状複葉だが、葉身はなく、軸に直接に丸い大きな胞子嚢(のう)がつく。
(明日に続く。昨日の写真はトウホクノウサギの足跡です。左の方に進んでいます。左側の大きな2つの足跡が「後ろ足」、右の小さな方が「前足」です。)

岩木山白狐沢流域・何の足跡だろう?「野外観察」での発見

2008-09-25 05:51:35 | Weblog
■ 何の足跡だろう?「野外観察」での発見 ■
 
 (今日の写真は谷地にしっかりとついていた「動物」の足跡である。ただ、この無雪期にこのような場所で見ることは珍しい。また、このような土が軟らかい場所であるからついたのであるが、この「動物」がこのような場所をとおることも珍しい。
 しかし、この「足跡」は、岩木山では別に珍しい動物のものではない。積雪期には山麓のリンゴ園地から山頂直下まで、どこでも見られる「獣」の足跡だ。
 この足跡は何を語るか。それは、慌てて「ここ」を横切って周囲の藪に逃げ込んだことを教えてくれる。しかも、私たちがここに到着する直前であろう。私たちの発する物音と気配に驚いて、逃げ出したのだが、極度の狼狽から、いつも通る方向ではなく、別な方向に向かい、やむを得ずこの「場所」を通ったのである。そして「足跡」を残してしまったのだ。
 さて、この「足跡」は、写真の左右どちらに向かって移動したものだろう。それに、この「獣」は何だろう。)

  ◎ 岩木山白狐沢下流域で開かれた「野外観察」その3 ◎

 (承前)
 ワレモコウの大きな茂みを過ぎると、目の前には大きな林が立ちはだかっていた。標高は600mほどになっている。
 その林の縁で一休みをする。ススキは生えていないし、樹木が伸ばした枝の下は低い背丈の草が生えており、腰を降ろして休むにはうってつけの場所だった。
 遠く、眼下には廻り堰の大溜め池、近くに砂沢の溜め池、そして、その奥には五所川原市街地が見える。
 休憩を取りながら、「さっき横切ってきた林と比べて下さい。そして、大きな違いがあれば、それは何でしょう」という「観察の視点」を受講者に与える。
 ある者は早速、林の中に入って行く。ある者は「透かす」ようにして樹林を見る。そして、出てきた答えは…
 「樹木の背丈が高い」「樹木が太い」「樹木と樹木の間隔が広い」「ゆったりとした空間が広がっている」「同じ樹木が多い」などである。
 実にいい観察をする。まさにそのとおりなのだ。観察する目は確実に「野外観察」を重ねる都度、深く広くなっている。受講者たちの「眼」は成長しているのである。
 この林は「森」と表現した方がいい。しかも、その殆どが「ミズナラ」であり、たまに、「イタヤカエデ(板屋楓)」が混じっている程度である。
「イタヤカエデ」は葉が5~7裂で、裂片の縁が滑らかで鋸歯がないので、すぐ分かる。カエデ類の中で「葉の縁」が滑らかなのはこの「イタヤカエデ」だけである。この樹液からは数%の蔗糖が取れると言われている。

 ここは「ミズナラ」で構成された「極相林」なのだ。「放牧地」開発はこの手前で終わっていた。止められていたのである。
 「極相林」とは、落葉樹林にあってはミズナラやブナなど構成する森林である。森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降、樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、この「極相に達した森林」のことを極相林というのである。
 確かに、下部にあった林は「雑木林」であり、アカマツ、ヤマナラシ、ウダイカンバ、ハンノキ、マンサクなどで構成されていた。何よりも雑多で密集していた。
 同じ、「森林」という言葉で呼ばれても下部の沢沿いにあった森と今私たちが見ている森とでは大きな違いがあったのだ。それを、受講者たちは、しっかりと見抜き「理解」したのである。
 「野外観察」の目的の一つ「雑木林と植物の遷移」ということが達成されたのである。
 それはこういうことである。  
…ミズナラなどの樹林が切られて、放置されていると雑草が生えてきて、4~5年もすると「ススキ原」になる。
 14~15年ぐらい経つと落葉広葉樹林や針葉樹林となる。これらの木は「陽樹」といって、成長のために日光を多く必要とするものだ。そのため、樹木が大きくなり、林に日光が多く入らなくなると地面に生えてきた次世代の芽は育たなくなる。
 そこに、雑草とともに「ミズナラ」などの幼木が育つのである。これらは「陰樹」と呼ばれ、「成長のため」に日光を多く必要としないのである。
 そして、数十年もすると「ミズナラ」に数種の樹木の混じる樹林帯となり、人の手が加わらない限りこの状態が続くのである。
 このような「植物群落」の時間的な変化を「遷移」といい、これ以上変化しない姿を極相林というのである。

 「雑木林」は極相林への変化の途中であって、人の手でその変化が踏みつけられている状態にされている林相なのだ。人が造る雑木林は、日光が常に多く入るために、萌芽更新がよく行われるので、極相に遷移出来ないのだ。
 岩木山の中腹部から山麓部にかけては、所によっては雑木林があったり、ススキ原があったり、極相樹林帯があったりする。
 今、私たちの目の前で見られる風景は、長い年月の「自然と人間とのかかわりの積み重ねの姿」なのである。(明日に続く。)

古い林道の法面で実をつけていた灰汁柴「アクシバ」 / ススキ原に咲くワレモコウ

2008-09-24 05:48:45 | Weblog
 ■ 岩木山白狐沢尾根の古い林道の法面で実をつけていた灰汁柴「アクシバ」■ 

 (今日の写真はツツジ科アクシバ属、またはスノキ属の落葉小低木灰汁柴「アクシバ」の実だ。まだ、完熟ではない。もう少し時が経つと果実の肌が透きとおるような赤い色になり、完全な「漿果(しょうか)」となる。漿果は液果とも呼ばれ、果皮が肉質で、液汁の多い果実の総称のことだ。
 この実は直径7~8mmの球形で、9月から10月にかけて赤く熟して、薄い甘みと酸っぱい味がして食べることが出来る。
 北海道、本州、四国、九州の山地の林内の木陰などに生えて、樹高は20~50cm、樹皮は非常に特徴的で緑色をしている。枝は多く分岐して水平に広がる。
 葉は濃緑色の単葉で柄がなく互生している。葉の縁には細かい鋸歯があり、葉先は尖っている。
 葉腋「葉と茎の間」に淡紅色の花を1個ずつ垂れ下げてつけ、花冠は深く4つに裂けて、裂片が外側に反り返り、雄しべや赤褐色の花粉袋を花冠の外に、くちばし状に突き出す。この容姿は非常にユニークであって、一度出会ったら絶対忘れることの出来ない花になるだろう。それに引き替え、この実はあまりにも変哲がない。
 拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅」では188ページに掲載されているので、「花」を見たい人は、そちらを参照されるといい。)

 ◎ 岩木山白狐沢下流域で開かれた「野外観察」その2 ◎

(承前)
 猛烈に密生した竹藪をくぐり抜けて、私たちはゆったりとした空間の広がる「雑木林」の中に入った。そして、沢を渡り、対岸の高いところで、阿部会長がみんなに、高いミズナラの頂部に近いところから垂れ下がっている、太くて長い「ヤマブドウの蔓」を指して…  
 「どうしてこれは垂直に伸びる、つまり成長することが出来たのだろうか。その答えは藪にあるヤマブドウの蔓や成長の仕方を見ると分かります。」という課題を出したのである。
 このほぼ南北に伸びている「林」で見られた樹種は、ミズナラ、アカマツ、ヤマナラシ、ウダイカンバなどであるが、いずれも樹高は低い。自然に生えたものであろう。一旦、表土を不完全な形で剥ぎ取ったが、「牧草地」とはしないで、そのまま放置した場所が「林」として遷移したものである。
 私たちは会長の出した課題を「頭」に入れて、その林を抜け出たのだ。そうしたら、眼前にまた、ススキ原となっている「原野」が広がっていた。そして、原野の奥には「鬱蒼」としたミズナラ林が見えている。当面の目標は、この「ミズナラ林」に行くことであった。
 このススキ原をまっすぐ進むと距離は稼げるのだが、そうすると「単調」な観察しか出来なくなるので「林縁」に沿って進むことにした。
 植物を遷移という点で見ると、ススキ原は草原としてはほぼ「最後の段階」に当たる。私たちの見ているこのススキ原も後、何年かするとなくなって、今し方通ってきたような林に変わるのだろう。ススキ原を放置すると、アカマツなどの先駆者的な樹木が侵入して、次第に森林へと変化していく。
 ススキ原の状態を維持するためには草刈りや「野焼き(火入れ)」を定期的に行うことが必要なのである。 
 ススキは、その株が大きくなるのには時間がかかる。だから、初期の草原では姿が見られない。しかし、年を追うごとに背が高くなり、全体を覆うようになるのである。
 林縁に沿って歩き出したらある受講者が、ミヤマクワガタの死骸を発見した。死骸といっても固い甲殻部分だけである。「中身」は空である。中身はきれいに掃除されている。他のものとはめったに、出くわさない。なぜだろう。 
 山道を歩く。登る。獣道のような所を歩く。そんな時、そんな所では、生き物の死骸はまずもって見つからないし、見当たらない。

 自然界は生命体の集合だ。生命あるものは必ず死滅する。だから、いたるところに、それらの死骸があっていい。それなのになぜ、私たちの目に触れないのだろう。
 それは別な生き物、つまりシデ虫の仲間、クロシデムシ、ヤマトモンシデムシ、エンマムシなどが、死骸を処理(掃除)してくれているからだ。
 自然が生きていればいるほど、その連鎖的処理能力は大きくなる。かくして、私たちの目には、生き物の死骸が余り、映らなくなる。まさに生々輪廻(せいせいりんね)なのだ。
 しばらく、林縁に沿って歩いたところで、上部の林に向かい方向を変える。背の高いススキの大きな株と株の間に、一回り小さい異種の「群落」が見えてきた。色具合も明らかに違う。
 私は岩木山の山麓でこれほどの「群落」を今まで見たことがなかった。それは昨日の写真にあった「ワレモコウ(正しくはナガボノシロワレモコウという)」の大群落だったのだ。
 本会では、この「ワレモコウ」の生育を助けるために「ミズバショウ沼」周辺でススキの刈り払いをしている。そうして、ようやく「ワレモコウ」が増えてきた。
 それに比べると、この「大量」の「ワレモコウ」はいったい何なのだ。何も保護しなくてもこんなにある。私は驚いて戸惑っていた。
 「ワレモコウ」は「ゴマシジミ」という蝶の食草である。幼虫がこの「花」を食べるのである。「ゴマシジミ」の保護には「ワレモコウ」を保護しなければいけないのだ。
 阿部会長がその「ワレモコウ」の茂みに近づいた。「花穂」を見て言った。
「幼虫がついていない。食べた痕もない。ここでゴマシジミは繁殖していない」と。
 だが、「ミズバショウ沼」周辺では確実にゴマシジミは繁殖し増えている。
(明日に続く。)        

岩木山白狐沢下流域山麓に咲くワレモコウ / 登山道の復活と継承はなされるか 

2008-09-23 05:05:55 | Weblog
 ■ 岩木山白狐沢下流域山麓に咲くワレモコウ ■ 
 (「牧草地」の中を進む。「採草地(原野)」の表土を剥いで平坦にしたのであろう。だが、所詮「山」である。凸凹地形は当たり前だ。赤土が至るところにむき出しで出ている。雨水や雪解け水が流れ、凹地に入れた「表土」までを運び出してしまったのだろう。ここ数日来の晴天で、その赤土地帯はすっかり乾燥している。
 わずかに根付いた稲科の植物の群がりの中からは「エンマコオロギ」を中心とした直翅類のなき声が聞こえていた。)

 私たちは上部を目指してゆっくりとした歩調で「観察」をしながら歩いていた。時々、立ち止まり、丸く輪になって「観察物」や「観察動体」を注視し、「メモ」をとっては、あるものはカメラで撮影した。
 その日の行動は、この放牧地と原野、笹藪、雑木林を抜けて白狐沢を渡って古い登山道の取り付きまで行くものだった。
 堅い稲科の植物とシダ植物「ワラビ」がまばらに生えている場所を抜けると、目の前には猛烈な「根曲がり竹」の藪が現れた。その奥は雑木林である。藪の深さは約15m、くぐり抜けることが出来ないというわけではない。
 受講者は、これまでの野外観察で「藪こぎ」を経験してはいなかった。彼らに「初体験」をしてもらおう。
 「手でかき分けて歩くというよりも、潜って歩くという気持ちになって下さい」と私が言う。そして、先頭で「藪中の道」のような「踏み跡」を先に進んだ。
 そこは「獣道(けものみち)」のようだった。おそらく受講者の目には、そのようには「見えない」はずである。
 藪の中は歩きづらい。これは上背のある人間だけではない。体高の低い「四つ足獣」にとっては人間ほどではないだろうが、やはり歩きづらいのだ。そして、出来るだけ歩きやすい「通路」を色々な獣が通うのである。
 そうしているうちに、藪の下に、「獣」が易々と往来できるような道が出来てしまうのである。これを「獣道(けものみち)」というわけである。
 藪が「薄く」まばらになったと思ったら、そこは雑木林の縁だった。雑木林の中は細い沢になっている。その沢を渡り、対岸の高いところで、後ろを来た受講者を待っている。
 みな、一様にほっとした顔をしているが、その中には、初めての「藪こぎの興奮と感興」を浮かべていた。
 「なぜこんなに違うの」「歩きやすい」「空間がいっぱい」などなど、受講者は思い思いに話す。
 林縁手前の草がほとんどない荒れた原野、猛烈に密生した竹藪、そして、空間がいっぱいの林間など、この「変化」の連続を「感じ取る」ことも「野外観察」の目的であり、学習なのである。(明日に続く。)
 
 ■ 登山道の復活と継承は可能か ■

 今日もまた「廃道」と化した登山道についての話しである。

 さて、荒廃している登山道を復活させるためにはどうすればいいのだろうか。
まずは、その道を確認して、そこを歩き、登ることである。
 私はこれまでに、それを自分なりにやってきた。しかし、移動手段としてバスと自転車と自分の足しか持たない者の「守備範囲」は時間的にも距離的にも狭いものである。だからタクシーを利用することも多く、登るよりも下山時に調査をすることも稀ではなかった。                
 頻繁に行けるのは岳から百沢、弥生、大石までが限度である。その結果、岩木山の北を中心とした「三分の一」がこれまでの踏査では手薄となっている。

 道なき道の確認には、下草の出ない雪解けの直後か、下草が枯れたり小木の葉が落ちた降雪前が時期としては最適となる。だから、それはかなり限定された時になってしまう。
 しかも、それらの道は時を待たないでどんどん荒廃している。今年はかろうじて判別のつく踏み跡も、来年は消えるかも知れない。一人では、この二つの「時」に追いつかない。
 追いつくためには、地域の山岳会員や一般登山愛好者など、とにかく多人数ではない複数で登ることであろう。そして、出来るだけ早い時期に地図を作製しなければいけない。
 地図にはただ単に実線を書き込むだけでなく、目標になるものとしては、目に見えて確固とした判断物となる通年的・四季的な植生、地形、遠望物との角度など、距離としては歩数、分単位の時間などを詳細に記入する必要があるだろう。
 それは道なきところを初めて歩く者でも歩けるように、伝承していく作業だからである。
 標識等は、登山口には確実に設置するほかは、最少の数にとどめ、赤布をつける程度にする。木の幹や岩肌へのマーキングは的確性を重視し、なるべく少量で小さくすること、色は自然や背景とマッチするようにして統一することなども必要であろう。      

 岩木山を毎日仰ぎ見るこの土地に発足してから、数十年になろうとしている一、二の地域山岳会が弘前を中心に存在している。
 これらの山岳会には、登山道を継承していく「責務」があるのではないかと考えるがどうだろう。
 私が所属する「山岳会」でも、スカイラインが敷設され、開通したころにはこれによる「自然破壊の監視と調査」などが話題に上ったこともあった。ところが、いつのまにかこれも、登山道のように廃れてしまったかのように見える。
 だが、その根っこは登山者の精神の中に脈々と生き続けているものと信じている。その証として、登山道の継承に取り組むことは意義のあることなのである。
 
 岩木山の消失した道、地図から消えてしまった歴史的な道に愛着を持ち、それを探し、踏み跡を辿る登山、これも、現代のアルピニズムの一端だろう。 

岩木山白狐沢下流域山麓に広がる「牧草地」 / 廃れる登山道、観光と伝統文化

2008-09-22 05:48:35 | Weblog
■ 岩木山白狐沢下流域山麓に広がる「牧草地」■

(今日の写真は岩木山白狐沢下流域山麓に広がる「牧草地」だ。昨日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察であった。自動車から下車したのは、まず、この場所の近くであった。
 降りたとたんに受講者は全員「歓声」をあげた。それは、あまりにも「変容」した岩木山を見たからである。
 それでは、私たちはどこにいたのだろうか。それは五所川原市と直線的に結ぶ「線上」にいたのだ。五所川原市から見える岩木山は鋭角的で厳しく屹立している。もっとも男性的で荒々しい山容、まるでマッターホルンのように見える。ところが、同じ直線上にいながらも、目の前にある岩木山は「立ちはだかって」はいるものの、気高く鋭く立っている山ではなかった。広がりはあるが低い。峰を連ねてはいるが、その連なり方も何となく「優しい」。
 ただ、赤倉沢や白狐沢の深い谷を見せているだけであった。この「変貌」を為す理由は、見ている場所の「高さ」と「距離」にある。見ている場所の標高は350mほどである。山頂までの直線距離は2km程度だろうか。
 私たちのものの見え方は「遠近法」によっている。「遠くのもの小さく暗く、近いものは大きく明るく」見えるのだ。対象から遠く、「低く」なるとその全体が見える。しかし、高くなり、距離が近づくと「山頂」などはその手前にある山の陰になってしまい「見え」なくなる。まさに、そのような位置関係で「岩木山」を見ているわけだから、その「変貌」には驚くのである。
 しかも、受講者の大半が見慣れている「岩木山」は「弘前」から見ているものだったし、中には生まれが五所川原という人もいたので、なおさらなのである。)
 
 昨日もまた「雨」とは関係のない観察日和であった。
 たまたま偶然が重なっているだけなのだろうが、毎回「晴天」に恵まれている。よほど、受講者の「人柄」がいいからだろう。
 それに、昨日は受講者全員の参加、すなわち、「休講」する者がいなかったし、講師陣に阿部会長も加わり「密度」が高く、「幅」の広い観察内容となった。
 観察内容については明日掲載することにしよう。(明日に続く。)

 ■ 観光と伝統文化 ■

 かつては、ここの脇を通って山頂に行く道があった。昨日に続けて今日も、「廃道」になってしまう「登山道」のことについて書きたい。

 ところで、ひと頃、盛んに「文化観光立県」ということが喧伝されていたことがある。バスの中などいたるところで「文化観光立県」というポスターを目にしたものだ。最近では、弘前市も「攻めの観光」などといって観光に力を入れている。
 観光が経済効率を上げて、事業として成り立つためには大勢の観光客を集め収容して、金を使わせなければいけない。
 人を集めるために非常に効率のいいのが、交通網や交通手段の整備である。ところが、それが地域の有形・無形の伝統的な文化を潰すことになりかねないのだから皮肉だ。
 この典型として「スカイライン」を挙げることは可能であろう。これによって岩木山への登山客(観光客)は等比級数的に増えた。
 おそらく、スカイラインが出来る前、つまり有史以来岩木山に登った人の数を関数的に越えているだろう。
 そして、そのことが伝統的な地域文化としての岩木山に関わる信仰登山とその形態を喪失させ、人々の心から「お岩木様」への畏敬の気持ちを奪ってしまったのである。その結果として、登山道の荒廃がどんどん進行しているのだ。

 観光だけに力点を置くと伝統文化は衰退する。地域の特性ある伝統的な文化を保持し、それを育てていくことによって、それが個性ある観光資源となる。
 無個性、無顔貌な日本のどこに行っても出会えるような「文化」は本来観光となじむものではないだろう。文化を優先させないところに「観光立県や観光立市」などはあり得ないはずだ。

 京都や奈良には悠久の伝統文化が、しかも有形として存在しており、地域の人たちが、守り育てているという誇り(これを無形の文化と呼んでもいいだろう)を持って観光客を迎えている。だからこそ、そこに優しい「思いやり」などのマナーも生じてくる。そして、観光が成り立っている。
 伝承文化を衰退させておいて、観念的な歓迎のための「思いやり」だけで、形なき実体を補い、経済効率を生むなどと考えるのはまさに絵に描いた餅に等しいだろう。それよりも先に伝承文化の地域的な保存と継承、そのための人材の育成・資金的な援助が必要であるはずだ。
 津軽富士に委ねられた敬虔で素朴な信仰と信仰心からくる歴史的な登山形態は、自然を利用・支配してやまない主義によって、ゆがめられすっかり希薄になっている。岩木山の歴史的な個性も伝統も剥奪された。

 自然に対する畏敬の念の減退や自動車道路利用という安易・安直な登山はますます岩木山を無顔貌なものにしていくだろう。頂上に立つ人は今や岩木山そのものを見ていない。
「岩木山」とはこの津軽の地で営々と人々が築いてきたすべてのものの象徴であるとも言えるのである。

岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山・3 / 荒れている道、廃(すた)れる伝統文化

2008-09-21 05:06:14 | Weblog
 ■ 岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山・3 ■

 (今日の写真も大石神社の少し手前から右の車道に入り、砂利道を移動して草原に出たところで撮したものだ。標高は350mほどであり、車道の下部には原野や草原が広がっている。さらに下方に目をやると、山麓の直ぐ下には鶴田町の「津軽富士見湖(廻り堰の溜池)」が見えるし、その向こうには五所川原市街地が広がっている。はっきりと目につくのは「ドーム」である。
 広がる「牧草地」…ここも後、数年、手を入れられないと、ススキ原に変わってしまうだろう。いくらかは「人手」が加えられているようだ。
 視点を北側に移動すると、津軽半島の穀倉地帯が見える。黄金色に輝いている部分は十三湖の前に広がる稲穂を垂れた水田地帯である。)

 かつては、この場所を通って山頂に行く道があった。昨日に続けて今日も、「廃道」になってしまう「登山道」のことについて書きたい。

 ■ 荒れている道、廃(すた)れる伝統文化 ■

 「廃道」や荒れている道は、伝統文化の荒廃ではないだろうか。
昨今の登山人口は数十年前の登山ブームの時よりも増えているだろう。岩木山に登る人は、ひと昔ふた昔前よりも確実に多くなっている。そして、一方では登山道が荒れている。

 荒れていることには、二つの事実がある。
一つは人が入り過ぎて、スカイライン・リフト終点から山頂に至るまでに見られるように、「踏み荒らされているということ」である。
 今一つは、人が入らないことに加えて、「畑開墾や林道敷設・スキー場建設によって登山道が消失したり曖昧になって、解らなくなっていること」である。  
 
 ところで、設置者や許認可した国や自治体は、短時間で楽に登れる「自動車登山道や登山リフト」を作ることが、それまでの原生的な自然の破壊にとどまらないということを知っていたのだろうか。あるいは、そのことを「熟慮」したのだろうか。
 地域の人々の岩木山に対する伝統的な信仰が、その外的および心的な形態まで変容させられ、それに伴い、「登山道を麓から登ることで成人を自覚するという伝統的な登山」も影をひそめ、次第に登山道も廃れていくこと等を、当然、事前に考えたであろう。
 つまり、地域の伝統文化の衰退に連なることを認識していたにも拘わらず、「観光営利」に主眼を置いたのである。
 果たして、スカイラインや登山リフトは登山客の大多数を一極集中することに成功した。登山客の大多数は短時間で楽に登れるこのコースに集まり、そこの登山道はオーバーユースの結果として踏み荒らされ、手を加えてさえ落石のある、しかも岩木山にしか咲かない固有種であるミチノクコザクラも殆ど咲かない道と化してしまった。
 一方、既存の多分に「地域性の強い登山道」には、登山者や登山客が訪れず、踏み跡は積雪に押しつぶされ、雨水に流され、下草に覆われて消えていった。
 それに追い討ちをかけたのが、畑開墾や林道敷設・スキー場建設である。これらが登山道や登山口を消しつつある。
 
 さて、この土地・地域に連綿と続いてきた山岳信仰登山も民間的な伝承信仰も文化である。文化は伝承されることで伝統的なものとなる。
 この伝統的な「文化」や「無形文化財」こそが「観光資源」であると、私は思うのだ。有形の「自然」を「観光資源」とすると「有形」なるゆえに、それは「無常」という危惧を常に持たねばならなくなる。
 しかも、「観光客への便宜」を最優先にすると、常に「自然は破壊」されて、いつかは「資源」という実態を失うだろう。そうしないために、より「強固で広範囲」な「補強」という自然破壊を繰り返すことになる。まるで、自転車操業のような危うい「観光事業」が続くのである。
 「先人たちの残してくれた貴重な財産」を観光資源とした場合、それは「人」を育てることでいつまでもなくなることはない。自然破壊もせずに済む。人がこの地域に住んでいる限り、「無形な文化」は廃れることはないのだ。
 しかし、県も市も町も村も「地元」の伝統文化を継承していく「行政的」な取り組みや努力をしていない。
 「行政的」な事業と言えば「箱物」と言われるように「形のある、つまり有形」物や「投機的」なことばかりだ。行政には地元の「文化」を継承しながら育んでいくという責務があることを忘れてしまっている。
 地元に根ざした「無形の文化」は確実に「観光資源」となるものだ。それは、すべてが地域性と歴史を持った「個性」を備えているからである。
 日本のどこにでもあるような「建物」や「町の区割り」、それに公園などを作っても、観光客はやって来ない。自分が住んでいる町で目にすることの出来るものを「見る」ためにやって来る「バカ」な観光客はいない。
 最近の弘前中心街の、整備された「町並み」を見て、「あっ、どこかで見たな」と思うのは私だけだろうか。「まね(模倣)」はいけない。「まね」の思想には「独創性も個性」もない。
 古い地名を捨てて、新しく「青山」とか「緑ヶ丘」、「自由が丘」という町名にした「街」が弘前市にもある。「青山」とはもちろん「東京の青山」を真似たのだろうし、「緑ヶ丘」、「自由が丘」などは全国にどのくらいの数があるのだろう。

 登山道は、その伝統的な「無形の文化」に似ている。それを必要としなかったり、守らないでいるとなくなってしまうものだ。(明日に続く。)

岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山・2 / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」最終回

2008-09-20 05:31:15 | Weblog
 ■ 岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山・2 ■

(今日の写真は9月10日に撮した岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山だ。この撮影地までの道順だが…
 岩木山環状線から大石神社に向かって入り、大石神社の少し手前から右の車道に入る。しっかりした砂利道を移動して草原に出たところで下車する。
 車道の下部には原野や草原が広がっている。標高は350mほどである。下車地点の遠景は岩木山の北東面である。左から赤倉登山道尾根、赤倉キレット、1396mのピーク、1250mのピークと続いている。この1250mピークが扇ノ金目山に連なっている。右の深い沢が白狐沢、左の沢が赤倉沢だ。
 前景は山麓尾根に生えているミズナラを中心とした雑木林である。その手前が疎林と草地が混在していたかつての「採草地」跡であり、手前左側の「草地」は、放棄された「牧野」跡である。このような「牧草地」跡がこの上部に延々と連なっている。

 昨日も書いたが、ここからもかつては「山頂」に行くことが出来たのである。ところが、登山者は「先人が残した文化の継承者」であることを止めてしまい、この道は廃道となってしまったのだ。

 …登山道を含めた道は先人がさまざまな思いを込めて、苦しみながら築いてきたものである。先人の「思い入れ、考え、苦悩」は同じ「人」である以上、現代人の私たちにも通じるものだろう。
 古くからの道に思いを致すことは「温故」と呼ばれるものと接点があるように思える。「温故」には、時代が変わっても常に、現代に働きかけてくるものがあり、時を越えた永遠の不変なる心情を、また普遍なる真実を過去から現在に注いで、さらに未来へとつないでいくものがあるだろう。
 つまり、時代を越えて人の心に永遠に働きかけ、訴えてくる要素を持ったものである。それゆえに、古い道であってもやはり、それは現代に通じる道であるだろう。そして、我々は先人と同じように、さまざまな思いを持ってこの道を歩かねばならない。こうすることが歴史を作っていくことに連なるのである。これは伝承と呼んでもいい。

 歴史とは「今」を介在させながら、今を未来につないでいくことでもある。先人たちは、確実にこれを実践していた。先人たちは、今、つまり現在につながらない未来や将来など絶対にありえないことを知っていた。
 だから、今を「自然とともに必死」で生きた。そうしてして、つないできた。
 そのことを、私たちは伝統と呼ぶ。多くの現代人は忘れがちだが、この生きざまは当然、現代の我々にも課せられているのである。
 「道」は財産であり伝統である。財産を食い潰し、「道」を廃れさせることは、先人の築いてきた「文化を放棄」し、「根絶やし」にすることだ。歴史的な財産を、「道」を廃れさせてはいけない。
 登山者は「先人たちの財産と伝統を継承する者」たちであるはずだ。
 そして、登山者とは、道なきかすかな踏み跡に先人たちの思いを辿り、自分の思いを重ねながら歩き続ける「継承の徒」でもある。
 頂上に立つことにのみ価値を置いて、ぞろぞろと列を成し、人の後ろについて歩いたり、踏み固められた道に導かれているような「山岳会員」もいるが、彼らはリュックは背負っているが「先人たちの財産と伝統」を背負ってはいない。単なる登山客に成り下がっていると言えるだろう。…

 ■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」(最終回)■

 Mさんは続けて「本書は、ひたすら、ものを思うことを我々に迫る」と言う。そのとおりなのだ。「カラーガイド」としてあるが、決して華美であったり、軽快ではない。
 私に言わせると「文章」は、花の美しさや華やかさとは違いどろどろとした人間生活に言及している。表層的で軽い己の人生や思想を重さをもって徹底的に打擲する。「重い」のである。
 人生というものを内面的に突き詰めた生活を自分の人生に取り込むことが苦手な人はこの「カラーガイド岩木山・花の山旅」を読むことは「重く」て「苦痛」だろう。そのような人は「写真」を中心に「花図鑑」として楽しめばいいのだ。
 そのようにすればMさんが言う『その花がそこに咲いている奇跡を思い、考え、ありのままを受容し、謙虚になり、自然と一体になって生きることの価値を思うことを迫る』ことから逃れることが出来るだろう。
 Mさんは決して、その「迫られる」ことから逃げようとしない。その花と屹然と対峙し、花から学び、それを自己の人生に生かそうとする人であるはずだ。
 
 私にとって花々との出会いは楽しいものではあったし、多くの花々の名前を知る機会にもなった。それらの植物的な特性、生育条件や生育事情を知ることになった。
 だが、元々「植物の素人」であり「一介の登山者」である私にとっては、それらは別に大したことではないのだ。花々が、そして、自然の有り様が「人間社会から人間を学ぶ」以上に人間を学ばせてくれたことに意義があったし、喜びがあった。
そのことを的確に読解しているものが、Mさんの「書評」である。
 それは、『山という非日常の世界に身をおいてみることが、現状を打開する大きな力となることもある。人生を左右するような心的体験を呼び起こすこともある。山に咲くまことに小さな花ひとつひとつに、自らの人生体験を重ね合わせ、生きることの深遠を感じることのできる良書である』という最後の一文に如実に集約されているだろう。
 最近、誰もが、例えば小学生までが簡単に「感動」とか「勇気」という心情語を使うようになってきた。このような言葉は、確固とした対象となる事実とあいまって使われるものでなければいけないものだ。つまり、簡単に口にしてはいけない言語である。テレビに出てくるタレントや大人が軽薄に口にするから、子供たちが受け売りで使っているのだろう。
 だが、私はどうしてもMさんにこの二語を使って言いたい。
「Mさん、本当に有り難う。あなたの真摯で飾らない書評には、著者として憚られる自分の本音・主題が的確に把握されていました。そのことに深く感動しました。そして、これからの人生もこれまでの姿勢と価値観を持って生きていくことが出来るという勇気を与えてくれました。」

岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山 / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」

2008-09-19 05:54:45 | Weblog
 ■ 岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山 ■

(今日の写真は9月10日に撮した岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山だ。
 NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」では、9月21日に「ススキ原の風情と岩木山北東面の山容、それに放牧の跡地を探ろう」という主題で野外観察を開く。その下見に出かけた時に撮影したものである。)

 今日から数日間、なかなか一般的には見ることが出来ない「岩木山白狐沢下流域山麓」の秋の風情を伝えようと思う。
 この場所はかつて「牧野」が広がっていた。ここから北に少し巻き気味に上部に向かって古い林道が走っている。その林道から白狐沢を渡って沢左岸の尾根に取り付く林道が連なり、それを辿っていくと、登山道となる。
 その登山道は「扇ノ金目山」を経て、1250mのピーク、1396mのピーク、赤倉キレット、赤倉御殿で赤倉登山道とつながり、山頂に至っていた。
 だが、これはあくまでも過去の話しである。現在は廃道となっていて、誰も辿る人はいない。「扇ノ金目山」には「青森営林局」が建てた「標識」があるが、「クマ」に囓られている上に、倒れており、無惨な姿をさらしている。
 数年前に10数年ぶりに「改訂」された2万5000分の1地図からは、このルートは抹消されている。
 このように、岩木山にはかつて12の登山道があった。しかし、現在は5つになってしまった。
 道は歩かないと「消失」する。「岩木山の山頂」には年間5万人もの登山客がやって来るという。それに加えて数は少ないが、登山者も存在するのに、「登山道」が消えていく。(明日に続く)

 ■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」■

 私はMさんの書評を一番先に私の「連れ合い」に読んでもらった。私の「連れ合い」は、私の書くものを殆ど読んでくれない。
 「連れ合い」は私が「ものを書く」人間であることを知っている。私は26歳の時に初めて、「小説」で賞を得た。それは「東奥日報10枚小説」入選である。今ではその題すら思い出せない。しかし、賞金が5000円だったことは忘れないで覚えている。5000円といえば、その当時の私の給料月額の約半分に相当する大金だったからである。
 その時、既に結婚していたので「連れ合い」は確かにいた。そして、「連れ合い」はその小説を読み、「いい小説」だと評価しながら、入選を喜んでくれたのである。
 ところが、その後、私の書くものには関心をよせなくなり、もちろん読んでもくれなくなった。
 私はその後も、小説を書いた。「文学界」新人賞に応募して、応募総数1500編の中からの50編にも選ばれた。弘前勤労者山岳会の機関誌「ざんせつ」にも、300回を越えるほど「山岳評論」や「雑文」を書いてきた。先年までは100回連続で、つまり、毎月原稿を送った。
 日本勤労者山岳連盟の機関誌「登山時報」にもシリーズで掲載したこともあるし、単発でも何回か原稿を書いた。その他の雑誌や新聞にも連載を含んで、ずいぶんと書いてきたものだ。
 とにかく何だかんだと、やたらに書いてきた。だが、「連れ合い」は私の書くものには、一向に関心を示さなくなっていた。
 「小説」は十数編しか書かなかったが「評論」や「雑文」は、数えられないほど書いているのだが、まったく読んではくれないのだった。読んでくれないだけではない。「あんまり書くな」とまで言う始末だった。
 ところが、その「連れ合い」が今回の「カラーガイド岩木山・花の山旅」については、何という豹変振りであろうか、知人や友人に「いい本ですよ」と勧めている。私はとまどい、何だか気持ちが悪くなるような思いだった。
 メールでもらったMさんの「書評」を、やや大きめの文字でプリントして「これMさんからの書評。読んでみる」と言って手渡した。
 「連れ合い」は黙って受け取り、無言のまま読み出した。2分、5分…10分と時間が過ぎていく。1000字程度の文章である。黙読すると3分もあれば読み終えるはずだが、「連れ合い」は何回も読みかえしているらしい。
 そして、「嬉しいでしょう。あなたの文章と主題をちゃんと捉えているし、あなたがこの本に込めた思いをしっかりと理解している」と言ったのである。

 二番目に読んでもらったのは、この本の女性編集者のN氏である。そして、N氏も「嬉しいでしょう。先生が言いたかったことは、まさにこのことでしょう。けれども、ここまで読み取れる読者は多くはないでしょう」と言ったのだ。この最後の一言は実に現実的な「理解」であろうが、私にとっては「ショック」でもあった。

 三番目は陸奥新報社文化部次長である。彼は「(阿部東会長が書いた書評とは)違うものですね。視点や専門性が違うと、同じ書物に対する書評とは思えないです」と言ったのだ。
 そのような客観的な評価を得た上で、その後「ブログ」で公表したのである。

『いかにも苦しげに土に身を伏すと紹介されている「ウスバサイシン」を、登山道の途中に見たとき、我々は、傷つき疲れながら必死に生きようとする自身の姿をそこに重ね見るであろう。一株ごとに距離を保ち、孤高の姿を彷彿とさせるという「ツバメオモト」を見るときには、誇りを持て、決して屈するなという強い励ましをそこから得るだろう。』とMさんは書く。
 これは、花に「人」を重ね、花の咲き方に「人」を見て、その「人」を自分に置き換えて、花との平等性から、花と伴に「人間の存在意義」や「自分の人生」を問い返すことで、よりそれらを深めていくということである。Mさんはしっかりとそのことを「読みとって」いたのである。(明日に続く。)

我が家の裏にアカバナが咲いた / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」

2008-09-18 05:40:33 | Weblog
 ■ 我が家の裏にアカバナが咲いた ■
 (我が家の裏側は北向きである。一年の内のもっと日の長い時季にしか日が当たらない。しかも、それはその太陽が岩木山の頭の上に位置して、北の肩辺りに「沈む」という期間と時間という限定された時季である。
 そろそろ、一日中「日」を浴びることのない時季に入っている。今日の写真は、そのアカバナ科アカバナ属の多年草「アカバナ(赤花)」である。)

岩木山でのアカバナとの出会いはこのようなものであった。
 …二日続いた雨があがり、乾いた初秋の風が山麓の草原を吹き抜けていく。それに合わせて、路傍では萩が花をこぼし、尾花が大きく揺れる。とりわけ、尾花と風は相性がいいものだ。風に揺れると、途端に命が与えられたように生き生きしてくるから不思議だ。
いくらか高度を増したのだろう。道は林縁に沿って進むようになってきた。軽くてさわやな風が吹き抜けても、直ぐに道の水溜まりが乾くわけもない。しかも、法(のり)面からは水が染み出しているし、近くには沢もあり流れの音が耳を打つ。
 いつ来てもこの辺りはじめじめしていた。窪地の水溜まりを避けようと道の端に寄った時だった。まだ夏緑の陰影を保った林縁に、明るく柔らかい緑の綾に瞬きながら白と紫紅で連れ立ち舞う小さな花を見た。それはいくぶん湿ったところに生え、葉には鋸歯のあるアカバナであった。
 それにしても何と可愛い四弁花をつけているのだろう。可愛いさでは果実も花と同じだ。細長い種子には、多数の白くて長い毛がある。それが、柳の果(さくか)から飛び出す冠毛のある多数の種子のように、風に乗って飛びかう姿も、まさに連れだち舞いに等しいのである。私はしばらくの間、アカバナと向き合っていた。…
 さて、この写真のアカバナはどうだろう。「岩木山のアカバナ」と比べてみよう。
 先ず周りには緑がない。土の表面には川の砂利を敷いてある。しかも、生えているのはこれ1本だけなのだ。屋根の廂のしたであるから雨を受けることがまずない。乾いている場所なのだが、直ぐ傍には「野外の水道蛇口」があり、そこだけは「湿っている」という場所である。
 花の周りに長く伸びている「茎」状のものは種である。間もなくこれは割れて、中から長い羽毛をつけた種が飛び出すだろう。それと同時に、茎や葉が赤く色づくことだろう。これが花名の由来になっている。
 ところで、このアカバナはどこからやって来たのだろうか。きっと、私の衣服か靴について岩木山から運ばれてきたものに違いない。
 何とも、いじらしくもあり、愛おしいアカバナであることだろう。

 ■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」■

 私が言う「自然への共感能力」とは箇条書きにすると次のようなことだ。

① 自然物を自分と平等に扱い、返すことができないものを奪わないこと。
② 植物や動物をとる者は詫びて、いつか自身が役立ちたい気持ちを持つこと。
③ 同じ命を持つものの優しさで、相互依存の連鎖という世界をとらえること。
④ 生き物の時間をそのままとらえ、人間の時間を尺度にしないということ。
⑤ 目の前の自然や景物に過去の時間を発見して感動すること。
⑥ 自然の生命体を通約された一元的な価値とせず、個別的価値とすること。
⑦ 動物や植物のデリケートな反応を、人間の感性と理性の延長ととらえること。

 この「自然への共感能力」を持ってする観察を「感性的な観察」と言い換えてもいい。Mさんが、その「書評」の中で…
「山の厳しい環境下で咲く花に、我々がそれに依って生きる人生観や価値観に深くつながるものを見る」…と言うことは、まさに、この「自然への共感能力」を持った「感性的な観察」を見抜いて指摘していることでもあるだろう。
 今現在、「自然観察指導員」である人にとっても、これから「自然観察指導員」になろうとしている人にとっても、「感性的な観察」がどれほど重要なことであるかは、決して否めない事実であろう。
 今回の「自然観察指導員養成講習会」で、その内容に「感性的な観察」ということが主題的にどの程度入っていたのか、今度Tさんに訊いてみようと思っている。

 ところで、昨日、五所川原市中央公民館で「あおもり県民カレッジ・地域キャンパス講座」があり、「岩木山の自然とイヌワシ」という題で講演をした。
 西北教育事務所の係からは当初24名の受講者だと聞かされていたが、当日の受付も可能なこともあり、会場の視聴覚室定員50名が満席になるほどの盛況であった。
中には弘前からの受講者もいたという。
 係の人は、「ここ数年で一番受講者の多い講座になった」と言い、とても喜んでいた。これらは、人々の何よりも「岩木山」に対する関心の強さからであろう。
 事前に「カラーガイド岩木山・花の山旅」の販売許可を得ていたので、昨日10冊だけ会場に運び、宣伝することもなく、机の上に積み上げて置いた。ただ、そのようにして置いただけなのだが、講座終了時に、直ぐに「完売」してしまった。
 代金を支払いながら「新聞で見ました」と言う人もいたし、「今日の講座で岩木山の花をもっと知りたくなった」と言う人もいた。

 私はまたまた、迷路の世界に入り込んでしまった。昨日の「完売」という事実は私を、「自然に関心があり、自然を守り、その手はじめとして自主的に自然観察会を実施しようとする」人たちであるはずの「自然観察指導員養成講習会」受講者たちが、「講習会実施の地元フィルドである岩木山」の「花々」を含めたことを「内容」とする「カラーガイド岩木山・花の山旅」を「自分のもの」として読んで学習するために「購入」しなかったのかという「不思議の世界」に引き込むのである。(明日に続く。)

ギンミズヒキも咲き出した / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」

2008-09-17 05:50:38 | Weblog
■ ギンミズヒキも咲き出した ■
(今日の写真はタデ科タデ属の多年草である「水引(ミズヒキ)」である。ヒマラヤから雲南山地をへて万里の長城以南の中国と韓半島、そして日本列島へと分布している。何故かしら私の狭い北側の裏庭に咲いていた。去年までは見かけなかったものだ。)
 全体的には目立ちにくい花で、日陰を好み林の下や藪の縁などに普通に生えて高さは50~80cm。葉は互生し、長さ7cm~15cmの広楕円形~倒卵形で先は急に尖り、中央付近にしばしば黒い斑点がある。
 茎の先に長さ約30cmの細い総状花序を出し、小さな花がしばしば横向きにつく。
 4枚の蕚片と4本の雄蕊に囲まれた二花柱の子房からなりたっている。タデ科の植物ゆえ、花弁はない。
 米粒よりも細かな花が茶緑の長い花茎に連なって咲く。花びらはなく4枚のがく片のうちの3枚が赤く1枚が白い。和名の由来は、それが連なる花穂が進物用の包み紙(熨斗)などに懸ける紅白の「水引」に似ていることによる。4枚の萼(がく)片は上半分が赤、下半分が白に染め分けられている。
 だから、上から見ると赤く見え、下から見ると白く見える花を紅白の水引としたのである。
 ミズヒキには白花の品種があり、ギンミズヒキと呼ばれる。今日の花はそれだ。我が家の裏に咲いていた。また一つの穂に紅白入り交じるものもあり、江戸時代から御所水引の名で知られている。
 痩果は花被片に包まれて熟し、先がカギ形に曲がった花柱が残り、これで動物などにつく。また、種子に触ると弾け飛び出す。別名は「水引草」である。
 ミズヒキの学名の「Polygonum filiforme」はPolygonum(ポリゴナム)が、ギリシャ語の「polys(多い)+ gonu(節)」が語源であり、filiformeは糸状のという意味である。
全体的に細く糸状で茎の節がふくらんで関節のように見えることに由来する。

 短歌と俳句を紹介しよう。
・稗草にをりふし紅くそよめくは水引草が交じりたるらし・(北原白秋)
「秋風を受けて稗草が揺れ動く。その中で時折、紅い色彩が微かに動くのである。きっと稗の間に水引草の花が咲いているのだろう。」

・水引の紅ひとすぢのつゆげしき(松村蒼石)
「今朝は露が降りた。水引の小さな花にも露がついてそれを花弁の紅色が内から染め上げて透明に輝いている。それはまさに紅いひとすじの露模様である。」微少なものへの優しい観察力で透明感あふれる風情を詠み込んでいる秀句だろう。

 詩もあるので序でに…
 「秋愁」(立原道造)
夢はいつもかへつて行った/山の麓のさびしい村に/水引草に風が立ち/草ひばりのうたひやまない/しづまりかへつた午の林道を 

 金水引(キンミズヒキ)はバラ科キンミズヒキ属の多年草である。

 ■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」■

 岳のスポーツセンターで行われた日本自然保護協会主催の「自然観察指導員養成講習会」には30数名の参加があったそうだ。主催者側のスタッフなどを含めるとかなりの人数が、その「場」に集まっていたと思われる。主催者側のスタッフの中には既に私から「購入」している人も数名いたことも事実であった。
 Tさんによると、その人たちの何人かは、もちろん、「自然観察指導員」になろうという目的で参加している人もだが、実際、展示されていた「見本の本」を手にとって見たそうである。
 だが、どうしても、「自然に関心があり」「自然を守り」その手はじめとして「自主的に自然観察会を実施しようとする」人たちが、「講習会のフィルドである岩木山」の「花々」を含めたことを「内容」とする「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を「自分のもの」として読んで学習するために「購入」しないのかが不思議でならない。否が応でも、遠い宮城県で開かれた「東北自然保護の集い」で8冊購入してもらえた事実との比較が私を捉えて離さなかったのだ。
 参加者は地元の人が多かったのだろうか。それとも、他県からの人が多かったのだろうか。地元の人が多ければ多いなりに、地元直結で実施する「観察会のテキスト」として使えるだろうし、他県の人であれば「花」の感性的な観察にも使える本であると自負していた私にとっては、このギャップは打撃だった。

 さて、Mさんの「書評」に戻ろう。

 Mさんは…『花ひとつに1000字余りもの随想が添えられ、その内容は、花を目にした瞬間の瑞々しい感動から、深く静かに人生に思いを致すまでの、多岐な思想に彩られている。読者は、咲く花のあるがままの姿とそこに添えられた一文から、山の花が一輪、その場所に咲いていることが意味する自然の不思議と豊かさを感じることができるに違いない。』と書いてくれた。
 これは、私が「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を著(あらわ)す時に込めた主題の一つでもある。
 「山の花が一輪、その場所に咲いていることが意味する自然の不思議と豊かさを感じることができるに違いない」とするMさんは的確に、その主題を捉えている。著者としてこれは嬉しい。このような観察を私は「感性的な観察」と呼んでいる。
 自然を客観的な科学的な眼で観察することはもちろん必要である。だが、科学は巨大なシステムを発達させてはいるが、科学技術は情報消費社会の中で「共存する全体性へのバランスの感覚」つまり、自然への共感能力を見落としているのだ。
 だから、それだけだと観察する人間がすでに「科学」的になっていて、自然と対置する上位的な立場にあり、自然と、自然の花と対等な関係という「生命的」なつながりを失っていることになる。
 生命的なつながりを持って眺めるから「自然」は私たちに、逆に「人」という「生きもの」を教えてくれるのだし、その社会的な存在としての「人間」を教え、その「人間」が行う悪行である「自然の破壊」をも教えてくれるのである。
 それだけではない。生きもの的な眼で、「感性」を持って、対等に眺めるから、Mさんの言う「瑞々しい感動から、深く静かに人生に思いを致すまでの、多岐な思想に彩られている」のように、眺める者の「人生」に思いを致すことが出来るのである。
 「自然観察」の究極的な目的はここにあるのではないのだろうか。私もかつてこの「自然観察指導員養成講習会」の講師をしたことがある。その時、講義の中心にこれを置いて「自然への共感能力」と題して語ったものである。
 (明日に続く。)

秋明菊が咲き出した / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」

2008-09-16 05:28:02 | Weblog
■ 秋明菊が咲き出した ■

 (今日の写真は金鳳花(キンポウゲ)科イチリンソウ属 の「秋明菊」である。
学名はAnemone hupehensis var. japonicaで、Anemone「ネモネ」はイチリンソウ属を意味して、hupehensisは「中国の湖北省産で」、japonicaは「日本の産のものである」を意味している。このとおり中国原産であって、かなり昔に日本に渡来したものである。)

 漢名は「秋牡丹」だ。また、濃いピンク色の花は別名で「貴船菊(きぶねぎく)」という。これは京都の貴船地方に多いことによるものだそうだ。
最近ではJapanese anemone「日本のアネモネ」とも呼ばれているらしい。しかし、そのように呼ぶと「秋」という風情が消えてしまい、春先に咲く仲間と混同してしまいそうだ。
Anemone(アネモネ) は、ギリシャ語の「風」が語源であり、「風の花」を意味するらしい。そう言われると、秋風に靡くたおやかな姿態は、秋の風にすごくマッチするし、風を眼に見せてくれる。
 コスモスなどもそのような「風」を感じさせてくれる花である。花名の由来は「秋に明るく菊に似た花を咲かせること」による。菊と呼ばれているが菊の仲間ではない。
 アネモネの仲間であるから、花びらに見えるところは「萼」であり、花は中央の黄色い部分である。花は下から咲き出して、秋遅くには茎頂のものが咲き出す。これも、サワギキョウと同じように出来るだけ遠くに倒れて「種子」を運ぶ工夫かも知れない。
 この花は一昨日、9月14日の誕生花であり、花言葉は「忍耐」である。かなりの荒れ地にも耐えて咲き出すし、少しでも根が残っていると、そこから増えていく強靱な生命力を持っている。それが分かると花言葉が意味することも理解が可能になるだろう。

■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」についての感想 ■

 その「感想」を書く前にこのことを書きたい。このことを書かないと先に進めない気分なのだ。
 大崎市鳴子温泉で開かれた「東北自然保護の集い」会場に「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を10冊持って行った。地元でないので恐らく、そんなに買ってはもらえないだろうと考えていた。
 結果からいうと8冊も買ってもらえた。購入してくれた人は6人が女性で、残りが男性である。
 慌ただしい日程の中で、買って直ぐに全部を見たり読んだりすることは出来ない。しかも、ちらりと見ただけで「書評」まがいのことを「口」にすることは「憚られる」ことだと理解している人が多かったのだろう。
 だから、購入者からの直接的な「書評」的な反応は翌日までなかった。しかし、購入した人の「もの」を見たという男性が、「懇親会」を兼ねた夕食時に、私のところにやって来て「使用写真のピントがあまい。リバーサルフィルムではないですね。」と言ったのである。
 そのとおりである。掲載写真の殆どはASA400の普通のフイルムで写したものの「プリント」である。図鑑を意識したものではないから、私はそれでいいと思っているから、「すみません」という「言葉」は言わず、ただ、「そうです。あまいのです」とだけ言って、後は何も言わなかった。

 翌朝、全体会議が始まる前にある女性が「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を持って私のところにやって来た。そして次のように言ったのだ。
 …『98ページにあるエゾノチャルメルソウ(蝦夷の哨吶草)のキャプション「淡い緑にえんじの手足可愛い子蜘蛛」がいいですね。それから、本文の「あっ、小さな蜘蛛が何匹も…と思った。蜘蛛にしては整然としている。清楚で淡い緑の体に、可愛い臙脂の手足で子蜘蛛たちが木登りをしていると私には映った」というところ、あの感性には驚きました。私などには「思いつかない」感性的な表現です。あなたの観察力の鋭さ、発想力の旺盛さを思い知らされた気分になりました。』
 このようなところに「感動」してくれる人もいる。この人の場合、「写真」は「感動」の補助手段でしかないのである。私はこのようなことを意識して、この本を書いたのである。
 これは、十分にMさんの「書評」に通ずるものだろう。その女性にサインを求められて、妙に恐縮し緊張しながら本の中扉に署名をしたのである。 

 昨日の午後、岳にある「スポーツセンター」で3日間開催された、日本自然保護協会主催の「自然観察指導員」講習会の事務局を務めたTさんが「疲れ切った顔」に加えて「本当に申し訳ない」という表情をしてやって来たのだ。
 私はTさんにその講習会会場に、A3用紙縦半分の「カラーガイド 岩木山・花の山旅」宣伝用ポスターを掲示して、見本の「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を、その傍に1冊置いて欲しいと依頼していたのだ。
 出来るならば講習会「開催地」である岩木山に咲く花々に関心を持つことも「自然観察指導員」の資質の一助になるだろうから、というようなこともアナウンスして欲しいとも頼んだのだ。
 そして、その場で「売ること」は、他の書籍販売と競合したり、現金の収受は煩わしいだろうから購入したい人に、注文書に「氏名・住所」を書いてもらい、後日私が発送するという形を取ったのである。だが、注文書は空欄であった。

 Tさんの「申し訳のなさそうな表情」は希望者がなかったことを言っていたのである。Tさん、決して、あなたが「申し訳ない」と思うことはありませんよ。私の「無理なお願い」のために受けた心労は大変なものだっただろうと思う。申し訳ないことをしたのは私の方である。
 ただ、正直なところ、30数名の参加者だったそうだが、少なくとも「自然観察指導員」になろうと考える人たちの、この「岩木山の花」に対する事実で、私の「自尊心」はひどく傷つけられたことは否めなかったのである。
 (明日はこのことと関連ずけた感想や分析、「自然観察指導員」にとって「感性的な観察」がどれほど重要なことなのかについての意見を書くつもりでいます。それに、Mさん、ごめんなさい。いろいろと不協和音が入ってきて、なかなかあなたの「書評」に、辿り着けないでいます。)