岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

東奥日報「岩木山・花の山旅」のこと/今日で、毎日欠かさず200回目

2007-08-31 06:21:41 | Weblog
       ★東奥日報「岩木山・花の山旅」のこと★

 昨日は「オクエゾサイシン(奥蝦夷細辛)」という花の紹介だった。このシリーズで花種を選んだ時、当然、紙面にはカラー写真が掲載されるということを念頭に置いている。そして、それを受けた文章にも、その「色彩」が登場する。コメントには「淡い臙脂色の小袖」とある。
 なぜ、このようなことを書いているかというと、昨日の「岩木山・花の山旅」はカラー写真でなく、「モノクロ写真」だったのである。それを見た時、私はハンマーで頭をガツンと殴られた気分になった。
その文章の抜粋を紹介しよう。

「…ふと光沢のある葉が眼についた。数歩行って振り返って見たら、その葉がちょうど眼の高さにあった。背丈が10cmほどの葉柄の根元には枯れ葉に頬杖をついているような臙脂色の小花が見えている。オクエゾサイシンである。これは花の付き方や咲き方が他の花と違っていておもしろい。違っていることは変なことではない。これが個性であろう。葉も花も何とみずみずしいことだろう。」

 「モノクロ」写真だとこの文章に表出されている「光沢も色具合もみずみずしさ」も、さらに「これらが総合的に醸し出す描画性」も出ないのである。「せっかく、東奥日報社の配慮でこのような機会を与えてもらった」のにと考えると、返すがえすも残念でならない。
昨日、担当のS記者から「お詫び」の電話があり、今日からは「カラー写真」になるとのことだった。今日は「ヤマシャクヤク」である。

       ☆今日で、毎日欠かさず200回目☆ 

 今日でブログを書き始めて200回目になる。ということは200日毎日欠かさず書いてきたということである。
 書いてきてあらために気づいたことがある。それは何かしらの行動があると、確実に「書ける」ということである。つまり、最低でもその行動自体を文章化すればいいのである。ただし、この「ブログ」は「岩木山を考える会事務局長」という肩書きで書いているわけだから、書く内容はまず「岩木山を考える会」のことに限定される。
 少しその幅を広げても岩木山のこと、自然保護のことなどに制約されるということだ。その縛りがないならば、もっと書きやすいのであろう。
 毎日、岩木山を考える会のことだけ、岩木山のことだけ、自然保護のことだけに生きているわけではない。だから、この制約はちょっぴり辛い。
 というわけで、この200回のうちで2回ほど「コンピュータ」に関係することを書いたことがある。このジャンルまで広げていいのであれば、書く内容の幅はもっと広がるだろう。いつか書いたと思うが、Windowsマシンはすべて「組み立て」たもので、それぞれのパーツの特性や、OSもVistaあり、x64 Editionありとそれぞれの違いやら特性について書くことは容易だ。
 この「組み立て」を(仰々しく)、少なくとも私にはそう思われるが「自作」と呼んでいる。しかし、かつてアマチュア無線の受信機を自作したり、パーツを手作りしたときのことと比較すれば、コンピュータの自作と呼ばれている行為は「組み立て」と呼ぶのに相応しい。
 どうしても、「組み立て」できないコンピュータもある。それはApple社のMacである。手を加えても、せいぜいメモリを付加したり、ビデオカードを交換したりする程度だ。CPUの交換すらままならない。現在Mac Proを使っているが、これはOSのすばらしさ、ソフト面での優秀性、アメリカ的でない(粗雑でない)丁寧で整然としたまるで職人技を思わせるハード構成と静音性などに惹かれているからである。つまり、書くことはたくさんある。だから、もうすでに書いているわけだ。

 ところで、この「goo ブログ」の作成・編集画面で、「新しい記事を投稿します。」の下欄にある「※記事編集中に別の画面(他のメニュー/プレビュー画面からのテキスト・画像リンクなど)にジャンプすると記事の内容が失われます。」には閉口している。
 原稿を書き終えて「投稿」をクリックすると「ログイン」画面にジャンプして、その瞬間に、書いた原稿が消去されてしまうのである。
「ご注意ください。」との指示はあるが、これは私の意志や手違いでの「ジャンプ」ではない。この200回の、200日の中で、すでに5回も経験した。字数にすると10.000字を越える量である。
 実は昨日も「2581字」の文章を書き終えて、「投稿」をクリック、「ログイン」画面が出て、「あー、それまでよ」となった。悔しいの一語に尽きる。
この「goo ブログ」は無料で開設できる。無料とはいえ、これはひどくはないか。無料にはこのようなリスクがつきものなのだろうか。何とかして貰えないだろうか。「投稿」クリックが恐怖の一瞬であり、疲れが倍加する。

盗掘だけではない高山植物の受難、写真を撮る者の本音、だが許されない

2007-08-30 08:46:42 | Weblog
  ☆盗掘だけではない高山植物の受難、写真を撮る者の本音、だが許されない☆

 ロープを越えて入り込んで写真を撮っている人がいる。「そこに入らないで下さい。」と注意してその場所から出るようにうながすのだが、無視をして動かない。あるいは、その注意が聞こえないかのように「撮影に夢中になっている」振りをする。
 「すみません。」とか「ごめんなさい。」と言ってすぐにその場から出る人は10人中1人に満たない。
 「そこに入らないで下さい。」と注意すると「はい、今すぐに出ますから…。」というが、そのまま撮影を続けている者がいる。これは、相当に「狡猾」な類に属する。一見「狡猾」には感じられないが、よく考えると、撮影している「場所」を問題にしているのに、「すぐ出る」という「時間」で対応しているのである。場所は目に見える具体性のあるものである。それに比べると時間は目に見えない。その上、刻々と移っていくという曖昧さを持った抽象的なものである。いってみれば、相反する概念なのだ。この対応は明らかに、論点の、問題のすり替えである。「入ってはいけない場所に入っている」という事実を認識していながら、そのことが問題視されることを、巧みに躱そうととしているのだ。潔さがない。正直でない。
 これは「言葉の使い方」やその「政治姿勢」に「潔さ」を演出した小泉前首相がよく使った手法である。特にイラク問題ではこの手法が目立った。
 多くの国民は、この演出された「潔さ」にたぶらかされて、彼を支持した。しかし、実際は小賢しく、ある程度頭の切れる奴が使う手法であり、「狡猾」この上ないものだ。

 一方では、「そこに入らないで下さい。」と注意すると、いかにも驚いたように「えっ、ここに入ってはいけないのですか。知らなかった。」と言う者もいる。
 私が「このロープは、登山道から出ては(入っては)いけないということをうながしているものです。」と言うと「そうですか。私は登り降りする時の手がかりのためのロープだと思っていました。」と返してくる。
 こちらには、すでに「知らなかった」ということが「ウソ」であると「ばればれ」なのに、必死になって「知らない」という状況を作り上げようとする。その意味では「正直」者であり、前者ほどには狡猾さは感じないが、やはり、狡猾であることには変わりはない。
 急な斜面や岩稜の登山道沿いに張られたロープ(このような場所は普通ロープでなく、鎖が張られていて、鎖り場とよばれる)ならば、登降の「手がかり(身体を保持するためのもの)」としてのものだろうが、坦々とした登山道沿いのロープがどうして「手がかり」となるのだろう。そんなことは百も承知なのに、「手がかり」というのはやはり、ウソつきである。
 だが、事実、登山客の中には、このロープに掴まって(手がかりとして)登ったり降りたりしている者が相当数いる。それゆえに、支柱が曲がったり、抜けたりして、「進入禁止」の意思表示が出来なくなっているところもある。また、本来が「確保」用でないので、断裂や抜け落ちが考えられ、非常に危険でもある。そのような利用の仕方は是非止めていただきたい。

 「ロープ」はそこから内側には「侵入」禁止であるという暗黙のお知らせ記号である。文字にしても特定の音や音声にしても「意味」を持っている。岩木山の鳳鳴小屋や山頂にある鐘も、ただ鳴らすと、それは「騒音・雑音」だが、10秒間隔で6回続けると「救難信号」になる。鳴らす方がその意味を知らずに、偶然10秒間隔で6回鳴らし、それを聴いた者がその意味を通りに受け取って、救難体制をとったということになる場合もあり得るのだ。鐘を打ち鳴らす人は多いが、このような意味を知っている人は何人いるのだろう。
 ところが、不便なことにこれらは、相対的にその意味を知らないと相互「理解」にはならない。英語しか理解できない人には日本語は分からないし、日本語しか分からない人には英語は通用しないことなどがそのことをよく顕している。これだと、「ロープ設置の意味」という看板を立てなければいけなくなるかも知れない。

 高山植物のみならず、山の花を愛してやまないある人で、写真を撮り続けている私の知り合いが、これは「本音」であると断った上で次のように語ってくれた。

『国立公園や国定公園内の、その山にとって貴重な花(特産種「固有種」や希少種)の生育地はどこでも厳しく保護され、柵に囲われるとかロープが張り巡らされていることが多い。
 そうしないと、心無い登山者や登山客の踏み荒らしや抜き取り、掘り起こしでたちまち花が姿を消してしまうからである。だから、保護の手を緩めてはならないのだがとその物理的、自然保護的な対応は理解出来る。
 しかし、心情的には納得できない。写真を撮るにはまことに不自由だ。花が小さい場合はなおさらだが、普通の大きさでも、距離があるから、当り前に撮っては何が咲いているのか分からない写真になってしまう。
 いきおい、長焦点レンズで花のアップを狙うことになるが、柵やロープがあるのでなかなか花に近づけず、フラストレーションを起こすことになる。
 アップでは「誰がとっても同じ写真」になってしまい、撮れたらことは撮れたが、これまた面白くない写真になってしまう。』
 これは、高山帯の花を撮影しようとする多くの人たちに共通する「本音」だろうと思う。だからなのだろう。柵やロープを越えて、その花に「にじり寄り」、中には周りの草などの「夾雑物」をきれいに抜き取ったり、鋏できれいに刈り取ってしまう者までいるのだ。ひたすら、「いい写真を撮る」ためである。ところで、この人たちにとっていい写真とはどのような写真なのだろうか。「本音」の中に、見え隠れしているから、読み取ってほしい。
 ここで、私は「この人の名誉のために」断ることにする。
この人は日常的に「克己と自制で」この「本音」を厳しく抑制しながら写真を写しているのである。頭の下がる思いだ。

 今や、携帯電話はカメラ機能付きが常識である。これまでの高山帯の花を撮ろうとする人の数に、数倍する人たちが、我も我もと柵を越え、ロープを越えて花々に群がり、周囲の植物を踏み散らし、写真にしては「メール」で多くの人に送りつけていく。「その写真を見たい」というニーズが増えると、それに比例して「踏み荒らし」は多くなり、その面積は拡大する。
 「文明と便利」とは自然にとっては、「厳しい受難」であり、いつの日にか、その「受難」は私たち人間を形を変えて襲うであろう。

「コマクサ」の語る身の上話し(その6・最終回)

2007-08-29 05:57:26 | Weblog
      ☆「コマクサ」の語る身の上話し(その6)☆

 私は今年(2007年)も花をつけた岩木山の「コマクサ」です。
 偉い学者先生方が『岩木山には歴史上これまで生育していなかった。また、自生はありえない。』という私たちの数奇なこれまでの運命を、皆さんに語ります。

(承前)
 2005年7月上旬、弘前市のある野鳥の会が、私たちが「咲いている」その場所で、「探鳥会」を開きました。
 参加者の中には、一人の花好きがいました。その人が目敏く私たちを見つけたのです。そして、熱心に撮影しました。
 秋になりました。私を撮影した人は、「岩木山を考える会」の会員でした。そして、その写真を、写真展「私の岩木山」に出展したのでした。
 その「出展票」には、「撮影年月は2005年7月、撮影地は岩木山、コメントには「X山、西斜面に不法に咲いていました。」とあったそうです。
 コメントにある「不法に咲いていました」という意味は「これは本来の岩木山にはない花です。誰が植えたのか…。花はとてもきれいなだけにとても複雑な気持ちです。」ということだそうです。

 その時は、すでに秋。花は枯れ果て、茎は折れて、種子はあちこちに飛散した後でした。それを「岩木山を考える会」は、まず単独で現況調査と観察に来ました。調査と観察の結果に基づいて「岩木山を考える会」は、この国定公園を管理している青森県自然保護課に連絡しました。ここで、私たちが「種」を蒔かれてから25年後、初めて、この事実を「行政」が知ることになりました。
 9月30日には、自然保護課、林政課、岩木町、それに「岩木山を考える会」の四者で合同の調査・観察をしに来ました。
 その結果、『「特別保護地域」なので、直ちに抜き取ることは出来ない。自生なのか「移植」されたものなのかを特定する必要がある。そのためには、今後継続して調査する必要がある。』ということを、四者で確認し、調査を継続することになったのだそうです。
初回の調査には、驚きました。
私たちの四方に「鉄の杭」を打って、それにテープを回して面積を計算しました。私たちは一瞬「囲い込まれる」のではないかと恐怖に駆られたものです。しかし、初回も2回目も、最終回の今年7月18日の調査も、調査方法は「私たち」を「労(いたわ)り」ながらのものでした。決して「踏みつけない」し、「抜き取らない」し、「周囲の自然形状を壊さない」し「周囲の自然植生に影響を与えない」ものであったのです。本当に、ありがとうございました。

 「岩木山を考える会」の事務局長は、DNAを調べて、産地がどこなのか、園芸用の外国種なのかまで特定し、かつ、今後どうなるのかを、あと数年継続観察調査したいと言っていますね。しかし、その必要はありません。私は正真正銘の「秋田駒ヶ岳」の「コマクサ」の末裔です。
 8月9日には、自然保護課から、『コマクサの自生については、過去の文献に記録がなく、植物の学識経験者に聞いたところ、コマクサの自生は確認されていないとのことでした。また、生育地が登山道から比較的近くにあり、アクセス不能な場所ではないことから、今になって初めて発見されるということは極めて考えにくいものです。よって、このコマクサは人為的に持ち込まれたものであると判断されました。
平成17年から平成19年まで3年間観察したところ、株の大きさが大きくなり、花茎の数が増え、さらに、こぼれ落ちた種から発芽した実生が株の周囲に増えていました。周囲の植生への影響はみられないものの、コマクサの生育は旺盛で、火山砂礫地に生育範囲を拡げる可能性があるものと考えられました。
 このまま放置すればコマクサが火山砂礫地に拡がり、定着する可能性が高く、岩木山固有の自然景観が変わり、長い年月をかけて形成された自然生態系への影響が懸念されます。
 このため、このコマクサを早期に除去するのが望ましいという結論に達しました。
さらに関係者へ情報提供したうえで、早い時期に除去作業を進める予定です。
 このコマクサは誰かの手により植えられたものと思われますが、固有の自然生態系が守られている地域にあっては、望まれない侵入者にほかなりません。岩木山の今ある貴重な自然を残していこうと考えるとき、他地域から故意に植物を持ち込み、植え付ける行為は自然に反した行為であると言えます。』という文書が公開されました。
 加えて、8月23日には東奥日報が私たちのことを、県の対応と「岩木山を考える会」の対応などを交えて詳しく報じました。

 結論は、私たちの「抜き取り処分」でした。「生えることが許されない場所」に生えているのですから、抜き取られる覚悟はすでに、何年も前から出来ています。どうぞ、「可哀想だ」というような感情はお捨てになって、抜き取り処理をして下さい。
 ただし、「根」は複雑に四方八方に伸びて、絡み合っていますから、よほど、慎重に注意深く作業をしないと、数年後にまた、「コマクサ」騒動が起こらないともかぎりません。
 最後になります。お願いです。出来るのならば、「抜き取った」私たちをそっと生まれ故郷の秋田駒ヶ岳に返して下さい。
 …無理でしょうね。あそこも「自然公園法」の規制を受ける山ですから、「異物」の植栽は禁止されています。人間社会の「法律」とは、何と不便なものでしょう。

 ああ、私たち「コマクサ」は一人の植物愛好家の恣意によって、異郷に持ち込まれ、今また、人間が作った法律によって故郷に戻ることの出来ない状況に置かれているのです。                            

あとがき

身勝手な人間によって持ち込まれた「コマクサ」のことを、「コマクサ」の気持ちになって書いてみた。
 そこで改めて認識したことは、「自然」から見ると、私たち人間の「個人的な行動も、また、社会的な決まり事や約束事である法律なども、所詮、「人間のご都合主義」から一歩も出ていないということだった。
                                 (最終回)


 「コマクサ」の語る身の上話し(その5)/東奥日報「岩木山・花の山旅」掲載はじまる

2007-08-28 05:33:38 | Weblog
  ☆「コマクサ」の語る身の上話し(その5)☆

 私は今年(2007年)も花をつけた岩木山の「コマクサ」です。
 偉い学者先生方が『岩木山には歴史上これまで生育していなかった。また、自生はありえない。』という私たちの数奇なこれまでの運命を、皆さんに語ります。

(承前)
 私たちの種子は非常に小さいのです。ケシ科コマクサ属の植物で、小さい粒々を「芥子粒(けしつぶ)」と喩えるように、ケシ科の種子は「ゴマ粒」よりも小さいものです。
 この小さな種子には、「エライオソーム」という物質ががくっついています。この物質を蟻(あり)が好みます。盛んに巣に運ぶのです。その時に種子も一緒に運ぶのです。これが私たちの「子孫を残す」ための戦略です。種をあちこちに運んでもらって生育地域を拡大していくための戦略です。
 ところが、残念ながら、あの場所に、蟻はほとんど生息していませんでした。もしも、蟻がたくさん生息していたならば、私たちは一株ではなく、あの砂礫地を埋め尽くすようになっていたかも知れません。
 私たちは高山植物の中でも、何も生育していない厳しい環境の土地に最初に根づく先駆植物といわれています。だから、私たちの「親」である「コマクサ」はこの場所で発芽し根を張ったのです。
 乾燥した軽い火山弾のような礫が敷き詰められているこの場所も、私たちが根づいて根を張るようになりますと、それに支えられて、長い年月を経て養分が豊かになります。すると私たちよりも大型の草が生えてきます。
 そして、その大型の草の「大きな葉陰」のために、私たちは生きられなくなるのです。そのような過酷な運命を背負っているものが「先駆植物」なのです。
 この場所は、まさに「先駆植物」である私たちにぴったりの、痩せて貧栄養の「土地」だったのです。
 このような私たちは他にも、こうした厳しい環境の中で生きていくために、幾つかの戦略的な「仕掛け」を持っています。
 7月の末に花が終わり、実が熟すと私たちの「花茎」は枯れます。やがて秋、そして冬の到来、強くて冷たい風が吹き始めると花茎は根元から折れて、風によって砂礫地を転がって行きます。転がりながら「種子」を蒔くのです。
 あの場所では北西の季節風が吹きます。ですから、私たちは、いきおい低い方に運ばれていきます。私が、私の祖父や曾祖父の「コマクサ」が蒔かれた場所よりも下方10mの場所で根づいて花を咲かせたのも、この所為(せい)です。

 また、私たちの葉柄や花茎のかなりの部分は砂礫に埋まっています。地上の花からは想像も出来ないほど長くて丈夫な根が地中深くにもぐっていて、地下部は地上部の5倍以上の長さに達しているものもあります。この根も細くてしなやかです。
 しかも、その根を横方向に束ねるように張り、そこに溜まる水分や養分を吸収しているんです。このようにして乏しい水分や養分を確保しながら、一方では、凍結と融解を繰り返し「動く構造土」(砂礫は崩れやすいということ)といわれる場所での生育に耐えているのです。だから、私たちは、砂礫が崩れ、流されても生きていけるのです。
本来、弱い植物である私たち「コマクサ」は、いろいろな方法・仕組みを身につけて、他種の植物が生きられない場所で「生きる強さ」を獲得してきたのです。これを「弱さゆえの強靭」と呼ぶ人さえいるのです。
 私たち「コマクサ」は貧しく、荒れ果てた砂礫の地面にへばりつくように、しかも可憐な花姿で咲いています。それは一見すると、本当に弱々しく見えます。
 ところで、明治時代の文士で放浪の作家と言われた大月桂月が、大雪山で初めてこの花に会って「高山植物の女王」言ったと伝えられています。
 なぜなのでしょうか。厳しい生育条件の中で、小さな草丈に比べると花は大きいのです。これは典型的な高山植物の花姿ですが、おそらく、特異な「馬の顔」を思わせる形の美しい花とともに、他の植物が生きることのできない乾いた砂礫地に「私たち」だけが群落を成している様子に、多くの人々が「孤高と気品」を見たからだと思います。
 いまある私だって、濃いガスが漂い流れ、そのガスが晴れた瞬間ふっと姿を見せる時には、おそらく「孤高に輝く気品」を放っていると思いますよ。さらに、「女王」には「強さ」も必要ですね。女王には女王の強靱で孤高な生き方があるということでしょうか。

 どうも、申し訳ありません。気持ちの高ぶりに乗じて「手前みそ」の物言いになってしまいました。お許し下さい…。
   (この稿は明日に続く。)

     ☆東奥日報「岩木山・花の山旅」掲載はじまる☆

 今日から東奥日報で「岩木山・花の山旅」シリーズが始まる。体裁は今年の2月に掲載した「厳冬の岩木山」と同じである。期間もだいたい同じ15日間、1週に5回、3週間続くことになる。初回の今日は「蝦夷葵菫(エゾアオイスミレ)」である。

写真展「私の岩木山」写真搬入は13日16時ちょうど/「コマクサ」の語る身の上話し(その4)

2007-08-27 05:53:53 | Weblog
     ★写真展「私の岩木山」写真搬入時間:9月13日16時ちょうど★

 会報に記載ミスがありました。それは写真展「私の岩木山」に関する写真搬入時間のことです。会報では搬入時間を「14日16時ちょうど」としてありますが、正しくは「写真搬入は会場に9月13日16時ちょうど」となります。このブログを見た人のお知り合いの方で「出展」しようとしている人がおられましたら、この「訂正」のことをお伝え下さい。
 なお、16時以前では受付いたしません。

     ☆「コマクサ」の語る身の上話し(その4)☆

 私は今年も花をつけた岩木山の「コマクサ」です。いま、皆さんに『岩木山には歴史上これまで生育していなかった、また、偉い学者先生方が「自生はありえない」という私たちの数奇な今年までの運命』について語っています。

(承前)
 「自然保護」を標榜し、その場の自然を保護するということで、私たちに「怒りや憤りを向けること」はお門違いでしょう。もっと別な方法が、社会的に認知された法的な裏付けを持った方法があるのではないでしょうか。
 私たちは「この場所」に、「私たち」の意志をまったく無視した「人」によって、有無を言わせずに「蒔かれ植えられた」ものに過ぎません。
 「蒔かれ植えられた」以上は、ただ内在する生命力のなせるところに従って、「先駆諸物」としての宿命でしょうか、芽を出し根づいて、花を咲かせたに過ぎないのです。
 まずは「蒔いて植えた」人に、その「怒りや憤り」を向けて下さい。直接言えないのであれば、この場所は国定公園の特別保護地区ですから、行政的に管理している青森県に言って下さい。

 私たちの「親」たちは「見せ物にされ、踏みつけられ、揉みくちゃにされ、抜き取られ」、多くの人の「羨望と物珍しさ、それに独占したいという視線」に曝され続けました。
 ただ、相当の株と花数で咲いていましたので、そのようなことをされても「花の咲いている期間」中は、「花」がまったく無くなるということはありませんでした。
 だから、数個の花は、植物としての一大事業である「受粉」が出来て「種」を残すことが出来ました。そうして、1年目の「花期」は、騒然の中で慌ただしく終わりました。
 7月の末になったら、私たちを「見る」ために訪れる人は殆どいなくなってしまったのです。
 翌年も同じような経過を辿りました。そして、その年を期に、私たちの「親」は「花」をつけなくなり、「株」も消えました。
 登山客、観光客、登山者多くの人たちの記憶からも、私たちの「親」である「コマクサ」のことは消えました。一時「騒動として新聞沙汰にもなったこと」なのに、次第にだれも話題にしなくなり、忘れ去られていきました。人間というものは、どうしてこのように、ブーム的な「一過性」を辿る生き物なのでしょうか。

 今だから言いましょう。意を決して、自白しましょう。
「自白」というと何か悪いことをして、それを「反省を込めて白状する」というニュアンスがありますが、私は悪いことは何一つしていません。まず、責められるべきは某植物愛好家です。 
実は私の「親」は「岩木山を高山植物の宝庫にしようとした地元の愛好家が、恣意(しい)的に秋田駒ケ岳で採取してきた」ものなのです。そして、その人が、現在私が根を張っている株より10mほど上に「恣意(しい)的に蒔いた種子」だったのです。私はその曾孫(ひまご)か玄孫(やしゃご)に当たります。
 そして、1980年に某植物研究グループ「A」がそこで私の「親」たちのコマクサを発見しました。ぶつぶつ言いながら抜き取った人たちはそのグループの一員だったのでしょう。

 そして、一時かなりの「騒ぎ」になりました。しかし、月日は流れ、20世紀が終わり21世紀となりました。
 私たちは、種から花が咲くまでにおよそ7~8年かかります。ですから、それから、25年後の2005年に発見されて、公にされた時は、ちょうど3回目の株立ちをして花を咲かせている頃でした。
 私は2003年に芽を出して株立ちし、花をつけました。その翌年にもしっかりと咲いていたんです。
 ところが、1980年に東奥日報などに掲載されて「大騒ぎ」になったものですから、花をつけたものの、それを知っている一部の人が、確認する程度でやり過ごし、観光客にも登山客にも知らされなかったのです。
 だから、私たちは、枯れ果てて株が消失してから7、8年の周期で花を咲かせても、それは「ひっそり」としたもので、人に知られず「存在」していました。いわば、「知る人のみぞ知る花」だったのです。

 私は、その場所から10m下部の這い松に堰き止められ、砂礫が下に流れていかない場所で、その間じっと待ちました。そして新世紀と同時に発芽し、株立ちに成功したのです。20年近い月日を、砂礫中で耐えてきました。
                         (この稿は明日につづく。)

 「コマクサ」の語る身の上話し(その3)

2007-08-26 05:28:59 | Weblog
  ☆「コマクサ」の語る身の上話し(その3)

 私は今年も花をつけた岩木山の「コマクサ」です。いま、皆さんに『岩木山には歴史上これまで生育していなかった、また、偉い学者先生方が「自生はありえない」という私たちの数奇な今年までの運命』について語っています。
(承前)
 大勢の人がやって来る前に「その人」と連れだってやって来た人たちは、今思えば、「観光関係の人」や「集客事業関係者」ではなかったのだろうと考えられます。そして、その人たちは嬉々として言うのです。

 …「Xさん、よく、咲かせましたね。執念の勝利ですよ。」…「Xさん、頑張りましたね。おめでとう。」…「駄目だろうと言っていた人もいるけれど、大丈夫なんですね。環境の違いなんて大したことがないじゃないですか。」…「これだと、今後どんどん増えますね。」…「Xさん、そのうちにこの礫地一帯がコマクサに覆われてお花畑になりますね。」…「そうなると、岩木山の新しい名所の誕生です。」…「リフト終点からも近いし、観光客もどんどんやってきますね。」…「岩手山や秋田駒ヶ岳はかなり自力で登らないとコマクサのある場所には行けません。登山の心得がないと鑑賞は出来ないんです。しかし、ここだとリフトを降りて10分も登るとやって来れます。」…「その意味ではすばらしい観光スポットですね。」…「これで、集客も容易になります。事業も右肩上がりになるでしょう。」…「社長さん、ここまで育てたXさんには感謝状の他に、金一封を出さなければいけませんなあ。」などなどと。

 この人たちには、私の親たちが、環境のまったく違う中で、塗炭の苦しみを味わいながら、しかも「産みの苦しみ」の中で生命を燃焼させて、やっとの思いで数個の花をつけたことへの理解と労(いたわ)りはありませんでした。
 あるのは、「私たち」を目当てにやって来る観光客の数の増加と観光客の関心を如何にして「私たち」に引きつけるかということだけでした。
 もちろん、この行為が「これまでのあるがままの自然」を破壊していることだとは、だれも考えていませんでした。

 先に述べたとおり、その後やって来る人は日ごとに増えていきました。まるで踏みつけられるのではないかと思うほど近くに、にじり寄って来る人の多いことといったら、それは大変でした。
 桜を愛でるのに「よき人(教養のある人)」は、少し距離を置いて見る」と、ある古文にありますが、そのような人はまずいません。
 そして、口々に…「これがコマクサだって。」…「かわいいね。」…「よく見ると妙な花の形だね。」…「いいものを見た。」…「岩木山で見ることが出来るとは思わなかった。」…「ここで見ることが出来て感謝している。ここまで育てて手入れをしてくれた人にありがとうと言いたい。」…「記念になった。」などなどと…。
 その中には、「どれ、1本抜いていって庭に植えてみるか」といって引き抜いていった人もいます。
 また、したり顔に案内する人もいました。
…「これはコマクサという花です。コマとは駒のことで馬を意味します。花の形が馬の顔に似ているのでそう呼ばれています。」…「ケシ科の仲間で、薬草です。昔から薬草として採取されていました。木曽御岳(きそおんたけ)のものが有名です。」…「岩手山や秋田駒ヶ岳では見られますが、青森県のどこの山にもありません。現在、あなた方が見ているこのコマクサが青森県では唯一のものです。」などとです。

 一方、朝早くとか、または午後遅く、リフトが営業を止める時間に、観光客を避けるようにしてやってくる人もいました。
 そのような人は大概、一人でやって来ました。今思えば、ほんの1、2名でした。明らかに普通の登山者や観光客、登山客とは違っていました。
 まずは、物珍しそうに興味のあるような態度も表情も、言葉も出しません。
 苦々しい顔をして、…「何でこんなことをするのだ。何でこんなバカなことをするのだろう。ここの自然環境にないものを植えたり、育てたりこれは立派な自然破壊ではないか。植生の破壊ではないか。岩木山唯一の礫地という地質に育っている植生を壊してしまうものだ。これまで育っていた別な植物を追いやり駆逐してしまうかも知れない。」と呟くのです。
 そして、私たちを「摘み取り、引き抜いて」は周囲のダケカンバやミヤマハンノキ、それにウラジロナナカマドの生える樹林帯に、怒りを込めて棄てました。きっと、当時「自然保護」を標榜していた人だと思います。
 今でも、ミチノクコザクラの変異種「白花」を目敏く見つけては、そのつぼみや花を摘み取り、「咲いていると盗掘にあうので、こうした方がいいのだ。」と言っている人がいるそうですが、こういう人に近い考えの人のようでした。
                         (この稿は明日に続く。)

幹事会は28日/東奥日報で「岩木山・花の山旅」連載/「コマクサ」の語る身の上話し(その2)

2007-08-25 06:53:05 | Weblog
     ☆ 幹事会を28日19時から

  場所は市民参画センター(Tel;31-2500 )
  案件は: 
     1.岩木山ものしりマップについて
     2.写真展「私の岩木山」について
     3.東北自然保護の集いについて
     4.その他   
(幹事でない方も関心興味のある方は参加して下さい。会員以外の方の傍聴も歓迎します。)

      ☆東奥日報で28日から「岩木山・花の山旅」の連載を始める

 東奥日報弘前支社編集部長菊池さんの要望で、28日から「岩木山・花の山旅」の連載をすることになった。連載とはいうが、短期でわずか15日である。紹介できる花は、私がこれまでに撮影した450種の30分の1に過ぎない。せめて、読者に15分の1の30種ぐらいは紹介したかったなあ、とは思うのである。

      ☆「コマクサ」の語る身の上話し(その2)

 私は今年も花をつけた岩木山の「コマクサ」です。いま、皆さんに『岩木山には歴史上これまで生育していなかった、また、偉い学者先生方が「自生はありえない」という私たちの数奇な今年までの運命』について語っています。

(承前)
 この「種を蒔いた」人の思惑は的中しました。それから2年が経った頃です。私の親たちは健気にも、生まれ育った環境とは全く異質な岩木山で、根付いて芽吹きました。
 よその高山から、拉致されてきたようなものです。北朝鮮に拉致されながら懸命に生き抜いた人たちに似ていませんか。まったく日本の風土と違う他国に、「くちぐるま」さながらの国による「募集案内」を信じ込ませられて、出かけていった移民たちの運命と似ていませんか。移民の多くは死にました。
 根を張って、芽を出すまでの辛さは、大変なものでした。しかし、私たちは「人」のように死ぬことはなかったのです。
 私たち植物は、自分の種を「発芽」の条件が整うまで、何年でも「種」のままで「温存」することが出来るのです。砂漠地帯や「乾期」の続く地域の植物は、長いもので「30年以上」地中でじっと「芽を出す」条件が整うのを待つそうです。
 その条件の中での「必須」は水分です。雨です。十数年ぶりに雨が降ったような砂漠地帯の一部では、それまで草一本見られなかった場所に、一斉に植物が芽吹くことがあるそうです。そして、大急ぎで花をつけて、受粉し、種を残していきます。残された種はまた、「地中」で長い長い生活をしながら、いつやって来るか分からない次の「雨期」をじっと待ち続けるのです。
 ほ乳類に比べると私たち植物は、その生命力において、はるかに「強靱」です。あの巨大恐竜たちが絶滅した、隕石との衝突という「地球の大変動」でも私たちの仲間は生き延びました。
 また、地球気象の変動で、寒冷な高山の一部に残されながらも、その場所に適応しながら私たちは生き延びてきたのです。
 ここに蒔かれた後の生活は、この場所に「適応」することでは、辛く大変でしたが、私たちが持っている生命力はそれほど「柔」ではありません。

 私たちの親たちは、次第に根を広げていきました。さらに株立ちも数カ所に見られるようになりました。もちろん、登山道のすぐそば、1mも離れていない場所でした。
 そして、ある年の6月の下旬には、数株の茎頂には数個のつぼみがつきました。さらに、7月の上旬には、生まれ育ったところで咲いていた花とまったく違いのない花を咲かせたのです。
 私の親たちを「蒔いた」人は、株立ちが目立つようになると、足繁くやって来るようになりました。時には、見覚えのない人たちと連れだってやって来ることもありました。
 つぼみをつけた時、その人は「やった!」というようなことを、ぶつぶつと呟いていました。その表情には、喜びと満足感があふれていたように見えたものです。それは私たちの親たちの「苦痛の誕生」とは、はるかにかけ離れ、それをまったく理解していなかったことだと私には思えます。
 その日を境にして、多くの人たちが、その「場所」にやって来るようになりました。身のこなしや服装、装備から、はっきりと登山者であると分かる人、タンクトップを着た若いオネイチャン、サンダル履きのオニイチャン、ハイヘールでやって来るお姉さん、草履履きのおばさん、図鑑を片手にいろいろと触ったりして調べる人、登山者でもないし登山客でもない妙な風体の人、とにかく多種多様な人たちが入れ替わり立ち替わり、私の親たちが咲いている場所を覗きにやって来ました。
                          (この稿は明日に続く。)

写真展「私の岩木山」/コマクサ東奥日報の記事/コマクサ身の上話し(その1)

2007-08-24 06:14:58 | Weblog
☆第14回写真展「私の岩木山」開催案内と出展依頼

 今年の写真展「私の岩木山」の案内がホームページに出ていないと読者から、指摘された。総会の案内やその後の会報にも掲載してあるので、会員向けには「そちら」の方で十分だろうとの思いがあって、管理人に掲載依頼をすることが延び延びになったいた。「会員以外からの出展もできます。」と言っていながら、この体たらくである。申し訳ない。

          ※開催案内と出展依頼※

  日時・場所:9月14~16日(10~17時)・NHK弘前ギャラリー

・写真搬入は会場に13日16時ちょうどです。それ以前では受付いたしません。

・出展票は会報に同封しています。それ以上に必要な方はコピーをして下さい。

・ふるって参加・出展をお願いします。会員でない方の出展も可能です。昨年は会員でない方が5名出展しました。

・写真の質的なものは一切問いません。「私の岩木山」という思いが込められている写真であればすべて対象になります。

・会員でない方は、0172-35-6819事務局三浦章男あてに、早めに問い合わせて下さい。13日当日などでは対応が出来ません。

      ☆「岩木山のコマクサ」問題、東奥日報早い対応!                 

 8月21日、東奥日報弘前支社に会報に掲載した「岩木山のコマクサ」に関する文書と写真を持参した。
 22日に取材があり、23日掲載となった。何故持参したかというと、本会の対応と一致する青森県自然保護課の対応が文書として出され、それを公開し、「岩木山のコマクサ」問題が持つ自然破壊の事実とそれに関わる「自然保護」の意義を広く県民に啓蒙する意味からである。
 それにしても早い対応であった。驚いている。昨日の朝、幹事のSさんが電話で『「コマクサ」問題が東奥日報に大きく出ているよ。』と知らせてきた。
 何と、社会面のトップ扱いである。しかも(この表現があたっているかどうかは少し自信がないが)6段抜きでコマクサの写真はカラーである。この写真は7月18日の自然保護課との合同調査の日に私が撮影したものである。
 早速、コピーをしてHPの貼り付け用画像ファイルを作り、管理人葛西さんに送った。この画像(紙面切り抜き写真)には、別な写真も付け加えた。それは「点在して広がっている実生からの新芽」である。新聞の記事にはあるが、その写真がないのでプラスしたものだ。
 葛西さんは昨日のうちに貼り付け作業を終えてくれた。だから、閲覧することが可能である。本会ホームページの左欄、「新着更新Blog(RSS版)」をクリックして「8/23更新について」ページを開いて、「コマクサの件が新聞に載りました。」の下にある下線部分をクリックすると、そのページが開く。

 記事の内容は、そちらに任せることにして、この「コマクサ」について、少し仮説を立てて、「コマクサ」の身になって考えてみたい。これは、仮説というよりも私が勝手に想像して書く「身の上話し」である。

『私(コマクサ)は、1980年代に、弘前市の『「岩木山にもコマクサが咲いていたらいいのになあ』と考えたある人によって、種を蒔かれた生き残りです。その当時はあの場所の「登山道」の、すぐそばで咲き出しました。高山の礫地(れきち)を好んで生育する私たちのことをよく知っていて、その人は「この場所」に私たちの「親」を蒔いたのです。私たちの元の住場所も礫地でしたが、その「礫」はもう少し固めで、しかも色具合は黒みがかっていました。その上、一つ一つの「礫」も重量がありました。
 しかし、この場所の「礫」は違っていました。ここの「礫」は火山弾とも呼ばれるもののようで、総じて軽いのです。中には気泡があり、質的には柔らかいのです。また、色具合も黄色がかっています。
 私たちを「蒔いた」人の目にも、この違いは見て取れたと思います。この人に、その違いの本当の「意味」が分かったなら、おそらく私たちはこの場所に「蒔かれ」ずにすんだでしょう。そうでなかったところに、私たちの数奇な運命の始まりがあったのです。
 その人は、私たちを登山道のすぐそばに蒔きました。登山者や登山客が、簡単に、しかも直接的に見ることが出来る場所を選んだからでした。
『私たち「コマクサ」が岩木山にも咲いていて、簡単に見ることができる』という観光客向けのキャッチフレーズなども頭にあったかも知れません。この人は自動車道路「スカイライン」株式会社と大の仲良しでした。スカイラインのバスも、もちろんフリーパスです。その当時はスカイラインターミナルまで、弘前からバスが出ていました。
ひょっとすると「私たち」は観光客を集めるための「えさ」だったのでしょうか。いいえ、そんなことはないと思います。そう考えると「私たちコマクサ」は何と惨めな存在なのだと思えるからです。
                          (この稿は明日に続く。)

会報第43号発送/『危険を感知できない生物…「人間」』を書くにあたって参考にした本のこと…

2007-08-23 04:55:41 | Weblog
 このブログを書き始めたのが2月22日である。だから、今日で7ヶ月目に入ったことになる。このブログを始めて身についたこと、それは毎日の「早起き」である。今朝も4時半に起きた。
 「早起き」は三文の得という。身体生理学的には当然「早寝」を要求するから「早寝・早起き」の習慣が身についたことになる。今夏の猛暑も、早朝は結構涼しく、「書くこと」の妨げにはならなかった。とにかく、この6ヶ月間毎朝、欠かさず「書くこと」が出来たことを嬉しく思う。
(そろそろ、画面左欄の「事務局長Blog(RSS版) NEW」から「 NEW」の文字を消去してもいいでしょうね。管理人さん。)

☆会報第43号発送

「B4版2枚を裏・表に印刷してB5版8ページ仕立ての会報になっている。紙質は裏・表印刷なので厚めであり、800枚となると、かなりの重量となる。これを2枚に折って、それをもう1枚に差し込んで、4枚重ねで8ページの会報1部が出来上がる。さらに、それを三つ折りにして、封筒に入れる。昨晩も一人で、その作業をしたが、「目」のあまりよくない私にとっては、負担が大きく、早々とやめた。次の日、午前9時から始めて、午後の3時にようやく終わった。」
 これは5月末に私一人で、会報を封筒に詰める作業のことを書いたものだ。詰めただけで「のり付け」はしていない。
 やはり、お手伝いが多くいると短時間で作業は終わる。昨日13時からの作業には、阿部会長、竹谷、斉藤、工藤の各幹事と会員三浦りえが参加した。終了したのが15時少し前で、その後工藤幹事が自動車で発送のため、郵便局まで送ってくれて、かつ自宅まで同乗させてくれた。帰宅したのは15時20分ごろだった。
 会長はじめ各幹事には深く感謝する。本当にありがたいことだ。県内は今日、配達されるだろう。

☆『危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」』を書くにあたって参考にした本のこと…

 去る18日に12回シリーズで終わった『危険を感知できない生物…ひと、人、「人間」』は「環境倫理学」をベースに述べたものである。
 ところどころの引用には、その出典を明らかにしてあるが、この論をまとめるには、かなりの数の本を読んだ。一冊まるまる読んだものもあれば、同じものを数回読んだもの、あるいはその目次を見て、関係のありそうな部分を丹念に読んだもの、斜め読みにしたもの、「ああ、そうか」という確認程度に読んだものなど冊数だけはかなりになった。
 何も多く読んだということを誇っているわけではない。書かれた内容に、より「客観性」を持たせるためには、どうしてもその「出典」を明らかにしなければいけないと考える。それをしないと、すべての文章を、まるで「自分の考え」だけで書いたのだという「ポーズ」をとっていることになりはしないか。そうなるとそれは「ウソごと」である。私はそのことを恐れるのである。 
正直な話し、読まないことには、この「論」は書くことが出来なかっただろう。そのような意味から、「考えをまとめるために主に読んだ本」を次に掲げることにする。
 ★をつけてあるものは是非、一読して欲しいものである。

『岩波新書』◇「証言 水俣病・栗原彬」◇「水俣病・原田正純」★「水俣病は終っていない・原田正純」◇「共生の生態学・栗原康」◇「日本の美林・井原俊一」◇「水の環境戦略・中西準子」◇「地球温暖化を考える・宇沢弘文」◇「産業廃棄物・高杉晋吾」◇「自然保護という思想・沼田真」◇「ブナの森を楽しむ・西口親雄」★「現代社会の理論・見田宗介」◇「地球持続の技術・小宮山宏」◇「日本の渚・加藤真」★「豊かさとは何か・暉峻淑子」★「山の自然学・小泉武栄」★「日本の農業・原 剛」◇「日本の神々・谷川健一」◇「自治体は変わるか・松下圭一」◇「土石流災害・池谷 浩」◇「森の不思議・神山恵三」
『岩波ジュニア新書』◇「進化とはなんだろうか・長谷川眞理子」★「日本農業のゆくえ・梶井功」★「豊かさのゆくえ・佐和隆光」◇「きらわれものの草の話・松中昭一」★「ヒマラヤで考えたこと・小野有五」◇「技術と文明の歴史・星野芳郎」◇「地球と宇宙の小辞典・家正則共著」◇「役に立つ植物の話・石井龍一」
『岩波高校生セミナー』★「環境と経済を考える・植田和弘」★「日本の政治をどうするか・新藤宗幸」
『世界文化社』◇「森物語・高田宏」◇「森の水音をきく・丹地敏明」◇「森の旅森の人・稲本 正」◇「ブナ林からの贈りもの・熊谷 榧」◇「森の形森の仕事・稲本 正」「」
『読売新聞社』◇「土の危機・小山雄生」★「文明は緑を食べる・安田喜憲」◇「異常気象と環境破壊・朝倉 正」◇「温暖化する地球・田中正之」★「いのちの水・中西準子」◇「都市という新しい自然・日野啓三」
『NHK出版』◇「日本の水はよみがえるか・宇井 純」★「森とこころと文明・安田喜憲」
『NHK人間大学』◇「生物のデザイン・本川達雄」◇「環境考古学の視点森と文明・安田喜憲」
『共立出版』◇「自然保護を考える・信州大学編」◇「自然保護の原点・佐々木好之」◇「森林の生態・菊沢喜八郎」
『新思索社』◇「森林の荒廃と文明の盛衰・安田喜憲」◇「ブナ帯文化・梅原 猛共著」◇「森林保護から生態系保護へ・西口親雄」
『岩波ブックレット』◇「雪の上のらくがき・新妻昭夫」◇「落葉の手紙・新妻昭夫」★「破壊される熱帯林・地球の環境と開発を考える会」◇「巨大公共事業・21世紀環境委員会」
『カタログハウス・20年後シリーズ』★「№1・20年後の地球はこうなる」「№2・20年後の資源はこうなる」★「№3・20年後の森林はこうなる」「№4・20年後の食糧はこうなる」★「№5・20年後の大気はこうなる」「№6・20年後のエネルギーはこうなる」◇「№7・20年後の海はこうなる」「№8・20年後の水はこうなる」★「№9・20年後の消費社会はこうなる」「№10・20年後のゴミはこうなる」◇「№11・20年後の人体汚染はこうなる」「№12・20年後の食物はこうなる」
『新潮社』◇「森にかよう道・内山 節」◇「木・幸田 文」◇「沈黙の春/レイチェル・カーソン」◇「レイチェル・カーソン/ポール・ブルックス」
『筑摩書房』◇「山に登ろう・芳野満彦」「ツキノワグマと暮らして・宮沢正義」★「森と文明の物語・安田喜憲」
『平凡社』◇「日本の無思想・加藤典洋」◇「森林がサルを生んだ・河合雅雄」◇「哲学の冒険・内山 節」
『有斐閣』◇「農政の転換・嘉田良平」◇「文化系のための環境論入門・瀬戸昌之共著」
『講談社』◇「動物裁判・池上俊一」『雄山閣』◇「世界史のなかの縄文文化・安田喜憲」
『東京新聞出版局』◇「宮沢賢治の山旅・奥田 博」『朝倉書店』◇「日本人と日本文化の形成・埴原和郎」
『中公新書』★「ゾウの時間ネズミの時間・本川達雄」『丸善ライブラリー』★「環境倫理学のすすめ・加藤尚武」
『PHP新書』★「森を守る文明支配する文明・安田喜憲」『人文書院』◇「山の神・吉野裕子」
『あすなろ書房』★「中・高校生のためのやさしい地球温暖化入門・後藤則行」
『盛岡タイムス社』◇「クマゲラにまつわる記憶・藤井忠志」『緑風出版』◇「東北の山と森自然破壊の現場から・山を考えるジャーナリストの会編」『三五館』★「滅びの大予言*後戻りのきかない滅亡の台本・西丸震哉」『文藝春秋』★「楽しい終末・池沢夏樹」
『山と渓谷社』◇「山でクマに会う方法・米田一彦」『中央法規』◇「四季クマの住む森・米田一彦」『農文協』◇「生かして防ぐクマの害・米田一彦」『自湧社』◇「白神の意味・牧田 肇共著」『北方新社』★「おお悲し、泣くはみちのく岩木山・三浦章男」★「陸奥の屹立峰・岩木山・三浦章男」『ポプラ社』★「森と生きる・高橋 健」『大日本図書』
★「森よ生き返れ・宮脇 昭」

「岩木山のコマクサ」の公開/本日13時会報郵送作業/登山は「早立ち」が原則。Aさんの死。(3)

2007-08-22 05:56:54 | Weblog
    ☆「岩木山のコマクサ」紙上で公開を…                  

 昨日、東奥日報弘前支社に用事があって出かけたついでに、会報に掲載した「岩木山のコマクサ」に関する文書と写真を持参した。
 以前から「岩木山のコマクサ」については話してあるのだが、今回は青森県自然保護課の対応と結論(方向性)が文書として出されたからである。
 それに、その方向性が本会がこれまで調査行動をとおして主張してきた内容とほぼ一致しているということもあり、新聞紙上で公開し、「岩木山のコマクサ」問題が持つ自然破壊の事実とそれに関わる「自然保護」の真の意義を啓蒙するという意味から、記事にして広く県民に知らせるべきではないかという意図からである。果たしてどのように扱ってくれるものか。期待したいところだ。

    ☆本日13時から会報郵送事務作業

 昨日の19時ごろに「県内出版」のYさんが印刷され、しかも2枚に重ね折りした会報を届けてくれた。作業の手間暇を考えて、そこまでやってくれるのである。本当に有り難い。今号は都合B4判3枚となるので「重い」。郵送料が10円アップする。そこで、これまでよりも薄い「用紙」にしてもらった。かなり軽くなり、80円で大丈夫だろう。ただ、両面印刷なので「裏映り」が若干あることは否めない。読む人には、郵送代節約のなせるわざと我慢してもらおう。
 幹事のSさんから夕方電話があった。「雨が降ってきたので、会報を受け取るのに私の車で行けばどうですか」ということなのである。ここまで「私」の事情に配慮してくれているのかと思うと、本当に嬉しかった。Sさんは本日、もちろんお手伝いに来る。他の方々も「都合が悪い」という連絡がないので、来てくれるだろう。 

(承前)
  ☆登山は「早立ち」が原則、遅い出発にはいいことがない。Aさんの死。(3)
           
 B君は午後5時半頃、常盤野のパトロ-ル隊に連絡。6時半にパトロ-ル隊が事故現場に到着し、Aさんに人工呼吸、心臓マッサ-ジ等の応急処置をしたあと、担架で8時40分に八合目駐車場に搬送し、それから弘前の病院に運ばれ医師による手当を受けた。しかし、Aさんは9時40分に死亡したのである。              
 東奥日報の記事に…『現場で救助にあたった関係者は「Aさんは鳳鳴ヒュッテまで、あと10mのところに倒れていた。せめてヒュッテまでたどりつければ寒さも防げたろうに…」と話していた。』…とあった。                  
 快晴。その日はいわゆる「10月小春、ひじゃかぶではる」ほどの「小春日和」であった。山に慣れている者ならば、寒くなることを予期し、意識があって動けるうちに防寒衣を着用しただろう。防寒衣を持っていなければ、自力で、あるいは助けを借りてなんとしても、あと10mの所にある避難小屋に入っただろう。
 しかし、経験のない者にとって、この「日和」が信じ難いほどの気温低下を道ずれに、夕暮れとともに襲って来るとは考えられないことであったのだ。      
 だからこそ、B君はすぐに駆け出した。12才の少年が、救助に関わる一本の命綱である時、少しでも早く、しかも明るいうちに、その現場から父を病院へ運ばなければいけないと考えるのは極めて自然な、父を思う子としての心情であるはずだ。   
 10月末、人里的には晩秋の岩木山、しかし、その登山は冬山を意識したものでなければいけない。いくら小春日和の陽気に誘われても、4、500mの薮山ならいざ知らず1000mを越える山ならば、途中まででないかぎり、正午近くに登り始めるようなことはしてはいけない。
 況や、思い立ったが吉日などと、衝動的な登山は避けるべきだろう。山は怖い。怖いからこそ、事前の登山計画が必要だ。そして、その計画は自宅に戻って来ることで終らなければいけない。
 私は残念で、悔しい。それは救助体制のあり方についても同様である。
 「救助」活動にあっては、第一により早い現場到着を、第二に的確な応急処置を、第三により早い病院への搬送を実行してほしいものだ。
 あと一時間、いやあと三十分早ければ、助かったかもしれないとの思いはなかなか消えないのである。

 少年B君は、現在26、7歳であろうか。青森県の警察官となって立派に働いているという。
                         (この稿は今回で終わる。)

会報本日夕方に印刷が完了/登山は「早立ち」が原則、遅い出発にはいいことがない。Aさんの死。(その2)

2007-08-21 06:44:56 | Weblog
☆会報43号今日の夕方には印刷が完了 
 
 昨日、午前中に会報の印刷のため、「県内出版」に行った。お盆明けで仕事が貯まっているようであったが、そのことを飲み込みながらも『「特急」でお願いします。』と私は、経営者のYさんに言った。
 Yさんは、一瞬「う~ん」と言ったものの「それでは明日の夕方にはお届けしましょう。頑張ってみます。」と言ってくれた。室内には印刷を終えた「包装物」や用紙類があちこちに置かれてあり、仕事の多忙さは一目瞭然だったのである。Yさんは無理を承知で引き受けてくれたのだ。
 会報の印刷のために、持ち込む「素原稿とそのPC記録用のメデア」は軽いものである。だが、それに引き替え、印刷された「会報」は重い。
 「A4X5枚」X360部となるから、その分量もかさばり方も並ではない。買い物袋や紙袋に入れて運べるようなものではない。
 私には「自動車」がない。もちろん、「運転免許」もない。だから、運ぶ手段は、これまで登山用の中型リュックに詰め込んで、背負って、夏場は自転車で、冬場は歩いて自宅に運んでいたものである。ところが、Yさんは、その事情を目敏く見つけて、2年ほど前から、自分の自動車で運び、帰宅途中に私のところに届けてくれるようになったのだ。私はYさんの厚意に「ありがたい」という思いを噛みしめながら、それに甘えているのである。本当に感謝にたえない。
 そこで、昨日のうちに、毎回の会報郵送事務のお手伝いをしてくれる幹事の方々に、その旨を記した「ハガキ」を出した。市内だから、今日配達されるはずである。
 何故、電話でなくハガキなのかと、訝る人もいるだろうが、それは、「電話は不便である」という理由からである。
 「不便」だとは、電話をしても相手が不在である場合が多いし、通話が出来ても、その内容の把握と確認が不備であることだ。ハガキだと「視認」されるので内容把握が確実である。次にそのハガキ文面を書こう。

     ・会報43号郵送事務作業について・

 『表記のことについて連絡します。本日20日に印刷所(県内出版)に素原稿を持っていったところ、明日(21日)の夕方には印刷が完了するとのことでした。今回は会報が8ページ、写真展「私の岩木山」出品票、第28回「東北自然保護の集い」要項がそれぞれ1ページ計10ページとなります。かなり分厚いものになります。前号は一人でこの作業をしましたが、親指が「そらで」を起こして大変でした。申し訳ありませんが、何とかお手伝いをお願いいたします。
 8月22日(水)午後1時から事務局で作業を始めます。よろしくお願いいたします。
 午前中からとも考えたのですがあいにく、その時間帯は月に一度の通院日で10時45分が予約時間になっておりました。』

 このブログを読んでいる会員の方々で、この時間が自由な「空き時間」で、しかも「お手伝い」したいという方がいたら、参加を希望したいところだ。今日中に35-6819に電話を。

(承前)
☆登山とは「早立ち」が原則である。遅い出発にはいいことがない。Aさんの死。
(その2)
 風が吹いていた場合はどうだっただろう。事故現場付近は西から東へ吹き抜ける風の通路にもなっている。仮に、通例の風が吹いていなくても、冷却した山頂方向に、まだ暖気の残る樹林地帯から吹き上げるという反対方向からの風はあったと思われる。                    
 現場の標高は1500mを越えている。100m登るのに従い気温は10の6度の割合で下がっていく。それに放射冷却による温度低下が加わり、さらに、風が吹いていた場合には、風速1mにつき、体感温度が1度下がるという事実が重なった。
 そして、この極めて自然な現象は、転倒による身体の損傷と外傷性ショックから体力を消耗させていたAさんの体温をどんどん奪い、ますますその消耗を大きくしていった。
 Aさんの体は、ひたすら疲労の極限へと達し、気温低下にともなう「寒さ」は、Aさんを「凍死」状態へと誘っていった。凍死とは何も冷凍庫の中でカチカチに凍えて死ぬことだけを言うのではない。
 いずれにせよ、Aさんの「死亡」を、そして死亡時刻をより早めた主たる原因は、気温の低下に伴う体温の急激な下降と極度の疲労である。Aさんは事故の直後、声を出し、手を使うほどに、意識がはっきりしていた。事故そのものが、即「死」につながったのではない。
 B君は、Aさんの免許証と現在地を示す地図を持って「お父さんを助けて」(東奥日報紙上の見出し)と、必死の思いを抱いて岩木スカイラインをひた走り、下ったのである。
 車を利用する者にとっては、スカイラインの距離はさほど問題にはならないだろう。しかし、実際足で降りてみると岳への登山道とは比べものにならないほど、その距離は長い。「より早い救助」を依頼するためには、距離の短い時間のかからない道を辿ることがベタ-であると考える。しかし、道の定かでない登山道を下るよりは、下へ辿ると確実に岳に着くスカイラインを選んだのは間違いとは言えない。
 それが12才の少年B君の、またはAさんの判断だとしても、賢明であったことに変わりはない。 
                          (この稿、明日に続く。)                       

原則を守ると登山は楽しいものだ。

2007-08-20 06:14:48 | Weblog
 朝5時に家を出発というのは少々たいぎだったが、登山というものは「早立ち(朝早く登り始める・太陽が昇るのと同じ時間に出発する程度がいい。)」がやはり、原則である。
 時間に余裕があるから「急ぐ」必要はない。ゆっくりとしたペースの登りでは、様々な発見と出会いがある。昨日、一緒に行ったTさんのメモによると、出会った花(果実や種を含めて)47種だったそうだ。
 Tさんにとっては「初めて」の赤倉登山道である。その過剰な登山道整備の実態や石仏を辿りながら、その石仏についての疑問を解き明かしながらの登山、(いや、「山旅」と言った方がいいかも知れない)となった。私にとっても「数年ぶり」に出会った素晴らしく楽しい山旅だった。

 それに比すと、遅い出発(登り開始)はいいことがない。特に日照時間の短くなる秋口はそうである。次のようなことがあった。

 94年の10月30日、11時過ぎに百沢登山口から岩木山に登り、下山途中何かを見ようと一の御坂の登山道から逸れた所の岩に登り、足を滑らして転落、後頭部を強打、損傷し、死亡した事故があった。死亡者は子供連れである。ここでは「死亡者」をAさんと、子供はB君と表記する。           
 Aさんは転落し後頭部強打、損傷したあとも意識がはっきりしていた。自力下山が不可能と知った時に、子供のB君に「声を出して」自動車運転免許証を持たせ、救助依頼者が誰なのかに関わる客観性を出そうとしている。更に現在位置を示すためのメモ的な地図まで書いて渡している。
 外傷性ショックはかなりなものであっただろうが、Aさんの行動は非常に沈着であり客観性に富み、救助・捜索する側に対しての深い配慮は科学的ですらある。それゆえに、Aさんの死はとても悔しく、無念なのだ。
 これほどに明確な意識を持ち、思考することが出来たAさんが、なぜ助からなかったのだろう。転倒・転落して即死したのではない。
 弘前市内の病院で午後9時40分、事故発生から約6時間後に死亡した。

 私は「事故後のAさんがいた場所と季節的時間」に強くとらわれた。そして、この2つに死亡の主因と等しいほどの「ある要素」があり、それが死亡をより早めたのではないかと考えた。「ある要素」とは、事故発生時の季節と時間である。
 10月30日といえば、山の季節としては「冬」と考えて差し支えない。同じ日、頂上付近で測った午前中の温度は日陰で(気温測定は日陰の風通しのいい所で行なうのが通例)3度ぐらいであった。それに加えて、事故発生は午後3時過ぎという時間帯である。
 一般的に「冬山」での行動は遅くても午後3時に終了するものと、山仲間では理解されている。3時を回ると太陽高度は極端に低くなり、気温は時を待たずにぐんぐん下降する。天気がよく晴れている時ほど、それまでの暖かさに馴れた身体には、その気温降下が強く感じられるものだ。因に、私はAさんが事故に遭ったその時間には、弥生発のバスの中にいた。その日は赤倉登山口から登り弥生登山口に下山をしていた。数10年このかた、私は10月以降の登山では遅くても午後四時よりも前に、登山口にいることを心掛けている。                          
 午後3時過ぎ、太陽は低い。間もなく日は沈む。夏のような強い日ざしで暖められていない周囲の岩岩は微かな温もりを奪い取られ、放熱を続け急速に温度を下げていく。下山を始めて間もなくの事故だ。登りの時の発汗は乾くいとまもなく、下着を濡らしていただろう。その日は本当に気持ちいい快晴であったし、父子という間柄でもある。いきおい頂上での休憩も長い時間になったことだろう。そしてこの休憩中に、下着の濡れは体温をかなり下げていたと想像することは容易だ。
 しかも、頂上から事故現場までの距離では、短いし下りなのだから身体が燃え発汗するほどの運動をしていない。その上、登りの運動で熱を帯び柔らかくなっていた筋肉も頂上での休憩で収縮し固くなっていた。そういう時に転倒して、動けない状態になったのである。下着の濡れは体温を奪い、体温は気温の降下に比例して下がっていく。午後5時、6時となればもうすっかり暗くなり、気温は零度を下まわっていたはずだ。
 その日はものすごい快晴であった。それは夜になっても変わらなかった。高気圧の中、風のないよく晴れた夜に特に著しいもの、それは放射冷却である。これは赤外放射によって大気や地表面の温度が下がることである。風が吹いていると、上下の気層が混合するために、この冷却はあまり進まないと言われているが、風がない場合は冷却がどんどん進むから気温はさらに下がっていたのであろう。(この稿続く。)
          

会報43号入稿完了月曜日には印刷所に/危険を感知できない生物…「人間」(12)

2007-08-19 03:52:46 | Weblog
    ★会報43号入稿完了月曜日には印刷所に 


 昨日の午後4時近くに、B5判8ページの会報43号の印刷原稿が完成した。今回はその他に、写真展「私の岩木山」出展票と「東北自然保護の集い」の要項も同封することになる。だから、原稿の総数はB5判で10ページとなる。今から「郵送代」のオーバーが心配である。だが、会の活動費で郵送代ぐらいけちってもしようがないだろう。これは無駄なことをしているわけではなく「必要」でしていることだから、ちょっとぐらいの出費を気にして「活動」が疎かになってはたまらない。それこそ本末転倒というものだろう。
 明日、月曜日には印刷所に持って行ける。というのは「印刷所」はまだお盆休みらしく、いつも、土曜日は営業しているので、そのつもりで電話をしたが、不在であった。昨日出来上がろうが、一昨日出来上がろうが結局は、月曜日でなければ埒があかなかったのである。
 水曜日には印刷が終わって配達されるので、木曜日に手伝える幹事たちと郵送事務をするつもりである。連絡がつかなければ、42号の時と同様に、私「1人」の作業となる。だが、出来るだけ、それは避けたい。両手の親指が「反ら手」症状を呈して、数日痛くてかなわないからだ。
 今日は久しぶりに岩木山の赤倉道を登る。間もなく出発する。5時になると、今冬数回一緒に岩木山に出かけたTさんが迎えに来るのである。その前に、このブログを書き終えなければいけない。ちょっぴり辛い。

(承前)
危険を感知できない生物…「人間」(12)

     ★自然への共感能力を高めるには

1.返すことができないもの、元に戻すことが出来ないことを奪わないとういこと。

 奪うということは自然への共感能力がないこと。返すことのできないものとは、復元が不可能なものであり、それは命であり、時間であり、自由であり、自然である。
 元に戻すことが出来ないことを奪うということは、人が犯す悪行の中で最も我利に満ちて卑劣なものだ。決して許されることではない。開発に名を借りて、自然を奪っていく者も同じである。伐られてしまったブナの森を誰が補償するというのだ。これから育っていくブナの何百年という取り返しのつかない歳月を誰が埋めてくれるというのだ。

 リンゴの花の咲く五月、畑の中を走る農業道路の傍らには、数多くのマメコバチが車に跳ねられて死んでいる。受粉作業で、人のために大活躍をしてくれた蜂である。そのあとの非業の死なのに人は誰も目を向けない。開発はこのことによく似ている。
 「林道を造ることは、緑を奪うことになる。」と言うと、「奪うのではない、一時中断するだけだ。数年経てば別な緑が育つではないか。」と反論する人もいる。
 ところが、その中断時の保障を誰がどうするというのであろう。葉には葉でなければ出来ないことがある。だから、人間の誰も葉の肩代わりは出来ない。

2.生命がみな別個の価値であると認識すること。それを決してお金という価値で決済 しようとは考えないこと。

 貨幣というものによって、あらゆる個別の価値が通約される世界を求めないことである。つまり、時間には時間、生命には生命といった形で決済される個別の価値の次元性を大事にすることなのである。すなわち、「私の時間に対してはあなたの時間で支払って戴くし、あなたの時間には私の時間で支払おう」ということである。

3.たとえば「花を共感する」場合は、優しく受容する感性を持つこと。

 世界を認識する窓の形が違えば見える範囲や性質が違ってくる。歩かなければ花には会えない。花の目線で、虫の目線で花を見なければ見えないのだ。咲いていても優しく受容する感性を持っていない場合、その花が目に入らない。目に入らなければ共感することは出来ない。他の生き物と共感することは自分も生き物である故に、人としてのさだめであると言える。

4.生命の相互依存の連鎖という生物世界をとらえること。

 他の生物を自分と平等に扱うということであり、植物を集める者はそれを取るたびにお詫びを言い、感謝をしていつか自身がその植物に対して役立つことを保証しなければならない。
 文明にこだわらなくても、犬もねずみも非常に自然科学的なのである。犬の聴覚や嗅覚は人間の科学をはるかに越える。そのことが人の目に見えないだけである。人以外の生きものほど、自然の論理に適(かな)った生き方をしている。
 平等な友達としての感覚があれば、自然の状況の不気味な深刻さにいち早く気づく。自然への共感能力とは優しさであり、人間の拡大された感覚器として、感性と理性の延長にほかならないものである。
 自然への共感能力である優しさを持つことよって、人間は動物や植物のデリケートな反応の中に、精妙な変化の開始をいち早くキャッチ出来るのである。
 宮沢賢治の作品を読むと、そこでは、自然への共感能力である優しさを『植物、動物がみずからの生命を糧として、たがいに他の生命を養い合っている。「生かし合い」の連鎖であり、自分の命が他者のための支えのひとつである。』という形で見ることが出来るような気がする。

 私たち現在世代は、未来世代と同じだけの「生態系としての地球の恵み」を分かち持つこと。つまり、「基本的な生活条件の分有」をすべての行動に取り入れていかねばならい。
また、私たちの価値観は、未来の他者の迷惑を考慮して、その生存条件を保証するということを判断の原点にして決定すること。つまり、過去世代に学びながら、残されたものを大事にして未来世代と直接真向かい「新しい倫理的決定」をしていかねばならないのである。  
                    (この稿は、今回で本論を終了する。)

会報43号発行準備/危険を感知できない生物…「人間」(11)

2007-08-18 05:32:26 | Weblog
 時には事務局の「仕事」について報告することがあってもいいだろう。と言うわけで「会報43号」の進捗状況について、まず、書こう。

 昨日の朝5時ぐらいから、会報発送のための封筒を印刷した。表面下欄に「会名・住所・シンボルのミチノクコザクラ写真」の印刷。その後で、マスコミ各社、会活動協力者と支援者、それに会員の宛名印刷をあわせて、380通ほどだ。
 途中でプリンターが息切れを起こしてしまったので、一旦電源を切るなどして調整をしていたら、結局昼を挟んで午後の2時ごろまでかかってしまった。9時間の作業になったわけである。
 「息切れ症状」とは、連続印刷で100枚を越えるあたりから極端にスピードがダウンしてしまい、1(ページ)枚印刷する途中で4~5秒間停止してしまうのである。このことを知っていたので、今回は50枚ずつ印刷を繰り返していたのだが、やはり、途中でスピードがダウンしてしまったのである。
 そこで、一旦、印刷を中止しプリンターの電源をオフにしてから、Disk Cleanupをした上で、デスクの最適化をして、PCの電源を切った。待つこと30分。
 ちなみにプリンターはEPSON PM-4000PX、ソフトは「筆ぐるめVer10」、OSはWindows XP Pro 64bit、PCは自作組み立てで、電源は700W、CPUはIntel X6800Ex 2.93GHz、 MemoryはDDR2 5300 8GBとなっている。ハード的なスペック上からは「息切れ」を起こすことは考えられないのである。
 30分後に再開。最初の30枚ほどは順調に、まるで流れるようなスムーズさで動いていた。ところが、また突然「スピードダウン」である。という訳で、結局トータルで9時間も費やしてしまったのである。
 いらいらしながら印刷を終えた後、会報の作成にかかった。すでに「素原稿」は入稿済みなので、推敲と字句の訂正、レイアウトなどが主な作業になる。完成までは3、4日かかりそうである。
 何故、このような「息切れ状態(印刷スピードのダウン)」を起こすのかを知りたい。どなたか、その原因と修復方法をご教示していただくと大変有り難い。

  危険を感知できない生物…「人間」(11)

  ☆自然との共存・共生に向けて、素朴な「自然への共感能力」を養うこと…

 バイオテクノロジーを使い、自分好みの花に「改造」させようとする人は決して花と平等な友達にはなれないし、共感能力がないと言えるだろう。
 それは利用であり、支配である。これは人間の欲望の具現物であるからだ。さらに、人間の意図、個々人の欲求充足を目的に自分勝手につくられたものである。
 だから、「人工生物」と言えるものであって自然ではない。人と共生する対象から離れてしまうことなのである。
他の宇宙の生物によって私たち「人」が、その生物好みに改造されることを、この人たちは考えないのだろうか。胸が痛まないだろうか。
 バイオテクノロジーは潜在的に、この「痛みと恐怖」を所有している。
 今日、科学技術は「巨大なシステム」を発達させている。しかし、科学技術が見落としているものは「共存する全体性へのバランスの感覚」である。
 これが共感能力である。これさえあれば、あの水俣病は起こりえなかった。

 さて、自然への共感能力とは具体的には何であろうか。それは…
1.自然物が好きだという気持ちと、それを自分と平等に扱うということ。
 (人間が他の何よりもいいなどということはない。)
2.植物を集める者はそれを取るたびにお詫びを言い、いつか彼自身が役立つことを保証するという気持ちを持つこと。
3.同じ命を持つものへの優しさである。(自然への共感能力とは優しさである。)
4.すべての生き物の時間をそのままとらえ自分の時間にしたり、人間の時間を尺度にしないということ。
5.目の前の自然や景物に過去の時間を発見して感動すること。
6.自然の生命体などを通約された一元的な価値(お金)でとらえないこと。
7.動物や植物のデリケートな反応を、人間自らの拡大された感覚器としてその感性と理性の延長だととらえること。
8.私たちを取り囲んでいる世界は神秘であるととらえること。

以上の「自然への共感能力」の意味をよく踏まえた上で、次のことを読んで欲しい。

 高山の花は、あなただけの花ではない。高山植物は国民一人一人が共有する財産である。まさに氷河時代からその場所にひっそりと生き続けてきた生きた化石なのである。
限られた地域に、孤立化しながら独自の進化をとげてきたものを固有種と言う。ミチノクコザクラも固有種である。これらを引き抜いて自分の庭に植える、または他に売るなどはバイオテクノロジーを使い、自分好みの花に「改造」させることと同じである。もちろん、「岩木山のコマクサ」も同じことである。そこには自分の都合しかない。
 もちろん、これは違法な行為である。踏みつけ行為などを含めて文化財保護法、森林法、自然公園法では「採取」は厳しく禁じられている。
 販売禁止は「種の保存法」として制定されたが、その対象がキタダケソウ、ハナシノブ、アツモリソウ、ホテイアツモリソウ、レブンアツモリソウの僅かに5種類に過ぎない。だから、その効力が発揮されないのと等しい状況が続いている。
 とにかく盗掘は、全国の高山植物が生えている地域の8割に達していると言われている。それ故に貴重である。
 しかも、生物学的に命はこの上なく脆(もろ)い。脆いものには手厚い保護が当然必要であろう。
                              (この稿続く。)

死者たちの8月から/危険を感知できない生物…「人間」(10)

2007-08-17 04:14:38 | Weblog
 シリーズで書いている『危険を感知できない生物…「人間」』の前に、Web版「毎日新聞」の「発信箱:死者たちの8月から」の引用から少し書いてみたい。

 昨日も書いたが、NHKはBSハイビジョン特集で15日の前後に一日の大半を割(さ)いて「硫黄島」とか「8月15日、あの日世界は何をめざしていたのか」などを放送した。あまりにもその時間帯が長いので、すべての番組(プログラム)は見ることができなかった。
 しかし、その放映された内容に共通するものへの「共感」は持つことが出来たと考えている。なぜならば、8月12日に「発信箱:死者たちの8月から」を読んでいて、「死者たちの8月」というものの意味深さに気づき、感動し、感銘を受けていたからである。「感動や感銘」という時、そこには悲しみや喜びの他に「憤りや怒り」があることも当然である。

 『…(前略)8月はそうした月なのだ。言い換えれば、生きている者にとって、死者たちに思いをはせる月であろう。ことに原爆や空襲の犠牲者は、戦争の結果として、尊い命を奪われた。何の罪もない人々であった。
 詩人の石垣りんさんは「弔詞」でこう詠んだ。<死者の記憶が遠ざかるとき、同じ速度で、死は私たちに近づく(中略)。戦争の記憶が遠ざかるとき、戦争がまた 私たちに近づく。そうでなければ良い。 八月十五日。眠っているのは私たち。苦しみにさめているのは あなたたち。行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。>
 8月は、戦争を忘れてはいけない月でもある、と肝に銘じたい。お盆に帰ってきた天国の死者たちを悲しませてはならない。』毎日新聞 2007年8月12日 東京朝刊

 引用文中の石垣りんさんの詩、その一節「戦争の記憶が遠ざかるとき、戦争がまた私たちに近づく。そうでなければ良い。」がNHKの番組編成の意図と重なったのである。
 「戦争の記憶」を遠ざけてはいけない。日本は今、「戦争への道」に向かって歩き始めているのではないかということへの検証と告発の意味があるのではないか。
「目覚めよ、眠っていてはいけない。」と言い続けたのが、一連の番組であったのだ。
 私は「国」というもの、その「国」を動かしている為政者のエゴと身勝手さに、死者に対する悲しみ以上の憤りをあらためて持ったのである。

 (承前)
    危険を感知できない生物…「人間」(10)

 21世紀は「地方の時代の始まり」であるといわれているが…

 岩波新書最新版「自治体は変わるか」には次のようにある。
『1999年始まった法制改革「新地方自治法」は、明治国家がかたちづくった閉鎖国家型の官治・集権政治から国際開放型の自治・分権政治への転換をめざすという意味で、日本の近代化の成熟に対応する政治・行政改革への第一歩とみるべきでしょう。本来の官治・集権から自治・分権へという静かなる日本の構造改革のはじまりなのです。』「松下圭一」

 ところが、現に地方自治体は、財政の緊迫化、議会の空洞化、情報公開や政策及び民主主義水準の未熟など多くの問題を抱えている。だから、「新地方自治法」が施行されたからといって、すぐに「地方の時代」になるはずはない。それではどうすれば「地方の時代」に近づくことが出来るのだろう。
 私は、次のことを掲げたい。
1.真の地方の時代とは、首長の権限が強められ、拡大されていくことではなく、住民の自治能力を高めることにある。
2.住民が癒される自然を保持・増強し、住民とともにふるさとを愛せる人を首長として選ぶことである。
3.今ある我々の便宜的な価値で選ぶというよりは、今を含めた「未来世代」のために選ぶという行動をしなければいけない。今につながらない未来はあり得ないのだ。
4.そのためには、正義と倫理的な目と自然に共感する能力を持つ我々にならなければいけないということである。
5.「人任せの政治から自分たちの政治」を取り戻すことでもある。
6.各人が個性を持ち、生き生きとした表情で故郷を誇ることが出来る時代ということでもある。

 あらゆる全国的なレベルでの政党は既に「自己目的化の時代」に入ったと考えるべきであろう。政党を越えるところに真の「自治」がありはしないだろうか。「地方の時代」は必然的に政党の中央集権を形骸化するものでなければならない。
 21世紀の主題である自然や後生との共存・共生を拒み、私利の満足のために「開発」業者と攣(つ)るんで、「開発」を容認し、緑を奪い、後生に供給される「酸素」を少なくし、未来への投資を拒絶していくものを、民主主義の〈機構・システムである選挙〉で選ぶわけにはいかない。「未来への投資を拒絶していくもの」の中で、一番悲惨なことは戦争である。 
                            (この稿続く。)