岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

長部日出雄は 「岩木山」を「わが心の羅針盤」と言う…(その2)

2007-07-18 06:55:28 | Weblog
(承前)
 遠景を眺望している人に比べると、私たちのように山の懐に飛び込んで行くことの出来る者は、何と幸せなことだろう。手で足で登り、体全体で「山」を実感出来る。山の置かれた実状をつぶさに視覚で、触覚で、聴覚で把握することが出来るからだ。
 山から離れているということは、そこから時間的、空間的な距離を持つことであって、山を共有し、山と同時に存在しているとは言えないのではないか。
 弘前から岩木山を眺めても、鰺ヶ沢スキー場の拡張ゲレンデで伐られてしまった「岩抱き13本ブナ」は見えないし、(今では現場に行っても、その跡を探すことですら難しいが…)その歴史的な重みを持つ悲しみを感ずることは出来ないはずだ。私はこのことを「見ることの横着さ」だと言ってきた。

 人間とは総じて、魂の広がりと深まりを自主的に開拓したり掘削(くっさく)することは苦手なものである。だから、実態から離れたところに自分を置いていては、魂も心も知らないうちに狭小化していくものだろう。
 これを真実や正義、美意識などを人生の至上の価値であるとして生きている人たちは、人間の弱点として受け取るに違いない。 長部も時間的、空間的な距離を持って岩木山を見ているから、この弱点を持った人間に過ぎないのかというと、いささか違う。
 また、長部は言う。『…イエスは教えた。ー自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。…カントは述べた。ー人間にとって普遍的な原理になることを、あなたが望むような基準に則って行為せよ。…孔子は説いた。ー自分にしてほしくないことは、他人にもしてはならない。つまるところ、自分自身とおなじように、他者を大切にしなさい、ということだ。』と。
イエスの言う「人」、カントの言う「あなたが望むような基準」、孔子の言う「他人」、そして、最後に長部が言う「他者」と何だろうか。私はそのことを考えた。だが、読解力に欠ける私には一読しただけでは解らなかった。三度目の途中で、やっと長部の意図に接近出来ているのではと思い、読了してようやく、長部の思考の原点に辿り着けたと思った。
 それは、長部は『「人」・「望むような基準」・「他人」・「他者」とは岩木山なのである。そして、自己実現の根元である自分も、やはり岩木山なのである。』と言っているのだということであった。
 私は、「自分自身と同じように岩木山を大切にしなければいけない」と言外にはっきりと述べていることに遅ればせながら気がついた。岩木山は「自己実現に必要な不変・不動の目標」なのである。恥ずかしいけれど、私は長部の魂をやっと理解出来たのである。

 長部は最後の最後にまた、「…津軽の人は恵まれている。パソコンに向かう一方で、つねに不変にして不動の目標ー岩木山を、朝な夕なに眺められるからだ。」と言う。
 長部の頭には、弘前公園の「本丸」で岩木山に向かって(岩木山と対峙して)手をあわせる市民の姿があった。長部本人も若い時から何回もその行為をしていたのかも知れない。あの帰省していた苦しい時期にも、そのために本丸に何回も足を運んだのかも知れない。
 自分の居宅または居宅付近から見える岩木山に手を合わせる行為と、お城の本丸に登り、そこで「お山」に向かって合掌する行為では、その主体者にとっては、明らかに「信仰的な昂揚」と「深まり」に異質の違いがあるのだ。
 「本丸」は特別な場所だ。個々の市民が、自主的に、自然発生的に長い歳月をかけて作り上げてきた、だれもが自由に登れる「癒しの場」である。その場所を「ある日、突然」、殆ど議論もないままに「入場有料制」にして、多くの市民の魂を「締め出して」しまった。
 弘前出身のルポライター鎌田慧は、「精神に囲いを作るものだ」と言って有料化には反対をしている。長部はどうだろう。どう言っているかは確認をしていないが、この文章からは明らかに「反対」であることが見て取れる。この2人を仮に、弘前出身の「文化人」と呼ぼう。文化人が反対するような行政を堂々と実施する弘前市政はそれだけ、文化行政が「貧しい」ということだ。貧しいのは市の財政だけではなかった。ここ数十年、市は「観光資源」を育てず、しかもその資源を切り売りしてきた。あげ句の果てに「公園入場」に際しては「金を徴収する」とした。
 「公園入場有料化」アンケートでは「有料化」を推し進める視点だけの項目を掲げ、「桜まつり」期間中には外部からの「観光客」を対象したアンケートを実施して、「有料化賛成」は90%を越えたなどと発表している。そこには、本来の「市民」はいない。本来の市民を公園から閉め出すための囲い込みの論理が、この手法に現れているのだから、何と正直で「姑息」なことだろう。
 「本丸」にあがることで「金」をとる行為や岩木山の自然を壊してスキー場を造る行為は「スケールメリット」という「経済優先」の思想を重視していることの現れである。この公園入場有料化に賛成する市民やそれを推進する市行政や市議会議員は、長部の「岩木わが心の羅針盤」をどのように読むのだろう。おそらく「見ることの横着さ」で足りず、胡座をかいているだけということだろう。
 それにしても人間というものは、現実を直視出来ない限り、実態をまったく理解できないものであることを長部日出雄をして教えられた。なんとも寂しい限りである。
 この「公園入場有料化」が定着してしまうと、弘前市は旧岩木町から手に入れた「岩木山」にも「入山料」という制度を導入することになるかも知れない。    
『未知の航路を進むのに、不変にして不動の目標は、決して欠かせない。その点、津軽の人びとは幸いである。不変にして不動の目標として、岩木山が存在するからだ。』と長部の言う、その岩木山に「登る」のに入山料を支払わねばならないとは…。どちらも、市民の郷土精神や魂に「課金」していることだ。