岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

またまた「タニウツギ」 / 「ムラサキ」は白い花だが、その他は「ムラサキ」色系だ.。

2009-05-31 04:03:26 | Weblog
(今日の写真は、また「タニウツギ」だ。この色彩の艶やかさは、まさに見事というほかない。
 「スイカズラ(忍冬)」の仲間だから、甘い蜜を出しているのだろう。「スイカズラ」は「忍冬」と書くが、これは葉を落とさずに寒い冬に耐えるという意味からの命名だ。だが、「吸う葛」という字義を当てると、この花の出す「甘い蜜を吸う葛」ということになり、花の基部から折り取って、実際に吸ってみると、確かに甘いのだ。
 花もどちらかというと大きいので、大きな「熊蜂」までもやって来るし、その他にミツバチや蝶の仲間も沢山集まってくる。
 それにしても、えもいわれぬ「美しさ」である。色々な形容がすべて当てはまってしまう「色彩」とその「優美」さである。
 爽やかさもあり、清新さもあり、若やぎを見せながらも、どこか妖艶でもある。すごくエネルギッシュでもありながら、去りゆく春に対する寂しさも滲ませている。その反面、暑さを濃縮したような「度きつさ」も演出する。
 私は毎年、この時季になると、この千変万化する「季節的な色彩と横溢する息吹」に出会って、胸がときめく。
 それは、10代の頃に「美しい女性」を遠くから眺めて、抱いた「ときめき感」に通ずるものである。「10代の頃のときめき感」を今でも持てる「ときめきのある人生」を70代に近づきつつある現在も、「タニウツギ」は与えてくれるのだ。
 本当に嬉しい。何でもいいだろう。人生にあって「ときめく」ことはいいことだ。それこそ「生きている」証だろう。)


◇◇ 「ムラサキ」は白い花だが、その他は「ムラサキ」色系だ ◇◇

(承前)
 最初に「キュウリグサ」について触れながら、これと非常に似ていたり、生えている場所が同じである「ハナイバナ」について触れないわけにはいかない。
 そこで、先ずはムラサキ科ハナイバナ属の一年草または越年草である「ハナイバナ(葉内花)」のことだ。
 これは、北海道から九州の日本全土の畑や道端などにごく普通に生える草だ。茎は細く上向きの伏毛があり、10~15cmになる。
 初めはやや地面に伏したように斜めに伸びるが、次第に立ち上がって茎が増えてくる。葉は長楕円形又は楕円形で長さ2~3cm、幅1~2cmあり、表面にしわがある。
 葉の形は、あまりしっかり決まった形があるようではなく、縁は波打つことが多い。葉や茎、萼片などに、やや長めの毛が多く生えている。
 枝の上部の葉の脇に淡い青紫色の花をつける。花冠は直径は3mm程度のごく小さい花で、花冠の先は5つにさけている。
 花期は4月から11月であり、長い。同じ個体がこの期間ずっと咲き続けるというよりは、早めに咲いた個体に出来た果実が、「発芽」してまた夏や秋には花をつけ、全体として花期が長くなっているらしいのだ。つまり年数回、順次「生えては咲かせる」を繰り返しているということだろうか。花はキュウリグサに非常に似ている。
 秋に芽生えた個体の越冬中の「根生葉」は褐色を帯びていて、葉の縁の毛がやたらと目立つ。
花名の由来は『茎の上部の葉と葉の間に花をつけることで「葉内花(ハナイバナ)」』ということによる。

「キュウリグサ」と「ハナイバナ」は見た目が非常に似ている。その見分け方を次に述べよう。
…キュウリグサ
・葉をもむとキュウリのにおいがする。・葉は茎の下のほうに、花は茎の上のほうにつく。
・クルッと巻いた花序が開花とともにほどけていく「さそり状花序」。

…ハナイバナ
・花穂の先端にも葉(葉状の苞)がある。・揉んでもキュウリの匂いがしない。・開花期初期にも花穂が渦を巻かない。・花の先端がくるりと巻かない。・花の形はキュウリグサそっくりだが中心が黄色くない。・さそり状花序にはならず茎の上部の方まで葉がついている。・11月ごろまで淡い青色の花を咲かせる。・葉と葉の間に花がつき、キュウリグサによく似ているが、多くはつかない。 

 さて、しんがりが「ムラサキ科」の総元締め、ムラサキ属の多年草「ムラサキ(紫)」である。
 花期は初夏で、日当りのいい山地や草原に自生する多年草。根が太く紫色で古代の服色最高位の紫色を染めるための染料として使われた。同じ仲間の花の色は「赤や紫」系であるのに、しかも「ムラサキ」という花名であるにも拘わらず、花の色は白だ。

 青森県でも滅多に見られない花となり、絶滅危惧ⅠB類にランクされている。
根は紫色、これを乾燥したものが漢方生薬の紫根(しこん)で、解毒剤・皮膚病薬とするほか、昔は重要な「紫色」の染料とした。これが花名の由来だ。
 「ネムラサキ」「ミナシグサ」「ムラサキソウ」などと呼ばれる。高さ約50 cmである。
 万葉集には「紫草(むらさき)のにほへる妹を…」などと詠まれている。
「源氏物語」のヒロインといえるのは、「紫の上」であろう。高貴な色とされる「紫」の印象を託された女性だ。

「紫色」は、「ムラサキ」で染めた色だ。「ムラサキ」は、日本に自生する草だ。根から紫色の染料が取れ、根の外皮が、濃い紫色をしている。
「ムラサキ」の花は「白」だ。花も小さく、葉や茎にも、目立つ特徴はない。一見、「ただの雑草」にしか見えない。
 しかし、「ムラサキ」は、日本文化に、大きく貢献してきた。万葉時代から、染料や薬に用いられている。
 「ムラサキ」がなければ、「万葉集」の歌や「源氏物語」は生まれなかったかも知れない。宮廷では「紫」が最高位の色でもあった。

 ところが、現在は「ムラサキ」は、絶滅寸前である。「ムラサキ」が生える環境が破壊されてしまったのである。「ムラサキ」の栽培は難しい。現在では「ムラサキ」と似た別の外国から移入された種が栽培されることが多い。
 伝統を維持するのに、外国の植物に頼らなければならないとは、情けない話しだ。
 日本におけるムラサキ科の代表選手「ムラサキ」は今や自生しているものが少なくなり、「危急種」に指定されている。(この稿はこれで終了)

「ムラサキ」は白い花だが、その他は「ムラサキ」色系だ。

2009-05-30 05:48:48 | Weblog
 (今日の写真はスイカズラ科タニウツギ属の落葉小低木の「タニウツギ(谷卯木)」とユキノシタ科ミツバウツギ属の落葉低木の「ミツバウツギ(三葉空木)」だ。左が「タニウツギ(谷卯木)」で、右が「ミツバウツギ(三葉空木)」だ。
 「ムラサキ」科の花について書いている本題とは整合性はないのだが、この時季としてはこの2種類の「ウツギ」紹介しないでおくことは出来ない。)

 28日と29日、2日間続けて岩木山神社境内林から「宮様道路」、そして「リンゴ園」を抜けて「高照神社」に続く道沿いに歩いた。

 昨日は自転車で出かけた。宮地からバスの走る道路を通らずに、バイパスを行ったが、比較的斜度はないものの、やたらに長い距離感だった。「広くて」両側に自転車と歩行者兼用の「歩道」が敷設されているという「立派」なものだ。だが、「本当に必要だったのか」と「通る」たびに考えさせられるのだ。
 昨日は風が強かった。帰りもこの「バイパス」を通った。あれだけの長い坂を登ったのだから、帰りは「すいすい」と楽勝だと思っていたが、ペダルを漕がないと、止まってしまうのである。何と、弘前までずっと強い「向かい風」に祟れてしまったのである。追い風を背に受けて走る自転車は「楽」である。しかし、強い「向かい風」は地獄だ。

 その旧道からバイパスを通り、また「旧道」に出る途中、高岡の上部に広がる林縁を、紅く染めていた「タニウツギ」がよく見えていた。
 実際、山麓の林周辺の、求聞(ぐもん)寺から高照神社につながっている歩道沿いの林縁にも、見事に咲いて、辺りを「紅色」に染め上げていた。
 低地ではすでに終わりかけてはいるが、「ウワミズザクラ」など白い花の多いこの晩春という時季、この色鮮やかな「タニウツギ」の「紅色」は、他の緑の中で実に映えるのだ。

 右に見えるのは「ミツバウツギ」だ。「タニウツギ」より1週間ほど先に白い清楚な花を咲かせる。だから、この写真では、すでに花びらが「黄変」しているものもある。ここは、樹木が伐採された場所であるから日当たりがいいので、早く咲き出したのであろう。日陰になっている林縁のものは、まだまだ、まさに「白い清楚さ」を十分に発揮していた。
 花名の由来は「葉が3枚であること」による。山地に自生して、樹高は約3mで、葉は3出複葉だ。5~6月の始めに、白色の五弁花を開く。別名を「コメノキ」ということも、この咲いている風情を見ると納得である。
 「タニウツギ」の魅力は、緑の山野を美しい紅色の花で彩ることだろう。北海道(西部)から本州の主に日本海側に分布している。私たちはこの「美しい花」の咲く地方に生きている。その偶然を幸せなことだととらえたいと、毎年この時季になると思うのである。
 この花が咲き出すと、「岩木山」では夏が始まる。特に今年は早かった。山麓の日当たりいい場所では、すでに5月中旬から咲き出していた。そして、この花が咲き出す頃に、「タケノコ」採りのシーズンが始まるのである。
 谷沿いに多く見られるので、この名を持っている。「サワウツギ(沢空木)」とよぶこともある。津軽では、「タニウツギ」を「ガジャ」とか「ガジャシバ」と呼んで、「タケノコ採り」の「開始」を教えてくれる花として、昔から伝えてきた。

 「タニウツギ」は、逞しい木だ。夏の暑さに負けない激しいエネルギーをどこかに蓄えているのだろう。ちょっとのことで「枯れる」ことはない。
 主幹が立たず、株立ち状になって、きわめて、強靱なのである。葉序は対生で、先が5裂する花冠は漏斗状のラッパで、細い基部から、急に広がる形をしている。
 「タニウツギ」は、「ウツギ(卯の花)」と、その花名から混乱をきたすことがある。幹枝の髄が「中空」になっているので、この名がついた。しかし、花冠も鐘状で白色の「ウツギ」はユキノシタ科であり、この「タニウツギ」はスイカズラ科なのだ。

 「ウツギ」と呼ばれる落葉低木は3種類あって、「ユキノシタ科、スイカズラ科、フジウツギ科」のどれかに属している。「スイカズラ科」のものは色が多様であり、「フジウツギ科」のものは、花の房が大きく目立つ。
 岩木山では「ユキノシタ科」のウツギ、ノリウツギ、ミツバウツギ、「スイカズラ科」のタニウツギが見られる。

    ◇◇ 「ムラサキ」は白い花だが、その他は「ムラサキ」色系だ ◇◇
(承前)

 …昨日はムラサキ科ワスレナグサ属の多年草である「ワスレナグサ」について書いたので、それを承けて、今日は同属の「エゾムラサキ(蝦夷紫)」のことを書くことにする。
 これは、深山のやや湿った林内に生える。名前のとおり北海道と上高地に分布している。5月から6月にかけて咲く「青紫色の小さな花」だ。咲き始めにはピンクのものもあり、可愛らしい。この点は「ホタルカズラ」に似ている。
 帰化植物の「ワスレナグサ」が有名過ぎる(?)持て囃され過ぎる所為で「エゾムラサキ」に出会っても「ここにも、ワスレナグサがある」と思う人はきっと多いだろう。
 この2種の違いの中で最も分かりやすいのは「萼の様子」だ。「ワスレナグサ」の萼には伏毛しかないが、「エゾムラサキ」の萼には「鉤型の立った毛」が生えていて、切れ込みも深いのである。
 花名の由来は、根から紫色の染料をとった花「ムラサキ」に似ていることと北海道に多いことによる。別名を「ミヤマワスレナグサ(深山勿忘草)」ともいう。
                              (明日に続く)

ムラサキ科ムラサキ属の花、「ムラサキ」は白い花だが、その他は「ムラサキ」色系だ。

2009-05-29 05:22:59 | Weblog
(今日の写真は、ムラサキ科ワスレナグサ属の多年草「ワスレナグサ(勿忘草)」だ。これはヨーロッパ原産の帰化植物である。水辺や湿った所の道端や草地に多い。野生化して増えて北海道や長野県に多い。
 …とはいうものの私の家の近くでも、咲いているところがあることを確認している。「本州中部より北にしか自生しない」といわれていることを実証しているようなものだ。
 高さは20~50cmで、花期は5月~7月で中心が黄色で花径6~9mmの淡紫色または青色の花を咲かせる。桃色の品種もあるらしく、主に観賞用として栽培されているのだそうだ。この写真のものも、恐らく「観賞用」の栽培種が、どこかの庭から「逃げ出した」のに違いない。)

 私はまだ「嗅いだ」ことはないが、枝先に淡青色の花を「沢山つけると群落内は甘い香りに包まれる」そうである。事実は「嗅いだことがない」というよりは「群落」に出会ったことがないといった方が当たっているのだ。
 葉には、春から夏にかけて下部のものは柄があり披針形で、上部のものは柄がない。葉の形は楕円形で、付き方は互生だ。

 花名の由来は、ヨーロッパ原産の帰化植物だけあって、英語の「Forget-me-not」やドイツ語の「Vergiss mein nicht」などの「私を忘れないで」という意味から来ている。
 ところがである。それを、日本人は器用にも「古語」の中でも「難しい副詞と終助詞」を使い「日本人受けする」ような「花名」にしてしまったのだ。これはやり過ぎではないのか。「花名」の意味ははなはだ難解である。
 さて、カタカナ表記の場合は、「ワスレナグサ」をどこで区切って読むか。  「ワ+スレナグサ」か「ワス+レナグサ」か「ワスレ+ナグサ」か「ワスレナ+グサ」か「ワスレナグ+サ」のいずれかということになる。
 ところが、漢字表記の「勿忘草」では、この問題を一挙に解決すると思いきや、漢文の素養がないとこれも解決はしない。大変な「翻訳語」なのだ。
 漢字の意味に当てはめて読むと「ワスレナ+グサ」となる。つまり、「忘れるな、この草」だ。「この草を忘れるな」「この草花のことを忘れないでね」となるのである。

 これを解くには「忘れな」の「な」について理解が必要だ。「な」の意味だが、まず、動詞の連用形の上に付けて禁止の意を表す。万葉集には「吾が背子は物な思ほし事しあらば火にも水にも吾なけなくに」という用例がある。
次は、「な…そ」の形で動詞の連用形を挟んで、相手に懇願してその行動を制する意を表す。これは次の禁止の終助詞「な」よりも意味が婉曲である。「どうか…しないでおくれ」という意味を持つ。
 万葉集には「放ち鳥荒びな行きそ君まさずとも」、また源氏物語(夕顔)「あが君、生きいで給へ。いみじき目な見せ給ひそ」という用例があり、これらは「副詞」である。

 さらに、活用語の終止形に接続して、禁止する意を表す。これは「終助詞」と言われ、上記のものとは「品詞」が違う。
 『平安時代には主に男性が目下に対して用い、女性は「な…そ」を用いた』と広辞苑にはある。万葉集には「いたづらに吾を散らすな酒に浮べこそ」、また源氏物語には「われ亡くなりぬとて口惜しう思ひくづほるな」と言う用例が見える。
 この終助詞の「な」は現代でも「するな」という形で「禁止」の意味を持って使われている。

 少し、逸れて、「文法講義」になってしまったが、花名の謂われは、次に示す「ドイツに伝わる悲しい伝説」である。
 …若い騎士ルドルフが恋人ベルタとドナウ川の岸辺を歩いていた。彼女が河畔に咲いている可憐で美しい花を欲しがったので、ルドルフはベルタのために花を取ったのだが、足を滑らし川にはまってしまった。
 しかし、川の流れは速く鎧をまとっていた騎士は流れに巻き込まれてしまった。騎士は最後に花を恋人に投げて「私を忘れないで」と叫び力尽きてしまうのである。そして、命を落とす時「私の事忘れないで」と言ったとして「忘れな草」とされたという。
 恋人ベルタは騎士を忘れず、生涯その花を髪に飾り続けたそうである。…
 日本人は、とりわけ、この「外来種」が好きであるらしい。詩や歌謡、短歌にも、よく登場する。
 
 詩人の「西條八十」には「わすれなぐさ」という作品がある。         

 わすれなぐさは空のいろ/わすれなぐさは水のいろ
 わすれなぐさは忘れじと/ちかいて遠く別れたる
 かなしきひとの眸(まみ)の色        (集英社文庫『花の詩集』より)

 また、歌謡曲としては…
菅原洋一とグラシェラ・スサーナが1978年に、その後、倍賞千恵子が歌った「忘れな草をあなたに」がある。

…分かれても分かれても/心の奥にいつまでもいつまでも/覚えておいてほしいから/幸せ祈る言葉にかえて/勿忘草を/あなたにあなたに…

 短歌も結構ある。さすが「外来種」である。旧い歌集には出てこない。

・淡き夢勿忘草の呼び覚ましじっと佇む和みの中に
・まるごとの私を消去しただらう道ばたに咲くワスレナグサも
・騎士の死の身代わりの花忘れな草深ぶかき青水底思わす
                        歌集「貨物船」から
 因みに「花言葉」は…「私を忘れないで」「真実の愛」だという。

 ところで、「雑草」と一般的に呼ばれている「草花」の中には、可憐な姿で咲くものが多い。普通に歩いてても、全然気がつかないで通り過ぎてしまうほどである。
 ところが、カメラの「マクロレンズ」で覗き込むと、足元に咲く草花の「小さな世界」に感動する。「キュウリグサ」や「ハナイバナ」も、2mm程度の大きさだが、写真に撮ると、なんと可愛いことだろう。普通に畑や道端に咲いているのだ。
 ふらりと散歩のついで、登山のついでに、土の匂いのする場所で、しゃがみ込んで、見てみよう。足元にも沢山の「草花」が咲いる。雪の降る前の時期に「雑草」の「春芽」を探すにも楽しいものである。(明日に続く)

ムラサキ科ムラサキ属の花、「ムラサキ」は白い花だ。

2009-05-28 05:28:47 | Weblog
(今日の花もムラサキ科ムラサキ属の多年草の「ホタルカズラ(蛍葛)」である。
今日はお天気がいいので、NHK弘前文化センター講座・「岩木山の花をたずねて」の受講者と岩木山の山麓を歩いてくる。今年の1月から始まって、3ヶ月で10回だから、今日で17回目になる。
 25日に相棒と一緒に「毒蛇沢」に行った帰りに、「ホタルカズラ」の咲いていた場所とその近くでは、「コンロンソウ」「ムラサキケマン」「オオヤマフスマ」「テンナンショウ」などを確認しておいたから、彼女たちにも必ず会えるであろう。先ず、お目当ては、この「ホタルカズラ」である。)

 岩木山でなく、弘前の「里」では、この「ホタルカズラ」の仲間で「属」の違うムラサキ科キュウリグサ属の二年(越年・多年草とする説もある)草である胡瓜草「キュウリグサ」と、ムラサキ科ハナイバナ属の一年草または越年草である葉内花「ハナイバナ」が今を盛りと咲いている。
 だが、この2種類は「ホタルカズラ」に比べると極端に、その花が小さい。「ホタルカズラ」は1~2cmであるが、こちらは大きくても数mmというものである。だから、見過ごしたり、見えていても「何だ雑草」かといって「気に止めない」から見えないのである。

 大体、「雑草」という「概念」で「草花をとらえる」ことがおかしい。野山に生えているすべての草々は、みな「雑草」なのである。雑草という範疇に入らない草はないのである。因みに「雑」とは「種々のものの入りまじること。主要でないこと」または「あらくて念入りでないこと」として「雑な出来」という用例を「広辞苑」ではあげている。
 さらに、集英社版の反対語辞典を引いてみた。「雑」の反対語には「純」という字があてられていた。
 はたして「純草」という言葉は存在するか。広辞苑にも「国語大辞典」にも掲載はない。字義的には「純草」という言葉はないということなのである。つまり、この世の草花はすべて「雑草」なのである。

 人間の目的に適う「草」、つまり「野菜」や「果菜」、「花菜」、「根菜」、「葉菜」などと区別して、それらの生育に邪魔になるものとして「雑草」と呼んだのであろう。この「野菜」だって、れっきとした「雑草」なのである。「野菜」とは「野山に生える菜」である。 もともと、「…菜」と称されるものは、野山に生える「食べることの出来る」草のことを指す。これらは、すべて「雑草」であるが、葉・茎などを食用とする草本類の総称だ。 今は主としてアブラナ類の「葉菜」を「青菜(あおな)」などと呼んで指すらしいが、万葉の昔から「この丘に菜摘ます子」などとして使われていた言葉だ。
末尾に「菜」という「漢字」のつく「雑草」はすべて「食す」ことが出来る。例えば、トクサ科の「スギナ(杉菜)」、いわゆる「ツクシ(土筆)」のことだが、これも食べることが出来るのである。
 野山に生えている草花はすべて「雑草」なのである。私は「雑草」とは呼ばない。「草」または「草花」でいいではないか。
 さて、ムラサキ科キュウリグサ属の越年草である「キュウリグサ(胡瓜草)」だが、これは、アジア各地に分布する草である。日本全国の少し湿った野原や道端や畑などに生育している。秋に芽生え、ロゼット状に葉を広げて冬を越す。
 根本の葉は卵円形で葉柄がある。茎の上部の葉は長楕円形で長さ1~3cm、幅6~15mmで細い毛がある。
 茎は下部で分岐し、茎の上部がカタツムリ形、またはゼンマイ状の花序(かじょ)となり花は上向きに咲く。
 春に10~30cmの花茎を出し、長さ3~9mmの柄を持つ径2mmの淡青紫色の小さくて、可憐な花を咲かせはじめ、次第に立ち上がって背丈が高くなる。花期は4~6月で高さ30cmほどになることもある。
 花序はゼンマイ状に巻き込んでおり、しだいに伸びて長くなる。茎の先に「ムラサキ科の特徴であるサソリ型花序」を出し、花のあと花序は長く伸びる。果実は4個の分果で、表面は滑らかである。

 「キュウリグサ」は麦作の伝来にともなって帰化した(有史前)古代帰化植物の一つである。悠久の歴史の中で、日本に定着した「可愛らしい」草花である。私の狭い庭のあちこちにも生えていて、小さな小さな花をほころばせている。
 私はまだ食べたことはないが、若い茎や葉は食用となるそうだ。アップでこの花を見ていると、この可憐な花の「しぐさ」は実にいい。
 同属の「ワスレナグサ」にそっくりな淡いブルーの花が浮かび上がってくる。その花弁には黄色い「鱗片」の色が鮮やかに光り、花の印象を一段と引き締めている。その上、くるくると巻きついた感じのする花序。春早く寒風が吹きすさぶ我が家の北側の軒下では、まだロゼットに潜ったような格好で花をつけていることもある。
 しかし、「つぼみ」をいっぱいつけた花序の、伸びやかな様子は何と言ったらいいのだろう。
 「キュウリグサ」の花序は「サソリ形花序」と呼ばれて、サソリの尾のようにくるりと巻かれている。これは例外もあるが「ムラサキ科植物」の特徴である。
 外側のつぼみからだんだんと咲いていき、春が進むにつれ、花が開くにつれ、花序は次第にほどけてまっすぐに伸びていく。
 そして、1つ咲いては1つ落ちて…といったように、時間をかけて、少しずつ確実に子孫を残していくのである。

 花名の由来は「葉を揉むとキュウリのような臭いがする」ことである。だが、花は小さいながら清楚で、ムラサキ科の特徴をよく示しているので、この「嗅覚」的な名前よりも、風姿からの、もう少し「可愛い名前」でもよかったのではないかと思うのだ。(明日に続く)

ムラサキ科ムラサキ属の花、「ムラサキ」は白い花だ。その仲間ホタルカズラは何色?

2009-05-27 04:13:26 | Weblog
 (今日の写真は、ムラサキ科ムラサキ属の多年草の「ホタルカズラ(蛍葛)」である。岩木山では今が咲きどころである。何しろ、「小さい花」なので、見過ごしてしまうことがよくある花だ。
 一緒に写っている白い花は「ナデシコ科オオヤマフスマ属」の多年草、「オオヤマフスマ(大山衾)」だ。
 北海道、本州、四国、九州の山地の草原や林道脇の草地などに見られ、草丈は5~20cmだ。少しだけ分枝し、ヒョロヒョロと線の細い印象がするが、茎には細かい毛が密生している。
 漢字で書くと「大山衾」。衾は寝る時にかける寝具であって、建具の「襖」の意味ではない。「大山」などと、「いかつい感じ」がするが、草丈は短くて、花もせいぜい1cmだ。同じ仲間の「ハコベ」などと比べても、むしろ小さいくらいだ。
 なのにどうして直訳すると「大きな山の寝具」というおかしな名前が付いてしまったのだろうか。そのようなことについても書きたいのだが、今朝は本題の「ホタルカズラ」に絞って書き進めていく。

 この花には先日、「毒蛇沢」から降りてきて、自動車を置いた石切沢左岸の「駐車スペース」に戻る、その途中で出会った。もちろん、自動車も通ることの出来る「道ばた」である。歩いていたから「出会えた」のである。自動車を運転したり、同乗していると決して出会えなかったであろう。人間の「眼」という感覚器官は、その場所に停止して見る時にもっとも正常に働くものである。そして、正常に働いて視認出来るということは「歩いて移動する」スピードが限界らしい。それ以上に速くなると、もはや、「確認」出来なくなるのである。
 「車社会」に生きる人々は、毎日多くの「見落とし」の中で生きている。この「見落とし」は何も、花々や昆虫、小動物だけではない。人間自身に関わる様々な社会事象にまで及んでいる気がする。「自動車依存」の生活は「人間」から、その「視野」を奪い、心の「視野狭窄症」を発症させてはいないだろうか。

 「ホタルカズラ」は日本各地および朝鮮・中国・台湾にも分布する。日当たりのいい林縁の急傾斜地などに生育し、春に「はっと」するような可愛い花を咲かせる。
 茎は地表を這うか、または崖から垂れ下がり、所々から根を出して株を形成する。堆積岩の崖直上などに生育していることが多い。
 花は基本的に、紫色。花の中に白い隆起した白い線が入る。直径1.5~2.0cm。咲きはじめは赤紫で、次第にコバルトブルーに変わっていく。今日の写真でもそのことはよく分かるだろう。
 茎の先に目がさめるような青紫色の花を咲かせている。草丈は15~20cmだろうか。
 開花後、根元から地表を這うように、柄を伸ばし茎は針金のようになって長く地面を這い、新しい株を作るのだ。
 全体に粗い毛がある。葉は互生で、倒披針形。長さは3~6cmで、裏表に粗い毛があって、「可愛い」花とは、ちょつと似つかない感じがする。
 「青い花びら」の中に白い線があり、「星」のような形をしていて、一旦眼にすると、その「模様」は印象的である。だから、遠くからでもよく目立つのだ。
 不思議なことに、なぜか栄養もなそうで、他の植物が嫌がるような、まさに「貧栄養」である石ころだらけの場所や、道端に生えている。

 そのようなことを考えると、「ホタルカズラ」という「花名の由来」が気になってくる。
 これは「花の中央の白い星形から蛍の光に喩えたこと」のよるらしい。「草の間に点々と咲いている様子がホタルの光…」ということだろうか。しかし、どう見ても、私には「ホタルの光」には見えない。

 蛍は「火垂る」であり、尻に火を垂れ下げているという意味らしい。よく見ると確かにこの花の付け根(基部)には火のような赤みが僅かにある。花を観察すると「花の中心が燃える火のように赤いこと」が分かるだろう。
 「カズラ」は蔓状植物のことで、「ムラサキ」、「ハナイバナ」、「ワスレナグサ」、「キュウリグサ」などの仲間だ。
 その「花の青色」は「周りの緑や枯葉や地表」に比べると「喩えようもない」というくらい印象的な「青」で、それがホタルカズラの魅力であろう。
 木陰の草地の中で、青い花に木漏れ日が当たっているのを見ると「なるほど蛍だ」という思いを持たないわけではない。
 ここでいう「青い」とは「碧紫色」とか「瑠璃色」とか言われるものだろう。別名を「瑠璃草」ともいうのだ。

 出会った時の印象を、帰宅してから「短歌」にしてみた。次の二首である。

・緑葉の幹撃つ陽光その下にほたるかずらの青き群れ花

・コバルトに交じりて光る紅一点ほたるかずらの若花けなげ
                         (三浦 奨)

 私は、この花との最初の出会いを「明るく柔らかな動きの陰影にきらめくルリ色シジミ」と表現している。

 …かつての道もすっかり名残程度に微かなものになっていた。それを辿るために視線はおのずから足許に移っていた。
 まだ春だから踏み跡の確認も出来るが、草いきれの真夏ではすっかり下草に覆われて出来ない。数回歩いた道だといっても、「道という人工物」は自然への回帰を日々進めるのが常だ。
 突然私は立ち止まってしまった。佇立と凝視の前で明るい柔らかな動き、陽射しがこぼれる叢中に、飛び紛う数匹の陰影にきらめくルリシジミを見つけた。それは「ホタルカズラ」だったのだ…。 

注:「ルリシジミ」とは瑠璃色をした12mmから16mmの蝶で、活発に飛び回り木や草の花で吸蜜するほかに吸水することもある。足下を忙しげに飛び回ることがある。食草は藤などのつぼみや花だ。

 よく見られるムラサキ科の仲間には、キュウリグサ属、ハナイバナ属、ワスレナグサ属、ミヤマムラサキ属、ムラサキ属、ヤマルリソウ属などがある。「ホタルカズラ」はムラサキ属である。(明日に続く)

この2週間、急速に木々の緑は、足下の下草は、その色を濃くしていた

2009-05-26 04:57:55 | Weblog
 (今日の写真は「バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木の「ウワミズザクラ(上溝桜)」だ。
 24日、25日と2日続けて岩木山に入った。24日にはNHK弘前文化センター講座の野外観察で、西岩木山林道を歩いた。鰺ヶ沢スキー場の駐車場から長平登山道の入り口までの間に、白い霞のような「ウワミズザクラ」の花が萌葱から濃さを増していく他の樹木の緑を背景に、一段と白く輝いて見えていた。
 受講者は声をそろえて、その姿に「歓声」をあげたのである。実は1週間前にも、この場所を通っていたが、この「白い輝き」はまだなかった。
 淡い緑だけという「色彩」がわずか1週間で「白い輝き」に変貌してしまうという、この自然の移ろいに驚き、季節の推移に合わせて生きている「木々」の生命が持つ「変わらない輪廻」の不思議さに見入ったのである。
 この辺りは標高が500mに近い。ちょうど、この標高に生えている「ウワミズザクラ」は今が満開なのだろう。そのことを確実に、昨日視認した。百沢「岩木荘」付近にも「ウワミズザクラ」は生えているが、それはすでに花を枯らしていた。標高にして、100mから300mの違いが「枯れる・落花」と「満開」を区分けしていたのである。
 昨日は、待望の「毒蛇沢」に入った。10日に辿ったルートで石切沢から入り、毒蛇沢の左岸に出て、沢に下って、右岸尾根に取り付くためである。「踏み跡探し」パート2というわけだ。
 だが、2週間ぶりという「ご無沙汰」の間に、木々も林床も、それに藪という藪は、すっかり、春から初夏へと「衣替え」をしてしまっていた。いや、「衣替え」などいう「一般的な言葉」が持つ「軽薄さ」ではなく、その変化は重厚で深遠なものであった。ただただ、畏れ、平伏して、その変化に飲み込まれるばかりであったのだ。
 昨日の「踏み跡探し」については「踏み跡探しパート2」として、後々掲載することにしたい。
 「ウワミズザクラ」であるが、やはり、標高が上がるに従い、この岩木山南面でも「今が盛り」であった。今日の写真は、「毒蛇沢」で出会ったものだ。かなりの高木である。10m以上はあるだろう。この花はバラ科であるから、花は小さいが「五弁」である。大きな蘂を伸ばして咲く様子はかわいらしいものだ。だが、満開時に、ある程度距離を置いて眺めるとまた別な情趣があってなかなかいいのである。「オオヤマザクラ」や「カスミザクラ」の花が終わって、森は緑一色になる。その中で、健気にもこの「ウワミズザクラ」が一人異彩を放っているのだ。それ故に美しい初夏の花だ。

 5月は1日、5日、10日、15日、17日、24日、25日と岩木山に入っている。28日にも行く予定である。急激に「雪」が解けて、「雪形」もその姿を、もはや残していない。弘前から毎年遅くまで見られる「鳥海山から大沢にかけての残雪」は、解けだす前は「ツバメ」の形を見せる。そして、それは次第に解けだしていくと、大きな「山羊」に変身していく。平年だと、旧暦の5月(新暦の6月)に入っても、それは確固とした「山羊」を「岩木山」に放牧してあるかのように、見せてくれるのだ。一方、山頂から後長根の源頭部にかけては、「菅笠を被り、腰を屈めて田植えをする一人の翁」をの姿を映し出してくれるのだが、この「腰曲がりの翁」も早々と姿を消してしまった。その下部に見える「山麓に向かって駆け下りてくるウサギ」はそれよりも早く、山麓の藪に隠れるようにして、「消えて」しまった。
 今月の上旬、つまり遅くても10日までは、「山羊」や「腰曲がりの翁」は健在だったのだ。ところが、「消え始めた」ところ、その速さは、「時を待って」くれない。まるで「ごうごうという音」を立てるがごとくに「消失」していく。「今日あるものが明日を待つことがない」ということは寂しくもあり、どこかで大きな「不安」を呼び起こすのである。

「上溝桜」と書いて「ウワミズザクラ」と読むのである。これは音的な「転訛」だろう。花名の由来は「昔この材の上に溝を彫り亀甲を焼いて吉凶の占いに使ったこと」である。
「ウワミズザクラ」はまず、林中には生えていない。林縁の日当たりのいい場所を好むのである。だから、「森の入口を固める白衣の番人」だ。当然、入口は出口にもなる。この花との別れは森との別れにもなるのだ。

 こんなことがあった。…『沢に沿った伐採地からの踏み跡はカラマツの林に入っていた。カラマツが落葉する針葉樹だからだろうか、冬に暗い灰色がかった褐色の幹と枝、何もない梢を吹雪や強風に曝している姿は林立していてもやはり寂しいものだ。
 だから、カラマツの芽吹きはよりいっそう美しく柔らかく優しい命を感ずるのだ。また、秋の黄葉もその色具合と他の葉との「重ね色目」から愛(め)でられることが多いのだろう。
 浅い林である。開けた前方にちらちらと白い花が見えてきた。ウワミズザクラである。カラマツとは異質であるがゆえに美しい。』

 この花は桜の仲間である。しかし、眺めるだけでは、そのようには見えない。至近距離で「花」を一輪ずつ見ると「桜」の仲間であることがよく分かる。日本人は桜の一斉に散ってしまうその潔(いさぎよ)さに特別な感情を持っている。この花は実をつけるのだから、いっときに散ることはないのかも知れない。実もちょっぴり「アーモンド」味がして楽しいものだ。
この花の咲く頃は毎年、「踏み跡」は藪に覆われるようになる。しかし、手を使って払わなければいけないほどの深い藪にはならない。登山靴で掻き分けて進むことが出来る程度なのだが、今季はそうではなかった。

花弁(花びら)と萼片の話し(その3)

2009-05-25 05:35:39 | Weblog
 (今日の写真はスミレ科スミレ属のタチツボスミレだ。このスミレはきわめて一般的なスミレで、松尾芭蕉が「山路きてなにやらゆかし菫草」と詠んだ「あのスミレ」だろうといわれているものだ。岩木山の山麓部を歩くと誰の目にもとまる「普通」のスミレである。 ところがどうだろう。花の色に注目してほしいのである。タチツボスミレは、その花の色の典型が「薄紫」である。もちろんの花の後ろ部分になる「距」も薄紫色である。この「距」に淡紫色が残り、唇弁の紫条もない白花品をオトメスミレと呼んでいるようだ。
 さらに「距も白い白花品」を「シロバナタチツボスミレ」と呼んでいるというから、lこれは、もう紛れもない「タチツボスミレ」の一品種の「シロバナタチツボスミレ(白花立坪菫)」であることは間違いがない。
 最初見た時は、「ミヤマツボスミレ(深山壷菫)」かと思ったのだが、「唇弁」の奥に「紫の線(条)」がないので、やはり、「シロバナタチツボスミレ」である。)

 これまで恐らくどこかで会っているのだろうが、それを「一視同仁」でとらえて、みんな「ミヤマツボスミレ」と片づけていたきらいがないでもない。
 ところが、よく見ると「微妙な違い」のあることに気づくことはあったが、それでも、なお、私は「ミヤマツボスミレ」に拘っていたのである。
「ミヤマツボスミレ」は「群青を仄かに匂わせて群れ咲く白き気品」とでも形容されるような美しく気高い花である。スミレ科スミレ属の多年草で、深山や高山に咲くツボスミレ(ツボスミレは山麓に咲く)という意味が名前の由来である。
 「ニョイスミレ(ツボスミレ)」の高山形で、亜高山~高山の湿原や林縁の草地にも生える。花は淡紫色を帯び、距は長さ2~3mmで、地上茎があり、途中から発根する。
 葉は円形となり、先が尖らない。托葉は「ニョイスミレ」より小さい。

 その最初に印象があまりにも鮮烈だったので、その後、私はその「印象」に強く「捕縛」されてしまったのである。
 最初の出会いは…
 『風にそよぐ背丈の低い根曲がり竹の茂みの下、消え残りの雪のような白い群がりが見えてきた。まさか雪ではあるまいに、残雪ならばとっくに消えた。新雪だとしたら、この季節では降りようがない。
 何だろう。歩みは一挙に速まる。近づくにつれて、それは若緑を俯(うつむ)く顔下に置いた小さな花が群れているものだった。どんどん近づく。まだ、小さな花が群れているとしか見えない。ミヤマツボスミレかも知れない。
 そばに寄ってよく見ると、花びらの随から先端にかけて紫がかった群青色のか細いラインが仄(ほの)かに走っている。間違いなくミヤマツボスミレだ。この気高さと気品は何なのだろう。ふと、「白牡丹といふといへども紅ほのか」という高浜虚子の句を思い出した。』というものだった。

 やはり、これは「シロバナタチツボスミレ」である。「シロバナタチツボスミレ」だと認めた時が、「最初の出会い」ということになるだろう。岩木山で、花と出会い続けて、数十年、嬉しいかな、初めての出会いとなった。
 探しても、なかなか「初めての出会い」は訪れるものではない。「初めての出会い」は突然、予期しない中で起こるのである。本当に何気なく、当然のように、しかも、偶然にして起こるのである。しかし、不思議にも、私にはあまり、感動がなかった。「会えたね」という程度の感慨が微かに沸いただけであった。
 この写真は昨日写したものだ。昨日は「NHK弘前文化センター講座」の野外観察で岩木山に出かけていたのだ。曇天だったが、暑くもなく、寒くもなく「早春と初夏」が同居しているような「観察地」は、時折、霧が湧いて、ひときわ神秘的であった。
 その中で、私は「瑞々しい」アザミ摘みに少しだけ「熱中」して、朝食のおみおつけの菜の分だけ摘んだ。

 花弁(花びら)と萼片の話し(その3)

 ヒトリシズカ・フタリシズカ・ツクバネソウには「萼」がない、または、萼と花びらが区別できないのである。
 「花弁」とは花びらのことである。「萼」とは、花の一番外側にあって花冠(花弁)をかこむ部分。構成単位を萼片といい、多くの場合その数は花弁と同数である。
 普通、緑色の葉状であるが、花冠と同じように大きく美しい色彩・模様を持つものもある。
 「ツクバネソウ」はユリ科の植物だ。ユリ科は単子葉植物。単子葉植物には基本数が3のものが多い。その代表が「エンレイソウ」だ。だが、「ツクバネソウ」の基本数は4である。
 輪生する4枚の葉の中心から出た茎の先に咲く花は、「萼と花びら」の区別が出来ない「花披片」が4枚である。黄色の雄しべが8本、雌しべが1本で、柱頭は4つに分かれている。
 「ツクバネソウ(衝羽根草)」は、ユリ科ツクバネソウ属の多年草だ。先のとがった葉が4枚輪生し、茎の咲きに「花」が1つつく。北海道から九州に分布し、落葉広葉樹林の林床や山道沿いに生育している。
 ツクバネソウは4枚の葉の中心部に黒い果実が付く様子を羽根つきの羽に例えたものであるが、ユリ科の植物としては似つかわしくない姿をしている。
 高さ20cm前後の茎の頂端に4枚の葉を輪生させ、その上に伸びる花茎に「1つの花」を咲かせる。花期は5月から6月。「花披片」も4枚で緑色。つぼみの時には、この「花披片」が外側を覆っているので、「外披片」というが「内花披片」はないので、萼のように見える。花弁状の4萼片があって花弁を欠いているのだ。
 一般的に、ユリ科の花は「3の倍数」の「萼」や「花弁」をつけるが、「ツクバネソウ」や「マイヅルソウ」は「4の倍数」である。この点と、葉の葉脈が網状である点が、ユリ科植物と見えない理由であろう。
 茎の先端に4枚の葉が輪生する。この様子が「衝羽根(つくばね):羽子板の羽根」に似ていることからこの名になった。初夏に「緑色の花」が咲き、実は黒く熟する。
 さて、「キンポウゲ(金鳳花)科」の「キクザキイチリンソウ」はどうだろう。
 この「花」の花びらに見えるのは、すべて「萼片」である。その数を数えてみると、それぞれまちまちである。これまで出会った「キクザキイチリンソウ」の「萼片」の数は、何と少ないものは7枚から、多いものは実に21枚であった。この違いには驚いた。
 「キクザキイチリンソウ」は「倍数」という「遺伝子」を持たないのである。いいかえると、「何枚でもいい」という規則性のない「遺伝子」を持っている植物なのである。

花弁(花びら)と萼片の話し(その2)

2009-05-24 05:29:32 | Weblog
 (今日の写真はセンリョウ科センリョウ(チャラン)属の多年草の「フタリシズカ(二人静)」である。北海道から九州に分布する。山野の林下の陰地に自生している。直射日光に当たると葉が焼ける。葉は対生し、頂上部では節の間が狭いので、4枚の葉が輪生しているように見える。)

 春、茎の先に1~2本、または数本の穂状花序(花穂は長さ5cm程度)を出し、小さな白い花をつける。花序は2本のことが多いので、フタリシズカという優雅な名前をもらった。花弁はなく、3 個の雄しべが丸く子房を取り巻いている。地下茎でも繁殖し、群落を形成する。
 6月の始め、「フタリシズカ」の大群落に出会った。急傾斜の谷であり、低木はあまり生育しておらず、シダと「フタリシズカ」が草本層を覆っていた。以前に伐採などがあり、表層土が流れてしまったような形跡がある場所だ。
 このようなシダ類や「フタリシズカ」などの草本が密生している植生の成立は、亜高木層や低木層の欠落が発達の条件である。だから、過去に表土攪乱があったことは確実だ。
 小さな「花」に「花被」はなく、「ヒトリシズカ」の「花」が終わる頃になってから咲く。
 短い花柄の先に白い粒のように見えるのは、3本の「雄しべ」だ。「粒のような花」には花弁は無く、3個の「雄しべ」が丸く子房を抱くようになっている。
 花糸がブラシ状に伸びることはなく、子房を内側に丸く包むような形になっている。
 葉は茎の上部に、対生して2~3組を「十字状」につける。「輪生」のように見えるヒトリシズカと異なり、やや離れてつくので対生である。
 葉に「ヒトリシズカ」のような光沢はなく、鋸歯は浅く先端は尖っている。
 果実は「ヒトリシズカ」と同様に濃緑色の卵形だ。全体に無毛で、サイズは「フタリシズカ」の方が大きくなる。通常、「ヒトリシズカ」よりも深い山を自生地としている。

 花名の由来は、能の謡曲「二人静」の中で静御前の霊とその霊に憑かれた菜摘女が舞を舞う姿にこの花を見立てたことだ。それで「フタリシズカ」と呼ばれる。 
 それと、茎は分岐せずに直立し、先端に穂状花序をつけ、穂状花序が1本の「ヒトリシズカ」に対して、「フタリシズカ」はふつう2~5本と複数であるところから、「フタリシズカ」と命名された。

私はよく「道なき道探し(踏み跡辿り)」をしていて、この「花」に出会うことがある。その時に作った、短歌を二首紹介しよう。

・湧き上がる山霧深し崖頭に二人静の花穂寄り添う

・緑葉を揺らし飛び交い舞う蝶や二人静の触角白き
                  (三浦 奨)
「三浦奨」とは、私の俳句や短歌を作る時の「ペンネーム」である。

 序でに、「上井萩女」の俳句も一つ挙げておこう。

・そよぎつつ二人静の一つの穂    

 これは、「かそけさと生命の息吹」を詠んだ秀句だと思う。
 「柔らかい風が吹き渡って行く。同じ茎に二つの花穂を立てている二人静であるが、その一つの穂、一つの穂が風に微かにそよいでいるではないか。何と静で繊細なことよ」とでも理解すればいいのではないだろうか。

 ある日のことだ。
 …落ち葉のクッションは足に優しい。その優しさに助けられどんどんと下る。風がなくなり、日差しは斜面に遮られ、辺りはふと暗くなった。 そこは深緑に包まれた初夏の装いだった。その中に大きい葉を従え垂直に伸ばした触角のような穂状花序と清楚な白い小花が浮かんだ。「フタリシズカ」である。これは大きな緑の蝶だ。
普通は、名に示すように花序は二人(二本)であるはずなのに、私の目の前のものは花序が一本、これでは一人でしかない。驚いた。このようなものも偶にはあるのだ。
 その日の山行もまた、私は単独である。思わず独り言。「私と一緒で二人…だね。」
 また尾根の道に戻った。そして沢筋を覗いた。さっきの大きな緑の蝶が、沢筋の空間をふわりふわりと対岸の尾根に向かって飛翔しているように思えた。きっと義経を恋う静御前が霊と共に舞っているのだろう。…
 私は、この状況と情景を「大きな四枚羽に二本の触角静かに佇む優雅な緑蝶」としてある。因みに「フタリシズカ」の花言葉は、「面影・静御前の面影」、「美しい舞姿」である。
 …言われているが、「フタリシズカ」の「花」に見える部分は、花ではない。

          花弁(花びら)と萼片の話し(その2)

(承前)
 …ヒトリシズカ・フタリシズカ・ツクバネソウから「花弁」と「萼片」を考えてみよう。

 本題に入る前に、誰もが知っている「柿」で「花弁と萼片」について予備学習をしておこう。とはいうものの「柿の実」は知っていても、「花」は知らないという人は多いだろう。 「柿の花」は花弁を含めて非常に目立たない。地味な花であるからだ。
 中央の4弁の黄色のものが花である。その下にあり、花を支えて包み込んでいるように見えるのが「萼」である。花に比べると非常に大きい。
この「萼」は実になると、蔕「へた」と呼ばれるものになる。
 これが果実に残っている萼だ。柿以外ではっきりしているものには茄子「なす」がある。これを「宿存萼」ともいう。
 「柿」とは「カキノキ科」の落葉高木だ。高さ約10mにもなる。葉は革質で、関西方面の「柿の葉鮨」に使われている。6月頃に黄色4弁の雌花と雄花をつける「雌雄同株」の樹木だ。(明日に続く)

花弁(花びら)と萼片の話し(その1)

2009-05-23 05:06:47 | Weblog
 (今日の写真はキクザキイチリンソウの小群落である。たまたま、「白い花」のものだけが集まって咲いていた。「白い花」とカギ括弧でくくった意味は「花のように見えるが実は花ではない」ということである。
 このように、植物の中には「美しい花びら」を装い、実は私たち人間を「花」だと欺いているものが多数ある。だが、これは彼女たちの所為ではない。「欺かれた」と思うのは「人間の勝手」であり、「思い込みのなせる業」なのである。彼女たちにはこれぽっちの罪もない。
 特に、キンポウゲ科の植物には「花」のような美しい「萼片」を見せて、「花」を咲かせているように「見せる」ものが多い。早春に咲き出す「フクジュソウ」に始まり、秋遅くに咲き出す「シュウメイギク」などがそれだ。
 別種では「サトイモ科」の「ミズバショウ(水芭蕉)」や「ザゼンソウ(座禅草)」)も、一見花のように「白」や「臙脂」の仏炎苞を開いて、「水辺の貴婦人」や「達磨大師」の座禅像の姿で人を欺く。だが、本物の「花」はその苞に包まれた中にある棒状のものだ。
 先日、私の連れ合いが「あまり見事に咲いていたので摘んできた」といって、数輪の黄色い「花」を持って帰ってきた。
 本当に「見事な色具合」であり、「花弁」には光沢があり、「テカテカ」とエナメル質に輝いている。春の野辺を彩る見事な「キンポウゲ(金鳳花)」(別名を「ウマノアシガタ」という)だった。「美しいものには毒がある」と言われるとおり、「キンポウゲ」は全草が「毒性」である。手折ったところから草汁が出て、それに触れたり、それが口に入ったりしたら、「中毒」になる。
 その「毒性」について語ったが、「連れ合い」はまったく動じなかった。そのような「危険」を忘れさせるほどに「キンポウゲ」の仲間は「美しい」萼片を見せるのである。
 猛毒で知られる「トリカブト」も、「キンポウゲ」科で、トリカブト属の多年草だ。和名を「山鳥兜」といい、「生薬名」としては「烏頭(うず)」「附子(ぶし)」と呼ばれている。こちらは、「美しい花」というわけではないが、キンポウゲ科の中で、わずかに2種類だけ「食用」になる「ニリンソウ(フクベラ)」と「根生葉」が非常に似ているので、間違って採取して食べると「死に至る」ということで有名である。
 全草にアコニチン(アルカロイド)と呼ばれる毒があり、特に根に大量に含まれる。
 アコニチンは猛毒で、致死量は3~6mg。これはトリカブトの新鮮な根の0.2~1.0gに含まれる量だそうである。
 誤って食べると口の中に灼熱感があり、吐き気、腹痛、下痢、不整脈、起立不能、血圧低下、痙攣、呼吸麻痺などの症状が現れる。
 キンポウゲ科の仲間は毒があるのがほとんどで、食べられるのは「ニリンソウ」と「エゾノリュウキンカ(ヤチブキ)」ぐらいであろう。

 脇道に逸れたが、今日の写真の「キクザキイチリンソウ」は、私たちに「花弁」とは何か、「萼片」とは何かについて、「よく教えてくれる『花』」なのだ。
 この写真のものは、「白い萼片」の集団であったが、直ぐ近くのブナ林縁に咲いていたものは薄い紫系の色具合だった。この違いは、生えている「土壌の質」、つまり、「酸性」か「アルカリ性」かということで生ずると言われているが、詳しいことは「私の知識」では、説明が出来ない。)

         ◇◇ 花弁(花びら)と萼片の話し(その1)◇◇

 「キクザキイチリンソウ」などの「キンポウゲ科」は「花弁(花びら)」を持たない。「花弁(花びら)」に見えるのは「萼片」である。
 ところが、「花弁(花びら)」と「萼片」のない「花」もある。その代表が「ヒトリシズカ(一人静)」であろう。
 これはセンリョウ科センリョウ(チャラン)属の多年草だ。仲間に花穂が二~三本の「フタリシズカ(二人静)」がある。北海道、本州、四国、九州に分布し、山地や林の中や湿った木陰に生える。草丈は20~30mである。
 
 茎は紫褐色で節があり、茎先に4枚の葉が輪生状に対生する。葉は光沢がある。葉が開ききる前の4~5月に、赤紫色の若葉の間に、穂状花序を伸ばし、1~2cmほどの花穂に、「白いブラシのようにも見える花」を咲かせる。
 だが、花といっても花弁も萼片もない。雌しべと花糸だけの花である。白い花のように見える部分は雄しべの集まりだ。ブラシの「毛」に見えるのは、雄しべである。
 「ヒトリシズカ」の仲間のチャラン属は4種あり、内3種が日本にあり、「原産地は日本」とされている。

 実際には群生していることが多く、「一人ぼっち」ということはあまりない。群生している眺めは、かわいらしく、両葉を広げて「バンザイ」をしているようにも見えて、結構にぎやかだ。群落は「騒然」さを醸し出す。
 山地の本格的な芽吹き前に開花するので、枯れ葉の中から顔を出す。すっくとした立ち姿が目を引くのだ。
 派手ではないけれど、奥ゆかしい美しさだ。まさに花言葉の「静謐(せいひつ)」に適うだろう。
 花名の由来は「白く美しい花糸を静御前にたとえ、一人は花穂が一つであること」である。 源義経が愛した静御前になぞらえてこの名がつけられたのだ。日陰にひっそりと、静に伸ばして咲くしとやかな花。別名は吉野静。「眉掃草(マユハキソウ)」ともいう。
 眉掃草を含めて 「春ー植物」の季語である。
 
 ・花了(お)へてひとしほ一人静かな(後藤比奈夫)
           (明日に続く)

西岩木山林道から二子沼へ。第26回「自然観察会」の思い出 

2009-05-22 05:14:44 | Weblog
(今日の写真はツツジ科の落葉低木である「ムラサキヤシオツツジ(紫八汐躑躅)」だ。これは、西岩木山林道の終点から少し登ったところに咲いていた。私たちが日常的に「終点」といっているところは、実は「終点」でなく、この「ムラサキヤシオツツジ」の咲いている下部を通って、「二子沼」の西側を迂回して、「小白沢」の上部右岸に続いているのである。
 ただ、現在はすっかり、廃道となっており、「終点」と目されているところで、自動車を降りて「歩かなければ」いけないので、一応「終点」といっているのだ。
 この「終点」から蛇行して尾根に上がるのだが、その手前で少しだけ尾根を横切る部分がある。つまり、斜面を切り通して「道」を造った場所である。
 そこは上部から「崩壊」が始まっており、上から崩落してきた「岩石」が道を塞いでいる。バランスを失った岩はさらに、急な谷側へと「塞がれた」道をまたいで落ちていっている。
 いつ上部から「岩」が落下してくるかも知れないという非常に危険な場所なのだ。そこを「横切って」から、ブナ林に入るのだが、この場所は、いつも上を気にしてゆっくりと渡る余裕はない。
 そのような、まさに、崩落を続けている崖の上のようなところに、この「ムラサキヤシオツツジ」は咲いていたのである。 
「ムラサキヤシオツツジ」は、北海道と本州の近畿以北に分布し、山地帯上部から亜高山帯の林縁や雪渓の縁など、湿り気の多いところに生える樹木だ。高さは3m程度の低木で、直径3㎝ほどの濃紅紫色の花を、葉が出る直前か、出ると同時に、2個から6個咲かせる。
 雄しべは10本で上の5本は短くて、基部に白毛が密生し、下の5本は長くて無毛だ。雄しべは10本であるが、これに似た「ヤマツツジ」の雄しべは5本である。

 名前の由来は、「紫色の染料に何度も浸して染め上げた(8回も染料で染める意)ような美しいツツジ」という意味による。別名は「ミヤマツツジ」だ。
 私は拙著の中で、この「ムラサキヤシオツツジ」に『若葉に浮かぶ紅紫色の踊り子たち』というキャプションをつけている。
 …淡い若葉の木漏れ日が微かに消えて、全体が明るくなったように思われた。そして前方に開放された窓のような空間が広がりはじめた。
 その時である。左右に紅桃色の花々が一定の高さを保ちながら縦に斜めにと踊っている。ほっとした。今年もまた会えた。ムラサキヤシオツツジなのだが…、名に負う紫という色彩感を私はなかなか持てない。濃い桃色に、光の加減ではますますそう見えることがある。 登りながら、花と名前の由来について問答することはしばしばだ。…
 このように、「ムラサキヤシオツツジ」は「開放された窓のような空間」のある高みに生えていることが多いのだ。)

         ◇◇第26回「自然観察会」の思い出◇◇ 

 本会の「自然観察会」は「自然のしくみと人と自然のあり方を見る」を主題にして実施している。
 観察対象も、昆虫、野鳥、両生類、は虫類、哺乳動物、植物(草本と木本、シダ類)、人と自然との関わりとして文化や歴史などと多岐にわたる。「花を愛でて、野鳥の声を聴いて」にとどまるものではない。
 これはこれまでの「基本姿勢」であって、今も変わっていない。そのためには次のことを「考慮」に入れている。
1、気象事情によって開花時期に違いがでてきます。
2、花等のむしりとりや踏みつけはしないで、「採らないで見る」ように、スケッチするとよく見えます。
3、名前を覚えるよりも、それがどのような所に生育しているか、その周囲を観察するようにしましょう。
4、あるがまま、ありのまま見える姿を肉眼と五感を生かして見て、聴いて、嗅いでみましょう。 
5、自然のものは個々ばらばらに存在していません。つながり・まとまりのある見方をしましょう。
6、疑問を持って参加者みんなで話し合いましょう。

 そのためには、持ち物・履き物・服装などもそれなりの準備・用意が必要だ。
1、登山靴・スニーカー・長靴 2、防寒・防風着・軍手・帽子・雨具 3、昼食・おやつ・飲料(水)4、筆記用具・下敷き 5、双眼鏡・ルーペ 7、その他

「日程」も大体決まっているが、第26回は次のような「日程」で実施された。

9:00 集合(集合場所・鯵ヶ沢スキー場駐車場)→9:05 自動車で「長平登山道入り口地点」まで移動後、開会主催者挨拶・観察表配布・諸注意・リーダー等の紹介→9:15 出発:林道に沿って観察・散策開始→11:30 二子沼入口→12:10 二子沼着・集合記念撮影(昼食)沼周辺の観察・散策 →13:30 二子沼発→14:45 駐車している場所到着→14:50 閉会主催者挨拶・参加者感想発表・観察表提出→15:00 閉会・解散

 第26回「自然観察会」が終わってから、参加者からお礼のハガキとメールが送られてきた。その中からメールを2つ紹介しよう。

 『先日は、ありがとうございました。久しぶりに山の麓を歩いて、英気を養いました。100人もの参加、ビックリしましたがきちんと対応できる会はたいしたものです。』(宮城県仙台市 Sさん)

 『先日(5月6日)に実施されました、二子沼までの「自然観察会」には好天に恵まれ、楽しい一日を過ごさせていただきました。
 それも「岩木山を考える会」の事前の準備・当日の講師・係り分担の配慮に対し深く感謝します。中でも配布された資料の写真の鮮明さがすばらしかったです。ありがとうございました。』(弘前市 Fさん)

西岩木山林道から二子沼へ、その上の沼。第26回「自然観察会」の思い出 

2009-05-21 05:09:58 | Weblog
(今日の写真は「二子沼の上の沼」である。二子というからにはどちらが兄(または姉)で、どちらかが弟(または妹)なのであろう。だが、どちらを指してそのように判断すればいいのかは定かではない。
 だから、私は「上にある、下にある」ということと「大きい、小さい」ということから、上部の沼を「姉沼」、下部の沼を「妹沼」と「勝手」に呼んでいる。
 何故「姉妹」という「女性」にしたのかというと、その「美しさ」と「清らかさ」、それにブナの森に忽然と現れ、静に佇むその神秘性は、やはり、森の女神に通ずるものがあるように思えるからである。
 また、この沼は昔々から「ここに」「このように変わらず」存在していたという「普遍性」を大事にすると「永遠性」をも象徴出来る。そのことから、「姉妹」の古語である「兄人(せうと)」、「妹(いもひと)」を充てて「せうと沼」と「いもひと沼」としてもいいかも知れない。
 これは「姉沼」の東側である。この沼は「せき止め湖」である。岩木山の造山活動で噴出した火山灰や泥流がせき止められて、そこに「水」が貯まったものだ。つまり、流下する物質が偶然、そこで「停止」し、堆積して「堤防」が築かれたのだ。
 だから、沼の縁にあたる岸辺「堤防」は微妙な位置関係にある。人間があらかじめ「設計」して造った「人造湖」とは訳が違う。
 すべてが「流下と堆積」という自然の「微妙」な活動バランスとそれが創り出す「偶然性」に支えられて成り立っている。
 「二子沼」の美しさや神秘性を感ずる理由の一つが「これ」だろう。「何故、このようなところにぬまがあるの?」「何故、二つもあるの?」というのが最初にこの沼に出会った人たちの素直な疑問であるはずだ。
 写真に写っている東側の「堤防(土手)」部分は一段と低い。そして、その辺りから急峻な斜面になり、「白沢」に落ち込んでいる。だから、この場所は「いつ決壊するか」分からないというバランスの上にあるのだ。この微妙な「バランス」も「二つの沼」が出来たことも、すべて「造山火山活動の偶然性」が創り出したものだ。ここの風景には「人工」的な要素は何一つないのである。) 

          ◇◇第26回「自然観察会」の思い出◇◇ 

 この「観察会」は予定どおり、ほぼ快晴のもと2002年5月6日に実施した。一般市民を公募しての開催はこれで2回目となった。だから、26回目は東奥日報(Web東奥を含む)、陸奥新報、NHK等が記事や「お知らせ」の形で一般市民に働きかけてくれた。
 その所為だろうか。101人の参加申し込みがあり、当日は96名の参加者であった。本会主催の観察会はその後も続けられ、今年で42回を数えるが、この「96名」参加をピークにして、その後は減り続けて最近では20名前後に定着して推移している。
なにせ、参加者が多いので、受付等に手間取った。予定を約30分遅れて西岩木山林道と長平登山道との分岐広場に駐車をし、そこで開会行事をした後、5班に分かれて二子沼を目指して歩き始めた。往復大体7kmである。
 班の構成は、リーダー(会員が務める班長)・講師(植生「樹木・花」、鳥、昆虫の3部門各1名)他に会員、一般参加者の17~20名である。
 観察の「形態・方法」は植生・生物を損なわないことを基本にして、各班のリーダーと講師に任せられた。
 「講師」を分野・部門ごとに配置出来たから、多数の参加者という「制約」を受けたが、ある程度親切で丁寧な「観察」助言が出来たはずである。
 開会挨拶の中で阿部東会長は「耳を澄まそう」と呼び掛けた。この「耳」とはもちろん、肉体的な器官である「耳」のことであるが、言外に「耳をそばだててよく聴こう」という意味と「心の耳や目を働かせてしっかり観察しよう」という意味を含んでいた。

 当日、配布したものは「カラー版観察会パンフレット」「地図・花名記載のフィールドノート」「各班担当リーダー・講師名および班メンバー表」だったと記憶している。参加者たちは記録をとりながら、歩いて行ったのだ。その所為もあるが、出発の「30分遅れ」は二子沼に到着するまで取り戻すことは出来なかった。
 加えて、何しろ、林道の「路傍」は花で溢れていた。観察対象が多いのである。なかなか、各班ともに「先に」進めない。その日、「二子沼まで行く間」に観察出来た花は次の通りであった。
マイヅルソウ・ミズバショウ・エゾリュウキンカ・スミレサイシン・オオバキスミレ・キクザキイチリンソウ・オクエゾサイシン・エンレイソウ・オオタチツボスミレ・エゾエンゴサク・エンレイソウ・ユキザサ・ナガハシスミレ・スミレサイシン・タムシバ・ムシカリ・オオバクロモジ・オオヤマザクラ・カスミザクラなど
 また、出会えた野鳥は…オオタカ・ルリビタキ・メジロ・ウグイス・ヒガラ・コガラ・ゴジュウカラ・アカゲラ・アオゲラ・コゲラ・マヒワ・センダイムシクイなどであった。

 往路での観察に時間を割いたので、帰路は簡単な観察となった。予定時間を5分遅れ程度で、閉会行事をすることが出来た。
 帰路では、黒石市から参加したFさん一家が娘さんを中心に自主的に「ゴミひろい」を始めたのである。それに呼応して他の数人も「ゴミ拾い」を始めた。Fさん一家の行動に啓発されて、観察のかたわらゴミを拾い出す人がふえていったのだ。
 雪解け直後は、よく「ゴミ」が目立つ。林道脇にはたくさんの「空き缶」が捨てられている。何と、拾い集めた空き缶などは「大きなポり袋」で15個にもなったのだ。このゴミは持って帰れる人に持ち帰ってもらい、「自家のゴミ」として出してもらうことにした。「山に出かけて山菜ならぬ他人のゴミ」を…本当にありがたいことであった。(明日に続く)

西岩木山林道に残る雪 / 「踏み跡を辿る」…踏み跡から何がわかるか。営林署のこと(最終回)

2009-05-20 05:09:21 | Weblog
 (今日の写真は、自動車を使って林道終点まで行って、そこから「二子沼」へ行くにはどうしても通らなければいけない「道」を塞いでいる「残雪」である。これは5月15日に撮影したものである。)

 下見に出かけた私とS幹事は、この手前に自動車を置いて歩くことになった。本会では、この時季の「5月中旬」に数回、二子沼で「自然観察会」を開いているし、そのたびに、その10日か1週間前には事前調査のために、この林道を「自動車」で辿り、二子沼まで行っていた。
 それ以外にも「二子沼」には、この時季にしばしば足を伸ばしていたし、特に「鰺ヶ沢スキー場」の「自然に対する取り扱い」を調査するために「残雪のある営業期間が終わったゲレンデ」には毎年のように行っているから、そのついでに「二子沼」まで行くことはそれほど難しいことではなかった。
 だけれども、今季のように「林道を塞いでいる」雪に出会ったことは一度もなかったのである。「少雪」「暖冬」といわれている昨今だ。いわれているだけでなく、「少雪・暖冬」は事実である。この事実と未だに「積雪」を残して車道を塞ぐという現実とが「かみ合わない」のである。何故だろう、何故だろうと考えるのだが答えが出てこない。ただ、この現象は「非常に局地的」であるということだ。そこに答えの鍵はありそうである。
 これまで、17日に開いた「第42回自然観察会」を含んで「岩木山を考える会」では数回、このルートと「二子沼」で自然観察会を開いている。
 その中で、特に参加者の多かったのが第26回自然観察会(西岩木山林道と二子沼)であった。何と、参加者は102名となった。これは、2002年5月6日に実施した。自動車を持たないなど、「集合地スキー場駐車場」までの手段のない人も参加した。会員が自分の車に便乗させたのである。場所は「西岩木山林道と二子沼」であり、「二子沼」だけではない。
参加者を1班20名で5つの班に編制して、会員をそれぞれ班長と講師として、班行動を主体とした観察会であった。もちろん長い距離を「歩く」要素が組み込まれていた。
参加者には「フィールドノート」を配布した。「フィールドノート」は「時」「天気」「気温」「各自出会た花などとその場所」が書き込めるようになっている。もちろん、地図(観察コース図)も書かれてある。つまり、「 時刻・地図対照・フィールドサイン・直接観察・環境」などが記録されていく形式になっていた。
その「フィールドノート」には次のような案内も見える。
 … ①が林道の中間地点でここから観察が始まり、二子沼で行きます。出会った花や樹木の名前を下欄からさがして◯に「レ」をつけて、○レとしてみましょう。どのくらいなるでしょう。これら以外にもあるはずですから見つけら記録しましょう。視線は足もとだけではありません。方位的に、耳もすましていろんな音を聴きましょう。…「明日に続く」                       

   「踏み跡を辿る」…踏み跡から何がわかるか。営林署のこと(最終回)

 「踏み跡」には、大きく分けると2種類があるようだ。そして、その一つが営林署に関係したものである。

…「営林署」、懐かしい名前だ。今は、「森林管理署」である。農林水産省の外局林野庁の下にあって国有林の管理や造林・伐採、林産品の製造・処分を行っていたところだ。
 だが、その懐かしい名前も、平成11年(1999年)から、営林署は「森林管理署」に、営林署を監督していた営林局・営林支局は、「森林局」にと名称が変わった。
 林野庁は平成10年(1998年)の時点で、3兆8000億円に上る巨額の累積債務をかかえて経営破綻の状態だった。
 そこで、国有林野に14あった「営林局」は7つの森林管理局、全国229(1998年11月現在)の営林署は98の森林管理署と14の支署に再編することになったのだ。
 職員数も3分の1にするといっていたが、どうなったのだろう。

 その時、国有林野の管理経営の方針も見直された。森林管理署の仕事を定めた「農林水産省設置法」の条文は、営林署時代と比べると、「森林治水や林野保全の側面が強調」されて、「下流域の水を育み、災害を防ぐ」という「森林の公益的な働き」が重視されるようになったのである。
 それまで、重視されてきた「木材生産」という側面を、ばっさりと削ってしまったのだ。この辺りから、林野庁は大きくその業務を「変質」させていくのである。
 「森を育てる」、「樹木を管理して、間伐など保育をしながら山全体を育てる」、「枝打ちや下草刈など山の手入れ」、「木材の生産をする」ということを放棄してしまったのである。
 つまり、「規制緩和」という荒波を受けて「営林署なんて民営化してしまえ」ということにつながっていったのである。

 もともと、「署」というところは…
 営林署にしろ、森林管理署にしろ、それは「所」ではない。恐れ多くも「警察署」の「署」である。営林署も森林管理署も「山の警察」としての役割も持ち、「盗掘や盗伐から国有林」を守るのである。少なくとも「営林署」時代まではそうだった。
 しかし、今は違う。森林管理署の最前線の職員である「現場責任者」は「森林官」だ。昔の呼び名は「担当区主任」である。これは「特別司法警察職員」で逮捕権をもってるのだそうだ。昔の営林署の職員は、「腰に短剣を下げ山を巡回していた」というのである。
 「森林官」は、捜査の専門家ではなく、「枝打ちや下草刈など山の手入れ」を作業員にさせ、樹木の調査を行い、林道の点検をする林業の専門家である。
 また、森林官が警察官としての役割を果たすのは、樹木の盗伐や山火事など国有林の保全に直接関わることで、しょっちゅう「山を歩いて、見回って、巡視と監視」を続けていた。

 その道が「踏み跡」だ。岩木山にも「登山道」の他に、多くの「担当区主任」が巡視するために使った道があるのであった。
 若い頃はその道を拝借してよく歩いたものである。よく歩いたのは「錫杖清水」近くから「耳成岩」の下を巻いて、赤倉登山道に出る道であったし、「巌鬼山」から「弥生」に降りる「道」、水無沢左岸尾根に続いて弥生に出る「道」などであった。
 しかし、今は「担当区主任」の仕事から「監視と巡視」がなくなり、「担当区主任」の命によって働く作業員もいなくなったらしく、その「道」は標高の高い部分を残すだけで、ほぼ消失している。
 そして、今や「踏み跡」の形跡もなくなり「廃道化」しているのである。

「踏み跡を辿る」…踏み跡から何がわかるか。自然を大切にする人とそうでない人

2009-05-19 05:25:35 | Weblog
 (今日の写真は、「毒蛇沢」へ降りて行くルートを示す「鉈目」だ。歪な格好で彫られていたが、一応「→」という印になっている。「鉈」でこのくらいの「彫刻」が出来るのだから、これを彫った人の才能は大したものである。
 樹種はミズナラである。幹の太さから言うと「少し大き過ぎ」な観は免れない。もっと小さくてもいいように思える。
 だが、彫り刻みの深さは表皮の部分だけであって、木質部の材にまで達していない。これは、ただ単に、「どうでもつけた」印ではない。「ミズナラ」を労ってつけられている。樹木のことを、山のことを、自然のことをそれなりに理解している人の「所行」であることは疑いない。

 「踏み跡」には、大きく分けると2種類があるようだ。その一つは「山菜採り」など「山の恵みを得るため」の道である。私と相棒が辿った「毒蛇沢」左岸尾根の縁は、まさに「そのような」道であった。
 「樹木、山、自然」を理解しているという人とは、何も大学でその筋に関する学問をした、いわゆる専門家をさすものではない。きわめて単純なことだ。それは、「私たちは草木や山、自然によって生かされていると考え、草木を大事にする人」たちのことである。
 「山菜」を採るにしても、その採集する「山菜」と周りの植生との関係をよく考え、観察して、その「」を壊さないようにして、採るのである。「自然の草木やキノコ類」などは、それ単体だけでは決して生存出来ない。まとまりある「植生」を壊してしまうと「翌年」からは、お目当ての「山菜」は採れなくなってしまうのだ。「採れなくなる」ことは私たち人間が「自然の恵み」に見放されたことを意味する。いわば、「自然によって生かされない」ということになるのである。
 沢筋で「ウワバミソウ(津軽ではミズという)」を採る。ミズは岩などの薄い表土にしっかりと根を張って生きている。これを「根ごと」抜き取ると、その場所では翌年から「ミズ」は消える。
 「雌株」と「雄株」という別々の株立ちする「雌雄異株」の植物の場合は、仮に「雌株」だけが食べられるからといって「雌株」を根こそぎ採ることはしない。必ず、「雌株」を数本残す。残すことで「受粉」が可能になり、翌年も「その場所」の山菜は生えるのである。ゼンマイなどはその好例であろう。
 キノコにしても同じだ。全部は採り尽くさない。かならず、少しは残すのである。それが次代の「茸菌」を引き継いで、来年またそこに「キノコ」の山を築くのである。

 ところが、「山菜採り」の中には「似非(えせ)」が多い。95%以上は「似非」偽物である。先ずは「自然の関わり合い」に無頓着であるし、あまりにも「無知」である。それに、「ただ採る」「多く採る」「採り尽くす」のである。
 採り尽くすから「翌年」のことは頭にない。「森を生かし、山を生かし、それによって私たちも生かされている」という畏敬と感謝、山を労る念は全くない。だから、自分だけのことしか考えない。
 タケノコを採る。採ってしまうと、ただの「竹藪」だ。それまでの「タケノコ畑」がただの「藪」になってしまうから、そこは「ゴミ捨て場」となっても違和感はないのだろう。
 だから、「ゴミ」をどんどんそこに置いていく。置いていく物は空き瓶や空き缶だけではない。採ったタケノコが入りきらないというので、「ザック」の中を空にして、それを容れる。ザックから出した物は、その場に置いていく。
 着てきた「雨具」の類も置いていく。山を歩いていて、よくこの手の残置物に出会う。そんな時は、果たして「遭難者」か、死体はどこだ、などと考えてしまうのだ。いい迷惑な話しだ。
 「頭に来る」のは、竹藪に張り巡らされる化石燃料で造られ、腐ることのない「テープ」だ。自分を「道迷い」から救う手だとして、このテープを引きずって歩き、そのテープに従って、入ったところに戻るのである。
 ところが、この「テープ」を回収することがない。「置き去り」である。根曲がり竹の藪には「縦横無尽」に「テープ」が張り巡らされている。タケノコの山は「テープ」の山になっている。もちろん、「踏み跡」を自分で整備しながら「歩く」というような配慮はさらさらないのである。これらが、「似非」山菜採りの許されない所行の具体例である。
 私は、これら似非山菜採りの所行を許し難いと常々思っている。だが、これとは別次元で、この「残置」された「ゴミ」に救われるという「皮肉」な出会いもある。 
 それは、よく残雪期の下降時に生ずる。山頂から積雪を辿って降りて来るのだが、中腹部で残雪が途絶えてしまうと「夏道」への取り付き地点が分からなくなってしまうのである。いきおい、「藪こぎ」になる。「藪こぎ」は「踏み跡や道」を歩くよりも「数倍体力を消耗」するものだ。だからそれを避けようと、いくらか残っている「雪渓」を辿ることになる。そうしているうちに、完全に出口のない「藪の中」に紛れてしまうのである。
 そのような時に「人跡未踏」でない証拠品として、「山菜採り」が置いていった「ゴミ」に出会うことがある。
 これは、この近くに「本来の道」があることを示唆するものでもある。闇雲になって「ルート」探しすることを止めて、ゆっくりと夏道への「出口」を探すのである。
 「山菜採り」の「ゴミ」に助けられるという皮肉な機会と出会いは、このように結構多いのである。
 赤倉沢左岸尾根の修験者の道を下降した時も、やはり、この「ゴミ」に救われている。

 雪消え直ぐの時季ほど「ゴミ」は目立つものだが、私と相棒が辿った「毒蛇沢」左岸縁沿いの「踏み跡」には、まったくといっていいほど「ゴミ」はなかった。
 この事実は、この「踏み跡」は「本物」の山菜採りが歩く道であることを物語っているのである。その数もほんの数人であろう。
 いつまでも、恵みを大事にしたいと考えるのだから、大切に扱うことは「当然」である。きっと、あのすばらしい「ミズナラ」の原生林では、秋になると毎年、大量の「舞茸(マイタケ)」が採れるに違いない。
 だが、私にとっては、「山菜」を食べることは好きだが、「山菜採り」には、あまり興味がないので、ただ「踏み跡」は辿るだけのものである。(明日に続く。)

二子沼への道々に咲くシロバナスミレサイシン / 「踏み跡を辿る」 

2009-05-18 04:55:55 | Weblog
 (今日の写真は「シロバナスミレサイシン」だ。漢字では「白花菫細辛」と書く。白花でない普通のものは、山地に自生し、この時季に「花茎の頂に大形の青紫色」の花をつける。
 「細辛」とは「スミレ」とはまったく別種のウマノスズクサ科の多年草だ。岩木山では「ウスバサイシン」や「オクエゾサイシン」などが見られる。
 この根や根茎を乾燥したものが、漢方で風邪、咳、胸痛等に用いる「細辛」という生薬だ。スミレサイシンにもこの「生薬」としての「薬効」があり、特有の辛味と芳香があるのである。
 それにしては、昨日も15日にも、この踏み跡道で、この時季によく見かける「オクエゾサイシン」が、まったく目に入らなかったのは、どういうことなのだろう。
 この写真は15日に撮ったものだが、昨日も雨の中で咲いていた。「二子沼への道々に」と書いたが、もう少し詳しく説明すると、「西岩木山林道終点から旧い林道を辿ってブナ林内に入る。そのブナ林に続いている踏み跡」となる。
 確かに、この時季、「スミレサイシン」は多い。西岩木山林道沿いにも結構見られる。だが、このブナ林の踏み跡沿いに咲くものはその数からいっても、この「シロバナスミレサイシン」の多さからも、まさに「圧巻」なのである。
 この「シロバナスミレサイシン」はまとまって咲く傾向がある。岩木山の中腹部から低山帯にかけて、よく見られる花だが、その傾向の顕著な場所が「ここ」ということになる。

 これが咲いている場所を1m四方に区切って「生えている草本と木本」の数を調べてみた。先ず草本は、この「シロバナスミレサイシン」である。次いで、普通の「スミレサイシン」だ。それに、加えてキクザキイチリンソウ、マイヅルソウ、イチヤクソウ、フキなどだ。
 木本はクスノキ科のオオバクロモジ、常緑低木のヒメアオキの実をつけている雌株と花を咲かせている雄株、それに、ブナの幼木などである。
  広い森の中の、わずかに1m四方という狭い「面積」にこれだけの植物が生えているのである。何という共存・共生、これが森の「豊かさ」なのかも知れない。
 私はこれまで、「雪消え」と同時に咲き出すものは「キクザキイチリンソウ」だと思っていたが、咲いている「スミレサイシン」に混じって、まだ咲いていない「キクザキチリンソウ」があったことに驚いた。「スミレサイシン」はこれよりも早く開花するのである。
 やはり、日本海側の豪雪地帯にだけ生育している「スミレサイシン」は「雪解け」にいち早く対応するのであろうか。そう考えると何だか面白くなった。)

              ☆☆ 「踏み跡」を辿る… ☆☆

(承前)
 …分岐点に戻った私と相棒は「環状線県道30号」に出るために、下降を始めた。だが、私は何だかすごく心残りなのである。それは「毒蛇沢」に降りて行かなかったことではない。その分岐点を指し示す確実な「手がかり」をいまだに、「視認」していないということであった。
 私は相棒に断って、また引き返したのだ。降りてくる時の「視点」は違う。登っていく時の「視点」も違う。だから、降りてくる時に「見えなかったもの」が「登りの時」のよく見える場合があるのだ。私はそのことに「賭け」たのだ。
 やはり、あった。太い「ミズナラ」の幹に、大きな「鉈目」を発見した。しかも、その「鉈目」は、歪な格好で彫られていたが「→」という印になっていた。それが、あまり間隔をおかないで2カ所である。そして、その先に、はっきりと「毒蛇沢」への分岐道があったのである。
 「心残り」が消えてさっぱりした気分で、私は相棒に追いついた。ところが、またまた「難題」である。定かではないが「踏み跡」が左右に分かれているのである。右の踏み跡は下方に見え隠れするスギ林の方に続いているらしい。地図上の「針葉樹」マークを辿るとどうもそうらしい。そして、そのルートは「県道30号線」につながっていた。
 ところで、左側の踏み跡は、もちろん「地図」には出ていない。それは左の沢に降りていた。
  突然、閃(ひらめ)いた。そして、「午前中、私たちは小さな沢の源頭部を巻くようにして、林道の終点まで辿り着いた」ということを思い出したのだった。そして、この閃きは、「この踏み跡を辿って沢を渡ると午前中に通った林道に出る」という確信を、私に与えた。
 私たちは、この「確信」に従って「スギ林」への道を「断念」した。しばらく、降りると沢に阻まれた。それは「ブッシュ」に阻まれたといっていいものだった。相棒に沢筋の「ルートファインデイング」を任せて、私は登り返して、尾根筋に踏み跡を探した。だが、どこにもそれらしいものは見つからなかった。
 そこに、相棒の大きな「鉈目があった。切り跡があった。踏み跡発見」という声が響いた。早速降りて合流して、登り始めると、私の閃きは直感となり、それが見事に「当たった」ことを教えてくれた。
 50mも登ったであろうか。私たちは件の「林道」に出たのである。そこは、午前中、登り始めて「最初」に「一息」入れた「杉林」が途切れたところであったのだった。
 私たちは、この場所から北西に向かって、斜めに長い登りを続け、藪こぎをして、さらに、毒蛇沢の上部右岸の縁を「踏み跡」を辿って登り詰めたのである。何という長い「迂回」をしたことだろう。
 「アホらしい」と言えばそうだが、新しい発見と「冒険心の満足」は大いに得られたものであった。
 その辺りを今一度眺めてみたら、ブナの幹に「赤ペンキ」で、沢に続くルートの入り口にマーキングされてあるものも見つけたのである。
 相棒とまた「毒蛇沢」を横断して「横歩き」をすることになっている。その時にはこの「ルート」を採ればいいのである。(明日に続く)

二子沼の下の沼 / 「踏み跡を辿る」

2009-05-17 04:43:18 | Weblog
(今日の写真は二子沼の下の沼だ。みなもに新緑の若葉を写している姿は格別である。
 さて、今日は本会主催の第42回自然観察会である。あいにく、お天気は望まれそうにもないが、「雷さま」だけはごめん被りたいと思っている。
 雨具を着けて、傘をさしながらの観察もなかなか味のあるものだ。雨の降るブナ林、霧の湧くブナ林や沼畔、雨に打たれたキクザキイチリンソウなどの風情も捨てがたいものだ。
 私たちは一般的に晴天を望む。水飢饉や雨乞いでもない限り、常に私たちは晴天を望む。戸外で働く時、戸外に出かける時や戸外での行事の時には、すべて晴れることを願う。
 だから、「雨の風情」に出会える確率は非常に低い。雨の日に出会い、見ることの出来る風物はすべてが、「初体験」となり、「今まで見たことがなかった」という新鮮な驚きと感動をもたらしてくれるものである。
 数年前に、20人近い「父母集団」と一緒に八甲田山に登ったことがあった。その日は途中から雨になり、視界は利かず、見えるのは足下だけという状態だった。
 ある父母が「何も見えない。つまらない」という意味のことをぶつぶつと言い出した。山頂に着いても「お天気」の状態は同じであった。件の父母の不満は、「山頂・頂上」というわけではないだろうが「頂点」に達したようだ。
 そこで、私はひとこと言った。「見えなければ、今見えているものに注目してみたらいかがですか。足下に咲いている花もありますよ」…と。
 「何も見えない」ということは、その人が「心の窓を閉ざしていること」である。見えないことに期待し、失望するよりは今見えているものに、様々な気象条件の中で「様々に演出」してくれる自然の風物に目を向ける方がいいのである。
 今日は晴れの天気は望まれないだろう。恐らく雨になるだろう。さて、今朝の写真の「下の沼」は、どの様な「顔」を見せてくれるのだろうか。それを楽しみに出かけることにする。
 ところで、林道を塞いでいる、あの「積雪」はどのくらい解けただろう。まあ、昨日は10℃以上の気温だったし、太陽も出ていたから大丈夫だろう。だが、スコップは持って行こう。最悪の場合は「雪切り」をしないければいけないからだ。
 私は、まだ迷っている。観察会にとって、「意外性」は大事なものである。「林道にまだ雪があって自動車の進入を阻止している」ということは、今季のように少雪で、早々と里から雪が消えてしまった現実からすると、大きな「意外」と写るだろう。それを味わってもらうには事前に「雪がある」ということを「言わない」方がいいのだ。さてはて、どうしたものか。)

 ☆☆ 「踏み跡」を辿る… ☆☆

(承前)

 …私は今降りている踏み跡に出た辺りをもう一度辿って、丁寧に竹を払い、枝にや幹に「刻み」を入れて、今度来る時にはあまり時間の「かからない状態」にしておきたいと考えていた。だから、午前中に、この「踏み跡」を発見した時には、かなり丁寧に「竹」を切り、「枝打ち」や「刻み」をして「しるし」をつけたのだ。
 登りよりも「下り」は遙かに速い。スピードは人の目を誤魔化すものだ。それに、「登り」の時に付けた「しるし」は「下り」では見えにくいものだ。それは、「登りと下り」で見える部分が「逆」になってしまうからである。
 山に慣れた者は、この「しるし」付けには、その点を考慮するものだ。私や相棒には、「その点」が欠けていたのだ。何よりも、「もっとゆっくり」降りるべきだったのである。
 そして、私たちが「付けた」であろう「しるし」に気づかないままに、下降を続けたのである。
  何故、下降を続けたのか。私と相棒は、石切沢から入る林道を「帰路」に使うことは諦めていた。地図に出ている「道」を辿って、「森山」に向かってやや右側の「県道30号線」に出るつもりでいたのである。
 そして、自動車を駐めてある石切沢の縁まで戻らなければならないので、時間のことが気になっていた。だから、いきおい下降のスピードは上がっていた。

 …ところがである。私たちは「右方向」に、つまり、「毒蛇沢」に降りて行っている「踏み跡」を見つけたのだ。これが、前述した「大発見」なのだ。
 「ああ、これだ。これだ。この踏み跡だ。以前辿ったのはこれだ」と私が言う。相棒は「林道の終点から少し進んで、降りたところにあると言っていたとおりですね」と言う。
早速、私と相棒は、その「踏み跡」に入り、私が先頭で「毒蛇沢」へと降りて行った。少し降りたところで、後ろの相棒が「次の機会にしませんか」と言うのだ。続けて「もう時間がありません。取り付き地点も分かったことですから、日を改めてもう一度挑戦しましょう」とも言うのであった。
 恥ずかしいながら、私は「見つけた以上はそこを通って」その日の山行目的を達成したいという意気込みだけに囚われて「冷静さ」と「沈着性」を失っていた。
 それに比べると、相棒は、私より「10歳」も若いのに、何という冷静な判断だろう。物事の後先がよく見えている。
 私は相棒の言い分に素直に従った。次の機会にしよう。相棒が先頭で、また登り返したのである。
 再び「踏み跡」に戻った私たちの目には、この分岐点を示すいろいろな「しるし」が、さっきまではまったく見えなかったのに、よく見えるようになっていた。自分たちの「現在位置」が分かるということは、これほどに「安定と沈着」性ある「目」を持たせてくれるものなのだ。
 常々、「人生」の中で、「自分の現在位置」を見失うことはある。だが、大事なのは、「現在位置」が分かるところまで「引き返す」ということだろう。(明日に続く)