岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山を見ることの出来る幸せ…あなたには毎日岩木山が見えているか (3)

2008-11-30 05:47:06 | Weblog
(今日の写真も岩木山である。さてどこから撮ったものだろう。この場所の雪のない時の写真は、このブログの2008-09-19と2008-09-20に貼り付けてある。
 雪によってどれほどの変貌振りなのか、雪のない時の写真と比べてみると楽しいだろう。これは岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山である。
 この撮影地までの道順だが…
 岩木山環状線から大石神社に向かって入り、大石神社の少し手前から右の車道に入る。しっかりした砂利道を移動して草原に出たところで下車する。この風景を見るには自動車は使えないから歩くしかない。
 車道の下部には原野や草原が広がっている。標高は350mほどである。下車地点の遠景は岩木山の北東面である。左から赤倉登山道尾根、赤倉キレット、 1396mのピーク、1250mのピークと続いている。この1250mピークが扇ノ金目山に連なっている。右の深い沢が白狐沢、左の沢が赤倉沢だ。
 弘前から見慣れている岩木山とは、あまりにも違う「変容」振りだろう。ここは五所川原市と直線的に結ぶ「線上」である。五所川原市から見える岩木山は鋭角的で厳しく屹立している。もっとも男性的で荒々しい山容、まるでマッターホルンのように見える。ところが、同じ直線上にありながら、ここから見える岩木山は横広がりで「立ちはだかって」はいるものの、気高く鋭く立っている山ではない。
 広がりはあるが低い。峰を連ねてはいるがその連なり方も何となく「優しい」。ただ、赤倉沢や白狐沢の深い谷を見せているだけであった。この「変貌」を為す理由は、見ている場所の「高さ」と「距離」にある。見ている場所の標高は350mほどである。山頂までの直線距離は2km程度だろうか。)

 ◆◆ 『毎日新聞「東京版の夕刊」「しあわせのトンボ」』「夕の祈り」は何を語る(その3)◆◆

(承前)
 「昨日、テロリスト、「小泉毅」はお天道様のような「山」を持つことなく46歳まで生きてしまったのだ」と書いた。
 それは「小泉毅」が「アイデンティティー」としての「山」を持っていなかったことでもあるだろう。「小泉毅」はその意味で哀れなのである。
 それに比べると、何と私は幸せ者だろう。67歳の現在も、未だに「不動にして泰然としている岩木山」を「アイデンティティー」として、日々生きていることが出来るからである。

 S氏が言ったように、私にとって岩木山は、まさに、「アイデンティティー」であったし、今もなお「アイデンティティー」なのである。
 すなわち、岩木山にこだわること、岩木山を愛すること、それは私が自分自身を知ることであり、自己確認を意味しているのである。
 岩木山との最初の出会いは5歳の時だった。この年齢だから、その当時の記憶は曖昧でかつ断片であるに過ぎない。それまで育った満州における記憶はさらに少なく、さらに、断片でしかなかった。
 満州での記憶の中に「山」は存在していない。満州の入り口、大連には山がなかった。引き揚げてきて、岩木山を見た時に、人生で初めて、「山」の実景を見たのである。
 5歳の私は「山」という「漢字」を知っていた。象形文字などという難しい知識はなかったが、まさに岩木山は3つの頂を示して「山」の「字」を私に「直接」教えてくれたのである。そして、私は、その時から「津軽の人の原風景としての岩木山」を持つようになったのである。
 私はこれまでどのくらい岩木山と対峙しただろう。それはもはや数えられる者ではない。大げさに言えば、「毎日数回」である。直接、対峙するだけではない。見えない場所にいても目をつぶっても、私には岩木山が見えるのである。
 嬉しいことがあった時も、悲しいことがあった時も、何事かで悩んでいる時も、私は岩木山に対峙してきた。そして、語りかける。
 その晩もまた、私の父と母は喧嘩をしていた。私は吹雪の中、表に飛び出して見えない岩木山に向かって大声で泣いた。
 秋、稻束の棒掛けが規則正しく並んでいる田んぼの畦に腰を下ろして見る「岩木山」は穏やかで優しい。そんな時は、岩木山に向かって自分の将来を語った。自分の夢を話した。岩木山はひたすら「黙って聞いてくれる」だけだった。それでよかった。
 私は小学生の時から「高校の先生」になろうと決めていた。それが夢だった。しかし、現実は「貧しさ」であり、高校進学も危ういものだったし、到底大学に進むことは経済的に無理だった。だが、岩木山に向かってその夢を語る時、いつかそれは達成されるような安堵感を持つのであった。
 私の「アイデンティティー」が「岩木山」であると思えるのは、引き揚げ直後から小学校時代を含む時期までのいろいろな体験が、反発や悲しみ、寂しさなどを包括しながらも、すべてを、この「原風景として岩木山」にスライドされ、収斂・象徴されているからなのである。

 「しあわせのトンボ」-「夕の祈り」は続く…。

 『それにしても何事もないかのような富士山の大きさ。その超然とした姿を詠んで、今は亡き城山三郎氏に年賀状を出したのは確か2000年の元旦である。思いがけず「その思いで生きたいものです」と添え書きのある賀状をいただいたが、城山氏は富士への畏敬(いけい)の念とともに、穏やかではいられない世の中を暗におっしゃっていたのであろう。

 江戸の人々が六根清浄を唱えつつ山頂を目指したのは、霊峰への信仰心からだ。町から富士を仰ぎ見ては、日々の仕事にいそしんでいたことだろう。日本人の勤勉さや正直といったものも、富士信仰とともに培われた面があるのではなかろうか。』
 この2つの節には「人々」が自分の心に「山」を存在させるという意味についての言及があるだろう。(この稿は明日に続く。)

岩木山を見ることの出来る幸せ…あなたには毎日岩木山が見えているか

2008-11-29 05:36:46 | Weblog
 今朝は初めに{NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」(2009年1/2/3月期)}の案内をしたい。私個人の講座の案内が先になってしまったが、本当は、こちらを先にすべきであったのだ。
 何故ならば、このホームページは「岩木山を考える会」が開設しているものであり、講座「」は本会が開設しているものだからである。こういう「筋違い」をしてしまうところが、私の軽率なところだと深く反省している。 
 今期も何とか開講することにした。恐らく、4、5、6月期も引き続いて「野外観察」を基本にして開講することになるだろう。

 第46回 1月25日(日)   主題:  花と俳句             
     岩木山に咲くの花とそれを詠んだ俳句を味わう 座講        
                        (担当:三浦章男)
 第47回 2月22日(日)   主題:    写真で見る岩木山の破壊 

   岩木山の破壊風景(スキー場・盗掘・不法投棄ゴミなど)座講
  (担当:三浦章男)
 第48回 3月29日(日)   主題:山麓の雪上散策とアニマルトラッキング
   (野外観察) ワカンをつけて雪上の散歩と自然観察「樹木の葉芽や花芽」
                        (担当:三浦章男ほか)
※ 第48回の日程 ※*詳しい日程は未定。天気が極端に悪い場合は日程を変更したり、主題内容を変えて座講に切り替える場合もある。

→10:00 NHK文化センター集合・オリエンテーション
→10:15 乗車・出発出発
→10:45 観察地到着
→11:00 観察・散策開始
→12:00 (昼食)観察・散策
→12:50 参加者感想発表・その他
→13:00 閉会・乗車出発
→13:30 NHK文化センター前着・解散

 受講希望者は12月27日までにNHK弘前文化センター申し込んでほしい。4月からまた1年間「野外観察」を基本に据えて継続開講することになるだろう。

(今日の写真はすっぽりと雲に覆われた岩木山である。この程度の雲だと岩木山の輪郭を辿ることが出来るので、岩木山が見えないなどとは言わない。
 山麓から山頂まで岩木山の全体が「雲」に覆われても、誰も岩木山がなくなったとは思わない。それは、見えなくても「そこにいつもの通りある」としているからである。
 岩木山は高さはないが、長い裾野を広げて津軽平野に気高く君臨する本州北端の孤峰である。この孤峰を見て育った人々は、それを網膜に育った年数をかけて焼き付け、決して剥がれ落ちることがないと血肉で信じ切っている。これが津軽人の原風景だからである。)

 ◆◆ 『毎日新聞「東京版の夕刊」「しあわせのトンボ」』「夕の祈り」は何を語る(その2)◆◆
(承前)
 なぜ、この2つのことに思い至ったのであろうか、それは「小泉毅」という元厚生事務次官宅連続襲撃殺傷事件の犯人は、自分と向き合う富士山なり岩木山という「山」を持っていなかった人間ではなかったのだろうかということである。

 「陸 羯南(くが かつなん)」の「名山名士を出す…」とは何を言っているのだろう。「名山」とは言うまでもない「岩木山」のことである。
 しかも、岩木山は津軽の民にとっては祖霊が住んでいる霊山であり、神の山でもある。現在でも「岩木山」に向かって合掌する人は多いのだ。
 何を祈るのだろう。健康であること、家族の幸せであるかも知れない。自分を反省し、謝り救いを求めるのかも知れない。あるいは、自分の希望を語り、見守ってくれるようにお願いをする、または、不変の姿に比して自分の無常を悟って、その罪を悔いるのかも知れない。
 その大きさと孤高に打たれて、「自分」もあなたのように屹然とした、信念のある人間になりたいという「乗り越える」目標とする人もいよう。
 津軽の人は幸せだ。岩木山はまるで、「お天道様」のように私たちの行動を見ているのだ。『「悪いこと」はするな、「お山」が見ているぞ』なのである。
 名山とは、道徳的規範の象徴にも成り得るのである。そして、名山を眺める人を何かしらによって励まし、「鼓舞」するものだし、生きる目標すら与えてくれるものであろう。
 「名山名士を出(いだ)す…」この羯南が弘前に残した不朽の言葉には、これら名山・岩木山の持つ多様な意味合いを含めて「故郷の若者を激励・鼓舞する思い」があるのではないだろうか。
 そして、郷里の子弟に対して、志を持って立つ者は誰か、この国を、郷土を誰が守るのかと問いかけているのである。羯南の漢詩「吾心」の中には「願わくは一片の名、留めて千載の史にあらんことを」という一文があるが、これもその証左の一つであろう。
 このように言う羯南だが、自身は決して「武器」を持ったテロリストではなかった。彼は「ペン」を持って、新聞発行停止などの政府の弾圧や苦境に屈することなく、言論を貫いたジャーナリストだった。
 彼の心の中には「己を見守り続ける」名山、岩木山が常に存在し、その「名山」に恥じない行動をするという強い決意があったはずだ。
 だからこそ、彼は、日本が近代国家へと向かう激動の明治期に、当時の政府の極端な欧化主義に反対したのだ。そして、国民精神の発揚と国民の公益と独立を目指す「国民主義」を唱えたのである。
 哀れなるかな、テロリスト、殺人犯「小泉毅」はお天道様のような「山」を持つことなく46歳まで生きてしまったのである。(この稿は明日に続く。)

いつも屹立する山を見ることが出来る幸せ…あなたは毎日岩木山を見ているか、見えなくなっていないか

2008-11-28 05:54:40 | Weblog
(今日の写真は昨日の朝、7時過ぎに拙宅から30mほど北に移動したところから撮ったものである。
 それにしても、ずいぶんと白くなったものだ。今月の初めあたりとはまったく違う意味での神々しさを秘めているではないか。冬になると岩木山は神の山や祖霊の山になるのである。)

 岩木山の森は「田山」である。だが、今も無計画な伐採が続いている。遠くからはその実態が見えないが、山に入るとそれは明らかだ。
 森は水がめ、谷は水路。岩木山は水神の宿る神の山、薪炭や山菜を、動物たちにブナや橡の実を、海に魚を育むという恵みの山でもある。
 また、先祖の霊が暮らし、春には田の神として里に降り、収穫が終わると帰るという「お居往来山」である。我々の祖霊にとって岩木山は安らぎの場所、そして、いつの日か私たちもまたそこに逝く。ミチノクコザクラやエゾノツガザクラの一輪一輪は祖霊の魂であるかも知れない。岩木山は昔も今も癒しの山だ。

 …春から夏。麓から草原の緑と花々に、高みは木々の緑に、その上部から山頂までは高山植物の彩りにしっとりと包まれる。
 その頃、千年以上も前から続けられている成人式の通過儀礼を含めたお山参詣の集団が、五穀豊穣を祈願して大きな御幣をかざして山頂に登拝する。
 秋から冬。駆け下りる錦秋に、清澄な冷気と純白な綾絹に静かに包まれる。岩木山は潔く孤高であり、不変にして不動、誰に対しても公平な大地の母なのだ。
 いつでも平等に慰め勇気づけてくれる山。差別や蔑みのない強くて優しい個性を持った山なのだ。
 この岩木山にあなたは毎日出会っているか。対面しているか。忙しさの中で岩木山を見忘れることはないか。
 歩みを留めてゆっくりと対峙すると…
「岩木嶺に続く不稔田色褪せて秋色の畦に人の影はなし」という短歌でさえ詠えてしまうのだ。
 …不稔田の畦だけがくっきり区画される情景。字余りで詠う心情が痛々しい。不稔田、あってはならないことだ。天の恵みに見放され、貧しい農政に追いうちされた無念さを胸にしまい込んで、働き手は出稼ぎに行った。残された者は無念さをしまい込み春が来るまで背負う。岩木山はこの短歌にもじっと耳を傾けてくれる。

 毎日新聞「東京版の夕刊」には「しあわせのトンボ」というコラムというかエッセイというか、とにかく私にとっては「面白く」「ためになる」ものがある。書き手は、専門編集委員近藤勝重さんである。
 もとより、これは毎日新聞「東京版の夕刊」に掲載されるものだから、私にとって「新聞」を手にして直接読むことは出来ない代物である。
 インターネットは確かにメリットよりもデメリットの方が多く、この「ネット」にのめり込んだり、匿名性「自由」をはき違えた中傷誹謗や「悪行三昧」は目に余り、許し難いが、あえて他人に「害」を与えない利点を挙げるとすれば、インターネット上で閲覧出来る「新聞」の存在であろう。
 この「しあわせのトンボ」にもインターネットがあるから出会えるのである。もしなかったら、私はこのコラムなりエッセイなりに出会う機会はなかったのである。

 ところで、昨日の「しあわせのトンボ」は「夕の祈り」という題であった。題からだけでは想像がつかないが、実は「山」、しかも「眺望される山」について書いているのだ。
 日々、何気なく「岩木山」を眺めて暮らしている人たちにとってはきっと一読に値するのではないかと考えた。そこで、全文を紹介しながら、各節、各段落の要旨についての私の感想や意見を書き連ねてみたいと思う。

「夕の祈り」

 『…列島の各地が一段と冷え込んだ日の朝、電車の窓から東京湾の向こうに富士山が見えた。
 ケータイのカメラを向ける若い女性もいたが、乗客の多くは「年金テロ」の大見出しが躍るスポーツ紙などに目を落としていた。
 ぼくにしても車窓の富士が珍しいというわけではなかったが、その日は心が動いた。カンとさえわたった真っ青な空に真っ白な富士という取り合わせもさることながら、元厚生事務次官宅連続襲撃事件の発生にめいっていただけ、見とれる気持ちは強かったようだ。』

 …そこまで読んで私の脳裏を2つのことが掠め走った。

 1つはこの前の出版記念の集いで、正木進三先生がお祝いの言葉の中で述べた弘前市出身の、明治期の国民主義(民族主義)的ジャーナリストで言論界の雄と言われ、新聞「日本」を創刊した「陸羯南」の「名山名士を出す  此語久しく相伝う  試みに問う厳城下  誰人か天下の賢」のことである。正木先生は、この詩の冒頭の「名山名士を出す」をたとえて『岩木山という名山が「岩木山・花の山旅」という名著を編み立たせた」という意味合いのことを言ってくれたように私は理解している。名山とは、それを眺める人を何かしらによって励まし、「鼓舞」するものだし、生きる目標すら与えてくれるものであろう。

 もう1つは陸奥新報の文芸時評にS氏が私の二作目の著書「おお悲し、泣くはみちのく岩木山」を取り上げてくれたことである。
 その中で、S氏は「それにしても、思うのは、著者の岩木山への〈熱愛〉に対してである。著者の岩木山への〈こだわり〉は山仲間でも有名らしい。」と書いた。
 さらに続けて、一作目の「みちのく岩木津軽富士」から、『私は満州の大連から、この津軽に引き揚げてきた。アカシア並木と石畳の続く美しい街、大連。私はそこに山を見なかった。私が一生で初めて見た山、それが津軽に屹立していた岩木山だった。』と『お山参詣に参加出来ること、それは私にとってパスポートを越え、ビザを越え、国籍を手にし、戸籍を得ることを意味していた。』を引用して、…しかし、著者は地元の者から、引き揚げ者のよそ者として、あげてのお山参詣である岩木山登山を拒否されたのである。…「著者にとって岩木山は、いわばアイデンティティーを意味しているのではないか。すなわち、岩木山にこだわること、岩木山を愛すること、それは著者が自分自身を知ること、自己確認を意味しているのではないか。」と書いてくれたことである。(この稿は明日に続く。)

NHK弘前文化センター新規講座「岩木山の花をたずねる」 / 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その4)

2008-11-27 05:22:11 | Weblog
(今日の写真は一昨日に掲示したTさんが撮った場所を追子森の山頂から写したものだ。時季は3月の初めである。3月だから大分雪も締まって「積雪」の厚みが減っている時だ。だから、コメツガやブナなどの高木もかなり「姿」を見せている。
 また、稜線上の低木のダケカンバなどの樹列もかなり明瞭にその姿を現している。)

 どうして、こうまで「晴れている」「晴れていない」で写真の趣が変わるのだろう。一昨日のものは「モノクロ・モノトーン」に見えたが、この写真はしっかりとしたカラーである。3月初めというと日照時間も長くなり、太陽の高度も上がってくるので、空全体に明るさが増すという事実はあるのだが、何といってもその不思議さは否めない。
 このようなところにも、私は「自然は美を創り出す巨匠」を感ずるのである。やはり、人は「自然を超えること」が出来ない存在なのだ。
 日本人は古来から、その意味で「自然の中に神」を見出して、「自然そのもの」を神として崇めてきたのである。
 ヨーロッパやアメリカの原住民もそうであったのだが、キリスト世界はそれを否定する。自然が神なのではなく、「神」が自然を創ったという教えとなるのだ。この論理では「神」の許しがあると「自然を人手で変えること」も許されることになる。そして、キリストは「神の申し子」なのである。
 だが、「自然を神としてきた日本」はどうだろう。神の許しを得ぬままに、企業の論理で、スケールメリット追求のために、どんどんと自然を改変したり、破壊してきた。
 自然破壊は今も続いている。自然破壊とは、当然この「地上」に存在しない「物質」をまき散らすことも含まれる。核爆弾、原子力発電、核燃再処理施設などもすべて「自然破壊」を引き起こすことに荷担するものだ。

  ◆◆ NHK弘前文化センター新規講座「岩木山の花をたずねる」(その2)◆◆
 
(承前)
 座講では花々のカラー写真と解説が印刷されているA4判カラープリント2枚程度を使用する予定だ。受講生が相当数になれば、「プリント代」として実費を頂戴することになるかも知れない。これまでは、「プリント代」は徴収していない。
 これまで、2年間48回続けた講座「岩木山の花々」では、岩木山に咲く花々を「感性」で観察して、詩的に読み解くというものであった。
 前NHK弘前文化センター支社長Sさんは、「他の文化センターでは見られないユニークな内容」と評価し、大いに薦めた講座であった。
 花々との出会いを受講生は、プロジェクターによる美しい映像で堪能して、その都度、ため息に近い感嘆の声をあげていたものだ。
 受講生の中には感性で観察し表現・記録した「語句」で、俳句や短歌作りに挑戦している人たちもいた。もちろん教材資料には「俳句や短歌」は頻繁に登場する。
 また、オキナグサやオミナエシなど最近減ってしまった花については、受講者個々の思い出を語り合うことで、たくさんあったその「当時のことを共有しながら偲ぶ」こともした。
 このように受講生参加型の、みんなで作るタイプの講座にしていきたいと考えている。少なくとも、講師である私が「一方的」に語るタイプの講座にはしたくないというのが私の本音でもある。


      ◆◆ 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その4) ◆◆

(承前)
      帯状疱疹を発症・ストレスは一体何だったのか

 今日も眼科の受診に出かける。昨日、今日と痛みは全くなくなった。ただ、右目の「霞み」はとれない。その所為だけで受診するのではない。今日は指定された受診日なのだ。

 数日前のこの稿で…『傍目からすれば「出版記念の集い」は著者にとって、「嬉しく、楽しく、光栄なもの」であるはずと映っているだろう。しかし、当の本人にとっては「ストレス」になることもあるのだろう。不思議なことだ』…と書いた。
少し間遠になったが、今朝はその「不思議」を解き明かしたいと思う。

 これもすでに書いたことだが、私は10年前にすでに「出版記念を祝う」会をしてもらっている。仲間が集まり、発起人会を結成して、「祝う会」の日程や会場などを決めた上で、ハガキで案内、出席の有無の確認、B4判裏表印刷の祝う会パンフレットの作成、座席の配置などという事務的な作業を、すべて「善意」でしてくれたのである。善意でしてくれることに「私情」を夾んではいけない。善意に対しては文句は言ってはいけない。私は強くそう思った。
 だが、「会費」についてだけは「本代を含んで5000円」を頑強に主張した。「祝う会」に来てくれる方も「善意」からである。「善意」に甘えてはいけない。「善意」だからこそ「負担」をかけてはいけないのだ。
 その時の本代は2100円だった。一人あたり残りの2900円で「祝う会」すべての会計を賄わなければいけなかった。
 だが、これは当時の物価事情から、とうてい無理だった。発起人会は会場費の安いところを探し、酒類や飲み物は買い込んで持ち込み、料理も出来るだけやすくするために外注したのである。このような事情はすべて発起人の手間暇を増やし、発起人を思い悩ますものであろう。
 そのような苦労をしながらも、「ハガキ代」や「印刷代」「用紙代」などを加えると、どうしても「2900円」で「祝う会」をすることは出来なかった。私は発起人会に諮って「不足分」は私が補填することを了承してもらったのだ。

 今回も「会費」は同額の5000円であった。ただし、「本代込み」ではない。まるまる、5000円の出費なのである。私のためにまるまる5000円を消費させられるのである。しかも、「集い」に来てくれた方で拙著を希望する人は実費で購入しなければいけなかった。合わせると8000円近くになるではないか。
 私は『善意で、この企画をしてくれた発起人の方々、また、この企画に参加してくれた方々に対して「一方的」な迷惑をかけてしまうのだ。
 お金のことだけではない。私のために特に時間を割いて参加してくれる。貴重な自分の時間が私によって奪われるということだろう。これは本当に許されることなのだろうか』という思いを約1ヶ月間持ち続けていた。

 「ストレス」…私にとって思い当たるとすればこれしかないのである。

(皆さん、本当にご迷惑をかけました。「手前みそ」でなく新聞報道からもお分かりのように、すばらしい「集い」になりました。有り難うございました。)

お知らせ:NHK弘前文化センター新規講座「岩木山の花をたずねる」

2008-11-26 05:49:30 | Weblog
(今日の写真はNHK弘前文化センター2009年1月期受講生募集パンフレットの第一面のトップに掲載されているものの切り抜きを貼り合わせたものである。
 同センターからの要望で1月から新規講座として「岩木山の花をたずねる」を担当することになった。)

 切り抜きをスキャンしたので活字が小さい上に不鮮明だからコメント部分を再掲しよう。

 サブタイトルは「山の花々は私たちに何をかたるのでしょうか」である。これからも分かるように、この講座は単なる「花の探訪記」や「花を学習する図鑑」的なものではない。もちろん、そのような要素も十分には含んではいる。
 本当の主題は次の「コメント部分」にある。
 …『山の花々は、私たちに多くのメッセージを伝えています。しかし、決して自分たちを誇ることも、他と競うこともありません。花はただ「全身全霊をかけて」咲くのです。それゆえ私たちは、―株ごとに距離を保ち孤高の姿を彷彿とさせる「ツバメオモ卜」から、「誇りを持て、屈するな」という励ましを得ることもあるのです。
「山の厳しい環境の下で咲く花に、私たちの人生観や価値観につながるもの」を感じとってみませんか。※およそ300種類の花をとりあげます。』

 「300種類の花をとりあげる」以上、長期にわたる講座になるだろう。私としては開講する以上は、受講生がいる限りは300種類の花すべてについて取り上げたい気持ちでいる。講座1回につき3~4種類の花について触れるのが、これまでの経験から精一杯であるように思う。
 私は現在も「津軽富士・岩木山」という講座も受け持っているし、これまで「岩木山の花々」という講座を月2回、トータルで48回開講していた。また、「山野・路傍の花を愛でる」という講座を、これまた月2回開講して24回続けた。そのような経験から鑑みると、3ヶ月で多くても40種類程度しか「訪ねる」ことは出来ないだろう。おおざっぱに見積もると、2年半から3年間、あるいはそれ以上という長期にわたる講座になるかも知れない。

 毎週木曜日を原則として、3ヶ月間のトータル回数が10回になるように開講するようだ。時間は午後1時30分から3時までである。
 次に1月から3月までの開講日を掲示しよう。 

 1月: 15日、22日、29日   2月: 5日、12日、19日、26日
 3月: 5日、12日、19日

 1月という「花の咲いていない時季」からの開講ということで、直裁的に「花を訪ねる」のでは違和感を免れないだろう。そこで、この1月と2月は、冬の岩木山の山麓や山腹の林内に見られる「木の実」や「草の実」を訪ねる形で、この「木の実」や「草の実」はどのような花を咲かせるのだろうという視点で、講座内容を構築したい。または枯れた花がそのまま残っているものも寒空の中では映えるものだ。そのようなことにも触れながら進めたい。
 たとえば、前者は「ヤドリギ」や「ツルウメモドキ」、それに「ヒメアオキ」「ヒメモチ」や「マイヅルソウ」などであり、後者は「ノリウツギ」や「ヌルデ」などである。
 また、「ハンノキ」や「カンバ類」の雄花は冬のうちから花を垂れ下げている。そのようなものにも目を向けていきたい。
 3月は初春の4月から5月の上旬に咲き出す花を中心に学習したい。
そして、4月以降の開花期には月に一度は野外「岩木山」に出かけて実際の花々を観察したいと考えている。座講だけでなく「野外観察」を重視したいのである。
 これも、10月までは十分可能である。季節の推移に伴って変化していく花々の生態的な実情を「自分の目」で観察することで、「座講」で得た知識や技量が真に生きてくるということを「受講生」に実感してもらえるだろうと確信している。
 この「野外観察」を実施する日は午後ではなく、午前9時過ぎに文化センターを「貸し切り自動車(マイクロバス)」で出発して、現地で昼食を挟んで観察と散策をして午後の2時ごろには帰ってくるという設定で行う予定である。マイクロバスは受講料とは別に収めることになる。
 「野の花は野にありて」を大切にしたいのである。野外観察時に「観察・散策」する歩行距離は2km前後である。歩くことに不自由さを感じている人でも、決して「歩けない」距離ではないだろう。座講で学んだことを参考にして、受講生が自ら観察することに重点を置くのである。ある受講生の「発見」を他の受講生が「共有」しながら、観察の幅を広げ、深めていくということが理想である。
 いろいろな体験している受講生がいるだろう。その体験談に耳を傾けながら、自分の体験を語るということが「座講」でも「野外観察」でも生かされるように配慮するつもりである。
 座講では毎回A4判カラープリント2枚程度を配布する。これには、その時間に「訪ねる(学習する)」花々のカラー写真と解説が印刷されている。
 それを中心にオーバーヘッドプロジェクターで画像を「映し」ながら、進めていく。(明日に続く)

Tさんが写した追子森下部からの岩木山 / 祝日「新嘗祭(勤労感謝の日)」考

2008-11-25 05:32:27 | Weblog
(今日の写真は、昨日、岩木山追子森尾根を登ったTさんが写したものだ。1枚目は12時59分に「無事下山しました。11時に目的地点に到着しました」というコメントと一緒に携帯電話からのメールで送られてきた。この写真は午後3時過ぎにホームのコンピュータから送られてきた3枚の内の1枚である。
 写真の説明をしよう。断っておくがこれは「白黒写真」ではない。カラー写真なのだ。初冬の鉛色の空が、明るいトーンを消去して「モノクローム(単色画、単彩画。白黒の写真や映画)」の世界を演出しているのだ。
 左側奥の山稜は大鳴沢右岸尾根である。その中の左の山を地元の人は烏帽子岳と呼んでいる。
 その手前「前景」は山頂に連なる稜線である。その稜線を下から辿って見える山が西法寺森であり、その上部が西法寺平である。直下は大白沢の源頭で、旧い爆裂火口だ。
 Tさんは大白沢左岸尾根の稜線に沿った追子森下部の鞍部から、この写真を撮ったのである。まだまだ、山は「初冬」だ。真冬、厳冬期になるとここから見えている稜線に沿った「黒っぽい」もの以外はすべて「真っ白」になってしまうのだ。この「黒っぽい」ものはコメツガだ。
 晴れていると、この場所からは、右側上に山頂が見えるのだが、昨日は見えなかったと、Tさんはコメントしている。)

        ◆◆ 祝日「新嘗祭(勤労感謝の日)」を考える ◆◆

 今月の23日は国民の「祝日」である。「勤労感謝の日」とされているが、本来は「秋の恵みに感謝する新嘗(にいなめ)祭」であった。「…であった」と書いたのは、この「秋の恵みに感謝する」という「国民的な祈り」が戦後どんどん希薄になり、昨今では日本人の心情からは完全に消え果てているかのように見えるからである。
 それは、そうだろう。日本人は自分たちが食べる穀類、野菜、果実などを自給出来ない状態になっているからである。自分たちが食べるものを自分たちで栽培するという「自然的な事実」があってこそ「自然が恵んでくれるものに対する感謝」の気持ちも生まれるのだ。
 だが、「日本」の政府は「自国民が食べる穀類、野菜、果実などを自給しない」という方向で舵取りをし、「工業優先」「工業生産品目の輸出優先」でずっと走ってきた。つまり、それは「農業」の切り捨てであり、「棄農する人の増加」であり、「棄農地の拡大」でもあった。
 「農地」は宅地となり、「農地」を捨てた農民は都市部に集中し、「工業生産労働者」や「サービス業労働者」となった。「農業人口」はどんどんと減り、「農民」は年ごとに減少し、自分たちが食べる穀類、野菜、果実などを栽培しない国民の割合が拡大していったのである。
 その結果が「自給率30数パーセント」という、いわば「死に体」同然の「国」となったのである。どこかの「国」に助けられないと生きていけない国に「堕した」のである。これが「大国」か。政府与党はこの現実を知ろうともしないし、仮に知っていても「自給自足」に向けた政策をとろうともしない。
 2兆円を使い国民一律に12.000円をばらまく前に、この「死に体」的な国を「農業主義」的な「国家」とするための政策を考え、即刻、実施するべきだろう。
 「自給自足」という行為のない国が「新嘗祭」の意義的な伝統を持つこの日を「祝日」と制定していることが、どれほどの矛盾を抱えていることなのかについて、私たち国民は今は冷徹に再考すべきだろう。
 「輸入食品」に頼った生活からの反省を、国民に「厳しく」迫ったものが「メタミドホス混入」の餃子事件であろう。また、農業政策の要として機能していない農水省に同様の視点で激しく迫ったものが「輸入米」問題なのだろう。

 話しが脇道に逸れたが、私は40数年前から岩木山とつきあっている。毎年11月23日には岩木山に登ってきた。1年も欠かしたことはないだろう。だが、今年初めて「帯状疱疹」に罹患したために23日には行けなかったし、Tさんから誘われた昨日の山行にも行けなかった。非常に悔しい。何だか自分史に汚点を残してしまったような気分なのだ。
 昨年はTさんと一緒に、「11月23日」に、この「松代登山道尾根」を登った。だが、その日は、その数十年に渡る「11月23日」登山での体験とは明らかに違っていた。その違いは「異常」なほどに多くて深い「新雪」であったということである。私はこのような雪をこの時季に「体験」したことはなかったのである。
 松代登山口近くの標高は600mほどだ。樹高が2m近くまでになるヒメモチが雪面すれすれに、実を見せていた。積雪は1.5mを越えていた。まだ、11月23日だというのにである。大変な「積雪」であった。
 さて、今年はどうだったのであろうか。次にTさんの写真に添付されていたコメントを「概略」で紹介しよう。

 …(途中)シールの留め金が千切れてなくなるというトラブルが発生した。応急処置をして無事下山できた。目的地「大白沢左岸稜線」まで行ってきた。途中シールの留め金部分、無事だった片方も、ゴムの劣化でとれてしまった。紐でゆわえて処置は万全。
 雪は結構(積もって)降っており、しかもこの数日の天候で、幾分しまっていたため、歩く「登行」は楽だった。ただし、スキーを外して休むと、たちまち「腰まで抜かるような状態」で、スキーを持って行ったことは正解。
 追子森側の斜面には取り付かず、そのまままっすぐ登って、断崖まで出て戻ってきた。山頂は残念ながら見えなかったが、海岸線が望めて、絶景を楽しむことが出来た。…

 昨年と同じように「積雪」は多かったようだ。やはり、異常気象は今年も続いているのだ。

今日の写真は「リョウメンシダ」の裏だ / 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その3)

2008-11-24 05:37:58 | Weblog
(今日の写真は昨日の写真に似ているだろう。似ているのが当然なのだ。昨日のものは「表」だが、これはオシダ科カナワラビ属の常緑多年草「リョウメンシダ(両面羊歯)」の「裏」である。カメラの方に先端を垂れ下げて生えていた同じ個体を裏返しにして撮ったものである。
 昨日の写真とこれを見比べてみると、その似ていることが一目瞭然だろう。本当に「裏も表もない」のである。)

       ◆◆「裏表のない人」について考える ◆◆

 地上に存在するもので限りなく「高さ(厚さ)」がゼロに近づくと、それは「地面」にべったりと張り付いた形状になるだろう。当然、限りなく薄くなるのだから側面(側高)も存在しないことになるだろう。
 つまり、「縦」「横」「高さ」というものの「縦」と「高さ」が消失するということだ。現実的にはあり得ないことだが、この「縦と高さ」が消失した時に「表も裏も同じ」になるのではないだろうか。
 だが、実際にこの「リョウメンシダ」の葉に触ってみると、分厚くはないが「厚み」がある。その意味では「裏と表」が確実に存在しているのだ。

 「高さ(厚さ)」がないと「表裏」は存在しない。これを人間の「表裏のある人」という意味に則して考えてみよう。
 「あの人は厚みのある人だ」という場合、この「厚み」とは「度量が広い」とか「包容力がある」という意味になる。おおむねいい「意味」で使われることが多い。しかも、そこには「裏表のない人」という意味合いも付加されることもある。
 しかし、もう少しつっこんで考えると「度量が広く包容力がある」ことと「裏表のないこと」との間には矛盾が生ずる。
 「度量が広く包容力がある」以上、色々と違った多種多様で、多質な意見にも耳を傾け、聞き入れることになるだろう。つまり、「縦、横、高さ」を包括した許容が存在するはずなのである。そして、結果として、その人の行動はその規制から「裏表のある」ものになるはずではないか。

 私は昨日のブログで…
 『私たちの社会には、「表と裏ではまったく違う人」が非常に多い。「裏表のない人」にはなかなか会えない。この「リョウメンシダ」のような正直な人間が一人でも多くなることを願わずにはいられない。』と書いた。
 それでは人間社会で何が人に「裏表ある行動」をとらせるのだろう。それは「裏と表」を実体として形成する「高さ(厚さ)」である。
 私はこれを、「権威」や「権力」、それに加えて「財力」「資金力」「知力」などであると思っている。これらと無縁に近いか、あるいは「持たない」人たちには「裏も表」ない。常に「一面」でしかいられないからである。人は「力」を持つほどに二十面相に近づくものだ。

 ところで、葉は常に「両面」を持っているだろう。すべての葉は、みな両面を持つ。それなのにこの「シダ」に限ってわざわざ「両面」と断ることはおかしくはないか。
 名付けた人には失礼なことだろうが「別名」を考えて欲しいものだ。もしも、あなたが「この名付け方はおかしい」と思ってはいるが、植物学者という「権威」にしがみついて、「改名」することに消極的だとしたら、それこそ「表裏のある人」ということになるだろう。
   
      ◆◆ 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その3) ◆◆

 (承前)
 昨日、『「帯状疱疹」のウイルスは、身体の中の神経節に隠れていて、ストレスや疲れや風邪、加齢などで免疫力や抵抗力が落ちた時に、再度増殖(再活性化)を始め、神経を伝わって皮膚や各器官に現れるのである。』と書いた。

 発症した原因は「ストレス」であるとK眼科医も言った。となれば「ストレス」を生じさせたものは何だったのだろう。
 15日の早朝に「自覚症状」があったのだから、「ストレス」は前夜の「出版記念の集い」までに、溜まりに貯まっていた「何か」かも知れない。少なくとも「出版記念の集い」そのものか、それに関わる何かが「ストレス」になっていたのではないだろうか。
 傍目からすれば「出版記念の集い」は著者にとって、「嬉しく、楽しく、光栄なもの」であるはずと映っているだろう。しかし、当の本人にとっては「ストレス」になることもあるのだろう。不思議なことだ。

 22日の晩にTさんから次のようなメールが届いた。ただし、開いたのは23日の早朝である。

…『最近大雪となり、岩木山も雪山シーズンが到来となりました。雪山のトレーニングもかねて、去年「かんじき」で難儀した追子森のルートの勉強に行ってこようかと思っています。11月24日月曜日に行こうかと思っております。
 今回はスキーを用いて、追子森のピークに向かう尾根に取り付く手前まで(絶壁のところまで)、様子見に行ってこようと思っておりますが、許可していただけますでしょうか。
 途中の道筋が今ひとつピンと来ていないので、一度行ってみなければと思っていました。今回チャレンジしてみたいと思っています。
 もしも、三浦さんの日程が空いていて、同行していただけるということが可能ならばそれはもう最高です。しかし、明後日の話ですので、そういうことは99%期待しておりません。
 一人で行くと言うことを前提に、留意点などをご教示くだされば幸いです。』

 これに対して次のような意味合いの返信をした。
 …「帯状疱疹」で、ここ数日間は激しい運動は避けなければいけない。一緒に山に出かけることを楽しみにしていたので非常に残念。昨年は23日に、あのコースを登ったのだ。新雪雪崩に特別注意して欲しい。急な斜面やその下部には近寄らないで欲しい。早めに出かけて早めに帰って来ることに留意すること。
 冬山装備で何か必要なものはないか。もしも、不足しているものがあったら今日にでも取りに来ること。携帯用小型スコップなどは単独山行では何かの時に、必要だと思う。スキーはまだ藪や下枝に阻まれて使えないだろう。…

 Tさんは今日、一人で岩木山追子森尾根を登っている。

「リョウメンシダ」とはおもしろい名前だ / 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その2)

2008-11-23 05:38:49 | Weblog
(今日の写真はオシダ科カナワラビ属の常緑多年草「リョウメンシダ(両面羊歯)」の表である。16日に平沢の河畔林脇で写したものだ。ちょうど50cmの高さだったので、まだ一部を積雪の上に出しているはずである。新雪の白さに、この「常緑の葉」はきっと瑞々しく映えていることだろう。)

 私はこの「リョウメンシダ」については先月26日までは知らなかった。先月26日の野外観察の時に、阿部会長が教えてくれたのである。それまで、目には留めてはいたが「シダ類には我関せず」を決め込んで「観察」などしなかったのである。
 ところが、「リョウメンシダ」という名前が、私に強く関心を起こさせたのだ。だから、今月の16日の野外観察でも、痛みがあり「見えづらい」目にむち打って真剣に探し、この写真を写したのである。
「リョウメンシダ」は全国の丘陵地帯から山に生育している。陰湿地や渓流沿い、沢沿いなど水気の多い場所に生えている。先月は石切沢の周辺で、16日には平沢河畔林の縁で出会っている。
 胞子から育ち始めるシダ植物は、攪乱のない安定した森林の中では定着しにくいものらしい。だからであろうか、植林地など伐採作業によって表層土壌が攪乱されやすい場所、上流からの土壌が堆積して新しく出来る裸地のような場所に侵入して定着するのである。
 一般的にシダ類は葉の縁や葉裏に胞子嚢を付けるものだ。この胞子嚢から胞子を出して「花も種もなく増える」のでヨーロッパでは古くから「魔法の草」と呼ばれていたそうである。
 また、日本では「常緑で良く茂ること」から繁栄と長寿の象徴として正月の飾りものとして使用されてきたのである。
 私が興味を引かれた名前の由来であるが、この「リョウメンシダ」には葉の裏に「胞子嚢」がついていないので、葉の「表」と「裏」の質感が非常に似ていて、区別がつきにくいこと、つまり「表から見ても裏から見ても同じように見えること」による。名付けて漢字書きでは「両面羊歯」である。

 私たちの社会には、「表と裏ではまったく違う人」が非常に多い。「裏表のない人」にはなかなか会えない。この「リョウメンシダ」のような正直な人間が一人でも多くなることを願わずにはいられない。

 このシダは覚えてしまうと、シダ類の中でも、見分けることが簡単な種類である。鱗片や胞子嚢の様子を観察・学習すると興味も湧くのではないだろうか。
 何という見事な葉の「小さな羽片」であることよ。それに色がいい。

       ◆◆ 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その2) ◆◆

 (承前)
 一昨日、2度目の診察を受けた。点眼薬が1種だけ変わった。一昨日までの1週間は「書くこと」にとっては「苦痛」の何者でもなかった。右目の痛みは消えたが「目全体が腫れぼったく重い」感じは消えず、使い物にならない。
 視力の低い「左目」だけが頼りである。よく見えないことと焦点距離感がないのには苦労した。16日から昨日22日までのブログはそんな状態の中で書き続けたものである。
 「毎日何事かを続ける」ということは「身体的にも精神的にも健康が保持される」ということを前提としているということを嫌と言うほど思い知らされた1週間であった。

 「帯状疱疹(帯状ヘルペス)」にはいろいろな体の部位や器官に発症するものがあるらしい。「帯状疱疹」は全身どこにでも発生するが、目の回りや耳の回りに出ると、角膜を侵したり聴覚・顔面神経に障害を残す場合があるので、眼科や耳鼻咽喉科の診察が必要となることもある。
 俗に「ヘルペス」として知られている。また、「ツヅラゴ」と呼ばれて、神経に沿ってウイルスが「活動」するので「激痛」を伴う感染症であると言われている。
 「感染症」というが別に不潔とか他人から感染するということではなく、本来、人の体内には「帯状疱疹」のウイルスが棲みついていて、時に発症するのだそうである。ウイルスが潜伏している状態自体には害はないのである。
 つまり、こういうことであるらしい。ウイルスは、身体の中の神経節に隠れていて、ストレスや疲れや風邪、加齢などで免疫力や抵抗力が落ちた時に、再度増殖(再活性化)を始め、神経を伝わって皮膚や各器官に現れるのである。
 「帯状疱疹」の多くが痛みを伴うのは、ウイルスが神経を伝わって現れてくるからである。私の場合は、それが「右目」に発症したのである。私の右目は「ツヅラゴ」に罹ったのである。

 私は数年前に、左目が「黄斑変性症」になり、人生で初めて「手術と入院」を体験した。そして、視力がそれまでの半分以下に落ちてしまっていた。
 これは視力が低下するだけでなく、私の場合は「見るもの」が歪み、横の直線が下に向かって湾曲して見えたり、加えて「緑色」がくすんで灰色がかって見えるようになった。
 「黄斑変性症」は、「黄斑部」に異常(私の場合は出血した)が起こり、視野や視力が障害される病気だ。「黄斑部」とは、網膜の中心にあり、視細胞が高密度で集中していて、黄褐色をしている部分のことだ。これが視野の中央に見える像を識別する部分で、「物を見る」うえでは、最重要な機能を持っているのである。「黄斑変性症」をそのまま放置していると、失明してしまうこともある。
 こういう訳で日常的に、私の「視力」を支えていたのは、命の綱は「右目」であった。
 その「命の綱」が「帯状疱疹」となったのである。まさに、「命取り」に近い日々が続いていたのだ。一般的には高齢ほど悪化しやすく、治癒が遅れるそうである。完治にはまだまだ時間がかかりそうだ。
 この「帯状疱疹」で最も困る症状は、痛みである。皮膚に発症した場合は、下着の摩擦だけでもびりびりとした「肌を掻き毟り、皮膚を剥くような激しい痛み」に悩まされることがあると言われている。
 また、症状が治っても、なお数ヶ月、「ヘルペス後神経痛」として鈍痛が続く場合もあるというから、私の場合も、これからまだまだ「右目」の鈍痛には悩まされるのかも知れない。鈍痛くらいは我慢も出来るが、この「霞み状態」からは早く解放されたいものだ。両眼ともに、疲れてしようがないからである。
(これだけ書くのに、今朝も数時間を要した。早く回復してくれることを切に望んでいる。)

あの「ナメコ」はどうなった / 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症

2008-11-22 05:47:16 | Weblog
 (今日の写真は「ナメコ」である。20日あたりから降り続いている雪を見ながら、どうもこの「ナメコ」のことが気になってしようがない。今朝も外は3cmほど雪が積もっていた。朝5時20分頃のことである。気温は0.5℃と氷点下に近い。
 この「ナメコ」の写真は11日にミズナラ林下で見つけて写したものだ。「ナメコ」は雪が降ってからでも「採取」が可能で、味も落ちずに、初冬の「山の味覚」と珍重されると友人のTKさんから聞いたことがある。)

      ◆◆ この「ナメコ」はどうなったのだろう ◆◆

 私が「気にしている」ことは「その後どうなったか」という漠然とした思いであり、決して、その珍重な「山の味覚」を採取して、食したいということではない。
 具体的に言うと「積雪の下でどうなっているのかを確かめたい」ということなのだ。だが、その場に出かけて行って「雪の下」にそれを探すことは不可能だ。あの広いミズナラ林下に、たった「これ」しか生えていなかったからである。
 まるで、太平洋に落とした金貨1枚を探すようなもので、最初から徒労に終わることは目に見えている。
 だから、「雪の下のナメコ」の状態を詳しく観察するためにはTKさんに連れられて、TKさんがこの時期でも「ナメコ」を採取する他の「ミズナラ林」に行くのが一番いい。
 私は想像する。この「写真のナメコ」は雪の下で「土」に返るだろう。林下の土壌には、「人の足形」という狭い範囲に視認出来る「生き物」が1000個体以上いるそうだ。
 私たちの目では確認出来ない微生物を含めると、数限りない無数の生物が、その狭い範囲を「宇宙」として存在していることになる。
 きっと、この「ナメコ」は、そのうちに「分解」して、それら微生物の生命維持の「食糧」になるのであろう。
 これが共生というものだ。自然の循環というものだ。果たして私たちは、この「自然の循環」というプロセスの中で、生物的な共生的な役割をしているだろうか。何もしていないとすれば、この地球上の自然で生きていく資格も権利もないのである。

       ◆◆ 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その1) ◆◆

 14日「岩木山・花の山旅」出版記念の集いが、多くの人たちの暖かい気持ちと協力によって成功裏に終わった。翌日15日には朝5時に起床した。
 そしたら、突然「右目」に激しい痛みが走り、涙が出て止まらないのだ。痛くて目を開けていることが出来ない。無理に開けて見たが「霞んで」よく見えない。もとより「左目」の視力は後述する理由から低い。
 このブログを書き始めたが「右目」は針で突き刺されるような痛みが続き、目を開けても殆ど見えない状態だ。右目をつぶり、視力の低い「左目」だけでの「原稿書き(モニター画面を覗きながらキーイングをすること)」が続いた。
 その「痛み」と「不自由さ」から、なかなか新規のものを書くことが出来ずに、手を抜いたことが、その日のブログ『月刊「弘前」特集記事について / 岩木山・花の山旅 出版記念の集い』によく現れている。 
 『月刊「弘前」特集記事を見た方からのメール』も引用コピーだったし、『「カラーガイド 岩木山・花の山旅」出版記念の集い』の次第も引用コピーなのである。
物理的に何とか手抜きをしてようやく書き終えることが出来たのだ。

 我が家の近くにはK眼科医院がある。土曜日であるが電話で確認したら9時から診察するとのことだ。
 9時近くまで痛みと涙と戦いながら、診察時間前にK眼科医院に行った。幸い、大した待ち時間もなく診察を受けることが出来た。
 眼科医は診察をすると直ぐに「これは目のツヅラゴですね。ヘルプス、帯状疱疹です。痛いでしょう。」と言った。
 私は奇しくも目の「帯状疱疹」に罹っていたのである。そして、「眼帯」をすることを厳命されたのである。薬局で3種の薬(1種は軟膏薬)を受け取って帰ってきた。
 何かの拍子で「右目」上の額に触ろうものなら、そこでもぎりぎりするような痛みが走る。早速、薬を、それぞれ5分間隔で、「点眼」した。1日に4回続け。結構煩わしいことだが「痛み」と「不自由」からの解放を考えると苦にはならなかった。
 その日の午後に、翌日16日に実施するNHK弘前文化センター講座の野外観察に同行するSさんがやって来た。眼帯を外す暇もなく、Sさんにはその姿を見られ「帯状疱疹」であることの説明もしなければいけなかったのだ。Sさんには、この事実を口外しないように頼んだのである。
 私は自分が「帯状疱疹」に罹患していることを隠したかったのである。特に、NHK弘前文化センター講座の受講者には隠し通す覚悟でいた。ただ、ただ心配をかけたくなかったのだ。受講者にとって「心配事のない」楽しい「野外観察」であって欲しかったのである。
 その日、何回か「点眼」を繰り返している内に、「霞み」は同じだが、「激痛」は「鈍痛」に変化してきた。我慢の出来る痛みに変わってきたのである。16日当日、私はサングラスに「眼帯なし」で出かけた。一緒に行って講師をしてくれた阿部会長も私が「帯状疱疹(帯状ヘルペス)」に罹患していたことは知らない。今日のこのブログでSさん以外は初めて知ることになるだろう。(明日に続く。)

紅葉(木の葉落ちる)のこと / 渡り鳥、餌付けの自粛ということについて

2008-11-21 05:39:58 | Weblog
(今日の写真も弘前公園の紅葉だ。東内門を東門に向けて出た直ぐのところで撮ったものだ。なんという色彩だろう。ツートーンカラーだ。梢に近い上部がうっすらとした紅色、その下部が全体的に黄葉である。
 その背景として上部の高木で常緑の赤松、左に見えるのが、蒼く錆びた瓦屋根と荒びた漆喰の壁、木目の浮き出た部材からなる東内門だ。古色蒼然の世界が、この紅葉の背後と脇に侍(はべ)っているのである。
 それにしても、何という微妙な色彩ではないか。サイケデリックな紅と黄色の取り合わせは現代絵画の色調を超えている。まさに「画素数」を誇るデジタルカメラの世界であり、コンピュータグラフイックが造り出す「色彩」に匹敵する。
 古色蒼然たる歴史の重みと科学を駆使する現代とが、そこには同居しているのだ。
 しかし、不思議だ。この梢の辺りを染める紅色とそれ以外の黄葉の違いは何なのだろう。この「紅葉」は同じ一本の木なのである。
 弘前公園は、まさに「桜のみ見るものかは」である。「天守閣や壕だけを楽しむものかは」である。公園には「自然」がいっぱいなのだ。それだけで、「自然公園」としての価値も内在している。
 「入場料」を払って「見る」場所ほど、この「自然を楽しむ要素」や「自然度にあふれた要素」が欠けているのである。)

■これらの落ち葉(木の葉)を見て、私は吉田兼好の徒然草第百五十五段の一節を思い浮かべた。■

(承前)

 最後に「第百五十五段」の一部を記載する。
『…春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通い、秋はすなわち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まず、落ちて芽ぐむにはあらず、下より兆しつはるに耐へずして、落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとるついで甚だは早し。』
 簡単に現代語訳をしてみよう。
…「春が急に夏になるのではなく、春には夏の気配が潜んでいる」のである。「木の葉が落ちるのは、落ちてから芽生えるのではなく、内部から芽生えて成長するものがあり、それに耐えられなくて落ちるのである。葉が落ちる準備をしているから、待ち受けて交替する順序は非常に早い」となる。
 つまり、ある事からある事に急激に変化するのではない。まず、目に見えない「下」から現れてくるものがあり、今ある表面が剥がれ落ちるのであるということだろう。

(落ち葉は悲しく寂しいものだろうか。そうではない。これは新しい命の始まりなのだ。歓迎すべき「旅立ち」なのである。科学的な観察眼には頭が下がる。科学万能の現代人の中で、このように「落ち葉や枯れ葉」をとらえている人は決して多くはないはずである。
 シャンソンの「枯れ葉」にも哀調が漂う。栄枯盛衰の無常を響かせている。そのように聞こえてしようがない。しかし、その実、落ち葉はその葉柄の「元」に新しい「命」を宿しているのだ。その「命」を「胎児」にたとえると、「胎児」の足蹴りによって葉は枝から葉柄ごと突き落とされるのである。
 昨日は雪が20cmも積もった。雪の季節が始まった。これからが「樹木」の冬芽や「葉芽」の観察がよく出来る時季である。
 「木の葉の落つるも、まず、落ちて芽ぐむにはあらず、下より兆しつはるに耐へずして、落つるなり」と兼好法師が言うその実態を詳しく観察出来る季節の到来だ。弘前公園は春夏秋冬、いつでもテーマを持って「自然観察」の出来るまさに「自然公園」なのである。
 それなのに、「植物園」など、冬期間は閉鎖である。おかしな話しだ。)


       ■ 渡り鳥、餌付けの自粛ということについて ■

 毎日新聞電子版 2008年11月19日の「余録」は「渡り鳥餌付け自粛」であった。

 それには『「野の鳥は野に。鳥とは野鳥であるべし」とは野鳥研究家で歌人の中西悟堂の有名な言葉だ。それまで日本人にとっての鳥とは「食うか、籠(かご)に入れて飼うか」のいずれかだった。そこで「鳥籠を踏み潰(つぶ)し、野に出て自然のままの鳥を鑑賞する。それが本来の愛鳥である」と訴えたのが悟堂だ。「野鳥」という言葉そのものが悟堂の発案で、日本野鳥の会を創立した1934年当時は「のどり」と読む人が多かったという』とある。
 
 この中西悟堂の言葉の持つ真意、つまり、「人と鳥との間に自然な距離をおいた愛鳥」ということからすれば、「餌付け」は人間にとって「出来ること」ではあるが「してはならないこと」であろう。これは「野鳥」に限らず「猿」や「たぬき」に対する「餌付け」についても言えることである。
 ところが、残念ながら「渡り鳥餌付け自粛」ということは中西悟堂の言う「人と鳥との間に自然な距離をおいた愛鳥」という原点に立った「反省」からのものではなかったのだ。「観光資源にと餌付けに取り組んできた」地域や人たちが「餌付けの誤り」に気づいて「自粛」しようとしているのではなかったのだ。
 その理由はあくまでも、人間による「ご都合主義」である。それは「ハクチョウから強毒性鳥インフルエンザウイルスが見つかった」ということによるのだそうだ。ハクチョウなどの「飛来地も、水辺に人の立ち入りを禁じるロープを張る」ところも出ているという。
 これを後押ししているのが「多数の鳥を1カ所に集める餌付けは鳥相互の感染リスクを高める」という「専門家」の意見であり、一方では人々の「鳥は怖いという過剰反応」だそうだ。
 そのあおりで「ガンを観察する会に参加者が集まらず一部中止になった」ところもあるという。まさに、自分(人間)たちの鳥インフルエンザ対策としてのリスクだけを考えてのことである。そこには「餌付けの必要性」の有無についての議論はない。
 「余録」子は「餌付けの生態系への影響も含め、野鳥と人の間の程よい距離を改めて考えたい冬だ」と最後に言っている。
 真の野鳥の保護のためには、人間は「餌付け」をしてはいけない。

紅葉(木の葉落ちる)のこと / 講座「津軽富士・岩木山」の野外観察でのこと…(その3)

2008-11-20 05:43:30 | Weblog
(今日の写真は弘前公園東内門を出たところの紅葉だ。右が落ち葉のつもった土塁である。内濠の水面もすっかり「落ち葉」で覆われている。この内濠は左にさらにつながっている。そのつながった左側の壕には「敗荷」が無惨な姿をさらして枯れ果てたままで群落をなしている。この紅葉とはあまりの違いの趣に思わず息を飲む。「敗荷」とは枯れた蓮のことだ。)

 ■これらの落ち葉(木の葉)を見て、私は吉田兼好の徒然草第百五十五段の一節を思い浮かべた。そこで、今日は「木の葉」の記述を「徒然草」に訪ねてみたい。

 …まずは、「第十一段 神無月のころ」だ。
『…木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。』

(木の葉は秋の風情を形成する重大な要素である。庭の木の葉は、その庭の持ち主の心情までを語るのである)

 次は「第十四段 和歌こそなほをかしきものなれ」だ。
『 和歌こそなほをかしきものなれ。あやしの賤(しづ)山がつの所作(しわざ)も、いひ出づれば面白く、恐ろしき猪も、臥猪の床といへばやさしくなりぬ。  …のこる松さへ峯にさびしきといへる歌をぞいふなるは、誠に少しくだけたるすがたにもや見ゆらむ。
*〔新古今集:冬の來て山もあらはに木の葉ふり殘る松さへ峯にさびしき・祝部成仲の歌〕

(木の葉が散ってしまうと常緑の松でさえ寂しく見える。紅葉は松の緑をも映えさせるのである。その物事の価値はそれだけでは光るものではない。ドングリの背比べのような人材の中で、それらに選ばれた「日本の首相」など映えるわけはない。「生える」「栄える」というどの語にも当てはまるような気がする)

「第三十段 人の亡き跡ばかり悲しきはなし」
『人の亡き跡ばかり悲しきはなし。中陰の骸(から)はけうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ。そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。』
*中陰:死後の七々四十九日 *けうとき:人けのないさびしい

(積み重なり敷き詰められている木の葉は、ことさら亡き人のことを思い出させ、その寂しさ懐かしさを募らせるものである。枯れるとは「死に直結した」営為だからであろうか)

「第五十四段 御室にいみじき児のありけるを」
『御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、…紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそゝのかし出でにけり。
 うれしと思ひて、こゝかしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じにたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。』
 現代語訳は…『仁和寺の法親王の御所にすごくかわいい男の子の幼児がいた。なんとかして誘惑して一緒に遊びたいと思う坊主どもがいた。そこで、芸人かぶれの坊主をまるめこんで仲間にした。かわいいお弁当箱を特注して、汚れないように箱にしまい、丘の適当な場所に埋めて、紅葉をかぶせてさりげなくした。それから、寺へ戻って、幼児をそそのかして連れ出した。
 一緒に遊べて、あまりにも嬉しかったので、さんざん遊びまくった。さっきの苔むした所にみんなで並んで座って「すごく疲れたぞ」とか「誰か、紅葉を燃やして酒の燗をつけてくれないかな」とか「修行して、変な術が使えるお坊さんたち、ためしに祈ってみてよ」などと言って、弁当箱を埋めた木の根っこに向かって、数珠をすりすりして、物々しく両手で変な形を作ったりした。いくつか芸を披露して、木の葉をどけてみると、もぬけのからであった。』となる。 

(木の葉は子供、大人を問わず、遊びの重要な道具であった。現在の大人に枯れ葉と遊ぶという心境の持ち主は何人いるだろう。この寓話に込められた「必要以上に小細工すると、結果はこうなる」という教訓は現在でも脈々と息づいているように思う)(明日に続く。) 
 
    ●●講座「津軽富士・岩木山」の野外観察でのこと…●●

 16日実施の「野外観察」は帰路を平沢の右岸尾根に採った。平沢の右岸を降りるのではなく、右岸の尾根をジグザグに登って稜線に達してから、さらに横に下って柴柄沢へ続く林道に出たのである。
 このルートは最初から想定していたもので、受講者に配布したパンフレットのコース図にも朱書きで掲載されていた。
 受講者たちは「来た道」を戻ると考えていたようだ。右に逸れてミズナラ林に入ると、皆は一様に怪訝そうな表情を見せたのである。どうも、「私の後ろについて歩けばいい」と考えているようである。地図上のコースの確認もそこそこなのである。
 そのルートを通る狙いは2つあった。1つはこの「ミズナラ林」の斜面に「ナメコやムキタケ」を探すことであり、もう1つは初冬の山の風情を多面的に理解するということであった。
 前者の「キノコ」探しは、少ないだろうとの想定通りで「ムキタケ」を10枚程度しか採取出来なかった。とても全員で均等に分ける量ではない。そのような時には、案外簡単に「独り占め」という結果になるものだ。人の心理とはおもしろいものだ。ある程度の「量」が確保されると、そこに「収奪と競争」の原理が働くらしい。
 ミズナラの葉が敷き詰められている、定かでない山道を登り降りるということは、踏みつけられる枯れ葉の音やその感触、そして、枯れ葉特有の臭いなどを十分感得させてくれるものだった。

NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察でのこと…3題(その2)

2008-11-19 05:20:25 | Weblog
(今日の写真は岩木山のものではない。弘前公園のまさに楓の類の「紅葉」だ。
 17日に市役所まで行った帰りに公園を通って帰宅したが、その時見たのだ。これは南内門前の紅葉だ。あまりの見事さに、「写しておきたいなあ」との気持ちが強くなり、昨日自転車で出かけて撮ったものである。

 毎日新聞電子版「余録」に…「冬にずれ込む?紅葉狩り」という文章が10月18日に載った。それには「クマゼミの声しか聞こえない」「東京でナガサキアゲハを見た」「入学式が桜の散った後になった」「月見のススキの穂がない」「冬にヘビを見た」…など環境省に寄せられた温暖化の影響を疑わせる生き物の異常情報があった。
 昨年は11月13日に初めて里に雪が積もった。それから山では雪が降り積もり、11月23日は岩木山では大雪だった。…今朝窓から庭を覗いたら少しだが「雪が積もって」いる。昨年よりも6日遅い「初積雪」である。 
 「余録」の「冬にずれ込む?紅葉狩り」には…
『異変はちょうど列島を南下する紅葉前線にも及んでいる。民間気象会社の情報によると今秋の関東や関西の紅葉は例年より約1週間遅くなる見通しだが、目をむくのはより長期の変化だ。気象庁の観測ではこの約50年間でカエデの紅葉は全国平均で15日以上遅くなっているという。』とあった。
 …ところが、岩木山の「紅葉」は遅くはなっていなかった。むしろ、早く進んでいた。すでに10月中旬に岩木山山麓では紅葉の終わっている場所もあった。
 しかし、「里」の「紅葉」は気象庁が言うように遅れているのだろうか。弘前公園の「楓」類の「紅葉」は、まさに「絶頂期」である。
 今日は「雪をいただく紅葉や黄葉」を公園では見ることが出来るに違いない。)

 ●● 「柳の枯れ葉」から「柳と日本人との関わり」を探ろう(その2) ●●

(承前)

 私たちが日常使っている言葉の中に「柳」という語はどのくらいあるのだろうか。それを解き明かしていくと「柳と日本人との関わり」を探ることが可能ではないだろうか。多いほど「関わり」が多岐であり、広くて深いということになるのではないだろうか。
 葉の白っぽい特徴ある色彩を「襲(かさね)の色目」として「表は白、裏は青」という取り合わせを「やなぎがさね」などと平安時代から呼んでいたなど、その関わり方は非常に古いのだ。
次に「柳」という語を含む「語句」を挙げてみよう。
「柳色」「柳裏」「柳箙」「柳籠」「柳紙」「柳髪」「柳行李」「柳腰」「柳皺」「柳絞り」「柳代(ヤナギシロ)」「柳襷(ヤナギダスキ)」「柳蓼」「柳樽」「柳塔婆(ヤナギトウバ)」「柳の糸」「柳の営(いとなみ)」「柳の鬘」「柳の髪」「柳の酒」「柳の盤(ばん)」「柳の間」「柳の眉」「柳葉」「柳鮠(ヤナギバエ)」「柳筥(ヤナギバコ)」「柳箸」「柳刃庖丁」「柳虫鰈(やなぎむしかれい)」「柳藻」「柳蘭」「柳原」「柳散る」など多岐、多彩、多種に渡っている。

 「ヤナギ」というと「シダレヤナギ」のことを主に指すようである。「ことわざ」も同じで、萌葱色の新芽をたれ下げる「枝垂れ柳(シダレヤナギ)」がイメージとなって作られたものが多いようだ。中国の詩人「蘇東坡」の詩の影響もあるかも知れない。

 次に「柳」という語が用いられている「ことわざ」を挙げてみる。

 ・梅に鶯柳に燕(調和して風情のあること)・柳に風と受け流す・柳に蹴鞠「けまり」・柳に雪折れ無し・柳の下に何時も泥鰌「どじよう」は居ない・柳は緑花は紅・柳を折る・柳にあしらう・柳の糸(細くしなやかな女性的な枝のこと)・柳で暮らせ(気楽にゆったりと暮らせということ)・花屋の柳(入り口などにぼんやりとたっているものや人)・柳の眉(女性の美しい眉)…などである。

     ●● 天の配剤、自然は名工である…屹立する巨岩 ●●

 「平沢河畔林内に屹立する巨岩は上流から流され、運ばれてきたものである」と昨日書いた。今日はその「3つの岩」がどのような力学的な構成により、全体的に調和のとれた構造になっているかについて、もう少し詳しく見てみよう。

 「3つの岩」で構成されているので上流から「A、B、C」という風に記号的呼称としよう。この「巨岩」の裏側、つまり沢左岸から見ると「B」を主峰として、その左右に「C」と「A」を配した岩峰と擬することが出来る。まさに、「登攀」でもしたくなるような「垂直面」に近い岩肌を持つミニチュア「岩山」である。
 土石流のさなか、「C」が最初にここで停滞した。次に主峰となる「B」が「C」に乗り上げる形で停止した。それから間もなく「A」が流されてきて、「B」の底部にぶつかって停止した。まさに、微妙な「力」の均衡である。「均衡理論」の局地を見せている「流体」のなせる技である。
 このような「流体力学」の見せる「均衡」「バランス」と調和のとれた美が、土石流という流動体が完全になくなってしまった現在でも、持続しているのである。
 もちろん、吹き抜けていく風などの「抵抗」ではびくともしまい。それほどの「完璧な均衡」がこの「3つの岩」にはあるのだ。 これぞ、天の配剤、自然は名工である…。
 ただ、それは「3つの岩」であるからのことであって、これが「2つの岩」になった時は「3つの岩」は、ともに瓦解する。
 「A」が外れても「B」は倒れるだろう。また、「C」が少しずれても「B」は転倒するだろう。その時はいつか。大きな地震の時か。あの日本海中部沖地震でも倒壊はしなかったことを考えると、おそらく「厚い積雪による雪解け時の移動する力」によるずれが発生する時ではないかと私は考えるのだがどうだろう。 

NHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察でのこと…3題

2008-11-18 05:35:01 | Weblog
(今日の写真はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察で見たカミキリムシ科ハンノキカミキリの幼虫とハンノキの髄に沿って穿って食べた跡である。枯れたミズナラの葉の上にいるのが幼虫だ。)

       ●● ハンノキカミキリのこと ●●

 虫の名は幼虫がハンノキ(榛の木)を食べることによる。この写真のように、カミキリムシの幼虫は木材に穴を開けて、生木を弱らせ、枯れさせてしまうのである。
 だから、木材の商品価値を無くしたり、一方で、成虫は木や葉、または果実を食害するので、林業や農業ではカミキリムシは害虫の一つとされている。
 しかし、森全体という「視点」で眺めると、これらカミキリムシの幼虫は「増え過ぎる」樹木の「間引き」の役割をして「健全な自然の森林作り」に何役も担っているのである。人工林では害虫として扱われるが「自然林・天然林」では逆に「益虫」となるという事実を私たちは常々忘れるべきではない。
 これは北海道、利尻島、本州、伊豆諸島(大島、新島)、四国、九州から北方の千島列島、樺太に生息しているそうだ。
 寄生する樹木はヤマナラシやシラカバ、ヤシャブシ類にハンノキ類だそうである。成虫になると体長は15~22mmでほっそりとした小型のカミキリムシである。)

 さすが、同行して講師を務めた昆虫の「虫」本会会長の阿部さんの「蘊蓄」のなせる技である。観察や散策を続けながら進んでいったところ、会長が突然一人だけ遅れた。私たちの後ろについてこないのだ。
 私は観察会の時には、いつも「枝きり鋏」と小型の「鉈(なた)」、時にはそれらに加えて「鋸(のこ)」を腰に着けている。その日は鋸を持ってはいなかった。しかし、会長は持っている鋸である木を切っていたのである。それが遅れた理由だ。そして、切った木が今日の写真の「ハンノキ」なのである。
 私たちには見えないが、会長は目敏く「ハンノキカミキリ」の幼虫が潜り込んでいるハンノキを見つけて、その部分を20cmほどに切り出したのである。
 最後の堰堤に着いて、昼食をとり終えてから会長はその20cmの「丸太」を「枝きり鋏」を使い、写真のようにきれいに半分に「割いた」のである。それをザックの表に並べたのがこの写真なのだ。
 直径が3cm程度、長さが20cmというこの丸太には6匹の幼虫が「暮らしていた」。現在は11月半ば、春に幼虫が羽化するまで、このハンノキを中から「食い尽くす」のである。これでは、枯れてしまうしかあるまい。
 枯れた後の「日だまり」にはまた別の樹種が育っていくのだ。ちいさな「森林の更新」がこうして始まるのである。

     ●● 「柳の枯れ葉」から柳と日本人との関わりを探ろう ●●

 緩やかな沢水の流れには白っぽい柳の葉が何枚も沈んでいた。ある受講者が「魚のようだ」と言った。そこからみんなで「柳」という樹木やその葉が私たちの生活とどれだけ深い関わりを持ちながら歴史を育んできたかを考えることにした。
 そこで、導入部として『「柳の葉」という名前を持った魚がいます。北海道で獲れます。最近ではノルウヘイなどからも輸入されているようです。何でしょうか』と尋ねる。
 返答がない。そこで『「子持ち何とか」などと呼ばれてスーパーの鮮魚売り場で売られています。火にあぶって酒の肴にすると最高です』などと言いながらヒントを与える。 
 …誰かが恐る恐る小さな声で「シシャモですか」と答えた。
 そのとおりである。「柳葉魚」と書いて「シシャモ」と読む。元々はアイヌ語で、海産のキュウリウオ科で硬骨魚である。外形はワカサギに似ているが、全長は約15cmとワカサギよりはうんと大きい。アイヌの人が「シシャモ」と呼んでいたものに、その外形から「柳の葉」に似ているので「柳葉魚」という漢語を充てたのである。
 ヤナギ(柳・楊柳)は日本人にとって古来から馴染みの樹木だ。世界には北半球北部を中心に約400種があるそうで、日本には90種以上もあると言われている。
 代表的なものは、シダレヤナギ、コリヤナギ、カワヤナギなどで、私たちが沢水の中に見たものはカワヤナギやバッコヤナギ(別名ヤマネコヤナギ)の葉である。ヤマネコヤナギもネコヤナギも川辺に見かけるヤナギ科ヤナギ属の落葉低木だ。北海道南西部と近畿地方以北に見られる。早春、葉が出る前に芽鱗を脱いだばかりの花序は大きく銀白色に輝いてよく目立つ。
 万葉集にはネコヤナギを詠んだ歌は、数首あるが、いずれも、ネコヤナギとは言わず「かはやぎ」と詠まれている。
 花は尾状花序。雌雄異株で、雌雄花ともに花被はない。果実は成熟後2裂して、冠毛のある多数の種子を飛散させる。四月上旬、大きくなった雌花の穂には、ヒガラなどの野鳥が、穂の蜜腺に集まる虫を捕食するために集まるのだ。この穂は後に柳絮(リュウジョ)と呼ばれる綿毛となって飛びまがうのである。
 木材は器具および薪炭(しんたん)の材料となる。現在も全国的に、庭木または街路樹として植栽されていて、その馴染み度は非常に高い。
 拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の18ページで「ヤマネコヤナギ」を紹介しているが「ヤナギ」という名称の由来については説明がないので、この場を借りて「ヤナギ」の名称由来について簡単に触れておこう。
 ヤナギは元々「楊之木(ヨウノキ)」と呼ばれていたようである。「楊」の意はヤナギである。西洋やシベリヤのヤナギには今でもこの漢字を当てている。その「ヨウノキ」が転訛して「ヤナギ」となったものと考えるのが妥当だろう。
                             (明日に続く。)

      ●●天の配剤、自然は名工である…屹立する巨岩●●
                         (この稿も明日に続く。)

昨日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」の野外観察で平沢に行った

2008-11-17 05:26:54 | Weblog
(今日の写真も河畔林内の大岩だ。昨日講座受講者とその周りを一巡して見た。その時に写した1枚である。何と高さは人の4倍以上もある。優に6mは越えているだろう。その大きさとどうしてこのような巨岩がここに立っているのかという驚嘆と不思議に受講者たちはすっかり取り憑かれてしまったようであった。
 この巨岩を背景に記念撮影をしたのだが、この岩を入れて、しかも参加者全員を「収める」にはどうしても「横サイズ」では出来ず、「縦サイズ」で撮り込むしか出来なかった。その結果参加者たちの映像は小さく岩の大きさだけが際だつものになってしまった。
 心配した天気だが、予想したとおり「晴れる」ことは全くなかった。地方気象台が発表していた「寒くなる」ということもなく気温は15℃前後で推移した。防寒着で臨んだ受講者の数人は「暑さに耐えられず」上着を脱ぐ羽目になった。
 ブナ林内の斜面から染み出している流れには、何と「ヤマアカガエル(山赤蛙)」が元気に動いていた。水温もまだ高いのである。ふと、季節が1ヶ月遅れて移っていると今春に何かに書いたことを思い出して、妙に納得したのである。
 そのことは未だに「紅葉」している木々や草の多さにも現れていた。「コマユミ」や「イワガラミ」、それに「オカトラノオ」などである。
 雨は降ったのだが、それは降り続いた訳ではない。しかも、土砂降りでもない。時々、霧雨程度の雨であり、しかも「暖かい」雨であった。
 今年度の講座は「野外観察」を3月下旬から、月1回のペースで実施してきたが、9月まではすべて晴天に恵まれた。受講者の一人は冗談とも本音ともつかない「ああ、私の雨具は泣いている。ザックの中で泣いている。出番がないと泣いている」と言っていたぐらいである。先月10月26日は8ヶ月目にして初めて「雨」に当たったが、時々小雨というものだった。その時だけ雨具を着けたり、傘をさしたりで、何ら支障なく観察は出来たのである。昼食時には「キノコ汁」も振る舞われ、その頃には晴れ間も覗いた。
 昨日は、総じて曇りで時々霧雨、だが今年度最後の「快適な野外観察」が出来たと私は信じている。)
 
          ●●平沢河畔林内の巨岩再考●●

 今日の写真は平沢下流域のバッコヤナギを中心とした河畔林内にある大岩である。幅が200mほどある広い川原に屹立している巨岩だ。
 この岩が屹立している「構成」を説明しよう。これは上流から3つの岩によって、まとまった形で構成されている。一番上流にあるものは高さが2mほどだ。次が中心の巨岩である。そしてその下流に3mほどの岩が巨岩に接している。まさにこの最下流の岩が巨岩本体を下から支えているといっていい。
 このような構成は河畔林の左岸に回り込まないと観察されない。林道沿いから眺めるだけでは観察不能である。

 みんなで「どうしてここにこの巨岩があるのだろう」かを考えることにした。このようなことが「自然観察」では重要なことなのである。
 先ずは「この岩は最初からここに存在したものか」という視点で周囲を観察する。岩本体の観察だ。岩の表面は、先端部分以外はかなり「摩耗」していて「岩などの硬いものとぶつかり擦り減った」跡が確認された。
 河畔林には土石が堆積し、樹木も大きくなっているが「流下」してきた「無数の小さな岩」が見られる。
 以上の観察から、この巨岩は上流から流され、運ばれてきたものであるとの仮説的な結論を出すことにした。
 もう少し詳しくその3つの岩の構成を、流され運ばれてきたという「仮説」に立って見てみよう。
 3つの岩で構成されているので上流から「A、B、C」という風に記号的呼称としよう。
土石流である。先ずCの岩が流されてきた。Cの岩の下部には小さな岩が複雑に堆積している。つまり、Cの岩が最初にここで停滞したのだ。
 次にBの岩、つまり一番大きな「巨岩」であるが、これが流されてきて斜めにCの岩に乗り上げる形で停止した。その時の乗り上げた角度は垂直ではなく60~70度だったのではないだろうか。
 土石流は続いている。だが、このCとBの岩はそこで停止したのである。その後でAの岩が流されてきた。そして、垂直に近いが斜めにCの岩に乗り上げていたBの岩の底部にぶつかって、流下する他の土石のエネルギーを借りながら、Bの岩を垂直に屹立させたのである。いわば、「梃子の原理」と考えれば無理なことではないだろう。
 そこまで仮説が進むと今度は、「それはいつのことか」が問題になる。昔からここにこの巨岩があったとすれば、それは「巨石信仰」の対象になっていていいのである。しかし、その痕跡はまったくないのだ。
 そこは別に人跡未踏の「山奥」ではない。環状道路から直線で2kmほどの場所である。山菜採りや散策をする人たちが結構入る場所である。昔から「ここ」には多くの人がやってきていたのだ。…だが、その昔には、この「巨岩」はなかったのである。
 それでは「いつ」この巨岩は上流から流されてきたのだろう。それを解く鍵は、そこから、300mほどの上流にある今から21年前の昭和62(1987)年竣工の「大きな堰堤」である。
 昭和50(1975)年8月6日未明に発生した百沢土石流は、22名の犠牲者を生んだ大災害だった。標高1460m地点で発生した土石流は、2号堰堤、1号床固工を突き破り、標高約500m地点でスキー場にさしかかり分岐し、蔵助沢を下り3号床固工も越えて突き進み、さらに下流の谷底、谷壁を一気に浸食して、百沢を直撃した。
 この時、岩木山の南東面から南面のすべての沢で「大規模、小規模の違い」はあったものの「土石流」が発生したのである。この「平沢」でも大規模な土石流が発生していたのである。
 堰堤はその事実を受けて、その後敷設されたのである。堰堤下流にあるこの「巨岩」は1975年の土石流の激しさや大きさを示す残滓や残骸であり、「モニュメント」でもあるだろう。

今日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」野外観察の日だ。平沢に行く。

2008-11-16 05:42:29 | Weblog
(今日の写真は平沢下流域のバッコヤナギを中心とした河畔林内にある大岩である。幅が200mほどある広い川原に屹立している巨岩だ。何と高さは人の4倍以上もある。優に6mは越えているだろう。登山道沿いにある巨岩には「姥石」とか「伯母石」という名前が付けられて、しめ縄が巡らされて「巨岩信仰」の対象とされているものがある。または「石神さま」と呼称されて崇められている場所もある。「石神さま」の「岩」は大きいが「単体」ではなく斜面に嵌め込まれたように立っているし、「姥石」の「岩」は単体ではあるが小さいものだ。
 それに引き替えこの写真の岩は単体ではあるが、途轍もなく大きい。しかも、単独で屹立している。だが、信仰的な対象物としての「痕跡」はまったくない。しめ縄も見られないし、そこまで行くための「道路(踏み痕)」もないのだ。人々との関わりを全く避けながら、ひたすら孤高に屹立している。
 この孤高の巨岩は夏緑の時季は、林道からは見えない。濃いバッコヤナギの葉っぱにすっかり覆い尽くされてしまうからである。見えるのはそれ以外の時季ということになる。
私がこの巨岩と初めて対面したのは3月の残雪期だった。その頃は雪面にマッターホルンのような鋭い頂上を思わせる岩頭を突き出していてよく見えるのだ。
 そして、5月の若葉、柳の綿毛が飛びまがう頃から秋の木の葉色づく頃までは、傍に近づかない限りは「見えない」巨岩となってしまうのである。ちょうど落ち葉の始まるこの時季からはっきりと見えるようになる。
 下見に一緒に行ったSさんは「初めての出会い」だといって感激していた。岩木山の山麓部から沢筋など、事細かく「歩いている」Sさんでも、初めての出会いがあるのかと不思議であり、少し驚いたものだ。)

 今日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」野外観察「初冬の岩木山」である。岩木山の平沢林道とその周辺で観察をする予定だ。
 コースとしては柴柄沢の右岸沿いに進み途中から柴柄沢の左岸を登り、平沢右岸尾根のミズナラ林の中を行って最後の堰堤まで行って帰ってくることになっている。

 主題は「初冬の平坦な沢の風情を楽しもう!」である。眺望が利くならば、岩木山は本当に見る場所によって、その姿を著しく変えるので、この変化も楽しめるかも知れない。
 このルートから見える山稜はなだらかな「台形」をなしている。その下部には深い切れ込みと岩稜性の地形が見える。この岩稜性の地形のことを「倉」と呼び、急峻な崖を意味している。
 左側が柴柄(しばから)沢だ。真っ正面が平沢の源頭である。岩木山は火山性造山運動によって爆裂火口を11も持っている「複合火山」だ。それに寄生火山を山麓部に持っている。

 平沢は、岩木山の南面に位置している。標高350mから550mにかけて緩やかな斜面が約2㎞続いている。幅も150mから200mほどあり、広い川原をなしている。
 しかし、標高700mから1200mにかけては斜度がきつくなる。この平沢を東西から挟むように爆裂火口を「谷頭」とする沢、つまり開析谷が流れ下っている。
 毒蛇沢や「荒川ノ倉」を持つ滝の沢と「柴柄ノ倉」を持つ柴柄沢などがそれである。
 堰堤からの帰りには柴柄沢に通じる道に出るつもりでいる。その途中の林内には水がわき出している場所が数カ所あるのだ。
 湧き出しているというと湧水(清水)を思い浮かべるかも知れないが、それらは「こんこんと湧き出している清水」ではない。まるで斜面から、地表から「染み出している」という状態なのだ。
 この染み出しは雨が降らなくても、いつでもそうなのである。量の少ない伏流水が「染み出して」いるものだろう。
 今日はこの「染み出す」伏流水の観察は難しい。何故ならば朝方、雨が降ったからである。これだと、どこもかしこも「濡れた」状態となってしまい「染み出している」場所が特定出来ないからである。
 あちこちから染み出した「水」は小さな流れとなり林道に集まり、林道を穿って流れ落ちている。その風情を発見し、楽しむことも今日は出来ないかも知れない。残念である。
 だが、楽しみは他にもある。時季は少し遅くなっているが、林内に生えているキノコ(ナメコとムキタケなど)探しとその採取である。
 だが、今日は受講者の中のキノコ採り名人Aさんが「欠席」するという連絡が入っている。Aさんがいないと採取する量がきっと少なくなるだろう。受講者みんなで分けたときに、それらは「微量」になってしまうかも知れない。
 何せ、私はキノコについては全くのド素人、分かるのはサモダシとナメコだけである。これまで、主体的に「キノコ狩り」などしたこともない。
 だが、心配は余りしていない。同行して現場での講師を務めてくれるSさんも、自分では否定しているが、私から見ると、それなりに「キノコ採り」の本因坊や棋聖に見えるのだ。
 今日の天気には期待できないかも知れない。せめて10時頃から3時間だけ、曇天でいいから降雨のないことを願う。