岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

2008年12月30日岩木山岳登山道今季は少雪か?

2008-12-31 05:28:45 | Weblog
(今日の写真は、昨日30日に撮った岩木山岳登山道沿いの積雪を示すものだ。実は私が撮影したものではない。ここ数年、同行山行をしているTさんが写したものだ。
 同行出来なかった事情は後述するが、まずはこの「写真」をじっくりと見てほしい。そして、次にこの「写真」から何が分かるかを考えてほしい。
 そこを考えてくれないことには、Tさんが何のために写したのかという意図が理解されない。そうなるとこの「画像」は無意味なものになってしまう。
 この場所はブナ林内の岳登山道である。ブナの幹の太さからかなり上部であることが分かる。それにしてもこの登山道の幅は広い。
 別に大げさではないが「日本一」広い登山道の「一部」と言ってもいいだろう。
 普通、登山道というと「人が一人」通れる幅があればいいものだ。だいたいどこの登山道でも、それが暗黙の了解事項であり、通念上の道幅である。
 ところがどうだ。ブナの幹の太さから類推すると、さて、この幅に人が横に何人 並ぶことが出来るだろう。それほどに広い。この広い「道」にも両側に立ち並んで生えている「ブナ」が生えていたのである。
 それを、まさに「きれい」に伐採をして「直線状」の道を開鑿し、拡幅したのである。人が一人通れる道であれば、ブナの間を縫ってでも歩けるのだ。決して「伐採」などする必要はなかったのである。
 この道の「広さと直線状」の理由は、この道を「スキー場のゲレンデ」と「スキー客を運ぶための雪上車運行道路」として使用していたことによる。
 雪上車利用のスキー場として開設運営したが、この企業は、この「無様な伐採跡」だけを残し、「自然の回復」に責任を持つこともなく、わずか15年で撤退してしまったのである。このようなことが堂々と行われるというのが「日本」という自由主義の国家なのである。自由とは無責任なことを指すと理解しているのに違いない。
 この「道路がなかったならば」ブナの美林という地位を「白神山地」に奪われることなど全くないと私は考えている。

 もう一つの注目点は「標識」である。ここから「昨日時」の「積雪」が判断出来るのである。「標識」の高さは1.5mである。そうすると積雪は70cmから90cm程度であると推定される。
 さて、この積雪量は例年に比して多いのか、少ないのか。見て分かるように「少ない」のである。だが、今季特有のことではない。
 この程度の積雪はこれまでも12月末にはたびたびあったことだ。だから、これをして直ぐに「地球温暖化」の具体的な例などと考えてはいけない。
 このような積雪量の時に、スキーにしろワカンにしろ、それらを使用して「登る」者にとっては、大きな難儀が待ちかまえている。それは雪に覆われた笹藪や雑木が「スキーやワカン」にからみついて、抜けなかったりして前進を阻むからだ。正直言って私はこのような「時季」には雪上を登りたくはない。
だが、冬の自然は「微妙」な違いを見せてくれる。昨日登ったTさんは、どうだったのだろう。)

 今月の初め頃にTさんから次のようなメールが届いた。

 『 年末に岩木山頂登山をしようと考えています。コースは前回山頂に登ったルート(2008年2月)をたどるつもりです。嶽からです。朝出て、鳳鳴小屋に一泊して朝登頂し戻ってくるという寸法です。スキーでリフト終点まで行き、そこからワカンで登ろうと思います。
 シュラフは冬山用を購入しようと思っていますが、購入するのは一番低温に耐えられるやつが良いのでしょうね。
 快適睡眠温度マイナス16度からとか、マイナス23度からのものがモンベルから出ています。それほどまでのものは必要ないものなのか。値段に相当の違いがありますので、アドバイスをお願いします。
 もう一つ相談は、道しるべに使う竹の棒を貸していただけないでしょうか。今日桶屋町の竹屋に行って相談したら、1月20日まで忙しくて対応できないと言われました。1月20日が過ぎたら改めて行くことを約束してきましたが、登山に間に合いません。
 今回はお貸し願えたら幸いです。あわせて、スコップも貸していただければうれしい。おいおいとそろえていくつもりですが、今回はこんなところでしょうか。T 』
 それに対して私は次のメールを送った。
 …申し訳ありませんが、私は次のように考えています。

1.正直言って、まだ単独行をするまでの経験はないと思います。
2.積雪状態は「常住」ではありません。特に年末は、これまで「年末寒波」と言われるくらいに「大荒れ」と「豪雪」になりますから、体力だけで「登山」はできません。せめて、今冬と来冬の冬山経験を踏んでから「単独行」に移行して下さい。
3.上記1.2の理由から私も同行させて下さい。体力的に心配ですが、今日から少し歩き込んで訓練をしたいと思っています。日程としては28日がNHKの講座なので29~30日がベターです。コースはTさんが考えているところで結構です。

 1.2のようなことを考えながら、「スコップ」や「送り竹」などを貸すことは「無責任」なことだと思いますので、それは出来ません。
 寝袋は「マイナス16℃」程度でいいでしょう。7、8000mの山に行く予定がないのでしたらそれで結構です。
 寒い時は薄手の夏山用の寝袋を併用すればいいと思います。私が持っています。
…何だかんだと書きましたが気を悪くしないで下さい。私の「本音の本音」は「一緒に行きたいということ」なのです。(来年に続く)

岩木山への想い-常盤野の日の出

2008-12-30 05:46:31 | Weblog
(今日の写真は岩木山の裾野から昇ってくる太陽である。弘前から見ると岩木山は西の方向にあるので、その位置関係から「岩木山から昇る」太陽を撮影することは不可能である。だが、「夕日」と「岩木山」は実に相性がよく、弘前在住の多くの「岩木山」を愛する人たちは「夕日と岩木山」という主題で写真を撮っている。
 本会が毎年実施している写真展「私の岩木山」にもこれを主題にした「写真」が必ず数点寄せられる。
 岩木山の裾野を含めた「山の端」や「山際」を前景として、「昇ってくる太陽」を撮影出来る場所は少ない。撮影者が高いところまで登ると撮影は可能だがそうなると「岩木山の全景」を写すことは不可能だ。写したにしろそれは「岩木山のきわめて一部分」を切り取ることにしかならない。
 しかも、今日の写真のように、ほぼ「岩木山の全景」を構図内に納めることの出来るスポットは限られている。
 そのようなスポットがどこにあるのか。登山道を中心に探してみよう。
 岩木山には百沢登山道、弥生登山道、赤倉登山道、長平登山道、松代登山道、岳登山道があるが、「太陽は東から昇る」という事実を考えると、「岩木山」の東に位置する登山道からは「岩木山のほぼ全景」を含んだ「日の出」の写真は撮影不能である。この原則的、位置的条件から「百沢登山道」と「弥生登山道」からは「今日」のような写真は「絶対」写せないことになる。
 この条件は岩木山の北東につけられている「赤倉登山道」にも当てはまる。季節と時間を選ぶと確かに、水無沢の対岸尾根状に昇る太陽を見ることが出来るかも知れないが、この登山道の位置からは、八甲田連山から昇る太陽の方が遙かによく見えるのだ。私はまだ、この登山道を登って、春夏秋冬どの季節でも、岩木山の「山の端や山際」を含んだ部分景を交えた「日の出」に出会ったことはない。
 長平登山道は北から南へと辿る道だ。この登山道からは東の山麓の端に「昇る」太陽を見ることは可能だろう。ただし、これも、登山道に入り、標高を500mも過ぎると不可能になる。
 かつての「長平登山道」は登山口が今の鰺ヶ沢町「長平」であった。ここからは…夏場は東の山麓のさらに東側に顔を出す太陽を、冬場は東の山麓の南側にやっと顔を出す太陽を見ることが出来るのだ。
 だが、現在は、登山口が標高550mまで「長平ゴルフ場」のために「押し上げられ」てしまい、登山口まで行ってしまうと、この登山道のどこからも「昇る太陽」を見ることは出来ない。
 「開発や経済優先」という思考が社会に優先していくと、そこに暮らす「住民」のささやかな経験や喜び、その地域が大切にした来た、その地域だけの「文化」めいたものが、知らないうちにどこかに押しやられてしまうのである。
 このようなことに出会うたびに、私は本当に日本という国は「民主主義」に国なのかなあと考えてしまうのである。本当の民主主義とは「多数決による横暴」を制度として規制するという力を内在していなければいけないものだ。その具体的なことが「少数意見を大切にする」というものだろう。
 さて、岩木山の西側に位置する松代登山道からはどうだろう。西に位置しているのだから、東から昇る太陽は完全に岩木山に「マスキング」されてしまって見えない。特に「登山口」では「真闇」に等しい。
 しかし、その登山口から北側に移動したところにある、7~80年前に「ブナ」を伐採して畑地として開墾した場所からは、夏場には北側の山麓の端から昇る太陽を見ることが出来るのである。もちろん「伐採」してあるからだ。
 登山道を登りはじめて、ブナ林帯を過ぎて「追子森」の山頂辺りまで来ると、岩木山の「山頂部」付近から昇ってくる太陽に出会うことが可能である。夏場は朝早い時間であり、見る見る間に「昇って」しまうから「登りの藪こぎ」に夢中になっていると「見過ごし」てしまうこともある。
 冬場は「山頂部」から昇ってくることはない。ずっと南側の赤沢対岸尾根上に顔を出す。しかも、朝、遅い時間でなければ標高1200mの「赤沢対岸尾根」上には顔を出してはくれない。
 高度も低く、仮に「追子森」山頂に長い時間留まって、観察するときっと、見ている人の目の「高さ」さをそれほど越えることのない「高度」で「太陽」は移動し、やや北の方向で夕日となるはずである。
 最後に岳登山道だ。この登山道はやや南西よりにつけられている。だから、夏場、冬場をとおして、標高1200m付近まで登ると「夕日」を見ることが出来る登山道でもある。
 私は34年連続して「年末岩木山登山」をした。若い時は百沢尾根を登って山頂に向かっていたが、50歳代にはこの岳登山道尾根を利用するようになっていた。
 岳温泉から登山道を登り始めて「ブナ」林帯に入る頃、運がよく「太陽が顔を出している」と背後から「日の光」を受けることがあった。それは、私の登っている位置よりも低いところの「太陽」からのものなのである。時間は朝の7時を少し過ぎた頃だ。「運がよく」ということは、年末には晴れることが非常に珍しいということである。晴れていないと「太陽」には会えない。
 
 この写真は初冬である。雪の少ない「冬至」よりも少し前の風景である。昇ってくる太陽の位置も同じ時間であるならば、冬至まではもう少し右に動くだろう。そして、夏には逆に、左側の岩木山本体の山の端、しかも高い位置に顔を出すのである。
 森羅万象、自然は私たちの関わり方次第で、様々な顔を見せてくれるものだ。自然を単純に、単調に楽しむだけでは物足りないと思うのだが、どうだろう。
 写真の前景は「湯段地区にあるミズバショウ沼」である。岩木山の格好も、弘前から見えるものとは「似ても似つかぬ」ものである。

岩木山への想い-6月のよく晴れた朝に

2008-12-29 05:47:04 | Weblog
(今日の岩木山はある年の6月に写したものだ。その日は夏が始まっているというのに気温が低かった。
 東の空は冷たい「山背」に覆われて、太陽が射し込まないから、気温が上がらないのである。それに加えて岩木山を中心とするエリアは晴れている。弱気「放射冷却」現象が起きて「気温」がさらに、低くなったその朝である。
 この場所はどこだろう。地図上では「杉山」地区である。旧高杉村の岩木山よりの上部だ。この辺りには写真のようなため池が多い。道路沿いに見ることが出来るものもかなりある。だが、「逆さ津軽富士」という絶景を眺めることが出来るのはこの場所が一番いいかも知れない。
 水面に漂う「淡い水蒸気」もいい。自動車のスピードでは見落としてしまうかも知れない。自動車で移動する人はその意味で「可哀想」である。自然の細かい動きや変化に気づかず「素通り」してしまうからである。
 「自動車」を運転する人や同乗する人ほど「足で野に出よ」である。

 水面の奥に見える山は地質学上、非常に古いものだ。海底火山から顔を出した「古(先)岩木山」が吹き上げた「破砕流」などが堰き止められて出来た山だという説もあるし、海底火山の大きなカルデラ壁(外輪山)だという説もある。
 前者のことを地元では「流山(ながれやま)」と呼んでいる。
そして、つい7~80年前までは「流山」の上部は「人の住んではいけない」場所とされていたのである。いつ、土石流が起こるか分からないからである。
 だが、現在はこの「流山」より上部がすっかり開発されて、民家あり、りんご園あり、各種施設が沢山あるのだ。

 ところで、最近の人たちは日常会話の中で、この「山背」のことを口することがあろうか。
 広辞苑では山背のことを「夏、北海道・東北地方の太平洋側に吹き寄せる東寄りの冷湿な風。稲作に悪影響を与える。凶作風。餓死風。」としてある。
 昔の人は「微気象」を含めて気象全般にわたって、肌で感ずるほどに敏感だった。温度計や気温計という視覚やデジタルで表示がされこともないから、自分の身体や触感を「気温計」にした。指から感ずる寒さ、鼻や耳で感ずる厳寒、衣服を通して感ずる寒さ、室内と外の寒さの違いや建造物の違いや地表からの高さの違いによる気温の異同などをすべて「実感」として計ったのだ。
 それに引き替え、現代はすべて計器である。実際に計器が示す目盛りや数値を見るだけではない。テレビはさらにいろいろと「粉飾」要素を付加して視覚で迫る。人間は「気象」を実感することから「排除」された空間で生きている。
 早く春がやって来ているはずなのに、「花が咲かない、芽が出ない」という事実を前にして、これは、「地球温暖化の所為だ」としたり顔で多くの人は言う。だが、「土の温度」にまでは考えが及ばない。それを「実感」しようともしないし、「実感」出来る場所に身を置かないからだ。

 地球温暖化は様々な顔を示す。しかし、大半の人間は愚かで「温暖化」だから「暑くなる」ことだろうと考えている。これまで以上に「暑くなる」場所もある。これまで以上に「暑くなる」時もある。だが、これまで以上に「寒く」なる時や場所が出てくるなどという「異常な気象」現象を伴うものでもあるのだ。
 最近、群馬県や埼玉県では、夏にこれまで経験したことがないほどの「暑い体験」をしている。そのことをニュースなどで知っても人々は「地球温暖化」ですからねとあっさりと、すべてを知っているかのように納得している。だが、これは「何も知らないこと」に等しい。

 あまり口にされない「山背(やませ)」について少し書こう。これは昨年のブログでも書いたことだが、文意を変えず、短くして再掲する。
 山背とは、夏に東北の太平洋側に吹き付ける冷たく湿った東風のことを言う。東北地方は、「山背の影響で江戸時代から、たびたび冷害にみまわれ、その都度「飢饉」が起きていた。2003年の大冷害も記憶に新しいところである。
 「山背」の原因はオホーツク海高気圧にある。オホーツク海は冬は流氷で覆われる。夏でも10℃以下ととても冷たい海域だ。オホーツク海高気圧は、その海の上で育つ高気圧なのでとても冷たい空気を持っている。その高気圧から吹き出す風が東北地方に「山背」をもたらすのだ。だから、「山背」が吹くと気温が低くなるのである。この寒冷な高気圧から吹き出す風は、三陸沖の太平洋上をわたって吹き込むので、「湿り」を補給して、どんよりとした曇り空になる。
 2003年には、この「山背」が1ヶ月以上続いて冷夏となった。東北管区気象台の発表によると「平年の7月下旬は梅雨明けの頃で最高気温も30℃近くまで上がるのだが、この年は最高気温が20℃に届かない日が続いた」。
 「山背」の雲の高さは、1500mくらいなので、それ以上の標高を持つ「山や山脈」を越えることが出来ない。東北地方のほぼ中央を縦断している脊梁山脈である「奥羽山脈」を越すことが出来ない。そのため、山形県や秋田県では「山背」の影響を受けにくく「晴れている」ことが多い。
 気温も太平洋側に比べると、「日照」時間が長く、高いのである。津軽地方もこれに当たり、八戸や三沢、十和田市などとは比較にならないほどの「好天」となる。
 「山背」は毎年発生している。ただ、北極の温暖化という異常気象によって、短期、長期間にわたるか、オホーツク海高気圧が持つ「寒気」の度合い強弱、雲の発生頻度とその厚さ、日照時間の長短、日照の強弱などによって、違いが出てくる。「農作物の生育への影響」はこれによって大きく作用される。
 長期にわたって山背が続いた場合、最悪の状態だと、その地域の農作物がまったく「稔らない」という壊滅的な結果になる。それは歴史が、天明の「飢饉」などという形で、如実に証左してくれていることである。
 「山背」は一度、発生すると、短いものでも1週間程度は続くことがある。

岩木山への想い-滝ノ沢 / 人の餌付けを考える(2)

2008-12-28 05:32:37 | Weblog
(今日の写真は百沢と岳の間にある「岩木山運動公園」から撮ったものだ。右奥の一番高い部分が山頂だ。真っ正面の尾根が鳥海山であり、その中腹部の逆三角形の大きな崖状の場所が滝ノ沢だ。
 前景は植林された杉と落葉松、それに「細い丸太」に支えられた「オオヤマザクラ」である。大きな岩も見えるが、これらはこの辺りを少し掘り起こすと、沢山出て来る。この周辺は溶岩性の岩の上に「火山灰」が堆積した地層になっているからなのである。)

 この運動公園は旧岩木町が造ったものだが、この規模のものを運営管理する費用と使用料収入では年々、経営赤字が膨らむ一方だろう。
 黒字になるためには春、夏、秋の3シーズンの利用稼働率が100%を越えなければならないはずである。だが、どう見てもそのようには見えない。カンコン鳥が鳴いているといってもいい。環状道路を走る自動車の運転者やその同乗者がトイレを使うために立ち寄る程度の使われ方なのである。
 自治体が運営する施設とそれを計画・建設することとは、本当に「能天気」な事態なのである。
 自治体の首長と議員たちはまったく「先が読めない」。
ここで新語、これを「SY」としよう。「先が読めない」ということでは、そこの「自治体」の職員も同じだ。首長や議会が決めたことを「唯々諾々(いいだくだく)と実行することが私の責務」などといったりするが、それでは専門的な事務方、機器方としての責務と仕事の放棄だろう。
 それとも本質的にその能力がないのだろうか。
 本物の「事務方、機器方」は首長や議会の意向をチェックし、誤りを訂正し「先を読んで」実行に移すか否かを決めるであろう。
 それにしても、このように厄介な「施設」を引き受けてまで、旧弘前市はどうして、岩木町を吸収して、つまり「傘下に治めてまで合併」したかったのであろうか。合併することで、それ以上の「メリット」を得るという確証があったからだろうか。
 …私は心密かにそれは「弥生スキー場跡地」に関係があると睨んでいる。弘前市がスキー場を計画した場所は、元々「岩木町」のものだった。合併してしまうと面倒な土地の転用、登記処理、それに関わる金銭的なことが一切「チャラ」になるのだ。だが、「合併話し」の中でこのことは一切、市民には封印されていた。

 ところで、昨日の写真の前景に見える水鳥は「オオハクチョウ」「オナガガモ」「コガモ」「マガモ」「ヒシクイ」などだ。
 たいていの人は「ハクチョウ」と「カモ」程度の区別はつくだろう。しかし、それだけだと「水鳥」1羽1羽に「慈しみの感情」は湧かないのではないだろう。それぞれをその「固有」の名前で呼んで、初めて、身近に感じるはずである。
 私はこの写真の題名をまさに、変哲のない「岩木山と平川の水鳥たち」とつけた。これで「岩木山」と「水鳥」は双璧の存在となったと思った。

        ● 人の餌付けを考える (2)●

 新潟県佐渡市で国の特別天然記念物のトキ10 羽が放鳥されて今月の25日で3ヶ月となった。ところが、14日にはメス1羽が死骸で見つかり、一度は絶滅し、繁殖で希望がつながったトキの自然に返すという「試行」は先行き不安である。
 「不安」は最初から覚悟のことだろう。人が人為的に手出しの出来ない「自然」に、「人の手によって繁殖」の成功したトキを返すということは、生やさしいものではあるまい。覚悟というのは、そのような意味でのことだ。その「覚悟」はすべての人々が持つべきものだ。

 ところが、新潟県の泉田裕彦知事は「自然で(トキが)どう生きるかというモルモットのような実験は疑問」と批判し、高野宏一郎、佐渡市長と連名で「県内では『非情』との見方もある」と言い「温かい対応」を求めたのである。 
 メス1羽は弱っていたところをタヌキなどに襲われたとみられる。2歳のオスと行動して、つがいになる可能性が高いと期待されていたのである。野生として種をつないでいくためには「つがい形成」と「産卵」が絶対条件である。
 それだけに「放鳥」するまで育て、「放鳥」した直接の関係者の落胆は大きいだろう。
 この落胆を感じたのは直接の関係者だけではない。それを見守る多くの人をも落胆させた。
だが、その落胆故に「餌を与えないことは非情だ」とすることはかなり客観性を欠いた感情論ではないだろうか。
 餌を与えることが「温情・愛情」と考えたいのだろうが、そこを「ぐんと踏みとどまる」ことが、今の私たちに求められているのである。本気で「野生のトキ」を願うのならばである。
 野生とは「弱肉強食」の世界だ。感情論に走り流されていては「覚悟」は揺らぐ。また、感情論には性急さが潜むものだ。

 新潟大などの調査(03年)では、佐渡島には推定でテン約1900匹、タヌキが約6000匹生息しているといわれている。
 「トキ」にとって「テンやタヌキ」は強者であり、捕食される生き物である。その捕食者であるテンやタヌキの数が、佐渡島の生態系の中で生息密度として妥当なのかそうでないのかという調査も必要であったはずだ。
 過剰な生息数であるならば、それらを「最適」数に減じた段階で「放鳥」すべきだったろうとも考えられる。
 いずれにしても、この活動の目的は「一端、絶滅したトキの野生化」なのである。生やさしいことではない。
 「絶滅に追い込んだのは人間」である。そして、その人間が今「復興」に取り組んで、その具体的な段階にいる。
 そして、その段階であるからこそ「復興への苦しみ」を共有しながら「じっと耐える」ことが要求されるのである。
 山階鳥類研究所長は「いま餌をやれば来年もやらなければならない。それではいつまでも野生化できない」と言うのだ。
 自然に戻す最良の方法は何なのだろうかという模索は続いて当然だろう。だが、はっきりしていることは「絶滅種の復興は難のみ多く、可能性はゼロに近い」ということだ。
 一番大事なことは「絶滅」というこのおぞましい事態に人間が追い込まないということである。

岩木山への想いー水鳥の集う川畔

2008-12-27 05:25:42 | Weblog
(今日の写真は久しぶりに岩木山だ。大分長いこと「原子力発電所」に関わることを書いてきたが、この主題はしばらく休みにして、遠景の岩木山に関する写真とそれにまつわる話題について書くことにする。
 通称「鳥屋」さんと呼ばれる「野鳥好き」の人などはこの写真を見て、「主役」は何かと問われると、前景に見える「オオハクチョウ」や「オナガガモ」、「コガモ」、「マガモ」、「ヒシクイ」などと答えるのではないだろうか。)

           ● 餌付けを考える (1)●

  私にとっては、あくまでも主役は後景の岩木山である。もしも、水鳥たちを主役にしたいのならば、前景の水鳥たちをもっと引き寄せて「大きく」写すといいのだ。そうすると、岩木山はその全体像を失い、主役の座を降りることになる。
 同じ写真でも、見る人によってその主役が入れ替わるということはどうして、起こるのだろう。
 それは見る人の「心の窓」の違いと、「窓の開き方」の違いによるのだろう。
これは写真の見方だけの問題ではない。山道を一緒に登る。100mほど登る間に、私は道脇に数種の花を見つけるのだが、同行者の「目」には何も見えていない。
 そして言う。「この登山道には花がないですね」と。だが、「花」がないのではなく、その人の「目に見えない」だけなのである。
 「花が好きだ」「花を慈しむ」という「心の窓」を持っていると「心の窓」は見えるように「開いてくれる」ものだ。花に関する「心の窓」を持つための出発点は「花の名前」を知ることである。
 「名前を知る」ということは「親しく」なるための原点である。これは人間社会においても原則的な認識だろう。
 この写真に題名をつけてみよう。先ず写した場所を明らかにしたい。これは南津軽郡藤崎町の平川川畔で写したものだ。私は基本的にこの場所は好きになれない。
 何故かというと、それは「川畔にコンクリートをうって、劇場の座席のような階段を設置している」という人工的なスペースであるということだ。
 「野鳥(水鳥)の観察」を容易にするための行政の配慮なのだろうが、「自然にいる野鳥」を観察するために、本来の自然には存在しない「人工物」を設置し「自然」を壊しているという「矛盾」に我慢がならないのだ。
 もう一つの理由は、その駐車場も完備した「人工スペース」にやってくる人たちが「水鳥」に餌を与えることである。
 「鳥籠を踏み潰(つぶ)し、野に出て自然のままの鳥を鑑賞する。それが本来の愛鳥である」と訴えたのが中西悟堂だ。
 「餌付け」は人間にとって「出来ること」ではあるが「してはならないこと」である。これは「野鳥」に限らず「猿」や「たぬき」に対する「餌付け」についても言えることである。
 「餌付けの生態系への影響」も含め、野鳥と人の間の程よい距離を保つためには、人間は「餌付け」をしてはいけないと考えるからである。

 人間は文明に頼って「出来ること」だけを考えてこれまで、歴史を作ってきた。しかし、そろそろ、「出来ることだが、してはならないこと」へと視点を変えて、「してはならない」ことへの「抑制」の日々を歩んでいかねばならないのである。
 多くの人がいる。家族もいる。母親らしい人が子供に話しかける。水鳥たちを指さして「こんなに沢山いるのだから食べ物が少ないはずよ。・・チャン、いっぱいあげてね」
 その女性の目は誇らしさに輝いていた。裕福な人たちが貧しい者に「施し」を与える時の目だ。優しさはない。見下し、蔑む目である。そして、高慢ちきで傲慢な目である。目の前にいる野鳥「水鳥」を慈しむ目ではない。「餌を与える人」の目は概してこのような陰湿な輝きを持っている。
 このような場合もある。子供連れのお母さんだ。子供が田んぼの道で「蜘蛛の巣にかかった蝶」を発見した。蜘蛛はその蝶を糸でぐるぐる巻きにしようとしていた。それを見た子供が言った。「お母さん、蜘蛛が蝶を捕らえているよ」「まあ、なんて可哀想なことでしょう。その網から蝶を外して助けてあげましょう」
 その時のお母さんの目には、「私は何と心優しい人間なんだろう。私ってすばらしい人間だわ」という自己満足の輝きがあった。
 そして、次の「僕、蜘蛛のご飯を取り上げてしまったんだよね」という言葉には無言であった。この母親は傷ついた「子供の心」を理解することはないだろう。 
 
 もう一つ、別な輝きもある。それは、目の前に集う野鳥「水鳥」を「観光」や「商売」の目玉のしようとする「目論見(もくろみ)的な輝き」である。

 下北郡脇野沢村(現、むつ市)の猿は住民の農作物を荒らすとか人に危害を与えるとかいうことで昨年度は元気な「猿」を駆除した。これからはそれ以上の数を駆除する方針だという。
 この猿は国の特別天然記念物である。人が勝手に対処することは法律で禁止されている。恐らく、勝手な餌付けも禁止対象の行為であるはずだ。
 ところが、旧脇野沢村ではこの「猿」に餌付けをしたのである。餌付けとは「野性動物と人の間の程よい距離を保つ」関係を破壊するものだ。
 つまり、猿が人に限りなく近づき、自分たちの生息域を人の生活圏と共有することになることなのである。猿たちは「自分たちの生息域と人の生活圏とを共有する」ことが許されたのだから、どこもすべて「猿の世界」であり、「猿の世界観」で生きるわけである。
 その生き方をして、人間は「農作物を荒らす」とか「人に危害を加える」ということで、今度は排除しようとする。この問題の種をまいたのは「人」である。餌付けによって猿をてなづけて、それを観光資源にしようとしたことが、とどのつまり「猿駆除」の「種」なのだ。
 国の法律に基づいて「猿」は駆除される。それでは、猿被害の端緒である「餌付け」を始めた人も「国の法律」で裁くべきだろう。そうでないと片手落ちというものだ。(続く)

東通村はどこへ向かうのか(2)

2008-12-26 05:30:49 | Weblog
(今日の写真も数年前の6月に東通村の原野で撮ったものだ。これはバラ科ダイコンソウ属の多年草「オオダイコンソウ(大根草)」である。北海道から本州の中部地方以北の山地や野原に自生している。花の咲く時季は6月~8月である。背丈は50cmから1mと幅がある。
 全体に開出毛がある。根生葉は奇数羽状複葉であり、頂小葉は大きく先は尖り、粗い歯牙がある。
 茎先に黄色で直径1.5~2cmほどの5弁花をつける。果実は「集合果」で楕円形で長さは約2cm程度になる。花弁は非常に散りやすい。
 咲いている場所や時季が同じなものに「ダイコンソウ」がある。「ダイコウソウ」の小葉の先端は丸みがあり、「オオダイコンソウ」は若干尖っている。これが見分けるための特徴だ。
 「ダイコンソウ」は日本全国に分布する多年草だ。山地のやや明るい渓谷、山道のほとりなどに生育する。根出葉は羽状複葉で「オオダイコンソウ」と同じだが、茎につく葉は3裂から単葉へと変化する。
 花名の由来であるが、これはバラ科なので、アブラナ科のダイコン(大根)とは無関係なのだが、「根元の葉が大根の葉に似ている」ことによるのであろう。根出葉は、言われてみると確かに「ダイコン」に似ている。
 岩木山では、環状道路沿いでも出会うことが出来るのだ。だが、それは「岩木山」を取り巻く環境がそのまま存在していればのことである。この「オオダイコンソウ」もいつまでも「東通村」の原野や林の中で咲き続くことを祈るものだ。

 ところで、「東通村」では「構造改革特別区域計画」の教育目標に次の項目を掲げている。

 … 21世紀の国際的リーダーと村をリードする次世代の優秀な人材の輩出。
 … 子供を持つ世帯に魅力的かつ先進的な教育の村として確立し、定住志向を高め、県内外からの移住取り込みを図る。

 2項目の文節「子供を持つ世帯に魅力的かつ先進的な教育の村として確立し」は意味不明の箇所でもあるが、それよりも何よりも1項目が主張することと2項目が矛盾していることに驚いた。
 果たして国際的リーダーとなった者が「東通村」に住みつくだろうか、村をリード出来るような優秀な人材が「東通村」に定住してくれるだろうか。果たして大学や大学院を終えた者、つまり「専門家」として「東通村」に定住してするべき「仕事」はあるのだろうか。

 「東通村」は『小学校11校を統合し、中心地区に東通小学校を開校し、更に平成21年を目標に、残り5校の東通小学校への吸収統合を進める。現在3校ある中学校も統合を進め、東通小学校隣へ平成20年4月開校する。同時に、現在10園ある乳幼児施設にいたっても、将来、認定こども園として1園に統合し、小学校と中学校に隣接して設置し、「幼小中が一貫した学園としての教育環境」の実現を目指す』のだそうだ。
 学校の「統合」とは経済的な合理化と教育的な手間暇の合理化である。生徒数が多くなると生徒・児童1人あたりの教員などの「ふれあう」時間は分散する。これを「手抜き」と呼び、落ちこぼれはその間隙に生じる悲しく寂しい子供たちを指す。
「統合」も「幼小中一貫」教育も経営学的な所産であって、決して、ペスタロッチやフレーベルが唱える「教育愛」的な所産からのものではない。

 青森県や地方の自治体は高校生1人に対して、父母が養育する費用以外に、3年間で数百万円の公費補助をしている。この中には教員の給料なども含まれるのだが、父母・保護者と自治体は莫大な費用をかけて「生徒」を育てているのだ。
 大学に進むと、今度は「父母・保護者」が全額を支弁しなければならない。そのために「出稼ぎ」に出る「父母・保護者」は後を絶たなかった。
 そこまでして「大学を終えさせても」本人は、東京や大都会に吸収されてしまう。そして、東京などの「納税者」となる。東京都は地方の県や「父母・保護者」のお金で育てられた「人材」を「濡れ手で粟」を掴むように手にいれて、巨大化し高い納税率で、日本一の税収入を誇る自治体になっているのだ。
 何故、地元に帰ってこないのか、はっきりしている。「仕事」がないからである。あるとすれば、それは「地方公務員」か「教員」だけである。これは数が知れているし、その上、いわゆる「コネ」がはびこる世界だから「採用に至る道」は険しく厳しい。
 「東通村」出身で大学を卒業した「若者」が東通村に戻ってきて「どのような仕事」をするというのか。役場の職員か、セクターが行う事業の従業員になるのが関の山であろう。
 あぶれた者たちは「農業」や「漁業」に職を見い出せるだろうか。幹線道路沿いにも「土盛り」された田んぼが多く見られる。これは「棄農した」証拠だろう。「公共建造物」が林立している「砂子又」地区だってあの平坦さから考えると、もとは「田んぼ」だったに違いない。放牧に適している原野も「原子力発電所」の敷地となり、使用不可だ。これだと、農業も畜産も「先が」見えない。
 「漁師」になろうか。だが、すでに「漁業補償金233億円」と引き替えに「東通村」の漁民は自分たちの漁場を放棄している。現在の自分たちの満足のために、子供たちの未来を奪ってしまっているではないか。だから、「海」で働くこともままならないのである。
 このような「事実」を村の当局者はどう捉えているのか。「定住志向を高め、県内外からの移住取り込みを図る」とは何という言いぐさだろう。優秀な人材は村に残らず、戻ってきても「働く」場所も仕事もない。そのような状態に追い込んでおいて「定住志向を高め」るなどと、矛盾の上に胡座をかいたような念仏は止めにしてもらいたいものだ。

 このような矛盾極まりない「東通村当局」の考え方は「東通診療所」の医師募集の要項にも見えている。しかも、「東北電力東通原子力発電所」のことは「一言」も触れられてはいない。
 次にその抜粋を掲げてみよう。

 …「住まい」はオール電化の3階建てマンションを住宅として完備。「教育環境」は東通小学校が東通村診療所より徒歩5分の場所にあり、平成20年春には東通小学校隣地に中学校も開校となり、充実した教育環境が整備されています。また今後、「幼小中一環教育を目指」しています…

 住宅という「物」で釣る姿勢よりも、村民がどのような医療状態に置かれているかという実態を述べるべきだろう。
 「物」に釣られてくる医者には「幼小中一環教育」はすばらしい教育方法だと映るだろうが、「教育愛の本質」を学校教育に求める医者は、決して「応募」してこないだろう。 

東通村はどこへ向かうのか

2008-12-25 05:33:32 | Weblog
(今日の写真も東通村のある施設だ。昨日まで紹介したものとは趣がちがう。私はこの写真をみて、ほっとした。これでいいのだ。慎ましい村民の意向を大切にすればおのずから、「このような建造物になる」だろうと考えたからだ。村の広報に貼付されている写真の中で、唯一「新しく」なく、ずっと長い間村民に親しまれてきたことを彷彿させるものだった。これは「白糠診療所」である。)

 「白糠診療所」は新しく建造された「東通村診療所」の開所までは、村内で唯一の「医師常駐診療所」として、村民の健康を守る重要な医療施設として活動してきたのだそうだ。現在は「午前診療」だけを行うようになっているそうだが、依然として地元患者の信頼は厚く、受診者の数は絶えないと言われている。

 それにしても、「交付金」目当ての「建造物」や「施設」は多い。
上北町では「多目的運動場」に3億5000万円をあてた。むつ市では「むつ運動公園」に4億5000万円である。平内町は「夜越山スキー場」に4億9000万円という具合である。いずれも、これらは住民の生活に直結して「急いで」でも造らなければいけないというものではないだろう。「差し迫って必要」なものではない。
 あえてそのようなものに「金」を使うのなら「交付」すべきでないし、「受け取る」べきではない。
 ここまで見てくるとまた一つの「共通項」が出てくる。
六ヶ所村の「文化交流プラザ」(31億9000万円)、三沢市の「寺山修司記念館」( 6億2000万円)、横浜町の「ふれあいセンター」(6億8000万円)、以下「上北町多目的運動場」、「むつ市むつ運動公園」、「平内町夜越山スキー場」、「七戸町鷹山宇一記念美術館」、「百石町お祭り広場」、「六戸町民文化ホール」などに関しては地元の業者だけでは決して施工出来ないだろう。つまり、県外の大企業やゼネコンが受注する。
 国や電力会社からの「交付金」や「寄付金」は、このように交付された自治体から県外の大企業に吸い上げられていくのだ。「地域の活性化」を唱い「箱物」や「施設」の新設や増設を図っても「地元」には金は残らない。
 むつ関根に建設中の「核燃料中間貯蔵施設」を「受注・請負」をしているのは大手「ゼネコン」の間組と熊谷組である。孫請け程度に地元の業者も入っているだろうが、受けるお金は微々たるものだろう。
 下田町は野鳥観察保養施設を「交付金」2億4000万円で造った。これも火急に必要なものではない。野鳥の観察に果たして建物は必要なものか。野にある鳥にあっては、立派な建物ほどそれは「自然の中の異物」でしかないだろう。観察場所にそのような異物を建てることは「愛鳥精神」に背反することだ。それとも、この施設は「保養」が主目的なのだろうか。
 
 こうして見てくると、「交付金」はすべて、「箱物」や「施設」の建設に使われている。「年金の目減り」「健康保険料の未納舎の増大」「介護保険の増額」などなど「福祉関係」の予算は、国をはじめとして地方自治体も「減額」されている。このような実態の中で、何故、「交付金」を「福祉関係」に回せないのだろう。どうして、「箱物」を建てることに使ってしまうのか。交付金を生活資金として住民のために使うことがないのだろうか。
 それとも、この「交付金」は「箱物」または「施設」建設にのみ交付されるという法的な「規制」があるのだろうか。
 そうであったら、なおさらである。交付を各自治体で「拒否」すべきである。

 ところで、「東通村」はこれからどこに向かおうとしているのだろう。そのことを「村」が進めている「構造改革特別区域計画」の意義の中にはっきりと読み取ることが出来る。次にそれを提示する。

1.東通村は、原子力発電所との共生による発展を進めている。
2.1万人足らずの人口ではあるが、他市町村との合併はせず、単独の道を選択。
3.地理的にも恵まれない当村が発展していくためには、住みよい環境づくりが最も大切であると考える。
4.原子力発電所などに代表されるように、村においても高度技術化の進む中で、子供たちが様々な化学技術に関心を持ち、国際人として夢を持って活躍できる力を育む教育環境を整備することは、必要不可欠。
5.経済や社会のグローバル化・ボーダレス化が進展する現代の国際社会において、次代を担う子供たちが国際社会で大きく羽ばたいていくためには、相手を理解する国際感覚と英語によるコミュニケーション能力を育成することが必要。
6.小学校全学年の教育課程に「英語科」を設置し、村内の素是手の小学校において英語の授業を実施し、児童が自分の考えや身近なことを英語で伝えるコミュニケーション能力の基礎を培う。
7.同時に、外国の文化等に触れる機会を通じて、豊かな国際感覚を備えた人間の育成を図る。

 「東通村」は「原子力発電所との共生」で行くというのである。共生というと耳障りがいいが、裏返しにしてみると、これは今後も受けられるであろう「交付金」や「原子力発電所」の固定資産税を当てにした「他力本願的」な施策でしかない。そこには、自分たちの手で、何ものにも頼らずという「自力自助」の姿勢は見えない。どっぷりと交付金につかり、「原子力発電所」様々と擦り寄り身を任せているのに等しい。「交付金」と「原子力発電所」にコントロールされた「村」として今後も進むということなのである。つまり、国の原子力行政に「依存した自治体」として「存続」していくということである。「原子力発電所」が撤退したり「廃炉」化されると「村」も存続しないということになる。
 前述した1~7項を読んでも、そこには「村」としての「独創性」や「個性」を表現する語句はどこにも見られない。並んでいる語句のすべては「文科省」が出している指導要領に出てくるものに類似しているし、「原子力発電所」や「核燃料再処理施設」などの「ピアール文」でも頻繁に見られるものである。

「高度技術化」「国際人」「経済や社会のグローバル化」「国際社会で大きく羽ばたいていく」「国際感覚と英語によるコミュニケーション」「小学校全学年の教育課程に英語科を設置」「豊かな国際感覚を備えた人間の育成」などがそれにあたる。何も新規なものではない。21世紀を前にして政府などが盛んに口にしていた単語の羅列に過ぎない。

東通村で見たものは…(5)

2008-12-24 05:35:54 | Weblog
(今日の写真も東通村の中心地区、「砂子又」で見られる建造物の一つ、村教育委員会が「管理」している「体育館」だ。)

 「村」ではこの体育館の解説文の冒頭で次のように言う。
 「東通村の中心地の象徴となる三角形の庁舎、ドーム型の交流センター、そして四角形の体育館です」。
 また、それに続けて「アリーナは、バスケットボール、バレーボールコートが2面、専用マットを敷くことにより、ゲートボールやソフトテニスも使用出来ます。また、1階には、シャワールーム付きのロッカー室もあります。2階は576席の観客席とトレーニングルーム及び、1周165メートルのジョギングコースがあり、3階は控室、研修室となっています」という案内書きもある。
 人口が8.117人(2004年調べ)という村にあって、2階の576席の観客席を誰が埋めるのだろう。この体育館の道路を挟んだ向かい側には「野外ステージ」もあるのだから、「東通村」の人々は、いつでも自由に「観客」になれるという幸せを毎日満喫しているのだろうと思いたい。まさか、そんなことはあるまい。

 この冒頭文に従うと東通村は『東通村の中心地、「砂子又」の象徴』という意味で「三角形の村庁舎、ドーム型の文化交流センター、そして四角形の体育館』を建設したということになる。あるいは、これら建造物は「東通村」の「象徴」という意味かも知れない。
 広辞苑によると「象徴」には(1)「ある別のものを指示する目印・記号」(2)「本来かかわりのない二つのもの(具体的なものと抽象的なもの)を何らかの類似性をもとに関連づける作用。例えば、白色が純潔を、黒色が悲しみを表すなど。シンボル」とある。
 この意味に従うと「砂子又」地区の建造物は「目印や記号」であり、「関わりのないものを類似性で関連づけた」ものとなる。
 いずれにしても、東通村は「象徴」としてこれらの建造物にうん百億円という金を使ったのである。これら建造物が「東通村」の象徴であるのならば、これら建造物のなかった「東通村」の象徴とは何だったのだろう。
 恐らく、それは「自然風物」であり、「風土的景観」であり、固有の「文化」であり、農業や漁業という産業、村に息づくご先祖様から継承してきた「習俗」などではなかっただろうか。これらは、決して金で買うことが出来ないものだ。

 昨日掲載したように「村」には、2004年までに「核燃マネー」が、少なくとも約「4600億円以上」が交付されている。「東通村」はこの金で「次から次へ」と「建造物」を買って、それを「シンボル」として「砂子又」地区に布置したのだ。
 だから、そこには「自然風物」や「風土的景観」、固有の「文化や産業」、それに「習俗」などを感ずることが出来ないのである。
 まさに、これらは「大きな箱を造ってはみたものの、入れ物がない、そこで発表する文化がない、その担い手もいない、つまり中身は空っぽ」という「箱物行政」のシンボルである。私はこれら建造物に、このような矛盾を感じ取ったから、写さなかったのである。

 私は昨日、各市町村が「交付金」によって建設した主な施設を挙げながら、「これをみると『はっきりとした「共通項」が浮かんでくる』と書いた。
 この共通項とはまさに「東通村」の建造物群であり、その施設がその村、その町、その市が持つ「自然風物」や「風土的景観」、固有の「文化や産業」、それに「習俗」などから、遊離しているということである。

 31億9000万円を使って六ヶ所村は「文化交流プラザ」を建設した。これは飛び抜けて高額である。ここで言う「文化」とは何だろう。「交流」とは具体的にどのようなことをするのだろう。
 社会教育の一環としての、地域の「文化交流」であれば、「公民館」で事足りただろう。現に公民館を六ヶ所村は持っているはずである。
 建造しては見たものの、利用者が少ない、イベントも殆どない。六ヶ所村の人口は約11.200人である。「普通の村」では到底この建設は出来ないだろう。「金」があったから、「金」に任せて造ったのである。
 村民11.200人が「文化交流」をしたところで、永遠に「文化交流プラザ」が満席になることはないだろう。

 実に無駄なことだ。この「無駄」ということも「共通項」の一つでもある。六ヶ所村民一人当たりの村民税負担額は約4万円といわれているが、村税収入は、平成19年度一般会計予算でみると60億円もある。これらは原子力関連施設やその建設などで潤った企業などからの税金である。 

 「貰ったお金を何に使おうが、どのようにしようが勝手だろう」と言われるかも知れない。しかし、このお金は法律的に規定されたものである以上、元々は私たちの納めた税金であり、電力会社からの税金や寄付金も私たちが納めた電気料金から支払われていることを忘れないでほしい。その視点でみると、今まさに必要というもの以外は建てたり、造るべきではない。
 共通項の3つめは、それら建造物設置の「厳密な必要条件をクリアしていない」ということだ。
 「横浜町ふれあいセンター」は6億8000万円である。町民たちが「ふれあう」のにどうして7億円近い金が必要なのだ。「ふれあう」という概念規定が曖昧だから、しかも、苦労せずして手に入れたお金だから「建設費」はどんどん膨らむ。これだって既存の公民館で十分だったろう。
 「百石町お祭り広場」は 1億3000万円である。百石町には自然公園または都市公園のようなものが存在しないのだろうか。町政とは「お祭り広場」を造るところではなく、「政(まつりごと)」をするところだ。議員も職員も「政(まつりごと)」をお祭り騒ぎに終始しているのではないか。
 「六戸町民文化ホール」は5億6000万円だ。これも六ヶ所村「文化交流プラザ」や横浜町の「ふれあいセンター」と同類だろう。
 文化ホールで何をやるのか、それをして町民の文化意識が高まるという確固たる見通しはあるのだろうか。(続く)

東通村で見たものは…(4)

2008-12-23 05:33:39 | Weblog
(今日の写真は東通村の中心地区、「砂子又」地区の様相である。この地区に入るととにかく風景が、一瞬にして変貌する。それまでの「牧野」と「田んぼ」、つまり牧歌的な雰囲気が、突然奇妙な都市空間になってしまうのだ。
 これは「東通村役場(左)」と「文化ホール(右)」である。だが、私が写したものではない。私はこの「砂子又」地区に立ち並ぶ「違和感」顕著な景物を撮影する気分にはなれなかった。これは村のホームページから借用したものである。
この写真はホームページには「誇らしげ」に掲載されてあったと私には思えた。)

 私はこの写真の建造物に出会って…
 「おお、デズニーランドにでも来たのか」「何というテーマパークだろう」と思ったものだ。そして、次の瞬間、それまでデジタルカメラでバチバチと写していたのだが、「撮る」ことを止めた。

 人口が8117人(2004年調べ)という村に「あってしかるべき」建造物としての「役場」だろうか。一部5階建てのビルディングなのだ。
 村職員は総勢200余名、これも人口規模からすれば多いと思われる。村内の出先機関に分散しながら、業務に当たっているだろうから、この「役場」に常駐している「職員」の数は恐らく100名を越えるか越えない程度だろう。そう考えると「これ」は巨大であり広すぎる。これほどのものがどうして必要なのだろう。「必要十分条件」など度外視した何かがあるのではないか。
 とかく、人は「権力」や「大金」を持つと、それを誇示するために「御殿風情」の建物を建てたがるものだ。「秀吉」の「聚楽第」しかりであり、津軽地方ではひところ「リンゴの仲買」で財をなした者たちが、こぞって「御殿」風の自宅を、これ見よがしに建築したものだった。私はそのことを思い出していたのだ。
 
 右側の「東通村役場の文化ホール」については、「何というテーマパークだろう」とまずは思った。最近あちこちの自治体に「…テーマ館」というものが建設されている。それで、その「テーマ」にそった形で住民の意識が向上しているのかと問い返すと、まずはそんなことはない。
 「維持管理費」に自治体が青息吐息しているだけである。
 「東通村役場の文化ホール」を、一緒に行ったAさんは「なまこ」言い、Bさんは「さざえ」だと言う。Cさんは「ダースベーダー」。Dさんは「ナウシカに出てくるオウム」に見えたと言うのだ。
 このような見え方は一体何を意味するのだろうか。つまり、何が何だか分からない「奇妙きてれつな建造物」ということだろう。
 「文化」の内実を、それを包み込んでいる「外形」が語るとすれば、この「文化ホール」が持つ「文化」程度が類推されるような気がした。そこで、ますます撮影する気は萎えてしまった。

 ところで、青森県の主な電源3法交付金活用施設ほんの一例だが東通村では「斎場(火葬場)」を4億円で建設したとある。「役場」も「文化ホール」も、それに他の新築された公共施設も、この「産物」である。
 とにかく、「東通村」には、1981年から2004年までに「核燃マネー」が、少なくとも「約4600億円以上」が交付されている。しかも、他に電事連からの寄付金もあるし、「原発」からの固定資産税収入もある。2008年の現在も「村」には「交付金」や「固定資産税」が「収入」としてあるのである。

 ところが、他の市町村にも当然、「交付金」が「交付」されているのだ。まさに、「交付金」という餌で釣っているのだ。不思議なことだが、この「交付金」というものは、何か「施設」を「建設」することにのみ交付されているようである。「文化向上」といっても、それは無形な「人的」支援とか、住民の主体的な文化活動とかいうものには交付されないようである。すべて、「建設と土木工事」「プラント技術とその設備」などを伴うものにだけ「交付」されているのだ。
 それとも、交付を受ける自治体が手っ取り早く「目に見える」ものの構築を図るためだろうか。うがった見方をすれば交付金を受ける「自治体行政」に「箱物」以外の「主体的でかつ地域性あふれる文化の継承」を担っていこうとする力も熱意もないということになるのだろう。
 
 次のような「施設」が「交付金」によって建設されている。その主なものを掲示する。

 ・六ヶ所村文化交流プラザ      31億9000万円
 ・三沢市寺山修司記念館        6億2000万円
 ・野辺地町観光物産PRセンター    2億8000万円
 ・横浜町ふれあいセンター       6億8000万円
 ・上北町多目的運動場         3億5000万円
 ・東北町乙供地区流雪溝        2億4000万円
 ・十和田市保健センター        2億円
 ・むつ市むつ運動公園         4億5000万円
 ・平内町夜越山スキー場        4億9000万円
 ・七戸町鷹山宇一記念美術館      3億7000万円
 ・百石町お祭り広場          1億3000万円
 ・六戸町民文化ホール         5億6000万円
 ・下田町野鳥観察保養施設       2億4000万円
 ・天間林村農産物出荷貯蔵施設     1億6000万円
 ・大間町アワビ種苗生産施設      8億円
 
 以上を見るとはっきりとした「共通項」が浮かんでくるだろう。(続く)

東通村で見たものは…(3)

2008-12-22 05:29:57 | Weblog
(今日の写真も数年前の6月に東通村を訪れた時に撮影したものだ。
これはユリ科ワスレグサ属、またはキスゲ科(ユリ科)キスゲ属の多年草「ニッコウキスゲ(日光黄菅)」である。海岸から少し離れた原野に咲いていたものだ。)

 この花が自生している海岸沿いの原野も「東通原発」が出来てからは、その多くは「鉄パイプ」と「金網」に遮られて、その場所には入ることが出来なくなっている。
 夏の陽射しの下、一面、黄色に広がる「ニッコウキスゲ」のお花畑。「ニッコウキスゲ」は初夏の太陽とよくマッチする。夏になると見たくなる花だが、「岩木山」では見られない。
 「ニッコウキスゲ」は一応、高層湿原に育つ「高山植物」とされているが「厳しい生育環境」の下では平地にも生えているのである。高い茎の先にラッパ状の黄色い花をつけ、大群落を形成するので非常によく目立つのだ。それ故に「花の咲く前」と「開花期」、それに、「咲いてから」では景観が極端に変化する。それがまた面白いのである。
 大群落をつくる花だが、実は一日花なのだ。何日間も「ニッコウキスゲ」の黄色い花畑は咲き続けているように見えるが、花そのものの命は短く、「朝咲いた花は一日でしおれる」のである。
 茎頂に数個の花をつけ、順々に咲くので長い間咲き続けているように見えるが、私たちが見ているのは「昨日とは違う花」なのである。
 茎丈の高さは50~80cm。茎頂の短縮した花序に、橙黄色の花を数個つけ、花には柄があり、花被片は長さ7~10cm。葉は2列に根生し、基部は互いに抱き合っている。
 
 花名の由来には、多くの説がある。
…日光霧降高原のキスゲ平で発見されたことによるという説。日光に咲く黄色い菅(スゲ)だとする説。花の色が黄色く、葉は萓笠を作るカサスゲ(笠萓)に似ており、日光地方に多いからという説などがあり、よく分からないのが「本説」かも知れない。
 別名は「ゼンテイカ(禅庭花)」である。これも戦場ケ原を「中禅寺」の庭に見立てたことによるとされている。

 「ニッコウキスゲ」の大群落は「夏の高原の風物詩」で、日光霧降高原、霧が峰高原、尾瀬などが全国的に知られている。
 青森県では「津軽国定公園」に指定されている「つがる市木造町」の「ベンセ湿原」が有名だ。
 6月頃から「ニッコウキスゲ」が咲きはじめ、7月になると「ノハナショウブ」や「ツリガネニンジン」など数種が咲き始める。
 遊歩道が設置されているが、ここ数年、周囲の「砂採り」などによって「乾燥化」が進んでいる。この分だと「ニッコウキスゲ」も咲かなくなるだろう。だが行政は、何一つ、その対策をしていない。
 そうなると、県内の「ニッコウキスゲ」の出番は「東通村」のものとなるだろうが、それは「無理」なことだ。「原発」で立ち、「原発に支えられている場所」には「ニッコウキスゲ」は不釣り合いだし、似合わないからだ。

(承前)

 何故、これほどまで「東通村」では「箱物」を建設したり、特別に教員の募集などが出来るのだろう。その答えは簡単である。「濡れ手に粟」として掴んだ「核燃マネー」が潤沢にあるからである。 

 青森県には、1981年から2004年までに俗に言う「核燃マネー」が「2兆8825億円」もさまざまな形で投入されている。少し具体的に見ると次のようになる。

▲ 電源3法交付金1847億円(国→県、立地自治体)原則2004年度まで

「内訳」
・電源立地促進対策交付金 東通原発分 99億円
・電源立地特別交付金 東通原発分 555億円
・電源立地等初期対策交付金 東通原発分 51億円

▲ 漁業補償               233億円

▲ 建設投資 東通原発第1号機分 3900億円

 以上を合算すると約4600億円となる。しかも、他に電事連からの寄付金などもあるし、固定資産税収入は除かれている。
 しかも、これは2004年度までのものだから、2008年の現在も村には金が「収入」として入ってきているのである。

 そして、この「収入」は外見的に「箱物の村」を造り上げたのである。一体これは「村民」の何を物語るのだろう。
 それは…
1.自分たちが培ってきた文化や風土を簡単に捨て去ってしまうこと。
2.自分たちの先祖が営々と築いてきた生活手段を簡単に放棄すること。
3.自分たちの後生である子々孫々に、永遠に危険極まりないものだけを残すことであり、故郷の破壊でもあること。
4.累々としかも雨後の竹の子のように建設される「箱物」公共施設は、これまでのもので、その必要条件を満たしていたはずなのである。そうであるにもかかわらず、「これまで必要とされなかった」ものまで新たに「建設」しているということ。本当に必要なものは「核シェルター」であるかも知れないというのにだ…。
5.このような事実の根底には「ご当地だけ」「自分たちだけ、今がよければいい」という考え方があるということ。
6.「ゴミ捨て場」となっても「お金」さえ貰えばそれでいいということ。
7.これらはすべて私たちが納める税金や電気料金から支払われているという点に留意していないということ。
 …などではないだろうか。

 すべての村民とはいわないが、何という民意の低さ(民度の低さ)だろうか。目の前に「札びら」をちらつかせられると、直ぐになびいてしまうという人々の意識、これは「濡れ手に粟」で「金」を手にした「成金趣味」の何ものでもないではないか。

 「地域の活性化」という時にすべてが「経済優先」と「スケールメリット」に直結してしまう。つまり、「金」を手に入れることでしかなくなってしまう。
 「活性化」ということに「お金では換算出来ない価値」をどうして容れられないのだろう。「価値の転換」を図っていくことの方が急がれるのではないか。それは人心の育成だろう。
 それをしないと青森県の主要産業はもはや農林魚業でなく、原子力に支えられた「電気産業」だけになってしまう。
 だが、それは「地元の人」が生産する「特産物」ではない。あくまでも、外来型の産業であり、地域に根ざした「内在型」の産業ではないのだ。そこには地元に根ざした「未来」はない。それが悲しい。(続く)

東通村で見たものは…(2)

2008-12-21 05:57:11 | Weblog
(今日の写真はユリ科ユリ属の多年草「エゾスカシユリ(蝦夷透し百合)」の花である。これも数年前の6月に東通村尻屋を訪れた時に撮影したものだ。海岸の大きな岩の節理に堆積したわずかな土に根を張り、短い茎をすくっと直立させて、茎頂に不釣り合いなほど大きな花をつけている。
 花を咲かせる時季は6月だ。北海道から本州の東北地方の限られた「原野、草原や海岸」などにしか自生していない。東通村では海岸の岩上の他に、海岸から少し内陸に入った「原野」にも結構咲いてたと記憶している。
 そして、明らかに「岩上」のものと「原野」のものとでは大きな違いがあった。それは茎丈の「短い」、「長い」ということであった。
 「エゾスカシユリ」は自分が置かれた環境を変えようとはしない。岩上のものは短い茎丈で自分を生き、その形質を、あるがままに子々孫々に伝えていく。原野のものは長い茎丈を形質として伝えていく。
 だが、このような「エゾスカシユリ」が咲く東通村の人々は、あるがままの「自分たちの村」をそのまま伝えていくことを止めてしまったのである。 

 「エゾスカシユリ」は草丈が20~70cmになり、オレンジ色の鮮やかな花を咲かせる。花名の由来は、花びらの根元にすき間があり、向こう側をすかして見る事が出来ることによる。これが「スカシユリ」である。
 「エゾスカシユリ」は本州に生える「スカシユリ」の亜種で、全体的にひとまわり大きく、蕾に綿毛のあることが特徴である。)

(承前)

 …そして、現在は、その新庁舎を中心に、消防関係施設や村営体育館、それに医療施設としての「東通村診療所(19床)」、保健福祉施設としての「野花菖蒲の里」、「介護老人保健施設(50床)」、「学校給食センター」などの公共施設が建設されているのだ。
 それだけではない。さらに住宅地を造成し「ひとみの里」住宅団地(120区画)として、現在分譲受付中でもある。その目的というのだろうか、キャッチフレーズには「いつまでも住んでいたい、住んでみたくなる村づくり」とある。
 「住んでいたい、住みたくなる」ところは、人が多く集まっている大都会だ。大都会には「原発」はない。危険だからである。そのような危険なものを誘致・設置して「住んでいたい、住みたくなる」では理が通らない。開いた口がふさがらないというものだろう。
 この住宅団地は田名部川対岸の砂子又地区に約20haに渡って造営されている。そのために「村」は、この地区を「良好な住環境と景観の保全、更には住まれる方々が快適な暮らしを享受できるよう」にと「建築協定条例」まで制定するという念の入れようだ。
 価格は、坪当たり29.500円という低廉さであり、居住空間にゆとりをもたせるということから、何と「宅地の平均面積」は150坪であるという。さらに、この団地の近くには、村営住宅等も完成しているのだそうだ。
 これもまた「矛盾の上塗り」を地でいっているように思えてしようがないのだ。

 そして、その近くには野外劇場もあるのだし、ひばの角材をふんだんに使い、防弾ガラスのような丈夫なガラス張りで、トイレ付きの「バス停」なども建設してしまったのである。さらに、少し離れたところには新築された「斎場」もある。また「畜産資料展示館」も建設されている。

 驚くことに村内の「尻労、老部、白糠、小田野沢、尻屋」という5つの小学校を廃校にして、統合して東通小学校を新築したのである。これも、役場庁舎の直ぐそばにある。
 私が驚いたのは「役場庁舎」の直ぐそばに「建設」されていたことではない。「統廃合」をして村内に1つだけの「小学校」にしてしまったことである。
 かつて、1970年代から80年代にかけて県内の小、中学校は「統廃合」が進んだ。この統廃合で教育現場は混乱した。統廃合論はひたすら経済的な合理性だけを追求するものとして「百害あって一利なし」だと、現場は反対したものだ。
 そのような経験から「今ごろ何故に、どうして統廃合なのだ」という驚きなのである。「小、中学校の統廃合」に関する弊害については機械をあらためて述べることにしたい。

 この東通村立統合小学校は平成17(2005)年4月から開校しており、「村」ではこれを「これからの21世紀の村づくりに向けてのインフラ整備が進められている」としている。
 小学校の「新築」が「インフラ整備」という概念でしかとらえられていないことが悲しい。村の各地域の「個性」が育っていくことと「統合」という中央集権的な事業が持つ矛盾について議論など、なかったのであろうか。
 さらに驚くことに、東通村では独自で「村費負担教員採用」するというのだ。次にその[東通村費負担教員採用選考試験実施要項」の前文を紹介しよう。
  
 「当村では、平成21年4月に本格実施する東通小学校・東通中学校による小中一貫教育の実施にあたり、25人程度学級の実施、小学校の英語教育や教科担任制の実施及びICT教育環境の充実など先進的な取り組みを行います。そこで、村の教員としての使命感と自覚を持ち、主体的且つ積極的に当村の教育に携わろうという情熱を持った教員を募集します」(続く)

東通村で見たものは…

2008-12-20 05:38:06 | Weblog
(今日の写真は「サクラソウ科オカトラノオ属」の「ハマボッス(浜払子)」で海岸に生える二年草(越年草)だ。日本では北海道南部から西南諸島の海岸に普通に見られる。岩木山では絶対に見ることが出来ない「海岸の花」だ。
 この花も先祖を辿ると岩木山の「ミチノクコザクラ」の仲間となるが、その様相はかなり違う。「オカトラノオ」とはかなりの近縁種である。
 「オカトラノオ」の咲き方が穂状で「虎の尾」に似ているが、「ハマボッス」は海岸の「地べた」に直立して花をつけている。一見しただけでは到底「仲間」だとは思えないのだ。
 しかし、「花」にだけ目を向けて見ると、「オカトラノオ」の花とそっくりなのである。
 葉も茎も少し赤みがあり、根元で数本に分かれている。葉は互生し、やや厚みがあり、長さは3cmほどだ。葉は気温や風などの環境条件が厳しいほど、厚くなり、しかも密になる。沖縄で見たものは背丈もあり、妙にひょろひょろとしていたと記憶している。
 ある本によると花崗岩の海岸では「岩に走る節理(切れ目)」に根を張るそうだ。そのような生育の仕方が出来るのは「節理」に沿って水分が流れるからだろうか。
 6月に入ると葉の腋に1つの花をつけて、全体として「総状花序」となる。花は実に清楚であり、直径は1cmぐらいだろうか。
 花名の由来は、花序を払子「(ホッス:僧侶が使う法具)」に見立て、しかも海岸に生えることによるものだ。「浜払子」を「ハマボッス」と読める人は多くはない。私にはこの花序が「払子」に似ているとはなかなか思えないのだ。)

 注:「払子」とは獣毛や麻などを束ね、それに柄をつけたものである。インドで蚊などの虫や塵を払う道具であったが、中国の禅宗では僧がこれを振ることが説法の象徴となった。
 日本でも、鎌倉時代以後から用いられ、浄土真宗以外ではすべて法会や葬儀などの時の導師の装身具の一つになっている。

(承前)

 この写真は、数年前の6月に東通村の海岸、大きな岩の下部に広がっている「石が敷き詰められたような海岸」に咲いていたものを写したものだ。
 このように波打ち際ぎりぎりの岩場でも生育が可能なのである。これは、ここ「東通村の海岸」に生育する「ハマボッス」が「東通村」の自然環境に沿って進化してきたことの証しであるのだ。
 植物は自分たちの「生育環境」に「異物」を取り込むようなことは絶対にしない。だが、人間は「核」という異物を「原子力発電所」として「村」に持ち込んだのだ。…

 「東通村」の自然は豊かだった。ハマボッスの他に、ノイバラ、ハマヒルガオ、ハマニガナ、エゾスカシユリ、ハマエンドウ、オオダイコンソウ、ニッコウキスゲ、エゾフウロが咲いていた。特に、ニッコウキスゲの群落は見事だった。
 「東通村」も広報誌で、「村の自然を代表するもの」として、「尻屋崎とそこに放牧されている寒立馬」、それに「はるか昔に砂に埋もれてしまったというヒバの埋没林」や「神秘的な雰囲気が漂いヒメマリモが生息する左京沼」などを挙げている。

 確かに草を食み、子馬が駆け回る寒立馬(かんだちめ)の風情には心が癒される。友人のT先生は1年のうちに何回も「寒立馬」に会うために東通村に出かけているくらいだ。
 牧野組合がこの「寒立馬」を管理しているらしいのだが、「管理」し、世話をしていくには相当のお金がかかるという。そのために生まれる子馬を育てることなどに金銭的に支障をきたしているそうである。そこで、T先生は「子馬を守ってください」というキャンペーンを張って「募金」をお願いして、集めたお金を届けたりしている。
 そのような彼だけに「寒立馬」の暮らす「村」と「原子力発電所」を誘致した「村」とが同一の「村」であることに「違和感」を抱いていることは明らかであった。私も花々の咲き乱れる、「原発」のない「東通村」は大好きだ。

 尻屋崎の灯台と寒立馬。白亜の灯台の周辺は放牧場となっており、冬は雪や吹雪の中に立ちつくす「寒立馬」が、春から秋まで緑の芝生の上でのんびりと草を食べている。「」という名称はここから生まれた。
 そして、このようなすばらしい大自然の中で、それらに育まれてきた貴重な伝統文化もあるのだ。
 国の重要無形民俗文化財に指定されている「能舞」もその1つである。また、それ以外にも「獅子舞」や「大神楽」、「田植え餅つき踊り」などの民俗芸能がある。
 そのようなことを思い返しながら、車窓からの「長閑(のどか)」な田園と牧場風景を眺めていたら、突然、異様な風景が飛び込んできたのである。
 村の中心部の「砂子又地区」に入ってきたのである。
「東通村」は長いこと村内に役場を持つことはなかった。役場が存在しないということは、村の中に「中心になる地域」がないということでもあるだろう。
 明治22(1889)年の村制施行以来、長い間むつ市に役場があったのだ。これは全国的にも非常に珍しいことだったであろう。
 ところが、昭和63(1988)年に村の真ん中に位置する砂子又地区に「書類などの中身を移転」し、新品の役場の庁舎が建ったのである。(続く)

建設中の「使用済み核燃料中間貯蔵」施設から東通村へ

2008-12-19 05:44:36 | Weblog
 (今日の写真も「むつ市関根水川目」に現在建設されている「リサイクル核燃料備蓄センター」である。
 これは東通村方向に100mほど移動したところから撮ったものだ。中央に見えるものは巨大なコンクリート製の「側溝」である。何のためのものかは見当がつかない。「立ち入り禁止」なので、右手の高い土塁に登ってみることも出来ない。右側に曲がって「土塁」の下方に延びているようにも見える。
 この側溝は深さが3mから4m、幅は5~6mはあるだろうか。それではこの「側溝」を造るために掘り起こした「土石」はどのように処理をしたのだろう。しかも、「側溝」の右側もかなり深く掘り返されているように見える。ここから出た「土石」はどのように処理されているのだろう。
 側溝の奥には山が見え、その麓も見える。それと比較すると、この「側溝」の高さは地上高と等しいことが分かる。つまり、私が立っている道路の地上高とほぼ同じなのだ。
 となれば、ますます、「掘り起こされた土石」がどのように処理されたのかが知りたくなる。側溝右側の「土」の色と土塁の「色」を比べてみると明らかに違う。「土塁」の土はどこか別の場所から運ばれてきたものである考えられないこともない。)

(承前)

 私は昨日、東通原子力発電所に向かう「道脇の松林は伐採され、そこには、校舎ほどに大きな土砂の山が何カ所もあった。また、掘り出された岩石の山々も何カ所もあった」と書いた。
 加えて、「土木工事には、私たちにはよく見えない基本原則があり」それゆえに「土木工事は不滅だ」と象徴されているとも書いた。
 そのことに関連して、引き続き「岩木山の堰堤工事」について報告したい。

 …若し、土石流が発生したら、必ず、この道路もその土石流の一部となって流れ下るはずだ。「駐車場」とされているところは平らに、均されて、浅い。その上、凹凸がないので表面面積が狭いのである。
 これらの条件は、いずれも「流れやすさ、滑りやすさ」に結びつく。あそこも流れ出したら止まらないだろう。素人の私であっても、この程度は類推可能なのだ。
土木工事の専門家に、これらの理屈が解らないことはない。
 自明の理、だからこそ、堰堤はどんどん増えるのである。「赤倉沢」の大堰堤群は15基を数える。何故に、これほどの数が必要なのか、まさに、「民は知らしむべからず」なのである。
 「赤倉神社やその他の社に御参りに来ているみなさん、みなさんが利用している駐車場を土石流から守るために、上流にまたまた堰堤を造ることにしました」などと言いかねないなあと思っていたら、案の定、「堰堤敷設」終了後に「森林管理署」が建てた「檜性の立派な案内板」には「そのような意味」のことが書かれていた。これが国が国民の税金でまかなう事業の実態なのである。
 とにかく、「理屈」は後出しじゃんけんのように何とでも「つけられる」ものなのだ。
 前述の「土木工事は不滅」ということの具体的な意味は、「ある場所に穴を掘る。穴を掘るとそれに見合う土砂や石が出る。出た土砂・土石を捨てるための穴をまた掘る」ということだ。
 まるで連鎖のように「仕事」は続くということだ。時として、穴はたった二つのこともあるそうだ。つまり、掘った穴から出たもので、もうひとつの穴を埋める。
 今度は、その穴を掘り起こして前の穴に捨てるというのだ。なるほど不滅である。堰堤工事にも、その他の土木工事にも、この「不滅」の影がちらちらする。それらは、まさに「工事という仕事を作るための工事」なのである。
 そして、これら土木工事の大半は、公共事業という名目で国費・公費で処理される。すなわち税金が使われているのだ。
 「税金が使われる」ことは「納税によって成り立っている国の民」の1人であるからとやかく言わない。しかし、その「事業に正当性がなかった」り、「使い方に無駄があったり」では許しておくわけにはいかない。…

 私たちを乗せたマイクロバスは、むつ市の「校舎ほどに大きな土砂の山を何ヶ所も見せる伐採された松林」を過ぎて、田んぼの見える風景の中を走行していた。
  何という穏やかな農村風景ではないか。田んぼには、すでに刈り取られた「稻束」はなく、「はさ掛け」用の数年使い続けてことを示す「丸太の骨組み」がのどかに残されている。また、まばらに見られる民家からは、薄紫の煙がたなびき、大間やむつ関根で味わった「霙交じりの強い風」も弱まっていた。むつ市から「穏やかな田園風景」の東通村に入ったのである。

 「東通村」は下北半島の北東部に位置している。そして、「太平洋と津軽海峡にはさまれ豊かな自然が残る農業、畜産業、漁業が盛んなところ」だと言われていた。
 確かに、車窓からの風景を見る限りでは「東通村の農業は稲作と畜産が中心」であるということが偲ばれるのだ。その風景の中には「放牧されている黒牛」もいた。田んぼもあるが村全域には、なだらかな丘陵地帯が広がっている。その丘陵では肉用牛が放牧されているのである。
 一方、村の東と北は海にはさまれた65kmほどの海岸線を持っている。その地理的な特性から、東通村の主要な産業の一つは漁業でもあったのだ。
 「サケ」や「イカ」など豊富な魚類の他に、「ホタテ」や「アワビ」などの貝類、昆布や「ワカメ」などの海草類が特産品となっていたのだった。(続く)

建設中の「使用済み核燃料中間貯蔵・リサイクル燃料備蓄センター」

2008-12-18 05:48:08 | Weblog
(今日の写真も「むつ市関根水川目」に現在建設されている「リサイクル核燃料備蓄センター」である。この写真は工事車両が出入りをする厚い鋼板が数十枚敷かれた場所から撮ったものだ。手前がその鋼板(鉄板)である。
 右奥に見える「土塁」状のものは普通の民家よりも高いのだ。斜めに走っている車道の長さから類推すると、恐らく10mを越えているかも知れない。)

 歴史的に「土塁」を辿ってみると、それは敵の侵入を防ぐためのものであり、もう一つは「河川」の氾濫を防ぐためのものが大半だろう。後者は「堤防」である。
 土塁の役割は、いずれも「外側」から侵入してくるものを「防ぐ」というものであった。だが、これらは、いずれにしても10mの高さを持つものはなかったのではないだろうか。
 それでは、この巨大な「土塁」の役割は何か。それは「侵入」を防ぐことではなく、内部にある何かが外部に「放出」すること、「漏洩」することを「遮蔽」するためのものであると考えられる。
 危険この上ない「核燃料の燃え残り」を輸送したり、貯蔵するには「鋼鉄製の容器」に収納するのだそうだ。これを「金属キャスク貯蔵方式」という。
 だが、この方法を採っても、まだ「放出・漏洩」の危険があるので、この「土塁」によって「遮蔽」を図るのである。

 「文明」の発達は土塁の歴史的な意味まで変えてしまうのである。何という画期的なことだろう。人類万歳である。「リサイクル燃料」万歳である。現代の寵児、「リサイクル」万歳である。
 だが、この「寵児」たちはいつでも、人間に向けられた「弔辞」に変わる危うさを持っているということを忘れてはならない。

 「わが国では資源を有効に利用し、エネルギーを将来にわたってより安定して使えるようにするために、核燃料サイクルを原子力政策の基本方針としている」というのが「核燃料サイクル」を推進するものたちのお題目である。
 
 「現在、わが国ではウランも大部分を輸入に頼っているが、核燃料サイクルを実現することにより、エネルギーの長期的な確保が可能になる」というのが「核燃料サイクル」を推進するものたちの常套句である。

 「中間貯蔵施設」とは、「核燃料の燃え残りであるウランやプルトニウム」を再処理工場で処理するまでの間、「一時的に貯蔵・管理するための重要な役目をもつ施設」である。また、「中間貯蔵施設が出来ると、原子力発電所から再処理工場へ使用済核燃料を運ぶ流れと、中間貯蔵施設を経由する流れが出来るので、核燃料サイクル全体の運営に柔軟性が出来る」と「核燃料サイクル」を推進するものたちは胸を張る。
 だが、ここには大きなまやかしが2つあるように、私には思えてしようがないのだ。
 1つは「一時的に貯蔵・管理する」というが、それは1つの「核燃料の燃え残り」を「一時的」に貯蔵するという意味であって、「核燃料の燃え残りが次々と搬入される」以上、それは決して「一時的」なものではなく、まるで、「エネルギー不滅の法則」のように永遠に「続く」ことを言っているのである。
 また、「中間」という言葉にも惑わされてはいけない。「スタート」地点だろうが「中間」地点だろうが、「最終ゴール」地点だろうが、97%という「核燃料の燃え残り」を扱うことに変わりはないのだ。そこには常に「危険」がつきまとう。
 2つは「再処理工場へ使用済核燃料を運ぶ流れと、中間貯蔵施設を経由する流れが出来るので、核燃料サイクル全体の運営に柔軟性が出来る」という点である。
 特に「核燃料サイクル全体の運営に柔軟性が出来る」というところには十分留意するべきだろう。
 これは言い換えると「ウランやプルトニウムが約97%も含まれている核燃料の燃え残り」があちこちと広い範囲に拡散してしまうことでもある。推進するものたちは「この点」には触れようとしない。本当に「いいもの」であるならばもっと喧伝してもいいはずだ。
 だがしない。それは「放射性物質の漏洩」とそれに伴う「危険性」が増すという事実を知っているからに他ならない。「チェルノブエリ」の原発事故は、世界の誰もが知っているということを「認識」しているからだろう。

 私たちは、その「広大」な建設中の「ウランやプルトニウムが約97%も含まれている燃え残り核燃料中間貯蔵施設」をあとにして、東通原子力発電所に向かった。
 道脇の松林は伐採され、そこには、校舎ほどに大きな土砂の山が何カ所もあった。また、掘り出された岩石の山々も何カ所もあった。
 これらは、どこから掘り出されたものだろう。また、何のために使われるのだろう。

 ところで、土木工事には、私たちにはよく見えない基本原則があるようだ。それはある土木工事関係者が言った「土木工事は不滅だ」に象徴されている。
 それを、少し「岩木山の堰堤工事」に見てみよう。
 …道路を造る時に切り崩された土石や堰堤の底面的基礎部分から掘り起こされた土石は、そのまま沢に投棄および放置された。それは堰堤の機能部分、つまり命と言える場所の土石の堆積量の多さが証明している。堰堤は埋まりかけている。
 近い将来、堆積した土石や砂は確実に堰堤を越える。堰堤を越えるのだという確実性が堰堤の多さの意味になっていることは疑いようがない。
 これだといつまでも、「堰堤」と「道路」の工事は続くはずだ。…(続く)

リサイクル燃料備蓄センター、正しくは「使用済み核燃料中間貯蔵・リサイクル燃料備蓄センター」

2008-12-17 05:25:16 | Weblog
(今日の写真は「むつ市関根水川目」に現在造られている「リサイクル燃料備蓄センター」である。この工事は備蓄センターの第1棟であり、今後第2、第3棟の工事が始まるのである。)

 この工事は今年の3月から始まり2010年6月に終了することになっている。発注者は使用済燃料の貯蔵・管理事業を行うRFS「リサイクル燃料貯蔵株式会社」だ。
 この会社は東京電力株式会社と日本原子力発電株式会社の共同出資により2005年11月に設立されたものだ。
 施工者は「リサイクル燃料備蓄センター準備工事共同企業体」であり、その実態は大手ゼネコンの「間組」と「熊谷組」である。

 私はこの工事現場を訪ねて、まず最初に「工事中」であることを示す立て看板状の標示板を見た。その標示板には「核」とか「ウラン」とか「プルトニウム」という言葉が一切ないことに驚いた。
 正しくは「リサイクル燃料備蓄センター」とは「リサイクル核燃料ウラン・プルトニウム備蓄センター」であり、「リサイクル燃料貯蔵株式会社」とは「リサイクル核燃料ウラン・プルトニウム貯蔵株式会社」であるはずなのだ。 
 
 この施設の正式名称は『使用済み核燃料中間貯蔵施設「リサイクル燃料備蓄センター」』である。正式に書くと「使用済み核燃料」という語句は外すことは出来ないのである。
 だが、それを「使用済燃料中間貯蔵施設」または単に「中間貯蔵施設」と言ったりしているのだ。何故だろう。これは故意に「核燃料ウラン・プルトニウム」という語句を省いたものだろうと想像する。
 恐らく人々の抱く「核燃料ウラン・プルトニウム」に対する「恐怖感」や「不信感」を念頭に置いて、巧みにそれを使わないことで「核アレルギー」を起こさせないようにしたのだろう。
 「核アレルギー」という語句が存在すること自体、「核は危険なもの」だという認識が人々に浸透していることの証しだろう。何という姑息な手法だ。そんな小手先で人々を騙せると考えていることは、裏を返せば「地元民」を馬鹿にしていること、地元民に対する侮蔑である。
 そのような姑息な意味に気がつかず、下北の人々が「えへら、えへら」と日常を生きているとしたら悲しい。私は青森県人として、この「弘前」で怒っている。

 また、「リサイクル」という言葉にも怪訝さを覚える。枯渇する貴重な資源の有効活用として「リサイクル(再利用)」するのだという。そして、その工程をたどると、循環の輪(サイクル)を描くことから、このように呼ばれていると言うのだ。
 だが、どうも胡散臭い。「リサイクル」という語は現代の寵児のように、もてはやされている。「リサイクル」に反対するという「民意」は先ずないだろう。地球の温暖化を防ぐにも、多くの「リサイクル」手法が提言されている。
 恐らくこの語句の使用も、「リサイクル」という語は現代の寵児であり、「リサイクル」に反対するという「民意」はないということに便乗しているに過ぎないのではないか。これも、姑息な手段の1つだ。
 エネルギーの確保と資源の有効利用を掲げるのならば、「大量生産」と「大量廃棄」というサイクルからの脱却を図ることの方が先だろう。
 造らないで今あるものを再利用する。壊れたものを修理して使う。これを「リユース」という。「大量生産」と「大量廃棄」という実態を変えるにはこれしかない。
 「原子力発電所」で一度使い終わった使用済核燃料の中には、再利用できる燃え残りのウランやプルトニウムが約97%も含まれている。「原子力発電」というのはこれほど「効率」の悪いものなのだ。それなのに、どうしてこうも「原子力発電所」が沢山設置されるのだろう。「発電」以外になにか目的があるのではないかと勘ぐってしまうのは私だけだろうか。
 それとも、効率100%で燃やしたら一瞬にして「核爆発」を起こしてしまうという危険極まりないものなのだろうか。

 その残った「97%」の核燃料は、全国の原子力発電所から1年間に800~1000t・ウランとしての「使用済燃料」として残滓されている。
 現在、六ヶ所村で各種試験が行われ、試験のたびに「失敗」している危険な「再処理工場」の処理能力は年間800t・ウランだから、差し引くと1年間に200t・ウランの使用済燃料をどこかに貯蔵していく必要があるのだ。
 そのための施設が、この「使用済み核燃料中間貯蔵・リサイクル燃料備蓄センター」なのである。

 それにしても広大である。一緒にこの場所を訪れたM先生は、「中間貯蔵施設の広さに驚いた」と言っていたそうだ。(明日に続く)

  ●● 続「あさこはうす」 ●●

 昨日で「あさこはうす」に関することは終わったのだが、私が感じたこととその趣意を同じにしている感想が、一緒に行った人から届いたのでそれを紹介しておきたい。

 …『実は静かに、しかし、非常に強く、揺らがず、淡々と闘うというのは、全く誰にでもできるものではないですね。わたしは、すっかり感動してしまいました。それに、私有地をとりまくあの鉄柵のものすごい存在感は圧倒的でした。わたしは、あの鉄柵を写真に撮ってきたんです。私有というものを認めるという法律の存在の強さと頼りがいの具現と思ったんです。それから、あの地を捨てずにいる人の魂に与える圧迫感のすごさです』…