桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

弘法寺から総寧寺へ

2009年09月01日 07時22分43秒 | 寺社散策

 記憶違いかもしれません。昔の、幼いころの記憶だけが美しいのかもしれません。
 千葉県沖をかすめて台風が過ぎ去りました。「台風一過」といって、記憶の中では台風が過ぎ去ったあとは、いつも抜けるような青空が戻ってきたものですが、今朝は雲が多く、すっきりしない空でした。

 その台風が近づきつつあった日曜日(八月三十日)の午後、市川駅まで電車に乗りました。私の仕事先は市川市内にあり、すぐ近くにある社宅もどきのアパートに三年半もの間棲んでいたのに、市川駅で乗り降りするのは初めてです。
 予報では午後六時ごろから雨、でしたが、一時過ぎに庵を出るときはすでに霧雨が降っていました。 
 


 市川駅北口を出てメインストリートを真っ直ぐ北上すると、真間川を渡ります。
 万葉の時代、この地域は入り江で、たくさんの州があり、その州から州へと渡る橋が各所に架けられていたそうです。
「万葉集」に、

 足(あ)の音せず 行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋 やまず通わむ

 と詠われた真間の継橋(つぎはし)です。通う先は伝説の美女・手児奈(てこな)が暮らす家……。

 現在、閑静な住宅街に遺されている橋は飾りのようなもので、水の流れはありません。
 歩き始めたばかりだったので、入りませんでしたが、橋の先、左手にはちょっと入ってみたくなるような喫茶店。右手には手児奈霊神堂があります。
 正面奥のほうに見える杜は、このあと訪れる弘法寺(ぐほうじ)です。




 手児奈霊神堂。
 手児奈とは、奈良時代以前に市川真間に住んでいたとされる悲劇の美女です。一説によると、舒明天皇(629年-41年)の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁ぎましたが、勝鹿(葛飾)の国と嫁ぎ先の国との間に争いが起こったために恨みを買い、真間に戻りました。
 出戻りであることを恥じて実家には戻らず、我が子を育ててつつ静かに暮らしていましたが、男たちは美しい手児奈を巡って諍いを起こし、これを厭った彼女は真間の入江に身を投げた、と伝えられています。

 手児奈が亡くなって百年後の天平九年(737年)、その故事を聞いた行基菩薩が手児奈の霊を慰めるために開いたのが弘法寺で、その弘法寺の七世日与聖人が手児奈のお告げを得て、墓があったあたりに建てたのが手児奈霊神堂です。



 真間山弘法寺仁王門。
 行基が建立したときは求法寺と名づけられましたが、弘仁十三年(822年)、空海が来訪したのを機に弘法寺(こうほうじ)と改められました。建治三年(1277年)、現在の日蓮宗に改められ、寺の名は弘法寺そのまま、読みはもとどおり「ぐほうじ」となりました。
 明治二十一年の火災で、仁王門、鐘楼堂を除いて焼失し、現在の諸堂は改修されたものです。



 消失を免れた鐘楼堂。
 やはりお寺は広々としているほうがいい。天気のせいもあり、まったき無人というのもことさら風情がありました。



 樹齢四百年といわれる祖師堂横の伏姫桜(ふせひめざくら)。枝垂れ桜です。伏姫とは「南総里見八犬伝」のヒロインです。
 境内には三千本の桜があるそうです。伏姫桜は三月下旬には咲き始めるそうなので、染井吉野をバックにさぞ華麗な二重奏が見られることでしょう。人混みが苦手な私は見に行くのは遠慮致しますが……。



 太刀大黒尊天堂。
 ここに祀られている太刀大黒天神は日蓮さんが比叡山で修行中にみずから刻んだもので、五十五歳まで片時も離さず肌身につけていたといわれています。



 弘法寺裏で出会った野良の仔猫殿。後日、虎千代と名づけました。
 私が立ち止まると、友誼を深めんものと、せっかく近づいてきて坐ってくれたのに、私の鞄には食べ物がありませんでした。ひところは小分けしたミオを常に鞄に忍ばせていたものなのですが……。



 弘法寺から小雨の中を徒歩約二十分。里見公園入口に着きました。
 左の掲示板のあるあたりが国府台城本郭の跡。室町時代、里見氏が北条氏と戦った古戦場跡でもあります。
 文明十年(1478年)、太田道灌が下総国境根原(現在の柏市酒井根付近)での合戦を前に、ここに仮陣を築いたのが始まりです。翌年、道灌の弟・太田資忠らが城を築きました。

 豊臣秀吉による小田原征伐後、北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされてしまいました。江戸川に面した高さ20メートルの台地上にあるため、江戸を見下ろすと家康が不快に思った、というのが理由だ、といわれています。



 永禄七年(1564年)、里見義弘率いる八千の軍勢はこの国府台で北条氏康軍二万を迎え撃ちましたが、北条軍の急襲を受けて敗北。五千の戦死者を出したといわれています。
 戦死者たちの屍は弔う者もなく放置されていましたが、文政十二年(1829年)になって、ようやく亡霊を慰める塚が建てられました。
 左から里見諸士群亡塚、里見諸将霊墓、里見広次公(義弘の弟)廟。



 文明十一年(1479年)、太田道灌が建立したと伝えられる国府台天満宮。祭神は菅原道真。
 国府台城の鬼門の方角にあります。仮陣を設営した翌年にこの天満宮を建立しているということは、道灌は最初から城を築こうと考えていたものと思われます。



 曹洞宗総寧寺。
 このお寺の創建は永徳三年(1383年)と古いのですが、戦乱に巻き込まれてたびたび消失。場所も転々とすることを余儀なくされました。
 最初に建立されたのは、千葉からは遠く離れた近江の坂田郡でした。
 その後、遠江国掛川、関宿宇和田(埼玉県幸手市)、関宿内町(千葉県野田市)と移り、寛文三年(1663年)、 徳川家綱によって国府台城跡地である現在地に移転。現在に到る。
 明治期までは隣接する里見公園全体が寺域だったようです。

 総寧寺に到るころ、雨は本降りになってきました。夕暮れにはまだ間があるのに、空はすでに暗い。
 
あと一、二か所巡る予定もありましたが、近くを市川駅-松戸駅のバスが走っているのを幸いに、この日はここで尻尾を巻くこととしました。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56430.html


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