桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

平將門補遺(本編)

2009年08月25日 20時21分55秒 | 歴史

 稲田を抜け、台地を上って行くと、墓地があり、海禅寺の伽藍が見えてきました。途中、稲田の小竜巻の跡に見とれて写真を撮ったりしていたので、南守谷の駅から三十分を要しました。



 寺の縁起によると、承平元年(931年)、平將門が高野山を模して創ったとされています。周辺は高野(こうや)村といい、いまでも地名は守谷市高野です。



 本堂前に並んだ八基の供養塔。一番右の一段と高いのが將門の供養塔です。
 残りの七基は七人いた影武者の供養塔であり、墓でもあるといわれていますが、建立されたのは江戸時代に入ってから……。それぞれに名前が彫られているようですが、風雨に晒されてはっきりせず、読み取ることはできません。



 將門の供養塔。これだけは「平親王塔」と彫られた文字を読み取ることができました。



 釣り鐘の下に憩う小さきものあり。
 眠っているふりをしながら、ときおり左眼を開けて私を窺っていました。我孫子の將門神社で私を歓迎してくれた猫の宮司殿とは違って、こちらはどうやらご住職ではないらしい。

 南守谷駅に戻ると、取手駅と守谷駅を結ぶバスの便がありました。
 守谷城址近くまでバスで移動しようとバス停を捜しました。バス通りは関東鉄道の踏切を越え、私道を思わせるような覚束ない道を辿って行った先にありました。
 地図を見ると、カラオケハウスなどが記載されているので、そこそこに賑やかな場所だと考えていたら、古くからの街道らしい二車線だけの道でした。
 時刻表を見ると、あいにくバスは五分前に通過したばかり。さほど距離もないと思われたので、歩いて行くことにしました。


 
 海禅寺から徒歩五十分で辿り着いた
守谷城址の碑。
 ここにあるのは碑と説明板と記念碑だけ。城址として残されている公園まではあと五分ほど歩かなければなりません。
 もともと守谷城が築かれたのは現在の城址公園で、鎌倉時代と推定されています。戦国期になると城域が拡大され、この碑のあるところに本郭が移されました。

 守谷は相馬御厨の本拠地だったといわれます。
 御厨とは在地領主たちが領地を侵されるのを防いだり、脆弱な地位を守るために、影響力の強い寺社(伊勢神宮や春日大社など)や有力貴族に寄進をした土地のことをいいます。領主自身は下司という管理人の地位を与えてもらい、収穫の一部を税金のような形で納めるのです。

 將門は相馬御厨の下司の任を得て帰郷したので、守谷に館を構えた可能性があるといわれ、最初に守谷城を築いたのは將門だという説も生まれるのですが、歴史上、相馬御厨の名が現われるのは、將門の時代(?-940年)よりずっとあとの大治五年(1130年)です。
 相馬郡司だった千葉常重が所領の相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進し、その下司職となったのが最初ですから、將門が下司になったというのはどうも眉唾ものです。
 


 
七月初め以来、二度目の訪問になる守谷城址の遠景です。



 
前に訪れたときは携帯電話のカメラしかなかったので、もう一度水濠跡を撮影。

 


 
守谷城本郭跡。
 南守谷から私が歩いてきたバス通りには「平將門城址→」という標識がありました。確かに將門が築いたという伝説はありますが、発掘調査ではそれを裏づけるものは何も見つかっていません。
 守谷市も先のような標識を掲げながら、本郭に設置している説明板では「可能性は低い」と否定しています。

 実際にこの城を築いたとされる相馬氏は將門の子孫だと僭称しましたが、これは將門の人気が高いのに便乗しただけ。実際の祖は將門の叔父に当たる平將文です。
 叔父の末裔であれば、遠縁には違いないので、真っ赤な嘘とはいえませんが……。



 
守谷城の空堀跡。
 昼なお暗し……だけならいいけれども、この時期は藪蚊の巣窟です。森を抜け出したあともウィーンウィーンと追撃を受けました。



 
城址公園の北端には守谷沼があります。どのような経緯で形成された沼なのか、どこにも説明がなく、いまのところはよくわかりません。
 かつては守谷城の水濠は小貝川に繋がり、利根川に通じていたそうです。沼から小貝川までの低地は稲田に変わっています。灌漑用に残したのでしょうか。



 
古城川プロムナード沿いに守谷駅を目指しました。
 初めてきたときは本物の猫が昼寝をしていると思ったベンチ。一人ならいいが、二人で坐ろうとすると、動かせないのでちょっと邪魔な感じです。結局、誰も坐ろうとはしないようで、草も伸び放題です。



 守谷駅間近でこんな看板を見かけました。



 
真ん中の瓢箪は目測50センチはあるように見えました。ほとんどはクラブの人が色付けをして、置物などの工芸品に仕上げるようですが、呑兵衛の私は酒器しか連想できません。酒を入れたら五~六升は楽に入るのでは……。中には1メートルに及ぶものがあるそうです。

 庵に帰ってから知ったのですが、南守谷駅から守谷城址へ歩く間に、愛宕神社と西林寺がありました。

 愛宕神社は將門が京の愛宕神社に模して創建したと伝えられ、西林寺は將門の持仏を安置していると伝えられています。守谷駅の向こう側には長竜寺があり、ここも開基は將門だと伝えられています。
 いずれもたいして寄り道にはならない場所にありました。とくに愛宕神社は寄ろうかと思って路地を折れながら、行かなかったところです。將門に関連していると知っていたら、寄らずにはおかなかったのですが、当日はなんの知識も持っていませんでした。

 一つのことを知ると、また新しい史料なり伝説に出会います。將門探訪の小旅行はポツポツとですが、永遠につづくのかもしれません。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56181.html


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