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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

ブログの空白

2009年06月09日 21時09分02秒 | つぶやき

 五月二十七日から六月三日まで、一週間以上ブログの空白をつくってしまいました。
 その間、まだカメラは元気で紫陽花日記(5)、同(6)用に紫陽花の写真を撮ってはおりましたが、ブログを書く気にはなりませんでした。
 ちょっと落ち込んでいたのです。
 私をブルーにさせた原因は「札幌」というキーワードでした。

 私は「札幌」という地名に加えて、「死」とか「別れ」というキーワードを目にしたり耳にすると、青春時代の「あること」を想い出して、いまの歳になっても、というか、いまの歳だからこそというべきか、涙腺を緩ませてしまうのです。
 一連のキーワードが大学で同じクラスだったS・Tのことを想い出させるからです。
 もう四十年も昔のことになるのに……。

 キッカケは私が参加しているサイトでした。
 私は自分のブログを持っているので、そのサイトに書き込みをするということはあまりなく、人の日記を読んだり、写真を見たりしていましたが、先月の末近く、たまたま読んだ一人の女性の日記に「札幌」「死」「別れ」という言葉が並んでいるのを目にして、自分がどうしようもなくブルーになって行くのを止めることができなくなってしまいました。

 北海道で生まれ、「札幌」で長く店をやり、「死んでしまった」カーナビーツのアイ高野やゴールデンカップスのデイブ平尾たちと友達だったという女性の日記でした。
 エッセイや小説を書いているというその女性の文章は、叙情的で、細やかで、その文章だけでも私を物思いに沈ませるような魅力がありました。私にとってはそれだけで充分なのに、「札幌」「死」「別れ」という言葉がちりばめられていて、胸を掻きむしりたくなるような気持ちにさせられてしまったのです。

 私が大学に入学したのは昭和四十一年。
 仏文科という学科で、新入生は男子五人、女子三十九人でした。伝統的に女子の多い学科ですが、まだ若くて友達のようだったフランス語文法の講師によると、「君たちの学年は近来稀なる豊作」ということでした。「豊作」とは言わずもがなですが、女子学生に美人が多いという意味です。
 そんな「豊作」の中で、S・Tはあまり目立たない存在でした。私も入学した年の夏休みになるまで、彼女が同じクラスにいることに気づきませんでした。

 二年生の秋、私はフランス語劇に主役級で出ることになりました。二年生が劇をやるのは恒例で、例年数少ない男子学生は主役端役大道具小道具を問わず、おのずと全員が参加を余儀なくされ、二人に一人は舞台に出て恥をかくことになっているのです。

 S・Tは小道具を担当。私の衣装をつくり、実際の公演では舞台の袖口で私の着替えを手伝ったり、メイクを施したりする係になりました。
 夏休み中に一度、秋の公演直前に一度、と劇のための合宿が組まれたので、S・Tと言葉を交わす機会が多くなりました。といっても、二人だけで話をしたという記憶はありません。
 学生食堂などで顔を合わせると、他愛もないことを喋ったりしていましたが、いつも周りにはその他大勢がいて、二人だけで話す機会は訪れないままです。私は晩熟(おくて)でありました。

 このころ、「エロイーズ」という曲がありました。バリー・ライアンという歌手がポールというお兄さんとのコンビを解消したあと、1968年に発表した曲です。
 ヒット曲と呼ぶには程遠かったので、私と同じ世代の人でも知っている人はほとんどいないかもしれません。
 確か七分近くもある長い曲(実際は六分弱)でした。内容の大部分はS・Tとは関係がありませんが、当時としては異例ともいうべき曲の長さと、決して上手いとはいえないが、激しくなったり、落ち込んだように静かになったりする曲を一所懸命に歌っている姿勢に、私を強く打つものがありました。

 大学近くにあって、よく入り浸っていた喫茶店では、レコードを持って行くとかけてくれました。そこにS・Tを誘ったことはありませんでしたが、いつか誘って一緒に「エロイーズ」を聴こうと夢見ていました。

「決して上手いわけではないが、この歌手の一所懸命さと僕の一所懸命さには通じるものがあるんだよ」

 ……そんな言葉をS・Tに伝えようと考えていて、密かに私のエロイーズはS・Tだと決めていました。相手の気持ちを訊ねてみることもなく……。

 季節はいつだったろうか……。
 夏だったような気もするが、曖昧な記憶しかない。

 どういうキッカケであったか。前後もまったく記憶がありませんが、突如デートの機会が舞い込んできました。
 昭和四十四年、ということだけは確かです。翌年、彼女は卒業を控え、ラグビーとフランス語劇にうつつを抜かしていた私は、学部に進学できるかどうかが決まる二年生後半で留年が決まっていて、卒業は程遠くなっていました。
 年が明けてしばらくすると、彼女は大阪へ行くことになっていました。
 昭和四十五年の三月十四日から九月十三日まで開かれた大阪万博のコンパニオンになることが決まっていたのです。

 まだ「エロイーズ」は一緒に聴く機会がないままです。

 デートといえるようなものではありませんでした。時間にすると、三十分ぐらいだったか。
 大学から彼女の下宿先まで二人だけで歩くことになったのです。
 その年、彼女が四年生の春です、日立系の会社に勤めていた父上が札幌に転勤になって、彼女は「札幌の子」になり、バスで数分のところに下宿していました。
 しかし、なんてこったい! オリーブ! と、いまの私ならポパイばりに叫ぶところです。

 映画を観るか、喫茶店でも行こうか、と誘えばいいのに、幼稚な私の頭は少しでも時間を長引かせようと、遠回りして送って行くことしか考えなかった……。
 挙げ句、通ったところがなんと霊園の中でした。
 何かを話して歩きながら、私はせめて手を握らねばこのまま終わりになるかもしれないと考えていました。しかし、手を延ばせないままに、無情にも彼女の下宿が近づき、やがて真ん前に到ったとき、下宿のおばさんが立っていて、にっちもさっちも行かなくなっていました。

 電話では何度か話したことはありますが、二人だけになれたのはこれが最初で最後だったと思います。

 万博の開催中、はがきのやりとりをしました。「好きだ」とは書けなかった代わり、「エロイーズ」をもう一枚買ってきて、彼女に送りました。
 当時のことですから、ドーナツ盤と呼ばれていたシングルレコードです。

 考えてみると、大阪で仮住まいをしていた彼女がレコードプレーヤーを持っているはずがない。莫迦なポパイです。はがきには万博が終わって札幌に帰る前、必ず途中下車をするように、とだけ書き添えました。

 その年の夏休み、私はダム工事のアルバイトをしていました。夏休みが終わるころ、S・Tに会えるはずでした。
 フランス語の翻訳という楽チンでペイもいい仕事もありましたが、身体をこき使い、汗まみれになりたいと思って、あえて肉体労働を選んだのです。
 ところが、そろそろ九月の声を聞こうというころになって、私が仮住まいをしていた飯場に、体調を崩してしまったので、真っ直ぐ札幌へ帰る、とだけ書かれたはがきが舞い込みました。

 そしてその冬、
 死んだ ― 
 という寝耳に水の報せを受け取ったのです。

 彼女の面影を追っているうち、ペギー・マーチが日本語で歌っていた唄を想い出しました。
http://www.youtube.com/watch?v=AETBr6yFm0A

 ペギー・マーチではなく、リトル・ペギー・マーチといえば、やはりこの曲。
http://www.youtube.com/watch?v=S3FkWFCRUdk

 しかし、私はこの大ヒット曲のあとで、人知れず出ていたリック・ネルソンのバージョン(♂用の歌詞なので“アイ・ウィル・フォロー・ヒム”ではなく、“アイ・ウィル・フォロー・ユー”)のほうが身につまされる想いがするので、好きでした。
http://www.youtube.com/watch?v=vG5OTWlgvc0

 最後に今日の本題の「エロイーズ」。
 私がS・Tと一緒に聴きたいと思ったころから四十年以上が経過しています。歌い方をデフォルメしてしまっているので、純真な青年の想いというものが消え去ってしまっているように感じられますが、バリー・ライアンも私と同じようにお歳を召しました。
http://www.youtube.com/watch?v=EdcFQgKY-UQ