桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

利根運河を歩く(1)

2011年02月20日 21時20分41秒 | 歴史

 柏市文化財マップをゲットしました。
 柏市民でもないのに、執念深く柏市役所まで行ったのです。ここにもなければ、どうしてやろうかと意気込んで出向きました。猛烈な風に見舞われた十八日のことです。
 意気込んだのは、その強風に煽られ煽られして、ときおり転びそうになりながら、柏駅から十五分もかけて歩いたからでもあります。

 柏市民ではないので、市役所に行くのは初めてです。どこに入口があるのかわからぬまま、たまたま辿り着いたのは別館でした。
 やがて理解するのですが、市役所は柏駅にはそっぽを向いていて(つまり本庁舎の正面入口は向こう側にあるのです)、駅から見ると、別館、本庁舎、第一庁舎という順に建物が並んでいるのです。
 市役所といえば、入ると受付とホールがあり、そこに市のPRを兼ねて観光や産業のパンフレットが置いてあるものです。
 そういうイメージとは大違いでしたが、千葉県第五位の人口を誇る都市の市役所にしては貧弱に思える受付(実際は市役所の受付ではなかった)を過ぎると、棚にはパンフレットが並んでいました。すわ、と思いましたが、文化財マップらしきものはありません。ざっと眺めて「利根運河絵図」と手賀沼を紹介する「TeGaマップ」の二点をもらうことにしました。
 ほかにめぼしいものはないのか、と見回してみて、初めて私がいるところは本庁舎ではなく、別棟だということに気づきました。

 本庁舎に行くと、私のイメージどおりの受付があり、パンフレットの並ぶコーナーがありましたが、肝心のマップはありません。
 受付で、行政資料室というところにある、と教えられて行っても見当たらないので、訊ねてみると、外来の人からは見えないところに置いてありました。係の人がさも大事そうに出してくれたので、柏に税金も納めていない私としては、うやうやしく恐縮しながらいただきました。
 幾重にも折り畳まれた印刷物で、パンフレットにしては重量があり、拡げてみなくても大きいことがわかるので、開いてみたのは家に帰ってからです。


 
 家に帰ってから拡げると、縦59・4センチ、横84・1センチ。すなわちA1サイズの巨大なパンフレットです。内側に柏市全域の地図、外側に文化財の解説などが印刷されています。
 ところが……。
 私の期待が別のところにあったので、この地図の責任ではありませんが、開いて見てガッカリしました。

 文化財の地図なのです。
 当たり前といえば当たり前かもしれませんが、千葉県と柏市が指定した有形・無形の文化財三十二点、天然記念物六点、計三十八点についての説明が載っているだけです。
 この地図が手に入ればわかるだろうと私が期待した醫王寺、吉祥院の二か寺は文化財ではない。ランドマークの一つとして地図に記載されているだけで、由来などは何一つ知ることはできませんでした。

 


 文化財マップへの興味はいっぺんに冷めてしまった代わり、この「利根運河絵図」に興味を惹かれました。柏の市役所で手に入れたものですが、柏市がつくったものではなく、隣の流山市観光協会の製作になるものです。



 土曜日に行ってきました。
 まだ朝のうちは寒いので、午前中は身体が動きません。出かけたのは午後。曇ながら、ときおり陽射しが出るという天気で、寒い散策になりました。

 柏から東武野田線に乗って五つ目の運河駅で降りました。柏駅での乗り換えがスムーズだったので、我が庵を出てから、三十分で着いてしまいました。



「運河」という駅名どおり、駅を出てちょっと歩くと利根運河があります。
 明治時代に開削された、利根川と江戸川を結ぶ長さ8・5キロの人工河川です。

 明治十九年、旧内務省が国営事業として計画しましたが、翌年には財政上の理由で計画は中断。
 利根運河株式会社という民間企業の手で着工されたのはそのまた翌年の明治二十一年。約一年半後の明治二十三年に開通しています。
 いまは運河としての役目を終えているので、水深も浅く、船の通航はできませんが、かつては小名木川~江戸川~利根運河~利根川と経由する蒸気船が東京-銚子間144キロを十八時間かけて結んでいた大動脈の一つだったのです。

 川岸の道は「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選ばれていて、春は桜の名所として名高いところですが、いまは堤の草も刈り取られたあとで、花らしい花といえば、ところどころに咲く白梅があるのみです。

 何を見ようというのか、好き好んでこういう季節にやってきました。
 とくに計画はありません。両岸を歩けば四時間という長丁場になるので、とても全部は歩き切れない。強いていえば、パンフレットに載っていた四本の巨樹を眺めてみることぐらいです。ただ、四本は離れ離れの場所にある上、二本は運河沿いではないようです。



 ひとまず橋を渡らずに済む左岸を、江戸川方面に向かって下ることにしました。画像に写っているように歩行者専用の浮き橋があって両岸を行き来することができます。



 名もなき林ではありません。深井城址です。
 先の「利根運河絵図」に載っていたので、寄ってみようと考えてはいたのです。当然標識ぐらいはあるだろうと思っていたのですが、残念なことに通り道には城址であることを示すものは何もなかったので、前を通り過ぎただけです。
 ただ、たんなる林にしてはなんとなく「怪しい」と感じて、写真だけ撮りました。しかし、もう少し先にこんもりとした林が見えていたので、城址はそっちなのだろうと思って、中には入らずに通り過ぎてしまいました。

 築城時期は未詳ですが、戦国時代は小金城を本拠としていた高城氏の支城となって、重臣の安蒜(あんびる)一族が支配していました。
 豊臣秀吉の小田原攻めの際、城主だった安蒜備前守は高城氏の他の重臣たちと同じように、小金城の留守を守るために出向きます。小金城の開城とともに深井城も廃城とされてしまいました。

 目星をつけた、もう少し先の林はたんなる林に過ぎませんでした。
 かなり歩いてきてしまっていたので、やはり先ほどのところが城址だったのかと気づいたものの、戻るのもかったるく、歩行者と自転車専用の西深井歩道橋で対岸に渡り、上流へ引き返します。



 運河大師。
 大正二年、運河流域の住民が弘法大師像を安置した札所を建てて、新四国八十八か所運河霊場を創建しました。しかし、昭和十六年の大水害による堤防の改修工事で、堤防上にあった札所は立ち退かされてしまっていました。
 これは柏・野田・流山の三市の有志が大師堂を建立して、近くの寺に移されていた十七体の大師像を再びお祀りしたものです。



 数尠ないながら、そこここに白梅がありました。
 どれも古木かつ巨木です。桜の季節に訪れていたら、気がつかなかったでしょう。この日にきてよかったと思いながら眺めました。



 明治初年創業の窪田醸造。「勝鹿」という日本酒をつくっています。

 


 流山市立運河水辺公園に建つアントニー・トーマス・ルベルタス・ローウェンホルスト・ムルデル(1848年-1901年)の顕彰碑。
 ムルデルはオランダ人土木技師。
 明治十二年、いわゆるお雇い外国人として来日。児島湾干拓、淀川治水など日本国内の多くの土木工事に関与しましたが、代表的な仕事は利根運河の開削です。
 運河運用開始の一か月前、任期切れのため帰国。開通式には出ることができませんでした。

 運河開削の中心になったのは広瀬誠一郎(1838年-90年)という人物です。
 
天保九年、現在の茨城県取手市に生まれ、県会議員、郡長を歴任したのち、サッポロビールなど多くの会社設立に関与した実業家・人見寧(1843年-1922年)とともに利根運河株式会社を設立、筆頭理事に就任(社長は人見)しました。
 この広瀬も運河の開通式を見ることなく病没しています。

 このあたりで空は完全に曇って、気温も急激に下がってきました。ときおりバッグから絵図を引っ張り出しながら歩いています。巨樹はたまさか対岸であったりして、まだ一本も見ていません。
 そろそろ帰るかと思いながらも、あと一つだけ見ておきたいところがあったので、ブログは〈つづく〉として、もうちょっと歩きます

↓明日更新するつもりの〈つづき〉を併せて、歩いたところのマップです。
http://chizuz.com/map/map84544.html


※二年半前の九月十五日、初めてブログを開設してから、昨日が八八八日目ということになりました。たまたま末広がりの数字が並んだというだけに過ぎませんが、途中で死ぬかもしれぬ、と思うほど体調を崩した日々があったことを振り返ると、よくぞつづけられたものだ、と感慨深いものがあります。

 編集画面というページを開くと、前日のブログ閲覧者○人、訪問者○人と数値が出ます。私には閲覧者と訪問者がどのように違うのかわかりませんが、昨日時点の閲覧者累計は二十万人余、訪問者は八万人余となりました。独りよがりなブログなのに、いろんな人に見ていただいていると思うと、もう少し生きなくてはならぬ、と思います。


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