桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

龍ヶ崎を歩く(1)

2011年09月17日 22時08分33秒 | 寺社散策

 竜ヶ崎へ行ってきました。



 利根川を越えて、取手~藤代と進み、佐貫駅で降りました。竜ヶ崎(佐貫も龍ヶ崎市内ですが)へ行くのにはここで関東鉄道に乗り換えるのですが、佐貫には寄ってみたいお寺があったので、ひとまず駅を出ることにしました。

 駅前のロータリーをあとにすると、しばらく住宅地がつづきます。住宅が途切れると、畑と原っぱが拡がっていました。



 江川に差しかかりました。牛久沼を水源とし、用水路としてつくられた河川です。全長は10キロほど。



 田園地帯を抜けると小高い丘に突き当たります。

 上って行く坂には「足袋屋坂」という標識が建てられていました。なんでこんな標識が? と訝りながら、標識の裏には坂の由来でも記されているのかと見てみれば、何も記されていません。なんのこっちゃ?

 坂を上り切ると、整然とした住宅街に出ました。畑と野っ原を越えた先に、忽然と街並みが現われるので、狐につままれたような気分です。



 住宅街を進むと曹洞宗の金龍寺があります。ここが訪ねたいと思っていたところです。佐貫駅からここまで徒歩十五分。
 創建は元享元年(1321年)です。約七百年という歴史を持つ古刹ですが、もとは上野国新田郡(現・群馬県太田市)に建てられたお寺で、建てたのは新田義貞(1301年?-38年)です。
 天正十八年(1590年)、義貞の子孫・由良国繁(?-1611年)が豊臣秀吉から牛久に五千四百石を与えられたことから、寺は牛久に遷され、さらに寛文六年(1665年)に現在地に遷されました。

 このお寺には国指定の重要文化財・絹本着色十六羅漢像(けんぽんちゃくしょくじゅうろくらかんぞう)があります。



 寺伝によれば、建長寺開山の蘭渓道隆(1213年-78年)に贈られたものが北条氏を経て、新田義貞の手中に帰したということです。



 我が宗門のお寺なので、歴住の墓所を捜して焼香することにします。墓所は本堂の後ろ、一番奥まったところにありました。

 

 歴住の墓所と同じ場所に、新田義貞(中央)、貞氏(左)、由良国繁の墓がありました。

 

 金龍寺の門前に戻ると、マップを貼り出している家がありました。このマップで界隈が水戸街道の若柴宿という歴史ある街並みであったことを知りました。

 このマップを貼り出していたのは、田舎庵というお蕎麦屋さんにして、界隈ただ一つの店です。



 千住宿から数えると七つ目の旧若柴宿跡です。藤代宿(江戸側)、牛久宿(水戸側)へ、ともに一里(約4キロ)と近いため、本陣はなかったということです。
 いまはなんの変哲もない街並みに変わっていますが、よくよく見ると、すべて建て替えられた形跡はあるものの、立派な四脚門を持つ家、広大な母屋を持つ家が並んでいました。
 昔の建物が遺っていないのは、何度か火災に遭ったからだそうです。



 仲宿坂(東屋坂)と書かれた標識。
 こういう標識があちこちに建てられていますが、先の足袋屋坂と同じく裏側はのっぺらで、由来その他の説明が何もないため、ここが若柴宿跡だと知ったばかりの私には、なんのこっちゃ? と首をかしげるだけで終わってしまいました。



 金龍寺門前から500メートルほど歩くと、道は鍵型に右(南=江戸方向)へ曲がり、下り坂になります。江戸方面からくると、若柴宿の入口になる大坂です。


 金龍寺に参詣したあとは佐貫駅に戻り、関東鉄道に乗って竜ヶ崎へ行くつもりでした。
 関東鉄道竜ヶ崎線は佐貫-竜ヶ崎間に、入地という駅が一つあるだけの全長4・5キロという短い鉄道です。次に訪れようと考えている来迎院はその入地で降りて、佐貫方面へ少しばかり引き返すということなので、大坂まできたあとで佐貫駅に戻るより、このまま歩いて行っても、それほど遠くないのではないか、と考えて、歩いて行くことにしました。
 ただ、インターネットからプリントした地図を持ってきてはいましたが、佐貫駅から入地駅までは電車に乗る手はずだったので、途中が抜けることになります。



 用水沿いの道を歩き出して七~八分。進行方向左手にずっとつづいていた斜面が急に開けたと思ったら、このように広い石段が現われました。苔むした石段なら、とくに不思議に思いませんが、妙に新しく、きれいなのが違和感を懐かせました。

 石段の前には祭りがあれば、奉賛額を張り出したり、提灯を吊るしたりするような鉄パイプの柵がありました。



 石段の上には一体何があるんだろうか、と訝りながら石段を上りました。上り切ると、じつに立派な山門が現われました。
 山門であるからには、普通は○○山という扁額がかけられていそうなものですが、何もありません。
 ここが来迎院? と思いながらも、目指していた来迎院にしてはあまりにも近過ぎるし、新し過ぎる感じです。付近は持参してきた地図がない部分に当たるので、何が何やら皆目わかりません。



 これまた立派な本堂(?)です。
 先の山門を恐る恐るくぐり抜けたとき、この画像に後ろ姿の写っているご婦人と出会いました。
 先方から挨拶をされたのを幸い、「ここは来迎院さんですか?」と訊ねると、しばし首をかしげたあと、「正信寺です」と答え、返す刀で「受付を通されましたか」と、なんとなく予測していたような質問を受けました。
 山門前には「一般の方の通り抜けはできません。御用の方は受付までお申し出下さい」という注意書きがあったので、ちょっとだけ覗かせてもらったら、すぐに退散しようと考えて入ったのでした。「いいえ」と答えると、携帯電話を取り出して、「受付に連絡しますので……」

 正信寺という寺の名は、ご婦人から教えられたときには「ショー○○ジ」と聞こえただけで、聞き取れませんでした。家に帰ったあと、Webで調べ、山門や本堂は「最後の宮大工」といわれた西岡常一さんのただ一人の内弟子 ― 小川三夫さんが建築に当たったとわかりました。この小池さんのことは、NHKBSプレミアムの「たけしアート☆ビート(今年六月二十二日放送)」で視ていました。
 ところが、この寺の実態はホームページもないのでわかりません。

 ともかく、ここが来迎院ではない、とわかったので、先のご婦人以外の誰か ― たとえば屈強そうな寺男 ― に誰何でもされては大変と、這々のていで境内をあとにしました。



 正信寺から三十分以上、延々と歩きつづけ、ようやく来迎院に着きました。天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来立像。
 創建は室町時代と推測されていますが、正しい年代は不明です。



 来迎院多宝塔。関東以北では最も古い塔で、国の重要文化財の指定を受けています。
 弘治二年(1556年)、当時の領主で江戸崎城主だった土岐治英(?-1584年)が、この塔を修復し、天下泰平、五穀豊穣、悪病除災を祈ったといういわれがあります。
 建立時期は不明ですが、
平成十~十二年度に実施された改修工事で、宝珠の銘文に「希代廟塔修繕之為檀越」とあることが確認され、土岐治英が祖先の霊を祭る希代の塔を修繕するために施主を務めていることがわかったのです。
 この地方ではほとんど類を見ない多宝塔形式で、室町時代の特色をよく示す建築物だと評価されています。
〈つづく〉


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