桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

無患子(ムクロジ)と2012年五月の薬師詣で・上尾市

2012年05月09日 23時50分45秒 | 薬師詣で

 昨八日は毎月恒例の薬師詣での日。
 埼玉県の上尾に薬師堂のある寺院が二か寺あるのを見つけたので、行くことにしました。



 上尾といっても、下車するのは北上尾の駅。我が庵のある北小金からだと新松戸、南浦和、浦和(この日は大宮)と、三度も乗り換え、一時間十五分かけて高崎線の北上尾駅で降りました。
 この駅に降り立つのは二年前の三月二十八日以来です。乗り換えの不便さをおして、こんなところまできたのは薬師詣でのほかに、龍山院というお寺にある無患子(ムクロジ)の若葉を見たいと思ったからです。



 訪れるのは二度目に過ぎないのに、駅を出て歩き始めると、緩くカーブしている道の様子など、前回訪問したときの記憶が蘇り、地図を片手に持ちながらも、その地図には一度も目を落とすことなく、駅から約十八分で上(かみ)氷川神社に着きました。

 


 前回のブログにも載せた上氷川神社の狛犬。とくに愛嬌がある、向かって左(画像上)の吽像。



 上氷川神社の森を抜けると、龍山院のムクロジが見えてきました。
 毎日の散歩の途上、いつも私が眺めている流山・観音寺のムクロジに較べると葉の出るのは少し遅く、葉が顔を出し始めたばかりです。青々と繁るのはもう少し先。



 真言宗智山派の寺院・龍山院山門です。



 本堂前にあるムクロジの樹です。幹周り3・6メートル、樹高14メートル。

 寺伝では正徳元年(1711年)、当寺十三世の覚本という和尚さんが檀徒代表と出た諸国巡礼から帰ったとき、桜とカヤ(榧)と一緒に植えたものだといわれていますから、去年がちょうど三百年です。

 二年前にきたとき、なかば土に同化しかかっている実が根元に落っこちているのを見つけました。
 ムクロジの樹を見たのはそのときが初めてだったので、その実がムクロジの実かどうかわかりませんでしたが、もらって帰ってプランターに埋めました。

 その後、いろんなところでムクロジを見ることになり、実が生っているのも見て、プランターに播いた実は確かにムクロジに違いないとと確信が持てるようになりましたが、肝心の実は芽を出す気配がありませんでした。

 そして……実を播いたことなど忘れかけていました。
 しかし、播いてから三か月ぐらいで芽を出してくれました。
 樹齢三百年の樹の子ども……。
 そう考えると感慨深いものがありました。その樹がいまは我が庭に移し替えられて、90センチほどの高さに育っています。

 境内は無人だったので、誰に遠慮することもなく、そういうことどもをブツブツと呟きながら、幹を撫でて樹の周りを一周しました。家に帰ったら、我が手のひらで感じ取った母のぬくもりを、子に伝えてやろうと考えたからでした。

 


 ムクロジと一緒に植えられたという言い伝えのあるカヤです。樹質のせいか、ムクロジのようにどっしりとはしていません。幹もかなり朽ちている様子です。

 もう一本の桜は昭和七年の竜巻で倒れてしまったそうです。 

 龍山院を出たあとは臨済宗円覚寺派の少林寺を目指します。
 薬師詣での第一の目的地はずっと先の密蔵院なのですが、途中なので寄って行くことにしました。

 ここからは初めて歩く道なので、地図必携です。



 龍山院から八分で少林寺に着きました。
 正応元年(1288年)の創建。本尊は十一面観音。
 山門の梁(はり)に「宝暦三癸酉歳」(1753年)と記されているので、山門はこの年の建築物と考えられています。文化三年(1806年)の火災で本堂や庫裡は焼失しましたが、この山門だけ焼けることなく、残りました。



 少林寺本堂。
 開山は鎌倉・円覚寺二世の大休正念大和尚。中国・温州(うんしゅう)の人で、文永六年(1269年)に来日、少林寺を創建した翌年示寂。
 開基は北条時宗の後室であり、九代執権・貞時の母でもある覚山尼(かくざんに)という人。この人は縁切り寺として知られる鎌倉の東慶寺の開基でもあります。



 できるだけ車の通らない道を選んで歩いていたら、上平公園という公園にぶつかりました。
 夜間照明つきのテニスコートが12面、5500人収容の野球場があるなど、結構広大な運動公園です。

 その野球場の前に、なんだか見たような葉を繁らせている樹がある、と思って近づいてみたら……ムクロジでした。上尾公園(どこにあったのか不明)が閉鎖されるとき、そこにあった樹を移し替えたのだそうです。



 少林寺から黙々と四十分歩いて密蔵院に到着。

 

 真言宗智山派の寺院ですが、創建年代、由緒などは不明です。本尊は虚空蔵菩薩。



 山門をくぐると、左手に薬師如来と日光・月光両菩薩、さらに十二神将を祀った薬師堂がありました。

 薬師如来像は江戸時代のものですが、日光・月光菩薩像はともに十一世紀ごろの制作で、上尾市内の仏像ではもっとも古い時代のものだそうです。十二神将は延宝七年(1679年)から貞享元年(1684年)にかけての作。
 扉が閉じられていたので直接拝むことはできませんが、静かに合掌して私の病が快方に向かいつつあることへのお礼と二人の友が無事息災であることをお願いします。 

「薬師経(薬師瑠璃光如来本願功徳経)」には、薬師如来がまだ菩薩であったころ、衆生を救うための十二の大願を立て、それらを実現させると誓って如来になった、ということが説かれています。
 私には自分の現世利益を求めようという気持ちはないので、数々のお寺に参詣しながら、自分がかくかくしかじかとなりますように、とお願いしたことは一度もありません。
 されど、薬師如来が十二大願を立て、その中でもっとも有名な第七願(除病安楽)によって、衆生の一人である私も病から救われつつあるのだろうということは信じるので、願をかけたことはないけれども、お礼を申し上げるのです。
 そして現世利益は求めないといいながら、利己ではなく利他であれば、仏もお赦しくださるだろうという自分勝手な解釈から、病を持っている友が少しでも癒されますように、とお願いしつつ毎月薬師詣でをしようと決めたのです。



 密蔵院から上尾の中心街に向けて引き返す形をとり、四十分足らずで遍照院に着きました。



 ここも真言宗智山派の寺院で、薬師如来を祀る薬師堂があります。



 薬師堂です。
 この遍照院のホームページには「毎月八日は薬師如来縁日」と紹介されていたので、何か行事があるか、行事はないまでも、扉ぐらい開けられていて、じかに薬師如来を見ることができるやもしれぬ、と思ってきたのですが、空振りに終わりました。

 何はともあれ、ここでも我が友の無事息災を念じ、私自身の病が快方に向かいつつあるのを感謝しました。

 ここも創建年代は不明。
 しかし、開山の阿順法印という人が応永九年(1402年)に示寂、ということがわかっているので、室町時代初めには創建されていたことになります。



 遍照院は上尾駅から徒歩三分という中心街にあります。
 門前の参道には左右に商店が並び、その先は旧中仙道です。そこに江戸から数えて五つ目の上尾宿がありました。



 旧中仙道。正面に見えるのが丸広百貨店。
 先月、やはり中仙道の宿場だった浦和宿を歩いていますが、見渡した感じがよく似ています。



 帰りは一駅東京寄りの上尾駅から電車に乗りました。
この日歩いたところ


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (はるじ)
2012-05-14 08:29:58
吽、かわいいね!!
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はるじどの (桔梗おぢ)
2012-05-14 10:59:35
私が作ったわけではありませんが、こういう可愛いものをよくぞ見つけた、という意味では私の自信作であります。
二年前の九月、行徳の香取神社でも可愛いものを見つけていて、機会があればまた見るために再訪しようと企んでいます。
そのときのブログです。
http://blog.goo.ne.jp/aguis57/e/db98c7fbe5670102960ed6d9c49343ae
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Unknown (はるじ)
2012-05-15 08:33:48
これも、やっぱり吽がかわいい!
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Unknown (uri)
2012-05-19 17:43:11
じっくり読ませていただきました。
そして
ホッとしました。
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uriどの (桔梗おぢ)
2012-05-20 09:41:19
uriどのは前にコメントを下さった「うりどの」、あるいは「ウリボー」どのと同じお方でありましょうや。
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Unknown (uri)
2012-05-21 20:46:48
あ~。ごめんなさい・・・・
そうです、ウリボーです。
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