桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

取手宿ひなまつり再訪

2011年02月25日 20時55分04秒 | 風物詩

 取手宿ひなまつりには二度と行かない、いや、行けない、と思いながら帰ってきました。飾りを見ているうちに、不意にこの世の生を承けることのなかった我が娘のことを想い出してしまったからです。

 不思議です。
 片時も忘れたことはありませんけれども、若いころは娘のことを想い出すのはほんのときたまでしかありませんでした。
 ところが、想い出というものは、年月が経過して行けば行くほど薄れて行くものだろうと思うのに、こと娘に関しては、時が経てば経つほど鮮烈に想い返されるようになってくるのです。

 最近、といっても去年の晩春から初夏にかけてのころです。私は日増しに体調を崩して、病院に行く気力も、変調を治して楽になりたいという気持ちも、すっかり失ってしまうような状態になったことがあります。次から次へと出てくる症状があまりにも辛かったので、生きて行くのはもういいんじゃないか、と思うような日がつづきました。

 そういうとき、これは向こうから娘が呼んでいるのかもしれないと、ふと思ったことがあるのです。
 現実に見る、ということはあり得ないと思われるので、眠っているときの夢であったのでしょう。娘はなぜか四、五歳になっていて、可愛いスカートを穿いて、うれしそうにスキップをしながら、私に笑いかけている。

 実際に私が見た娘は生まれたその日、病院の産着にくるまれて死んでいました。
 産道を通ってくるときに押し潰された、いびつな頭をして、まだ男か女かわからないような顔でした。そういう顔しか見ていないのに、赤ん坊でもなく、小学生でもなく、四、五歳の姿をしているのです。

 そうか、呼んでいるのなら行ってやるか……。
 目覚めては眠り、眠っては目覚めるという繰り返しの中でぼんやりとそう思い、やがてハッとしました。
 すでに亡くなった私の両親は孫娘を見ていません。当然娘のほうでもお祖父ちゃんお祖母ちゃんの顔を知らない。天国に行ったのに違いないが、お祖父ちゃんお祖母ちゃんの顔を知らないのでは会うこともできず、いまのいままでずっと独りぼっちだったのだ、と思ったのです。

 以来、頻繁に想い出すようになってしまいました。

 取手の雛飾りを見に行った日も、とくに伏線があったとは思えないのに、生まれてすぐに迎えるはずだった初節句に、雛飾りを買ってやろうと考えていたことを不意に想い出してしまって、するとポロポロと涙が出てきて、見ていられなくなってしまったのです。
 で、二度と行かない、行けない、と思ったわけです。

 ところが、その顛末をブログに書くと、私の目を通して娘も雛飾りを見ていたのだ、という趣旨のコメントをくださる方がありました。
 そのときは、「ふーん、そういう考え方もあるのか」と、人ごとのように思ったのでしたが、日が経つのにつれて、「そうか、きっとそういうことなのだ」と思うようになりました。すると、切なく悲しい想い出を引き出すだけの雛飾りがそうではなくなりました。
 と、いうことであれば、見物を途中で切り上げてしまったので、娘は頬をふくらませて怒っているかもしれない。もう一度、ゆっくり見せてやろうと思って、再訪となった次第です。

 早速、と思ったのですが、今日まで日延べをしたのは、金~日の三日間しか公開されないので、先日は見ることができなかった取手宿の旧本陣を見たいと思ったからです。これは娘のためではなく、私自身のため。

 前回は取手駅の西口から見ようと思ったところ、飾っている店が少なそうだったので、すぐ東口へ行ってしまったのですが、パンフレットを見ると、国道6号を越して白山通りという商店街に行けば店が並んでいるようです。
 

 


 白山通りはつるし飾りばかりでした。つるし飾りのほうが場所をとられなくて済むからでしょうか。店内に入って見る、というより道路から見るように仕組んであるので、ショーウィンドウが反射して写真に撮るのはむずかしい。

 


 そろそろ商店街もおしまいかと思ったところに呉服店があり、兎の雛飾りがありました。下のつるし飾りも同じ店。

 ここで引き返すことにして、門前を通り過ぎてきた弘経寺(ぐぎょうじ)に詣でました。開山は良肇(りょうじょう)上人で、応永二十一年(1414年)のことです。
 取手と同じ茨城県内の常総市飯沼にも同名のお寺があります。こちらの開山も同じ良肇上人で、年も同じ応永二十一年です。なぜ同じ年に同名の寺を開いたのか、説明がありませんが、取手のほうは分寺として開かれた草庵で、そのころ、この周辺は人家もない山の中だったそうです。

 


 同じ浄土宗の寺院ということもあり、ともに関東十八檀林の一つということもあり、長い参道(100メートルあまり)も雰囲気も北小金にある東漸寺とよく似ています。
 石盤に刻まれた本堂再建の記によると、本堂と庫裡は昭和二十二年に火災で焼失し、昭和四十七年に再建、とありました。

 弘経寺という名の寺院は結城市にもあります。同じ浄土宗で、三か寺を合わせて関東の三弘経寺と呼ばれるそうです。ただ、こちらは結城家を継いだ家康の次男・秀康(1574年-1607年)が娘・松姫の菩提を弔うために建てたお寺なので、直接の関係はありません。



 取手市の保護樹木に指定されている犬槇(イヌマキ)。樹高16メートル、幹周り3メートル。開山上人お手植えと伝わりますが、もしそうなら樹齢は六百年です。

 道に迷わないようにプリントして行くべし、と思って持ってきた地図を見ていたら、ちょっと離れていますが、薬師堂があるのを見つけました。
薬師詣での日に備えて見ておくことにしました。

 国道6号沿いに歩いて右に折れると、マンションなんぞはありますが、すっかり田舎の風景です。ところどころにある店は同じ市内であるのに、雛飾りは関係ないようです。

 


 田舎だ、とたかをくくっていたので、結構立派な御堂があって愕きました。
 御堂に掲げられた由来によると、井野台薬師堂という名称で、遠州三山の一・油山寺(本尊は薬師如来)と関係が深いようですが、大変失礼ながら、私が現役の編集者であれば、全文真っ赤にせざるを得ないような悪文で、結局何がいいたいのかわからないのです。
 いつか薬師如来の縁日に再訪して解読に努めようと思います。

 


 前回最初に覗いた奈良漬の新六の蔵です。
 私が引き揚げるとき、現役の姫、元姫、合わせて十人ぐらいという一行が大挙して入ってきましたが、私が入ったときは無人。お茶と奈良漬の接待をしてもらいました。普段は作業場と樽の保管庫として使われているのだそうです。下は前回画像を載せるのを割愛した可愛い雛飾り。

 


 上・新六本店(店のほうです)の飾り。小振りですが、なんとなく高価そう。下・新六本店の右隣に店を構える田中酒造のつるし飾り。中央下は兎の夫婦雛です。

 


 前回はここで娘のことを想い出し、不覚の涙を流してしまった油市(あぶいち)人形店。
 店先に飾られた「まねきねこ助」というオリジナルキャラ。招き猫と福助の合体のようです。我が心の中の娘は雛飾りよりこっちのほう
が気に入ったみたいです。



 前回は見られなかった旧取手宿本陣です。寛政七年(1795年)の建築。染野家という代々名主を勤めた家で、正面の玄関を含めた左側が本陣として使用されました。



 家の右側は家人が普段も使っていました。ただし、玄関から出入りはせず、右側にある大戸と呼ばれるところを出入りしました。大戸を入ると土間で、天井が張られていません。



 左奥にある上段の間。殿様の寝所でしょう。文字どおり一段高くなっています。

 


 今回も取手訪問のトリは長禅寺です。



 取手駅は西口と東口が繋がったコンコースがありません。代わりに地下通路があって、ここにも雛飾りがありました。



 取手東中学校の皆さんの作品。



 この赤いべベを目にしたときだけはちょっと身につまされそうになってしまいました。

↓この日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map84946.html


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