桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

蜜柑泥棒の想ひ出

2010年12月08日 13時17分53秒 | 風物詩

 新松戸にある社会保険事務所へ行く用ができたので、行き帰りとも歩いて行ってきました。
 行きは最短距離と思われる道を選んでおよそ二十五分。帰りは前にも寄ったことのある北小金の八坂神社に寄り道しようと思ったのと、新松戸から北小金に帰るためには、どのみち坂か石段を上らねばならぬので、あの道を通ってみようと思って、遠回りをしました。



 これは行きに下った石段です。こんなところを上って帰ると考えただけで、心臓に悪い。

 あの道 ― というのは、新松戸駅の裏手すぐに迫っている高台を上って行く道です。
 しばらく眺めていませんが、勤めを持っていたときには自然と毎朝目に入ってきた丘です。武蔵野線の西船橋方面行のプラットホームに上がると、正面に見えるのです。
 中腹からてっぺんにかけて蜜柑園があって、いまの季節はオレンジ色に輝いているはずです。その蜜柑園の間を縫って上って行く坂があるのです。





 まだ新松戸の住人だったころ、暑い季節に通った記憶がありますが、いまの季節に通るのは多分初めてです。
 気をつけて見ると、一本一本に○○様△△様と書かれた札がぶら下げられていました。
 そうか、蜜柑園には違いないが、こういうシステムだったのか。
 しかし、注意して眺めてみても、一本いくらするのかとか、どこへ申し込んだらいいのか、それにこの蜜柑園の名称も……。どこにもありません。
 すっかり摘み取られた樹もありますが、オーナーがなかなか休みが取れないのか、まだたわわに実った樹もありました。



 この門の奥に農家があるようです。市民農園のたぐいだと、現地にはシステムに関する標示は何もない代わり、インターネットで募集していたりするので、ここもそういうことなのかもしれません。

※家に帰ったあと、調べてみましたが、この蜜柑園らしきページは見当たりませんでした。すでに満杯で、告知する必要がないのかもしれません。



 石段を上り詰めたところからの眺めです。
 左上方に長く白っぽく見えるのが武蔵野線のプラットホーム。

 蜜柑の樹を見たら、私が通っていた高校のすぐ近くに蜜柑山があった、という遠い記憶が甦ってきました。
 多分いまごろの季節であったでしょう。放課後の課外活動を終えると、もう真っ暗です。どういう経緯で、どういう仲間がいたか、すでに憶えがありませんが、蜜柑を失敬しようということになりました。
 金網の囲いがありましたが、すでに先達がいて、やっと人一人が通れる程度の破れ目がありました。そこから忍び入ると、もう手当たり次第盗り放題です。

 課外活動でラグビーをやっておりました。
 育ち盛りの年ごろだった上に、激しいスポーツをやっていたのですから、一日じゅう腹を空かせています。
 丼飯の朝食を摂って登校しているのですが、十時半ごろにはすでに腹を空かせているので、教科書を目隠しにして早弁です。
 昼は食べるものがないので、出張してくるパン屋でパンを買います。多めに買っておいて、放課の鐘が鳴る直前に腹ごしらえをして、課外活動です。
 一時間か一時間半の練習を終えると、もうおなかと背中がくっつきそうになっています。帰り道、最寄りの駅近くにある食堂に寄って、ラーメンとうどんを一人前ずつ、一つの丼に盛った特製のメニューを食べるのが日課のようなものでした。味は中華ふうであったか、和風であったか憶えていません。大体、味の良し悪しではなく、量が多いか少ないかで食べるものが決まる年ごろでした。
 家に帰れば当然夕食を食べるし、一応受験勉強もしていたので、夜食も食べます。
 数えてみると一日七食。それだけ食べても、翌朝目を覚ませば、おなかと背中がくっつきそうになっていました。

 蜜柑泥棒を思い立ったのは、いつも寄る食堂が休みだったのかもしれません。コンビニなどない時代です。何も食べるものがなければ、家に着くまで一時間近く空腹を耐えなければなりません。

 当時は登校用の鞄とは別にナップザックを持っていました。練習用のジャージやパンツ、ストッキングが学校で水洗いする程度ではとても元に戻らぬほど汚れたとき、家に持ち帰って洗濯してもらうのに使うためです。
 大きさがどの程度であったのか、イメージとしてしか思い浮かびませんが、20キロぶんの米袋の大きさ……と思って、買い物ついでのスーパーで眺めて見たら、20キロはいかにも大きい。少なくとも10キロが入るほどの大きさではなかったかと思います。
 その袋に、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という感じでしゃにむに蜜柑を突っ込みました。口が締まらないほど突っ込んだ憶えがあります。もちろん、もぎながら食べもしたでしょう。

 最寄りの駅から数駅私鉄電車に乗り、そこからバスに乗り換えると、私は独りになりました。仲間と一緒だった電車の中では気づかなかっただけかもしれません。バスの中は蜜柑の香りでいっぱいになりました。
 顔を真っ赤にして降りた憶えがあるような、ないような……。バスには年ごろの車掌さん(ほとんどは♀)が乗っていた時代でしたから……。

 そのあとも泥棒に及んだものかどうか。
 全校生徒が集められて、我が校の生徒の仕業としか考えられぬ、と蜜柑山の持ち主から抗議があった旨の訓告があったような淡い記憶もあります。むろん、金網は厳重に補修されて、二度と入ることはできなくなったのでしょう。遙か遠い記憶なのではっきりしません。

 最近、昔のことばかり甦ってきます……。



 小金の八坂神社に着きました。迂闊なことに、この神社に寄るためにはもう一度坂を下って、結構きつい坂を上らなければなりませんでした。




 私が最初に見つけたのは下の黒猫殿です。ミオの袋を開けて、匂いを撒き散らしながら近づいたのに、スルスルと逃げて、社殿の基礎柱の陰に隠れてしまいました。
 すると、流山の天形星神社と同じように、予期せぬ方向から現われたのが上の画像の猫殿です。写真で見ると、小型のアメリカンバイソンみたいです。全身は人間でいうと、薄茶系のザンバラ髪。シャムの血が入っているのかもしれません。
 このザンバラ殿は一回目を食べ終えたので、継ぎ足してやろうと私が手を伸ばしても逃げませんでした。

 猫の集会では、日ごろ縄張り争いを繰り返している猫同士でも喧嘩はしない、と知ったばかりです。しかし、二匹だけでは集会にもならない。
 ということは、もしかすると夫婦なのでしょうか。八坂神社には悪疫退散のほか家族円満というご利益もあるのだそうですから……。



 二匹も会うことができて、この神社に寄った甲斐があったと感謝しながら帰ろうとしたら、社殿から15メートルほど離れた社務所の陰に、さらに一匹いました。白い仔猫殿です。
 近づくと、すぐ見えるところに隠れました。私が手に持ったままだったミオが匂ったのか、隠れながらもニャーニャーと鳴いています。
 しかし、近づくとまた逃げる。ミオを置いて立ち去る素振りを見せると、やっと出てきて食べてくれました。
 この日は三匹も会えて、めでたしめでたしの一日となりました。

 ところで、我が庭を糞の場としている前の家の飼い猫 ― こやつに縄張り争いで負けたのを見たころからオイチ一家の姿を見かけなくなりました。もう悠に二週間は経ちます。

 糞猫は見かければ追い払ってやる(追い払う前に逃げられます)のですが、我が庭が気に入っているようで、平然としてやってきます。
 我が家を世話してくれた不動産屋のオヤジが「水をかけてやれば二度とこない」とアドバイスしてくれたので、窓際に水を入れたボウルを置いてチャンスを狙っているのですが、なかなかチャンスが到来しません。そうしているうちにうっかり蹴躓いて、ボウルをひっくり返してしまいました。水をこぼしただけでなく、返す刀で弁慶の泣き所を打たれてしまいました。残念なことに、そのときはエアコンの室外機の上で日向ぼっこをしていやがったのですが……。

 私の姿を見ればサッと逃げるので、石をぶつけてやろうとしても、当たりません。私が歯がみしているのを愉しんでいるようです。
 そうしてまた「されている」のを発見した昨日、ふと思いつきました。糞猫のものだから糞猫に返してやろう。ヤツの出入りする前の家の金網が破れたところに、ヤツのものを並べてやろうと思ったのです。
 まず一回目。火鋏で摘んで並べて置きました。


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