狭いながらも前後を庭に挟まれた我が新居。
裏手だけ草刈りをしましたが、きた早々は草ぼうぼうだったので、八重葎(ヤエムグラ)の里と名づけました。
一方、部屋の中は片づかない ― 正しくは、暑いので片づけようという気が起きない ― ので、片づけは放っておいて、近隣の散策に出ました。陽射しは強いけれども、段ボール箱の山に囲まれて、身動きの取れない家にいるよりは外に出たほうがマシです。
我が庵を出て五分も歩くと、高台が切れて、道は富士川に向けて下って行きます。
画像手前が下流。やがて私には馴染み深い坂川に合流して東京湾に注ぎます。この川を渡ると(画像では左側)流山市です。
狭い谷ですが、あたり一面は稲田です。このあたりまで、歩いて十分ぐらい。
秋の稲刈りと来春の田植えを見てみたい。
こんな標識を目にすると、つくづく田舎にきたもんだと思います。
徒歩十五分で寶蔵院というお寺に着きました。我が新居とは富士川を挟んで反対側の高台にあります。
真言宗豊山派のお寺ですが、創建年代ははっきりしていないそうです。本堂の右手前は百日紅(サルスベリ)の樹で流山市の保護樹木。
寶蔵院の本堂裏手。八十八体あるという弘法大師像。
さらに歩みを進めて、寶蔵院のある台地を下り切ると、流山市立東部中学校前に出ました。名都借(なづかり)谷津と呼ばれる谷で、かつては川が流れていたのでしょうが、いまはわりと交通量の多い道路に変わっています。
その道路を渡ると、道は緩い上り坂になり、左手に標高20メートルほどの大井戸根と呼ばれる台地が迫ってきます。戦国期までは名都借城のあった跡で、いまは廣壽寺というお寺があります。
名都借城の築城年代および築城者について正確な記録はないようですが、大永七年(1527年)、古河公方・足利高基が小弓(おゆみ)公方・足利義明方に属していた名都借要害を攻めさせた、と記録にあります。
このとき、高基が戦功を賞した感状が遺されているので、常識的には名都借城は高基側に下ったと考えられるところですが、その一方、大谷口城と名都借城は相反目していたという言い伝えも遺っているそうです。
文亀三年(1503年)、足利義明を擁する武田信保に小弓城(千葉市中央区)を攻められ、高城胤吉は根木内に逃れます。ここで体勢を立て直し、大谷口(小金)城の築城に着手しますが、城が完成するのは名都借要害攻めより十年もあとの天文六年(1537年)です。言い伝えが確かなものだとすると、翌天文七年の国府台合戦で義明が討ち死にするまで、名都借城には義明方の誰かがいたのかもしれません。
畑に分け入って急坂を上ると、廣壽寺の山門です。
永禄五年(1562年)創建の曹洞宗の寺院です。開基は高城胤辰(1537年-83年)。嫡子・胤則(1571年-1603年)が開基という説もありますが、永禄五年の創建が正しければ、胤則が開基ということはあり得ません。
この中に本尊の厄除け観音が祀られていますが、かすかに覗き見られるだけで、写真は撮れませんでした。
これが名都借城の土塁跡らしい。
廣壽寺から八分で清瀧院(せいりゅういん)に着きました。
畑の中にスクッと建っているので、斑鳩の里を歩いているのかと錯覚を起こしかけました。ここも真言宗豊山派の寺院です。江戸時代は末寺五十三寺を擁する大伽藍だったようです。
身丈2メートル20センチの金剛力士像。江戸末期の作と伝えられています。
かつては仁王門があったそうですが、いまは御堂の中に……。辛うじてカメラのレンズだけが突っ込める隙間を利して撮影したので、阿吽同じようなバランスで、とはいきません。
清瀧院に祀られている流山七福神の一つ寿老人。
境内にある、樹齢四百年以上といわれる枝垂れ桜。樹高は10メートル。
清瀧院から約十分。前(去年十月十二日)も訪ねた前ヶ崎城趾公園前に出ました。
名都借城からは直線距離だとわずか700メートル、ゆっくり歩いても十数分しか離れていません。ともに大谷口城の支城だったとすると、あまりにも近過ぎるのではないかと思われます。やはり名都借城は一時期大谷口城と対立関係にあり、大谷口城の支配を受けるようになってからも、なんらかの利用価値があったので、そのまま遺された、と考えるべきでしょうか。
我が庵の周辺には畑がいっぱいあり、ところどころにこんな無人の野菜即売所があります。
流通経路を省いているので、一見安いと考えがちですが、中には??と首を傾げたくなるものも、なきにしもあらず、です。
本土寺参道近く。農家の門先。
周辺をすべからく観察したわけではありませんが、価格はここが一番安いみたいでした。
本土寺の仁王門前。赤門家、黒門家と並ぶ漬物屋さんのうち、赤門家の店先にも野菜が置いてありました。
左隅にあったトマトのうち、一番青っぽいのを買いました。三つで¥200也。
本土寺山門です。
新松戸に棲んでいたときから何度か訪れていますが、引っ越し後は初めてきました。毎朝毎夕、ここで鳴らされる梵鐘の音を聴いてしんみりとしています。
※後記。本土寺では鐘を撞きません。私が聴いていた鐘の音は東漸寺という別のお寺のものでした。