時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

「科学」ということ

2007年05月09日 | その他
「科学」というと、読者諸兄はどのようなことを連想するだろうか?
一般に自然科学を連想するが、大学などでは、社会科学というように、歴史や哲学、経済、法律なども立派に科学として研究されている。人文科学という呼び方もある。
一般に、「科学」を研究している人たちは、万人誰でもがそのように認識でき、そのことによって万人に幸福がもたらされるという立場を取っている、あるいは、少なくとも本人はそう信じて研究をしているのが普通である。
しかし、実態は必ずしもそうではない。
特に、社会科学と言われる研究分野では、そのことが顕著である。
たとえば、歴史を例に取ろう。
邪馬台国論争などは、科学的な論争ではなく、東大と京大の学閥間の争いにすぎない。あの太平洋戦争に対する事実認識や評価さえ定まっていないのが、現代「科学」の水準である。
経済学にしても同様である。金利の高低、税金のあり方なども、特定の考え方や特定の立場から見ると、至極もっともな政策であっても、立場が異なれば様々な異論が出るのが普通である。
哲学も同様であろう。社会の様々な発展段階において、支配者にとって都合のよい哲学が流行し、その支配を延命させる役割を果たしてきた。
すなわち、特に社会科学の場合は、研究者がいかに中立的な立場をとっても(あるいは本人がそのように思っていても)、実は、特定の立場に立って物事を研究している場合がほとんどである。にもかかわらず、ほとんどの研究者たちは、自らが立脚するその立場をアイマイにしたままで、さまざまな「科学的な」研究を行っているのである。
自然科学の分野においても、原子力や医薬品などに対する考えは、研究者の拠って立つ立場によって、その評価は異なる。
このような中にあって、マルクスだけは、自らの考えを労働者のための哲学であり、労働者のための経済学であると主張した立場の明確な科学者の一人であったろう。
ケインズなどは資本主義の延命のための方策を必死に模索した人物であるが、自らの立場は明らかにはしていない。相変わらず、私の学説を信じれば、世界万民が幸福になると信じている科学者、経済学者の一人だったのであろう。
社会科学も、自然科学と同じように、ある学説(仮説)を社会的に実行(実験)し、その結果によって、その学説の正しさを証明しなければならない。それによって、その学説は仮説の域を超えて、一つの理論として社会的に評価されることになるのだろう。
科学的な視点で、物事や社会をみるということは簡単だと思いがちだが、そこには、自らが拠って立つ立場がおのずと反映せざるをえない。
我々人間は、生活基盤や立場によって様々な意識、考えを持つようになる。それが、社会に対する考え方の違いとなって表われることになる。
様々な社会の事象に対して、どうして自分はそのように考えたのだろうか?ということを、あなたの置かれた立場、境遇に即して分析してみるのも面白いのではなかろうか。そうすることによって、自分の考えが必ずしも中立の立場からのものではないことに気づくはずである。


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