時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

生産性の向上と人間の豊かさ

2007年08月13日 | 経済問題
バブル崩壊後の10数年、国民は塗炭の苦しみを味わってきたが、この間も生産性は徐々にではあるが、確実に向上してきた。
先日の記事で労働経済白書などの内容を紹介したが、生産性向上によって生み出されてきた利益のほとんどが企業に溜め込まれたり、株主への配当や役員給与になり、労働者にはほとんど分配されていない実態が明らかになった。
本来、生産性の向上によって、人々の生活は便利になり、豊かになるのが普通の社会のあり方だと思うのだが、現実はそうではない。
これは、資本主義社会という社会体制の根本的な欠陥である。
マルクスが述べたように、「社会的生産と私的所有」、すなわち生産は多くの労働者によって行われるが、資本家がその生産物をすべて巻き上げてしまうことに、この社会体制の根本的な矛盾がある。
原材料や工場は資本家のものだから、完成した生産物は資本家の物ではないか、という表面的な観察では、搾取の仕組みは理解できない。原材料などに手を加え、新たな価値(剰余価値)を商品に付け加えるのは労働力にほかならない。したがって、原材料費や様々な機械や設備の減価償却費や諸税を支払った後の儲けは、すべて労働者によって生み出されたものである。
この儲けを、資本家はちゃっかり、自らのフトコロにしまい込むのである。
さて、生産性の向上によって、資本家はどんなことを考え、実行したのだろうか?
たとえば、この数十年の間に、いままで2時間かかっていたものが1時間でできるようになったわけだから、人が少なくて済むはずだ、こう考えて熱心にリストラに取り組んできた。これは明らかに資本家の論理だ。
労働者や中小下請けの立場から見ると、事態は一変する。半分の時間でできるようになったのだから、給料を2倍に、あるいは、同じ給料で労働時間を半分にできるではないかと。
どちらの主張が通るかは、資本家と労働者との力関係である。労働組合などの力が弱体化した今の日本の社会では、生産性の向上という「果実」が、給料の増額や労働時間の短縮につながらず、人口のわずか数%にも満たない資本家の都合によって、首切りの口実にされているのである。
マルクスは、資本主義社会の次に来る社会として、社会主義、共産主義社会を展望した。
彼は、生産性の向上によって、その一部は給料の増額、生活水準の向上に当てられ、一部は労働時間の短縮に当てられると考えた。人間は労働という「苦役」から開放され、労働そのものが喜びとなり、増えた給料や余暇によって、人間はさまざまなことに意欲的に挑戦するようになり、人間が持つ才能が豊かに開花するような社会が来ると予測した。
残念ながら、マルクス、エンゲルス、そしてレーニンの後継者たちは、揃いも揃って社会主義の道を踏み外し、迷路に迷い込んだばかりか、人間社会の進歩に重大な害悪さえもたらしてきた。
しかしながら、経済的な発展を土台に、人間が真に解放される時代は必ずやって来るに違いない。
江戸時代に生きた我々の祖先は、徳川の治世、武家社会がまさか崩壊することなど夢想だにしなかったに違いない。同様に、現代に生きる我々の多くは、資本主義社会ほど素晴らしい社会はないと信じている。しかし、ほんの一握りの資本家が多数の労働者、勤労者を搾取し、莫大な富を蓄積する一方で、絶対的な貧困が蔓延するこの社会が、国民の描く永遠の理想社会であろうはずがない。この日本の社会をどうするのかは、我々国民が決めることである。少なくとも、生産性の向上が、生活の豊かさに結びつくような明るい未来図を想像したいものだ。

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