今日はパネルセッションに向けて多言語使用者のインタビュー調査をしました。
昨年12月の研究会で話を伺った方々とは違い、今回の人は日本語研究の専門家であり、日本語で不自由をする場面はまずないという人でした。そしてどんな言語も母語話者のように使えることを目標にする人なのです。文法、語彙、だけではなく、社会言語学的な能力も、社会文化能力も、すべて含めて母語話者のように理解し、使用出来ることを目標にしているのです。ですから、習得の途中で自分から習得に障害を作ることもないわけです。
このように外国語を深いレベルで捉えようとする一方で、多言語を知っていることからか、彼女は決して日本語母語話者に同化しているわけではまったくないのです。しかも、出身国でふつうに暮らす同国人とも距離を感じているようでした。自分は彼らよりも少し恵まれていて、いろいろな見方や理解の仕方を身につけている、と言います。
多言語使用者が3人いれば、おそらく3人とも違うのだろうと思い始めています。しかし、その違いは何かの方向性で同一性を示すのかもしれない。それはおそらく確実ですが、でもいったいどのような方向性なのか、それが問題です。
昨年12月の研究会で話を伺った方々とは違い、今回の人は日本語研究の専門家であり、日本語で不自由をする場面はまずないという人でした。そしてどんな言語も母語話者のように使えることを目標にする人なのです。文法、語彙、だけではなく、社会言語学的な能力も、社会文化能力も、すべて含めて母語話者のように理解し、使用出来ることを目標にしているのです。ですから、習得の途中で自分から習得に障害を作ることもないわけです。
このように外国語を深いレベルで捉えようとする一方で、多言語を知っていることからか、彼女は決して日本語母語話者に同化しているわけではまったくないのです。しかも、出身国でふつうに暮らす同国人とも距離を感じているようでした。自分は彼らよりも少し恵まれていて、いろいろな見方や理解の仕方を身につけている、と言います。
多言語使用者が3人いれば、おそらく3人とも違うのだろうと思い始めています。しかし、その違いは何かの方向性で同一性を示すのかもしれない。それはおそらく確実ですが、でもいったいどのような方向性なのか、それが問題です。