フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

言葉を中心的なアイデンティティとしないことの意味

2010-10-17 23:10:07 | research
朝鮮族の調査をまた少ししているが、会話データを録ろうとすると、それはなかなかうまくいかない。韓国人となら韓国語と日本語を切り替えるかと思うと、日本語だけになるし、中国人とは中国語と日本語を切り替えるかと期待すると、日本語ばかりかになるか中国語ばかりになるというように、多言語話者としての秘密を簡単には出してくれない。

ちょっと困ったので、朝鮮族の研究者ご夫婦に話を聞くことにしたのが先週金曜日の夕方。失敗と思ったビデオを見せたところ、これは普通ですよ、とくにビデオがあれば日本語だけで話すでしょう、と言われる。確かに接触場面での彼らの管理は、出会ったときの言語選択にあるのであって、会話が始まればほとんど一言語で進めていく。

では朝鮮族同士ではどうなるのかというと、朝鮮語であるとは言ってくれるのだが、ぼくらはふつうどのような言語を話しているかは意識できないものだ。ぼくが聞かれれば、そりゃ日本語ですと答えるにちがいない。コードスイッチングも同じような特徴があって、コードスイッチングをしていることにも意識がない場合が少なくない。

朝鮮族の朝鮮語には、周囲の言語との接触によって、多くの借用語が入っていることは当然だろう。借用語の中には句レベルや文レベルのコードスイッチングが混じってくることも多いにあるに違いない。そこに管理はないにしても、朝鮮族の朝鮮語データを録っておきたいという気持は残る。

お二人の話を聞いていると、朝鮮族というまとまりは朝鮮語を中心には意識されていないことは忘れてはならない点だろうと思う。延辺から離れた吉林省や黒竜江省であれば、朝鮮語のバラエティが違うし、中国語の能力も格段に強くなる。延辺の朝鮮族であっても漢族の学校に通った人は朝鮮語が弱い。だから朝鮮族と言っても標準的な母語話者能力を想定することができないし、朝鮮語ができないからと言って朝鮮族ではないということは言えないわけだ。

日本に暮らし始めると、少数民族と言われ続けていた中国での時以上に朝鮮族であることを意識し始める。それはとくに韓国人と出会ったとき。そして、自分の名前を書くと、韓国人ですかと聞かれるとき。日本では民族と出身の国をナイーブにいっしょに見るものだから、そんな質問に苦労することになる。ヨーロッパではそんな質問はまず回避される。

日本にいるのは一番楽です。中国でも出世の道はとざされているし、韓国ではどうしても馬鹿にされる対象だし、ここがいいんです、とうのがお二人の話だったが、それは学生という身分のために過ぎないのか、それとも事実であるのか?

日が暮れていき、話は終わったが、どのように言語を使い分けるかよりどのように自分を見せるかのほうが、彼らにとってずっと重要なことなのだろうと思いながら、家路についた。
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