『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

外部(元内部)告発か

2011年05月29日 23時30分06秒 | 核の無い世界へ
下記の文章は、四国で開かれた「原発いらない大会」での、参加者の講演発言です。ネット動画で紹介されたものですが、すぐに消されてしまいました。その発言を文章化したものです。話しているのは、元東電社員のキムラという人物です。大変に興味深い内容なので全文を転載しました。もう、小説を超えていますね。


【驚愕】元東電社員の内部告発

短くお話ししますと、僕は福島原発、第一原発から15キロ真西に住んでました。標高は550ぐらいあったんで、津波は全く問題なく、家も束石方式の基礎の古い家に住んでたんで、平屋の、で、屋根も軽くて、ちょうど本震が来たときは薪の仕事をしとって、で、一服しようかなと思って、3時前だけど、まあ、いっかなと思って、ココアを、薪ストーブに火入れて、ココア飲んで、で、たまたま午前中にデジタル放送のテレビの難聴区域だったんで、光ファイバーみたいなのを大熊町が引いてくれて、その工事が終わって、で、別にテレビとか、全然見たくないんだけど、子供とかがいるんで、テレビ見れるようにしたんですけど、で、ぱっとテレビつけたら、どーんと緊急地震速報が出て、で、これだと思って、すぐ外出て、で、ココア持ってたんだけど、薪割り台のとこに置いて、で、2分、3分弱ですか、本震があって、その間、山がもう、ごーってずっとうなってて。で、ココア、ほとんどこぼれました。そのぐらい。でも、立ってられて、別に這いつくばって腰抜けるようなほどでもなくて、薪ストーブにちょうど火入れたばっかりだったんですけど、中の煙突がちょっと外れたぐらいで、ひっくり返りもせず、何の被害もなかったです。

で、次の日、爆発したんですね、1号機が。その爆発までは、僕はもう、地震、津波、炉心溶融というのはもう予測してたんで、で、嫁はちょっと離れたとこに、たまたまちょっといたんで、迎えに来てくれて、土曜日、で、常葉町っていう35キロのところに嫁の実家があったんで、そこに逃げて、で、2日ほどして、まあ、子供もまだ小学校2年生の女の子なんで、もうちょっと逃げようかって話になって、さらに嫁の親戚筋をたどって、栃木県の那須、70キロぐらいですね。まで逃げて、で、そこに3週間ぐらいいたんですかね。で、高知県の県庁が県営住宅の無料開放を宣言してもらったんで、もともとナカムラのほうに、ほうばい?がおったんで、僕、サーフィンやるんですけど、サーフィンブラザーズがいて、県営住宅あれば、余計行きやすいかなと思って、4月の頭にこっちまで逃げてきました。

実際、じゃあ、放射線、どのぐらい浴びたのかなってぱっと計算したんですけど、20ミリシーベルトありました。放射線量率って単位時間当たりのマイクロシーベルトとか、ミリシーベルトで表示されてますけど、僕は一応、原子力、学校合わせると20年いて、国の日本原子力研究所ってとこで大学の原子炉工学コースのさらに短時間濃縮コースみたいのを半年ぐらいトレーニングを受けた人間なんで、ちょっとした線量率の計算とか、あと、どのぐらい積算で浴びるのかって簡単な計算方法はもう自分でできるんで、で、こっち来て、落ち着いて、計算したら20ミリシーベルトを大体浴びてて。

結局、具合悪くなりました。はっきり言うと。栃木の那須に逃げて、すぐ、だから、4日目ぐらいからもう鼻水、どろどろの鼻水が出て、で、鼻血もとまんなくて、のども痛い。これが低線量障害ってやつなんですね。

だから、実際、100ミリまで行かなくても、恒常的に常に浴びてれば、何らかの障害というのは出てきて、で、国も政府も、当然、原子力安全委員会も、東電も、全く問題ないって言い方してますけど、全く問題あります。というのが1つ、僕の生の証言です。

一応、今日あんまりコピーしてこなかったんですけども、単位時間当たりの線量率をどうやって積算にするのかという計算式を書いたメモ、すごい汚い字なんですけど、書いてきたんで、欲しい方はどうぞ持ってってください。

で、0.24マイクロシーベルトパーアワーって書いてありますよね、新聞に。1時間当たり0.24マイクロ、それを1年間ずっと浴び続けると、2ミリシーベルト、1年間当たり浴びるんです。

ICRPって国際放射線防護委員会が勧告してるのは、一般公衆の被曝線量限度ってのは1ミリシーベルト、わかりますか。その20倍をたった1カ月もたたない3週間ぐらいで浴びちゃったんです、僕は。


で、僕はもう今年47歳なんで、そんなにもう細胞分裂もしてないからいいんですけれども、子供、子供はもう細胞分裂、活発で、自分の原本のDNAをコピーして体でっかくしてるわけですから、壊れたDNAをコピーすることによって発がん率ってのは高まりますんで、まあ、子供もすぐこっちまで避難させたっていういきさつなんですけれども、そんな、ちょっと生々しい感じの話になっちゃんですけど。

で、もう1つ言わせてもらうと、僕は10年前に東電やめたんですね。で、何でやめたかって皆さん、聞いてくるんだけど、理由はね、ほんとに簡単なこと。もう、うそ、偽りの会社、ひどい会社。で、偉くなれるのは東大の原子力出てきた人間、技術系だったら、もしくは東大の法学部出てきた人間が社長とかになりますから。で、もう、そういうエリート官僚主義の最先端行ってるとこなんですね。最先端っていうのかどうかわかんないんだけども。

で、うそばっかついてて、例えば、あるものが壊れましたと、このハンドルが壊れました、壊れた理由は、例えばこうやって日に出しといて、紫外線で劣化して壊れたっていうのが普通の理由なんだけれども、それを経産省、昔でいうと通産省、で、今でいうと保安院と原子力安全委員会に説明するにあたって、自分たちが説明しやすい、しかも、結果ありきでつじつまが合うようにストーリーをつくって、それで保安院に報告してプレス発表するわけです。それを専用のテレビ回線を使って、トラブルをちゃんと収束するまでの間、テレビ会議で延々と、昼夜を問わず、1週間缶詰とか、2週間缶詰は当たり前の中で、どうやって壊れた、ハンドルが壊れた原因を役所で説明しようかってことをやってるわけです。

で、僕はもう17のときからサーフィンやってて、レゲエの神様のボブ・マーリーが大好きで、で、そのせいで、そういううそ、偽りに気がついて、僕は会社いるときにバランス崩しちゃってですね、そういう世界にいたから。いつも自然と触れてて、レゲエが大好きで、ビールも大好きで、で、友達といい波乗って、おいしいビール飲むっていう生活と、その東電のその組織の中での役割っていうギャップですよ、真逆ですから、はっきり言って。
で、それでバランス崩して、もうやめたいって表明して、やめるのに3年かかりました。3年です。もう引きとめに引きとめて、で、最後、もう、僕ちょっと労働組合の仕事とかも少しやってたんで、労働組合の委員長と面談になって、引きとめの面談になって、で、何で、キムラ、やめるんだと、そのほんとうの理由を教えてくれと労働組合の委員長に言われたときに、僕、こう言ったんです。

はっきり言って、10年前ですよ。原子力発電とか、原子力エネルギーというのは斜陽、終わってるって。

だって、わかりますよね。皆さん、ほんとに意識が高い人たちだから、プルトニウムの241番が放射能の力が弱まる、半分になるまで2万4,000年かかるんですよ。今この瞬間使ってるエネルギーのために2万4,000年先の子孫にごみを、負の遺産を受け渡すことの解が出てないわけじゃないですか、答えが。なのに、発電し続けてることのその矛盾、だから斜陽なんですよ。

そしたら、労働組合の委員長、こう言いました。キムラ、おまえ、頭が狂ったんだな、気が狂ったんだな。

僕は、あんたが気が狂ってるんだよってはっきり言ってあげました。そしたら、すごい怒って、おまえみたいなやつはもうやめろと、そう言われて、やめられて。

で、またその後におもしろい話があるんですけど、僕はね、原子炉の認可出力ってあるんですよ。例えば福島第一の1号機だったら、1,380メガワットなんですよ、原子炉の出力は。1,380メガワットを電気にすると、46メガワットで、東京ディズニーランドを1日動かすのに必要な電気は57メガワット。だから、福島第一の1号機じゃ東京ディズニーランドは動かないんです。足りないの。

でね、電気の出力ははかれるんですよ、ちゃんと。オームの法則みたいなやつで。「オーム」(ガヤトリー・マントラのたぐい?)ってやつ。なぜかオームなんですけど。
で、1,380メガワットをはかってるんですけども、間接的に、だけど、認可出力が1,380メガワットだから、絶対に超えちゃいけないんです、それは。1時間に1編コンピューターを使って計算して、打ち出しして、保安院に報告するんです。

で、1,380メガワットを1メガでも超えちゃいけないんです。で、誤差っていうのは2.5%なんです。ということは、27メガワットプラマイ誤差があるんですけど、だから、うちらは技術者の判断で、それは誤差範囲だからっていうことで下げるんですよ。1,381にならないように、僕が計算機に、大型コンピューターにアクセスして、裏技なんですよ、これは。アクセスして、超えそうなときに係数を掛けるんですよ、0.995とか。1に対して。それで認可出力を超えないように、打ち出しが、そういう操作をしてたんですよ、僕は。

で、それができるのは東京電力の中でも、4,000人原子力従事者がいるんだけども、社員だけでも、その中でも2人か3人、そんな技を持ってたんで、なかなかやめれなかった。全くやめさせてくんない。

何でかっていうと、やっぱりこうやってね、内部告発みたいなことするわけですからね。あれは間違ってるよって。だって、僕、人並みぐらいには正直な人間ですもん。だから、知りたい人にはこうやってちゃんとアナウンスして、ほんとうの情報だけ、さっきの単位時間当たりの線量率をどうやって年間にかえるのかとか、そういうことも全部レクチャーしますんで。

そういうことを危惧して、東電は僕に、会社やめるときに、850万円退職金上乗せしてくれたんです。そのときに、本店に呼ばれて、副社長に、キムラ君、わかってるよね。何がわかってんだろうって思ったけど、わかってますって。わかってるよねって言われたら、わかってます、わからないとは言えないんで、じゃあ、もう帰っていいよって言われて、面接2分、それで850万上乗せしてくれて、で、1,300万もらって、まあ、親が事業やってたんで、全部そっちに回しちゃって、今はそんなお金持ってないんであれなんですけども。まあ、そんなおもしろい話が1つあって。

で、あんまり、第一の1号機も燃料の全体の燃料の7割が溶けちゃって、で、最近はちょっとデータ見てないんですけれども、原子炉の圧力とかも上がってるし、格納容器内の放射線量率も上がってるし、で、ヨウ素の131番っていうのが減ってない、最近ちょっと減ってきたみたいなんですけども、つい最近までは確実に再臨界になってました。だって、皆さん勉強してるから、ヨウ素の131番というのは放射能の力が半分になるのにたった8日間ですよね。なのに、もう8日たって、もう1カ月近くになってるのにヨウ素131がどんどん増えてる、それ自体がもう再臨界して、臨界にならなければ、ヨウ素というのはできないんです。絶対に。中性子、ぼーんとウラン235番が受けて、割れて、ヨウ素の131番っていうのができるんですよ。原子力っていうのはそういうもんなんで。で、そのうちのアインシュタインの相対性理論の話になっちゃうんですけど、そのうちのほんの1グラムとか、0.何グラムが熱になって、で、水を温めて、蒸気にして、その蒸気をタービンに回して、タービンに直列につながって発電機を回して電気ができるんです。それが発電システムなんで。

で、絶対にヨウ素の131番は中性子が出て核分裂しない限りは、絶対に出ないんです。だから、再臨界してて、そういう、ほんとは再臨界してるのに、原子力安全委員会、認めないでしょう。東電、認めないでしょう。政府も認めないでしょう。これはね、再臨界はしてたんです。つい最近まで。これはもう事実です。プロがほんのちょっと原子炉の物理とか知ってる人間であれば、だれでもわかること。それがまず1つ、うそね。

で、さっき言った、例えば0.24マイクロシーベルトパーアワーというのは安全だとかっつってるのもうそ。うそです。

それが僕は今日、皆さんに伝えたかったことです。で、高知は結構離れてるんでいいんですけど、ドイツの気象局が出してる放射線の、放射能の分布予測、スピーゲルっていうんですか、わかんないですけど、それを見て、北東の風が日本を全体を流れてくるときは、絶対に子供を雨に当てないでください。あと、女の人、これから子供をまだ産む人は出さないでください。それは、おんちゃんらはいいですよ。おれとかも含めて。

何でかっていうと、セシウムの137番というのがあります、今度。それの放射能が半分になるのが30年かかるんです。で、何が危ないかっていうと、セシウムの137番というのは筋肉にたまりやすいんです。男の人は比較的筋量が多いんで、筋肉に薄く、体の中に取り入れたとしても薄く広がっていきます。だけど、女の人は乳腺と、あと子宮、どうしても筋肉がないんで、そういった器官に濃縮しやすいです。そうするとやっぱり乳がんの発生率とかがちょっと上がってしまう可能性があるので、そんなことは知ってれば防げることなんで、で、どうしても外に出なきゃなんないときは、布マスクの中にガーゼ入ってるじゃないですか。それをぬらして、で、マスクして外に出る。

あと、ヨウ素が出てる限りは、ヨウ素はやっぱり昆布とか海草類にヨードとしてたまるので、そのヨウ素なんです。で、髪の毛から吸収されやすいです、人間は。だから、帽子をかぶって、直接雨に触れないようにするっていうのが1つ防げる方法です。

全然そんなことだれも言わないですよね。政府も。だけども、これだけは僕は言いたかったんで、今日、ナカムラから来てみました。

あんまり話が長くなっちゃうとあれなんで、最後に1つだけ。

何かチェルノブイリの30キロ圏内にあるすごいきれいな泉を守った長老たちがいるらしいんです。どうやって守ったかっていうと、僕、こんなに原子力のこと勉強して、物理のこととかもある程度勉強したけども、目に見えない力ってのも絶対あるんです。その30キロ圏内にあった泉を守った長老たちは、逃げなかったんです。逃げずにその泉をどうやって守ったか。祈りです。だから、そう言っちゃうと信じる人も信じない人も、どのぐらいの割合でいるかわかんないけども、もしちょっとでも信じてもらえるんだったら、朝、まず、福島第一が穏やかに眠りにつきますようにって祈りと、あと、出てしまって、僕たちが使った放射能じゃないですか。電気のもとだから。それが、愛と感謝の思いによって消滅して、無毒化するようにという祈りで、何とかみんなで力を合わせて、次の世代に伝えてもらえたらなって思います。


ドリーマー20XX年 8章

2011年05月29日 18時52分26秒 | 近未来長編小説『ドリーマー20XX年』
【あらすじ】
新宿で働く安サラリーマン、山田一雄45歳。将来の希望などさしたるものもない独身暮らし。楽しみといえば給料日に歌舞伎町のキャパクラへ行くことぐらいだった。この男がある日、奇妙な夢を見始める。白髭の老人との対話の末に、夢旅行へ誘われ、時空を超えた旅が始まる。やがて辿り着いた世界は、20XX年の新宿だった。

(右下の欄のカテゴリーで、1章から順にお読みください)
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~~8~~


 夜の戸山公園村で吉川重則に会い、彼のテントで二時間ほどの時を過ごしたあと洋介は密造酒の酔いを感じながら早稲田のアパートへと歩いていた。街灯もこの頃ではほとんど点いておらず、四つ角ごとに防犯のためのLED灯が点けられている程度だ。夜ともなれば洋介が歩いている大通りでさえ行き交う車両もほとんどなく、昭和の昔に戻ったかのような暗い道だった。

 交番の前を差し掛かり、パソコン画面を見ていた警察官が洋介に気がつき、椅子を立った。
「ちょっと君、待ちなさい」
 その声で振り返ると、白髪交じりの警察官が怪訝な顔で「酒を飲んでいるな」と言った。うそを言っても話がこじれるだけだ。飲んだと返事するとボックスの中に入れと指示した。椅子に座れと命じられ、警察官が睨みつけた。

「知らんのか。夜九時以降の規則を」
「九時?」
「そうだ」警察官が顎をしゃくって、身分証明書を出せと命令口調に言った。
「もちろん規則は知っていますよ。一〇時以降、夜の歩行を禁ずるというのは」
「先週から時間が変わったんだよ。ニュースで何度も流していただろう。区役所からも通知してあったはずだ。おい、君は区の職員じゃないか」
 洋介の身分証明を見て呆れ顔をあらわにした。
「時間変更のことはつい。すみません」
「それに飲酒はなおさら問題だな」疑いの目で洋介を見た。
「高田馬場の酒場でちょっと」
「まあ飲んでしまったものが密造かどうかは調べようがない。とにかく区の職員がこんなことでは申し訳が立たないだろう」

 警察官がそう言いながら洋介の証明番号をノートパソコンに打ち込むと、ほどなくデータが画面に呼びだされた。それを眺め、犯罪歴、現在の職務などをさっとチェックし、規則だから持ち物の確認をさせてもらうと洋介のデイパックを開けさせた。慣れた手つきで中身を調べ、「規制項目が細かく変わるからちゃんと覚えておくことだな」と念を押すように言った。

 高圧的な物言いをするこの警察官が特別なのではなかった。この頃の官憲の態度というものは大抵がそうだった。犯罪率は以前の比ではない。強盗、スリ、空き巣、強姦の類は日常であり、夜に路上で襲われるケースが多発し、殺傷事件も度々起こっていた。握り飯一個で殺された老人もいた。つい先日、大久保で起こった闇米組織の抗争では死亡者が六名を数えた。食料がらみの犯罪が激増しているのだ。そのため、夜間の外出は原則禁止が勧告されていた。

 洋介が新宿区職員で、しかも食料配給班長といった立場にあったことですぐに交番から解放されたが、一般人ならば厳しく取り調べを受けたはずだ。食料がらみの犯罪は、餓えに苦しむ者すべてに関わる問題となっていた。誰であろうが闇米を所持していれば没収され、身柄が拘束された。

 闇米シンジケート壊滅キャンペーンが謳われる一方で、闇米は増えるばかりだった。テントの中で吉川重則が語ったように、闇ルートはいくらでもあった。米の出所は行政機関だが、業者も役人も政治家さえも関わり、その先のルート上には無数の餓えた人間たちがいた。もし、闇米を撲滅しようとするならば、出所の大元を洗い出さなければならないのだ。それが今、自分が勤務する新宿区役所で起こり、洋介が直面する問題として重くのし掛かっているのである。

 ゼロゼロKYであるわたしとしても、まず、この問題から処理しなければならない。確証はないが、現時点で怪しいのは課長の前川正太郎だ。或いはほかの職員なのかもしれない。だがヘタをして洋介が犯人に仕立て上げられてしまえば、すべてが水の泡となってしまう。わたしの特命任務は、この日本が世界統一政府に組み込まれるのを阻止することにある。そのためには、石井洋介の働きが欠かせない。
              ○○○

 翌朝、洋介が目を覚ますと、隣の布団に香織の姿はなかった。深夜まで起きて待っていたが彼女は帰ってこず、いつしか寝てしまっていたのだ。

 布団から出てメールをチェックすると、着信履歴が不明の番号と香織からのメールが明け方に入っていた。メッセージは、「ごめんなさい。仕事朝までかかりそう。明日ね」と短いものだった。彼女と腹の子どものことが気になった。本当に子どもが産めるのだろうか。また、産んで育てられるのか。そのことを洋介はまだ一度も真剣に香織と話し合っていなかった。

 顔を洗い、トレーニングウエアに着替えた洋介は、久しぶりに戸山公園村まで走ることにした。香織に子が宿って以来、ランニングをしていなかった。出勤までにまだ二時間ある。吉川に会って夕べの酒の礼も言いたかった。彼には歳の離れた兄か、父へのような親近感を覚えていた。

 洋介に親兄弟はいない。荒川区の下町で育った洋介は父親を早くに亡くしていた。病弱だった母親も数年前に他界し、今は香織が唯一の家族と思っていた。

 戸山公園村まで軽く走って一五分ほどだ。午前六時過ぎだが、すでに太陽が街を照らし、並木でセミが激しく鳴いていた。久しぶりに走る躍動感を味わい、夏の風を吸い込んだ。二車線の通りの真ん中に立ち止まり、ダッシュを掛けた。一〇〇メートル一三秒は切ったと思った。こうして走っていれば、何もかもが忘れられる気がした。

 公園村までの残り一キロほどをハイピッチで駆けた。公園内に入り、箱根山を駆け上ると、汗がドッと噴き出した。熱中症を避けるには水分補給が欠かせない。水飲み場でゴクゴクと喉を鳴らせて飲んだ。空っぽの胃袋に生温い水が流れ落ちた。

 公園内をうろつく顔見知りの男たちが、「奴か」といった表情をして洋介を眺めた。一人が、「旨いもん食ってんだろう元気なこった」と嫌みを言った。洋介は無視して走った。

 広場まで出ると、数十人ほどの男女が明け方までに新宿区界隈を回って集めてきた生ゴミの袋を一ヶ所にまとめ、仕分け作業にかかっていた。区の配給食料では足りず、生ゴミも腐敗していなければ食料として彼らの胃袋に収まるのだ。少々の傷みは煮込めば何でもない。公園村ではこの作業を共同でおこない、村民全員へ平等に分配する。病気やケガで弱って動けない者にもだ。

 このルールは吉川重則が決めていた。彼は山形米沢の出だった。米沢には、江戸中期の大飢饉のときにもほとんど餓死者をださなかったという歴史が残っている。藩主の上杉鷹山が領民は我が子同然とし、飢饉に備え米を備蓄したからだ。吉川の先祖も藩士として鷹山公に仕え、代々その偉業を語り継いでいた。吉川は高校を卒業後、集団就職で米沢を出て、二〇代半ばの頃から歌舞伎町で生きるようになってからは郷里とは疎遠になっていた。吉川が以前、経営していた店に務める女の子に東北出身者が多かったのも、そうした彼の来歴に関係していたのだろう。今は調理場で働く真理恵も福島出身だった。

「先祖は偉かったってのが親父の口癖でな。なにがドン百姓のくせに。こう見えても俺は田舎の高校じゃ秀才で通ってたんだぜ。ケンカやらしても一番でさ。だがな、貧乏家じゃ大学行く金もねえって。俺は東京へ出て金持ちになってやるって思ってた。けどよ、こうして今となっちゃ毎日、畑で汗流してた親父のことが懐かしいんだよ。米も野菜も旨かった」
 昨夜、テントで聞いた四方山話で知った、吉川重則という男の意外な一面だった。

 ゴミ袋をまとめる吉川の姿を認め、洋介が声を掛けた。
「シゲさん、お早う。精が出ますね」洋介が近寄りながら言うと、後ろを振り返った吉川が仕分けの手を止め、オウと答えた。
「今朝は腹減るランニングか」
「そう、腹減るけど我慢できなくってね」
「彼女は? そうか子どもが腹にいちゃな」
「それもあるけど忙しいんですよ」
「何か問題でも?」
「いえ、配給は問題ないですよ」
「よろしく頼むぜ」
 吉川に頼むと言われ、洋介は言葉がくぐもった。夢の島移転計画のことが頭をよぎった。
「ところでシゲさん、夕べはどうも」
「ハッハッハ、おまえさんも俺らの仲間だな」吉川は密造酒を飲んだことを暗に、そう言った。ほかの者が知れば洋介の不利になる。公園村の飢えた者たちだ。何に付け込んでゆするか知れたものではない。吉川にはそれがよくわかっていた。
「仲間は大事ですからね」
「そうだぜ。おい美津子ちょっと代わってくれ」吉川に呼ばれた中年女がゴミ袋の口をつかんだ。「この兄ちゃんと話があっから」そう言って洋介に目配せしてその場から離れ、大樹の裏に身を寄せた。
「なんだいシゲさん」
 近くに人がいないことを見届け、吉川が口を開いた。
「夕べ、あれから思い出したことがあった。真理恵が言ったことだが」
「彼女が何か」
「ああ、女が絡んでいると言ってたんだ」

 そこまで聞いて、洋介(わたし)は混乱した。前川課長と密会した女は真理恵ではないかと思っていたからだ。その真理恵が女が絡んでいると言ったということは、食料管理ビルにいたのは誰なのか。
「女の名前は?」
「いや、言ってなかったな」
「その名前を聞き出しておいてください。それが鍵になるはずだから」
「ああ今度、真理恵が来たら聞いておくよ」
「次はいつ来ます」
「さあな。配給日のように決まっちゃいないからな」と言って吉川が笑った。
「とにかくわかったらすぐに教えてください」
 洋介はそう言って、この自分が今日にでも真理恵に問い質してみようかと思った。だが、こちらから聞いて彼女が答えるかどうか。吉川から聞いたと言えば話がこじれる気もした。
「なあ、たまに飲みに来い。俺の酒は旨いからな」
 冗談まじりに言う吉川に、洋介は「ええ、でも遠慮しとこうかな。バレたら職員をクビになっちゃう」と答えた。
「心配すんな。秘密にしといてやるよ」と言って愉快そうに笑った。

              ○○○

 いつも通り八時二五分に出勤した洋介は、区役所の階段を上りながら身体に充満したエネルギーを感じていた。久しぶりに運動をしたこともだが、真理恵が言ったという女の正体を暴いてやろうという闘志が身体にみなぎっていた。四階フロアに上がったときには武者震いが奮い立った。

 昨日からの一件を、公園村で吉川から聞かされた横流しのことや食料保管ビルでの前川課長と女の密会について、まだ香織に話ができていない。昨夜、メールで簡単に伝えておこうかとも思ったがやめておいた。香織を動揺させることになるばかりか、今の自分が置かれている危うい立場までをメールで伝えきれるものではなかった。

 洋介は焦っていた。四階フロアで出くわした前川課長に訊ねると、香織は山本対策本部長と先ほど都庁へ出かけたところだった。

「工藤君は連日、都庁詰めだな。今年はさらに大変な年になるな」前川正太郎が溜息をついた。
「そうですね。でも何とか乗り切らなきゃ」
「石井君、今日の配給は新宿御苑だね。あそこは規模が大きいからな。その前に会議だ。今日は忙しいよ」
「ええ大丈夫です」
「会議は九時からだよ」
「まだ少しやることがあるのでかたづけてすぐに行きます」
「深田君にも伝えておいてくれ。それから今日は区長室の杉山君も加わるからね」
「杉山さんですか?」
「そうだ。本日付で対策本部に移籍することになった」

 杉山泰子は、これまでは区長室直属の特命プロジェクト危機管理課の所属だった。歳はまだ三〇半ばだが区長の信任を得ている一人として出世組に加えられていた。その杉山が総合対策本部付きになるということは大きな動きがあるということだ。洋介には、それが例の夢の島移転計画であるのは周知のことだった。

 前川課長の背越しに掛け時計を見ると、八時四〇分を回っていた。後二〇分もない。階段を駆け下り、食料管理ビルへ向かった。二階を覗き、次いで三階に上がると調理場では午後からの配給米を炊き上げているところだった。雑炊の具となる大根が大勢の手で水洗いされている。

 洋介は真理恵の姿を探した。大根洗いの列に中に彼女がいるのが目に入った。そばまで寄り、声を掛けた。
「河口さんちょっと来てくれる」
「なにか」割烹着の端で手を拭きながら、洋介の後に続いた。ドアの外に呼び出し、周りに人がいないかを確かめて話し始めた。
「実は君に聞きたいことがあるんだけど」そう言うと、真理恵が肩を強張らせたのがわかった。
「どんなことでしょうか」
「前川課長のことなんだけどね」
「課長さん?」
「そう。昨日の夕方ちょっと用があってここに来たら課長の姿を見かけてね」
 洋介は鎌を賭けているのだ。いや、わたしがだ。
「私、何も知りません。前川さんのことなど」
「そうかな」事情はお見通しだといった口調で言い、一か八かの勝負に出た。「見たんだけど。二人でいるところ」
 真理恵が「私は何も」と小さくつぶやいた。
「君が知らないのなら前川課長に聞いてみよう」わたしは少しサディスティックな気分になり、「君から聞いたってね」と言った。
 黙って俯いている真理恵に、さらに言った「どうする。君を雇い入れたのは課長なのだろう?」
「聞いてたんですか昨日のこと」やっと真理恵が認めた。洋介が腕時計にちらりと目をやると、九時三分前になっていた。
「そういうことだよ。今日仕事が終わったら少し時間をくれないか。心配しなくてもいい。河口さんの悪いようにはしないから。それに僕はシゲさんを兄貴のように思っている男だよ。いい、僕のことを信用してもらえるかな」
 真理恵が小さく頷いた。
「じゃあ六時に花園神社の鳥居下に来てもらえるかな?」
 洋介の顔を見ないまま、真理恵が小さく頷いた。

              ○○○

 会議室に洋介が入ると、コの字型に配置されたテーブル中央には対策本部課長の前川正太郎、その隣に区長室の杉山泰子、右側のテーブルに係長の沢村学、配給班主査の原博史が座っていた。左側のテーブルには配給班の深田勝ほか三名が座っている。配給班主任の洋介は左テーブルの奥へ行き席に着いた。

「すみません。お待たせして」
「さあ、メンバーが揃ったところで始めるか」と前川課長が言った。
 洋介にもペーパーが渡され、表題に「公園村閉鎖に伴う配給計画書」と書かれてあった。新宿区内の公園村の名が列記され、ABCの三つに区分されていた。戸山公園村はCグループとなっている。

 前川課長が咳払いして言った「会議内容に入る前にご紹介しておきます。区長室の杉山さんが今日から対策本部の統括係長となります」

 紹介された杉山泰子が席を立ち、会釈だけの挨拶をした。銀縁の眼鏡を掛けた理知的な顔立ちだが、それがかえって冷たそうな印象を与えた。洋介は彼女とはまともに顔を合わせたことがなかった。

 だが、わたしには記憶があった。最初に時空を飛んだあの時代に、工藤香織と食堂で話した狐女だ。ここにいたか、といった思いがわたしに蘇った。

「さて、本題については杉山統括係長から話してもらえますか」
 前川課長からそう言われ、杉山泰子が口を開いた。
「お手元の文書は、もう目を通されましたでしょうか」そう言って周囲を見渡した。
 配給班主査の原博史が「公園村閉鎖とありますが、どういうことでしょうか?」と言った。
 杉山が答えた。
「それをこれから説明します。本日、配給班のみなさんには初めてお伝えすることになりますが八月二〇日付けで段階的に公園村を閉鎖することになりました。小規模の公園村がA、中規模がB、大規模がCとなりますが、そのABCの順で閉鎖していきます」

 ついに正式発表となったかと洋介は唾を飲んだ。配給班主査の原博史以下、配給担当職員にとっては寝耳に水といった話だ。原が意外だといった顔で話を継いだ。
「確かに公園村は臨時的なものだとは把握していましたがもう数年は続くものだと」
「これは都議会で決まった全区の話です」と杉山が淡々と話し、「国の政策に関わっているのです」と言った。
「ですがいきなり廃止の方向へもっていって住民たちはどうなるんですか」原が困惑した口調になって言った。
「住民には別の場所が提供される新たな計画に基づいたものですが、これについては改めて会議を開きますので。本日、本部長が都庁で最終会議に入っており正式にはその後となります。質問はよろしいですね」

 杉山泰子の事務口調に、原博史が納得できないといった顔をして黙った。深田勝が洋介の目を斜め隣からチラリと見た。もちろん深田もそれが夢の島移転計画であることを知っている。会議室が重い空気に包まれていた。

「質問いいですか」と洋介が口を開き、「住民には誰がどのタイミングで通達するのですか?」と聞いた。
「七月二〇日です。通達の方法は各公園村へ配給職員が出向き、村側の代表者に文書を渡してもらいます」杉山が答えた。

 通達は、八月二〇日閉鎖のきっちり一ヶ月前ということだ。ホームレスの引っ越しなどそれだけの期間があれば充分ということか。しかし、夢の島へ移動しろと言って、彼らが素直に従うと思っているのだろうか。まだ、この場でその話はひとつもなされていない。洋介は頭の中で公園村の混乱の様子を思い浮かべていた。

 前川課長が咳払いをし、しゃべり始めた。
「とにかくだ。これからますます財政悪化が進むと予測され、いかに効率化を図るかに焦点が絞られることになる。今回の公園村閉鎖および移転計画は現在われわれが抱えた最重要課題だと思ってもらいたい」と、職員の顔を眺め回しながら語たった。それから「今後、配給班は杉山統括係長の指示に従うように」と言って会議を締め括った。

 前川課長は夢の島という具体名を避け、ただ移転計画とだけ言ったが、やはり混乱が起こることを懸念しているのではないか。その解決策がまだ出ていないのだ。本部長と香織が都庁で参加している会議は恐らく、それが本題ではないかと洋介は思った。

 会議室を出る間際、杉山泰子が洋介を呼び止めた。それからまた会議室へ入るように促し、隣り合わせで椅子に座った。
「石井さん。あなた戸山公園村の担当ね」
「そうですが」
「あそこに吉川重則という男性がいるでしょ」
「ええ、それが?」
 杉山泰子が眼鏡の中の瞳を光らせ、「接触してる?」と聞いた。
「どういう意味ですか?」
「協力してくれないかな」杉山泰子の目つきが少しやさしくなった。
「吉川さんに何か問題でもあるんですか。あの人、公園村では顔役でよくまとめてくれてわれわれも助かっていますが」洋介がそう答えると、杉山の表情が元に戻った。
「とにかくどの公園村でも何か変わった様子があったら知らせてください。移転計画に関係することだからいいですね」
「わかりました、そのときはお伝えします」釈然とせず、洋介はそう答えておいた。

 会議室を出て、配給班の制服に着替えるため更衣室へ行くと、深田勝が制服に着替え終わるところだった。
 深田が、「今日の会議、まいったな」と独り言のように言った。
「まったくだ。ついにか」と洋介が相づちを打った。

 公園村閉鎖の通達役は自分たちなのだ。彼らを納得させる材料がないまま知らせれば暴動が起こる可能性もある。その対応をどうするかで都庁会議があるはずだが、一体どんな話が進められているのか。
「ところでなあ」洋介がヘルメットのひもを締めている深田に言った「あの杉山さんってどう思う」
「どう思うかっていわれてもねえ。細身なのにけっこう胸あるなって。でも冷たい感じの美人って俺のタイプじゃないな」
「冗談じゃなくてさ。なんか裏っぽい感じがしないか」
「裏ってどういう意味での?」
「知っていることを隠してて動くタイプって意味さ」
「確かにそんな感じはありますね」深田がニヤニヤして言った。
「おまえ何か勘違いしてないか」
「さっき会議室に呼び戻されてたの、そういうことじゃないんですかあ?□ああいう出世タイプは部下を手なずけるのも得意ですよ」戯けて深田が笑った。
「おまえはいいよ暢気で」

                ○○○

 この日の配給場所は区役所から近い新宿御苑村だった。ここは戸山公園村よりさらに大規模な公園村で、三台のトラックに食料を積み込み、何度か往復して新宿門、大木戸門、千駄ヶ谷門の三ヶ所で配給するのだ。深田勝が大木戸門、原博史が千駄ヶ谷門へと向かうのを見送り、洋介もハンドルを取って新宿門へと向かった。アルバイトの配給員たちはすでに現場に入って到着を待っている手はずだ。

 新宿御苑は、昔は信州高遠藩主の内藤家江戸屋敷地であり、明治になって宮内庁の植物園として利用された約一八万坪の広大な公園だ。園内には日本庭園、フランス式、イギリス風景式庭園などの名園があり、また都内とは思えないほどの森林地もある。戦後は国民公園として市民に解放され近年に至っていた。春には花見のメッカともなり、一日に数万人の花見客で賑わったものだ。新宿御苑村には現在、三万人規模の居住者がおり、ここの場合は家族用の施設とされていた。御苑は周囲を塀で囲まれ、芝生緑地も広く、子どもたちの生活環境への配慮がなされていた。

 洋介がトラックで食料ビルを往復し、三度目の食料運搬をすませて一息つき、御苑村新宿門のベンチで休憩していた。気温が三八度まで上がり、制服が汗だくだった。水筒の氷水で喉を潤し、洋介は今日の会議内容を頭の中で反芻していた。

 公園村閉鎖の通達が来週七月二〇日。その一ヶ月後の八月から小規模公園村Aを閉鎖、次いで九月に中規模B、一〇月が大規模Cで、戸山公園村も新宿御苑村も閉鎖まで三ヶ月しかなかった。段階的に移動といっても新宿区だけでも数万人の規模だ。これが全区となれば数十万人にもなるだろう。東京湾の埋め立て地に集合するホームレスたちの姿を想像するとゾッとした。まるで亡者の列がぞろぞろと進むような絵が頭に浮かんだからだ。そして、その列の中に洋介は自分の姿も見た気がした。

――どうなっちゃうんだ、東京・・・

 区役所に戻ったときには洋介はグッタリと疲れ、まるで全身に鉛の鎧を纏っているかのようだった。四階まで重い身体を運び上げ、自分の机の椅子にへたり込んだ。まだ香織は都庁から帰っていなかった。この二日間、予想外の事態が起こり、洋介の心身を疲弊させていた。香織ともう何週間も会っていない気分だった。

 五時半を回り、更衣室で制服を着替え、シャワーを浴びた。すぐにでもアパートへ帰って眠りたかった。だが今朝方、調理室で真理恵と話し、六時の花園神社で待ち合わせていた。慌てて着替え表に出た。隣の食料保管ビルの入り口を覗いたが職員らは全員退勤した様子だった。早歩きでビルの谷間にある花園神社へ向かった。五分ほど遅れて着いた。鳥居の周辺に人影はなかった。境内も探したがやはり真理恵はいなかった。

 鳥居の下に戻り、待つことにした。目の前の大通りではいつものように食料品や雑貨の屋台が並んでいる。一軒の屋台で何かを焼いて売っているのが目に入った。それが何なのかはおおよその見当がつくが、店主は決して何を焼いているのかは口にしない。肉の焦げる匂いが洋介の腹に刺激を与える。タレを塗れば、どんな肉であろうが旨いのだ。

 我慢仕切れなくなって一本五〇〇円の串を買い、歯で食いちぎり咀嚼して胃に落とし込んだ。看板には、すずめ焼きと書いてあるが、どんな鳥かは知れたものではない。鳥などではなく、爬虫類なのかもしれない。だが、その野趣が堪えられず旨かった。これに密造酒があれば文句ないが、大通りでは望むべくもない。花園公園の裏へ潜れば、あることは知っていた。そう思えば思うほど密造酒の魅惑に身体が引き寄せられそうだった。今こうして女を待っていることが気分を高揚させ、ますます酒への誘惑へ駆り立てた。

 通りから鳥居を眺めていると、女が立ち止まり、また先へ進もうとする姿があった。三〇分も遅れて姿を現したのだ。怒りが込み上げ、オイ!と怒鳴り声を発し、呼び止めた。
 女がビクッと背筋は張って立ち止まり、振り返った。
「遅いぞ。何分待たせるつもりだ」
「すみません」
「何してたんだ? 課長にでも会ってたのか」
「まさかそんな」
「とにかく付き合ってもらうよ」そう洋介が言って真理恵の腕を掴み、花園神社の境内へ入っていった。わたしは、いつもの洋介の調子が狂っていることを感じつつ、成り行きを黙って見守った。

 社殿脇に人影がないことを見届けて、そこに真理恵を立たせた。
「昨日の夕方、あそこで何を話していたのか聞きたい」
「別に私、課長さんに呼び出されただけで」
「今度はいつになるってどういうことだ?」
「あれはその・・・」
「あれはそのじゃわからんだろうが!」洋介が苛立ち、「米の横流しの相談じゃないのか」と言い放った。

 真理恵が目を丸くして黙り込んだ。表情を硬くして洋介の顔を見つめ、何かを決心したのかゆっくりと口を開いた。
「主任さん、勘違いしてるわ」
「何がだ」
「課長が私を使って米の横流しをしていると思ってるの?□だったらそれ間違ってる」。つい今までと真理恵の口調が変わっていた。「そうね話すわ。私もあんなのうんざりだから」そう言ってうっすらと笑った。その笑いはキャバクラ時代にナンバーワンを誇った真理恵のものだと、わたしには感じられた。
「そう、君が決心してくれるなら朝も言ったように悪いようにはしないよ」洋介も気分が変わっていた。
「なら、こんな所に立ってないでどこか落ち着ける場所に行きません?」
「喫茶店かそれとも居酒屋でもいいぞ」
「ほら、この裏にあるでしょ」
「裏のか」
 洋介は密造酒の隠れ酒場のことを言っているのだと思った。
 女は居直り、途端に駆け引きを初めていた。
「いいぞ飲みながら話を聞こうか」

 神社の裏手の暗がりからさらに奥に入ると、ひっそりと静まった路地裏に古びたビルがあり、人がやっと通れるほどの路地を進むと奥にひび割れた木の扉があった。この辺りにそういった店があることを洋介は知っていたが、足を踏み入れたのは初めてのことだった。

 真理恵が扉を叩くと、「どちらの方ですか?」と中年女の声がし、真理恵が名乗ると「どちらの?」と声が返って、「ビーナスクラブ」と答えると鍵が開く音がした。扉を押して中へ入ると思ったよりも広く、木のカウンターに六人ほどの男女が座り、奥のテーブルには三人の男がいた。その全員が一斉に視線を向けた。中年女が客達へ向けて手をひらひら振ると、また酒を手にして話し出した。

「元気だった?」真理恵の顔を見て、中年女が愛想を言った。
「先週も来たじゃない」と言って真理恵が笑った。
「そちらさんは? いえここでは野暮なことは聞かないルール。真理恵ちゃんが連れてきた人なら問題なしね」
 洋介はそう言われて愛想笑いを返し、「嫌いなほうじゃないんでね」と言った。
 それに続けて真理恵が「ママ、二階空いてる?」と聞いた。
「あら、空いてるわよ」ニヤリとし、「ほかの客は上げないから、ゆっくり楽しんだらいいわ」と小声になって言った。

 カウンター脇に細い階段があり、靴を脱いで上がると畳の小部屋に座卓が二つ置かれていた。密談にはおあつらえ向きの場所だった。
「君はここの常連みたいだな」
「お店に出てた頃からよくしてもらってたの。ママとは同郷なの」
「なるほど。この部屋、落ち着くな」洋介に、わたしの感情が絡まっていた。真理恵の顔を間近に見て、あのキャパクラ通いの頃が懐かしかった。

 ほどなく先ほどの中年女が酒とつまみを見繕って上がってきた。
「ちょうど良かったわよ。今日はいいのが入ってねぇ」と女が言い「ほら蒲焼きよ。それから蕪と烏賊の煮物でしょ、奈良漬けと缶詰だけどアン肝も」と、盆に載せた皿を見せた。

 二合徳利に入っている酒は密造酒だが、豪勢なつまみとなれば相当な金を取られるだろうと洋介は自分の懐が気になった。財布に一万円はあるが、それで足りるとは思えない。
「さ、まずは飲みましょう」と真理恵が酌をして、ふたつの杯に酒を注ぎ、「ここのお金は気にしないで」と言った。
「そんな訳にはいかない。俺が君を呼んだんだ」
「いいのよ。私が清々するんだから」そう言ってクイッと杯を空け、洋介を見た。
 つられるように洋介も酒を口にすると度数の強い白濁した液体が喉の流れ込み、胃が熱くなった。奈良漬けを一切れつまみ、また酒に口をつけた。

「それで話だが」と言いかけて、洋介が咽せた。強い酒と奈良漬けの香味が刺激した。久しぶりに味わう美味と呼べる味覚だった。
 洋介が咽せた胸を叩いていると、真理恵が話し出した。
「課長さん店の常連だったの。区役所の隣でしょ。毎回、変装して来るのよ。帽子かぶってサングラスで付け髭なんかして笑っちゃったわ。もう三年前か早いわね。それで店の閉店間際で心配してくれてどうするんだって」

 賑やかなギャバクラに店内の風景がわたしの頭に蘇っていた。その客の中に前川正太郎もいたのか。アイドルS嬢、河口真理恵を奴も目当てにしていたというわけだ。わたしの中で合点が行き始めた。
「それでね、役所で臨時雇いの仕事があるからって。うちに来ないかって誘ってくれたのよ。店が潰れたらほかに仕事ないでしょ。家出同然で飛び出した田舎には帰れないし。公園村があるけどあんなとこ私、嫌だもん。吉川社長には悪いけど。まだ、飯炊き女で働いてるほうがマシよね」
 そう言って杯を傾け、洋介を見た。臨時雇いは自分もだったが、職を求めて多数の応募があった。表向きは面接試験があったが裏では縁故関係が効いた。洋介の場合は香織の口添えはあったものの、正式に試験を受けて入所していた。だが真理恵の場合は課長の職権乱用だったということだろう。

 酔いが程よく回ったのか、真理恵が饒舌になって話を続けた。
「でもね条件付きだったの。自分の女になれって。歌舞伎町のほかの店もどんどん潰れちゃってどうせいくとこないし。いいわってお引き受けしたわ。少しお金もくれるしさ。お米もくれるのよ」真理恵が上目遣いにして洋介を見た。

「おい、それが横流しじゃないか」
「そうかも」
「そうかもじゃないだろうが。で、どういう具合でやってるんだ横流しを」洋介が語気を荒げた。
「どうって課長がときどき鞄に詰めて持って帰るの。それを私にも別けてくれてるわ」
「その程度の話か?」
「ね、立派な横流しでしょ」真理恵が笑って座布団に横座りした膝を組み直した。濃紺のスカートから白い膝がしらが見え、わたしは前川がこの女を抱くところを想像した。

「そんなセコイ話じゃない。横流し事件は」と言い、間を置いて考えた。吉川から聞いた真理恵が言ったという女が絡んでいる話はどう繋がるのか。
「ねえ石井チーフ、ここで話したことは秘密にしてくれる?□課長にバレたら追い出されるから」
「悪いようにはしないと約束しただろう」
「よかった。なら私も悪いようにしない」真理恵が怪しい目つきで洋介を見た。

 途端にわたしの下半身に熱いものがたぎった。手を出せば形勢が逆転だ。密造酒も飲み、弱みを握られるのは洋介だった。男の弱い部分に付け込んでいると思った。まだ二〇そこそこの小娘と侮っていたが、夜の商売に生きてきた女の強かさを身に付けていた。

 このまま溺れてもいいか。一度くらいなら、もう酒も飲んだのだ。あの課長も真理恵に弱みを握られているに違いない。
「聞いておきたいことがあるんだ」その言葉を何とか振り絞った。「シゲさんを兄貴分とさえ思っているんだが」と前置きし、「横流し事件に女が絡んでいると聞いたんだが、その女って誰のことだ」と言い終えた。

 間が空いた。酒を喉に流し込んだ。下の店から小さく笑い声が聞こえるが、声を落としていて賑やかさとはほど遠い闇商売の酒場である。表通りからサイレンの音が響いていた。この頃では一日に何度となく聴く馴染みの音だ。またどこかで通り魔か、コンビニ強盗でもあったのだろう。無ければ奪う。巷にそういう人間も珍しくなくなっていた。

「いくじなし」
 と、真理恵が言った。
 わたしは杯を取って一気に酒を飲み、「そうだよ」とだけ言った。
 ふっと息をつき、「いいわ」と真理恵が言い、それから「杉山って名前の職員いるでしょ。その女、回し者よ」と吐き捨てるように言った。
「それ、どういう意味だ」
「あの女が区役所に入る前にどこにいたか知ってる?」
「いや。区長室の前までは知らないな」
「警視庁公安部だって」
「公安警察? まさか。そんな人間がどうして」洋介はからかわれた気分になり、酒をあおった。
「本当かどうか知らないわ。でも前川課長から聞いたのよ」
「もしそうだとしてそんな機密事項を言うか?」
「言うわよ。ベッドの中だもの。彼だって密造酒くらい飲むし」そう言って洋介の目を斜めに見た。
「寝物語ってやつか。つい口を滑らせてしまったってわけ?」
「私にぞっこんだもの」

 そういうことかと、わたしは思った。前川はこの真理恵という女に何もかもしゃべって、がんじがらめになっているのだ。秘密をしゃべれば自分の傍から逃げられないだろうと考えているに違いない。昔なら囲った女は口が硬かったものというが、それは昭和の時代の話だ。今のように社会情勢が刻々と変化する時代に、もはや秘密など維持できるものではない。現にこうして漏れてしまっているのだ。

「で、なぜ公安が潜入しているんだ? やはり大規模な米の横流しが行われているということか」
「そこまでは知らないわ。でもきっとそうなんじゃない」真理恵が他人事のように言った。
「公安が動いているとはな。それだけの話しでもなさそうだ。河口さん、今後も情報を提供してもらえるかな」
「真理恵でいいわ」
「僕たちそういう関係じゃないだろ?」
「そういう関係でもいいのよ」
「君はすごく魅力的だけどね。でも僕には任務があるんだよ」
「もしかしてあなたも公安?」
「ハッハ、そんなんじゃないから安心しろよ。僕は配給班主任、ただの米配達チーフさ」
 密造酒の酔いが回り始めていた。
「じゃあ、その証拠を見せてよ」
「どうやって?」
「私も秘密を教えてあげたんだからあなたも秘密をちょうだい」
「よくわからないな、どういうことだか」
「こういうこと」

 真理恵が膝をすり寄せ、洋介に身を添わせた。甘い香りが鼻孔を突き、洋介は言い訳を頭の隅でつぶやいた。これも特命の仕事だ・・・酔いと甘美な誘惑に時を忘れていた。