RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

ちくわと歯磨き粉とケストナーが自分に宛てた手紙のこと

2007-08-16 13:25:05 | ほなそないしまひょ

(嬉しくも?探す本の無い店と庭の樹ジャカランタは熱帯夜を助長する)

熱帯夜だろうが涼しかろうが、眠れないのはいつもだから
朝、目が覚めると同時にあくびが出る末期的不眠症状?
の八月のど真ん中
薬がきれて、またぞろみぞおちと背中が痛いが
冷えたビールやワインはやっぱり飲みたいるるです。

終戦記念日&ナボちゃん(ナポレオンボナパルト)の
誕生日8月15日も終わって
そろそろ海じゃあ、くらげが出るから
泳ぎに行こうと思っているあなた、イソギンチャクよ。
2~3日前、ちくわをソーメン用に一本買っておいたのだが
(うちではちくわはソーメンの薬味のひとつなので)
冷蔵庫に無い・・・無いがな
おーいちくわよ何処へ?(おーい雲よ…の感じで)
とつぶやくと
冷蔵庫前をとおりがかった自転車男は言った
『食べたよ。』
『う・・・。』
ビールのアテに食われてしまった
のだった・・・。
ちくわは確かにビールにあうからね
2本買っておけば良かった
ちくわのびちくは夏の常備蓄なり
やきうどんにもおこのみ焼きにもちくわは必要です。
まあちくわを入れてソーメンを食べたいのは
我が家じゃるるだけ、なんだけどね
それにソーメンにはみょうがも欲しいよね
今日は我慢しよう。

『ちくわとはみがき粉はきらすな

ってのが、るるの母の教えなのである(真事)←マジと読む。

それはさておき、ブックオフで本やCDを売ると、
なんか金券レシートをバックしてくれる、
それが、売るのって
たまーに、だから財布に入れて忘れていて
期限がきれる寸前で、気がついた
駅そばのブックオフへ出かけたついでに寄り
金券分の本を物色した。
300円のケストナー「ナチスに抵抗し続けた作家」と
100円の文庫本2冊を買った
金券は400円分で、
なんか金券だけで買うのはちと照れる(?)から
現金100円出したるるです(笑)
文庫本で読みなおしたかったのが見つからなくて
やっぱり古本屋はベストセラーや、そこそこ売れて
手放しても惜しくないって感じの本ばかりで
るるの探す本はいつもなかなか見つからない
そりゃしかたないよね、タイミングもあるしね
誰かがるるの読みたい本を売ってくれなきゃ
店頭には並ばないんだからね

なんでケストナーですが、理由はない
ちっさい頃に読んだ『ファービアン』と『飛ぶ教室』を
もう一度読んで見たいとか思ってたからかな
この前「くまのプーさん」のミルン自伝を読み
面白かったからか
子供の頃読んだ本の作者たちの人生に
最近興味がわいて来て
なんとなく手に取ってしまったら
児童向けで字がでかくてべりーグッドな上
300円の値札で、さらにグッドプライス
これで決定~って、いうことなんだけど

文庫本で探してる昔読んだが、再読希望の
ボートの三人男(ジェローム・K・ジェローム)も
見つからなかった、役にたたん古本屋じゃ~。
最近新しい本より昔読んで面白かった本を読み直そう
とかって思っている、思ってるだけで
一冊もまだ実現させてないが
まあぼちぼちですわ・・・その前に老眼鏡つくらにゃ。

ケストナー(1889~1974年)はドイツの児童文学者
上に書いた他にも
「ふたりのロッテ」「ベルリン最後の日」「点子ちゃんとアントン」
「エミールと探偵たち」「ザルツブルグ日記」「雪の中の3人男」
とかの作品がある。
1933年からヒトラーのナチス政府に批判的だという理由で
原稿を書くことを禁じられていた、思想弾圧でゲッシュタポにも
逮捕されるが取調べのみで釈放された、でも当時図書館などで
彼の作品は「エミールと探偵たち」以外すべてが閲覧禁止となった。
彼の友人達の多くはナチスに殺されている、また亡命する仲間達も
大勢いる中、ほとんどただ一人、祖国にとどまり続けた。

激動の時代を生き延び、自由と平和の意味を考え続けた作家である
1956年以降、沢山の文学賞を授けられ、
71歳でミュンヘン市文化名誉賞を授与、75歳で食道がんで亡くなった

「傷心を演じるのをやめなさい。
生きながらえよ、悪人どものじゃまをするために!」

という彼の言葉がケストナーの人生をよく表している

今日の推薦文
彼が原稿を書くことを禁じられてから7年後
41歳のケストナーが自分に宛てて書いた手紙

「1940年1月19日 ベルリン(クアーフュルステンダムのカフェにて)」

「親愛なるケストナーへ
きみは以前、人びとのために、つまり子どもたちや、もはや成長することをやめてしまった人々のために、本を書いていたね。きみ自身が、どんなことを良いと思い、悪いと思うかとか、なにに美しさを感じ、なにに醜さを感じるかだとか、おかしくてわらいだしたくなったことや、悲しくて泣きたくなったことなんかを、いろいろと。
それで、自分がなにかの役にたっていると信じていたんだ。でも、それはまちがいだった。今となっては、きみも、そのことに気がついて、あきらめたように小さく笑っているから、ぼくの心もあまり痛まずにすむけれど。
きみは、心のどこかでずっと期待していた。今の世の中に起きていることが進歩などではありはしないと、人々もやがては気がついてくれるだろう、そして、それまでのあやまりを、苦い授業料を払うつもりで正してくれるだろうって。でも、そもそも、そんな期待をしたほうがばかだったんだ。以前のきみは、川に泳ぐ魚たちに向かって、早く岸に上がって来い、歩くことを学んで、陸の生活を楽しめよ・・・と、声をからしてさけんでたのと同じだったってわけだ。
まったく、どうかしてたよ。自分の人生の大切な時間を、すっかり無駄にしてしまったじゃないか。
きみは、人々に、一生懸命呼びかけてきた。戦争はやめよう。生きることには、おたがい憎しみあったり、だましあったり、争ったりすることよりも、はるかに高い意義があるんだ。それに、次の世代のために、よりすばらしい、より理性的で幸せな地球を残すことが、ぼくたちの使命なんだと。でも、それが、はたしてどれほど効果があったろうか?
学校の教師になることをやめたはずなのに、あとになって教師づらして、いったい、どんなつもりなんだい?
世界や人々をよりよくしようなどとは、ほんとうになんたる思いあがり!なんたるうぬぼれ!四角は、丸い円になんてなりたがらない。円のほうが、より完全に近い形なんだと、四角に呼びかけたところで無駄というものだ。
人間というやつは何千年も前から、天使になれ、という夢想家の呼びかけをはねつけてきた。拒むだけじゃなくて、やっつけようとさえしてきた。そして、最後には、この夢想家たちの、財産を奪い、自由を奪い、ついには命をも奪っていったんだ。
きみの場合、今のところ、命だけはどうにか奪われずにすんでるみたいだけどね。
「人を変えんと欲すれば、まず自らを変えよ」という格言があるけれど、これは、いい足りてない。「しかし、自らを変えても、人は変えられぬと知れ」と続くのだ。
このことについて、今はもう、これ以上書くことはない。とにかく、あとは生きるだけだ。どうか生きのびてくれ。きみが元気でいることを、心より祈っている。
             きみの離れがたい友人、エーリヒ・ケストナーより」



この手紙を一人カフェで書くケストナーのさびしさは計り知れない
とありがたくも大きな字のひらがなの多い本を読みながら思うるるでした。