RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

とてつもない笑える思想体系は島国に委ねる

2009-06-30 17:07:21 | こんなんどう?

(かあさん この海の向こうはどれぐらい広いの?)



脳学者茂木健一郎が
この前
田原総一郎にブログは脳トレになるから
やったほうがいいですよ
と勧めていた
何故ブログを発信するのかは
人それぞれだけど
日記を書くのもきっと脳に良い
と思うが
ブログは人に読まれる事が
前提にあるから
より一層
脳に海馬に前頭葉に
刺激を与えるのかも試練
いや知れん
皆やればいいと思う
みんなでやれば恐くない(笑)

自分を振り返ることができるし
自分の馬鹿さ加減も知ることが出来る
気になること面白いと思うこと
忘れたくないこと
そして
忘れたいこと愚痴や嘆き
相反する矛盾だらけの我たちが
四角い電子箱に投げ込まれて
あるいは大半は
消滅するかもしれないが
その幾つかは
時代を超えて残るかも知れない
もしかしたら数百年後
なにかのヒントになったり
誰かの役に立つかも知れないじゃない?  
時代を映す鏡のように
万華鏡のように
情報の海に切り刻まれながら
どこかの時代の誰かを
微笑ます かも知れない

だって
この前本を読んでて
中世の貴族の婦人の日記
創作でなく実際の日記が引用で出てて
笑っちゃった

笑う
といえば
今日の新聞の佐藤正明氏の一コマ漫画
麻生さんが溺れながら
東国原知事をつかんでいる絵に
『溺れるものはオワライをつかむ』
の文字に笑ったよ
関係ないけど
笑いついでに
昨日
サザンの桑田さんの「音楽寅さん」
て番組で
ジャニーズの山下くん?の
「抱いてセニョリータ」を扮装して歌っている
桑田氏の映像に
『ジャニーズ シニア?』
の文字が出て
思わず 笑っちゃった

笑えないのは
新聞
景気は
『底打ち』なのか
『底入れ』下げ止まりなのか
『底ばい』なのか
はたまたは
『底割れ』
となるのか
底、底と五月蠅い
六月なのに五月蠅い
そこ そこ
そこ ここ
かまびすしい
分析より対策を記事にして
不安感を払拭出来ぬものか?
新聞読まなきゃいいんだけどね
時間は有限だしね


(蚊に効く螺旋は立て巻きに置くことが風流)

時間といえば
時間は体重の四分の一乗に比例するとか
時間が体長の四分の三乗に比例している
とか

生物は体重が増えると時間が長くなる
って言う話
『ゾウの時間ネズミの時間』という本
目から鱗が背中に張りついて半魚人になる本

どんな本よ!
まあ17年前に出て
多分話題になった本だから
知ってる人も多いような気がする
いつものごとく
古いネタ好きのるる です
生物の大きさと時間の関係の話
だけじゃなく
進化の話
『島国の法則』ってのが 
あるんだそう

思い出した?
それよそれ

古代生物に関する法則なんだけど
島の動物と大陸の動物ではサイズに違いが見られ
島に隔離されたゾウは世代を重ね小形化し
ネズミやウサギなどは逆に大きくなっていく
これを古生物学で『島の法則』と呼ばれる

古代に島に閉じ込められたゾウで
子牛ほどしかないものが出現し
ネズミなどはネコほどあるものが出てきた
要するに
天敵が少なく餌が限られた量しかないと
身体を小さくしなけりゃ生き残れない
小さな動物は逆に天敵が減ると
身体を小さくして隠れる必要がなくなる
餌の量も少なくて済むから十分食べれて
大きくなる
そんな話から
島国日本につながるんだけど


(おばあちゃん家で昔見た流しに似ている)


日本は平均的な人間が育つ島環境
ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい
出てきても出る杭は打たれてへっこむ
しかし庶民のスケールは大きくなり
知的レベルはきわめて高い
大陸に住むと
とてつもないことを考えたり
常識はずれをやって
まわりに白い目でみられたら
よそに逃げることも可能だから
大陸ではとんでもない思想が生まれ
それに負けない強靱な大思想が育っていく

獰猛な補食者に比せられる
さまざまな思想と戦い
鍛えぬかれた大思想を大陸人は生み出して来た
畏敬したい。

しかし
これらの思想はゾウのようなものではないか?
人間が取り組んで幸福に感ずる思考の範囲を
はるかに超えて
巨大サイズになってしまっているんじゃ
ないのか?
動物に無理のないサイズがあるように
思想にも人類に似合いのサイズがあるのではないのか?
と著者は 言うのだ
ふんふ んふふん

人間たちの交流や移動が当たり前になり
地球が人にとって狭くなり
『大陸の時代』から『島の時代』
にならざるを得ない状況に
このサイズ話は興味深い
地球が狭くなるなら
島国日本がリーダーシップをとる事が
人類にとって良いんじゃないの?
こんなにちっちゃい島国が
経済大国なんて威張ってたこともある
平均寿命が世界一?だし
常識人が多いし・・・。

だからできるんじゃないの?
人間は身の丈にあった思考になる
とすると
変化や進化はどんどん緩慢になる
サイズ(思想)が平均化することで
争いが少なくなればいい
どうだろうか
ただ
少しつまらない世界になるようにも感じる
とてつもない思想や思考はやはり面白い
ってな反論が出ても
出る杭は ひっこむし(笑)

戦争に繋がらないで
腹の底から笑えて
いずれ笑い死に出来るような思想

島国日本が生み出せばいい
今後
そんな思想に人が出会える様に
島国の平均的庶民は
祈ろうと思うのである

『溺れるものは わらい をもつかむ。』

あっ
そんなオチなのね





(哺乳類の一生心拍数は等しく20億回らしい)


100均ピーラーは爪の皮むき器にもナルを知る日

2009-06-29 13:47:14 | やってもうた

(7/22は日本の人口が南へ偏るのだろうか)

今年
博多は雨が少ない梅雨だというが
昨日も降ったし今日も明日も雨模様
自転車族・坂道族には
この程度の雨降り梅雨でやり過ごしたい
と願う
夏の気温の中
荷物を抱えて傘をさし
坂道を昇り下りするのは
中高年には厳しいのである
うっかり降ってないからと自転車で出て
降られるとずぶ濡れ捨て犬状態



(これは捨てヌイgですろ?)


自分はいいとして荷物が濡れると
テンションも最低位
でも
水不足は困るから貯水池上空だけ
集中雨であれと祈る日々

どこかの空に


おたまじゃくしが降り
たまじゃ雨の後
マンボウが降った
その日
夕飯の支度中
じゃがいもをピーラーで剥いたら
左手の中指の爪も
じゃがいもの皮と一緒に
剥いてしまった

『がりっ』
と音がして
『あっっつぅ~。』
と声をあげた

やっちまったよ

使い慣れた百均ショップ製ピーラーは
刃がかなり馬鹿になってるから
切れ味が今一つなのに
生爪をがっつり剥いてくれちゃって
痛いったらない!
爪の裏の皮膚が見えて水がしみる
でも血は出ていない
ふん


(けむに巻かれたけりゃスモークツリーでも眺めよ)

料理終わって
シャワーを浴びると
ズッキンコズッキンコ痛む
二~三ミリ程度爪裏の肉が
外気に触れただけで痛み
指が使いにくくなるのは
何故か腹立たしい
シャンプーはやめだ
所謂
深深深~爪って感じか
気にしないこと
にする

こんだけ語れば気は済んだですっしょ
まあね

ピーラー扱いはかなり熟練していて
こんな失策は一度たりとないのよ
アイロン火傷と足の打ち身は
日常茶飯事なんだけど(照れ笑)
ピーラー扱いは慣れすぎて
勢いスピードが早くなって
この有様でしょ
じゃがいもの野郎こんにゃろ~だけど
じゃが芋のせいじゃない


(水の刃には種類が多いね)

何事も
慣れは落とし穴です
天災は慣れた頃にやって来る
とは良く言ったもの
ん?
違う?
まっ今日の話は
忘れて
いや忘れずに
慣れた作業時は皆さん気をつけてやってね
人のふりみて。
用心用心慣れ用心

夏は疲労度が増します故に





今日の一口メモ

文書作成で書きかけ最後尾をだすとか
あるいは
長いページの文書を読むときとか
自由に文書内を移動するワザ
「F5」か「Ctrl」+「G」のキーで
「検索と置換」の
ジャンプダイアログをだすと便利だ
と最近知ったの
ちなみに
すべて選択は「Ctrl」+「A」
ってことも
何年パソコン使ってるんだ!
うんそうね
それから活用法は兎も角
例えばパソコン画面を
一発で写真撮影しちゃうワザ
それを
ワードやエクセルの画面に貼り付ける
3秒ワザがある
右上の「Prt Sc」(Print Screen)キーを押すと
パソコン画面が記憶されて
「Ctrl」+「V」キーを押すと
その画像がワードやエクセルに貼り付けられる

知らないのは私だけ?
とりあえず
面白かったので

ぼちぼち今日はそんなとこ


(ビル光2009GST・・・。)



じゃくし雨か?たまじゃ雨かは最大じゃ雨地域に託す

2009-06-27 16:56:22 | なんだろう?

(じゃくし雨は雲でなく田んぼから降る)


産直野菜と米をいただきました
皆様 まことに有り難うございます
本当に助かります。

たまねぎと米は佐賀産で友人ソンさんから
半分食べちゃったけどジャガイモは
多分長崎産で義姉さんから
ゴーヤと大葉は自転車君の母様作
だから福岡産







この大きさを見て欲しい!!!
手前の小さなジャガイモが
スーパーの普通サイズ
ねっ?
すご~く おっき~いでしょう
ジャガイモも玉ねぎも特大でしょ
何でこんなに違うのか?
土なのか?
収穫時期なのか?
品種なのか?
知りたいなあ
ありがたいなあ
1っこで二個分以上はある
感謝 感謝
玉ねぎの丸焼きに挑戦して見よう
「こら!ちゃんと料理しなされ」
「でも・・・メニュウが思いつかないの」


(めだか雨が降るなら大鉢で受け止めたい)

水無月
空梅雨の福岡には振って来ないのだろうか?
おたまじゃくし
降っても困るけど
空からファフロッキーズ~と降ったという
梅雨ではなく
じゃくし雨 と呼ぶか
たまじゃ雨 と呼ぶかは
最大たまじゃ雨〔仮名〕地域に決めてもらおう
そんな頃
燃えよカンフー(デビット・キャラダイン)は天に昇った
マイケルジャクソンも天に昇ったのか?
月でムーンウォークで歩いているのか
スターの人生も楽しいものではないようだ
誰も彼も生きていくのは辛いのだ
本当の幸はどこにあるのか
「そんなことはない!」
と言える人はそこそこ幸せだ


(門戸を映す扉に挨拶してみた日)


思えば恥の多い生涯でした
人間失格
太宰ブームで桜桃忌は
盛り上がったのだろうか?
人間合格にはほど遠い人生であっても
人は不合格の人生を歩まねばならず
だが
誰が合否を決めるのか?
なんとなく
誰彼となく
人生を否定されている気になるのは
(鬱)への招待なのかも知れない
まじめに生きてきたというのに
お前は
人間不合格だと言われている気がするのは
何故なのか
いつもよりテンション高く喋った後
何故かいつも奈落に落ちる
人生はジェットコースターのごとく
地上から地下へ

空を切り 身を切り 心を切る
きる きる みきる
散る 散る 身散る

青い鳥は死にました
死にながら
たまねぎを剥き
じゃがいもを茹で
ゴーヤを刻み
米を研ぐ
昨日の続きだから
今日も生きるだけだ





眠らない夜
今夜は何を読もうか
子供時代に読んだ本を読もうか
秘密の花園・小公子・小公女
クオレ・三銃士・若草物語
赤毛のアン・岩窟王
あるいは漫画三昧
手塚治虫・白土三平・ちばてつや
萩尾望都・大島弓子etc

そうだ!
北杜夫を読もう!
なつかしさがこみあげる一人だ
数十年前日本の本を読むという
事はじめの作家は北杜夫だった気がする
どくとるマンボウシリーズ
船乗りクプクプの冒険
「高みの見物」はゴキブリ版「我輩は猫」的
ユーモア小説だったよ
確か

トーマスマンに心酔する躁鬱病の作家
医者で自称貧乏性であまのじゃく
北杜夫

名作『楡家の人々』は途中までしか読まなかった
名作『幽霊』は読んだが
内容は最早思い出せない
とうとう
『マンボウ遺言書』って題のが
数年前に出てた
それが文庫になっていた
読んでみよう



『僕が世間のために役立った唯一のことは、
なだいなだ君にいわせると、
躁鬱病を一般に認知させるために
役立ったことだと言われた。』
と書いてあった


確かに
るるも北杜夫作品を読む事で
躁鬱病なるものが
どのような感じなのかを知った
その後
高校生の時に母が再婚した相手が
まさしく躁鬱病のお医者さんだった
から
実際何年か一緒に暮らして
もう少しだけ躁鬱病の知識は増えた


だから
「マンボウ遺言書」を読んであげなきゃ
ケリがつかないでしょ
なんのケリよ!
見てみたら

遺言書のあともまだ執筆してたわよ

マンボウ夢草紙 実業之日本社、2001(改題:マンボウ夢のまた夢・新潮文庫)
マンボウ最後の名推理 青春出版社、2003
マンボウ阪神狂時代 新潮社、2004 文庫
どくとるマンボウ回想記 日本経済新聞社、2007「私の履歴書」に掲載
マンボウ最後の大バクチ 新潮社、2009 

多分
82歳だと思うがんばりすぎよ!

これらも読まなきゃ
ケリはつかぬけど
とりあえず
ドンブラコ節を拾う事が
私のケリです





今日の拾い唄

マンボウマブゼ共和国・文華の日
に歌う国歌である
(~北杜夫著・マンボウ遺言書より~)

小っちゃな舟に寝ころがって
おいらはあおい海原を漂っているんだ
ドンブラコ ドンブラコ
ドンブラコ
星くずが間近く額にかぶさる夜には
大きく瞳を瞠いて
遠い懐かしい風景をそっと想ってみるんだ
泣こうたって
とうに涙なんか涸れちゃったんだ
ドンブラコ ドンブラコ
ドンブラコ

灰色の波頭がたかく砕ける日には
とめどない海がおいらの心をしめつけるんだ
どんな思想も価値も栄光も
おいらにゃもう要らないんだ
ただ可愛らしい子供になって
陳腐な守唄に寝かされたい
それゆえ破れかけた帆をあげて
むかしおいらが住んでいた
星くずの沈む海の涯に恋がれるんだ
ドンブラコ ドンブラコ
ドンブラコ

それにしてもこの小舟は
知らず知らずどうしても逆さまの方へ流れてゆきやがるんだ
まあるい空の下のひとりぼっちの漂流だ
その空に涯しない暦が織られ
ああ おいらは泣いているみたいだ
ようやく涙が色褪せる頃になると
おいらは帆柱に掴まって昏れてく海原を見つめるんだ
すると美しい波のうねりが
ふしぎに優しくおいらの小舟を揺りあげるんだよう
ドンブラコ ドンブラコ
ドンブラコ




(今朝庭で暴れていた鳥が言った)




(ほら!あんさん飛びなはれ!)




二枚肉の霊力と石庭の景石で肝を据える日

2009-06-19 14:04:22 | つぶやき

(ラッパを吹き鳴らせダチュラ)

祝!ホークス交流戦V2
よかったね
気を引き締めて
そして日本一へGOです

そんな朗報にも気は晴れず
頭痛と胃痛でバァファリンリン
その上
金縛りならぬ 金欠縛り中の
汗と涙の日々を
開き直るにはまだまだ修行もたりぬし
なにか肝の据わる手立てを
探していたが
そんなにうまくは行かないもん
せいぜい眠れぬ夜に本でも読んで
心を平常心にさせる言葉を
拾ってみる・・・程度よ。

この前
「日本の庭」について
いろんな人が語る本に載っていた話

鹿児島の知覧の日本庭園の話で
石庭の景石のなかには九割方土に埋めて
地上にはほんの一割の姿しか
見せていないものがあるという

そこの主人が
その石をじっと見詰め
「あの石は我が家が燃えても
桜島が噴火しても微動だにしないぞ。」
と心に念じて
「肝を据える」 という
庭の効用としては
なかなかに
ナイスなものであると思う
だから
肝を据えたい時は石庭に行こうと思う
いけない時は
何処か禅寺の石庭でも思い浮かべてみよう
我が家の近所にも石が沢山置かれてある
不思議空間があるが
どうもほとんど地上に姿があって
逆に不安定感を助長してくれる
ふん
やはり霊力を貰えそうな
シャーマニズム石庭の景石を
思い浮かべるしかない



シャーマン?
といえば霊力
霊力って言えば二枚肉だ
先日
新聞を読んでいた自転車君が
「「漢字の物語」って記事
面白いよね、読んでる?」
と言った
「まあ~時々ね」
とるる
その日の漢字は
「追」だった
実際、最近はあまり読んでいない
ちょっと読んでみるとする


その日の漢字は「追」だった

「追」や師匠の「師」に共通の
偏部分の意味は
軍隊が出陣する時の肉の形だそうな
しかも二枚の肉が繋がった形
うんうん 繋がってるね

此の肉には自軍を守る霊力があると
考えられていたそうな
だから軍隊には必ず二枚肉を携帯した
師の右の部分は刀を表すので
軍隊が別れて闘う時
二枚の肉を切り離す人のことを
「師」と呼びましたと 

大切な肉切りの権限は
氏族(共通の祖先を持つ人たち)
長老の仕事であり
引退後。若者の指導にあたったから
「せんせい」の意となったらしい

「追」は二枚肉を持って道を行く意
であり
敵を追撃するときにも
二枚肉を持たせたことから
此の字が成り立ったそうで
「帰」の旧字にも二枚肉が入っていて
帚の部分が霊を祭る廟を酒をかけた
帚(ほうき)で清める姿を表し
軍隊を守ってくれた二枚肉を供えて
無事の帰還の儀式をしたことから
「帰」の字が成り立っている
と書いてあった

確かに面白いなあ
たまたま今読んでいる
「儒教とは何か」加地伸行著
って本に
こんなことが書かれてあった

「中国人の思考は漢字によってなされる
漢字は本質的には表意文字であり物の写しである
まず先に物があり
それに似せた絵画的表現としての漢字の字形が生まれ
自然的存在として物の世界が優先する

「はじめに ことば(神)ありき」
ではなく
「はじめに 物ありき」なのであり

形而上的世界より形而下的世界に
中国人の関心が向かうようになる
こういう構造だから中国人は物事に即し
事実を追って考えるという
現実的発想になったのである。
現実とは物に囲まれた具体的な感覚の世界である
このため、感覚の世界こそ中国人にとって
最も関心のある世界とならざるをえなかったのである。
中国人は現実的で即物的で現実に密着する
五官(五感)の世界こそを優先する
これはこの世のものである。

美人を見たい、いい音楽を聴きたい、良い香りをかぎたい
おいしいものを食べたい、気持ちのよいものにさわりたい
この現世の快楽を措いて、他になにがあろう。
これが中国人の現世観である。
とすれば、中国人は、快楽に満ちた此の現世に
たとえ一分でも一秒でも長く生きたいと
願わざるをえないではないか。
来世とか、天国とか、地獄とか、そのような現実感のない
フワフワとしたものは、中国人にとっては
信じがたい虚構の世界であった。」



このようなお話がまあ
しょっぱな から展開するので
大変興味深い
なにが?って
だって快楽を正しいと認める民族はもう
かなりごきげんなロック精神民族じゃない?
仏教では五官の快楽を煩悩だと否定するし
キリスト教も人間の原罪がどうのこうの
って言う
儒教精神ってかなり
ポジティブシンキングなんじゃない?
また たのしからずや精神
かしら?

漢字ありき
ってところから入って
言葉=物 だったという
発想だから
最近なんか繰り返し思う
「真理は肉体にあり」
っていう考えは
ちょっと儒教的かもしれないなあ
なんて思うわけです

ていうか
まだ儒教の
じ、じゅの字も
わかっちゃいない
のに
のに
もうこれです
はいそれでしょ!
だって難しいことは飛ばして読むからね
これこそ五官(感)で読むってことよ(笑)
石に霊が宿り 肉にも霊が宿る
そなたこなたに・・・じゅ。


(縦波の連続の規則性が貧乏ゆすり波に繋がる)

儒教といえば孔子なんだ
と思っていたけど
孔子以前の儒や儒家というのがあるとか
大儒・小儒に分かれるとか
礼教性と宗教性の両面があるとか
まあいろいろ知らない難しげなことは
いつものごとく置いといて

面白かったことだけ挙げるとね
こんなことも書かれてあった

「儒教では肉体は死とともに抜け出た霊魂が再び戻ってきて
憑りつく可能性を持つものとされる」

だから遺体は大事なものとしてこまごまと取り決められた
儀式によって弔うし、完全な遺体であることを望むから
臓器移植などを否定する人も必然的に多くなる
ということらしい

おりしも衆院本会議で臓器移植法改正案の
「脳死は人の死」
という位置づけが可決されたとか
本人が生前に拒否表明をしなければ家族の同意で
臓器提供を可能にするという案
衆院に送られた
心臓が動いていても脳が機能しなければ
確かに生きているとは言えぬかもしれないが
大切な人が横たわり
心臓が鼓動をしているのに
死んだとは認めにくい
多分
実際にその場になったら認められない
気がする
いや鼓動が止まっても認めたくない
場合もあるだろう

「しかし、仏教的には死者の肉体は、もはや単なる物体にすぎない
死者は成仏したのである。あるいは、成仏しない場合、
その霊魂は生の時間から中陰という別の時間にはいったのである。
その肉体には、もはや、仏教的意味は無い。」
とこの本には書かれてある

とすると
葬儀で人が祭壇の遺影やお棺に拝むのは
たぶん儒教的 なんだね
仏教的には
導師となる本尊様にどうぞお導きくだされ
と拝むのが本筋らしく
たとえば本尊の替わりに架けられた
宗派の名号の掛け軸に向かって拝む
のが本来だとこの人はおっしゃる
だから日本には
儒教的感覚と仏教的感覚の入り混じった
葬義や法要が定着しているということかな?
仏式の中に儒が入り込んでいる
儒教というのは葬儀抜きには語れないらしい


(大丈夫ですか?と声をかけたくなる丸太君)


もともとは原始儒家と呼ばれた
シャーマンから発生したとある
孔子は母方がこの原始儒家で
父方は農民だったそうで
だからこそ原始からの意識改革や
儒教の体系作りをなしえたという

なるほど!って 思うのでした
こんなのも面白い

儒の礼制(喪礼)の「三年の喪」
(父の死に子が喪に服する期間のこと)は
実質的には二年目の命日(儒教的死後日数の数え方
二年と一日、死の前日から数える)だそうで
仏教的に行なう3回忌はこの儒教の喪礼の模倣らしく
祥月命日の祥の字も13ヶ月後の満1年目の忌日を小祥
三年の喪を大祥ということから仏教に転じたという

こんな話も

「昭和天皇の喪服期間は一年であったが
これは八世紀、奈良時代の「養老令」とやらで
天子や父母の服喪期間としては三年の喪を
一年の期間としていることに基づくのだろうか。
その影響で庶民も自分の肉親の喪服期間を
勝手に一年とし肉親が亡くなると
次の年の正月の賀状を出さないのだろう」

とあった
ね、面白いでしょ
あなたも私も儒教の影響下ってことでしょ?
ちがう?



儒教の話なんか読むと
仏教ってかなりクールで厳しく
ネガティブに思えてきたなあ
まあ思想のない我ら俗人には
時に堂々巡りしながら
「肝を据える」ためのノウハウを
右往左往探すってことだな
とりあえず
自分が埋まっちまう前に
心の庭に石を九割埋めてみるよ
ロックな気分で?
自家製梅酒ロックに
大粒バッファリン割り込んでさ

そうね




約ひと月前の邂逅と薬効図鑑に無駄な人生を詭弁してみる日

2009-06-11 01:41:44 | そげんこつ!

(エサは梅雨を3日に1回程度)


疲れちまった 悲しみに
今日も小雨の 降り懸かる
入梅、入梅。
梅が入ると書いて
うっとうしい。と読む
身体は湿度大飽和状態
ずいぶん水分 ほんまに
ずいぶんなこと だこと
スカット爽やかな乾燥が
合間合間に 欲しいのよ
どんよりとした六月
水無月なのに水は降る
ジューンな月
でも
ブライドはいない
サムシングブルーな月
いるのは中高年に老年
サムシングニュウもない



(時々話しかけてやると赤紫に顔を染めたりするかも)


怒りも錨に繋いで
海の底に沈めて
重い身体をひきずって
えんやこ~ら
わたしは綱を引く
ろーエンド。ろー
ろーエンド。ろー

テレビで男が言う

『おまえの口から出る
その言葉、
聞くにたえない。
だが、その目。
その目は綺麗だ
汚すなよ、その目だけは。』

口説き文句なのかどうなのか?
微妙に説教臭い男が
若い女を見詰め
吐く台詞

君の瞳に乾杯!か?
完敗なのか?
そんなどうでも良い話も
入れてみたが
いっこうに爽やかにはならず
むしろ
湿った筵に座って
梅こぶ茶すすっている気分
爽やかには ほどほど遠い


(むしろ顔が白い場合の対処法は気にせぬこと)

むしろ?
むしろ筵を片手に持ち
ほっかぶりして
道行きか?
ここは
あだしヶ原なのか!?
六つの時が 七つ なりて
残るひとつが 今生の
鐘の響きの ききおさめ
寂滅為楽 と 響くなり
入水。入水。




そんな梅雨のうめき

無駄にさまよう独り言
この10年 
彷徨い続けている気もするが
行き着く先も見えぬままに
彷徨い続けて

疲れちまった
悲しみに
今日も明日もあさっても
きっと無駄に生きている

人間は無駄だ
究極に無駄だ
じゃこうねずみだって
そう言うだろう

この独り言が一番無駄 だ


無駄について考える
シャツにアイロンを かける
着る 汚れて 洗う 干す
乾く シワ 皺が できる
アイロンを かける
着る 汚れて 洗う 干す
乾く シワ 皺が できる
ん。
アイロンは かけない
シワのまま 着る
汚れて 洗う 干す 乾く
シワのまま 着る
汚れて
洗わない 干さない
汚れたまま 裏返して 着る?
いっそ 着ない!
汚れない 洗わない 干さない
アイロンしない
無駄が 無い
いや
そうか シャツを着たまま 
風呂に入り
シャツの上から一度 洗う
流す 洗う 流す

風呂から上がって 
濡れて身体に張り付いた
シャツの水分をバスタオルで
拭い
ドライヤーで乾かせば
身体がアイロン台替わりになり
無駄はへる?
どうかな・・・。
いうてなさい!


(あまぐりさんから貰った中国鍋ストラップつゆだく!)

アイロンは兎も角も
一人暮らしの母は
掃除が好きじゃない
というか苦手である
いや
「苦手じゃないわ、忙しいだけ!」

言うかも知れないが
どちらにしても
母の部屋に着いたら
とりあえずシートモップで床の拭き掃除である

寝室はたたみの部屋でベッドが置かれている
モップでたたみも拭けるけれど
ぬぐいきれぬ部分もあろう
かなりほこりが溜まっている
部屋の隅や角にも

掃除機をかけようと思い
「掃除機はどこ?」
って聞いた
「出してないよ
押し入れかな?天袋かなあ?
どっかにあると思うんだけど」
「えっ!?
最初から出してないの?
だってもう
ここに引っ越して二年やろ
一度も掃除機かけてないってこと?」
「そうよ、ほうきとモップでするから
それに
掃除機かけは腰が痛くなるしね。」
とおっしゃる
そうか
この家は二年間一度も
掃除機かけたことないってことね
ふーむ
まあ
昔々の日本家屋なら
ほうきと雑巾でこと足りる
昔は掃除機自体なかったしね
いやいや!しかし
ここは近代集合住宅である
アルミサッシに密閉されて
ゴミもはきだしにくいし
細かいホコリはとりにくい
「掃除機かけなけゃ ダニがわくよ!」
と言うと
「そんなものに 噛まれたことないわ。」
と母は言う
「いや噛まれるとか~じゃなく
ホコリと共に死骸を吸い込んじゃうから
だめよ 喘息とかの引き金になるかも!
よ。」
と小声でつぶやき
「掃除機だそうよね・・・。」

何処にしまってしまったのか
大捜索である
玄関横のもの入れから発見!
とりあえず窓をあけて掃除機フル開店
いや回転した
確かに腰にくるね 掃除機かけは
腰痛持ちには辛いから 仕方ないけど
たまにかけてね
掃除機だしとこね

部屋の隅においておいた

その後
東京の姉が母の家に行くというので
メールで掃除機出しといたから
かけてあげてねと送信しといた

しかしである
我が家は最近なかなか
掃除機をかけないのである
やっぱり
取り換えシートモップ
で すます日が多い
まあ4~5日に一回
下手すると1週間に1回
腰にきますから
そんなもんよ
人に偉そうには言えません

あなたは違う?
ふん
腰痛持ちじゃないのね


(これも天津みやげ~図鑑と卓上栗?)


関西から帰って
もう24日程も経ったが
日に日に
大阪にまた戻りたくなって
いる

天津のあまぐりさんからのメールに
関西弁で返信をする
又すぐに返信が来る
で又返信をする
又返信が・・・。
で返信をやめてブログを更新することに

兵庫の友から手紙が届く
阿波踊りのキーホルダーと
此の前撮ってくれた写真が一枚
自分の入った写真は
そういえば最近撮らないから
しげしげ見入る
なんだかなあ
変な中年関西人が映っている
カレンダーの裏に書かれた手紙
広げてみた・・・見慣れた文字
そして
変な関西人は私だけではないと
安心するのだった(笑)

で神戸の宣伝だけで
23日も経ってから
なんですが
大阪のさるく行を書かなかったのは
神戸を彷徨いすぎて
足腰がくたびれていたので
大阪はほとんど彷徨わなかった
からで
母が行きたいと思ってて
一人じゃ疲れてて
出かける気力が湧かない
けど
「行っときたい!」
という
『小袖展』に付き合ったのが
唯一の 大阪さるきんぐ だった

天王寺美術館まで
懐かしさ満載のこの美術館は
何十年変わることなく
同じ場所にあった
母が若い頃もあったらしいから
70年以上はここにあるのだろう
古い美術館なのである


(年季が入ってちょっと気むずかし風に建つ天美)



高校時代は学校が近いので
テリトリーだった
この界隈は
大阪そのものといえる
市内の猥雑な場所にある公園であり
今はきれいに保たれているのは
賛否両論あったろうが
有料になったからだ
昔は浮浪者さんも普通の人も
一緒に憩う所だった

懐かしき風景だった

天王寺美術館だ
裏にはボートに乗れる
ひょうたん池と日本庭園


(裏からも楽しめる天王寺のジャポンな池メン)

美術館は1936年に開館
住友家茶臼山 本邸跡の敷地を
寄贈され建てられた
裏の日本庭園「慶沢園(けいたくえん)」

明治41年から
名匠小川治兵衛により作庭され
命名は伏見宮貞愛親王
ここっが見れるから
有料でも許すことにする




小高い立地の美術館前からは通天閣が望める
公園の中には動物園もある
『小袖展』は
江戸中期後期の着物コレクション
の展示を主に
昔の名家の嫁入り道具やら 着物のひな型
美しき刺繍や 染め物が並ぶ
和服というものは まことに美しく
本当は合理的経済的に出来ているのに
洋服に押し切られて
晴れの時のみの装いに
なってしまった
残念ではあるが いたしかたない



個人的意見としては
袖がもっと短く
着丈がつい丈で
帯がかんたんに結べるなら
日常に着てもいいなと思う
戦国時代風?かな
お金持だったら何を集める?
と聞かれたら
金糸銀糸絢爛豪華な
日本の帯を集めたい気もする
博多も帯が有名だけど
おび という響きはいいね
色気もあるね
いやよ いやよと・・・・。
まあそれはともかく


(着物美人が沢山訪れる展覧会はまれ)



帯は派手でも
着物は地味めが 好きだな
着古してもほどいて
綿いれ半纏やなんかに仕立て直せるし
最後には座布団や布団生地にもなる
ボロくても布巾雑巾にもできる
お手玉なんかにもいい
じゅずだま 入りの
ね!
小豆は軽い気がするから

お手玉を知らない人も多くなった

おばあちゃんが昔作ってくれた
綿入れ半纏を着て
大学時代の冬を過ごした 
るるである
絹が襟足にあたると
優しい気持ちになる綿入れ半纏だった
つるっとしてさ
あれが無ければ
卒業設計は完成してたかどうか
わからんね
あの温もりは着古された
絹の歴史のささやきでもある
絹だけに かいこ 蚕 邂逅~。




新幹線に乗り
大阪から博多に戻って
あの日
博多駅に三時間はとどまっていた
家に帰りたくなかったから
このまま
また列車に乗って
北へあるいは南へ行こうかしら?
そんな事を考えてみたが
生憎お金がなかった…。
そんな落ち!?


(飛行機雲も笑ってらあ)

いけるとこまで列車に乗ってみても
良かったなあ
住み込み仕事を探して
どっかの田舎町で暮らす
苦虫おばさんか?
まあ結局
鉛足で帰宅した
そして1ヶ月

汚れちまった 悲しみに
今日・・・・は。
風呂のカビ取りをした
台所の流し・レンジ周りも
オレンジ洗剤で掃除した

だってさ
この集合住居も古くなって
しょっちゅう補修補修である
近々
排水管洗浄とやらが入るらしい
お知らせ紙が入ってたのよ
で、あわてて掃除よ!
おかげで
ちょっとだけ水周りが綺麗になった
でも
またぞろ 
すぐに汚れていくだろう
無駄だ
無駄こそが人生
この無駄話もそろそろ・・・。

やめるべきか?
そやね。


(図鑑の中身は動植物の薬効についてあるよ)




焼きソラマメを食べてフリュース(古記事)に物言う人

2009-06-02 11:48:14 | いうてなさい

(浪を立てるつもりは無いけど船には波も必要なの)


もう6月に入っちゃったねえ
お尻に火がついちゃうでしょ?
ホタルも飛ぶ季節だから
どうやって
この僅かばかりのともし火を
消えないようにしていけばいいのか?
皆で論じようよ
えっ?
そんな暇ないよ!!
っていうの・・・。
せめて近くの人とくらいは
論じってみてよ

GM、破産法申請
が今日のトップニュース

下のコラムには去年秋
上院公聴会にGMの会長らが
米政府に緊急融資を求めに行くのに
デトロイトから
会社の自家用ジェットに乗っていった話
お尻に火がついても親方星条旗で
結構なことである
今の世界大不況の感染元の責任者たち
もっと謙虚になってくれ
やってられません!



(カバだってそっぽ向くわ!逆立ちはしなかったけど。)


そんなわけで
ん?
今日は新聞ネタだ
サラリーマン川柳コンクール
で選ばれた句が先月新聞に載った
2席の作品

久しぶり ハローワークで 同窓会

ってのは
最早もはや
サラリーマンでないねぇ
と突っ込んでしまう
私です。

ほかのは?


コスト下げ やる気も一緒に 下げられる

胸よりも 前に出るなと 腹に言う

痩せたのは 一緒に歩いた 犬のほう


には
頷きつつも

「パパがいい!」 それがいつしか 「パパはいい」


には
親父さん達、涙涙でしょ?
でも


僕の嫁 国産なのに 毒がある


には・・・・。
ふん 毒を食らわば 皿まで です。

まあそんな先月のフリュースネタに
つっこみつつ
何故
そんなちょっと前の記事に
いつも
物言い ってしまうのは
テンポがずれているんじゃなくて
後になって
気になりだすからなの
しかたないじゃない




(今の季節何はおいても焼きソラマメです!)




数日前の記事
それも8面の片隅にあったやつ
こんな記事



「ひとこと」と題されていた

「「大学なのに論じてはいけないというんです」
社会福祉が専門の大学教授が憤る。
大学の社会福祉養成課程の学生が受ける授業で、
厚生労働省は4月から指定科目を大幅に見直した。
科目名だけ挙げると、「社会福祉原論」は「現代社会と福祉」
「老人福祉論」は「高齢者に対する支援と介護保険制度」に。
「障害者福祉論」は「障害者に対する支援と障害者自立支援制度」に。
そのほかも「論」と付くものがことごとくなくなった。
表向きには、福祉サービスの即戦力となる人材を育てよう、
という目的があるようだ。だが教授は言う。
「現行制度の是非や社会福祉のあり方を論じる必要がない、
イエスマンが育てばいい、という見直しだ」
介護保険制度も障害者自立支援制度も、利用者の負担増など
何かと問題が多く、施行から10年たたずしてほころびが見える。
だれも経験したことのない超高齢社会に突入しようとしているときに
30年先50年先を見据え、社会福祉のあるべき方向を示せる人が
これで育つのだろうか。」(5/29 西日本新聞)




此の記事は8面片隅じゃあダメでしょう?
もっと掘り下げつつ
もっと目に付く場所に載せていいんじゃない

科目名が変わったことで
授業の内容も変わるんだろう?
から・・・。
ますます日本は物言わぬ人だらけになる
今でさえ論ずる若者が少ないのに
しかも「論」とつくものが
ことごとく なくなった
というくだりには
いいの!?本当にそれでいいの?
どういうことなん だろう??
って 思う

即戦力は確かに必要だけれど
確固たる将来像を論じて
制度の評価が出来るリーダーが育たなきゃ
どんな分野にも未来はない気がする
本当に良い制度も生み出せない




高齢化社会問題と環境破壊防止は
最重要課題だしね
地球温暖化に関する昨日の記事も
5面片隅だった




温暖化で年30万人死亡
調査機関が推定 経済損失12兆円

という記事

{地球温暖化に関連した自然災害などによる死者が
世界全体で毎年約30万人に上るとの報告書を
アナン前事務総長が率いるシンクタンクが31日公表した
報告書は温暖化によって世界の3億人超が深刻な影響を受け
経済的損失は年間約1250億ドル(12兆円)と推定
2030年までに温暖化による死者が最大で50万人に達し
経済損失は年3400億ドルに上る可能性があると指摘した。
~中略~
温暖化の自然災害による死者の99%は途上国に集中している。}
(6/1 西日本新聞)




これも片隅に置いとく記事じゃない
って思うけど
いろんな新型種ウィルス被害も
森林破壊やその他の生態系が壊れたことが
原因だったりもするしね

途上国に対する先進国と呼ばれる国の罪は
私たちが背負っている罪でもある
もちろん
これも論じるだけじゃあダメだけど
論じないでまちがったエコを実践しても
効果がないし
やっぱり優秀なリーダーは欲しいよ

そういえば1週間ほど前に読んだ記事で
エコバックは本当にエコか?
って、疑問視する意見が載ってたけど
資本主義経済の機構の中では
商売が絡むと
あいまいさに便乗する人たちも出てきて
バランスが崩れて
良いアイデアも逆効果になりえるから
見極めが必要になる

やっぱり日々誰かと論じながら
いい方向の答えを模索するしかないが
方向を示してくれる
頼れるリーダーが欲しい
だから大学でも
少なくとも内容の濃い「~論」授業も
2つ?位は残しとこうよ

まあ学生さんたちは授業に無くても
「~論」を読み そして考え
論じる時間を持つことは
十分可能だとは思うけどね




あれ?
そんな真面目な話をするつもりは
なかったんだった

それより掃除機っていう
文明の利器
を使うと
何故腰が痛くなるのか?
について語りたかったのに
まあそれは
又今度



(監督 ユズーリ関 脚本 真奈マモル
 主演 譲(ゆずり)愛 ってか!?。)