◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その4
桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その四回目。「① 鑑定意見書の基本的論旨」に対応する「② 批評」は次回。
(2) 上告審西原博史鑑定意見書「教諭に国歌斉唱時のピアノ伴奏を求める職務命令に関して、良心の自由に対する正当な制約根拠は存在するか?」(2006.6.20)
原告側から上告が行われたのは2004年7月20日である。本鑑定意見書の翌2007年2月27日に、一度も口頭弁論が開かれないまま最高裁は上告棄却の判決を言い渡している。
① 鑑定意見書の基本的論旨
A、「本鑑定意見書が扱う論点の限定〔26〕」
生徒への思想・良心侵害と原告Fへの思想・良心侵害との双方が主題となった第1審の鑑定意見書とは異なって、今回は、原告Fの思想・良心への侵害のみが主題となっている。西原はこの鑑定意見書の論点を以下のように設定する。
「公立小学校の音楽専科の教師が、思想信条上の理由及び教育的見地から公式行事での『君が代』のピアノ伴奏ができないとの信条を持っている場合に、校長が『君が代』のピアノ伴奏を命ずる職務命令をなし、また、その職務命令に違反したことを理由に東京都教育委員会が戒告処分をなすことは、憲法19条に違反しないか、という論点である。〔27〕」
B、「本鑑定意見書の基本的な姿勢」
西原は、原審(敗訴の控訴審判決)の推論を以下のように6段階に分けて、そのうち①~③は「理論的に非難すべき点は見出せない」し、④については、全面的には否定できないと言えるが、「⑤から⑥へと続く判断の中には、①~④で設定した原理に対する大きな矛盾があり、憲法19条の解釈・適用を誤ったものと見ざるを得ない点が含まれている。」と批判する。
「 本鑑定意見書は、上記の問題に関して、原審の出した結論に疑問を呈するものである。ただし、本鑑定意見書は、原審の行った審査の道筋においては、大きな理論的な誤りがあったものとは考えず、むしろ、原審の設定した憲法19条の解釈に関わる原理と、その実際の適用の間に存在する飛躍に問題点があると認めるものである。
原審の推論は、以下のように進む。
①外部的行為の規制であっても、思想・良心の自由を侵害する可能性がある。
②外部的行為の領域にあっては、思想・良心の自由も一定の制約に服する。
③公務員の思想・良心の自由は、全体の奉仕者性(憲法15条2項)や職務の公共性によって制約される。
④法規によりあることを教えることとされている時には、教育公務員が個人的な思想や良心に反するからといってそのことを教えないわけにはいかない場合がある。
⑤本件職務命令は、目的も手段も、合理的な範囲内のものである。
⑥本件職務命令は、教育公務員である控訴人(上告人)の思想・良心の自由を制約するものであっても、控訴人(上告人)において受忍すべきものである。」〔28〕〔29〕
C、「外部的行為の規制による憲法19条侵害の可能性」
西原は原審(東京高裁判決)が認めた、外部的行為の規制が思想・良心の自由を侵す場合を、西原の立場から言い換えた上で、本事件はまさににそれにあたる事例だと言っている。以下、その部分を引用する。
「外部的行為の規制が思想・良心の自由を侵すのは、外部的行為の規制を通じて実際には内面における思想・良心それ自体が否定される場面である。外部的行為の領域における思想・良心の自由は、単に行為者本人にとって思想的・良心的に望ましい行為を行う自由という、気軽な権利として問題になるのではない。外部的行為の領域において思想・良心の自由が問題になるのは、内心領域におけるのと全く同様に、内面において思想・良心を維持できなくなるような、そうした侵害が起こる場合に限られる。すなわち、ある法的義務づけによって、行為者が自らの人格的自律の核として維持してきた思想・良心に対する根本的な裏切り行為が強制され、もって人格的一貫性を持って生きることが不可能になるような、そうした場面を想定している。
原審の確定した本件の事実から見ても、上告人に対して「君が代」のピアノ伴奏を 命ずる本件職務命令は、音楽教師として、そして人間としての上告人の自己了解を完全に否定するものであり、自らを律してきた内面的な判断機関に対する裏切りを迫るという意味で、重大な侵害を発生させるものであることは明らかである。具体的な審査にあたって、この点には十分な配慮が払われるべきである。」〔30〕
ここは、『良心の自由 増補版』の著者に相応しい的確な原理的言明である。しかし、国旗国家儀礼の実施が生徒にとって思想・良心の問題になり得るという重要論点が本鑑定意見書では視野からはずされていることは、単なる論点の限定ではなく、当該論点についての主張の展開の仕方そのものにかかわることではないかと思われる。
D、「外部的行為に関わる領域における思想・良心の自由の制約可能性」
原審は上記テーマについて以下のように判示している(第一審判決も同じ)。
「地方公務員は、全体の奉仕者であって(憲法15条2項)、公共の利益のために勤務し、かつ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げて専念する義務があるのであり(地方公務員法30条)、思想・良心の自由も、公共の福祉の見地から、公務員の職務の公共性に由来する内在的制約を受けるものと解される(憲法12条、13条)。」
西原は、この部分は一義的な解釈はしにくいとしながらも、「特定の基本的人権の享有主体性を公務員に対して否定するに等しい「読解」は成立する余地」がなく、この場合は「思想・良心の自由は--その人権を主張しているのが公務員であるか否かとは無関係に--一般的に外部的行為の領域において一定の内在的制約に服するものであり、本件においてはたまたま控訴人(上告人)が公務員であったがために職務の公共性に基づく制約が前面に立っただけである、という読み方」〔31〕が正しいという。すなわち、
「個人が内面において保有する思想・良心に対して侵害が及ぶにもかかわらず、それでも行為領域における規制が憲法上許容されるケースは実際にあり、その限りにおいて行為領域に現れた思想・良心の自由に関しては内在的制約を認める余地があり、本件で問われているのは本件職務命令・本件処分が思想・良心の自由に内在する制約に照らして憲法上正当化可能なのかどうか、という問題である。」〔32〕
ついで、この「制約」が許容される条件を論じる。
E、「思想・良心を害する規制の許容性を判断する構造」
西原によれば、表現の自由や信教の自由に対する制約における内容規制と内容中立規制の区別は、行為領域における思想・良心の自由に対する規制を問題にする際にも当てはまり、それぞれ異なる憲法適合制審査が行われる、という。
「 内容規制とは、表現の自由との関係では表現内容そのものに、信教の自由との関係では規制対象とされる宗教的信条の内容それ自体のために規制が及ぼされる場面で、こうした内容規制を正当化するためには最も厳格な審査が必要であるとされている。それに対して、自由行使の時・所・態様に関する内容中立的な規制が行われる場合には、信教・表現の自由を抑圧する手段が目的達成のために本当に必要不可欠か、他に代わり待る手段が利用可能でないか、といった手段の必要性が主な審査内容となる。 〔33〕」
F、「教職員の信条改変に向けた校長の権限行使の許容性」
西原によれば、本件で問題となっている職務命令は「信条内容を改変させる目的」のもの=内容規制にあたると判断される。以下、引用する(下線は引用者)
「本件においては、上告人の信条内容を改変させる目的で校長が職務命令権を濫用したものと判断せざるを得ない可能性がある。本件の事実関係からすれば、上告人が国歌斉唱のピアノ伴奏に同意できない信条および教育観の持ち主であることは、すでに入学式に先立つ事前の話し合いにおいて校長も認識していたとおりであり、入学式でピアノ伴奏による国歌斉唱を実現するためであれば、上告人以外の教職員にピアノ伴奏を依頼するなど、上告人に対する強制を回避する手段は様々な形で存在していた。問題が生じたのが小学校であり、小学校教諭の免許を取得するためたはピアノやオルガンなどの鍵盤楽器を運用する能力が養成されることを考えれば、上告人の他にもピアノ伴奏を行う能力を持った教職員は少なからずいたことが想定される。にもかかわらず上告人に向けて発せられたピアノ伴奏の職務命令は、単にピアノ伴奏を実現するために必要な措置とは考えられず、むしろピアノ伴奏を拒否しようとする上告人の考え方に働きかけて、心構えを改めさせることを目的とするものだと理解することが適切であるように思われる。
教育上の必要がないにもかかわらず、上告人の教育観を改めさせるために職務命令を発したのであるならば、これは、校長において自らに帰属する権限を濫用したものであり、憲法に反するものであって、いかなる法的な効力も有し得ない。〔34〕」
この点については、付随的規制だという〔35〕第一審の鑑定意見書の見解を変更している。今回の指摘こそが的を射ていると思う。この点について被告側は、<H校長独自の教育観から専科教師によるピアノ伴奏を実現したかった><職務命令に逆らわないという勤務上の秩序を重視した>という説明を行っている〔36〕。これは、以下の引用で西原が認める校長の広範・強力な職務権限を前提とすれば主張としては可能である。
西原は、この意見書では以下のように、学校単位での教育内容決定について大幅な校長の裁量を認めており、その上で「教員個人の思想・良心の自由」は、「校長の絶対主義的独裁に陥らないために認められていなければならない最低限の制度条件」であるという(下線は引用者)。
「校長の職務は、単に上位の行政機関において定められたルールを新たな意思決定を差し挟むことなく忠実に執行することに尽きるものではなく、まさに学校という教育の場において、子どもに対する教育の基本方針を決定することにまで及ぶ。このことは一方で、校長が定めた教育方針を学校の隅々まで徹底させるための、ある程度は強化された指揮・命令権限を必要とするが、しかし他方において、特定時点の学校の基本的な教育方針に校長の個人的な教育観が反映する制度枠組である以上、校長の教育観が学校の中で過度に絶対化される状態を防ぐためのメカニズムを同時に必要とする。教員個人の思想・良心の自由は、まさに校長による学校の方針決定が学校内における校長の絶対主義的独裁に陥らないために認められていなければならない最低限の制度条件である。〔37〕」
G、「本件職務命令を内容中立的な付随的規制として正当化する可能性」
続いて西原は、仮に「校長において上告人の信条内容に働きかけることを目的としておらず、あくまで校長が定めた学校の教育方針に合致した入学式を実施するための必要性判断に基づいて校長が上告人に対してピアノ伴奏の職務命令を発したものとする場合」の検討を行う。しかし、西原によれば、本件の場合は以下のように「他に代わりうる手段」がある場合である。
「外部的行為に対する規制が対象者の思想・良心に対する侵害を引き起こすような場面において、思想・良心の自由に対する制約が正当な国家目的を実現するために、他に代わりうる手段のない、唯一不可欠な手段である時には、思想・良心の自由に対する制約が憲法上許容されることがある。」
「しかし、先に述べた他の教職員にピアノ伴奏を命じる可能性を考慮に入れた場合、上告人に対して思想・良心の自由に対する侵害を甘受するよう求めなければならない必然性はない。」
したがって、前項と同様に「憲法に反するものであって、いかなる法的な効力も有し得ない」という判断になる。〔38〕
本件校長の職務命令の恣意性を西原は下記のように激しく非難する。
「これは、上告人を苦しめるための恣意的な権力行使であり、教育上の目的でもって正当化可能なものではない。教員を苦しめるための権力行使が行われることは、子どもの教育を司る学校のあり方として極めて異常であり、いかなる合理性も認められるものではない。」〔39〕
西原は既に前項で当該職務命令は<内容規制>であり<内容規制>としても違憲である結論づけている。ここで<付随的規制>であるとの仮定による検討をすることに大きな意味があるとは思えない。当該職務命令は西原が認める校長の強大な職務権限を前提とすればあり得るものであって、残る問題は原告Fの思想・良心の内実がどのように提示されているかということになる。
H、「「全体の奉仕者」性と「校長の奉仕者」性の異同」
本意見書の特色の一つは<教育における公共性>についての主張である。西原によれば、原審(控訴審)は、上記F・Gの検討のステップをすべて省き「公務員の全体の奉仕者性と職務の公共性という制約根拠を前面に出す」。その場合、職務の公共性も全体の奉仕者性も事実上<校長に従うこと>を意味させている、という。
それでは「教育公務員の職務の公共性」とは何か。下記引用の下線部(引用者による)がそれにあたるが、多様な具体的意味の読み込みを許すものであって、具体的状況次第では「校長への服従」を通してそれを果たすという主張も成り立つ。なお、この限りでは<教育公務員>に限定されたものではない。
「教育公務員の職務の公共性を校長への服従という点に集約して捉えることは、教育という過程に対する根本的な誤解を明るみに出す。教師の職務が公共的なのは、教師がまずは目の前にいる子どもに対する責任において教育活動を適正に行うためである。子どもにとって授業は、憲法上保障されている教育を受ける権利(26条)を実現するものである。そして子どもの背後には親がいて、親子を取り巻く社会がある。〔40〕」
西原によれば、教育公務員の職務の公共性は、校長の個人的趣味と同一視することはできないものである。一方それは、教師の思想・良心の自由主張の限界を画するものでもある。すなわち、
「教育の「公共性」は、校長の個人的趣味と同視できる無内容な空文ではなく、子どもとの関係で教育措置に対する無条件の服従を正当化するだけの具体的な目標との関係で特定可能な実質的利益の複合体である。そしてこの同じ教育の「公共性」が、本件の枠組では教師の思想・良心の自由に基づく具体的な拒否権行使が許されないこととなる限界ラインを画することになる。」〔41〕
ここでの二項対立的提示は、多分に恣意的である。これらの点は、より立ち入った言及が望まれるところだが、このテーマの体系的展開は別稿〔42〕に譲るとしている。
I、「具体的な制約根拠としての教育の「公共性」」
上記表題の「具体的な制約根拠としての教育の「公共性」」は、「結論」直前の節である。しかし、実際には「教育の公共性」について前出のもの以上の説明はない。しかし、学習指導要領が大綱的基準として法規的性格を有すること、儀式における国旗国歌指導が仮に「子ども本人の利益等によって支えられた公共的性格を有する」ことを仮定して考察を続ける、という。〔43〕
西原によれば、本件に即して論ずれば、学習指導要領にはピアノ伴奏を斉唱指導で方法とするという文言はない〔44〕。しかし、「国歌斉唱指導の方法については、基本的には学校行事の挙行に関する実施の細目を決定する校長の裁量に属している〔45〕」ので、ピアノ伴奏を採用すること自体は問題はないが、教職員を交えた十分な検討を経ず、懲戒処分を振り回して教師を従属させようとしたことは「教育の問題としては不当な哲学」である、という。すなわち、
「 この時点において、校長の職務命令に公共性が認められるかどうかが問題になる。 学習指導要領で定められた教育内容に属する範囲の外で、特定の教育措置が具体的な 子どもや地域社会との関係でどのような意味を持つかに関する教職員を交えた十分な 検討を経ることなく、校長が自らの教育観を前提にして特定の教育措置を拘束的なも のと一方的に決定し、それと異なる立場の教員に対して懲戒処分を振り回して何が何 でも自らの教育観に従属させようとする姿勢は、教育の問題としては不当な哲学である。〔46〕」(下線は引用者)
ここで、<学校における権限配分の不当性>ではなく、<哲学の不当性>というところが西原学説らしいところである。西原は、校長の広範な裁量権には「特定の教育措置が具体的な子どもや地域社会との関係でどのような意味を持つか」についての判断決定権も含まれていることを認めている。西原によって本件の校長の職務命令に公共性はないという主張は盛んに行われるが、学校儀式における具体的な公共性についての西原の主張は読み取れない。結論部分(下記引用)から敢えて文脈で判断すると抽象的にはいわゆる学テ判決に示された日本国憲法に基づく教育の基本を踏まえ「子どもが自由かつ独立の人格として成長する」ことを目標とした儀式指導であると言いたいようだ。
長くなるが、以下の引用が実質的にこの鑑定意見書の結論部分である(下線は引用者)。
「貴裁判所が前記の旭川学テ事件判決において判示したとおり、日本国憲法の下における教育は、あくまで「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること」を基盤におくわけであり、そのため、前記引用のとおり「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は許されない」ことを当然の原理として組み込んだ形で実施されなければならない。
その場合に、子どもとの関係では、学校の教育措置としてナショナル・シンボルに対する特定の心情や信条を形成させるべく、思想・良心を自由に形成する権利を無視した教化を行うことは許されない。そうである以上、教員の側においても、個人の基本的信条に関する一定範囲の多様性があることは、それ自体では教育の妨げにならないはずであり、校長に対する無条件の忠誠をあらゆる条件下で確保しなければならない必然性は存在しない。それにもかかわらず本件の場合、可能な条件の下でピアノ伴奏を実現する現実的な可能性を模索することをせず、むしろ無条件の忠誠を示さなかった上告人を見せしめとして処分することを通じて、学校内における精神的統一を作るために学校運営に関わる校長としての権限が濫用されている。しかし、子どもとの関係で学習する権利が尊重され、個人の尊重が重視されるような日本国憲法下の学校において、教師に対して自らの思想・良心の自由を犠牲として差し出すことを要求することを正当化する「公共性」は存在しない*37。その点において本件の職務命令および懲戒処分は、校長に委ねられた裁量権を逸脱するものであり、違法であるとの評価を免れない。〔47〕」
学校における生徒の権利擁護に準じて、そのためのものとして教師の権利も擁護されるというかたちで結論が導き出されている。西原学説ならではの展開である。〔48〕【以下、次回】
注〔26〕以下A~Iの表題は鑑定意見書では,(1)~(9)としてあるものである。
注〔27〕『全資料』p677
注〔28〕以上『全資料』p677-678
注〔29〕③の前に公教育における教師の思想・良心の自由は、子どもと親の権利との関係、及び法令等との関係で制約される場合がある、という一段階がなければならない。すなわち、公務員としての議論の前に、学校教育一般の議論が必要なのである。この点は西原自身にも希薄な論点である。
注〔30〕『全資料』p679
注〔31〕『全資料』p680。しかし、こういった展開は西原自身では実際には希薄であって、いきなり公務員としての制約を述べている場合がほとんどである。
注〔32〕『全資料』p681
注〔33〕『全資料』p681
注〔34〕『全資料』p683
注〔35〕『全資料』p602
注〔36〕たとえば第一審被告準備書面(2003.9.26)(『全資料』p154-155)
注〔37〕『全資料』p682-683
注〔38〕『全資料』p683
注〔39〕『全資料』p683
注〔40〕『全資料』p684-685
注〔41〕『全資料』p685
注〔42〕西原が参照を求めるのは、「教育基本法改正と教育の公共性」(日本教育法学会年報34号(2005))で、以下はその結論部分(p35-36)
「 日本国憲法の下における教育の公共性は、まず、教育を受ける権利を保障する責任との関係で成り立つ。一方では、この権利保障の帰結として、国家が教育保障権限を最終的に引き受けることにならざるを得ないし、教育行政機関もそうした責任の一端を握る。しかし同時に、教師自身が、子どもとの対面関係において教育保障の最後の鍵を握る最も重要なアクターである。そうした関係の中で、教師が縛られている公共性は、第1に、子どもの教育を受ける権利の保障を貫徹することに向けた公共性であり、基本的にはそれに尽きる。
通常、教育行政が指向する公共性と教師の職務の公共性は同じ方向を向くはずである。しかし、教育行政が別異な公共性を指向し始め、社会的に有用な存在に向けた子どもの改造に手を染める瞬間に、その一致が崩れる。教育行政による指導が子どもの内発的発達可能性を妨害し、特定の鋳型に向けた子どもの改鋳を内容とする瞬間、その教育行政による指導を排斥することこそが教師の職務の公共性となる。教育を受ける子どもの権利が自由権的な意義を展開し始める時、教師の公共性は、不服従と抵抗を職務上の義務として求める。」
前半は、本意見書の引用部分と同じく多様な具体的意味の読み込みを許すもので、後半は、運動論的には有効な説明ではあろうが、これは<教師の抗命義務>説であって、法廷において国・行政の主張に対抗するためには、既に論じた難点の克服が必要となる。
注〔43〕『全資料』p685
注〔44〕「 ただ、学習指導要領に記載があるのはあくまで「国歌を斉唱するよう指導する」ことのみであり、ピアノ伴奏は含まれていない。伴奏のあり方については、法的に前もって一定の評価が確定しているわけではない。国歌斉唱指導の方法については、基本的には学校行事としての入学式の挙行に関する実施の細目を決定する校長の裁量に属している。その意味で、本件において校長がピアノ伴奏が望ましいとする立場を採ることは―君が代のピアノ伴奏が音楽的、教育的に誤りではないとするならば―それ自体として非難に値するものではない。」(『全資料』p686)
注〔45〕『全資料』p686。
注〔46〕『全資料』p686
注〔47〕「(9)具体的な制約根拠としての教育の「公共性」」の末尾。『全資料』p686-687。
注〔48〕以下は「結論」「おわりに」と続くが、論旨の基本はこれまでのところで既に示されているので、要約は省略する。
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