◎天日槍は新羅の王子にあらず(福田芳之助)
福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)の第一期「創業時代」第三章「国初と南方との関係」から、「四 天日槍は何れの国の王子なるか」のところを紹介している。本日は、その四回目(最後)。
昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。なお、漢文の部分(播磨風土記、筑前風土記)は、やむなく返り点と送り仮名を省いた。
抑〈ソモ〉古代の帰化なるもの、大抵本国に安居する能は〈アタワ〉ざる事情、裏面に伏在すること、秦氏の祖弓月君〈ユヅキノキミ〉の帰化を始め、殊に多数の部族を率ゐて来るもの、概ね皆然らざる無し。新羅は始祖赫居世〈カクキョセイ〉より、伐休に至るまで九世、其間同族歯徳を以て相継ぎ、嗣立〈シリツ〉の際曽て〈カツテ〉偶語を聞かず、国小なりと雖も〈イエドモ〉、衆心一致、新興の気運を以て充たさる。日槍果して新羅の王子ならんには、そも何を苦んて国を弟知古に譲り、日本に帰化したるか、是れ解す可らざるの一なり。神功皇后は日槍六世の孫なり、六世と云へば既に縁遠き如くなれども、仮に新羅人の血統を承け〈ウケ〉たりとすれば、他日日本と新羅との間に事起る時、調停の位置に立ちたまふとこそ思はるべきに、卻て〈カエッテ〉新羅征討の事実上の主唱者ならんこと、その皇国に仇為す〈アダナス〉上は、いづれの国と雖も、容赦の限〈カギリ〉にあらずとは云へ、何となく異様に思はれざるにもあらず。况んや〈イワンヤ〉皇后敦賀〈ツルガ〉気飯宮〈ケヒノミヤ〉に、神託を受けたりと伝へらるゝ此神社の祭神中、伊奢婆別【イサハワケノ】命とあるは、天日槍なりと云ふ説すらあり、若し然らん〈シカラン〉には、日槍が自ら其国を伐つ〈ウツ〉ことを、神託したりと為るにあらずや、是れ其二なり。
日槍には、天〈アメ〉の美称を附して、天日槍と称すれども、天なる語は神代の昔にも、外祖系の神々には、之を附せざりしほど貴重の語にして、新羅などの帰化人に、天の称呼を与へたること、前にも後にも全く例なき事なり。且つ天皇之を遇するに、殊恩を以てし、其子孫は日本の名族と婚し、遂に其家よ々皇后を納るゝ〈イルル〉が如き、是亦決して尋常帰化人の例に非ず〈アラズ〉。当時日本朝廷の新羅を見ること、加羅より劣るとも、優ることはあるまじく、遂には其国を伐たんと為すほどにて、日本より特に尊重せらるべき地位に在るものに非ず、而るに其国の王子が、斯く〈カク〉優遇せらるゝと云ふこと、是れ其三なり。播磨風土記には、「天日槍命従韓国【カラクニ】度来、」また筑前風土記には、「高麗国意呂【オホロ】山自天降来、日桙〔日槍〕之苗裔五十跡手【イトテ】云々」とも見ゆ、高麗と云へるも信じ難けれども、必ずしも新羅といはざる一例として、見るべし、是れ其四なり。日槍が新羅の王子ならんには、其苗裔として筑前に残れる五十跡手なるもの、従来新羅と筑紫倭国との関係より察すれば、先づ彼にこそ赴くべく思はる。而るに筑前に在りながら、熊襲とは却て〈カエッテ〉反対の行動を取りて、第一着に皇軍に馳せ参じたるは、日槍の新羅人ならざることを証するものに非ずや、是れ其五なり。一説に、日槍の来朝を神代なりとあれども、其頃慶州の新羅は興らざるべし。此神代説を主張せる天日槍帰化時代考に,「初祖天日槍の帰化せし頃は、韓地も未だ高麗新羅の称あらず、故に或は之を高麗と伝へ、或は之を新羅と伝へたるなるべし」とありて、既に慶州の新羅に非ざることを認むるものゝ如し、是れ其六なり。
以上の疑に由れば、新羅とあるは思ふに半島の汎称にして、何れの国とも定かならず。其日本朝廷の優遇甚だ尋常ならざること、又其将来物品が,我神代に崇尚〈スウショウ〉せし種類と、全く同一なるに徴すれば、往昔〈オウセキ〉皇祖と浅からざる夤縁〈インエン〉を有したる或一国の王子、新羅若くは其他の国に迫害せられ、其族を率ゐ日本に来朝したるに非ざる歟〈カ〉。
福田芳之助は、この説の最後にいたって、ハッキリと自説を打ち出している。これは、『日本書紀』等の記述を否定するものであり、これを言うことは、この当時、かなり勇気を必要としたのではないだろうか。
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