礫川全次のコラムと名言

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桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5

2018-08-19 03:09:47 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その五回目。許されれば、西原博史氏による反論を聞きたかった箇所である。

② 批評
1) 西原には、直接に教育に携わる教師(本件の場合は専科教師)の専門性が、教師単位でも学校単位でも校長の権限逸脱の是正メカニズムであるという学校における権限複合の発想は弱い。
 そもそも、音楽専科・一般教師であれ学校教育法で「教育にたずさわる」(学校教育法)とされた個々の教師及びその集団の専門性を学校の意思決定に組み込まない限り「君が代のピアノ伴奏が音楽的、教育的に誤り」かどうかの学校単位の判断は有効にはできない〔49〕。西原は、学習指導要領からは一義的には導出できない儀式の細部がを校長の一存で権限として決定できることを認めるが、その段階で、直接子どもを指導する「教育にたずさわる」教師の裁量権はほとんどなくなってしまう。学校単位の教育の集団性が校長の強力な権限で置き換えられていて、教師の集団性の意義が消失している。教育法令の行政解釈の固い壁を意識しての主張の展開と思われるが、行政解釈がいかに堅固であろうとも、ここは、弁論の中で一度は原則的に主張すべきところである。しかしここは、公立学校教師をまず国家権力の末端としての公務員として位置づけること、学校単位の教師の集団性を積極的には位置づけないこと、こういった西原学説の特色がよく現れているところである。
 「教員個人の思想・良心の自由は、まさに校長による学校の方針決定が学校内における校長の絶対主義的独裁に陥らないために認められていなければならない最低限の制度条件である。」〔50〕というが、個々の教師が無防備に単独で行政権力に対峙することを迫られる以前に、教師・教師集団の専門性を組み込んだ学校特有の意思決定方式が「絶対主義的独裁」を許さないはずのものである。
2) 西原が前提していると思われる学校についての組織モデルは、公務員法(国家・地方)に基づく官僚制モデルと思われる。
 それは、行政における官僚制システムが学校にの教育活動においても貫かれているという学校像である。教育公務員の属性としてまず<公務員>であることを強調すれば、暗黙の内に官僚制的な意思決定方式や公共性を前提とすることになりやすい。となれば、校長の細部にわたる決定権は否定できない。専門職としての個々の教師・集団としての教師を不可欠な要素として組み込んだ学校における権限複合の発想は出てきにくい。第2章で紹介した『世界2007.5』のY氏の事例に見られるように、西原にとっては教師の集団性は、主に生徒の人権を抑圧する性格のものとしてとらえられている。これは西原学説に一貫する特色である。
 第二審東京高裁判決が教育の公共性を校長の裁量権と同一視していると批判するが、最高裁判決も含め司法が認めた職務命令の公共性の重要な要素の一つには公務員法によって担保される官僚組織としての秩序がある。この点は、最高裁判決における藤田反対意見がいみじくも着目しその議論の前提としているところである。その部分を引用する(下線は引用者)
「学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは,自明の事柄であって,それ自体は極めて重要な公共の利益であるが,そのことから直接に,音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合,「公共の利益の達成」は,いわば,「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために,「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され,それを実現するために,いわば,「入学式進行における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。〔51〕 」
藤田自身はこの「構造」自体を批判しているわけではないが、本件における職務命令についての行政側のいう<公共性>を的確に把握した記述である。
 最高裁判決法廷意見には3―(3)として、憲法第15条の公務員の全体の奉仕者性から出発して学校教育法の教諭の職責に言及せずに本事件の職務命令の合理性を論証する部分がある〔52〕。上述1)の点とあわせて、西原学説はここでの法廷意見の論理展開とかなりの段階まで共通するものを持っている。教育公務員の<公務>という性格から出発して学校論・教師論を展開する西原学説では<行政組織の秩序>を<公共性>とする行政・国家の論理には十分には対抗できない。
3) 原告Fの思想・良心擁護の主張をするために、この鑑定意見書でも、無理な捨象による場面の区分けが行われている。以下のような、授業の場と儀式の場についての実態から遊離した区別は第1審鑑定意見書と変わらない。(下線は引用者)。
「 公務員関係の中にあっても、個人の思想・良心の自由が全面的に封じ込められるわけではない。もちろん、職務の公共性と全体の奉仕者性に基づいて一定の制約を受け容れなければならない場面は存在するが、それはあくまで、公務員の思想・良心の自由を制約するだけの実質的な必要性がある場面に限られる。
 これを本件について見ると、上告人は、一貫的人格をもった個人として、真摯な信 条に基づき、学校行事の場において「君が代」に関わることを拒否している。音楽の授業においては職務として国歌の指導を行う(第一審原告本人尋問調書44頁)が、自らの手で儀式において子どもたちに歌わせることはしない、という形で、自らの職務と、自らの思想・良心の自由に関わる領域の区別を行っている点にも、上告人の真撃な態度が現れている。〔53〕」         
 原告Fの「自らの職務と、自らの思想・良心の自由に関わる領域の区別」は積極的な対応ではなく、強いられた瀬戸際での対応である。原告は、儀式も教育の場であって自らの職務の一環であることは当然分かっているはずだ。これは教師にとっては常識に属する。原告Fの儀式における音楽の構成・演奏についての深い考慮はそれを示している。しかし、儀式が生徒の権利を侵害しうる要素を持つようになってしまったことは最早いかんとも変えがたいのであって、最後に残されたのが<自分は荷担しない>という態度決定で、ぎりぎりのところで自分を守ることであった。西原もここの文脈では<抗命義務>には言及していない。
 教室での授業についても、後任校長の時、国歌指導を教育委員会が観察に来ている(2003年2月〔54〕)。教育課程の一環としての儀式の内容に対する事細かな介入を当然とする国家・行政が、教室での斉唱指導を学習指導要領に基づく義務として教師に強制することはありうることだ。また、それを当然の権利として要求する生徒・親も想定できる。
4) 対生徒関係を敢えて捨象した論証は判決の全体性に十分には対抗できない。
 本意見書では、「教師に対して自らの思想・良心の自由を犠牲として差し出すことを要求することを正当化する「公共性」は存在しない。〔55〕」と言ってはいるものの、西原の場合、教師の人権はあくまでも生徒の思想・良心形成の自由の相関物であって、生徒の人権への否定的影響が認定されれば教師の思想・良心の自由は比較衡量なしに原則として制約を蒙ることになるが、この意見書ではそれについては明確には触れない。
 学校儀式も教育の場であって、そこで教師の思想・良心の自由は国家の教育政策だけでなく、生徒の権利とも対立関係に立ちうるのである。儀式における対立の構図は職務命令と教師の思想・良心の自由と、国家儀礼の強制と生徒の思想・良心の自由だけではない。<国旗国歌を主要要素とする厳粛な儀式>を教育を受ける権利の内実として生徒・親がみずからの権利として教師に要求することもあり得る。西原学説から言えば、信頼していた音楽教師のピアノ伴奏拒否に起立斉唱をためらう生徒の存在も考えなければならない〔56〕。より一般的な言い方をするとすれば、生徒の面前での教師の行為であることを正面から前提とした上での立論が必要であった〔57〕。
 すでに述べたところであるが西原は儀式の細部に至るまで校長の決定権限を承認している。これは儀式における公共性の認定権を校長が持つと言うことである。行政・校長が主張する公共性の内実は最高裁判決藤田宙靖反対意見が鋭く明確化したものである。国家儀礼を組み込んだ学校儀式が一糸乱れずに実施されることを重視する立場から教師の思想・良心に対する制約をも公共性に含ませるという点は、最高裁判決法廷意見が暗黙のうちに認め、同那須弘平補足意見が明確に主張しているところである。西原が教師の不服従を批判するときに持ち出す生徒への影響は、そこに理由として組み込まれうるものである。
 対生徒関係を捨象しなければ教師個人の思想・良心の自由を十分には守れないというのは、西原学説の弱点である。西原学説は、国旗国歌儀礼が公務員秩序のもとで厳粛に遂行されることに法令に基づく生徒の教育を受ける権利の保障という公共性を見いだす、というそれなりに全体性を備えた最高裁判決法廷意見に対峙できるものではなかった〔58〕。
5) 結局のところ、本鑑定意見書が主題としたはずの根本のテーゼすなわち<ピアノ伴奏は原告の思想・良心の自由を侵害するということ>自体の論証は依然として不十分である、と評価せざるを得ない。
 原告自身の思想・良心の自由の擁護に重点を置いた意見書であるからには、原告Fの思想・良心の詳細な構造的提示が必要だったはずである。西原にとっては自明のことかも知れないが、最高裁にとってはそうではない。西原は、後述する2011年の一連の最高裁判決に対する西原の論評でも起立斉唱拒否とピアノ伴奏拒否を思想・良心の問題上での区別をしていない。後知恵的言及となるが、藤田反対意見を評価する立場からは、この区別が原告Fの思想・良心を構造的に提示するためのポイントである。当然、本意見書ではそれは踏まえてはいない。この鑑定意見書では第一審鑑定意見書とは異なり原告Fの行動を<抗命義務>の遂行だという主張は出てこない。それが単なる弁論上の戦術でないとすれば、生徒の人権の相関物には解消しきれない原告F個人の立場からの立論が必要なはずであった。

注〔49〕学校教育法における教諭の職務権限(現行法では第31条11項)については、中川律の諸論文から学ぶところが多い。特に、2015年に根津・河原井裁判において提出された意見書「教師の教育の自由および「不当な支配」の禁止から見た「日の丸・君が代」訴訟の分析」、「教育制度の憲法論」(『現代社会と憲法学』弘文堂2015)におけるこの条文の立法者意思の分析は注目に値する。中川の業績からは西原が批判してやまない<国民の教育権>説は、単なる国家と日教組の対立の所産ではなく、戦後教育改革の原理を踏まえたものであることがよくわかる。
注〔50〕『全資料』p682-683
注〔51〕「2」の第2段落
注〔52〕長くなるが判決文の該当部分を以下に引用する。
「(3)さらに,憲法15条2項は,「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない。」と定めており,地方公務員も,地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。こうした地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ,地方公務員法30条は,地方公務員は,全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し,かつ,職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し,同法32条は,上記の地方公務員がその職務を遂行するに当たって,法令等に従い,かつ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定するところ,上告人は,A小学校の音楽専科の教諭であって,法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にあり,校長から同校の学校行事である入学式に関して本件職務命令を受けたものである。そして,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について,正しい理解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し,学校教育法(平成11年法律第87号による改正前のもの)20条,学校教育法施行規則(平成12年文部省令第53号による改正前のもの)25条に基づいて定められた小学校学習指導要領(平成元年文部省告示第24号)第4章第2D(1)は,学校行事のうち儀式的行事について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ,同章第3の3は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは,これらの規定の趣旨にかなうものであり,A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。」
注〔53〕『全資料』p687。「(10)結論」の冒頭部分。引用文の第2段落の「一貫的人格をもった個人として」以下は第一審鑑定意見書にも同文がある(本章(1)-②)。
注〔54〕原告の本人尋問陳述書(『全資料』p92)
注〔55〕『全資料』p687
注〔56〕このような生徒は、入学式で生徒との教育指導上の関係がまだ十分には形成されていない原告Fの事例ではほとんど存在しないかもしれない。
注〔57〕西原学説ではもともと、儀式の場における権利・権限の錯綜・対抗関係についての把握が一面的である。教師の不起立を批判するときは国旗国家儀礼に肯定的な生徒を登場させ、教師の不起立を擁護する時には、国旗国家儀礼を受け入れられない生徒を登場させる。少数派の生徒の立場に立つというのが西原の主張に含まれているようであるが、数多く参列する生徒のうちでどのような確認作業を経て当該生徒が教師にとって権利擁護すべき対象となったのかについての言及はほとんどない。それ以前に、本鑑定意見書では、教師個人のの権利主張を擁護する際には生徒の存在は捨象されているのである。
 親と子どもの権利を強く認めるということは、儀式の場でも教室でも教師の権利・権限との対立場面を想定することである。子どもの権利も、儀式の場でも教室でも、教師の権利・権限の前に制約を蒙る場面もあり得るのである。西原学説のもつ予定調和的性格は現実の権利・権限の併存・対立状況を十分には整序できるものではない。

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