◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その3
桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その三回目。
③ 論点(3)について
A、西原による結論
ここでは、処分そのものの違法性について3つの観点から論じている。
1) 「 違法な職務命令の拒否に対する処分の違法性 」〔20〕
ここは、職務命令自体が違法なのでそれへの違反には違法性はなくしたがって、職務命令違反についての処分は違法である、と述べている。論点(1)(2)についてのの論旨と変わりはない。
2) 「職務命令拒否の違法性を阻却する事由の認定に誤りがあった場合における処分の違法性〔21〕」
ここでは、原告における職務命令の違法性認定に誤りがあった場合を考察している。それは2つある。
「一つは、上記(1)の記述との関係で、実際の事実状況の中に子どもの人権侵害に及ぶ条件が最終的に確認できず、その意味で子どもの権利侵害を恐れる原告の不安が杞憂に終わった場面である。第二に、上記(2)の確認と関わって、原告において存在する主観的な要素が職務命令そのものの違法を基礎づけるものとは評価されない場面 」
この前者の認定〔22〕は、西原は「疑わしきは国民の権利保護のために」という理由で職務命令拒否の違法性はないと結論する。また、「権利侵害の危険を想定する合理的根拠がある」場合も違法性はない、とする。また、原告に職務命令拒否「とは違った行為が原告に対して期待可能ではない」という意味で「有責性がない。」とも結論する
なお、「第二に」のケースは論じられていない。
3) 「職務命令が成立時点で適法だった場合の職務命令違反に対する処分の違法性」
ここでは、「仮に、複数受命者に対して発せられた場合と同様に、本件職務命令が発令の時点において適法なものであり、有効に成立していたとしても〔23〕」受命した公務員の個別の思想・良心との関係で違憲・違法になる場合、さらに懲戒処分を以て制裁を課す時点で違憲・違法になる場合を論じている。
前者については、職務命令は実際には原告Fに対してだけ出されたものなので、論旨は(2)で西原が主張したことと重なる。後者については西原は、以下のようにここでも特異な場面分けをした上で結論づける(下線は引用者)。
「 そもそも原告において職務命令を拒否したのは、原告の個人として、そして教師としての真摯な信条からである。こうした信条を踏まえた場合に、原告において、違法行為を避けて適法行為を選ぶべきであったとする非難を向ける論理的可能性はなかったことになる。音楽の授業のように、子どもと直接の接点が発生する場面では、原告も自らの信条を優先させることをせず、職務上の義務を遂行している。ただ、原告が自らの思想・良心を破壊するようなピアノ伴奏を引き受けなくても学校としては正常な教育作用が十分に果たせる場面で、自らの思想・良心に基づく義務を優先させざるを得ない状況に追い込まれているに過ぎない。その意味で、本件職務命令を遂行することは原告にとって期待可能な要求であるとは考えられない。そのような事情であるにもかかわらず、職務命令に対する違反を理由として、戒告という懲戒処分をもって臨むことは、原告の思想・良心の自由に対して不必要に重い負担を課すものであって、正当化できるものではない。〔24〕」
B、批評
1) 上記A-2)の西原の主張は、教師による限りないパターナリズムを正当化しかねない主張である。
焦点は他者の内心の有様であって、明示的訴え意外に「合理的根拠」は見いだすことは難しい。さらに、西原の立場からは、権利侵害が推測される者以外の生徒に対する影響が無視できる程度であることの立証が必要になる。そのような立証は準備書面でも西原の意見書でも行われていない。また、別の行為を原告がとることについての<期待不可能性>の立証も準備書面でも西原の意見書でも行われていない。これでは<子どもの人権を守るという大義名分を掲げた主観的思い込みの強い教師は職務命令を拒否しても違法性はない>という主張になりかねない。むしろ、学校という権力機関が不参加の選択肢を示さないで行う国旗国家儀礼そのものが、現実の侵害事実の有無を問わず客観法的に人権侵害である、という主張の方がわかりやすいが、これについては西原は行わない。
2) 上記A-3)についての儀式の場と授業の場との独特の区別は西原特有のものであり、論点(2)で西原が提示した場面分けと同種のもので、同様に不適当なものである。
授業でも場合によっては防御的に教師みずからの思想・良心を優先させる場面がある(たとえば、教師の思想・良心と根本的に反する教育内容を教育委員会・校長から〔25〕強制される場合の教師の協力拒否)。また、儀式も生徒に対する教育の場であって生徒の人権を優先させる場面もある(たとえば、教師にとっては思想・良心の問題と考えられない教育内容が、特定生徒にとって思想・良心上受け入れがたいものである場合、当該生徒に離脱の自由を保障すること)。原告Fは、授業では工夫をしながら自己の思想・良心との矛盾を避け、儀式では国旗国歌儀礼の生徒に対する強制性を批判しつつも最終的には<荷担できない>という自己の思想・良心を守るだけの行為にとどめたのである。原告Fの行動を、国家儀礼を程度の差はあれ受容した多くの生徒・保護者の考えにもかかわらず、原告Fは自らの思想・良心を守った、として説明することも不可能ではない。
重要ファクターを捨象した上での論証は、司法が論証にあたってより自由に全体的構成をおこなうことを許すことになる。【以下、次回】
注〔20〕『全資料』p604。以下1)2)3)の表題は鑑定意見書ではa)b)c)としてあるものである。
注〔21〕これについては『全資料』p604-605
注〔22〕そもそも、子どもと親が明示的に訴えた場合以外で侵害があったとする認定と同様困難である。「杞憂に終わった」という確認はどう行われるのか、という点が気になる。
注〔23〕『全資料』p606
注〔24〕『全資料』p606
注〔25〕場合によっては保護者の多くから。
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