礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山県を隠居させることはできない(三浦梧楼)

2022-10-16 02:19:14 | コラムと名言

◎山県を隠居させることはできない(三浦梧楼)

 岡義武著の『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書、一九五八)の内容を、ところどころ紹介している。本日はその六回目。本日は、「八 老い行く権力者の喜憂」の章から、寺内正毅内閣の成立と、その際の山県有朋による干渉について述べているところを紹介する。

 さて、寺内〔正毅〕が組閣の勅命をうけると、山県は寺内に対して、加藤〔高明〕またはその代表者を入閣させて同志会と提携するよう強く要望した。これは山県としては、政友会の勢力復活を当時依然として好まなかったためであろう。しかし、寺内は同志会と提携することは前内閣〔大隈重信内閣〕の責任を分担することにもなると考えてか、これを好まず、結局いずれの政党の代表者をも含まない完全な超然内閣を組織するにいたった。その過程において、山県は閣僚の人選について種々意見を提出し、平田〔東助〕もいろいろと要望を出したが、そのような中で寺内は閣員を内定し、ついで宮中に元老の参集を求めて閣員顔触〈カオブレ〉を披露し、右の顔触で組閣することについて元老の同意を得れば直ちに上奏し、もし同意が得られなければ組閣を拝辞する旨を述べた。これに対し、山県は閣僚の人選について種々不満を列べ〈ナラベ〉、その結果寺内は幾分の変更を加えて元老一同の諒承を得た。山県はこのときの寺内のやり方について少からず不満であった。この会合後の昼餐〈チュウサン〉の席上、山県は寺内にむかって声高〈コワダカ〉に「軍隊式はいかぬ」といい、寺内がその意味を尋ねると、「物を取極めて後報告に来り、夫れを相談と云ふが如きは不可」であると厭味〈イヤミ〉を述べた。
 さきに、大隈〔重信〕が寺内に会い、加藤とともに組閣するよう要望した際、寺内は古稀庵に山県を訪れたが、そのときに山県が寺内に後継内閣組織を勧めたのに対し、寺内は答えて、自分も年は六十歳を越えていて子供ではありませぬから、何事も一々閣下の御意見に従うわけには参りません。組閣の場合などには、閣僚の詮衡は自分の自由裁量に委せて頂きたいといい、その場では山県もこれを一応諒承した⑶。しかし、それから二ヵ月後に寺内がいよいよ組閣を行ったとき、以上のように、山県は人選についてさまざまの干渉を試み、寺内が彼の意向にそわなかったとき、烈しい不満を抱いたのであった。大正五年〔一九二六〕春三浦梧楼は寺内にむかい、貴下が組閣することは考えものである。山県を隠居させることができれば、政権を担当するのもよいであろうが、隠居させることはできない。そうであるとすれば、組閣の暁〈アカツキ〉は貴下は桂〔太郎〕と同じ運命に陥るだろう。山県は児玉(源太郎)がもし存命であったなら、などともいっているが、児玉も健在であったら桂と運命を同じくしたであろう、と述べ、寺内はこの言葉に同感の意を表して、自分には政権を担当する意志はないといった。しかも、組閣に際して、寺内は早くも山県との関係において苦い経験を味わったのである。寺内内閣の閣僚の多数は山県系またはそれに近いひとびとによって構成されたのであったが、そのことを考えれば、山県が閣僚の人選についていかに彼自身の意向を押付けようとしたかが、察せられるのである。〈一五二~一五四ページ〉

 三浦梧楼(一八四七~一九二六)は、長州出身の軍人、政治家。三浦は、みずからの出自について、「父は毛利藩の小禄の武士で」と語っているが、「武士」とあるところは、「陪臣」または「軽輩」とすべきであった。「陪臣」というのは、士分の家々に使われている者で、藩主からみれば臣下の臣下で、俗に「またもの」と呼ばれた。「陪臣」は、身分としては「軽輩」に属し、士分(武士)ではなかった。

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