◎吉田貞雄著『大東亜熱帯圏の寄生虫病』を読む
戦中から戦後にかけて、績文堂から、「自然科学選書」というシリーズが出ていた。そのうちの一冊、吉田貞雄著『大東亜熱帯圏の寄生虫病』(1944年11月)が、いま机上にある。貴重な労作だと思うが、この本はなぜか、国立国会図書館には架蔵されていない。
本日以降、同書の一部を紹介してみたい。今回、紹介するのは、第五章「寄生虫病学輓近の趨勢」の第六節「本邦に於ける寄生虫病学の進歩」の全文である。
第六節 本邦に於ける寄生虫病学の進歩
一 第一期基礎時代と第二期上棟時代
本邦に於ける寄生虫病学の進歩は全く世界に於けるそれと軌を一にしてゐる。只世界に於て約二世紀を要して発達・変遷して来た事柄が、日本では僅に五六十年の間に実現されてゐる。而して本邦に於ては第一期基礎時代と第二期上棟時代とはその間に判然たる区別がなく、この両期間は本邦寄生虫病学の揺籃期で、之が研究に与る〈アズカル〉人も少かつた。本期は肝臓ヂストマ卵(明治八年〔1875〕や肺臓ヂストマ(明治十二年〔1879〕)が発見せられたと云ふ明治十年〔1877〕前後から明治の末葉までの間で、この期間に活躍した人には動物学者として飯島魁〈イサオ〉、五島清太郎〈セイタロウ〉両先生、医学者としては桂田富士郎〈カツラダ・フジロウ〉、藤浪鑑〈フジナミ・アキラ〉両先生達が最も有力なもので、就中〈ナカンズク〉飯島先生は本邦寄生虫学の父と仰がるゝ人で、世界寄生虫学史上のルドルフィー〔Rudolphi〕とロイカルト〔Leuckart〕とを兼ねられた観がある。即ち氏は初め断片的に各人により各所に発見せられた寄生虫を研究同定すると共に、自ら多くの寄生虫を発見研究し、更に絛虫の発育研究に就いては助手と共に自体を之が実験に捧げ、成功せらるゝ等多くの業績により本邦寄生虫学の基礎を固められたのである。
飯島先生は明治十二年〔1879〕独逸に遊び、ライプチヒに於て寄生虫学中興の祖たるロイカルトに師事し、同十八年〔1885〕帰朝後本邦寄生虫学の建設に力を尽くし、同二十一年〔1888〕「人体寄生動物編」なる書を出版せられた。是れ本邦に於ける寄生虫学に関する著書の初めである。爾来第三期に亘り斯学の研究と指導とに尽瘁〈ジンスイ〉せられ、本邦知名の寄生虫学研究者は殆ど皆その教へを受けてゐる。
五島氏は飯島先生の指導により吸虫類の研究を始めて以来、幾多の業績を残され、就中日本産外部吸虫類の研究は最も有名な偉業である。氏も亦自己研究の外〈ホカ〉第三期に亘り斯学研究の指導に当られ、後日本寄生虫学会の創設に尽力し、第一回の会長となられた。
桂田氏は病理学者として寄生虫の研究に造詣深く、殊に日本住血吸虫に関する研究は最も有名で、第三期に亘り益〻研究業績を挙ぐると共に、指導者として多くの門下生を斯界に送り出された。藤浪氏も亦病理学者として寄生虫を研究し、殊に日本住血吸虫に就いてはその右に出づるものがない程で、該虫の病理、発育、感染、予防等詳細を極めた一大業績を残された。第三期に亘り自己の研究と門下生の指導とに力を尽くされた事は前三氏と異るところがない。
この外医学方面で本期間に活動したのはベルツ氏を初めとし、中濱〔東一郎〕、菅、清野〔謙次〕、山形、山極〔勝三郎〕、栗本、土居、三浦謹之助の諸氏があり、獣医学方面にはヤンソン、時重〔初熊〕、勝島〔仙之助〕の諸氏がある。〈277~280ページ〉【以下、次回】
文中、「絛虫」はサナダムシのことで、ただしい読みはトウチュウだが、慣用読みはジョウチュウである。その慣用読みのために「條虫」「条虫」と書かれることがある。本書では、「絛虫」と「條虫」とが混用されていたが、引用にあたっては「絛虫」に統一した。
最後のほうにある「ベルツ氏」は、お雇い外国人として知られるエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz、1849~1913)のこと。本書では、その欧文表記は(Baelz)となっている。
戦中から戦後にかけて、績文堂から、「自然科学選書」というシリーズが出ていた。そのうちの一冊、吉田貞雄著『大東亜熱帯圏の寄生虫病』(1944年11月)が、いま机上にある。貴重な労作だと思うが、この本はなぜか、国立国会図書館には架蔵されていない。
本日以降、同書の一部を紹介してみたい。今回、紹介するのは、第五章「寄生虫病学輓近の趨勢」の第六節「本邦に於ける寄生虫病学の進歩」の全文である。
第六節 本邦に於ける寄生虫病学の進歩
一 第一期基礎時代と第二期上棟時代
本邦に於ける寄生虫病学の進歩は全く世界に於けるそれと軌を一にしてゐる。只世界に於て約二世紀を要して発達・変遷して来た事柄が、日本では僅に五六十年の間に実現されてゐる。而して本邦に於ては第一期基礎時代と第二期上棟時代とはその間に判然たる区別がなく、この両期間は本邦寄生虫病学の揺籃期で、之が研究に与る〈アズカル〉人も少かつた。本期は肝臓ヂストマ卵(明治八年〔1875〕や肺臓ヂストマ(明治十二年〔1879〕)が発見せられたと云ふ明治十年〔1877〕前後から明治の末葉までの間で、この期間に活躍した人には動物学者として飯島魁〈イサオ〉、五島清太郎〈セイタロウ〉両先生、医学者としては桂田富士郎〈カツラダ・フジロウ〉、藤浪鑑〈フジナミ・アキラ〉両先生達が最も有力なもので、就中〈ナカンズク〉飯島先生は本邦寄生虫学の父と仰がるゝ人で、世界寄生虫学史上のルドルフィー〔Rudolphi〕とロイカルト〔Leuckart〕とを兼ねられた観がある。即ち氏は初め断片的に各人により各所に発見せられた寄生虫を研究同定すると共に、自ら多くの寄生虫を発見研究し、更に絛虫の発育研究に就いては助手と共に自体を之が実験に捧げ、成功せらるゝ等多くの業績により本邦寄生虫学の基礎を固められたのである。
飯島先生は明治十二年〔1879〕独逸に遊び、ライプチヒに於て寄生虫学中興の祖たるロイカルトに師事し、同十八年〔1885〕帰朝後本邦寄生虫学の建設に力を尽くし、同二十一年〔1888〕「人体寄生動物編」なる書を出版せられた。是れ本邦に於ける寄生虫学に関する著書の初めである。爾来第三期に亘り斯学の研究と指導とに尽瘁〈ジンスイ〉せられ、本邦知名の寄生虫学研究者は殆ど皆その教へを受けてゐる。
五島氏は飯島先生の指導により吸虫類の研究を始めて以来、幾多の業績を残され、就中日本産外部吸虫類の研究は最も有名な偉業である。氏も亦自己研究の外〈ホカ〉第三期に亘り斯学研究の指導に当られ、後日本寄生虫学会の創設に尽力し、第一回の会長となられた。
桂田氏は病理学者として寄生虫の研究に造詣深く、殊に日本住血吸虫に関する研究は最も有名で、第三期に亘り益〻研究業績を挙ぐると共に、指導者として多くの門下生を斯界に送り出された。藤浪氏も亦病理学者として寄生虫を研究し、殊に日本住血吸虫に就いてはその右に出づるものがない程で、該虫の病理、発育、感染、予防等詳細を極めた一大業績を残された。第三期に亘り自己の研究と門下生の指導とに力を尽くされた事は前三氏と異るところがない。
この外医学方面で本期間に活動したのはベルツ氏を初めとし、中濱〔東一郎〕、菅、清野〔謙次〕、山形、山極〔勝三郎〕、栗本、土居、三浦謹之助の諸氏があり、獣医学方面にはヤンソン、時重〔初熊〕、勝島〔仙之助〕の諸氏がある。〈277~280ページ〉【以下、次回】
文中、「絛虫」はサナダムシのことで、ただしい読みはトウチュウだが、慣用読みはジョウチュウである。その慣用読みのために「條虫」「条虫」と書かれることがある。本書では、「絛虫」と「條虫」とが混用されていたが、引用にあたっては「絛虫」に統一した。
最後のほうにある「ベルツ氏」は、お雇い外国人として知られるエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz、1849~1913)のこと。本書では、その欧文表記は(Baelz)となっている。
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