◎古稀庵の一隅に明治天皇を祀った小祠を営み……
岡義武著の『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書、一九五八)の内容を、ところどころ紹介している。本日はその五回目。時代を少し遡って、「七 築かれた権力の座」の章から、明治天皇と山県有朋の関わりについて記しているところを紹介する。
明治四五年〔一九一二〕七月に入ると、天皇は崩御された。維新以来四五年、この明治天皇の治世においてわが国は二つの大きな戦争を戦い、それらに勝利を獲て、極東の小国はにわかに西洋帝国主義大国と相伍する〈アイゴスル〉地位に上った。それとともに、かつては西洋帝国主義の重圧に対して民族の独立を防衛するためのシンボルとしての役割を担った天皇は、今や世上からは、興隆する新興日本の国運の輝きわたる象徴として仰ぎみられるようになった。明治天皇は、こうして、維新後のわが国に築かれて来た国家体制の正に象徴的存在となっていたのである。天皇の崩御は、かくて、当時の人心を深い悲しみと虚脱感とで充たしたのであった。
「天つ日の光はきえてうつせみの世はくらやみとなりしけふかな」。これは、山県の悼歌〈トウカ〉である。彼はまた、桃山御陵に参拝して「大君はいかにますらむ伏見山たゞ松風のおとばかりして」と詠じた。そして、大正三年〔一九一四〕に彼はその常住する小田原の古稀庵の一隅に明治天皇を祀った槇ガ岡神社という小祠を営み、「けふよりは老のつとめとすめらぎの神に朝夕つかへまつらむ」の一首を詠んだ。そして、爾来山県は重病の折を除いては早朝袴をつけ斎戒して、この祠に参拝することを日課とし、毎年天皇の命日である七月三〇日には靖国神社の宮司を招いて、陸軍の正装をつけて祭事を行うのを例とした。
山県にとっても、天皇は象徴であったのである。山県は「明治の元勲」であり、彼は維新後の国家体制の建設者の一人であった。この体制は天皇をその象徴とし、現人神【あらひとがみ】としての天皇への忠順がこの体制の基本的モラルとされた故に、天皇は理念化されて彼の尊崇の対象となったのである。彼はたしかに天皇を自己の権力意志の手段として利用することを試みた。けれども、他面、以上の意味において彼が天皇尊崇の念を抱いていたこともまた事実であろう。山県が天皇に上奏する際常に恐懼〈キョウク〉してやまぬ態度をとるのをある人がみて、山県に対し、閣下は天皇輔弼【ほひつ】の任にあって上奏されるのであるから、その意見を滔々【とうとう】と述べてしかるべきであろうといった。このとき山県は答えて、自分は維新前三条の橋にひざまずいて皇居を奉拝した高山彦九郎と同様に天皇を神と考えている。従って、御前においてはおのずから戦々兢々たらざるを得ないといったという。以上の点からいって、山県のこの言葉を単にまったく口先だけのものと片づけるのは、正確ではないであろう。しかし又、同時に注意すべきことは、彼が尊崇したのは、理念化された天皇にほかならない。従って、実在の天皇が彼の抱く理念像から離れている場合、彼の態度は恭謙ではない。崩御の十数日前明治天皇は枢密院の会議に親臨されたが、その際天皇は平素とは異って議事の途中で仮睡された。このとき、議長席にあった山県はそれに気づくと、その軍刀の先で床を叩き、その音で天皇は目覚め、態度を正された。この挿話は、枢密院書記官として現場にあった入江貫一の記しているところである。入江は天皇の仮睡は天皇の病がすでに進んでいた結果であったことを後日に知ったと述べているが、この小さな事件も、山県の天皇尊崇の以上のような在り方を示唆するものといってよいであろう。〈一一九~一二一ページ〉
文中、「槇ガ岡神社」は、原文では「ガ」が小さい字になっている。
四半世紀前に、この部分を読んだとき、山県以外の誰が、自邸内に明治天皇を祭った小祠を営みうるかと思い、その権勢に驚いた記憶がある。
なお、ウィキペディア「古稀庵(小田原市)」の項によれば、古稀庵にあった「槇ヶ岡神社」(同項は、この表記を用いている)は、その後、伊東忠太の設計による洋館とともに、栃木県那須にある山縣農場(現・山縣有朋記念館)に移築されたという。
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