礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その大金は、五社神社前の寺院の住職が落したものだった

2024-01-18 02:45:41 | コラムと名言

◎その大金は、五社神社前の寺院の住職が落したものだった

 上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松市大空襲」の節を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 大空襲下の燃える最中〈サナカ〉であったという。一人の兵隊が、正門付近で消火従事中の憲兵に、「これが落ちていました」と布呂敷包を渡して立去った。それを受取った憲兵も、拾得者の名前も聞かず、内容も調べず、そのまま書類格納用の壕の棚に放りあげておいた。数日後私が書類壕の中へ入ると、棚によごれた布呂敷包がある。
 鈴木准尉に調べてもらったところ、十二万円余の現金と小切手があって、戦時火災保険の支払書も入っており、五月の爆撃で全焼した五社神社前の寺院(名を忘失する)の住職が落したものと判った。
 落し主の住職を探したが、空襲でどこへ避難したか不明であるという。八方手をつくして探し求め、やっと住吉町の病院に入院していることが判明した。
 住職は空襲で三方原街道を避難中、焼夷弾が腰にあたって打撲傷と火傷を負い、病院に収容され、夫人が看護に付添っていた。負傷した療、腰に大切に巻き着けて出た布呂敷包を失ってしまい、もう寺院の再建もできぬとあきらめていたとのことであった。遺失物は寺院の世話人立合いで渡したが、拾得者の兵の名前が判らず、各部隊に会報を出して名乗り出るようにしたが、遂にその善行兵は発見することができなかった。
 住職が退院して憲兵分隊にあいさつに来られた際、その善行者の氏名をお伝えできなかったことを残念に思った。(当時の十二万といえば、大金であった)
 罹災後一週間程山下馬丁さん宅に厄介になっていた妻と米山曹長の奥さんを、郷里に疎開させ、自分は隊員と共に、バラック庁舎に居住することとなり、焼野原と化した中で、野営生活のような起居が始まった。
 付近の民家の焼跡には不思議と、タイル張りの勝手と風呂が残っていた。
 町の人達もいったん近郊に逃げていたが、二、三日すると戻って来て、タイル張りの風呂場を中心に、焼トタンや焼木でバラックを建て自家の防空壕を居間にして生活が始まった。
 憲兵隊の炊事場は、赤井伍長が主になって、物資を集め、焼津魚市場への買出しルートが続けられ隊員の賄い〈マカナイ〉以外、近隣住民にも恩恵を分けていたようであり、立寄って食事をして行く通行人もあった。炊事場や近隣の風呂場には、付近の男女が集って、よも山話に花を咲かせ、笑い声さえ出る様になって、焼跡生活もようやく落ち着きを取戻して来た。
 隊務は続発する空爆被害現場への取締出動や、逃亡兵捜査に追われ、婦女暴行や窃盗もあって留置場も必要となったので、道場跡に取調室と留置場を設置することにし、新居町〈アライチョウ〉に在った海軍建設部に依頼して、こんどは少し丈夫なバラックを建設した。約四十坪ばかりのなかば本建築式の立派な急造庁舎が完成したのである。
 これは浜松戦災後初の建物となったが、憲兵ばかりが早急に新しい建物を立ててはという配慮もあって、その残材で、神社の仮社殿を五社神社の本殿焼跡と亀山神社の本殿焼跡に造ることとなり私の素人設計で白く輝く千木〈チギ〉を型取った屋根に、焼残りの綿布を張りめぐらした神殿を隊員で建立し、いち早く復興の意気を示すものとし、隊員全員が参拝して戦勝と焼土復興を祈願したのであった。
 戦局は悪化の一途をたどっていたが、軍は長期抗戦と、本土決戦を決意し、あらゆる部隊に自給自足農耕を指示した。
 分隊でも三方原方面の荒地や原野を開墾して甘藷〈カンショ〉を植付けることにした。警務の余裕兵力を集め、柔道着姿で鍬を振って農耕に従事した。
 茶畑をおこして甘藷を植えて見たが、二十年もたった茶の木は容易に抜き取ることができなかった。
 翼賛会の幹部連中が中央の指示で静岡の茶畑を全部つぶして食糧増産にあてなければならないがどうしたものかと相談にきた。
「自分も茶畑をおこしてみたが、茶の木を抜くことは容易なことではない。それに茶の木は十数年たたぬとよい茶の葉がとれぬのではなかろうか、戦争が勝って占傾地へ茶を輪出する段になっても、一朝一夕に茶は採れぬので、二畦〈フタウネ〉おきくらいに一畦〈ヒトウネ〉をつぶして麦を播く程度にしたらどうでしょう?」
 と言うといかにも我が意を得たという顔であったが、茶畑を全部つぶさぬうちに終戦となって、難を免れた茶の木は大きな息が出来ることになったのである。
 佐鳴湖〈サナルコ〉の沿岸に、昔お嫁さんが田植に入って、沼に足をとられて沈んでしまったという伝説のある田があり、戦中の人手不足で今年は植付をしないというので、分隊で借りて付近から苗を貰って植付けた。なる程田の草取りに入って、田圃の中央で反動をとると田一面がゆれるという泥炭地邢の沼田であった。
 磐田の鉄道沿線で、水がなくて植付けのできぬという一帯の田圃があり、列車の窓から乗客が見ても食糧増産意欲が欠けているように見受けられる。そこで警防団の大塚団長に話して、消防車三台を出動させ、低い川底からポンプ給水をして、田ごしらえをさせ植付けをすませたこともあった。

 文中、「五社神社前の寺院(名を忘失する)」とあるが、寺院名は、忘失したのではなく、伏せたのであろう。地図を見ると、五社神社の北隣りに、心造寺という浄土宗の古刹がある。「大金」を落した住職というのは、たぶん、この寺院の住職だったのだろう。

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