礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

年齢、体格、人相までも似ていたが、他人だった

2024-01-17 02:54:49 | コラムと名言

◎年齢、体格、人相までも似ていたが、他人だった

 上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松市大空襲」の節を紹介している。本日は、その三回目。

 翌日〔6月19日〕は早くから隊員を多勢焼跡付近に派遣して、附近一帯の焼跡や防空壕を捜索させた。その結果、借家先から南方へ三軒目の他家の防空壕の内に前田軍曹夫妻ともう一人の老人の窒息死体を発見したのである。私も現場で、検死と遺体の収容にあたった。
 前田軍曹も奥さんも、窒息死の特徴として、頬が紅潮し、口から泡を少し出していたが、呼べば答えるかとおもわれる姿であった。
 調べると奥さんの踵に打撲傷があって、逃げる途中で焼夷弾にやられて、歩けなくなったのを、もう一人の人に手伝ってもらって、この壕まで運び入れたが、付近の火災によって壕内で室息死したものとみられた。
 もう一人の老人は、戸塚曹長が空襲の前夜〔6月17日〕、前田君の宅を訪問したとき、前田君のお父さんが来ていて、奥さんを疎開させる話などしていたので、すっかり前田君の父親と思いこみ、一諸に三遺体を分隊に収容したのである。遺体は妻と米山曹長の奥さんとで、すっかり洗って、飛行部隊から贈ってくれた立派な白木の棺〈ヒツギ〉に納めて、裏庭の一角に安置した。
 翌日〔6月20日〕、静岡地区隊長も臨席し、関係部隊代表も参列して、隊葬を行なった。導師が避難していておらないので、補憲〔補助憲兵〕の安藤上等兵が、伊那市田〔下伊那郡市田村〕の安養寺の住職であったのを幸い導師に頼み引導をしてもらった。
 前田曹長の郷里に電報をしたところ、葬儀の朝前田君の父と兄(巡査)と奥さんの父が三人到着して葬儀に参列された。
 そこでとんだハプニングが起ったのである。前田君のお父さんと見た遺体は、他の人であった。よく見ると前田君のお父さんと年齢、体格、人相までが似ていて、戸塚曹長でなくても間違えるのは当然であった。三体並べた棺を一体片付けて、市役所に渡したが、後で調べると、前田曹長の宅から数軒先に住んでいた老夫妻で、夫人は家の前の電柱のもとで黒こげの焼死体となっていたが、主人は行方不明になっていたものであった。
 荼毘〈ダビ〉に付すため、遺族とともに市営火葬場まで送って行くと、火葬場前の広庭には、五、六十体の遺体が並べてあって、棺に納めたものはほとんどなく、毛布や筵〈ムシロ〉に包んだままのものが多かった。遺族に遺骨をわたす関係で、先に火葬してもらって、夕刻骨を拾って御遺族に持ち帰えっていただいたのである。
 部下を戦死させるということは、それがたとえ戦場で敵と撃ち合っている場合でなくとも、つらいものである。ことに奥さんは、度々官舎を訪れて下さっており、近く疎開すると言っておられたのに、それを思うともっと早く疎開させておけばよかったと悔いられた。人一倍仲の良い夫婦だったので別れるのもつらかったのであろう二人して仲よく昇天してくれることを祈るばかりであった。【以下、次回】

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